琳派400年記念 プロジェクションマッピング 21世紀の風神・雷神 伝説

現代作家の琳派! 琳派400年祭プロジェクションマッピング広告


さる3/12-15に、京博にて、琳派400年記念 プロジェクションマッピング 21世紀の風神・雷神 伝説が行われました。上に上げたティーザー映像を見てうおおおと惹きつけられ、京都に夜行バスで行って夜行バスで帰ってこようかと思ったのですが、土曜日の予約は終わってしまっており、断念。どなたかが映像上げてくれたらそれをみよう。と思っていました。

そして、なんと全編上がっていました。これは真夜中に、部屋を暗くして全画面表示で見て頂きたい。

琳派400年記念 京都国立博物館プロジェクションマッピング(1) - Naoko Tosa - Kyoto National Museum Projection Mapping FZ1000 [4K]


別角度からもう一つ。こちらの方が雑音も入っていないかも
琳派400年記念 京都国立博物館プロジェクションマッピング(2) - Naoko Tosa - Kyoto National Museum Projection Mapping FZ1000 [4K]



素晴らしい。この映像、京都大学の土佐尚子さんらが手掛けた映像作品で、映像は、CGなどの特殊効果を使わずに、絵の具や水滴が跳ねたり流れたりする様子をハイスピードカメラで撮影し、一瞬の出来事を200倍の長さにして同館の外壁に投影というから驚きです。この実写の質感があまりに高すぎて、狂言とアニメの部分がイマイチに感じてしまうのは玉に瑕かもしれませんね。

土佐さんのこの映像を予告で一目見た時から、現代における琳派の表現ってまさにこの映像でプロジェクションマッピングだなと思っていたので、(現地で観れなかったのは残念ですが)視ることが出来嬉しかったです◎

今年は琳派400年ですから、この間のアートフェア東京でも琳派のコーナーがあったそうですね。いいっすよねー琳派は。まだ今年は1/4も終わっておりませんから、3/4の企画を楽しみに過ごしたいです。



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# by wavesll | 2015-03-27 01:03 | 小ネタ | Trackback | Comments(0)

渋谷でフリー音楽充。 YASHIBU Vol.3 & Music from Greenland LIVE REPO

日曜日に渋谷タワレコへYahisibu Vol.3を観に行きました。

4Fのライヴイベントコーナーへ開始15分前に行くとまだすきすきで、最前へ。そこからどんどん人が集まってきて、開始直前にはかなりの人出になっていました。

サウンドチェックの人たちの中に厭にかわいい二人がいるなぁと想い、今日出るバンドメンバーにこんな可愛い子いるかなぁと想ったら、なんとその一人は仮谷せいらちゃん!実物こんな小っちゃいんだ!すげー、なんか『水星』の時よりあか抜けてる!すげー!そしてもう一人が信じられないくらい小顔で長身の別嬪さん、アリスムカイデさん。こんな美人いるんだなと吃驚。ゲーノージンはやっぱ高水準だわ。画像でみるより生の破壊力は凄かったっす。

そしてイベントが始まります。MCがアリスムカイデちゃんで、なんでもこのイベントは渋谷のインターネット放送局、2.5Dのイベントだそうで。元々自分はタワレコのインストアイベントページをチェックするのが習慣なのでそれで知ったのですが、2.5Dだったのか。名前は知っていましたが、今回で初関わりでした。



一組目のバンドはSuchmos.なんでも和製ジャミロクワイと言われているそうで。どんなもんだろ?確かに一回二回と良い評判を聞いていたと想ってみていると、これは実力派!jk並にVoが滑って揺れて陶酔したり、激烈に決めながら歌う!すこぶるかっこよかった!バンドメンバーも上手い!Drumsのシンバルが切ってとぐろ巻いてました。カッコ良かったなぁ。これは凄い奴がいるものだ。Voが面も活けてるし、存在感あるし、このバンド、いいは!ライヴ時間は30分位でした。



次のバンドはSANABAGUN.まずライヴ前のインタビューの時から悪がき感が凄いwそしてそれをあしらうアリスムカイデちゃんも場慣れしているw色々感心しつつ、ライヴ突入。ベースはSuchmosの人と同じでした。今回のサポートメンバーなのだろうか?

ジャズ生演奏のヒップホップチーム。やはりこっちも演奏でも魅せる。そして、普段は渋谷でストリートライヴをしているらしく、パフォーマンスの面でも魅せる、煽る!素晴らしい饗宴でした。この日出た三組はどれも良かったけれど、一番破壊力のあるパフォを魅せたのは彼らかもしれません。生で、このヤバさ、是非体験して欲しいです。あとVoの一人が松井稼頭央に似てたw



そして3組目、ラストはThe Wedding Mistakes.元々このイベントに来ようと思ったのはタワレコで彼らのデビューアルバムを試聴し、なんかserphをアッパーにしたみたいな感じだなと思ったのがきっかけでした。

実際生で二人をみると、ナードっぽかったwただライヴでキーボードを弾いたり、Djする時の動きに岡村ちゃんぽさを感じさせられたり、やるなぁと感心させられました。MC前の一曲が一番好きだったかな。ラストのラブリーサマーちゃんのremixも良かったです。渋谷タワレコのYASHIBUコーナーでアルバムを買うとThe Wedding Mistakesと仮谷せいらちゃんの音源のDLコードもつくそうで。次はVJ付きでみたい!

