『日本教の社会学』読書ノート3 「空気」メカニズム

読書ノート1 日本は民主主義でも自由でもない
読書ノート2 言論の自由は日本にはない?


さて、桜満開の季節、いかがお過ごしでしょうか。
今回のエントリでも『日本教の社会学』から気になったところのメモと、その部分に対しての私のコメントを記しておきたいと思います。

日本教的宗教観
日本人の素朴な宗教観は、おそらく浄土真宗の影響だと思うが、死んだ後の面倒を見るのが宗教

明治以前には「宗教」という言葉はなく、仏教は仏法、儒教は儒学と言っていた。
宗教の定義を「特定の行動様式(エトス)」まで広げないと日本教は宗教には入らない。

ユダヤ教・キリスト教、イスラム教においては宗教は不自然であるべきで、自然のままでよければ宗教など出てこない。自然状態では人間は悪いことをするので、自然に価値はなく、神が作為的に決めた不自然極まりない契約にのみ価値がある。

一方、日本人の発想は逆で、不自然じゃいけない。内心の規範まで自然的秩序でなきゃいけない。ヨーロッパでは自然という概念と自由という概念が並立する本質として在るが、日本では自由が自然に組み込まれているので、石田梅岩の言うように"鳥類、獣類のように形に従って自然を踏んでいけるようにしてくれるのが聖人だ"となる。

この宗教観こそが日本教。その分派(セクト)として日本教キリスト派、日本教儒教派、日本教仏教派があり、日本に宗教が入ってくると輸入元とは似つかない日本教的宗教観に飲み込まれ同化してしまう。これは西欧民主主義でさえもそう。

諸宗教は全部薬だ、だからそれを上手く調合して、飲んでしまえばいいんだ。となる。
こんな立派な思想、世界にはない。
"この諸宗教は薬であり、上手く機能する分には飲んで、毒だったらやめる"って考え方はとてもよくわかるし、大概の日本人の"無宗教"ってそういう考えなんじゃないでしょうか。伝道する人にとっては、「結局信じてないんじゃん><」となりそうだけれどもw統治の為、文化の為に宗教を機能させ、溺れすぎないバランス感覚を持てるというのは現代的な考えでもあり、だからこそ変なスピリチュアルやら金満新興宗教やらがはびこる隙を与えてるんでない?とも感じます。

以下ではキリスト教における教義(ドグマ)、救済儀礼(サクラメント)、神義論(テオデイツエー)という枠組みを使って、日本教を分析する。

日本教の教義(ドグマ)としての「空気」

キリスト教の教義(ドグマ)はその内容が一義的に明示されなければならず、社会状況からも人間関係からも独立している厳格で確固たる原則のこと。

「空気」(Anima, peuma)はその内容が一義的に明示されず、何らの原則も有しない。この意味では組織神学的にはこれほどドグマから遠いものはない。

空気は常に社会的状況や人間関係にも依存していて、そこから独立した存在にはならない。

ところが「それが空気だ!」ということになると誰も反対できず、空気に逆らうのはとんでもなく悪いことだとされる。という意味で構造神学的には「空気」は規範的に絶対であって所与性を持つ。

「空気」は無条件にいかなる社会にも発生はせず、発生の為の条件がある。

1)絶対的一神との契約という考え方がある社会では絶対に「空気」は発生しない。その契約のみが規範性を持ち、それ以外の規範はあり得ないから。

2)一般的規範が一義的に明示され、それが社会状況からも人間関係からも独立している社会にも「空気」はありえない

3)歴史という考え方がある社会でも「空気」は発生しない。なぜなら、現在の「空気」によって是非善悪が決められても、いつそれが歴史の審判で覆るかわからない、となると、「空気」の発生は抑えられる。

日本の場合、規範が存在しないのに加え、歴史的「時間」という考え方がなく、常に「今」しかないので「空気」がドグマに成り得る。



教義(ドグマ)の社会学的意味としては、集団加入の為の判定条件。ドグマを満たせばその教団に加入できるし、満たさなければ加入できない。

教義学というのは組織神学と同じ意味。しかし日本には組織という発想がない。
内村鑑三は「神学を学ぶと信仰を失う」と言っている無教会主義だし、浅見絅斎の思想にしても一方に天皇の絶対川、他方に個人の絶対的規範があるだけで、この間をつなぐ組織的発想や契約がない。
結局それをつなぐのが「空気」となってしまう。

それでも戦前は自己の規範と天皇という二極が固定されていたが、戦後は自己の行動規範も何かわからないし、何が絶対なのかもわからないので「空気」だけになってしまった。

空気は規範(ノルム)のような体系性を持たない。規範の体系性とは是非善悪の判定が明確になされること。
この場合にはこうしろとかこうするなとかはっきりしなければならず、「空気」はそういう特性がないから規範とは言えないが、社会学的特性が規範と同じという意味で、規範性があると言える。

規範の社会学的特性とは
1)正当性を有する
2)遵守が要求される
3)遵守しない場合制裁が加えられる
こと

「空気」は流行やムードではない。
日独伊三国同盟の締結も、ほとんどの枢密顧問官が反対だったが、最後の決では空気で賛成してしまう。
彼等は群衆ではないウルトラエリートなので、「空気」は群集心理でもない。

