人気ブログランキング | 話題のタグを見る

冬のある日 春のある日

A Message Song - Pizzicato Five

ドワンゴクリエイティヴスクール2010年度生声優科・舞台公演『銀河中学三年宙組賢治先生』をみた。友達が賢治先生役だったんだ。

俺はかなり腑抜けてて、それが彼の卒業公演であることを知らずにのんきに下落合と下高井戸を間違えて仕舞い、一時間も遅刻して彼の見せ場を見逃すという大失敗を犯してしまった。普段偉そうに自分の創作物をみてくれ、評価してくれと周りを罵ってたくせに、いざ自分が他人の一番大事な瞬間を身に行く時にそんなことをしてしまう。俺はなんと愚かな奴なんだろう。

宮澤賢治の作品群をモチーフに、物語は<本当の幸い>を掴むためにどう<善く生きる>べきかが描かれていたように想。俺はどんぐりの裁判の辺りから見ていたのだけれど、個々のドングリが主張する<俺の個性はこれだ!俺が一番偉い!>という姿と、俳優としての彼らの姿勢が重なった。結局上に立つのは一番自分の弱弱しさを知り、周りから蔑まれている悲しみを知っているどんぐりだったのだが、彼らは本当に楽しそうに演じることをしていて、「あぁ、この一種のエゴこそが生きる力なのかもしれないなぁ」と想った。

世の中を生きていく上では、<やらなければならないこと>が沢山ある。金を稼いだり、知己や親戚、ご近所さんと交流したり、家族を養ったり、日本国民は<勤労・納税・教育>が義務だしね。それをしていない人は日本の中ではアウトカーストとみなされる。

でも、<本当の幸い>っていうのは俺は<やりたいことをやりきってる人生>だと想。そして、本当に<やらなければならないこと>が<やりたいこと>なのかは重々考えたほうが善い。あきらめた夢はないのか。その夢はいつか叶えられるのか。夢をかなえる為に行動してるのか?

だから俺は仕事/労働の範囲を広げたい。仕事って他者を喜ばせることで、その対価は今までは<金>しかなかったけど、これからは<評価>を得る為になす藝も仕事として認められる世の中になって欲しいと俺は心から想。

ところで、劇の中で主人公の三郎少年は、自分がジョバンニでなくザネリだったと悔むのだが、俺自身、他者から傷つけられている弱い存在のつもりでも、俺より弱い人たちの気持ちを傷つけている。

例えば、せっかく誘ってくれた友達の気持ちを、一時間もの遅刻で傷つけてしまったし、後輩の女子たちに何度も電話をかけていたのはパワハラだったかもしれない。俺は自分のことを権威・権力からは外れたよわよわしい人間だと考えていたけれども、やはりそんな俺でも権威・権力はあって、俺はそれを見て見ぬふりをして権威に嵩を着て権力行使していたのだろう。なんと愚かな人間なんだ、俺は。というのはそういう意味だ。

ただ、俺は三郎君は<ジョバンニかザネリか>じゃなく、<ジョバンニでありザネリでもある>と想。人は多重だ。2人の人間がいて、その関係性はいつも同じじゃないと想。あるところでは先輩でも、或る分野では後輩ということはあるし、例えば俺はblogの画き手でもあり読み手でもある。サーヴィス提供者でもあり消費者でもある。俺はそれは0か1かの完全に切り替わることではなくて、ゆらめき滲む、Multi taskな性質だと思っていて、消費者の立場の時でもサーヴィス提供者の立場に立って相手を気遣うことができるし、読者の時でも作者の気持ちに立って作者を応援することができると想。人生は多重、時には端役であり時には主役であり、時には主役であり端役であるはずなんだ。

節分が今年もやってきて、春がやってきた。俺はそれまでのソーシャルグラフを整理して、例えば後輩の女子たちのメアドと電話番号をケータイから消した。俺は弱い人間だから、淋しくなったらきっとまた迷惑電話をかけてしまうから。新しい風が吹く、俺も男として独り立ちしてもいい頃合いだらう。新しい恋でも探してみませうかw

キャンディーズ 春一番
by wavesll | 2011-02-04 02:42 | 私信 | Comments(0)
<< HardCoreなものを受け止... さいこーをもとめて >>