人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ExtremeからNormcoreへ。Webがもたらした適温主義 追記:副作用としての保守化

先日、ニッポン戦後サブカルチャー史の90年代編最終回を後半だけちらっとみました。

歴史を紡ぐというのは難しいなぁと想ったのは、当たり前のことですが人によって経験していることには差異があり、どんな取捨選択をしようにも、「あれは違うだろう、本当はこうだった」みたいな文句って出るだろうなぁということ。実際、宮沢さんが編んだ90年代の様相と私がリアルタイムで過ごした90年代の実感は異なったものでした。

ただ、やっぱり95年は特異点だったよな、というのは共通した見方。拙記事、(失っていたとみられた)ゼロ年代邦楽ベストと現在の都市インディーにおいて、XX年代らしい事象はXX年代中盤から現れるという説を論じたのですが、90年代を体験した人にとっては共通認識なのかなと思いました。
(この点において検索すると、東浩紀氏の
日本のカルチャー史は昭和単位で動いていると思っている。『新世紀エヴァンゲリオン』が放送された1995年は元号に直せば昭和70年。西暦1995年=昭和70年代に生まれた『エヴァ』が、昭和70年代=1995年〜2004年までの文化をつくったと言える。
という発言が見つかりました
。)

このエントリでは年代論の続きというか、90年代と10年代の文化差異について少し思ったところを書きたいなと想います。

ニッポン戦後サブカルチャー史IIIをみて改めて思ったのは、昔は雑誌が時代の空気を反映していたのだなーということ。或いは映画でも、音楽でも良いですが、時代を象徴する文化"作品"があったなと強く感じました。一方で現在、未だにスポーツ選手なんかはスターがいる気がしますが、カルチャーでの社会的なスターっていなくなったというか、ヴェールが暴かれ身近になってしまった、或いは叩かれるようになってしまったきらいがあります。

90年代と現在を比べて最も異なるのは"編集・選別を経ない文章・画像・音楽・映像の流通量"でしょう。これはひとえにインターネットが引き起こした情報革命で、昔は出版社が認めたものしか世に出なかったのが、今は誰でも世に自分の文章なり何なりを出すことができるようになりました。これによって、色んな影響が出たというか、一つは質が担保されず、有象無象の情報が氾濫するようになったこと。そしてもう一つは"感性"をマスメディアに支配されることから脱却したことがある気がします。

今でも雑誌を読むと、よく取材してるなぁとか、おぉこんなモノをこういう文章や写真で表現するんだなぁと質の高さを感じます。しかし雑誌は買わずに電車内でスマホをみてしまう。想うに、多くの人は純度の高い質の表現をそこまで必要としていなかったのではないでしょうか?

インターネット以前は編集・選別という出版社の関門を乗り越えたものだけが一般流通していたから、彼らの流儀というか「一定の質の確保」という感性に沿ったものしか日の目を見ることができませんでした。それは玉石混合の中から宝玉を選る機能を果たしていたけれど、夥しいコンテンツが"石"として放り出されていた。何でも玄人向けのものは味が濃かったり極端に薄口になったりしますが、熱量が薄いもの、あるいはセンスが薄いものは”プロ”によって葬られていたとも言えます。

しかし、それ位の温度が丁度良く感じる人たちだって、現にいるのではないでしょうか。エクストリームな表現ではなくて、普段遣いに近い表現が、或いはちょっと気の抜けているくらいの表現が心地よい。そういったニーズをWebはロングテールで掬い上げていったのではないかなと想います。

90年代的な爛熟した過剰さが飽きられて、ノームコア的な流行りが起きている、ともいえるかもしれませんが、ロングテールとコミュニケーションのツールとしてのSNS文化は、"エクストリームでなくてもいいじゃないか"というWebがもたらした適温主義だと想います。

上で「今は時代を象徴する文化スターがいない」みたいなことを書きましたが、歌は世につれ世は歌につれはまだ機能していると想います。新たなシティポップバンドの隆盛や、クワイエット・コーナーに代表される"静かなる音楽"の潮流は今っぽい気がします。昨日のエントリで取り上げたPerderse en la luz by Gonzalo Arévaloなんか今の時代性を顕著に感じる音に聴こえます。

こうした音楽が顕わす潮流が未来を予見しているとすれば、エクストリームではない、適温としての質の高さがこれから2,3年成熟していくのではないでしょうか。単なる"気持ちのいいとこ探し"は既に飽きられ始めている気がするので、如何に外したり、如何に高めるかの模索がありそう。そして20年代中盤にまた激しい時代が来るのでは、そんな予言をもってこのエントリを終えたいと想います。

cf.
アルゼンチン音楽2015年の25枚+2

NHK『トットてれび』にシビれながら、ネット時代における「サブカル」について考える。



追記:
先週末に発表されたFujirock'16にSEALDsの奥田愛基氏がでるというニュースから巻き起こっている"音楽に政治性を入れるな"という騒ぎも大まかにいえばインターネットにより情報発信のハードルが下がったことから起きたのではないかと想います。