日本教において「空気」がドグマになっている結果、事実判断と規範判断の区別がつかなくなる。

「お前は良くわかってないな、世の中はそういうもんじゃないぞ」というオッサンに「世の中はおっしゃるとおりかもしれませんが、それは正しくありません、改革すべきです」といったらオッサンゆでだこの如く怒るに決まってる。

「人はパンのみにて生きるにあらず」という言葉も、本来は「人はパンのみに生きていないんだ」という事実をサタンにいってるだけなのに、日本では「パンのみに生きちゃならない。神の言葉によって生きなさい」という規範的な意味になってしまう。

そういうような「空気」があるということは直ちにそれが「その空気の如くになりなさい」という意味になり、そういう規範はそのまま事実だというようになってしまう。"事実はこうであり、規範はこうであり"とはならない。

「空気」をつぶす方法は事実を事実としていい、「空気」に「水を差す」こと

「実情」は空気を通してみた事実でなければならず、生の事実を言うのは日本教における背教行為

欧米では事実と違う事を言うのが嘘つきだが、日本でなら「実情」が「事実」と異なる場合には事実と違うことをいっても嘘つきとみなされない。だから欧米人に日本人は誤解される。

「空気」に水を差して潰したら、今度はそれが次の「空気」を作ってしまう。

この書籍における最大の問題は、「空気」の定義を簡潔に述べられていない事。"その内容が一義的に明示されず、何らの原則も有しない”と書いてしまっているので、結局「空気」がふわっとした言葉になってしまっています。

とはいえ数年前に流行ったKYという言葉があるように日本には「空気」というものが大きな靄として存在してしまっているし、それを壊すものは嫌われてしまう事実が存在しています。

つまるところ「空気」というのは日本人の「自分の意見を通すよりも相手に譲ることが良しとされる文化」から生まれた一種の美人投票的な自主規制なのではないでしょうか?日本では出る杭は打たれ、みな横並びが良くてガンガン主張する人間は浮いてしまう。
「みんなこう思うだろうから自分も合わせた方が角が立たない」という意識であり、自分の意見を通して責任を取りたくないという意識から生まれる規範なのではないかと思いました。その結果、結局誰も臨んでいない意思決定が行われてしまうのも美人投票的。


実体語と空体語
実体語がホンネ、空体語がタテマエという静的な関係ではなく、もっと動的にバランスをとるメカニズムをもっているもの。空体語と実体語が天秤の両側に乗っているイメージ。

生物学的な人間が社会学的な人間として機能するためには空体語(理想的・理論的願望?)と実体語(事実と思われている事?)のバランスを取らないといけない。

空体語即空気ではなく、空体語と実体語がバランスをとって人を社会学的に機能させている状態が空気

太平洋戦争末期は無条件降伏という実体語と一億義玉砕という空体語でバランスをとっていた。
60年安保騒動では安保はどうしても必要だという実体語に対して安保反対という空体語でバランスを保っている。

そしてバランスがとり切れなくなった場合(事実に対して空体語を載せきれなくなった場合)、天秤がガラガラガッチャンして実体語も空体語もなくなってしまう。

また実体語がしぼんだ場合、空体語もしぼんでバランスをとる。
公害によって無機水銀がアジにあるからアジを何匹以上食っちゃいけないという実体語があった時は空体語も大きかったが、18世紀のアジの標本にも無機水銀は存在するんで公害と関係ない、となったら空体語もすっと消えていく。

天秤の支柱である人間が信頼できなくなった時はどうなるか?その場合でも新たなバランスを最初は取ろうとするが、取れなくなったらガラガラガッチャンとなる。

実体語と空体語の応用問題・日本のマスコミ
日本の新聞は必ず政府を悪くいうものとして相場が決まっている。政府を褒めたら御用新聞と罵られる。

欧米では極右から極左まで百花繚乱、当然、その新聞が支持していた政党が天下を取れば政府支持に回るし、そうでなくても個々の政策を新聞が支持したりその成果を高く評価することもある。

日露戦争に勝って焼打ちに合い、沖縄返還を取り付けて叩かれる。業績を上げればあげるほど悪く言われる。

明治維新以来の奇跡的躍進、これは誰も否定できない。これが実体語の背景。しかし薩長藩閥の強権支配からストレスがたまる。この緊張関係から政府は偉大だが国民が自由に攻撃しうることも必要だとの要請が生まれる。そこで空体語は必然的に、何が何でも政府が悪いということになり、政府の業績が大きくなればなるほど空体語の方もエスカレートせざるを得ない。

それでバランスとれなくなってガラガラガッチャンやって、また別の問題でバランスをとるようになる。こうなると新聞は前に書いたことをすぐ忘れたふりをしないとやっていけない。

これが書かれている当時は高度経済成長からバブルへ向かう経済が上向いたときだったこともあるのでしょうが、慰安婦問題なんかも、政府をこきおろす、日本人のアガり具合に冷水をぶっかけ実体語と空体語のバランスを取ろうとしていたのかなとも思いました。最近は新聞も変わりつつある面もあり、結構問題によっては褒める新聞も出てくる一方、左派新聞は常に批判しかしない印象を相変わらず受けるなぁ。そしてやはり実体語と空体語の明確な定義が書いてないのは問題

読書ノート4 日本人の根本視座、自然・人間・本心・実情・純粋
by wavesll | 2014-03-31 13:32 | 書評 | Trackback | Comments(0)
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