世界が死んだ後、人はオルタナティヴな世界を生きられるのか -杉本博司 ロスト・ヒューマン展をみて

東京都写真美術館に杉本博司 ロスト・ヒューマン展を観に行ってきました。
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<今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない>という人類の世界が終わる33のシナリオを膨大な実物のインスタレーションで示した作品と、<廃墟劇場>と<仏の海>という写真インスタレーションの展覧会。

先ずその物量に圧倒されます。日本のポツダム宣言受諾を伝えた第一報の電文や、化石、隕石、国連の旗やリットン報告書公表を伝える読売新聞、歴代ローマ法王御尊影や初音ミクフィギュア等大量の”本物のモノ”が「今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない」という文句で始まる様々な人の手記と共に展示されます。個人的にはインスタレーションとしては雷神がとても印象的でした。またラブドールの一幕はラブドールが妊娠するという写真作品、The Future Mother / 菅実花、またからくり人形の頭部群には押井守『イノセンス』との共鳴性を想起させられました。

手記はそれぞれその分野の著名人が手書きで書いていて"コメディアン"役の極楽とんぼの加藤が結構字が上手かったりw実筆ってデジタルに落とし込めない魅力がありますね。

終わりのシナリオは千差万別で、資本主義を規制しても、進めても、欲を伸ばしても、或いは抑えても滅びがやってきます。この世に生を受けた人間が必ず死ぬように、世界も必ず終わると言わんばかりの作品。

この作品を観て想ったのは"人は2つ目の世界を生きられるのか"ということ。

この展覧会で語られるように"世界"は終わるけれども、この地球は太陽系に存在し続けるし或いは宇宙は膨張なり何なりを続けるでしょう。つまり“世界”は人の意識の中に存在する事象だということ。

膨大なコンテキストを持つ"本物のモノ"を配置し、杉本博司自身の造る物語で束ねることで"意識"を実体化させようとしたのではないか、そう感じました。

その上で思ったのが人は自分の人生そのものだと想っていた物語≒世界が終わったら、もう一度別の物語を生きることが果たしてできるのかということ。

311が起こり原子力発電という人生の物語が否定され、しかし今更生き方を変えられないと思い悩む人のインタヴューを思い出しました。或いは、Webによって全然儲からなくなってきてしまった本/雑誌/音楽業界とか。ダーウィンを持ち出さずとも淘汰に耐えうるのは変化出来た者。しかし、自分の人生そのものだった物語から簡単にオルタナティヴなものへ鞍替えするのは実際問題難しいだろうなと。

或いはそういうオルタナティヴな選択をするには時間が必要なのだろうなとも思いました。違和感を馴らしていく時間が。と、同時に革命なり維新なり改善なり創新なり、自分でオルタナティヴな世界に働き掛けないと"自分の新世界"としては受け入れられないのだろうなと思いました。

これだけの作品を千円で見れるとは驚きです。村上隆の五百羅漢図展スーパーフラット・コレクション展をフュージョンしたような感覚というか。逆にその豪勢なバジェットのエンジン馬力に対してレコードタイムが甘い気はしました。若さというか、詰めの拙さみたいのも感じたところはありました。

それに対して写真は流石本職仕事。<今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない>がカミュ『異邦人』の変奏だと明かされる<廃墟劇場>は一本分の映写の光を長時間露光で廃墟となった劇場を撮った実験性のある作品。そして7年がかりの交渉で三十三間堂の千手観音を幾何学的に撮影した<仏の海>はこの展覧会一の美があった作品でした。

企業の寿命は30年だと言われます。産業にも寿命があって、或いは幻想/時代精神にも寿命があって。それはヒトの寿命より短いとしたら。人は複数の世界に生きなければならない運命だと言えます。世界は終わる、それを前提として、終わった後の"世界"を我々は生きていく存在なのだ。そして杉本さん自身も究めた写真という世界から次へ進もうと挑戦を続けている…!そんなことを考えさせられる、想念が触発される展覧会でした。11月13日(日)迄。

cf.
人類滅亡後の地球では何が起こる? 3億年後までシミュレーションすると…(GIZMODO)

by wavesll | 2016-10-28 20:33 | 展覧会 | Trackback | Comments(0)
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