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CITIZEN “LIGHT is TIME” ミラノサローネ2014 凱旋展


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# by wavesll | 2014-11-18 22:48 | 私信 | Trackback | Comments(0)

TOKYO WEEKEND

去る土曜にNHKホールでモーリス・ベジャールと東京バレエ団、ズービン・メータとイスラエルフィルによるベートーヴェンの第九のバレエを観に行きました。

ドイツ語での語りとドラム・パーカッションの打音が鳴り響く冒頭に一気に引き込まれました。というか、ここが一つのピークでしたw実際に第九が始まると、音のゲインが低くて、どうしても迫力が冒頭の打音に負けてしまうなぁと思いながら見ていました。男たちと女たちが自然の中で舞い、愛を育んでいく様子が顕されているのだろうと思ったのですが、バレエ初心者の自分は途中でダレて女性のレオタード姿ばっか眺めてました(苦笑

第九を全編通して聴いたのも初めてだったのですが、やはりクラシックは敷居が高いですね。クライマックス前まで草原を風が抜けるような、ただどこか格式ばったような、まぁこんなものか、そう考えるとペトリューシュカはPOPとして聴けたなとか、考えていました。また、ダンスの足音が聴こえるので、これをもっと印象的にしたらいいのでは?なんて考えました。

例えば動作センサーとライティングを使って、ダンサーの跳躍・着地時に床に波紋が生まれたり、草木が生えたりしてはどうか。あるいは巨大なタッチパネルのような仕組みを作ってダンスの足捌きによって音が奏でられるような仕組みを作ってはどうか?etc。

まぁそうなっちゃうと人工的って感じになってしまうかもしれませんが、今年の八月に見たギエムのボレロは動きがほんとアニメ的な魅惑にあふれていたというか。手足の長さで劣る日本人は別の技術と肉体を組み合わせて魔力を造ってもいいかなと想います。

しかししかし、歌が入ってからの第九の凄さには圧倒されました!うーん凄かった。字幕出してもいいかなとも思ったんですけどね。白・黒・赤・黄のダンサー(これは人種を表してるのかなとも思いました)が舞い、黄色のソリストが中央で生と死を思わせる躍動を魅せます。ソリストを周囲のダンスで甦らせるような振り付けにはちょっと天岩戸を想わされました。

そして家に帰ると、椎名林檎が蜷川実花・野田秀樹と東京五輪について話していました。
みていて「アチャー」とならない、恥にならない開会式にしたいと。
その為には誰かの強力なリーダーシップが必要で、ふわっと全部載せてぼやけた味になったら終わりだけれども、現実そうなりそうで怖い。というような話。

委員に名を連ねる蜷川からは「プレーヤーばかりでプロデューサーがいない」というような話も。ここに秋元が収まってしまったら恐ろしいなと思うと同時に、これがマンガなら敵である秋元が実は最大の助けになるみたいな展開ないかなwなんてみてましたw

東京五輪、TOKYOという都市が世界の都市と伍していくために、全国の精鋭が鍛えぬいて練り上げた価値を示す機会に、やはり日本に足りないのはきちんと責任を取り、未来のヴィションをぶち上げるリーダーなのですね。

次の五輪のセレモニーは前の五輪からの60年をみせると同時にこれからの60年をみせるべきであって、そこには当然、文化が流れ着き、改良されていく日本という国がもつミニマムとカオス・伝統と革新が双立する多義性であったり、一種の無国籍な現代文化の発信地である点を示すと共に、人口減少・少子高齢化の中で恐らく政府は移民政策を今後も推し進めるでしょうから、そんな中では『日本人が想う"人間観"』が示されればいいな。できれば新技術を使ったパフォーマンスのイノベーションによって示せるといいなと思います。

東京と地方を考える時間は今後どんどん増えていくでしょう。未来予測では東京圏の人口は今後も増え続け、地球1のメガロポリスとして君臨し、そして日本の地方からはどんどん人が消えていきます。

最近話題になったHi-Hi-Whoopeeの方の手記でも"インターネットで現実が加速するのは東京だけ、地方の自分の現実は何も変わらず醜い気持ちが溜まっていった"というような記述がありました。マイノリティがマネタイズできる位のヴォリュームで生活している東京という土地は、インターネット空間と同期して益々地方とのリアルイベントの量の差が広がっているのかもしれません。

一方で、一つ展望が開けるコトバを最近聴きました。

それは金曜に訪ねたヘンミモリちゃんの個展でのサイトウケイスケさんとのトークでの一幕。

山形にずっと暮らしていたサイトウさんにとって東京は相当思い入れのある土地であって、SadsやNumber girlの歌うような狂った凍える都市だった。でも来てみたらみんな温かいし、楽しいし、創作の刺激をうける街だと。同じ山形の美大を出たヘンミさんに「東京についてどう思う?」と聞いたとき、

ヘンミさんは「転勤を繰り返し様々な場所に住んでいたので土地に思い入れはない。石巻にも。東京も"なんか東京っぽい場所だな"くらい」と答えていました。

その答えを聴いたときに、土地から自由になることがみな出来れば、この国はもっと輝けるのかもしれないと思いました。その為には仕事と住にかかる金が安くなることと共に、移動の勇気が持てる志が大事なのではないか。「全ての人がしばらみなく自らの意志で住む場所を選ぶ自由」を得たら、更に都市集中が起こるかもしれませんが、IT・ICTの力でそれを解決する創新の場は、今、地方にチャンスが広がっていると思います。なにしろ日本には東京の9倍の"東京以外"がありますから。

