平成二十六年の夏、私の音楽的興味はノイズへ向かっていました。

きっかけは2年前くらいからのDommuneの視聴で宇川氏のノイズ好きが伝染したという事と、フリードミューン等で初めて音を聴いた非常階段が手掛けたBiS階段が試みとして結構気に入って、あれよあれよという内に気づけばノイズを好んでいたという所です。

そこでこの記事ではそんな俄かノイズリスナーが気に入った"広義の"ノイズミュージックを3枚紹介したいと思います。

1.shotahirama
とりあえずsoundcloudをお聴きください。いきなり真打、バリバリ現役の音楽家shotahiramaです。

私が彼を知ったのは渋谷タワレコに置いてあったスプリットシングル(リンク先後半がshotahiramaの楽曲部分)を試聴した事でした。というかその場で買いました。

一気に気に入り他の音源も揃えようとしたのですが、どうにも評価が高そうな『post punk』が売切れてるんですよね。iTMSなら買えるのですが、どうせならwav音源で欲しく、amazonでプレミア価格払って手に入れるか思案中です。前述のスプリットシングルも300枚限定で、今現在の最新作もカセットのみで販売と、売り方も本当に今っぽいなと思います。

彼の産み出すノイズ、特にpost punkとcassiniからはきらめく美しさを感じ、単音で打ち込まれるしなやかな強度も大きな魅力になっていると感じます。新作ではドローンらしく、これはカセットプレイヤー買って売切れる前にテープ入手しなきゃ!という感じです。

2.Chris Watson - El Tren Fantasma
元キャバレーヴォルテールで今はBBCの録音技師のChris Watsonが2011年に発表したこの作品はメキシコの幽霊列車での旅をテーマに、実際にフィールドレコーディングした音素材を駆使して創った架空の旅のサウンドドキュメンタリーです。

虫の音や風音もありますが、ノイズ的な聴きどころは車輪や車体が軋む音。穏やかなアンビエントにノイズが自然に混じり、心地よい音像をつくり出しています。Youtubeを紹介していますが、つべは音が悪いので、出来ればCDで聴いて音世界に浸っていただきたい一枚です。

3.HIGH RISE - PSYCHEDELIC SPEED FREAKS
3枚目は80年代から活動する日本のサイケデリックノイジーロックバンド、HIGH RISEのアウトテイク集、『PSYCHEDELIC SPEED FREAKS '84-'85』です。これはもう聴けば一発で分かるノイズ爆音、たまらんですな。

このアルバム、Amazonにもマケフリにも入荷してない幻状態なのですが、先日神保町のジャニスに置いてあるのを発見し、聞くことが出来ました。他の曲も佳曲がいくつかあるので、気になった方で東京周辺の方は是非checkしてみてください。


さて、いかがでしたでしょうか、王道というよりかは広がりを持った形でのノイズ3枚。
最後にBiS階段の後に聴いて一気に引き込まれた、ノイズの煌めきを味あわされた音楽で〆たいと思います。
Lou Reed - Metal Machine Music
ノイズミュージックの元祖、"曲間の無音部分の一瞬がまるで性交中に秘部をかきまわされているときに急に動きを止められたかのような感覚のようとはこのことか"というレヴューをどこかでみて、うーむと唸らされた100%ノイズ音楽。いやー、ノイズって本当に好いものですね。
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やっぱり人類は滅亡することがNASA出資の調査で判明。資源浪費と貧富二極化で

お久しぶりです。色々ブログに書きたいなと思う感銘を受けるイベントなどは多かったのですが、140文字で書いてしまうと意欲が発散されてしまいなかなか更新できてませんでした。

そんなtwitterで流れてきたのが上のリンク、理系の学術専門誌「Ecological Economics」に掲載中の論文をもとにガーディアンに載った政策研究開発研究所事務局長のナフェーズ・アーメド博士の言葉によると先進国に多く住むエリートによって資源浪費と貧富二極化がもたらされ、現在の文明は過去5000年の間に隆盛した文明と同様に崩壊するそうです。

爛熟する現代文明の余波は、近年とみに増えた猛暑日によっても感じられます。気候変動によって今世紀末には地球の多くの地域が人間が住むには適さない環境になってしまうという研究もあるそうです。

311の際、Eテレに出ていた学者が"文明災"という言葉を使って原発を批判していましたが、うーむなかなか、そして徐々に生活レベルで環境が変調を興している様にも思います。違った視点で言えば鰻の絶滅の危機(なにやらマグロも怪しいらしい)も、先進国に棲む我々のライフスタイルが持続可能なシステムになっていない事の顕れになっていると感じてしまう今日この頃です。

さて、"ポスト文明"なんて大きなくくりで語るのは私にはあまりに巨大すぎる話なのですが、たまたまそのニュースがtwitterで流れてきたとき、録画していた佐々木希のバリ島滞在番組を私は見ていたのでした。

バリ舞踊に挑むことを主軸に、舞踊の先生との心の交流、信仰と平等を大切にするバリの暮らしなどの、東京地方からするとゆったりとしたバリの生活様式をみて、サステイナブルなサイクルを維持するにはこれくらいのスピード感がいいのかなぁなどと素人目に思っていました。先生が言うにはそんなバリも資本が入り昔からの土地がどんどんホテルになるなど文化が消えて行っているそうで、美しい文化が消えていくのは残念だなと思うのですが。

思うに、現代社会がスピードを増していく主要因は都市への集中に尽きるのではないでしょうか。都市への集中、言葉を変えれば自然からの遠ざかりが、"楽しさ/満足"を得るためにマネーが必要にどんどんなっていくスパイラルを生み出している様にも思います。

海が近くにある、あるいは山が近くにある生活が日々にもたらす美しい満足感から遠ざかり、狭い部屋や凝縮した街並みの中で体を満足に疲れさせることが出来ないと、夜が深くなりエネルギーや快楽エンタメをどこまでも消費する生活リズムを形成しているのではないか、などと感じ、まぁ平均寿命位生きれば21世紀中盤を生きる人間として、自然/都市、物質/情報/精神のベストバランスを探っていく事、経済的な折り合いと取捨選択、ままならぬ"運命"の中泳いでいくすべを、身体を意識することで実現していきたいなと考えています。

もっと端的にいえば30代半ばまでメガロポリスを愉しんだら、もう少し自然のあるところ(それでも最近は通信と配送インフラ、SCが整備された地方都市があるし)や海外に棲みかを求めてもいいかなと、最近アラサー同士と話していると感じます。その為にどの土地でも食っていける専門技術とアイディアの編集力、そして文化の翻訳力をトレーニングしていかなければ、日々積み重ねていく事と何かを始めるまで時間を短くする心の筋力を鍛えるのを目標に、今年後半をやっていきたいなと思いました。

あと自分自身がメディアを通じて情報を発信する事で、今までは特に何も考えずにやりたいことを霧散していたのですが、これからはもうちょっと"結果を出すこと"を意識しながら鴎庵も更新していきたいかな。もうそろそろ(ブランクはさむけど)初めて十年超えそうだし。

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連休中にトーハクの『栄西と建仁寺展』へ行き、平成館で俵屋宗達の雷神風神と、本館で尾形光琳の風神雷神をみた数日後に出光美術館で酒井抱一の風神雷神をみて、そして一昨日再びトーハクで宗達と光琳の風神雷神を見てきました。

俵屋宗達の風神雷神、第一運動のデザインは白と緑が肌と衣服などのアイテムで対称となっていて、素晴らしいデザインだなと思いました。

根津美術館で燕子花図屏風もみたりしてアートづいていた皐月だったのですが、琳派のデザイン性には舌を巻きますね。

3幅の風神雷神、第一印象では宗達はさすがに一番凄い、凄みがありつつユーモラスで、こんなこといったら素人っぽいけれど素人だからいいかw鳥山明の画風というかデザイン性って宗達の系譜なんじゃないかって思ってしまいました。

その後本館で観た光琳は、写真が撮れたのは嬉しかったのだけれども、第一印象は軽い印象。たぶん色の具合だと思うのですが、ちょい軽いなと。ただ改めて回2度目に見た時はあぁ第一運動から2nd verを作るために苦心し特色を出したのだなぁとだいぶ感心しました。

