おでん屋、恋愛いらず/機能別彼氏、「経済や政治がどうあれ〈我々〉は回る」状態―人間との接触を想。

"人間との接触"の喪失、このことを考え始めたのは、2chの二つのスレッドを読んでからでした。

ひとつは【テレビ】NHK「恋愛しない若者」特集に共感の声も 楽しみはビール片手に萌えアニメ観賞©2ch.net

NHK「おはよう日本」(2015年10月19日放送)の中でオンエアされた「恋愛しない若者たち」という特集。この企画を担当したディレクター自身もここ数年、恋人はおらず、 楽しみは「ちょっとだけ高いビールを飲みながらテレビを見ること」。 ディレクターの普段の生活を撮影した映像では、帰宅後にリラックスできる格好に着替えてから、買ってきた弁当を食べつつ350ミリリットル缶のクラフトビール「よなよなエール」を飲んでいた。
視線の先にあるのは、テレビ画面に映るアニメ「きんいろモザイク」だ。 女子高生キャラたちの掛け合いに、ときどきムフフと笑う。

という記事を読んで、まぁ、今は20代半ばならそういうことはありそうだよなぁと思いました。今時アニメのブルーレイは高いし、趣味に時間と金を遣っていたらいつまで経ったって"十分な時間的余裕"なんてやってこないですし、現実の女の子は不機嫌に成ったり色々あるし、"コスパ"なんてのを考え出したら、恋愛なんかプライオリティ下がりそうだよなぁ、とは思います。

しかし、今はTVのゴールデンタイムが19-21時から23-25時に移ったように、恋愛のゴールデンタイムも後ろにずれているのでは、と想います。というのも大学時代はまるで恋愛なんか話さず趣味に没頭していた奴がここ数年で急に色気づいて恋愛を語り出したりするのが自分の周りで起きているからです。

25才あたりの結婚ラッシュでは我関せずとしていた人たちが、火が付き始めるのは30前後なのかもしれません。それはサブカル的な趣味の楽しさが少し醒めて、道楽者も恋愛やら結婚やらを真剣に考え出す頃合いなのかもしれません。自分自身の身体もピークを越えてしまって、等身大の自分をみつめる頃合いでもあるのかも。

勿論、フィロソフィーを持って恋愛しない人もいます。私の友人にも一人きちんとした哲学を持って恋愛しない者がいます。しかし今の潮流(潮流と言っても全体から見れば少数派だと想います。私(31歳)の同期だと半数以上が結婚しています)の独身者たちの中には、哲学を持って恋愛しないというよりも、カルチャーで遊んでたら恋愛してなかった人もいると想います。現代は"結婚しろ"という圧力も少ないですしね。

さて、一本目のスレは恋愛をしない若者の話でしたが、二本目はこれでした。
【社会】屋台で酒を飲まず、おでんだけ食べて帰る人たち 「ノンアル」では利益出ず、店側は困惑★33 [転載禁止]©2ch.net
このスレ、33まで行ってたんですねw最終的にはどこまで伸びたんだろう?
このスレが伸びたのは『おでんやは飲み屋だから、酒を飲むもの』という”常識”に関して世代間対立が起きていたからです。

上の世代とみられる人たちは"それは暗黙の了解であって、店の事も考えながら、粋に飲むのが格好良いのだ"といい、下の世代は"おでん屋でおでん食って何が悪いんだ。嫌なら明示するか、おでんと酒の価格バランスを変えろ"と言い合い、論争が起きていたのです。

20代の人はお酒を飲む人がほんと減ったと聞くし、コンビニおでんの文化が根付いた今、“おでん屋は赤ちょうちん”という流儀の継承が途絶えたんだなぁと感じました。上の恋愛もそうですが、全体的に経済の悪化が日本から夜の豊饒さを痩せさせているのでしょうね。