そんなヘンミさんの作品。写真を加工してプリントしたもの。こういう作品を並べることが出来るアートスペースがやっていけるのも、東京らしいですね。"地元の自分"のイメージから現実で脱することが出来る、というのも確かに東京の魅力ですね。
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# by wavesll | 2014-11-10 04:26 | 小ネタ | Trackback | Comments(0)

コーカサスに想う敬虔な質実さと都会の華美さのあいだ


戦場カメラマンの渡部さんがサカルトベロ(グルジア)とチェチェンの境、パンキシ渓谷へ20代ぶりに訪ねる番組をみました。

16年ぶりに訪れた首都のトビリシは、すっかり観光化され、古くからあるグルジアワインと、伝統的な美しい街並み、そして現代的な新建築物が点在し、すっかり戦の影は払拭されたように見えました。

そして山脈を抜け、渡部さんはパンキシ渓谷へ向かいます。
パンキシ渓谷はチェチェン紛争の際、チェチェンの武装派が逃げ込み、ロシアからも責められ、アメリカからも鬱陶しがられ、「世界で最も危険な民族がすむ地」と喧伝された場所です。危険視したジョージア政府が軍を送り込み安定化させ、今はゲストハウスが出来るまでに平和になりました。

16年前に渡部さんが泊まらせてもらった家族の所で1週間強を過ごす、そういう番組でした。

コーカサスの山脈は、まるでアンデスの山々の様な雄大さを魅せます。花々の美しさ。そこで暮らす人々は、例えば少年が馬と共に育ち裸馬に乗ってレースをしたり、結婚式では電気トラッドのような音楽で出会いのダンスが舞われたり、人間の剥き出しの生命の美しさがありました。

中でも印象的だったのは、平和の歌を創り歌う女性の歌唱グループ。
その中で少女がアッラーへ神に平和を願い、戦火の悲劇を嘆く歌を歌っている姿でした。

コーカサスの景色の中で、かつて世界から見放された人たち、世界に翻弄され蹂躙された人々が、自然の中で質実剛健に美しく、生きている。平和を愛して、民族が歌うべき歌を歌っている。人間としてこの上なく魅力的にみえました。

自然、田舎の中では人間は動物として強靭に育つというか、シンプルに生きていき、身体から生命力があふれ出ていくのだろうな。翻ってこの星一番のメガロポリスに暮らす自分は、あまりにも理性が不健全に楽しむ肥大が過ぎていて、精神がメタボリックになってしまっているのかもしれないと思ってしまいました。

また、自分は自分の言葉で話せているのかな?と想うこともあります。例えば今、いつかマツコデラックスが言った『田舎に住んでいると病んでいることが強制的に矯正されるが、東京では病んだままでいられてしまう』といっていたことを思い出しましたが、自分の発言や、感想すらも、すべて誰かの受け売り、あるいはその組み合わせなのではないかと空寒い気分になることもあります。自分で考えているのか、自分で生きているのか。

そもそも、自然の中にいると、そんな複雑なことを考えるよりも現実の問題に対処する忙しさと、自然のダイナミズムの中で、思考が非常にシンプルになっていくと感じます。屋久島なんかに行くとラウドな音、複雑な音楽よりもThe Bandなんか聴きたくなります。それは、都市に暮らしていても、真夜中を飲み明かす、踊り明かす、作業をして夜明けを迎える時にみる朝焼けを観た時などに、穏やかにチルアウトされることにも現れているかもしれません。

自然の中で生きることを選ぶこともできるけれども、この街で生きていく限りは、ある程度都市に合わせなければならない。そして都市は都市で気楽で楽しい面もあり、田舎は田舎で濃すぎてやり直しが効かない面もある。何しろ自分はFacebookすらうざったいと想ってしまうほどの面倒くさがり屋ですから。敬虔な暮らしに憧れながらも、横浜の夜景が好きな自分は、今一度この街で頑張ってみようと思います。ただ、湘南辺りで働くつてがあったらそっちで働いてみたいなwあるいは外房で暮らして波乗りしながら生きるのもいいかもしれないな等と最近は考えております。で、こんな自然の美しさの中で暮らしたいw鳥山明の漫画で育った自分は、どうしようもなく田舎志向なのかもしれません。



渡部さんはこの地上から戦争がなくなったら、学校を巡るカメラマンになりたいそうです。
たとえ都会で暮らすことになったとしても、戦争がもたらす災禍を心に、自分の身を守れるだけの力は保持しながらも、悲しみを生み出さない社会を、平和を愛する民族の一人でいられる幸せのかけがえのなさを、失う前に気づいていけたらいいな。その敬虔さは都市で暮らしても持っていたいなと、あの少女の歌声から思ったことを最後に記して終わります。
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# by wavesll | 2014-10-26 19:55 | 私信 | Trackback | Comments(0)

『かっこいいというのはなんとかっこわるいのだろう』との距離

26年10月18日を持って、私も30になりました。
30になったからといって何が変わるわけではないのは拍子抜けでしたが、何事も変化は徐々に、そして確実に起きていくものなので、あと半年もすれば何かしらの変化を自覚することになるかもしれません。

まぁ、そりゃ生まれてから30年経っただけなんだからその一瞬で劇的に精神が変わる事なんかありませんよねw相変わらず自分は餓鬼で、音楽聴いていて、twitterして、飲んでetc何も変わりませんw

