満月の夕/ソウル・フラワー・ユニオン
こんな映像があったのか。自分が平成に感じる原風景は、阪神大震災とオウム真理教で、天災と宗教テロは、図らずもさらに大きな津波になって自分の生きてきた時代には押し寄せて来ることになった。
この歌を聴いてしまうと、泣いてしまう。魂に到達する歌。
悲しいことがあったり、辛いことがあっても、その時やるべきことがあったり、また別のことがあったり、驚くほど普通に過ぎ去ってしまうことがあって、そんな時自分の薄情さに驚くことがある。
ソウルフラワーユニオンの歌を聴いて、やっと泣けた。そう被災者の人が言っているのを聴く。そういうものかもしれない。俺が泣けるのは、単に涙もろくなったからかもしれないけれど、一人ラップトップでYoutubeをみて、涙ぐんでしまう。
音楽は、人の気持ちを晴らしてくれるもの。藝術は、苦しい時に、あるいは危うい時に、その創造性が最も輝くこともあるかもしれない。阪神大震災はこの歌を産んでくれた。酷い話だが、好きなアーティストは幸せな時より苦しい時の方が輝かしい音楽を造ると、常々想う。上手くいっている時よりギスギスして限界近くまで引き出されている方が、いいものが生まれると感じる。
でも、悲しい出来事を称賛する必要はないんじゃないか。確かに悲惨な出来事からは素晴らしいものが生まれる。でも、悲惨な出来事自体褒め称えるのは、俺は間違いだと想う。それを言ったら、ヒトラーだって科学技術の進歩に関与したし、軍事研究からインターネットは生まれた。もっとはっきり言えば、太宰の『人間失格』は俺は好きだけど、でも太宰が幸せに暮らせたら、それよりいいことだと想う。自ら苦難を望むなんて、馬鹿らしい。
どんなに幸せを願ったって、天災や、人災で苦難に巻き込まれることはある。その時の超回復で、何か素晴らしいものが生まれ、それが自分の強みになることがある。でも苦難そのものを褒め称えるのは、俺は違うと想う。輝かしいものが苦難から生まれたとしても、苦難そのものはやっぱり要らないものだ。苦難はどこまでも減らしていけるように努力していく、それを自分は肯定し、理想としたい。
残念ながら、そうしたって、人が生きる限り苦難をゼロにすることはできないし。反動も起こる。だからこそ、苦のない世界を理想として目指しても、逆説的だけど苦難は生まれ、魂に届く藝術も生まれる。だから、苦はいらない。自然に、必要から起こる苦だけ頑張ればいいのであって、不必要に苦を求める必要は、ない。
自然と成長痛を求めたくなれば、その時それを輝きにすればいいのだから。成長はそれ自体を求めるものでなく、必要から成長するものだと想う。
満月の夕(07)