西洋と向き合う -主流と辺境、混じり合う文明についての小文

David Bowie - "HEROES" (Full Album 1977)


金曜、渋谷の美食菜館(ex上海食堂)で紹興酒入りハイボールでハチノスを喰いながら友人と音楽やら、TVやら、表現だとか飲み話をしました。
その時薦められたデビットボウイがとても良くて、家に帰っても聴いていました。

自分の音楽の趣向もだいぶ変わってきたなぁと想います。と、いうのも英米の所謂名盤、特にメロディが強くないものは面白みがそこまで分からなかったのですよね。なーんか"普通"で引っ掛かりがないというか。民族音楽の方が面白味を感じます。

それでも、3年前程からサマソニ行きだしたのもあって、現在聴く音楽の半分強が洋楽になってきて、だんだんその趣が分かってきたような気もします。実際ボウイの『Heroes』、とても感銘を受けました。

ただ、今でも聴いていて思うのは英米音楽の味は、あまりにも普通だなということです。現在の商業音楽の本流が英米にあり、世界にそのトレンドが広まる。つまり英米音楽がポップミュージックのスタンダード。なので英米の音楽は素晴らしいのはわかるのだけれども、余りに主流派というか(それに影響を受けた音楽を)聴いたことがある身としては既視感のある"普通に良い"音楽に聴こえることはあるかもしれません。良くも悪くも。

そういえばドラッカーも著書で「これから世界は対抗するにしろ受け入れるにしろ、西洋と向き合わなければならない」と書いていました。グレゴリオ聖歌からバッハを通って現代の音楽に続く西洋音楽の理論が、一つ背骨として、世界のどこでも通じる一般性を形作ってきたのでしょうね。

c0002171_13000097.jpgそんな事を思いながらHDに録画していた田辺誠一さんのマケドニア紀行の番組をみていました。

マケドニアというとアレキサンダー大王の国。ビザンチン帝国とオスマントルコが支配した地域でもあり、国内にはギリシア正教の教会と回教のモスクが混在していて、番組でもスコピエのパンテレモン修道院やテトヴォのペインテッドモスクといった可愛らしさと壮麗・絢爛さがあふれる建物が紹介されていました。この可愛らしさは北欧のデザインにも通じるものがあるななんて思ったり、モスクの清冽なデザインは未来的でもあるなとも想いました。

ギリシア文明と古代オリエント文明が交わるヘレニズムの地であるマケドニアは、基督教と回教の文明が混じる地でもあり、様々な文明のクロスオーヴァーが生み出すグラデーション、あるいは点描的な非原色の美が素晴らしく美しかったです。

やはり自分はこういった辺境に魅かれるタチなのかもしれません。音楽でも中国・東南アジア・インドが入り混じったミャンマーの音楽にここ最近は非常に魅かれましたし、主流派ではない特別感をこよなく愛してしまう悪癖が、自分のサガな気もします。

と同時に、デビットボウイがいいなぁと想う自分も正直な自分でもあります。西洋というスタンダードにこれからの世界を生きる人々は向き合わなければならないと同時に、西欧の人々も欧州でのイスラムの人々の事を持ち出すまでもなく、非西欧と向き合わざるを得ません。多文明の中でアイデンティティを形成する時代に入る、これからの時代を生きる現代人として、"他者"と暮らす上での面白がったり、寛容であったり、主張したり、選ぶための自分で考える筋力を養っていきたいですね。

そう言えばマザー・テレサが寛容の精神で人生を生きたのは、ギリシア正教とイスラム教の国でカトリックという少数派であったことも大きいかもしれないと番組では語られていました。辺境趣味、民族趣味の者として、少数派の気分は失わないでやっていきたいです。

そもそも民族的、っていう言葉は都会的の対義語でもあって、現代のポップミュージックはどこか均質化された都市空間を想定した様な気もしますが、自然に根差した文化を忘れれば、土台が抜けた人間になる気もします。しかし土着だけでも足りない気がします。

そもそも、マケドニアは一時期は世界のメインであったのに、今は辺境です。米国も今の天下が永久に続くこともないでしょう。それでも四大文明でもない欧米がプレゼンスを持ち続けてきたのは一般性のある理論を積み上げてきたからに他なりません。

自然に根差した身体感覚と、理論改新の歴史の両輪を持ちながら西洋文明を学ぶと共に、日本、そして他の地域の文明を学んでみたいです。取り敢えずコーランでも図書館に予約してみます。あと、マケドニア、行ってみたくなりましたw音楽的にはブルガリアに似てました。






by wavesll | 2015-03-01 14:19 | 小噺 | Comments(0)
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