そんな誕生日に二つのイベントへ行ってきました。

一つが六角橋商店街の商店街プロレス。

横浜三大商店街の一つ、六角橋商店街で行われているイベント、ヤミ市の100回目記念で商店街プロレスが無料で観れたんです。

プロレス自体見るのは初めてだったのですが、笑いを混ぜながら、技を受け、根性で返す。単なる格闘技というよりも鍛え上げた体を駆使した人間ドラマが展開しているんだなと、なかなか面白かったです。客が声かけて展開が変わったりとか、小奇麗でないのがまた味がありました。

そこから歌舞伎町へ向かい、訪れたのが桃岩荘東京大会。

昨年泊まった"日本三大馬鹿ユースホステル"ともいわれる礼文島のYH、桃岩荘の打ち上げ。

こちらも、新宿という移民の街に日本各地から集った旅人たちが酒で盛り上がり、最初は「お!島で観た時はみな土っぽかったのにやっぱ都会で暮らしている時は洒落てんだな、結構可愛い子もいるし」と思っていたのですが、最後の合唱の時は、弩直球の昔の青春ドラマの様な土臭い純粋な熱があって、「あぁ、この場が今現在、東京で一番フォークな場かもしれない」と思いました。

そんな誕生日を過ごして、家帰ってきてソファーで寝て今に至るのですが、家でメディアに触れてると日本は随分垢抜けたというか、体臭がデオドラントされてきているんだなぁみたいに思っていたところに、こういうカッコ悪いんだけど人間としてのまっすぐな熱さのある、さっきの言葉を使えば体臭のあるイベントを三十路の初日に体験したのはなかなか感銘を受けました。

それらを経験して思ったのは、真面目に熱をもってまっすぐ進んでいくのは、それはそれで魅力的だとは思うし、そういった人間臭いことが出来ない奴はやっぱり駄目なんだろう、かっこわるいんだろうと思うんだけれども、今の自分の志向としては、その上でやっぱり、今現在の自分にとっての新しさや、動と静を切り替えられる
男としての格好よさみたいなものを積み重ねるための何かをしたいかな、なんて思いました。

でもそんな事は些事なのでしょう。
そんな些末なことも考えられない位、カッコつけるとかカッコ悪いとか、美意識も何もすべて飲みこむくらいのエネルギーを注力できる何かを見つけられれば、自然と立ち振る舞いも見事になっていくように励んでいけるのではないかな。そしてそれは自分にとっては音楽と旅なのだろう、なんて思います。

この年になって音楽の趣味で変わったのは、レゲエを聴けるようになったこと(というか聴けるレゲエが出てきたこと)です。

Chronixxっていうラスタシンガーなんですが、いいですよ。自分はこれまでレゲエ聞いてもあまりピンと来なかったのですが、これは大分現代的なクールなセンスの音で、聴けます。

Chronixx - Dread & Terrible(Full Album)


それで渋谷タワレコのレゲエ・ダブコーナー見ていた処、更にヤバいバンドを発見してしまいました。日本のバンド、それも盛岡のバンドです。

"momonjah meets Ras Dasher" 『Mann Got Dubber』

このモモンジャ・ミーツ・ラス・ダッシャーというバンド。深いダブの音像はスピリチュアル・ジャズにも通じるスペイシーさがあって、脳の芯に響く、今自分の中で一番ホットなバンドです。何しろ盛岡というのが嬉しい(笑)地方から出てくる怪物じみたバンドっていますよね。

このバンドの様な、人間の匂いと宇宙の深さ・高さを止揚したような風合いをもった大人になれるよう、少なくともいう事が萎まないような人間であり続けたいなぁ、これからのディケイドも。やっぱり自分には音楽が人生の指針になる様です(笑
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# by wavesll | 2014-10-19 06:06 | 小ネタ | Trackback | Comments(0)

金の話。「文句言うならお前がやれよ」の話。センス・オブ・ワンダーの話。

歳を重ねると、金銭をある程度自由に使えることもあり、舌やら目やらが肥えてきますよね。あるいは「いい大人なんだからいい店、良い酒を知らなきゃ駄目だよ」なんて言葉が投げかけられるのを、40以上の人がしている光景をみたりして、そういうものもあるかもな、なんて思う今日この頃です。

自分もコンビニでビール買ってしまうくらいの金銭感覚ですし、PCでYoutube音楽を聴くのは音質的に満足できないと感じCDを部屋の据え置きオーディオで聴くくらいには耳が肥えてしまった人間ですが、ビールやCDというのは大体は価格が一定ですから、本当に金のかかる趣味、グルメであったり、服であったり、音楽なら廃盤漁りや"原音再生"などに行っていない分、可愛いものかもしれません。

高いサービスに金を払えるようになる、自分がその価値の対価を払えるようになることの嬉しさや一種の誇りや、それから得る愉しみは、私にも分かります。と、同時にそれは自分がセンス・オブ・ワンダーを失ってしまったのではないかとも思い当り、寂しさというか、危機感を感じてしまいました。

私が子どもの頃楽しんだ漫画やアニメ、ゲームは、今の基準でいえばかなりの低クオリティ、画質も低いし、絵だって精緻でない。デッサンだっておかしかったり、2頭身のSDガンダムであったり、それを当時は『それはそれ、そういうスタイルの表現として楽しむ』でなく、きっとそこに想像力と子どもならではの超現実性を持って、そこから広がる想像の入り混じったワンダー現実を自分で生み出していたように、今振り返ると思います。

