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宮崎駿『風立ちぬ』他者との関わり(現実の夢の中で)

No.006 その涙を疑う理由はない―『風立ちぬ』(文学金魚)

風立ちぬを観た後、どこか宮崎駿監督の夢をみせられたような、どこか捉えどころのない気持ちになって、この半月TLへ転がる感想を眺めていました。

そもそも風立ちぬを見る気になったのは、大正という、震災、不況という現代に通じる時代に人生の大事な時期を駆け抜けた人間の一代記、という物語を観たかったからでした。そのような時代の空気・その時代の人々はどのように生きていたのかが描かれていると思ったから。

しかし、映画はあくまで二郎個人の『美しい夢』である飛行機と恋愛が主軸に描かれていて、さっと見る分には退屈はしないけれども、ただ単純に美しい映画という評価になっていたかもしれません。(そしてそれは間違いではなく、飛行機の描写や結婚の儀式のときの菜穂子の描写は、何物にも代えがたいほど印象的でした)

その後風立ちぬには様々なテーマがあると、考察サイトを読み比べるうちに知りました。

例えばより速く、より熱情的で、より進んだ生を求める技術を主眼とする生き方と、穏やかに生き続ける愛を主眼とする生き方の対比、映画監督である宮さんの分身の二郎は、結局前者の人生を歩みながら、「自分が作ったすべての飛行機は戻ってこなかった」といい、夢の中で菜穂子に「生きて」と言わせ、その後の人生を歩みます。その後は後者の生を選択したのではないかと思わせるエンディングでした。

これは技術の進歩や人生の火花が生死というもっとも燃え上がる状況=戦争に対して宮さんが思うところなのではないかなと思いました。ある人々は今を戦前と言います。それは宮さんもそう思っているのかもしれません。彼の映画も何の結果も残さず終わるかもしれないけれども、その諦念を踏まえながらもそれでも伝えたい愛を大切にする生き方があったのかもしれません。

その上で、上に引用した「個人は個人である」という考察が、最近自分が考えていたことと繋がって感銘を受けました。

特に
人は決して、他人の夢を完全に理解することはできない。あるいはむしろ、理解した気になってはならない。

中略

主人公の徹底した自己中心性。それが強調する「夢」の個別性。しかしそれは、人は他者と真に関わり、愛することなどできない、というニヒリスティックな結論を導くものではない。他者はどこまでいっても他者であり、人が別の人間を完全に理解することなどありえないが、だからこそ、互いを愛しあえたと思える瞬間の錯覚は、まさに「夢」のように美しい。恋愛映画としてのこの作品は、そうした前提の上にこそ拠って立っている。

中略

誰もが各人各様の夢の中に生きていて、それらの夢はどれ一つとして同じではない。にもかかわらず、人はときにそれらの夢がくっつきあったかのように感じる。それが錯覚にすぎないとしても、当事者がそう信じている限り、そこにはいささかの嘘もない

中略

しかし、そうして夢の世界がもたらす錯覚にひとしきり涙した後、観客は再び各人の個別性へと立ち返らなければならない。エンドロールに流れる「ひこうき雲」を聴きながら、筋ジストロフィーを患っていたという荒井由実の同級生の死と、結核を患っていた菜穂子の死と、自分自身が現実に体験した誰かの死とを、重ね合わせるのではなく、切り離さなければならない。彼らそれぞれの死と悲しみを、彼らそれぞれが生きていた夢を、まるで同じものであるかのように一般化し、「わかった」気になってはならない。そうして、自分の生へと立ち返るべく、たった今流した涙のことなど一切忘れてしまったかのように、毅然として胸をはり、試験飛行の場へと赴く二郎さながら堂々と、劇場を後にしなければならない。


という部分。

大学を卒業してから5年目の夏なのですが、今更ながらに人と人っていうのは他者なんだなぁと最近思っていたんです。

私は電話が好きで、Skypeで味を占めてからは長電話をかなりしたり、なんにも用はなくても手持無沙汰なとき電話したりしてしまったりしているんですが、大学時代はともかく、最近は電話してもなんとなく気まずい感じになって会話が終わったりすることが増えたんですよね。

それは昔は同じような状況の中で過ごしていた友人たちが、それぞれ結婚であったり、仕事であったりこなすべきことが増えて、違う道を歩むようになったんだなと言うこと。なんだなぁと今更ながら感じるんですよ。

同じ場を共有するって結構大事なんだなぁと。だからみんな飲み会とかで会いたがるんだなぁと腑に落ちたというか。

自分はwebにどっぷりなので、テレコミュニケーションで話したいことを話せる人間なのですが、直接会うことを大事に思う人って多いし、それは違う人生を歩んでる人同士が同じ場を共有することで、コミュニケーションに対しての心持ちができるってことなのかもしれないなぁって思ったんです。

ただ、私自体はたまに会う飲み会って、近況の事を語って終わりって感じで、「それで終わっちゃうの!この飲み会!もっと議論だとか、面白い話題だとか、ないのかよ!」って思っちゃうんですよね。その点、何か目的を持った会合(旅先の出会いだったり、ライヴでの出会いであったりetc)やtwitterでのやり取りの方が面白いコミュニケーションが取れると思うんですよね。

そんなtwitterで出会った方とのやり取りの中で、「他人は他人なんだから、わかりあえないことが前提で、簡単に分かった気になってはならないんじゃないか」って話に先日なったんです。

違う人生を歩めば感性も違うし、同じ音楽を聴いても感動するところが違う。と。同じ美術展に行っても感動する絵やポイントが違う。かくも違う存在だと認めるところから始めなければならないと。

でも、私はそれでも、個人と個人がわかりあえるっていう奇跡のような瞬間を求めてしまうんですよね。
それが錯覚にすぎないとしても、その幻を、大事にしたいなぁ。
by wavesll | 2013-08-21 01:49 | 映画 | Comments(0)
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