やー、何かホント、いい若手、出てきてんなぁと想わされました。自分より若い人が良いパフォーマンス上げてるのをみると、なんか奮い立たせられました。ま、自分は新人みたいなものなので、今から喝入れてモンスターエナジー飲んで、追っかけ追い越せ!だなとw

そんなことがあってから2日。今日は仕事帰りに再び渋谷、O=WESTにてMusic from Greenlandというイベントへ行ってきました。



19:00丁度に始まったのはNive Nielsen & the Deer Children。イヌイットの血を引くどこか近しい感覚と神秘性を感じさせる彼女が歌う音は、大平原の緑と、グリーンランドの街の物語を感じさせる歌。英詩でしたがあまり意味は理解が追いつきませんでした。雰囲気が軽くビヨークを感じたかも。ただバンドサウンドの激しい曲もあって、そういった意味ではBlonde Red Headなんかにも近い楽曲もあったかもしれません。

小一時間のライヴの後転換時間。客層を眺めてみると結構年配の人や外国人も多くて、老若男女多種多様でした。みんな、結構おとなしかったのは平均年齢が高かったからなのかw



そして、トリを飾るのがグリーンランドNo1バンド、Nanook.こーれが良かった!YASHIBU含めてもベストアクトでした!

グリーンランド語で歌われるグッドメロディ・グッドハーモニーのパワーポップなのですが、このグリーンランド語ってのが聴きようによっては韓国語みたいにも聞こえて面白かった。素晴らしくストレートにいい楽曲、ともすれば"普通"になってしまうところが、グリーンランド語で歌われることで一捻り聴いて、面白い!どの楽曲も良かったのですが、極光について歌った歌が、オーロラのような緑のライティングと相まり心に残りました。


実はこれも事前予約制のフリーイベントで、かかるのはドリンク代の500円だけ。すっげーいいなー渋谷。マネーフリーでここまで楽しめるとは。でも良いライヴに感激してアルバム買っちまいましたwサインしてもらって握手もしたぜ!
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# by wavesll | 2015-03-24 23:35 | 小ネタ | Trackback | Comments(0)

魔境の先に - オウム真理教とアウトオブコントロール。自分が未だに囚われているものとその乗り越え方について

先日、フジテレビ、ザ・ノンフィクションで地下鉄サリン事件のアニメが流れていました。Togetterの反応をみると、「ふざけすぎではないか」というような意見も多かったのですが、自分はこの番組を見て空恐ろしい気持ちになりました。

時折入る実写の実行犯たちの90年代の映像は、どこか赤軍派の様な頬がこけ目が血走った元インテリエリートの持つ凶暴さ。そして麻原の余りにもファニーな存在感。20年前私は10歳だったのでそこまで詳細には覚えていませんが、今改めて「日比谷線」やその他の駅名を聴くと、自分の生活圏の中で化学兵器による無差別テロが起きたという戦慄を覚えると共に、オウム事件を基にした『20世紀少年』の取材が良くできていたなぁとか、オウムが暗い影を(少なくとも自分には)残しているのはそのポップさと体感の裏打ちなのだろうなと思い起こしました。

ほぼ後追いでとんねるずの番組に出ていた麻原をみたり、オウムの音楽をwebで聴いてみたり、強い衝撃を当時の10代の少年として受けたことは間違いありません。私だけでなく、学年の悪ガキなんかもピアノで「しょーこーしょこーしょこしょこしょーこー」と弾いていたのは結構全国的なものだったのかもしれません。

大学時代、文学部の授業に潜ったらオウムの修行の種本は中沢 新一の『虹の階梯』だったと知り、どのようなものか興味が出て図書館で借りましたが、読んでも意味が分からず、放置したのを覚えています。

私は一時期、ホットヨガやらスピリチュアル的な聖地巡礼にうつつを抜かした経験があるのですが、そういったものから得た実感から推察するに、オウムに高学歴のインテリたちが呑み込まれたのは、圧倒的な神秘体験の体感があったからだと思います。ヨガなんかは実際やってみると精神の変容が(特に上手いトレーナーの指示に従うと)感じられます。『虹の階梯』に書いてあるチベット密教のメソッドを元に、オウムは薬物まで使っていたのですから、恐らくは確かな体感神秘があったのでしょう。

インテリというのは下手に知識をため込んでしまうものですから、世界の大体を自分は知っていると過信する者もいます。そんな人間が全く知らなかった精神体験を体感してしまうと、ころっとやられてしまう。そんな筋書きがオウムにいかれたインテリたちをみていると感じます。

また目が悪かった麻原は人心掌握の達人だったらしいですから、『金閣寺』の柏木のように狡猾に心を鷲掴みにしたのかもしれません。

神秘体験、天上の刺激。自分は音楽が好きなのですが、音楽を、特に詩ではなく音を追求していくということはどこか意識が飛ぶような体験を求める気持ちがあるのではないかなと思います。快楽を何よりも追求する心。自分がオウムのアニメをみて戦慄したのは、出会うタイミングが違えば私もオウムの様な組織にやられてしまったのではないかという恐怖も少しあったからかもしれません。

一時期、自分の人生で脳内麻薬のバブルを迎えていたころは、信者どころか教祖のような万能感を得て、そんな尊い自分を評価しない社会に強烈な憎悪を抱えていました。自分は良くも悪くも麻原ではないですが、もしかしたら自分の中にも麻原がいるのではないか、という闇というか、狂った部分が自分の心の襞の中に隠しこまれている気もします。

魔境、という言葉があります。禅の修行者が中途半端に能力を覚醒した際に陥りやすい状態で、意識の拡張により自我が肥大し精神バランスを崩した状態のことで、仏教の教えでは、魔境に陥りそうになったらすぐさまその過信を消し、謙虚な心を失ってはならないと教えています。