別の例を出すと、TVと撮影機材の進化があります。
小学生くらいの頃にTVを観ていて、当時別にTVの映像に不満はありませんでした。しかし今90年代初頭のVTRなんかをみると"なんと低画質なんだろう"と思ってしまいます。
これは、「いいものを知ったからだよ」ともいえるかもしれませんが、同時に昔の方が脳を使ってイメージ力で補完する力があったのではないか、などと考えてしまうのです。

歳をとるとより精緻で、現実的で、論理法則に基づいた、リアルでリッチな表現を求めるようになるのは、脳のイメージ力、あるいは刺激から脳内麻薬を出す力が衰えたからではないか。それは痩せ衰え、生命力が貧しくなっているという問題なのではないか?そんな感傷が、ここ数週間頭を捉えていました。

そこで一つ辿り着いた答えは、"青天井に高くなる要求は『分業』から生まれているのではないか"という別の問いかけでした。

自分自身が完全なるお客様となってしまい、サービスを生み出すための労力への想像がなくなると、『価値』という概念が限りなく『どれくらいの快楽を生み出すか』になってしまいます。さらに言えば刺激には飽きてきますから、どんどん消耗していく、バーストしていく、加速していく欲望のサイクルへ行くのだろうなぁと思います。

勿論それはイノベーションと快楽生産の量では悦ばしい状況なのですが、今の自分の気分としてはまぁそこで生き馬の目を抜く人たちはスゲー頑張ってもらって、俺はその螺旋からは少し身を離そうかなと思っています。

自分で創る、自分で工夫する、自分でプレイする、自分が自分の経験するアクティビティにどれだけ関わるか、DIYの比率次第で、日々の歓びが増すことは往々にしてあると思います。

勿論どんどん家事にしろクルマの運転にしろ自動化が進むことは私は歓迎しています。それは「やらなくてもいいけれど、やりたい時にできる」環境が整うという事ですから。

自分がやってみることで青天井の要求は要求として、相手の労力に対しての想像力を持てるようになる、完全なる分業時代の消費者ではなく、一人の市民としての想像力を手にすることが出来るのではないか。そう思います。

そして、『普通』の大変さが分かっていたら、『革命的な新しい体験』に今までより遥かに昂揚できるのではないか、生きる事から発生するワンダー・レセプターを活性化させることが出来るのではないか。そう思う今日この頃でした。



余談で、最近お金使って嬉しくなった商品をw(アフィじゃないのでご安心くださいw)
三菱化学メディア Verbatim 音楽用CD-R 80分 1回録音用 「Phono-R」 24倍速 5mmケース 20枚パック レコードデザインレーベル 5色カラー MUR80PHS20V1
レコード風CD-R(笑 ちゃんと溝っぽく仕上げてあって触っても愉しい、良い商品です。コストダウンの為最近CDレンタルを再び利用したりし始めていたので、嬉しい発見でした。
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# by wavesll | 2014-10-05 20:22 | 私信 | Trackback | Comments(0)

雨が来る前に

ぐじむ肌に透徹す心音鍾
波の屈折-陽射の散歩 #57577



秋の銀河から数多の銀河たちを眺めたような3331のDOMMUNEのインスタレーションには、予期した心を揺らすノイズはなかった。

諦めを手にした私は、同時に強かさを身に付け、理想を掲げるだけでポキリと折れる生硬さからあるいは少し自由になったのかもしれない。

あるいは未だに強迫的な義務感から、破滅へ向かいかけていたのかもしれない。

スペイス、スペイスが必要なのだ。心の芥を解かすスペイスが。
それは柔らかな空間。日常+アルファ。

アーケイドを歩く温かみに、心臓の乳酸が分解されていく感覚

打ち寄せる波を素直に眺めるには、何よりもエクスペリエンスが要る。実験が要る。

ただ今はGideon Van Gelderの産み出す音に身を浸そう。直に雨風がやって来る。
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# by wavesll | 2014-10-04 23:10 | 私信 | Trackback | Comments(0)

"為末大氏、日本人のHIPHOPに違和感があるとツイート"とスレッドから想起する"何が日本人らしさか"問題

為末大氏、日本人のHIPHOPに違和感があるとツイート(livedoorニュース)

これ、2chでスレが現在4まで伸びてて、タメさん煽りの上手さに磨きがかかってるなぁと思うと同時に数個思う所が出てきたので、時事ネタとして一つつらつら書いてみます。

さて、件のtweetはこちらです


単純に音楽好きとして、Buddha BrandやDJ KRUSH,BLUE HERB、jazzy hiphopや最近のヒップホップ女子など、いいなぁと思えるhiphopやってる人達が日本にはいますし、為末さんは邦ヒップホップを良く知らないでtweetしてしまったのだろうと思います。

と、同時に自分はヒップホップをそんなに聴いているリスナーでもないけれども、未だに日本産ヒップホップのパブリックイメージは『マジ親に感謝』だとか『YO YO チェキラー』だとかで、ドラゴンアッシュの功罪をスレを見ているとつくづく感じました。2chはオッサン率高いから90年代辺りのミュージシャンで止まってる人多いんだなぁと眺めてました。勿論私よりよっぽど聴いてるとみられる人もいましたが。

さて、それはそれとして、この問題の核は"日本人にとってのアイデンティティとは何か、正当で真っ当な日本文化とは何か、自分の根っことして堂々と究められる道とは何か"という問題、とりわけ"西欧文化をどう受容するか"という問題だと思います。

よく右翼の人が"日本人は日本の心を忘れている"なんていう時に、大抵その"日本の心"って昭和の戦前辺りなんですよね。国家神道あたりを思考基軸とし天皇を中心とする八百万の神の国、みたいな話。音楽でも"日本の心は演歌だよ"なんて言う人もいますね。どこかで見た記事に「"伝統的"と感じる文化はだいたい50年前辺りのモノ」なんて話もありました。