抱一の雷神風神は他の2品よりも姿が大きい印象。叢雲がカッコ良かったです。

そんな感じで東京に3点揃った琳派を愉しんだ帰り、渋谷駅の構内に可愛い雷神風神が展示されていましたので終わりにその写メを載せたいと思います。

海洋堂のフィギアもトーハクで売っていて、雷神風神モチーフに立体化した別の作品として面白かったです。アキバの中古品よりも箱ついてるのに新品安かったし、気になる方はトーハクチケット売り場前のグッズショップを覗かれてみてください。


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恵比寿リキッドルーム2FのTIMEOUTダイナーの横にあるスペースKATAでのteebs展に行ってきました。

大体7時前あたりについて、入口の物販の処でバッチ型音楽プレイヤーを受け取ります。中にはteebsがこの展覧会の為に用意した20分間の音源が入っています。うむ、いい感じ。

中は写真自由だったので結構撮っちゃいました。





どれも印象的だったなぁ。

物販コーナーも充実していて、さっき書いたバッチ型プレーヤー(音源入り)が2000円、日本未発売のMixCDが1500円、Tシャツが3500円、1stと2ndのヴァイナルなんかも売ってました。

ロビーへ出ると、なんとteebsが飲んでる!通訳らしき人と話してるのをちらちらみてて、意を決して話しかけてみました。「もしかして、teebs?」「貴方の音楽に感動しました」「とてもクールな音楽だった」とかつたない英語で話しかけ、向うもクールとかいってくれたけどようわからんかったのが悔しい!握手して、新譜『E S T A R A』を見せたら喜んでくれた!

一旦恵比寿駅まで戻ったのですが、20:00からレセプションがあるのでやっぱ行ってみるかと引き換えし、レセプのワインを飲みながらスピーチを聴きました。会場は人で一杯になってました。

この展覧会はLAでやったものを東京に持ってきたもので、『訴えかけるモノ』を基準に選んだレコードのジャケに描いた作品を展示しているとの事。2万円から作品自体も売っているそうです。

Teebsの写真まで取らせてもらって、「Brainfeeder4に行くよ」と声かけて、帰ってきました。やー、ロビーで握手できた時は感動したなぁ。5月の新木場が楽しみです。

この展覧会は明日までで、明日はteebsを交えたトークイベントもあるそうですよ。



追記



やー、今日も来ちゃいました。会場で聴ける音源が気に入ってしまってまた聞きたくて(なら買えよ

グッズとしても魅力的だったんだけれども。でもこの音源はこの展覧会の空間で聴くのにとどめた方がスペシャルな感じが保たれていいのかなとも思って。



じっくり音源を堪能しながらアートをみてました。レコードジャケに上書きしたコラージュ作品、なかには松山千春のレコードもあったそう。俺気付けなかったけどw


で、わざわざ2日連続して来たもう一つの大きな理由が、teebsのインタビューが行われたのです。渡辺克巳(BRUTUS)さんの呼び込みでteebsと竹村卓(ライター/編集者)さんが入場し、竹村さんが質問する形で進みました。その後観客からの質疑応答もあって、結構観客の皆さんからのteebsへの質問がツボをつくものだったりして面白かったです。

以下に思い出せるところをつらつらかきたいと思います。

幼少期はどんな感じでした?
カリビアンミュージック、ジミヘンドリクス、ジェイムスブラウン、ダンスミュージックなどが好きだった。
人に対し気配りする子供だったが、付き合っていたのが悪がきたちが多かったのでトラブルなんかも起こしたりしてた。

絵を描き始めた後に音楽を作り始めたのですよね?
最初はアクリルなんかの安価な素材で描いていた。今回の様なコラージュ作品を作るようになったのは、サンプリングで音楽を作っていることと関係しているかもしれない。素材を探して加工するという行為は関係あると思う。
今回の展示の絵は全部で400点あって、50づつアルバムのように纏めている。4というのは自分にとって大切な数字で、絵の中にある4つの矢印なんかも自分のしるし。
今回使ったレコードは、水でぬれてたり汚れたりして安く売っていたのをたくさん手に入れて加工したもの。
この展覧会はこの後オーストラリアとロンドン、サンフランシスコでも開かれる予定。

Ante Vosというタイトルの意味は何ですか?
作品が作品になる前という意味だったり、作品として完成する前のもとのレコードの意味だったり重層的な意味。

地元ロサンゼルスはどんなところですか?そこから作品に影響されたりすることはありますか?
LAは砂漠にあるオアシスみたいな巨大な街でいろんな人たちがいる。影響を受けていると思う。音楽とか、画家とか面白いけれど、LAの全てが好きなわけではなくて、ハリウッドなんかは整形されすぎで好きじゃない。

何か影響を受ける様な好きなアーティストはいますか?
レイ・バービーとクートマが好き。影響を受けていると思う。またスケボーからの影響を受けることもあると思う。またアーティストからは作品からというよりもパーソナリティから影響を受けることの方が大きい。アーティストは何でもやっていいわけではなく、自分の作品い責任を持つべきだと思う。

色々なアーティストとコラボすることがありますが?
基本的には一人で創っているけれど、絵でも音楽でもコラボすることはあるし、機会があれば今後もコラボしていきたい。

日本はいかがですか?
日本は好き。おにぎりは最高。今回の来日は仕事じゃなくプライベートで、昨日は2時まで飲んで朝築地に行ってその後お台場でガンダムみてきた。火曜には京都にいく予定。

今後の予定は?
5月のbrainfeeder4ではライヴペインティングをやる予定。今年中にミニアルバムをもう1枚出したい。またprefuse73とまた何かやりたい。

絵は、あらかじめ構想を決めて書くものですか?それとも感覚で?
特にあらかじめ決めて描いているわけではない。それで失敗することもあるけれど、それも味だなと思っている。逆に音楽は作りこみできる。でもやはり失敗も味だなと思う。

dablabのInto infinityは今後も続けますか?
続けたいと思っている。

絵の花とかのマークにはどんな意味があるのですか?
花のマークは、花は人をいい気分にさせるし、絵をかいた時にこのスペースに花があったらいいなと思ったところに描いている。その作品のイメージをまとめる感じで自然に書いている。内なる自然に従う感じ。

以上、記憶違いや抜けもあるかと思いますが、トークを思い返してみました。インストモノは歌詞がないのでこういう形で意図などをしれるのは興味深かったです。自分はteebsの音楽に桃源郷的な居心地の良さを感じて快楽性を見ていたのですが、彼自身はただ刺激を求めてそのためには何をやってもいいというよりももっと人間性を大切に考えていて印象的で感銘を受けました。絵と音楽の相乗効果で非常にいい刺激を受けることのできる展覧会を開いてくれたteebsとスタッフの皆さんに感謝。
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読書ノート1 日本は民主主義でも自由でもない
読書ノート2 言論の自由は日本にはない?
読書ノート3 「空気」メカニズム
読書ノート4 日本人の根本視座、自然・人間・本心・実情・純粋

と、つらつらとメモを纏めてきました。これ以降も『日本教の社会学』では<日本的序列>であったりとか、労働観をはじめとした日本的資本主義の倫理であったりだとか、自殺と許しであったりだとか、明治維新を達成するために作られた浅見絅斎の学問など、なかなか興味深い話が続くのですが、ひとまず前回までで私にとって最も印象的な部分は書き残したので、このエントリでは本全体の感想を述べたいと思います。

前回のエントリでも書いたのですが、この本に描かれる日本教徒の姿、非常に自分自身の考え方の背後にある思考法だなと思いました。

特に読書ノート1に書いた『民主主義』・『自由』の概念、読書ノート3の『空気』、読書ノート4の『自然』観などはハタと膝を打つ場面もありました。

一方でこれらの事柄が果たして日本独自のモノなのかというというとちょっと疑義が挟まれます。
想いだすのは大学時代、研究発表の場である発表者の子が日本庭園と西欧庭園の違いについて語っていた際にある白人女性の教授が「日本人はすぐ日本は特殊だというが、"日本庭園の独自の特徴・思想"は西欧にも同じものがあったりする、日本は独自だという主張は安易な主張なのではないか」とコメントしていたことです。

文章によって理論的に描かれる事柄は、どうしても現実抽出するものですし、そうでないと理論になりませんから、どうしても細かい話は捨象されてしまいますが、実際には案外、この本で語られる『日本教徒』の思考法って他の国でも応用効くのでは?と思いました。その意味で読書ノート4でも書きましたが、海外の人に表してもらいたいなぁと思いました。