あの頃の自分の状況も、今思えば魔境に入っていたのかもしれません。単純に天狗になった以上の体感した神秘経験もありましたから。と同時にこの魔境の事を知ったとき、自分で自分をクレイジーだなと想うのは「あの先があるのか」と少しワクワクしてしまったんですよね(苦笑)煩悩消えてねー、駄目だこりゃ、という感じですね。

その魔境に陥っていたころの話をもう少しすると、当時仲良くさせて頂いていた大学の先輩がいたのですが、まぁ後輩としてよく無茶振りさせられていたんですよ。で自分も嫌いじゃないので無茶振りに精一杯答えていたのですが、だんだん自分のはっちゃけぶりがその先輩のキャパを越えて、君とはやってられんわと決別されたのでした。

その事を昨日大学時代の友人との昔話で「あの人は結局いい人で、俺がクレージーだったんだな」と話したら「マフィアのボスが手に負えなくなった若造を追放しようとして殺されるとか、そういう感じかもな」と言われました。うーむ、言い当てているような気もしますね。。

そんな事柄が頭のどっかにありながら、前述の先輩とも仲の良いドラマーの先輩から誘われ、先輩のバンドをみに渋谷NO STYLEへ行ってきました。



結論からいうと、めちゃよかったです。20時すぎから行ったのですが、ザ・ビリーズピストルにはロックって人格だなぁとか、本当にシンプルな気持ちになれる音だなぁとか思ったし、BLUE STRAIGHTは先輩のドラムがやばく華やかで、しかもベースが横須賀のヤンキーみたいなスカジャン着てるのに中身が江戸っ子みたいなチャキチャキの白人(しかも髪がアニメキャラみたいな色)だし、ギターヴォーカルの男子も若々しくていいし、先輩のバンドで今まで見た中で一番フレッシュな音に感じれて非常に良かったです。

体を動かして、汗かいて、なんか、楽しくなっちゃって、近頃まともに昔ながらのロックンロールを聴いておらずにいたのですが、やはり生で狭い地下のライヴハウスで体感するとロックってまじめに楽しいなぁと感じました。そして、ふとあの先輩は自分がコントロールできる範囲で遊んでいて私に無茶振りしていたのだけれど、私にとってそれは自分の能力を超えたフィールドで、アウトオブコントロールこそが正義だと私は勘違いしたのかもしれないなと、ちょっと思いつきました。

そうなるとどれだけ狂うか競争になって、暴走しすぎてゲーム自体をぶち壊しに自分はしてしまったのかなと。魔境を痛飲してゲロを吐いてしまった。そしてそれが起きないように厳しい制限が課せられることを招いた。そういうことかもしれません。

そこで、論を進め、魔境の先へ行くことを考えるに、アウトオブコントロールを良しとせず、自分がコントロールできる領域を高めていくことなのかもしれないなと思いながら東横線で帰りました。いわばセル戦前の悟空と悟飯が精神と時の部屋でした、超サイヤ人状態を普通の精神状態でする修行、みたいな。

オウム真理教の幹部も、自分の精神がアウトオブコントロールであることを良しとしハルマゲドン思想に酔わなければ、罪を犯し死刑になることもなかったのかな、と思います。勿論時にはアウトオブコントロール領域までジャンプするのも必要ですが、コントロールできる高度を上げるのはもっと大事です。

オウムの幹部たちは下手に真面目だったため、教義を原理主義的になってしまい、いわゆる世間的な"いい塩梅"から大きく外れた行動に出てしまったのだと思います。遺跡遺産を破壊するイスラム原理主義者にしても、ロベスピエールの恐怖政治にしても、理論が現実を超越して歯車が回り始めると、どこまでも先鋭化し、余りにも突き抜けたものになってしまいます。その意味で革新をやるためにはとことん身体的な納得感、直観的な把握ができるバッファがないと、社会を破壊するしかないところに精神的に追い詰められてしまうのではないか、等とも想います。

その為には運任せではなく、着実で実直な地味な鍛錬とコミュニケーションが必要になるでしょう。そしてそうすることがOVER30の努めなのかもなぁなんて想いながら、今夜はここら辺で筆をおきます。ヒットが伸びた先にホームランがあるような、イチローの様なプレースタイル、いいなぁと思いました。
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# by wavesll | 2015-03-18 01:57 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

アルゼンチンタンゴ 春のフリーコンサート@神奈川公会堂

家に入っていたチラシで知った東神奈川のサティのとこの公会堂でのタンゴのフリーコンサートに行ってきました。

13:30開場14:00開演で、会場直後に着いたらもう大分埋まっていて、開演近くには500席がほとんど埋まっていました。ジイサンバアサン、良いの知ってるなぁ。

小川紀美代(バンドネオン)、上原千陽子(ヴァイオリン)、長浜奈津子(朗読)による演奏、非常に良かったです。司会の女性がタンゴに朗読が入るのは珍しいといっていましたが、『ブエノスアイレスのマリア』で入った者としてはとても入り込みやすかった。スペイン語を交えた日本語による朗読が、アルヘンティーナの熱情を伝えてくれました。序盤の『首の差で』なんか凄く良かったです。

またタンゴ以外の楽曲もやっていました。バンドネオンはドイツで生まれ、船で讃美歌の伴奏として使われていたそうで、そこから『G線上のアリア』をやったり。第二部で披露されたアレンジ効かせヴァイオリンがガンガン切り込む『コンドルは飛んでいく』は今回のコンサートの一つのピークでした。

それにしてもタンゴと言えばこの楽器、バンドネオン。7kgもするらしいですが、蛇腹の畳まれるバラっとした音や、ボタンを押すカチャっとした音も音楽の構成要素として面白い。打楽器的というかパーカッション的な一面に津軽三味線の撥を想ったり、足で打音する姿にフラメンコの手拍子を想いました。メロディだけでなくリズムも鳴らすというのは魅力の一つだなと。近くで生で体験できて良かったです。