前者で言うならば、天皇や公家というのは平安時代には藤原氏に利用し組み込まれた血筋ですし、南北朝時代は2つに分かれて血みどろの戦いをした一王族や豪族だったといった歴史がありますし、後者で言えば"演歌は韓国メロディから生じたもので、演歌とトロットは酷似している"という話もあり、伝統的に感じられるものの"伝統"とはいつの時代のモノなのか、考えを俯瞰的に捉えるといいと思います。

本来は右翼を名乗るならせめて本居宣長までは遡る、あるいは"日本"を確立した藤原不比等の思想を知るくらいのことはして欲しいなぁと思うわけです。そしてさらに遡れば縄文というとてもプリミティヴな文化時代があり、大陸、半島、南洋の島々との血筋を初めとした関係性がもたらす相互作用、反作用のダイナミズムから古代日本文化すら形成されたという事は自明になると思われます。

さて、その上で西欧文明というロゴスを積み上げ、ルール・原理の追求から文明を積み上げてきた文明が全球的に敷衍し、世界の大多数がシャツを着てズボンを履き、四角いビルディングが都市に林立し、ABCで意思疎通する、各地の伝統文化が塗り潰される、あるいは"西欧人の評価軸、価値観自体が輸出され、逆に自国文化をエキゾチックに評価してしまう"世界は、現在進行形で文明間の炎上を生み出していると言えます。

ISISに志願する西欧の若者も、この"ユダヤだかなんだか一部の階級のみに都合のいいように地球で砂遊びをしている"という雰囲気への若さからも来る反感からの行動でしょうし、"西欧"に反発する動きは、アラビア、中国、ロシア、南米世界の様々な世界であることで、何も特殊なことではありません。ドラッガーも著書で「21世紀は世界の全ての人々は否応なく"西欧"と向き合い、反発するにせよ受容するにせよ西欧文明と関係を持たなければならないことになるだろう」みたいなことを書いていましたね。

日本の文明は、歴史的に見ても外からの新思想・技術の受け入れと日本式への昇華メカニズムが特に優れていましたが、敗戦からこっち、さらに言えば平成になってからは世界観の視座自体が西暦に取り込まれてしまったようにも感じます。GDPで観測するまでもなく、時代はバーストするかのように早くなっていて、以前はもう少し緩やかに文化を受け入れられていたはずなのに、今は突貫工事でやってしまっているために、為末さんの様な意見も出てくるのだろうなと思います。

例えば84年生まれの私にとっては"日本語ロック論争"などなく、中学生の頃にはブルーハーツは既に解散して伝説だけありましたし、日本語ロックは当たり前に生活にありました。それこそドラゴンアッシュが壁を壊し宇多田ヒカルが壁を壊した後に生まれた世代は、当たり前に日本のヒップホップやR&Bを受容する世代なのだと思います。

以前『日本教の社会学』の読書ノートのエントリで、日本人にとっての"自然"という言葉は自己の内心の秩序と社会秩序と自然秩序をひっくるめた言葉で、この3つは一致すべきもの、一致したものであるというのが基本的な意味。と纏めました。

日本では自然がそのまま規範化される。つまり自然のままであるのが何より良い、とされる故に、今まで自分の環境に無かった新しい文化は"不自然"と感じられ、それには違和感を持ち悪いものだと思ってしまう、一方でその文化にネイティヴに育った人間から見ればそれは"自然"なものだから、単純に良いものだと無批判になってしまう。ここら辺の世代ギャップも為末さんの発言騒動からは感じられました。

さて、その上で、日本に於いてヒップホップはまた独自に変容しており、さらに言えば日本人が前から持っていた文化との融合や影響から更に日本人にとって"自然"になっていくのだろうなぁと思います。最近の念仏みたいなラップやポエトリーリーディングにトラックがついているモノなんか、結構しっくりきてて本場とは違うけれどもこれはこれでいいな、と思います。

そしてIKZO YOSIの素晴らしさを再発見したゼロ年代の後で、ミュージシャンがこの国のヒップホップをまた愉快なものにしてくれたら嬉しいなと思います。

最後に、スレに書いてあって驚愕した素晴らしい動画を張りましょう。これ、親世代(50代)以上なら皆知ってるであろう、三波春夫さんのとんでもない名曲です。というか、これカッコ良すぎでしょう。黒人とは違うけれども黒人ともタメ張れる熱さをガンギンに感じました。



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# by wavesll | 2014-09-20 17:17 | 私信 | Trackback | Comments(0)

音楽だけを追い求めていると刺激だけを求め、人として大事なものを失ってしまうのではないか

先日人と話していて、"音楽は快楽を与えるもので、音楽だけを追い求めていると刺激だけを求める人として大事なものを失った人間になってしまうのではないか"という話をしました。

これは自分からすると非常に納得・体感できる話でもありました。
邦ロックから離れて洋楽やインストに傾倒して以降は音楽から言語的意味性は消え、その音の感情と情景のノンバーバルな刺激のみを追い求めていたし、音として良ければ汚い言葉も思想もOK.むしろその汚濁から美しい音が生まれるなら汚濁こそ貴いという価値の逆転も起きていました。

