『日本教の社会学』読書ノート1 日本は民主主義でも自由でもない

小室直樹 山本七平共著の『日本教の社会学』を読みました。
以前に『日本人とユダヤ人』を読み"日本教"なる単語は見知っていた事もあって一度この本は読んでおきたいなと思い、図書館で予約して3か月待ってようやく読めました。それにしても絶版とはいえAmazonで中古が3万近くするのはボッテルナぁw

このエントリでは本書の中で気になったところの私的抜き出しまとめと、それへの反応(赤字)をメモとして残したいと考えております。また後に別の形で書評を纏めなおすかもしれないので、その時の足掛かりになればいいかなと。

(i)日本人にとっての民主主義
西洋の民主主義は責任者を明確にして決断の主体を特定し多数の主張から多数決で一つとするが、日本の場合決断の主体を誰だかわからなくして、対立する2つの主張の間のバランスをとるのが民主主義とされている。

日本人は民主主義とは相手の気持ちを察して相手が起こらないようにすること。アメリカのように経営者が決断し独断的に社員を従わせるのは非民主的だと考えている。

つまり多数決と言いながら決断する(責任を取る)者がいないため、"空気"により決定がなされる事態が生まれる。

日本人にとって"民主主義"は自由と平和と豊かさを3つセットになっている状態を指し、これらのうちどれか一つを失わなければならないとしたらどれから失うのかという論点が設定されたことは無い。一方本来、民主主義は"自由は大変高価なものだが高いコストを出してもあがなう価値があるもの"という発想が前提になっている。
ここに思うのは原発事故によって"豊かさ"と"平和"がトレードオフになってしまっていたり、米国依存による"自由"の制限が、近年浮き彫りになってきたのではないかという事。この"ほっとできない状況"において、3つの中でどれを重視するのかの決断が日本人には求められているのけれども、今現在それを大衆が直視・意識する状況にはないようにみえます。

日本人は民主主義を自らの手で勝ち取ったという"作為の契機"が全然ない。

日本人の歴史観・自然観は日本人は天変地異をやり過ごすかのごとく、できてしまった秩序を正当化し、それに対応して生きていくこと。

その意味では戦後民主主義より
大正デモクラシーの方が"作為の契機"があった。"作為の契機"の観点で考えれば明治維新もそう。しかし戦後、マッカーサーが来てから"作為の契機"という意識は立ち消えてしまった。

暴徒に発砲できないデモクラシーはありえない。デモクラシーとは法の支配であって暴民政治ではない。
その意味でウクライナの状況は、民主的に決まったとは言えない側を欧米諸国が民主主義の味方として支持しているという点で欺瞞が生じているのでは?また逆にいえば、国民が幸福に健全に人生をその国で送れるかという事は民主主義が保証しているのではない、という事であり『真の民主主義国家』など存在していないことも言えます。"民主主義"をその国ごとに成形適応させ機能させていく事が国民の利益に繋がるのでしょう。

「民主主義とは何か?」と訊かれると多くの人は「国民を大事にすることだ」というが、ほとんどの思想で国民は大事にされているのでたいがいの思想が民主主義になってしまう。

では「デモクラシーの反対は何か?」という設問。これに日本人は「軍国主義」と答える。しかし軍国主義でも民主主義の場合や、非民主主義でも平和国家である例はいくらでもある。
デモクラシーの反対にファシズムを挙げる人がいるが、"ファシズム"という言葉は曖昧でムッソリーニのファッショとヒトラーのナチスでは大きな差異がある。「独裁者がいるのがファシズム」とするとリンカーンもそうなってしまう(実際リンカーンをファシズムの元祖とする人もいる)

では「共産主義・社会主義はデモクラシーではない。資本主義がデモクラシー」と言えるか。これにも「資本主義国はみかけはデモクラシーだが独占資本の利益に全てが奉仕するようになっており人民の利益は省みられない。社会主義は労働者独裁で人民の利益が守られるようになっているのだからこれが真のデモクラシーだ」という反論を言う人もいる。

デモクラシーとはセオクラシー(神政性)ではなく人が治める政治体制の事。というところまで遡って理解すべき。社会の根本規範が「神との契約」から「人間のあいだの契約」になることがデモクラシー。

これは「作為の契機」の成立と表裏一体。つまり"習慣・風俗・規範・法・政治制度etcつまり社会一般はGODが作ったから人間の力では変えるなんて思いもしない状態"から法も政治制度も社会もすべて人間が作ったのだから人間の作為によって変えることが出来る事、契約を更改できるという考えがあるかないかがデモクラシーとそれ以外のものを区別するための決め手となる。

