積み重ねの「ケ」に存在するスーパースター

東京事変 / スーパースター


イチロー選手の日米通算安打数記録更新のニュース、ニュース9で冒頭で流れたVTRで印象的だったのは、小さい事の積み重ねで誰も到達できない領域へ来たという言葉。

日々一つ一つに手を抜かないことが、どれだけ難しいか。
メディアなんかだと大一番とか、ドラマティックな瞬間の「ハレ」が取りざたされますが、メディアに取り上げられる人=市井か有名人かを問わず、何か人のため、自分のために働く人たちは「ケ」こそが宝玉なのだと想います。

この年になると父の偉大さが分かってくるというか。自分勝手でだらしないオヤジだなぁと想っていましたが思い返すと平日にしこたま飲んで終電以降に帰ってきても翌日しっかり6時起きして会社行き休まず働き続けたり、遠い記憶で家族でディズニーランドに行く時も、早朝にクルマを運転し一日遊んで私や弟の面倒を見て、そしてしっかりクルマを運転して家まで安全に帰る。何でもない、体力的な話ではありますが、タフだなぁと思います。息子二人を大学まで進学させ、住宅ローンを払って。考えてみれば今の私の年くらいに実家建ててますからね。

そして、「ケ」を記録する、報じるということにはWebは向いているのではないか、と想いました。
アートのウイルスが世界に感染するとき、イノヴェイションが起こる──宇川直宏(WIRED)というインタヴューで語られる、ヴィヴィアン・マイヤーをどうしても「メディアアーティスト」として映し出したかったという話、彼女は誰に見せるわけでなく、生前に自分の人生を写真とテープに記録し続けました。ライフログを先駆けていたのです。

時代に先駆ける、新しい地点に到達する、というのは頭でこねくりまわした"エクスペリメンタル"ではなく、自分の本性的な欲求に基づいた、本質的・普遍的な真実の欲望から生まれるのだと想います。未来の欲望は、自分の歴史的内面に潜在している。その欲望に気づいて、「ケ」をサボらず努力をいとわずにいれば、自分自身の生が、藝術になる、そう感じました。

この間親しい人と「大人になる」とか「少年性」とかについて話を聴いたのですが、そもそもそうした相対的な事象はなく、そうした幻想は年齢的なものに世間的な迎合をしているだけだと聴いて。

如何に"自分"に近づくかが問題だと。本質的な話だと想います。

自分は頭でっかちで、「少年性」がいい、はともかく、「ロック」がいいとか、或は自分に対する仲間内での期待に原理主義的に言動を合わせてしまって、その"自分の外にあるペルソナ"に惑われた生き方をしてきてしまった気がします。イチローは「"スーパースター"という言葉は嫌いだけど、"私のスーパースター"は気に入った」と椎名林檎に話していましたが、「世間的な"大人"」「世間的な"普通"」ではなく、「自分の心からの大人像」、「本心から目指す美意識における"普通"像」を目指し、如何に"自分"になるか、彼女の言葉はそういった意味かな、と想いました。

「ハレ」に突き抜けるために、「ケ」を充実させる。そこに"年齢に世間的に求められること"は関係ない。その感慨に私も辿り着けるよう、私も私の"自分"に歩んでいきたいなと想った宵でした。

青い瞬きの途中で(ラブリーサマーちゃんのブログ)

by wavesll | 2016-06-16 22:56 | 私信 | Comments(0)
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