が、その上でよくよく考えると邦ロックに傾倒していた頃、歌詞にのめり込んでいた時も同等に危ういのだなと。
音楽の歌詞は、特にバンドのモノはフロントマンの独創であり、作詞家の思想が、つまり他者を介さない濃い言葉が音楽の快楽を持って脳に浸み込む。これは確かに社会性を失いそうだし(というか社会性のあるロケンローって失笑でしかないし)、破滅、あるいは感情の増幅などの脳内化学物質操作という側面が音楽にはあるのは否めません。思想発信ツールであるし演者の力はロゴスでなくパトスへ直接かけられるから、本当に強靭な振動を精神に与えるものだなと思います。

閑話休題、この間光が丘IMAで『カムイレラ』という舞台を観ました。
国後アイヌの反乱の史実?から着想を膨らました武士とアイヌの娘の悲恋のミュージカルなのですが、これがとても良かった。歌に力があったし、役者の目力が凄かった。何度もぐっと来て最後は鳥肌がぶわっと立ちました。

ただ、惜しむらくは楽曲がアイヌっぽくないかなとは思いました。イヨマンテはとても良かったのですが、楽曲はほんとミュージカルの楽曲って感じでアイヌ音楽をどうミュージカルに落とし込むのか期待してしまっていた自分としてはそこが残念でもあり、でもきっと私が求めるようなアイヌっぽさを音楽に出してしまうと対象が非常に狭い、マニアックなものになってしまうだろうなとも思いました。

アイヌのムックリやトンコリとあの茫漠とした北海道の自然の生活の音を楽曲で顕せたら、それだけで魔法が働いてあの時代のあの場所へ精神が飛ばされるのではないかな、と思っていました。あ、幕が開いたときに冷気が出たのは北海道へのいざないとしてとても良かったです。

そんなこともあって、前半は何度も集中を切らしてしまっていたのですが、最後に鳥肌まで出たのは、音楽の魔法に頼らない、真っ直ぐな物語と演技の王道の力強さに(自称不感症人間の)自分も心動かされてしまったのかなと。

劇を見て、「あぁ自分は余りに音楽という魔法に魅了され過ぎてそれにリソースを割きすぎたせいでひとの心というものに関するまなざしが浅くなってしまっていたのではないか」「いきなり呪術レベルにいくのは無理だし、一つ一つ丁寧に積み重ねることが大事だ。自分でやるなら全力で革命をやるために全力で基礎をやらねばいかん」と思いました。正直最近は小説映画どころか漫画すら読まない物語の乏しさでしたから。自分の語彙や感受性が人として鈍っていたのだろうと、色々と最近気づかされています。

さて、その上で、音楽の魔術と人としての物語の力を両立する。人としての血が通っていつつ音楽的にも面白く違った世界へいざなってくれる音はあるかなと思い、中目黒TSUTAYAでZAZの『Recto Verson』を借りてきました。

ZAZはBSプレミアムの番組『Amazing Voice』で知った現代シャンソンの歌姫。この2ndはYoutubeで聴いて、1stよりよりポップになって広く希求するものになったなぁと、一度きちんと聞いてみたかった一枚でした。

音楽の魔法で自由にされながら、自分の精神との"他者"としての関係を築けるような年齢になった今だからこそ、心に鳴らせる曲だなと思います。自我の確立の上での音楽体験はアーティストへの尊敬も含めてこれからやっていきたいところ。そしてそれを超える音楽体験をさせてくれる演者こそDopeで天上な星でしょう。

一曲紹介しましょう。一曲目の、この星に生きるすべての旅仲間へ捧ぐ曲です。これを聴いて、また人生の起伏を楽しめる気になりました。



こちらのサイトさんで日本語訳詩が読めます。英訳しているサイトのあるので、お好きな方でどうぞ。フランス語が出来る方はオリジナルで。

はははw最後はやっぱり音楽に行きついてしまったwまぁ映画や小説漫画も読んで物語を摂取していきたいです。あ!今季はドラマ観てました。『ペテロの葬列』が非常に面白かった。以前のシリーズもみてみたいなぁ。『昼顔』も面白いらしいですね。
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# by wavesll | 2014-09-16 22:22 | 私信 | Trackback | Comments(0)

あの頃も、そして26年の季節の変わり目も聴こえてくる。フィッシュマンズが流れている。



TLだったか、2chのスレだったかで、フィッシュマンズのリユニオンツアーが9年前だという書き込みを見て、感慨深い思いになりました。

9年前、私は大学2年で、在学中に挫折して休学して復帰した辺りの頃だったように思います。
そんな、日影の心境のある大学生活に、ふっと良い音を差し込んでくれたのがフィッシュマンズの音でした。

その頃、ちょうど『宇宙』『空中』というベストアルバムが発売され、ゲストヴォーカルを入れたリユニオンツアーが行われ、フィッシュマンズとしてRSRに出演等、フィッシュマンズに再び風が吹いた時期でした。

私がフィッシュマンズを知ったのは、高校時代にMXをやっていた時、濃い音楽フリークのライブラリには必ず『空中キャンプ』や『ロングシーズン』などが入っていて、なにやら日本にはフィッシュマンズという音楽フリークが好むバンドがいるのだなと思ったあたりでしょうか。その頃の自分はブランキーや椎名林檎が好きで、激しさを音楽に求めていたのと、MXではブートレグのみを漁っていたのでDLはせず、聴くことはありませんでした。

そして前述の時期に、自分自身の心境の変化とフィッシュマンズの活動がリンクする形で私は彼らに出会い、そしてずぶずぶに嵌りました。中学時代の音楽がブルーハーツ、高校時代が椎名林檎とブランキーならば、大学時代の自分が最も嵌ったのはフィッシュマンズでした。