日本は戦後はマスコミは基本的に左派的な言論空間が強く、その欺瞞は朝日新聞による従軍慰安婦捏造報道に代表されますが、権力を監視するはずのメディアが第四の権力として長らく言論空間に君臨していました。

流れが変わったのは小林よしのり著 ゴーマニズム宣言から辺りだと想いますが、2ちゃんねるがその流れを決定づけたと想います。マスコミの権力へのアンチテーゼとして欺瞞を暴く。日本の言論空間においてはインターネットの"反権力ムーヴメント"として愛国的な言論が台頭した時期が確かにあったと想います。

インターネットはノイジーマイノリティを増長させる仕組みとも言えますが、Web以前、左派の声が大きかったメディア空間において、サイレントマジョリティだった保守派の意志が示されるようになったといえるでしょう。この潮流は民主党が政権を取った後の無様な敗退により決定的なものになったと想います。

さて、そうなった現在、日本の言論空間は保守的・右派的な空気に支配されていると感じます。左派的姿勢は"意識高い"だとか言われてしまい、Web上ではダサいものになってしまっている。特に匿名空間では。私は舛添さんのイジメエンタテイメントをはじめ日本のマスコミは相変わらず酷いなとは思いますが、ここまで右に偏ってしまうと振れ幅が大きすぎて危ういなと思ってしまいます。先に名を出した小林よしのり氏も今はリベラルな言説を発したりしていますね。

想うに表現を目指す人、それもロックの様な精神性を大事にする所謂"本物"とみられる人は、どこかしら社会から疎外されたり、成功して晴らされることも多いと想いますが思春期などに鬱屈した何かを抱えることが多いような印象があります。自然、反体制的な心にシンパシーを感じる傾向がある気がします。逆に保守派というか、大衆にウケルようにすると"金に魂を売った"とか言われる。少なくともフジロックは本物志向であることを一つのアイデンティティにしていたと想います。だからフジロック好きの間ではここ1,2年のフジロックはアミューズにおもねったとか、セルアウトしたとか言われていました。

一方で日本における洋楽は歌詞ではなくサウンドで聴かれることが多かったせいか、洋楽好きでもアーティストの思想には距離を置くファンも多かった傾向がみられます。フジロックに行く人も高齢化してきたのか、若いころの反逆心は失せて、社会で身を粉にして擦り減って、ようやくフェスで心を潤そうというのに政治的主張なんか余計なことをしないでくれ、普段もっと真剣に政治のことを考えざるを得ないんだからという声もあります。

今回の騒ぎに耳目を立てると、2種類の反発が起きていると感じます。

まず一つに"ロックフェスに政治を持ち込むな"という主張。これは正確に言えば"左派的な言説は聞きたくない"ということでしょうし、上に書いたような要因から保守化が進んだ日本の言論空間で、六ケ所村のイメージ払しょくに政治利用されたRIJFのようなサーヴィス重視のフェスに慣れたキッズの意見に聴こえます。こちらには"Rockが崇高なのは音としての快楽性だけでなく、アーティストの精神性があったからなんだよ"と言いたくなりますが、まぁ時代の流れなのかなとも思ったり。

一方で"政治を語るならきちんとした精度で論じるべきだ。御花畑はいらない"という意見には耳を傾けるべき価値があるのではないかと感じます。フジロックがロールモデルとしているグラストンバリーフェスティバルには労働党の政治家が出てきてパネルディスカッションなどが行われたりとかしているそうですが、日本で政治的なメッセージを発したいと想うならば右派左派両陣営を招いて論戦を繰り広げさせないと、ただ未熟で自慰的なプロパガンダの場になってしまう恐れがあるしそれは健全な社会運動として日本では受け入れられないのでは、とも想うのです。

"狭き門"によって担保されていた質の高さや革新性礼儀がインターネットによって破壊される部分もある現状ですが、今は過渡期であるし、メディア企業の支配には悪点もありました。第四の権力を監視する場としてネットが機能していたり、文化面でも今までは選別で落とされていた"凄いけど売り物にならないもの"も流通できるという解放はインターネットがもたらした素晴らしい面だと想います。インターネットを規制するのは、それこそ独裁国家のような暴挙であるし、新たな戦い方が求められているといえるでしょう。今一番必要なのは利便性が高く人が集まり、きちんと議論できる対話の場だと想います。そういうサイトがアクセスを集められるようになれば、日本の言論空間もまた一段成熟するのでは?と今現在は感じています。
by wavesll | 2016-06-20 03:25 | 小噺 | Comments(0)
<< 器じゃねぇなぁ、俺という話 旅するルイ・ヴィトン展 at ... >>