本編最後でブエノスアイレスの写真がスクリーンに移される中『リベルタンゴ』が披露され、アンコールでは『ラスト・タンゴ・イン・パリ』。これが良かった。このアンコール今日の白眉でした。

休憩入れて2hのステージ。これがロハなんですから素晴らしいですね。いやいや、CD買えよという感じでもありますが(苦笑。公会堂のチラシ入れに入っていた4月の箏・尺八・三味線のコンサートも気になりました。


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# by wavesll | 2015-03-14 18:17 | 小ネタ | Trackback | Comments(0)

第八回 酒と小皿と音楽婚礼 - Marco Bosco / METALMADEIRA

Marco Bosco - METALMADEIRA (1983) - Completo/Full Album


ブラジルのフォークロアに新たな次元をもたらしたEgberto GismontiのCarmoレーベルの良質ラインナップの中でも、ひときわ才気を放つ傑作『Fragmentos Da Casa』を残している打楽器奏Marco Bosco。その3年前の83年に発表していた作品。民族楽器のミニマムなリズム、鳴り物のたまゆらの響き、降りしきるスコールや雷鳴といった森の息遣い、そんな五感的に訴えてくる濃密な響きの空間に、電子音やコラージュを交えた激イマジナブルなサウンドスケープ仕立て。次作へと直結する空間の錬成術にぐ~っと引き込まれる逸品。打楽器に向かう佇まいはまるでシャーマンのよう。脳内辺境探検家に猛烈ぷっしゅ! (SHE Ye, Ye Records)


というこの一品。今上記のYoutube動画でヘッドフォン聴きしてるのですが、水の滴る密林でUFOに出会ってしまったような、高い質感と驚きにあふれた音で、素晴らしい音ですね。(SHE Ye,Yeさんにすべて書かれてしまったw)


そんな音源に合う飲み物は何かなぁと思い巡らしたところ、昨秋ITパスポートを受けに行ったとき大手町の地下のカフェで飲んだアーモンドミルクなんか合うんじゃないかと近所のコンビニに行ったらこんなのが売ってました。

ブルーダイヤモンド アーモンドブリーズ オリジナル

で、音楽に合わせてみたのですが、アーモンドのコクがありながら上質なクリーミーさが、なかなか合いますよ。舌触りの良さとちょっとした自然味が、この音の質感の高さと冒険心にマッチしています。

それにしてもこういう採音素材を混合した音って、今まさに先端に響く音だなぁと個人的には想います。最近江戸時代の美術工芸のモダンさに舌を巻いていたのですが、人間、100年200年前と今でモダンに感じるデザインがあまり変わらなかったりするのですから、本当に飛び抜けたものは時を超えて先進性を感じさせてくれるのだなぁと、しみじみ感じます。フィールドレコーディング素材と楽器の演奏がお互いを高めあって連携した構成力が光る、名盤だと感じました。


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# by wavesll | 2015-03-11 21:13 | La Musique Mariage | Trackback | Comments(0)

シベリア・文明の遷移

昨夜、今夜とBSTBSで放送された『伊藤英明の大シベリア』をみていました。

日本人の源流の一つと言われるバイカル湖周辺に住むブリヤート人。彼らと日本人に有るD4j8という遺伝子は中国人・韓国人にはほとんどないそうです。彼らの残したラスコーの壁画の様な、狩りが描かれている岩面も、自分のルーツの人々が描いたと言われるとまた違った感慨を想わされました。

自然を畏敬するブリヤート人は、ケルンの様に自然の中で石を積み上げたり、水の湧き出る聖なる泉にコインを投げ入れて祈り、飲むといったように、日本とのつながりを感じさせる風習が今も残っていました。

舞台はバイカル湖畔からトゥバ共和国へ。そこでシャーマンの処へ。街にかけられている五色の旗は、チベットのタルチョーの様。その後に出てきた伝統音楽、ホーメイは南をモンゴルに接しているだけあって倍音歌唱の共通文化を感じさせました。

この間のマケドニアのエントリアルメニアのエントリの時も想いましたが、西欧と北東アジアの間のミッシングリンクが、ユーラシアの中央を知ることで感じ取れる気がします。東欧からバルカン、アラブ、南アジア、東南アジアへと続く南方の道と、北方のシベリア。ロシアはモンゴルとスラブが混じる混血文化ですから東西を貫くシベリアという土地を知ることで、コーカサスからウクライナ問題など、現代問題にまで知見が拡大させられそうですね。

番組ではトゥバ共和国、テレ・ホリ湖に浮かぶポル・バジン遺跡が取り上げられました。2007年に調査が開始されられた粘土の壁に囲まれた遺跡はシャンバラへの入口とも言われましたが、最新の調査ではウイグルの城塞都市だったそうで宮殿や神殿があったそうです。奈良時代の遺跡だそうで、日本では吉野ヶ里遺跡あたりの話ですよね。

舞台はサハ共和国へ。夏は30℃、冬はマイナス60℃になる土地にあるレナ石柱公園も素晴らしかった。500万年かけて形成されたこの石柱の数々。冬の氷結したレナ川と雪に覆われた石の作り出す造景も見物でした。アジアとしてのシベリアに、興味が掻き立てられました。