聞く音楽が広がり、ROVO等のインストモノや、ガムランやブルガリアンヴォイスのようなワールドミュージック、クラブジャズ、そして音楽フェスで出会った邦楽バンド達を経過して耳が出来上がるにつれて、サウンドの面でもフィッシュマンズにはやられましたし、何よりさびしがりやで口は悪いがいい奴で、どこまでもナイーヴなのに強さもある佐藤さんの詩にやられました。

あの詩があの音に乗ると、こんなにも沁み込んで、癒されるというか、どこか辛さが緩和される、端的に言って音楽に救われました。

結局生でフィッシュマンズを観ることは無かった(これは後でも述べますが)けれど、リユニオンツアーの映画の上映は東京verと大阪verで2回観ましたし、あるつてでRSRでの清志郎の『メロディ』を手に入れたりして、当時は本当に熱量をもってフィッシュマンズと共に生きていたような気がします。

さて、それから時がたち、2012年あたり、そうpiece of the futureが配信される辺りの頃は、どこかフィッシュマンズに、「好きなんだけれども、好きだからこそかっこよくいて欲しい」という期待が外れてしまっているような思いを感じていました。

05年に嵌ってからすぐにオリジナルの音源を聴き、音源や映像の中で佐藤さんに心酔していったことで、ゲストヴォーカルにどこかカラオケの様な微妙な気持ちを持ったり最初のリユニオンツアーの頃にあったような緊張感がなくなってピースフルでジャムも凄いんだけれども、どこか気の抜けた感じを再活動フィッシュマンズに想い、それもあって結局未だにフィッシュマンズは生ではみていません。

piece of the futureは買ったし、逆に凄腕ジャムバンドとして音を高めて、佐藤さんの歌から別の次元へ行ったらそれは凄くライヴを体験したいと思うのですが。もしくは生で観たら結局今のもやっとした気持ちも霧散するかもしれませんが。(その意味で山本精一の『Crown Of Fazzy Groove』はあり得る方向性の一つの解かなとも思います)

それでも、今でもフィッシュマンズのCDは良く聴きます。特に『ロングシーズン』は、この夏にも部屋で何度も流しました。

そして、このエントリを書く気になったのは日本の(自分からしたら)若手バンド2組にポジティヴな意味でフィッシュマンズらしさを感じられたからでした。

一時期、数年前まではフィッシュマンズっぽいバンドに"それならフィッシュマンズを聴くよ"と思ってしまっていたのですが、時の流れや自分自身の変化もまたあったのか、そしてそのバンド達の音楽が素晴らしかったことから、新しい領域に自分とフィッシュマンズの音楽が来たのだなぁと思い、一本この記事を書こうという気になったのです。

そのバンドはceroとあらかじめ決められた恋人たちへです。

知ったのはあら恋の方が早くて、twitterのフォロワーさんが呟かれていたので去年『DOCUMENT』発表時の渋谷タワレコでのライヴを観に行き、その抒情性と音の迫力に衝撃を受けたのでした。

そしてceroは、名前は良く見聞きしていたのだけれどもYoutubeではぱっとしないなぁとあまり聴いていなかったのですが、この夏のワーハピでみて、音の躍動感に圧倒されて一気に好きになったのでした。

で、この二組にはどこかフィッシュマンズを感じる共通点があるなぁと思い、渋谷TSUTAYAで一気に全アルバムを借りて、聴いてみたのでした。

そうすると、ceroは『My Lost City』で『100ミリちょっとの』を引用しているし、あら恋は『ナイトクルージング』や『すばらしくてNice Choice』を彷彿とさせる楽曲が『Document』にあったり何よりダブなところにフィッシュマンズとの共通点を感じたのかと、自分の中で腑に落ちた瞬間がすべての円盤を聴き終わった際にありました。

おそらく、フィッシュマンズ自体が今の20代30代の抒情音楽好きの中での共有アーカイヴとして存在し続けて後に残っているのだな、そしてその影響や奏でつがれる音楽精神は、今の欣ちゃんの活動によっても(俺はもうちょっと研ぎ澄まして欲しいけれど)もたらされているのだなと改めて思い、2014年の"もうすぐ秋だね"の時期に再びフィッシュマンズの音楽に思いを馳せ、この拙文を認めました。

追伸、大学時代はフィッシュマンズと書きましたが、その後はブラジルものに大いに嵌り(今も継続)、そしてここ2、3年でようやく洋楽に突入して聞きかじる毎日を送っております。日本のミュージシャンでは上の2組や、フェスで観るバンド、そして最近はshota hiramaの様なクラブ、ノイズにも手を出しつつある今日この頃、もう"伝説の"ではなくなってしまったけれど、"とてもいい"バンドとしてフィッシュマンズと向き合い距離を取れるようになったのは自分も年を重ねたのだなと、しみじみ思います。

そして、彼らの音楽の種が、また全く違う個性を持ったバンドに内包されるまで至ったこと。特にceroではCDでは歌詞と歌に、ライヴではそのアンサンブルに、あら恋はピアニカの独創性・抒情性とライヴでの音の鋭さに感服しました。と、いうか日本の若手音楽、しばらく見ぬ間にかなり層も厚く質も高くなっているのだなと、ちょっと最近わくわくさせられています。


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# by wavesll | 2014-09-07 01:46 | 私信 | Trackback | Comments(0)