また海外の話で言うと、主に出てくる"海外"として欧米、中国が挙げられていますが、今の時代で考えるならば東南アジアや中東、あるいはアフリカなんかの事例も合わせて分析をかいたら面白いのでは?などとも思いました。宗教で言うとヒンドゥー教やイスラーム教の視座もあったらいいな、と。

またこの本が書かれた81年から比べると、2014年現在の日本は、終身雇用も崩壊していれば、インターネットによって海外が近くなったりだとか、『日本的社会・日本的共同体』も様変わりしている状況にあります。なにしろ移民を入れようだとか、多国籍の人と共に働く職場もあったり、逆に日本の文化が世界に広がった食文化やアニメなどの事例もある時代なので、今の時代の『日本教』論が書かれることが待たれます。

小室さんほどの様々な分野に精通した博覧強記の方はなかなかいらっしゃらないと思われるので、多分野の研究者の共著・あるいはパネルディスカッションの編集によって書かれると良いかもしれません。

あと、これ言ったら顰蹙かもしれませんが『日本教の社会学』に感じた一番の懸念は『博覧強記の二人の対談だけれど、なんか勉強で知った知識だけで、実際の人間の機微に疎くない?』でした。偏見ですが研究者は理が勝ちすぎて情の力学に弱い感があります。今こういった日本人論を書くなら、研究者数人とマツコデラックスやらおぎやはぎやら絡ませて世慣れた人間の意見も入れるといいかもしれません。

私自身は、日本に生きづらさを感じる身でもあったりするのですが、本書に描かれる事柄を<日本教徒の社会で生きる上のマニュアル>的な本として、興味深く読むことが出来ました。日本人の思考フレームというか、『日本教徒の取り扱いかた』みたいなマニュアル本を、海外の日本で働きたい人や日本研究者向けに、簡略化と現在にブラッシュアップしたものを著するのは、結構需要あるのでは?この本の様な大きな理論は読んでて面白かったです。

一連のエントリで本書に興味を持たれた方は、アマゾンでは高額で取引されていますが、図書館などにも置いてあるので、是非手に取られることをお勧めします。時代は変わって日本社会も変わりつつありますが、現在でも大いに通じる論点が数多く示されている良著だと感じました。
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読書ノート1 日本は民主主義でも自由でもない
読書ノート2 言論の自由は日本にはない?
読書ノート3 「空気」メカニズム
さて、『日本教の社会学』読書ノートも第4回となりました。今回も気になったところのメモ(黒字)と私のコメント(赤字)で書いていきたいと思います。

サクラメントとは
サクラメントとは救済のための儀礼。サクラメントをすれば教会が救済を請け負ってくれる。
カトリックには洗礼堅信聖餐告解終油叙階結婚と7つのサクラメントがあり、これはみな一種の宣誓で、奥儀への参加である。
一方プロテスタントには聖餐と洗礼の2つのサクラメントしかない。

もちろん日本教にはキリスト教のサクラメントに対応する儀礼はないわけだが、サクラメントと同様な社会的機能をするもの、これはあると思う。それを構造神学的な日本教のサクラメントと呼ぶことにして、それについてこれから論じてみたい。

サクラメントは一種の通過儀礼のようなもの。サクラメントを通ることで今までと違う状態になるという事。日本教の中でそういったものは何であるか。機能社会構造の連関で見れば聖餐は"人間"、洗礼は"自然"、懺悔・告解は"本心"ではないか。

自然

日本人が自然と言った場合と西洋人が自然と言うのと全然違う。
日本人の自然という言葉は、自己の内心の秩序と社会秩序と自然秩序をひっくるめた言葉で、この3つは一致すべきもの、一致したものであるというのが基本的な意味。以上3つが全部自然。

だから「自然を尊べ」といった場合、どの自然をいっているのかわからない。「ごく自然にやらなければならない」「あれのやり方は不自然だ」「社会がこんなだとは不自然だ」これ全部基本が同じで、絶対的規範となっている。

これはキリスト教的な考えからはおかしい。そうなら人間の自由意思はなくなる。
テリッヒが述べるところには、「人間というのは自然的必然の過程で生きているものではなく、歴史的必然がある」。しかし日本人には歴史的過程がなく、みな自然的必然論。

「どうしてそういうことをしたんだ?」「うん、ごく自然にこうなっちゃったんだ」と。
何事も自然現象と理解したら、人間には自由という概念はなくなる。

一方、中国語にも日本語の「自然」にあたる言葉はない。
中国語では、人間以外の自然を「天地」といい、人間の内なる自然、つまり人間本来の素質を「性」という。
日本と違い、儒教と道教では自然に対する評価は異なるものの、そのまま規範化されることはない。

日本では自然がそのまま規範化される。つまり自然のままであるのが何より良い、とされるからそういうことになるのだと思う。だから日本教徒は自然であれば救済されることになり、サクラメントの機能をする。

中国ではこうはいかない。儒教など大部分の諸家の説には、礼学、すなわち人間の作った文化こそ尊ぶべきもので、生の自然は否定されるべきもの。

これに対し道教では人間の作った文化を否定し、自然尊重で日本人の自然観と相通ずるものがあるが、よくみると実はそうではない。道教が尊重する自然とは、道教の方法論によって制御された自然であって、ありのままの自然ではない。だから道教では仙術を習得しこれにより超自然的存在を自由にしようとする。

だから道教が重視し規範とするのは自然でなく超自然。
そして超自然的存在である天界が中国社会そっくりに作られている。皇帝(天帝)がいて官僚制度があり、官僚は職務に忠実でなく賄賂も取れば悪事もする。だから天界にも刑務所もあれば死刑もある。
地上の政治制度=礼学そっくりに作られ、これが理想である。

ユダヤ教・キリスト教では天地の始まりは神が造った。日本では神が産んだ。中国ではいつのまにか始まっていた。

聖書では人間は神の被造物なので、元来、自由意思はないはず。しかしアダムとイブは違った。これをどう考えるかは面倒な問題だった。ラビ・アキバはこれを借金と解釈した。神が無限に持つ自由意思を人間に貸してくれている。ただし借金には契約がある。この契約が律法でこれに違反すると最後の清算の時困るぞと。

人間には借りている自由意思があるから、今、自由意思がある。創造と自由、被造物と自由の関係をこう捉える。ただし動物にはそれがない。そこが本質的な違いで人間と動物を分ける。人間がなぜ人間でありうるのかという基本問題をそういうふうに解釈している。

そういう社会における自然の概念は、大変に自由と対立する概念。だから自然も本質であるというならまた自由も本質であるというわけ。「人間が自然に近づけば近づくほどそれがよろしいんだ」というような日本人のような発想は出てこない。

自然というのは、日本人にとっては完成された状態であり、これが規範としての自然。
自然がそのまま規範化される。日本での「自然」とは、一方においては「ありのまま」だが他方においては「あるべき姿」で、それが正しいとされる。

ところが自然の規範化は矛盾を内包する。つまり「ありのまま」が自然だとして、この論理を推し進めていくと、不自然なものもそこにあるわけであすから、それを含めてありのままが自然だということになってしまう。これが正しいのか正しくないのか。日本人の自然観には常にこの矛盾がついて回る。

中国の場合はいわば自然は無規範。中国において人に対比されるのは禽獣。人と禽獣の根本的相違は、禽獣には規範がないのに人にはこれがある。だから、人が規範を失えば禽獣に等しい。
中国における自然とは天地だが、禽獣の居場所は地。つまり自然の少なくとも一部は無規範。これでは自然はそのまま規範化されようがない。

さて、日本人における『自然』ということ、ここら辺で少し小休止しましょう。どうやらこの『自然』。ただ単に『天然自然』であるだけでなく、自分の内心や社会のありようと言った『人間』にもまたがる概念であるというところが、西欧とも中国とも違う日本独自の部分というのが、山本小室両氏の意見の様です。

私自身も例えば環境問題なんかを考える際の思考フレームとして「でも人間だって宇宙の一部なのだから、人間が自然にやってしまうのも仕方ないのでない?」なんて考えたこともありました。

おそらく、この社会自体をまるで自然現象の様に捉え、そして自然ならば仕方ないとする日本人の性質が『日本人には作為の契機がない』という読書ノート123で論じられて生きたことを生んでいるもの、ということが今後論じられるのではないでしょうか?なんて考えながら、続きをどうぞ。


本心
中国には「本心」という言葉がない。中国人にとって「本心」なんかどうでもよく、決定的なときにしかるべき行動をとるかどうか、これがすべて。
親孝行であるかどうかの判定基準もそうだし、友人の間の「信」もその通り。そのマニュアルが準備されていて、その通りにするのが「信」、そうしないのは「信」ではない。

契約のある社会にも「本心」はない。契約を守るか守らないかだけで、「俺は本心では…」といっても誰にも通用しない。日本では本心がなければ社会から排除されるから「お前の本心に聞いてみろ」なんて言われて「俺は本心なんてない」といったら御終い。じゃあ本心とは何ぞや?