しかし日本には契約という考え方がない。責任とは自分に与えられた権限に対応する概念だという考え方がない。「責任は限定されたもので、その限りにおいては常にきちんと責任を取る」原則のないところにデモクラシーはあり得ない。

よって日本は民主主義だとは言えない。

(ii)日本人の自由感覚

日本における「自由」とは商業の発達によって「モノに不自由しないこと」。これは徳川時代の初めに出てくる"自由"という言葉の定義。

もう一つの定義、人が自由になるとは、自然の「からくり」の中で生きる人間が「からくり」にそのまま身を委ね少しも抵抗を感じない状態になっていること。今(1981年)の日本にとっては社会組織まで「からくり」なのでそれに抵抗してはいけない。抵抗してぎくしゃくすることが人間にとっての不自由なのである。

それならば社会問題であれ、なんであれ、全部自分の心理的な問題として、自己の内心で解決してしまうことが「非常に自由な状態にある」ということ。

つまり日本人の考えている自由とは心理的拘束を感じない事と経済的拘束を感じない事。
それに対し西欧の自由は反対の概念。

Libertyはリベルティオで解放免除、解放奴隷が語源。Freedomはなんとかかんとかをする権利という意味。Freeは「タダ」、払わないでいい権利。

法的自由とは訴訟を起こす権利で、ローマ市民の一番大きな特権はカエサル上訴権を持っていること。持ってないのは奴隷。

"自由"の一番基本的なものは経済的自由つまり企業を興すこと。契約をする権利。奴隷には契約する権利がない。しかし日本には契約の考えがないので契約の対象なのかどうかが微妙。日本人はすべて自由人でもなければ奴隷でもない。

政治的自由とは参政権がある事で、その基本は選挙にある。政治的自由とはかってにデモやっていいだとか総理大臣の悪口やっていいとかではない。各政党が公約という形で明確なプランを出す。これに基づいて国民が選挙における投票という決定を下す。これが国民主権の発動。

しかし日本では自民党総裁と議員の意見が真逆だったり、同じ自民党から2人の首相候補がでて結果自民党が"圧勝"するなど国民が大事な決定主権(ディシジョンメイキング)の発動が出来ないで「総選挙」が行われた。
政治に関してはこの本の頃(81年)から比べると大きく異なる点もあります。小泉総理(当時)は郵政選挙で党を割ったし、民主党はマニフェストを掲げて55年体制をひっくり返しました。しかし、これらの試みはまだ試行錯誤の中にあり、必ずしも成功したとは言えません。現在安倍第二次政権においても選挙の際は断固反対と言っていたTPPがぬけぬけとひっくり返されるなど、選挙において国民が決定主権を振るう状態にはなっていません。

宗教的自由とは個人の宗教的な問題に政治は関係ない事だが、ヨーロッパの政教分離は「教会が政治にタッチするな」だが日本だと逆になり「政府は宗教にタッチするな」「政治家は無宗教でなくてはならない」となる。

大平首相が靖国神社に参拝するかしないかは大平さんの宗教の問題であって政治的拘束とは関係ない。クリスチャンが神社に参拝しちゃいけないというのは大平さんが属している教派だけが言う権利があり、関係ないジャーナリズムが言うのは変。

社会的自由とは公権力はプライバシーに入ってくるなという事、つまり内面と外面を分け、外面においては絶対責任を取るが内面に対しては他人に対して責任をとらない、責任に問われるいわれはないという事。自由人は非合法制約以外の事なら何やっても良い。

ところが日本では犯罪者の"穢れ"は家族や宗族に及ぶだけでなしに機能集団(会社など)にまで及ぶ。極端な場合はちょっと付き合いを持ったら友達まで汚れる。胡散臭い奴に近付いちゃダメなんて近代的自由はない。

日本はそういう意味で戦前も戦後もいかなる意味の自由もなかった。正確には日本的な自由の考え方と西洋の自由の考え方は全く違う。よって自由の上に立つ民主主義も大きく異なる。

一番いい例は「このごろの若いものは権利ばっかり主張して義務を全然行わない」というが、正しい意味では権利というのは主張できるから権利なのであって、近代社会とは権利のシステムでその上にデモクラシーがある。多数決だろうが何だろうが権利は侵せない。そこが理解できていない日本人は多く民主主義を誤解している。

読書ノート2 言論の自由は日本にはない?
by wavesll | 2014-03-25 02:11 | 書評 | Trackback | Comments(0)
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