と、同時に、今の世の中が、どんどん"サービス機能提供者と消費者"に変容し、そこにあった"人間との接触"が細くなっているのではないかとも想ったのです。

件のスレでは、「昔の人間は店での客や店主との会話を楽しんで、ちょくちょく通って店を育てたもんだ」という話も出ていました。私も一時期、地元のバーに通っていたことがあって、そこでの楽しみは酒と言うよりマスターやお姉さん、相席のお客さんとの会話でした。そのバーは代替わりしてしまい、足が遠のいてしまったのですが、バー通いはいいサードプレイス確保の手段だよなぁ、なんて思います。

バーが面白いのは、バーのマスターは"人間"何ですよね。日本だとお客様は神様式なサービス過剰な状態で店主にたしなめられることなんかないですが、バーのマスターは私みたいな若造にはずけずけ意見してくる。たしなめられたり、アドバイスされたり。お客も含めて、人生の先輩たちと話しながらこちらも"お客様"ではなく、"人間"として時間を過ごすことが出来るのが愉しいのです。

それは個人商店だからかもしれません。今のチェーン店だと、店主の上に本社の社員がいるから、店主が人間でなく"サービス機能提供者"になってしまう。おでんのスレからは、日本から個人商店の気風がなくなっていき、快適で便利で消費者でいられる空間が広がっていることを感じました。

恋愛ではなくアニメのスレにしてもそうです。まぁアニメは趣味の中では大した規模ではない気もしますが、趣味全般を愉しむ際、まぁ、特にアニメとかで、自分で創作とかしてない人は消費者だよなぁと想います。至れり尽くせりに喜ばしてくれるアニメに消費者として癒されっぱなしだと、女の子に拒否されて等身大の自分の実力を認識することも、その上で(これ言うのは恥ずかしいですが)愛なる情動を得て自分が主役になることも、その体験が薄まっているのかもしれません。

勿論、音楽にしろゲームにしろアニメにしろ読書にしろ映画にしろ、その消費者であること、いいお客さんであることも文化を育てる大切な存在だし、いわば昔の人が飲み屋を育てたように今の人はアニメ会社やゲーム会社を育てているのかもしれません。ただまぁ、自分が言えるのはボブディランよろしく「時代は変わる」ということと同時に、30になった時に愛欲が出てくるかもしれんぜ、ということです。

"人間性を取り払って『機能』を享受する"という話と"30越えたら愛欲が出てくるかもしれんぜ"という話のハイブリッドとして、セックスや食事、趣味…「機能別彼氏」を求めるキャリア女性の実態があります。

通話やゲーム、電子書籍――ガラケーやスマートフォン、タブレットを機能別で持つように、複数の彼氏を機能別で使い分ける女性たちが増殖している。都市部に住む、高学歴のオーバー35女性ほどその傾向が顕著だ
そうです。

"愚痴を聴いてくれる彼氏"、"セックス彼氏"、"デートに連れてって言ってもらう彼氏"etc、、、こないだTBSの朝のワイドショー、ビビッドでも「セカンドパートナー」なる特集をやってましたね。正直、セックス以外だと、"それって彼と言うか友達なんじゃないのか?"等と想いますし、バブル古めかしきアッシー君メッシー君を想いだしますが、人間関係が持つ面倒臭い濁りを排除して、人間を機能として使う、というのはちょっと吃驚します。

まぁ、ただこれって男側は昔からやっていた事な気もします。本命の彼女なり奥さんがいながら、夜の街ではスナックのママや、キャバクラのお姉さん、或いは風俗の御嬢さんなどを"機能別"に使い分けて、本命との人間関係を寧ろ潤滑にする。女性が経済的に強くなり、昔は男がやっていた行動を女性がするようになったという事象かもしれません。