その後番組ではサハに住むヤクート人と伊藤英明の交流を描き、ジブリ好きのイローナちゃんと家族に日本から持ってきて作った蕎麦やカレーを振る舞う様子が描かれた後、何と間宮海峡をキャタピラー付き雪上車でサハリンを目指すという冒険振り。結局暖冬で十分に海が凍っておらず、樺太へは渡れなかったのですが、そういえば昨年中村雅俊が間宮林蔵のサハリン縦断調査を追った冒険番組が流れていました。

樺太は南からサハリンアイヌ、ウイルタ、ニヴフという先住民族が棲んでいて、彼らの力を借りてサハリンが半島でなく島であることを間宮は解明し、世界地図にその名を残しました。

シベリアから日本への遷移を考えるときにはアイヌ民族の事は忘れるわけにはいきません。
アイヌの素朴で豊かな音楽を知るには『アイヌ・北方民族の芸能』がお薦めです。昭和28年から51年にかけて録音された歴史的音源で、素のままのアイヌの音楽を聴くことが出来ます。CD3枚組で9000円もするアルバムですが、関東近郊では代官山蔦屋書店でレンタルすることができるので、是非◎
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# by wavesll | 2015-03-08 23:00 | 小ネタ | Trackback | Comments(0)

パラジャーノフ『ざくろの色』に想う、表現に対する観客参加性のI/O

The Color of Pomegranates, part 1
The Color of Pomegranates, part 2
セルゲイ・パラジャーノフ監督『ざくろの色』をみました。
アルメニアの国民的詩人、サヤト・ノヴァの生涯を描いた、神聖さの中に土着性が馨る魅力的なアート・フィルムとして、私は「これ、裸とか出てくるけれどいやらしい感じしないなー。性的なあざとさがないけど匂わせる位で清潔な感覚と神秘的な感じがあるから、女の人は好きそうだな。わけはわからんところもあるが、映像で魅させる。途中で僧になるのは『エルトポ』みたいだが、あっちは少年趣味、こっちは少女趣味だな」なんて想いながら見ていました。ただ、この映画を紹介してくれた女性はとても男性的に感じたと言っていたので、中性的、あるいは男女を超越した美が描かれた作品なのかもしれません。

そして見終わった後、新美へルーヴル美術館展を観に行き、"風俗画というのはモキュメンタリーの様な、演出された現実の面白さがあるな"などと想いながら帰ってきて、『ざくろの色』DVDに同梱していた『パラジャーノフ・コード』というパラジャーノフの解説映像(なんとDVD2枚組で160分位ある!)をみたら、吃驚仰天、『ざくろの色』は世俗の欲望と精神性の気高さの間で主人公の詩人がもだえる様を描いた映画だったのです。それを"煩悩感ないなー"等とみていた私はどれだけ欲に塗れているのか…反省しきりです。

『パラジャーノフ・コード』で、『ざくろの色』の場面や設定を逐一解説を受け、"あぁこの場面の意味はこういう事だったのか、こういう読み解き方があったのか"と蒙が開けました。例えばざくろの色=赤=血の色=肉体の色=愛欲=世俗的な欲望といったような見立てや象徴を使った演出は、舞台劇のそれのようで、行間を想像する読解力が観客にも必要になるなぁと。

ここら辺は宗教画等にも通じるものがありますね。ルーヴル美術館展に展示されていた絵画も、ただ単純に色のならびを見るだけではなくて、その絵で扱われている事物の象徴しているものに意味があったり、画の中に物語があったりするのを読み解くことで面白くなる絵画が沢山ありました。EUREKA!をもたらすアハ体験の快楽性によって作品に"観客が読み解くという作品参加性"を与えていたのだな、等と思いました。

観客が演者の表現に参加するという事象は、今また新しい形を迎えているようにも思います。アイドルの現場でのオタ芸やコールなんか、どっちが主役かわかりませんものね。私もバンドのライヴに行き始めのころは、周りのモッシュに合わせるのに必死で、ろくに音楽聴けてないことがありましたよw後はダイヴしている人とかも一種の"演者"の一人になってますよね。今は周りの目など気にせず、好きに揺れたり跳んだりするように図太くなりました。何のための生体験なんだよって話ですからねw

ライヴの観客参加性は、モッシュとかシンガロングだとか、コールアンドレスポンスだとか昔からありましたが、今はSNSと組み合わせて、自分の体験を肴にコミュニケーションが加速させる、コミュニケーションの方が主になっているような空気はある気がします。一方それはアーティストにとってはきちんと音楽を聴いてもらえないと嘆く側面も。とは言え、他人が主役になるより自分が主役になる方が好きだという時代の空気感は、私も分からないでもありません。

そういった"アウトプットの観客参加"と違って"EUREKAの観客参加性"は"インプットの観客参加"の様に感じられます。前者が表現が精神を高く顕示させるのに対して、後者は精神を深く掘り下げていくような。双方必要なことで、双方面白い。TVなんかだと"もういいよ"ってくらいに説明過剰な表現が垂れ流しになっていますから、行間を空け想像の余地を残して、受け取る側のイマジネーションによって表現を完成させるという贅沢な体験も、大事だなぁなどと思いました。

エントリ冒頭のlink、なんと『ざくろの色』、Youtubeに全編上がっていました。解説映像で知った、タルコフスキーとも友情があったパラジャーノフ監督の波乱に満ちた人生は勿論衝撃的ですが、そういった文脈(あるいは前述した"読み解き")がなくても、この映像美と音楽の良さは非常に印象的でした。

ヨーロッパとアジアが交わる土地に生きたユーラシア人のパラジャーノフ監督の他の作品も見てみたくなりました。アラブが舞台の彼の遺作『アシク・ケリブ』とか。音楽的にも東欧から中東な民族的なリズムと音色で、ちょっとこの間書いたマケドニアにも共通するようなあのあたりの地域の複雑な妙味を感じさせられる作品で、非常に良かったです。あのあたり、最近とても気になります。