日本では「本心」という言葉はもともと仏教用語として古くからあったようだけれども、徳川時代の儒教系の学者は大体これを「性」といっていた。それでは庶民にわかりにくいだろうと、梅岩の弟子の手島堵庵が「本心」と言い直した。これはやはり内心における自然の秩序。だから不自然ではいけない。これはやはり内心における自然の秩序で、不自然はいけない。

本心はあるのかないのか、本心の基本は何かを梅岩は懸命に追及する。
彼は人間から何もかもはぎとっちゃったら最後に何が残るだろうと、赤ん坊を見に行く。

赤ん坊は呼吸しているだけ。自分の意志で呼吸しているわけではない。この呼吸をさせているのは宇宙の秩序のはず。人間を呼吸させて生かしている宇宙の継続的秩序がすなわち善だ。

だから、天然自然の秩序がすなわち善であり人間がその通りにあるのが善であるから、赤ん坊は善。そういう状態の時の心の状態を本心という。

本心通りにしているのが自然。不自然なことをしてはいけない。じゃそのマニュアルがあるかというと、別にない。だからいったいどうすればいいのか、ということになる。

自然に対しての不自然のような、本心に対しての非本心は内心の意味に使う不自然のこと。「あいつは作為がありすぎる」のような。

そうなると自然という事を本心ということは対応してないといけない。だから本心というのはそのままの心ではなく、規範化された自然に合致する心の状態。

それでは規範化された自然にならないようなものは何か。また本心にもとるような心の状態にせしむるものは何か。

私自身の、海外のフォーラムで色々な意見を読んだ感想で言うと、欧米にも「本心」というような感情概念はあると思います。山本さんも小室さんも、海外の事情は知っているのでしょうが、(特に小室さんは海外留学もされていますし)どうも日本を特殊化しようしようというような印象をこの本からは受ける部分は多々あります。

逆にいえばこの本で描かれる精神のありようは、もっと汎用性のあるものにもなるのではないか?海外の人々にも読まれるような機会がこの本に訪れればいいなぁと思います。現在は海外で読まれるどころか日本でも絶版でアマゾンでは2014年4月8日現在では47,750円ですが…。

実情
自分の情に対して正直であるのが、本心に対して正直だという事。
梅岩は、父が羊を盗めば子はアッと思うだろう。思った瞬間、これを隠してやりたいと思うのは子の情であろう。この時の実の情、実情が日本教のサクラメントの一つとして出てくる。

梅岩はその実情と事実をはっきり区別して、実情に正直なのが本心に対して正直でよろしい。事実を事実として行為するのは本心に対して正直でなく、よろしくないとしている。だから情緒が動くままに規範化される。

本心から犯罪を犯したいと思ったら、それが自然であるから当然となるが、それでいいのかという問題が起きてくる。これが情緒規範というものの最大の問題点。

これが一番よく出てくるのが「政治も情が基本である」といった西郷隆盛。政治は情の推にして、情の積み重ねであって、それ以外のものではない。と。

純粋人間、できた人間

西南戦争の直前にし学校の生徒が兵器庫から武器弾薬を奪う。その報告を受けた西郷には、「法に違反したんだから法は法として県令に突き出す」か「政治は情だけであるから、情に於いてしのびずで盗んだし学校の生徒と行を共にする」かの選択肢があった時、西郷は絶対に情をとる。

この身一つを打ち捨てて、若殿ばらにむくいなん、とされたら日本人は痺れてしまってもう何もいえなくなってしまう。西郷が日本人に圧倒的に人気があるというのもここ。ここで理屈を言ったら興ざめ。西郷が僧月照をかばいきれなくなったとき、薩摩潟に入水した。それ以外何もない。

西郷は純粋人間だからみんなから愛される。つまり、あの人は純粋だとか、不純だとかいった場合、情緒規範に対してあくまでもその通りに反応しているか否かの問題ですから、西郷の生き方は純粋。

人間は「純粋」であれば、どんな悪いことをしても許される。この意味で「純粋である事」は日本教のサクラメントの一つ。

純粋人間というのは簡単にいうと情緒規範だけ、ある意味で空体語だけ。しかし普通の人間は実体語の方でバランスをとっていなくちゃならない。

純粋人間の定義を整理すると、
1.情緒規範の人間
2.空体語の人間
3.教義学を持たない、つまり組織論的発想を持たない人間

そこから浮かび上がってくる「できた人間」というのは実体語の方にも対応し、同時に情緒的反応しかしない人間にも「わかった、わかった」といわなければならない。つまり「できた人間」とはいわゆる情緒規範じゃなくて自然規範でやらなければならない。

すなわち、規範としての自然じゃなくて、不自然の入った自然としての自然が規範になってるような人間。だから、ある程度不自然も認めてやる。これはもう純粋じゃないので「できた人間」とは少々不純な人間。なので不自然なる組織論的発想も無視しないということ。

同時に、実体語だけで対応しているけれども、ある程度空体語を相手に渡してやるような人間でないと「できた人間」ではない。つまり「できた人間」とは純粋人間の対極にあるんじゃなくて、純粋人間とその対極の不純人間のバランスにある。完全に不純人間になってしまうと「まだまだ人間が出来てない」となるので、バランスが取れてないといけない。

この『純粋人間』の下り、「でもこういう人が身近にいたら厄介だと思われてしまうだろうなぁ」と思いながら読んでました。だから『できた人間』が出てきて「そうそうwそうだよね」と思いましたw

物語や記事、文章を通しての理想の人間像とその反応と、実際に相対する人間に対する反応って違いますものね。この本は1981年に書かれたものなので、インターネットの影響は全くない状況なのですが、インターネットによって例えば芸能人なんかも神秘のヴェールが剥がされて、ただ単なる『純粋人間』ではいられなくなっていて、「芸能人と一般人は本来行動原理・精神が違うのに…」という声がでている現状をまたこの二人に分析してもらいたいなぁなんて思ったりしますね。

インターネットによる社会の変化は、まさに現在進行形でどんどん動き、さらに言えば技術の進化、プラットフォームの変化が目くるめく起きるという点でなかなか総括は難しく、先の予想も難しいですが、何かいい書籍はないでしょうか?もしあればぜひ拝読したいので、どなたかご教授ください<(_ _)>

本当に最近思うのは、SNSの発展によってコミュニケーションが娯楽としてどんどん時間をとるようになって、コンテンツもコミュニケーションを前提にしたものになっていく傾向が、自分の可視範囲だとあるのですが、その方向は芸能や研究にとって果たしてよいことなのだろうか?なんて最近は考えています。孤独の中で研ぎ澄まされる感性や精神の発露が、なぁなぁに塗されてしまうのではないか、なんて。

ビジネスとしてはコミュニケーションは性的快楽と比する位の脳内麻薬が出るようなのでガンガン利用されていくのだろうなとは思うのですが…。ただ一方でSNS疲れみたいなコミュニケーション方への反動も出ているので、仕事やら家庭やらで時間が取られる一般の社会人の話というより時間が自由な学生・子どもの文化に顕著となっていますが…。

彼等(私も20代なのでぎり含んでもいいかも)が創るカルチャーは社会を変えていくのか?それとも高齢化とカネの偏在から日本では鈍重な変化になるのか?気になる處です。

といったようなSNSの話をしたのは、昔mixiで「日記読んだらいいね!押せよ!」とやってしまい大ひんしゅくを買った恥ずかしい思い出があるんですよね、私(苦笑)。これを「信」のくだりの、こういうときはこういうことをするのが朋友という中国人の考えと、「本心」を大事にする日本人の感覚という視点で考えたら、「俺、チャイナっぽいw」と思ったのです。

というわけで、また次回お会いしましょう。おそらく、次の読書メモで、大体私がこの本で面白いなと感じたところは纏めきれそうだと思います。


読書ノート5 軽く総括
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読書ノート1 日本は民主主義でも自由でもない
読書ノート2 言論の自由は日本にはない?