東京バレエ団創立50周年 祝祭ガラ

NHKホールへ東京バレエ団創立50周年祝祭ガラ公演を観に行ってきました。

目当ては、ギエムのボレロ。先日15年末での引退を発表したときはびっくりしました。
NHKホールは初めてだったのですが、3階席でも十分見れる感じ。流石に表情までは見れませんが、普段ロックフェスやらなんやらいってるとこんなものだろうと。

それより生オケとは!3F席だとオケピもみれて嬉しい。と、いうよりこの生オケが非常に良かった!開演前に音合わせか調整か各自が音出ししていたのですが、その各自バラバラなのか流れがあるのかわからない音出しの感じがめちゃくちゃいい感じに響いていました。"まるでワーハピでみたCEROを格式アップしたような上質かつ実験的な音だな"と思いました。と、いうか最初はそういう曲だと思っていて、公演後にスタッフに聴いたら全然バラバラにそれぞれ演奏してたんだといわれてしまいましたwでもだからこそ音源化してないし、いいもの聴けました。

そんな流れで始まった第一演目、ペトルーシュカ。
街の人々と人形?のファンタジックでユーモラスな演目。初めてみるバレエは、ストーリーをダンスと音楽から類推する、無知な異邦人のような心持で探りながら楽しみながら見ていました。

そもそもバレエに興味を持ったのは曽田正人さんの『昴』からなのですが、その中で囚人がバレエにストーリーがある事に気づき、筋を探る楽しみに気付き始める一幕があって、自分もその立場だなと思ったりしながら見ていました。この後も昴の一つ一つの記憶がふっと湧いてくる瞬間が何度もあり、あの漫画改めてよくできていたなと思いました。



またしても音楽の話になりますが、ペトルーシュカの音楽が本当に良かった!生音の素晴らしさと楽曲の良さ、音自体の楽しさが相まって本当に素晴らしかった。今検索したらストラヴィンスキーなのですね。ここら辺からクラシックへ入っていくのもありだなぁついにクラシックコンサートとか行くか!?なんて考えていました。

実際、バレエ演目はクラシック音楽に視覚的な面白味を与えて相乗効果を生むし、ガラだと色んな演目のベスト盤的な内容でもあるので、中高の社会科見学でバレエのガラ公演なんかも情操教育的にありなのではないかななんて思ったりしました。

情操教育的に、というか、最初バレエをみて、非常に健全なエンターテイメントだなと強く思いました。音楽もアコースティックだし、真摯に鍛錬を積んだ成果として演舞をするのは真面目に頑張ればこんな魅力を発せれる、として生徒に親や先生の立場なんかだと見せたいんじゃないかなと、アラサー的には思ったり。勿論、その楽しいエンタメをするためには裏で血のにじむ鍛錬がいるという意味で心身もタフになりそうですしね。部活に良さそう。

バレエ、というといかにもお高く留まっているように見えますが、品のいいユーモアなんかもあって、間口を広くしようとしているんだなと思うと同時に、やっぱり客層も品が良さそうなおじさんおばさんとお嬢さんが多かったので、突っ張っている若いのが惚れこむような穏やかでない危険さもあってもいいのかなと思ったりしていました。

さて、第二演目までの間の休憩時間にロビーへ出ると、なんとシャンパンを売っていてこりゃあハイソだなwとやっぱり思ってしまいましたw私はヱビスでのどを潤しました。

第二演目はスプリング&フォール。コンテンポラリーで、より非言語な、おそらく男女の触れ合いを画いた演目。ダンスと音のシンプルな響きを愉しみました。

コンテンポラリーダンスの方が自分にはとっつきやすいのですが、どちらかと言えばストーリーを類推する楽しみもあるクラシックの方がより、"非言語で伝える"という意味では複雑に強いのかなと少し思っていました。

さて、第三目のオネーギン、このソリスト2人の表現力が凄かった!
愛、一方的になった愛とその別れ、個人的な記憶の想起と共に、凄まじく盛り上がるクライマックスの音楽の力も相まって大変感動しました。会場も拍手が鳴りやみませんでした。

第四演目を前に隣の方と少し話したら、彼女もバレエが初めて見たそうで、でも感動しますねと共感できましたw自分も駅のポスターを見てチケットを買ったのですが、その方もそうだったそうで、駅ポスターって結構リーチするんだなと思ったり。

第四演目は、いかにもバレエ!と言った趣のシュシュを付けた群舞が魅力のラ・バヤデール
群舞の一人が少し動きを乱してるなって気づくくらい整った群舞に、またしても昴の挿話を想起。
ちょっとしたマジックのような演出もあったりして、古典的なバレエの中に新しさを感じたり若さのエナジーを感じる演舞でした。

そして、、、そしていよいよシルヴィ・ギエムのボレロ。

これは段違いに凄かった。

まず、ギエムの身体の優美さ。手足の長さからくる幽玄な柔らかな力が、目を赤い円の中心に釘付けにさせます。もう、このダンスを、ずっと、2時間でも、3時間でも、5時間でも見ていたい。本当のカリスマがそこにありました。余りに圧倒された、というより、もっと優しく、内発的に引き出されたうえで高められるような、そんな体験でした。こんな水準のものが見れたのは、そして根源的なエナジーが暴力的ではない形で提示されたのは、今後の自分の人生の角度を少し変えてしまうかもしれないと、今振り返って想います。

素晴らしい時間でした。ありがとうギエムさん。そして東京バレエ団のみなさん。裏方のスタッフも凄い。全然転換の時音しなかったのは感動。そして開演前の音出しで音源出してくれw!
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# by wavesll | 2014-08-30 22:07 | 私信 | Trackback | Comments(0)
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