ソヴィエトによって投獄までされたパラジャーノフ。独裁政権というのは芸術を弾圧するのは何故だろうと考えると"人々に想像力を喚起させたり、独裁者と違う感性が屹立することを独裁政権は耐えられないのかもしれない"等とも想いました。イラクで遺跡を壊すISILといい、独裁者と言い、彼らには文化よりも大事な"政治"だったり"宗教"といった価値観があり、そこで権力闘争に明け暮れているのでしょうが、私はなよっちいと言われても文化芸術のもたらす精神的な自由さを重視していきたいな等とも想った日でした。少なくともこの主役の詩人(なんと女性が演じていたそうです)のずば抜けた美青年ぷりは一見の価値ありです。


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# by wavesll | 2015-03-08 02:34 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

Noisy 3 - 花電車, Jerzy Skolimowski / The Shout, Ametsub & shotahirama play @渋谷タワレコ

HANADENSHA - 1988/01/30/EGGPLANT

3/25発売 花電車の初期未発表ライブ音源集と最強布陣の1988年発表ファーストアルバムがリリース!!(diskunion)というニュースがtwitterのTLを賑した事で花電車というバンドを知りました。”ヒラ(vo、元ボアダムズ)、野間易通(g)、青柳(b、現ETT)、楯川陽二郎(ds、現ボアダムズ)”というメンバー。上のライヴ動画、すこぶるカッコイイっすね。野間氏というとレイシストしばき隊での活動手法や発言には全て賛同は私はできないのですが、この音楽は心の底から格好いいと思ってしまいますね。逆に言えば政治活動を格好良くやるというのは危険な事なのだなぁとも思いました。

このライヴ盤、ちょっと欲しいです。渋谷TSUTAYAに『NARCOTIC GUITAR』が置いてあり借りたのですが、なかなかいい出来でした。

ノイズロックバンドとして今新鮮に尖って響く音だと感じました。

The Shout (1978) Theatrical Trailer

その渋谷TSUTAYAで人に薦められて借りたのがイエジー・スコリモフスキ監督の'78年作、『ザ・シャウト』です。これが中々の佳作でした。人を殺すことが出来る叫びの能力を会得した男が魂を砕かれるまでの物語。最初は正直退屈だったのですが、叫びのシーンが物凄く、心臓鷲掴みにされ惹きこまれました。

この男の存在自体がノイズそのもので、世話になった夫婦に不協和音をもたらします。そこで苦しめられた旦那もサウンドクリエイターで、その旦那に「君の音には何も感じない」と言い放つ。確かに彼の音は趣味レベルを出ず、あの圧倒的な叫びは説得力をもっていました。今は亡きバウスの爆音上映会でかけられたそうで、みてみたかったなーと思います。

ちょっと面白かったのはこの特殊能力を持ったカリスマ性も感じさせる男が無敵の存在でもないところ。大体最初から食うに困って夫婦の下に訪れますしね。そこから家を支配する不気味さは荒木飛呂彦の『魔少年ビーティー』最終エピソードを想起させました。ここら辺の危うさが作品のカルトさを高めていると思います。いい意味でメジャー性がないというか。このシャウト、聴きものです。

shotahirama "Stiff Kittens" - trailer

70年代末にスコリモフスキの叫びがあり、80年代末から90年代に花電車がいたとすれば、2015年の最新系のノイズは、shotahiramaでしょう。nausea 3 - shotahirama chris watson Highrise -というエントリでも取り上げたNY出身のミュージシャン。デジタルのダダイスト、shotahiramaがパンク以後の電子音楽で継承するオルタナティヴな精神(Mikiki)に詳しい解説が載っています。

そんな彼が最新作を引っ提げて渋谷タワレコでインストアライヴをすると聴き、本日雨の渋谷へ訪れました。

普段展示イベントスペースとして使われている8Fが会場だったのですが、広めのKATAの様な雰囲気で、ゆったりとシンプルでいい場でした。

最初にDJをしてくれたAmetsubの太くて緩やかでどこかオーガニックなビートに思わず眠くなりました。爆音を聞くとゆったりして眠たくなることってないでしょうか?羊水の中で聴く轟音といった音に引き込まれていきました。なんと全体で60分もやってくれたのですが、45分あたりのピアノが入った曲とその後のYosi Horikawaのような自然音を感じさせるビートミュージックが個人的なハイライトでした。


そしてshotahirama. キャップをかぶってBoyといった出で立ちの彼の繰り出すノイズはCDよりも太くて、工業的なノイズで超自然的な精神性を感じさせるのが面白い。ラップトップに指を滑らせ、弾き、ミキサーのつまみを捻る。そのプレイを間近で見れたのはいい経験でした。なんと小一時間やってくれました。ほんとこのイベントフリーで良かったのかw!?