さて、桜満開の季節、いかがお過ごしでしょうか。
今回のエントリでも『日本教の社会学』から気になったところのメモと、その部分に対しての私のコメントを記しておきたいと思います。

日本教的宗教観
日本人の素朴な宗教観は、おそらく浄土真宗の影響だと思うが、死んだ後の面倒を見るのが宗教

明治以前には「宗教」という言葉はなく、仏教は仏法、儒教は儒学と言っていた。
宗教の定義を「特定の行動様式(エトス)」まで広げないと日本教は宗教には入らない。

ユダヤ教・キリスト教、イスラム教においては宗教は不自然であるべきで、自然のままでよければ宗教など出てこない。自然状態では人間は悪いことをするので、自然に価値はなく、神が作為的に決めた不自然極まりない契約にのみ価値がある。

一方、日本人の発想は逆で、不自然じゃいけない。内心の規範まで自然的秩序でなきゃいけない。ヨーロッパでは自然という概念と自由という概念が並立する本質として在るが、日本では自由が自然に組み込まれているので、石田梅岩の言うように"鳥類、獣類のように形に従って自然を踏んでいけるようにしてくれるのが聖人だ"となる。

この宗教観こそが日本教。その分派(セクト)として日本教キリスト派、日本教儒教派、日本教仏教派があり、日本に宗教が入ってくると輸入元とは似つかない日本教的宗教観に飲み込まれ同化してしまう。これは西欧民主主義でさえもそう。

諸宗教は全部薬だ、だからそれを上手く調合して、飲んでしまえばいいんだ。となる。
こんな立派な思想、世界にはない。
"この諸宗教は薬であり、上手く機能する分には飲んで、毒だったらやめる"って考え方はとてもよくわかるし、大概の日本人の"無宗教"ってそういう考えなんじゃないでしょうか。伝道する人にとっては、「結局信じてないんじゃん><」となりそうだけれどもw統治の為、文化の為に宗教を機能させ、溺れすぎないバランス感覚を持てるというのは現代的な考えでもあり、だからこそ変なスピリチュアルやら金満新興宗教やらがはびこる隙を与えてるんでない?とも感じます。

以下ではキリスト教における教義(ドグマ)、救済儀礼(サクラメント)、神義論(テオデイツエー)という枠組みを使って、日本教を分析する。

日本教の教義(ドグマ)としての「空気」

キリスト教の教義(ドグマ)はその内容が一義的に明示されなければならず、社会状況からも人間関係からも独立している厳格で確固たる原則のこと。

「空気」(Anima, peuma)はその内容が一義的に明示されず、何らの原則も有しない。この意味では組織神学的にはこれほどドグマから遠いものはない。

空気は常に社会的状況や人間関係にも依存していて、そこから独立した存在にはならない。

ところが「それが空気だ!」ということになると誰も反対できず、空気に逆らうのはとんでもなく悪いことだとされる。という意味で構造神学的には「空気」は規範的に絶対であって所与性を持つ。

「空気」は無条件にいかなる社会にも発生はせず、発生の為の条件がある。

1)絶対的一神との契約という考え方がある社会では絶対に「空気」は発生しない。その契約のみが規範性を持ち、それ以外の規範はあり得ないから。

2)一般的規範が一義的に明示され、それが社会状況からも人間関係からも独立している社会にも「空気」はありえない

3)歴史という考え方がある社会でも「空気」は発生しない。なぜなら、現在の「空気」によって是非善悪が決められても、いつそれが歴史の審判で覆るかわからない、となると、「空気」の発生は抑えられる。

日本の場合、規範が存在しないのに加え、歴史的「時間」という考え方がなく、常に「今」しかないので「空気」がドグマに成り得る。



教義(ドグマ)の社会学的意味としては、集団加入の為の判定条件。ドグマを満たせばその教団に加入できるし、満たさなければ加入できない。

教義学というのは組織神学と同じ意味。しかし日本には組織という発想がない。
内村鑑三は「神学を学ぶと信仰を失う」と言っている無教会主義だし、浅見絅斎の思想にしても一方に天皇の絶対川、他方に個人の絶対的規範があるだけで、この間をつなぐ組織的発想や契約がない。
結局それをつなぐのが「空気」となってしまう。

それでも戦前は自己の規範と天皇という二極が固定されていたが、戦後は自己の行動規範も何かわからないし、何が絶対なのかもわからないので「空気」だけになってしまった。

空気は規範(ノルム)のような体系性を持たない。規範の体系性とは是非善悪の判定が明確になされること。
この場合にはこうしろとかこうするなとかはっきりしなければならず、「空気」はそういう特性がないから規範とは言えないが、社会学的特性が規範と同じという意味で、規範性があると言える。

規範の社会学的特性とは
1)正当性を有する
2)遵守が要求される
3)遵守しない場合制裁が加えられる
こと

「空気」は流行やムードではない。
日独伊三国同盟の締結も、ほとんどの枢密顧問官が反対だったが、最後の決では空気で賛成してしまう。
彼等は群衆ではないウルトラエリートなので、「空気」は群集心理でもない。

日本教において「空気」がドグマになっている結果、事実判断と規範判断の区別がつかなくなる。

「お前は良くわかってないな、世の中はそういうもんじゃないぞ」というオッサンに「世の中はおっしゃるとおりかもしれませんが、それは正しくありません、改革すべきです」といったらオッサンゆでだこの如く怒るに決まってる。

「人はパンのみにて生きるにあらず」という言葉も、本来は「人はパンのみに生きていないんだ」という事実をサタンにいってるだけなのに、日本では「パンのみに生きちゃならない。神の言葉によって生きなさい」という規範的な意味になってしまう。

そういうような「空気」があるということは直ちにそれが「その空気の如くになりなさい」という意味になり、そういう規範はそのまま事実だというようになってしまう。"事実はこうであり、規範はこうであり"とはならない。

「空気」をつぶす方法は事実を事実としていい、「空気」に「水を差す」こと

「実情」は空気を通してみた事実でなければならず、生の事実を言うのは日本教における背教行為

欧米では事実と違う事を言うのが嘘つきだが、日本でなら「実情」が「事実」と異なる場合には事実と違うことをいっても嘘つきとみなされない。だから欧米人に日本人は誤解される。

「空気」に水を差して潰したら、今度はそれが次の「空気」を作ってしまう。

この書籍における最大の問題は、「空気」の定義を簡潔に述べられていない事。"その内容が一義的に明示されず、何らの原則も有しない”と書いてしまっているので、結局「空気」がふわっとした言葉になってしまっています。

とはいえ数年前に流行ったKYという言葉があるように日本には「空気」というものが大きな靄として存在してしまっているし、それを壊すものは嫌われてしまう事実が存在しています。

つまるところ「空気」というのは日本人の「自分の意見を通すよりも相手に譲ることが良しとされる文化」から生まれた一種の美人投票的な自主規制なのではなでしょうか?日本では出る杭は打たれ、みな横並びが良くてガンガン主張する人間は浮いてしまう。
「みんなこう思うだろうから自分も合わせた方が角が立たない」という意識であり、自分の意見を通して責任を取りたくないという意識から生まれる規範なのではないかと思いました。その結果、結局誰も臨んでいない意思決定が行われてしまうのも美人投票的。


実体語と空体語
実体語がホンネ、空体語がタテマエという静的な関係ではなく、もっと動的にバランスをとるメカニズムをもっているもの。空体語と実体語が天秤の両側に乗っているイメージ。

生物学的な人間が社会学的な人間として機能するためには空体語(理想的・理論的願望?)と実体語(事実と思われている事?)のバランスを取らないといけない。

空体語即空気ではなく、空体語と実体語がバランスをとって人を社会学的に機能させている状態が空気

太平洋戦争末期は無条件降伏という実体語と一億義玉砕という空体語でバランスをとっていた。
60年安保騒動では安保はどうしても必要だという実体語に対して安保反対という空体語でバランスを保っている。

そしてバランスがとり切れなくなった場合(事実に対して空体語を載せきれなくなった場合)、天秤がガラガラガッチャンして実体語も空体語もなくなってしまう。

また実体語がしぼんだ場合、空体語もしぼんでバランスをとる。
公害によって無機水銀がアジにあるからアジを何匹以上食っちゃいけないという実体語があった時は空体語も大きかったが、18世紀のアジの標本にも無機水銀は存在するんで公害と関係ない、となったら空体語もすっと消えていく。