ここまで読んでくださってありがとうございます。長いっすねwもうすぐ終わります。最後の一山。

最後に紹介したい記事がAKBオタは、なぜリアルな恋愛ができない?宮台真司が語る、絶望の時代を生き抜く恋愛学です。

この中で宮台氏は
性愛は人間の〈尊厳〉すなわち〈入れ替え不可能な自己価値〉を保つため必要。

昨今は〈社会はどうあれ経済は回る〉。グローバル化=資本移動自由化が背景。労働者からの賃上げ要求や再配分のための増税要求があれば工場や本社を移転させればいい。経済団体は貧困や格差の手当てに関心をもたず、それでも経済は回るようになった。

さらに、〈社会はどうあれ政治は回る〉。貧困や格差で人々が不安と鬱屈を抱えると、右往左往する〈不安厨〉と溜飲を下げたい(=すっきりしたい)〈溜飲厨〉を当て込む〈感情の政治〉がはびこります。餌を撒いて彼らの感情を釣っておけば、貧困や格差の手当てはいらない。今後も十分な手当てはあり得ない。

論理的には「経済や政治がどうあれ〈我々〉は回る」という新しい社会を――〈共同体自治〉が覆う社会を――作るしかない。30年前に北イタリアから始まったスローフード運動がそのことを主題にした。「うまい・速い・安い」もいいが、巨大システムへの依存は我々の〈尊厳〉を奪うと。

「経済や政治がどうあれ〈我々〉は回る」という状態をつくること。では〈我々〉とはどんな人間関係か。システムの駒として動く人々の動機は〈自発性〉つまり損得勘定。「巨大システムがどうあれ〈我々〉は回る」というとき〈我々〉の動機は損得を超えた〈内発性〉。

大人が〈内発性〉を手に入れるためのほぼ唯一の道が、性愛実践。

と言ってます。長げーよwwww!
「経済や政治がどうあれ<我々>は回る」というのはかなりの夢想だなぁと想いますが、生きている実感として、愛によって自己の尊厳が成り立つという点は確かにそうだなと想います。

無論、そこには煩わしさも夥しくあるでしょう。

"人間との接触"に伴う煩わしさ、これは本当に必要なものなのか、という命題が突きつけられる時代になってきているのかもしれません。人とぶつかり合うことが薄くなり、一方会社では"機能として摩耗する"ことを強いられる。なーんか変だなぁと想ったり。ところがSNSを介して、"友達"との連絡はどんどん広く消耗していって…ほんとにここ10年位で人付き合いのカタチは変貌を遂げているなぁと想います。ネットを介していくらでも選択肢は広がりました。食べログで数多の店を検索できるし、twitterの初期フォロー可能人数は5000人になったそう。

ただ私は想うのですが、本当に人間らしさを保った付き合いが出来る人数はたかが知れてる気がします。時間も精神力も体力も金も有限ですから。

おでん屋にしても人付き合いにしても、常連的と言うか、行く店や付き合う人を絞って密な交流をして=人間と接触して人として支えあうことに今は興味が向いています。私は旅が物凄く好きなのですが、←の文を書いてから10年以上たってやりたくなってきたのは、旅人が訪れる"その土地の歴史空間"に関わること、何か自分の基盤となる根を張ることに興味が出てきたというのもあるかもしれません。

それを"守りに入った/好奇心や外へ拡張する力が衰えた"という人もいるかもしれませんし、実際そういう面は少なからずあるでしょうから、意識して新しい人間関係、新しい知恵のネットワーク作りや旅もやりたいなと想うのですが、一方で、お互いに大切に付き合える人間関係を大事にしたい気持ちが近年強くなってきています。拡張して言えば、"社会にコミットする気になってきた"ということかもしれません。

広く縄を投げられる時代になりました。ただ、広く縄を投げた後は、ある程度じっくりと人との接触をしていくのが、今の自分はいいのではないかと想います。フィッシュマンズの佐藤さんの詩の「誰かにだけ優しけりゃいい」という一文を添えて、この噺を終わります。

pokka pokka / Fishmans

by wavesll | 2015-10-28 21:30 | 小噺 | Trackback | Comments(0)
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