轟音ノイズを浴びると何も考えられなくなっていきます、脳の処理を越えると言うか。性的な刺激にも似ているというか、想像ですが、男ではなく女の逝くというのはこんな感じなのだろうかなどという思いが渡来しました。

あと、ちょっとくだらない思いつきだと、このノイズでスーパーマリオのゲームアプリ作ったら面白そうって思いました。動画でもいいけど、インタラクティヴな奴だと面白そう。昔やくしまるえつこの時報サイトがありましたねwいや、こないだ友達から紹介されたBrian EnoのAnother Green Worldがちょっと音的にスーパーマリオの地下ステージや水中ステージに合いそうだと思って、電子音楽でスーパーマリオって面白いかもしれんと思っていたんですよwジャンプしたりブロック壊した時にノイズが発せられたらアヴァンだなとwいや、くだらない話でした。

何とイベント終わりにCD購入者にはshotahiramaさんからCDRが配布。CDRは聴けていませんが、最新作、Stiff Kittensはこれまでで最高の出来だと想うので、これはいい特典でしたね。

彼の音楽をMikiki記事ではダダだと評していて、実際レーベル名がシグナルダダなのですが、実際に現場で音を聞いてみて、私はジャクソン・ポロックを想起させられました。

太いノイズビートから徐々に尖ったビートへ砕かれ、そしてメロディがノイズビートの海で浮き沈みする様は、まるでポロックが晩年に描いた墨絵のような世界から全盛期のドリッピングやポーリングで描かれた色彩的な抽象画、そして初期の具象画へ遡っていくような感慨を、彼のライヴ演奏に聴こえました。ノイズに色がついていくというか。いいものがみれました。
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# by wavesll | 2015-03-01 23:56 | 小ネタ | Trackback | Comments(0)

西洋と向き合う -主流と辺境、混じり合う文明についての小文

David Bowie - "HEROES" (Full Album 1977)


金曜、渋谷の美食菜館(ex上海食堂)で紹興酒入りハイボールでハチノスを喰いながら友人と音楽やら、TVやら、表現だとか飲み話をしました。
その時薦められたデビットボウイがとても良くて、家に帰っても聴いていました。

自分の音楽の趣向もだいぶ変わってきたなぁと想います。と、いうのも英米の所謂名盤、特にメロディが強くないものは面白みがそこまで分からなかったのですよね。なーんか"普通"で引っ掛かりがないというか。民族音楽の方が面白味を感じます。

それでも、3年前程からサマソニ行きだしたのもあって、現在聴く音楽の半分強が洋楽になってきて、だんだんその趣が分かってきたような気もします。実際ボウイの『Heroes』、とても感銘を受けました。

ただ、今でも聴いていて思うのは英米音楽の味は、あまりにも普通だなということです。現在の商業音楽の本流が英米にあり、世界にそのトレンドが広まる。つまり英米音楽がポップミュージックのスタンダード。なので英米の音楽は素晴らしいのはわかるのだけれども、余りに主流派というか(それに影響を受けた音楽を)聴いたことがある身としては既視感のある"普通に良い"音楽に聴こえることはあるかもしれません。良くも悪くも。

そういえばドラッカーも著書で「これから世界は対抗するにしろ受け入れるにしろ、西洋と向き合わなければならない」と書いていました。グレゴリオ聖歌からバッハを通って現代の音楽に続く西洋音楽の理論が、一つ背骨として、世界のどこでも通じる一般性を形作ってきたのでしょうね。

そんな事を思いながらHDに録画していた田辺誠一さんのマケドニア紀行の番組をみていました。

マケドニアというとアレキサンダー大王の国。ビザンチン帝国とオスマントルコが支配した地域でもあり、国内にはギリシア正教の教会と回教のモスクが混在していて、番組でもスコピエのパンテレモン修道院やテトヴォのペインテッドモスクといった可愛らしさと壮麗・絢爛さがあふれる建物が紹介されていました。この可愛らしさは北欧のデザインにも通じるものがあるななんて思ったり、モスクの清冽なデザインは未来的でもあるなとも想いました。

ギリシア文明と古代オリエント文明が交わるヘレニズムの地であるマケドニアは、基督教と回教の文明が混じる地でもあり、様々な文明のクロスオーヴァーが生み出すグラデーション、あるいは点描的な非原色の美が素晴らしく美しかったです。

やはり自分はこういった辺境に魅かれるタチなのかもしれません。音楽でも中国・東南アジア・インドが入り混じったミャンマーの音楽にここ最近は非常に魅かれましたし、主流派ではない特別感をこよなく愛してしまう悪癖が、自分のサガな気もします。

と同時に、デビットボウイがいいなぁと想う自分も正直な自分でもあります。西洋というスタンダードにこれからの世界を生きる人々は向き合わなければならないと同時に、西欧の人々も欧州でのイスラムの人々の事を持ち出すまでもなく、非西欧と向き合わざるを得ません。多文明の中でアイデンティティを形成する時代に入る、これからの時代を生きる現代人として、"他者"と暮らす上での面白がったり、寛容であったり、主張したり、選ぶための自分で考える筋力を養っていきたいですね。

そう言えばマザー・テレサが寛容の精神で人生を生きたのは、ギリシア正教とイスラム教の国でカトリックという少数派であったことも大きいかもしれないと番組では語られていました。辺境趣味、民族趣味の者として、少数派の気分は失わないでやっていきたいです。

そもそも民族的、っていう言葉は都会的の対義語でもあって、現代のポップミュージックはどこか均質化された都市空間を想定した様な気もしますが、自然に根差した文化を忘れれば、土台が抜けた人間になる気もします。しかし土着だけでも足りない気がします。

そもそも、マケドニアは一時期は世界のメインであったのに、今は辺境です。米国も今の天下が永久に続くこともないでしょう。それでも四大文明でもない欧米がプレゼンスを持ち続けてきたのは一般性のある理論を積み上げてきたからに他なりません。

自然に根差した身体感覚と、理論改新の歴史の両輪を持ちながら西洋文明を学ぶと共に、日本、そして他の地域の文明を学んでみたいです。取り敢えずコーランでも図書館に予約してみます。あと、マケドニア、行ってみたくなりましたw音楽的にはブルガリアに似てました。






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# by wavesll | 2015-03-01 14:19 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