天秤の支柱である人間が信頼できなくなった時はどうなるか?その場合でも新たなバランスを最初は取ろうとするが、取れなくなったらガラガラガッチャンとなる。

実体語と空体語の応用問題・日本のマスコミ
日本の新聞は必ず政府を悪くいうものとして相場が決まっている。政府を褒めたら御用新聞と罵られる。

欧米では極右から極左まで百花繚乱、当然、その新聞が支持していた政党が天下を取れば政府支持に回るし、そうでなくても個々の政策を新聞が支持したりその成果を高く評価することもある。

日露戦争に勝って焼打ちに合い、沖縄返還を取り付けて叩かれる。業績を上げればあげるほど悪く言われる。

明治維新以来の奇跡的躍進、これは誰も否定できない。これが実体語の背景。しかし薩長藩閥の強権支配からストレスがたまる。この緊張関係から政府は偉大だが国民が自由に攻撃しうることも必要だとの要請が生まれる。そこで空体語は必然的に、何が何でも政府が悪いということになり、政府の業績が大きくなればなるほど空体語の方もエスカレートせざるを得ない。

それでバランスとれなくなってガラガラガッチャンやって、また別の問題でバランスをとるようになる。こうなると新聞は前に書いたことをすぐ忘れたふりをしないとやっていけない。

これが書かれている当時は高度経済成長からバブルへ向かう経済が上向いたときだったこともあるのでしょうが、慰安婦問題なんかも、政府をこきおろす、日本人のアガり具合に冷水をぶっかけ実体語と空体語のバランスを取ろうとしていたのかなとも思いました。最近は新聞も変わりつつある面もあり、結構問題によっては褒める新聞も出てくる一方、左派新聞は常に批判しかしない印象を相変わらず受けるなぁ。そしてやはり実体語と空体語の明確な定義が書いてないのは問題

読書ノート4 日本人の根本視座、自然・人間・本心・実情・純粋
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この間のエントリからだいぶ時間が空いてしまいましたが、引き続き『日本教の社会学』の気になったところのまとめと私の反応をメモしておきたいと思います。

言論の自由

日本には一種の言霊信仰があり、言葉に呪術的要素がある事をみんなどこかで認めている。戦争中に敗戦主義者という言葉があった。日本が敗けるんじゃないかというと、「そういう事をいう奴がいるから敗けるんだ、演技でもない」と。これが抜けない限り、まず言論の自由はない。
憲法改正についてもそうだ。いってはいけない、議論してはならないということが、いっぱいできて来ざるを得ない。これは戦前、戦後変わらない。
30年後の2010年代までも、原発の安全神話のように言論の自由は日本にはなかったように思えます。そして事実を事実として検証する姿勢がなく、ふわついた言論支配が続くことがこの国にとって不幸なことがわかっていながら、この言霊信仰は今後も続きそう。第二の敗戦とでもいうべき、原発事故を経て言霊信仰自体に公に堂々とNOといえればいいのですがベースとして言霊信仰の文化に日本人はいますよね。

そういうことをすべきだということと、そういうことが現にあるということが混同される。現にそうであっても、そうであると言ってはいけない。公害問題にしろ、平和問題にしろ、差別問題にしろ、言論の自由はないのはこの言霊信仰のせい。アメリカでは戦争中にアメリカ退廃の事実を驚くほど暴いているが、かといってアメリカに対する中世がないということは無い。

実際にそういう事があったという事とそれがアメリカの理想であるという事は全く別だから、アメリカは自国の民主主義の恥部をどんなことでもあばき得る。これはアメリカは自信があるだとか寛容だとかじゃ説明にならない。言葉が魔術の園から解放されているからだ。

さらに、日本では論争してはいけない。相手の人格を無視したときのみやっていい。それ以外は日本では一切やってはいけない。これも言霊信仰から出てくるものだと思うが、言葉とそれをいった人の人格が分離していない。

イスラエルなんかでは大学院生ぐらいのが学会で長老学者を堂々と批判する。だがやられたからといって長老学者が学者としての地位を失うわけでも、学生が学会から村八分になることもなく、社会的に不味い状態になることもない。
日本でそれをやれば学生にとってみれば一種の反乱であり教授にしてみれば人徳がないと。結局喧嘩両成敗。

これでは議論はできない。議論の場では少なくとも両者対等でなくちゃできない。同時にそれによって誰も人格的に傷つくわけではないという原則が確立されていなくちゃできない。
アングロサクソンなんかでは相手の人格に対する言葉と単なる情報に対する言葉と厳重に分けられている。同じようなことを言っても「お前は嘘つきだ」といっては決闘になる。「お前の言ったことは事実と違う」といえばなんでもない。

議論で負けると人間として否定された気になる気が私もしてしまうので、私も日本教徒だなぁと思います。また上の長老と学生の話は儒教的価値観の有無も大きく関わっているのでしょう。自戒を込めて私も年下の私よりも優れている人は素直に尊敬したいと思うし、議論と人格は切り離して考えなければならないと思います。

また日本のインターネット空間での匿名文化というのは、そういった社会的なくびきを外して、自由な言論を展開できるという機能があったからこれだけ発達したのではないでしょうか。昨今はSNSなどで実名文化に大分侵食されつつあり、日本のインターネットも日本社会化されつつありますが、匿名だからできるバイアスの無い論議の自由さと実名の信頼性の、融合ではなく連携が上手くいくシステムができれば好いなぁ。実際twitterやblog、そして2chができて風通しがよくなった部分はあると思います。


しかし日本の場合言葉と人格の分離がないから言葉と言葉が持つところの社会的機能が分化されていない。
また言論の自由が成立するためには、言論は科学的でなければならない。科学的であるというのは、「自分のオピニオンは一つの仮説にすぎないことを明確に意識する事」この意識があって初めて議論の積み上げ(弁証法)が可能で、立場が違った人々の間の協同が有益になりうる。

仮説を立てて、それを証明しようとする以外に科学は考えられず、その仮説を巡って論争する必要があるし討論の過程で負けることも勝つこともある。誰も怒る必要がない。本当の科学者であればいかなる場合でも自分の意見が仮説であることを絶対否定しない。個人の意見においてはそれが単なる仮説以上のものだと思い込んでいるとしたら、それは随分思い上がった態度。

ここら辺の話は非常によくわかります、そのスピード感では現実の権力闘争では敗けてしまうのでは?またそのような穏やかな社会に生きたいものですが、現実は違いますよね。メディアや教育において『分かりやすい・答えの決まった』ことを教えるだけでなく、『答えの出ない問題に対して、とりあえずの仮説を出してそれをアップデートしながら試行錯誤していく』こと、『考えさせるスタンス』でディスカッションや利害調整の場を教育で持てればよいのでしょうが、そのような場はおそらく社会人になってからしかなかなか体験できないのでは。

ジョーク・ユーモアについて
アングロサクソンの国では、文化・信仰・人種を異にする人が沢山いるから、立場を突き詰めればお互いに悪魔で、人間関係がなりたたない。だから「お前もこういう事を言う。俺もこういうことも言う。しかしどうせ両方とも仮説に過ぎないんじゃないか、そう真剣にならないようにいたしましょう」という宣言としてアングロサクソン的なジョークは機能している。一方日本では冗談を言ったら侮辱になり、「冗談いうな」って怒る日本ではユーモアやジョークが論争において入り込む余地がないのは言論の自由がないことの一つの重大な兆候だ。

ここについても少し状況は変わりつつありますね。インターネット言論はだいぶジョークが入り込んでいるし、国際的な企業で働いている人なんかは大分ユーモアをうまく機能させて働いています。ただ中国・韓国へのヘイトと言った文脈ではジョークの入り込む余地がないガチガチな状態。毒舌を駆使するには繊細な配慮がいるので(私自身昔毒舌言おうとしたら誹謗中傷だとさんざんっぱらに失敗したので【苦笑】)難しいとは思いますが、人種間論争を笑いに変えるくらいのジョーク番組をやってほしいw

話は飛びますが最近TVも外国人パネリストが多数登場する傾向があって、ネットでも日本への海外の反応翻訳サイトなんかも隆盛で面白いんだけれども、あぁいうコンテンツと言語学習を組み合わせるコンテンツって上手く作れないかなぁ。日本文と英文を対応させて字幕として出したり、難しい単語には辞典へリンクを張ればただ単なる"褒められ娯楽サイト"ではなくて言語学習にも役立ちそうなのですが…。そういうコンテンツも鴎庵でやってみるってのはありかもしれませんね。