結果を出す文章、結果を求めない文章 ― Blogの”目的”を考える

昨日のエントリ、結構アクセスを集めたみたいで、自分が「良く書けた」と想う時よりも、「イマイチだなー」って時にアクセスを集めてしまうのは、中々歯がゆいものがありますね。

昨日も書いたのですが、帰宅してからの時間で何かしたいと思って今夜は本を読み返していました。テーマは文章。特に"機能的な文章"について。山田ズーニーさんの『伝わる・揺さぶる!文章を書く』 を手に取りました。
山田ズーニーさんは元々ベネッセにいた方で、『おとなの進路教室。』という本や柱リンクにもあるサイトをそれこそ大学の就活の頃に読み、とても誠実に、丁寧に伝わる文章を書く方だなぁと想ったものでした。この『伝わる・揺さぶる!文章を書く』も数年前購入し、その時も感銘を受けたのですが、今第一章・第二章を読み、あぁあ流石だなぁと再び色々考えが深まる契機になりました。土曜日までに全章読み返したいのですが、三章以降は実践的なトレーニングとなっているのと、色々読んでいる内に「書きたい、少なくとも昨日の記事よりは自分の思い入れがある文章が書けるはずだ」という思いにかられ、今ラップトップに向かっていますw

この本で書かれるのは、「結果を出す文章をどう書くか」です。ベネッセで小論文を担当していた山田さんは、自身の受けてきた国語教育を振り返った時に、文学鑑賞ばかりで、実際に生活の中で必要とされる手紙や詫び状、議事録等の文章のライティングの授業がなかったという事を起点に、働くため、生きるために、状況に応じて目的を果たすためにきちんと機能する文章の書き方を紹介しています。

これは、目から鱗でした。と同時に確かに、小学校はともかく、高校くらいでこういう日本語ライティングの授業があったらとても良いなぁと想いました。「読書感想文」にしても、何にも書き方を教え無いで放りっぱなしで書かせても、効果を上げるどころか国語の勉強が苦痛になってしまう人が多いのではないかなと思います。私も一時期小学生に国語を教えていたのですが、母語という、ほとんどセンスで解いていた自分の"センス"をメソッドに落とし込むのはなかなかに大変で、学校で実用的な文章術を学ぶのは納得感も増しそうで良いなぁと想いました。

と、同時に文章が「結果を出すためのもの」と自分はあまり思っていなかったことも思い当りました。およそ自分の気持ちの発散のために文章を書いていますね、特にtwitterなんか「読む相手を動かす」ということについて考える人はやってられないのではないか等とも思います。

「結果を出すため」にしか文章を書かない人ではない、半ば生理的に活字を読み書きしている自分にとって、逆に「読み手が何を求めているか」「文章を読んだ後読み手にどう思ってほしいか」、つまり「この文章の"結果"は何か」を考えるというのは新鮮でした。

まぁ、このサイトが長続きしているのは「結果」を考えなかったところも大きいと思います。私が19の時からやっていますから、休止期間も含めればもう10年以上やっていて、累積アクセスは30万を超えていますが、やれ「アクセスを物凄く稼いでアフィリエイトだ」みたいにやっていたら、つまらないし辛くなりそう。逆に言えばこのサイトをやっている目的は「自分が読みたいことを書きたい様に書く」ことが出来るからとも言えるでしょう。

ただ、昔、特に始めてから休止するまでの間は、完全に自分を知らない人向けにblogエントリを作成していた気がします。内輪受けにはしたくないというか、やるなら一般的な広い人々に向けて書いていた部分が大きかったですね。

逆に今はもっと私的な、自分の興味のあるところを、そこまでウケを気にせずに書いている気がします。読者の想定はtwitterで繋がっている人であったり、同じ番組やイベント、本に興味がある人であったり。毎日更新しているわけでもないので、毎日見に来る人というのは想定していないし、twitter経由で来る人数の数もフォロワーが1500人位いる割にはせいぜい10人位(これはやりとりをしている人の数には近いかもしれない)ので、現在は"公"を意識せずに書いている部分が大きいです。

自分がやりたい事と、社会で必要にされウケる事と、自分が出来る事はそれぞれ異なっていることは多々あり、「自分がやりたいことで評価される」というのは至難な業な気もするなぁなんて想います。社会の中では感覚で話すだけでは意見など通らず、如何に論拠を張って意見を通すかが大事だなぁと仕事の面では思いますが、声の大きい人間の意見だけが通る世の中も息苦しいですから、このblogくらいは己のふわっとした感覚を残したいです。

あぁ、一つ目標はあります。それは特に更新しないでも過去記事だけでアクセス集められるような"ロングセラーエントリ"を書いていきたいという事です。敬愛する先輩のblogが毎日100アクセス集めているそうなので、取り敢えずそれを目標にしたいですね。今は更新しない日だと30/dayなので、この三倍か…。昔さんざん書いた個人ニュースサイト時代のニュース羅列記事は今はもうまるで読まれません。速報性ではなく、恒常的に残るような記事を書くことをどこかで心がけたいですし、そういった"結果"を出すためにはズーニーさんのおっしゃるように"読者は自分に何を求めているのか"やら何やらを考えなければならないのかもしれませんね。

ちょっと振り返ってみると、大学の頃は仲間もmixiやらblogやらやっていましたが、今は誰か書いているなんてのはまるで聴かなくなりました自分が今も書いているのは、今は私的といいながらも、やっぱり公に向けて面白いものを書くという初期理念と、結果を求めて書くのではなく、半ば排泄行為のように日々活字をI/Oする指向性があったからかもしれません。何かしらの生活の跡、身体的・精神的な営みの痕を残していけたら幸いです。



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# by wavesll | 2015-02-26 23:52 | 小噺 | Trackback | Comments(0)