差別に対する言論・社会の反応

「どれが差別用語か」というのも「誰かの仮説」。しかし現状(81年)「差別用語」という単語自体が絶対化している。

「いかなる場合のいかなる差別にも絶対反対するんだ」と言ったら差別撤廃なんてできっこない。アメリカでは差別撤廃の具体的な例として就職における差別、就学における差別、住居における差別の撤廃とか、内容を限定する。そうしなかったら差別撤廃という事は意味がない。

ところが日本ではいかなる差別にも反対というものだから、表面において差別という言葉を使ってはならないと同時に、差別が地下に潜行してしまって、依然として残存するというようなジレンマが必ず起きる。

米国の有色人種地位向上協会には事務所一杯に裁判記録がある。具体的な例を挙げてどんどん告訴する。今はもう裁判することがなくなってしまったんで、次の自分たちの目標にどう立ち向かうべきかが問題になっているところ。日本にそれだけの差別をする法廷闘争があったかと言えば実はない。

法的には明治時代に四民平等で全部撤廃されているが、差別は実在している。

前段にアメリカは理想と現実が異なっていたときにそれを指摘するのは社会にとって有益だと、言霊からの自由という意味で認められていると書いているが、理想を現実に近づけるための道具として裁判というものが機能しているんだなと思った。と、同時に裁判という仕組みすら資本主義の中にあるから、貧民にとっては意味がない者なのではないかと、日本のブラック企業問題なんか見ると思う。経済的弱者が連帯してガンガン裁判起こして行ったら日本の労働環境なんかも良くなるのだろうけれど、弁護士事務所にとっても美味しくない現状では難しいだろう。労基訴訟で簡単に何億もぶんどれるようになれば弁護士やら経営層やらの反応も変わってくるのだろうが。

日本の言論空間が自由でないのは言霊の問題と、この間のエントリの終わりの方で触れた「日本人の穢れの感覚」にも関わるのだろう。それがメディアに自主規制というゆがみをもたらす。

例えば在日の通名報道、あれなんか反感買っているけれど、個人が個人として認識される社会ならば、在日が犯罪侵したからと言って他の在日を恨む反応は起きないだろうし、逆にそこに連関を見出すならば、具体的な数字と、その背後にある社会的構造への仮説と共に言論を展開しないといけない。

この本で後に触れられる「空気」が創る雰囲気で決まる社会、それは言論として文字に残らないで自主規制なんかをしてしまう社会が日本社会。これが後に検証もできないブラックボックスとして世の中に不穏な靄を造ってしまっています。

日本ではアカデミズムの優秀な研究者はメディアに出ない傾向が強いと政治学で院卒の友人から聞いたことがあります。と同時に専門的な知識の乏しい「コメンテーター/タレント」がニュース番組で幅を利かせる現状。現在はブログをやっている研究者も多いので、まとめサイトとしてある社会問題についての様々な学者の意見を引用しながら並列論記する記事を書くのは有益かもしれませんが、やはりある程度専門的な知識がないと有益な纏めもできないでしょう。また原発問題の時に問題となった『御用学者』などの問題もありますね。

本当は人々が一番見やすい形、ある程度人が集まるメディアで専門家がしゃべるコンテンツを運営することが大切で、それに研究者が認める研究者が出演する、あるいはメディアコミュニケーターが出演することが理想。そういった意味ではラジオのポッドキャスティングなんかはなかなか良いのでは。tbsラジオの荻上チキの奴とか、トライしている番組もラジオにあるので応援していきたいと思うし、もっと『後に残るコンテンツ』を作るために研究者がメディアに出る構造をつくためにはどう動いていったらいいのでしょうね。


日本には市民社会(Civil society)が成立していない
市民社会とは一般的規範が支配する社会。しかし日本では共同体が現存しているので、共同体内の規範と共同体の外の「規範」というのが峻別されている。

共同体の中にいる人間だけが人間であり、ゆえに規範はそれらの人々に対してだけ適用される。共同体の外の人間というのは獣と同じ。

だから一般的規範が及ばない。規範が機能するのは共同体内部だけ。企業内の人間関係や企業が儲けることは非常に重要だけれども、巡り巡って企業外の民が死のうがくたばろうが知ったことか。自分の会社の人間が人間。

市民社会では一般規範が優先するので自分の企業が悪いことをしていれば内部告発するのがその人の義務で、内部告発しなかったら逆に共謀したとして社会から指弾される。
その一方で日本では内部告発っていうのは共同体規範に対する反逆なので、共同体は内部告発者を絶対許さないし社会でも本心では許していない。

問題になった企業が国会で宣誓しても、誰も本当のことを言わない。もし言えばなんであんなに本当のことをいっちゃったんだろうと内部ではあきれてしまう。一般的規範がない。一方アメリカなんかでは誰かとこのことは絶対にいわないって約束する場合、「宣誓の場合と武力でもって威嚇された場合を除いて、このことは誰にもいいません」という意味。

日本では市民社会が成立せず、一般規範がないので、共同体内部の規範が優先されるので、共同体向けの言論と共同対外向けの言論とが当然違ってくる。例えば業界紙なんかでは大胆に本音を話すけれども、外部一般では絶対に言わない。

だから共同体内では案外言論の自由はある。ある一定範囲で。政界でも5億円もらったって内部では問題にしないが、外部に対して言っちゃいけない。だから言論の自由ってのは成り立たない。そういう私的なひそひそ話以外は。

此処の話はまだ今でも全然通用する話。原子力村とか、最後の政治家の話は猪瀬やら渡辺やらで非常にタイムリーw本音と建て前が乖離している社会、かくあらんかな。社会の中で何が正しいか決まっていれば、こうはならないのかなぁ。「こうしないと回らないんだから」を受け入れるのが前回の「作為の契機の無さ」なのだなぁ。

余談ですが、若い世代がブラック企業から逃れるために全国で一斉にバイトストするなんかができたら変わるかもしれません。アラブの春も、今の台湾も、結果として上手くいかないかもしれないが、すくなくとも市民の自由を守るという意味では今の日本よりはるかに素晴らしい状況だなぁと思うし、そんな気力が日本にないのは高齢化の影響もあるのでしょう。

理想と現実の二重構造は何も日本に限った話ではありませんが、人格と言論の引き離し、法律がきちんと実行される社会、一般的規範がある市民社会は眩しく感じられます


読書ノート3 「空気」メカニズム
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小室直樹 山本七平共著の『日本教の社会学』を読みました。
以前に『日本人とユダヤ人』を読み"日本教"なる単語は見知っていた事もあって一度この本は読んでおきたいなと思い、図書館で予約して3か月待ってようやく読めました。それにしても絶版とはいえAmazonで中古が3万近くするのはボッテルナぁw

このエントリでは本書の中で気になったところの私的抜き出しまとめと、それへの反応(赤字)をメモとして残したいと考えております。また後に別の形で書評を纏めなおすかもしれないので、その時の足掛かりになればいいかなと。

(i)日本人にとっての民主主義
西洋の民主主義は責任者を明確にして決断の主体を特定し多数の主張から多数決で一つとするが、日本の場合決断の主体を誰だかわからなくして、対立する2つの主張の間のバランスをとるのが民主主義とされている。

日本人は民主主義とは相手の気持ちを察して相手が起こらないようにすること。アメリカのように経営者が決断し独断的に社員を従わせるのは非民主的だと考えている。

つまり多数決と言いながら決断する(責任を取る)者がいないため、"空気"により決定がなされる事態が生まれる。

日本人にとって"民主主義"は自由と平和と豊かさを3つセットになっている状態を指し、これらのうちどれか一つを失わなければならないとしたらどれから失うのかという論点が設定されたことは無い。一方本来、民主主義は"自由は大変高価なものだが高いコストを出してもあがなう価値があるもの"という発想が前提になっている。
ここに思うのは原発事故によって"豊かさ"と"平和"がトレードオフになってしまっていたり、米国依存による"自由"の制限が、近年浮き彫りになってきたのではないかという事。この"ほっとできない状況"において、3つの中でどれを重視するのかの決断が日本人には求められているのけれども、今現在それを大衆が直視・意識する状況にはないようにみえます。

日本人は民主主義を自らの手で勝ち取ったという"作為の契機"が全然ない。

日本人の歴史観・自然観は日本人は天変地異をやり過ごすかのごとく、できてしまった秩序を正当化し、それに対応して生きていくこと。

その意味では戦後民主主義より
大正デモクラシーの方が"作為の契機"があった。"作為の契機"の観点で考えれば明治維新もそう。しかし戦後、マッカーサーが来てから"作為の契機"という意識は立ち消えてしまった。

暴徒に発砲できないデモクラシーはありえない。デモクラシーとは法の支配であって暴民政治ではない。
その意味でウクライナの状況は、民主的に決まったとは言えない側を欧米諸国が民主主義の味方として支持しているという点で欺瞞が生じているのでは?また逆にいえば、国民が幸福に健全に人生をその国で送れるかという事は民主主義が保証しているのではない、という事であり『真の民主主義国家』など存在していないことも言えます。"民主主義"をその国ごとに成形適応させ機能させていく事が国民の利益に繋がるのでしょう。

「民主主義とは何か?」と訊かれると多くの人は「国民を大事にすることだ」というが、ほとんどの思想で国民は大事にされているのでたいがいの思想が民主主義になってしまう。

では「デモクラシーの反対は何か?」という設問。これに日本人は「軍国主義」と答える。しかし軍国主義でも民主主義の場合や、非民主主義でも平和国家である例はいくらでもある。
デモクラシーの反対にファシズムを挙げる人がいるが、"ファシズム"という言葉は曖昧でムッソリーニのファッショとヒトラーのナチスでは大きな差異がある。「独裁者がいるのがファシズム」とするとリンカーンもそうなってしまう(実際リンカーンをファシズムの元祖とする人もいる)

では「共産主義・社会主義はデモクラシーではない。資本主義がデモクラシー」と言えるか。これにも「資本主義国はみかけはデモクラシーだが独占資本の利益に全てが奉仕するようになっており人民の利益は省みられない。社会主義は労働者独裁で人民の利益が守られるようになっているのだからこれが真のデモクラシーだ」という反論を言う人もいる。

デモクラシーとはセオクラシー(神政性)ではなく人が治める政治体制の事。というところまで遡って理解すべき。社会の根本規範が「神との契約」から「人間のあいだの契約」になることがデモクラシー。

これは「作為の契機」の成立と表裏一体。つまり"習慣・風俗・規範・法・政治制度etcつまり社会一般はGODが作ったから人間の力では変えるなんて思いもしない状態"から法も政治制度も社会もすべて人間が作ったのだから人間の作為によって変えることが出来る事、契約を更改できるという考えがあるかないかがデモクラシーとそれ以外のものを区別するための決め手となる。

しかし日本には契約という考え方がない。責任とは自分に与えられた権限に対応する概念だという考え方がない。「責任は限定されたもので、その限りにおいては常にきちんと責任を取る」原則のないところにデモクラシーはあり得ない。

よって日本は民主主義だとは言えない。

(ii)日本人の自由感覚

日本における「自由」とは商業の発達によって「モノに不自由しないこと」。これは徳川時代の初めに出てくる"自由"という言葉の定義。

もう一つの定義、人が自由になるとは、自然の「からくり」の中で生きる人間が「からくり」にそのまま身を委ね少しも抵抗を感じない状態になっていること。今(1981年)の日本にとっては社会組織まで「からくり」なのでそれに抵抗してはいけない。抵抗してぎくしゃくすることが人間にとっての不自由なのである。

それならば社会問題であれ、なんであれ、全部自分の心理的な問題として、自己の内心で解決してしまうことが「非常に自由な状態にある」ということ。

つまり日本人の考えている自由とは心理的拘束を感じない事と経済的拘束を感じない事。
それに対し西欧の自由は反対の概念。

Libertyはリベルティオで解放免除、解放奴隷が語源。Freedomはなんとかかんとかをする権利という意味。Freeは「タダ」、払わないでいい権利。

法的自由とは訴訟を起こす権利で、ローマ市民の一番大きな特権はカエサル上訴権を持っていること。持ってないのは奴隷。

"自由"の一番基本的なものは経済的自由つまり企業を興すこと。契約をする権利。奴隷には契約する権利がない。しかし日本には契約の考えがないので契約の対象なのかどうかが微妙。日本人はすべて自由人でもなければ奴隷でもない。

政治的自由とは参政権がある事で、その基本は選挙にある。政治的自由とはかってにデモやっていいだとか総理大臣の悪口やっていいとかではない。各政党が公約という形で明確なプランを出す。これに基づいて国民が選挙における投票という決定を下す。これが国民主権の発動。

しかし日本では自民党総裁と議員の意見が真逆だったり、同じ自民党から2人の首相候補がでて結果自民党が"圧勝"するなど国民が大事な決定主権(ディシジョンメイキング)の発動が出来ないで「総選挙」が行われた。
政治に関してはこの本の頃(81年)から比べると大きく異なる点もあります。小泉総理(当時)は郵政選挙で党を割ったし、民主党はマニフェストを掲げて55年体制をひっくり返しました。しかし、これらの試みはまだ試行錯誤の中にあり、必ずしも成功したとは言えません。現在安倍第二次政権においても選挙の際は断固反対と言っていたTPPがぬけぬけとひっくり返されるなど、選挙において国民が決定主権を振るう状態にはなっていません。

宗教的自由とは個人の宗教的な問題に政治は関係ない事だが、ヨーロッパの政教分離は「教会が政治にタッチするな」だが日本だと逆になり「政府は宗教にタッチするな」「政治家は無宗教でなくてはならない」となる。

大平首相が靖国神社に参拝するかしないかは大平さんの宗教の問題であって政治的拘束とは関係ない。クリスチャンが神社に参拝しちゃいけないというのは大平さんが属している教派だけが言う権利があり、関係ないジャーナリズムが言うのは変。

社会的自由とは公権力はプライバシーに入ってくるなという事、つまり内面と外面を分け、外面においては絶対責任を取るが内面に対しては他人に対して責任をとらない、責任に問われるいわれはないという事。自由人は非合法制約以外の事なら何やっても良い。

ところが日本では犯罪者の"穢れ"は家族や宗族に及ぶだけでなしに機能集団(会社など)にまで及ぶ。極端な場合はちょっと付き合いを持ったら友達まで汚れる。胡散臭い奴に近付いちゃダメなんて近代的自由はない。

日本はそういう意味で戦前も戦後もいかなる意味の自由もなかった。正確には日本的な自由の考え方と西洋の自由の考え方は全く違う。よって自由の上に立つ民主主義も大きく異なる。

一番いい例は「このごろの若いものは権利ばっかり主張して義務を全然行わない」というが、正しい意味では権利というのは主張できるから権利なのであって、近代社会とは権利のシステムでその上にデモクラシーがある。多数決だろうが何だろうが権利は侵せない。そこが理解できていない日本人は多く民主主義を誤解している。

読書ノート2 言論の自由は日本にはない?
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Day1 Departure - Ankor Wat

Day1 Lunch - Ankor Tom - Sunset at Ankor Wat - Dinner Show

Day2 Sunrise at Ankor Wat - Prasat Kravan - Sura Slang - Ta Prohm

Day2 Banteay Srei - Night Market

Day3 Roluos - Old Market - Museum - Going home

22日から26日まで3泊5日のカンボジア旅行へ行って参りました。
カンボジア、アンコール遺跡群の神秘的な魅力はマチュピチュに比類する素晴らしさでした。
またカンボジア人の英語力の高さと自分の英語力のpoorさ、どんな苦境でも生き抜くカンボジアの方々と日本でぬくぬく暮らす自分の境遇など、いろいろ考えさせられる旅でもありました。

この時期のカンボジアは晴れ渡って日本の夏くらいの気温で、夏好きの自分には最高でした。アンコールワットの夕映え、朝焼けもばっちりで素晴らしかった。

また今回初めて海外でwifiを使ったのですが、Xperiaだとホテルのスタッフも設定の仕方が分からなかったりして悪戦苦闘したり、結局GoogleMapが上手く表示されなかったり、色々勉強になりました。

今回はツアーでガチガチでしたが、今度来るときは宿と航空券だけで旅してもいいな、カンボジア。飯も結構美味いし。その為にもコミュできるようカンバセイション力を高めるぞと本当に強く思う旅でした。オークン(ありがとう)、カンボジア!

ちなみに撮影した写真はすべてFlickrにあげているのでもし良ければそちらもぜひお楽しみください。
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