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"成熟"みたいなことをやれこれ考えてみるに

直木賞受賞前の藤沢周平を描く『ふつうが一番 作家・藤沢周平 父の一言』をみました。

奇をてらわない、背筋がしゃんとした家族たちのホームドラマが逆に鮮やかに感じました。俺も石井ふく子案件を楽しめる日が来るとはw<ふつうが一番>というテーゼはともすれば今は物議を醸すかもしれないけれども、<(その人にとっての)普通が一番いい、贅沢をしなくてもいい>という方向に理解しました。

<まだ日本が貧しかった時代。人の心は温かかった>みたいなステレオタイプな切り口だけれども、日比谷公園で会うだけのデート、喫茶店に行くのも稀という話に"あぁ、コンテンツを消費しなくともコミュニケーションに頭と心を使えば人生は楽しいのかもしれない"とは想いました。

金や娯楽のドーピングで人間性のだらしなさを誤魔化し人生を埋めていくのではなく、"人生の味付けは他者の創作物で濃くしなくていい、自らのまっすぐな人生を"というのがふく子イズムなのでしょうか。確かに"消費でライフスタイルレースを”みたいなのも違う気もするし、最近の若者の"ラヴ < コンテンツ"への箴言にも感じました。

只、ラヴ > コンテンツを唱えながら"我々の格式高い創作物は見る価値がある"というのは矛盾を孕む気も。

こないだのintoxicateでも想いましたが、スマホの電源が落ちると雑誌を手に取る気になります。読めば面白い。編集と校正が生み出す"紙の水準"はWebの柔文より強度があります。面白い、けれど人は易きに流れてしまうとも想います。

「狂った所が評価される」のではなく「本質的な良さが評価される」ことを念頭に研鑽を重ねることの重要さを私自身この6.7年噛み締めているのですが、もし石井ふく子プロデューサーがそれを若い人に伝えたかったとしたら、『ふつうが一番』はちょっと面白味に欠けすぎて中高年の内輪受けにも感じました。

その上で、Youthから不惑へ渡る三十路を歩む人間にとって”真っ当”や”節度”、或いは”モラル”、”品の良さ”みたいなテーゼの重要性は日々とみに増していっていると感じるのです。

"如何に狂うか競争"というか、"僕を見て!僕の中のモンスターがこんなにおっきくなったよ!”って意識が十余年前はあって。駄目ならば駄目なほど面白さが増して、はちゃめちゃさに遊んでいた頃がありました。ただ、それは野郎ウケはあったけれども、女の子にはモテなかったw "面白い人がいい"みたいなのは"破滅的な甘ったれ"ではなくて、"真っ当で小粋なユーモア"くらいなものが求められていたのだと想います。女子の知人が増えてくると、野郎とのコミュニケーションとは評価軸がまるで違うことを感じます。

さらに男同士でも年行ってくると突っ込まれづらくなるというか。下の世代からは"いやいや年甲斐もない、ちゃんとして下さいよ。ちょけるのは若い人の特権ですよ"という感があるし、昔は天然キャラだったのが"ちょっと逆に気を使うのでちゃんとしてほしい"みたいになる感じになってきたり。

同い年辺りにしても下手に弱みを晒すとそれを嗤ってマウンティングしてくる輩もどんどん出てくるし、昔からの持論で<他人をいじる人間はそれと同じくらい自分もいじられることを受け容れる度量がないといけない>と想うのですが、他人をいじり倒す癖に自分がいじられると不機嫌になる人間も。

上の人間がそれやったらハラスメントだし、まぁ大体の人はいじりもいじられもせず上品になるけれど阿呆な儘の人もいるなぁとは想ったり。こうしてみると、"狂った駄目な面白さ"みたいなのは狂った世界であるTVやお笑い芸人界の話、或いは幼稚な世界の話で、私自身はそういう稚気は好きなのですが、大人になれば実直にならなければいけない面は現実にありますね。個人的には破壊的な笑いは好きなんですけどね。

その癖、ならばと真面目一本で行くと"堅苦しくてノリが悪い"なんて言われそうでwバカやるならバカ一本、真面目ならば真面目一色でやりたい人間からすると"いい塩梅"みたいなのを求めてくる"普通の人"の鵺の様な恐ろしさは苦手で。みんななんであんなに器用に場面場面でペルソナを切り替えられるんだろうなぁ(苦笑

そんな多様な演技の使い分けが苦手な人間が、今模索の中で"こんな道もあるのか"と想ったのがJamie Lidellの『Building A Begining』というアルバムでした。

Jamie Lidell - Walk Right Back


その前のアルバムのエレクトリックな試みからは180°異なるウォームな風合い。奥さんと共に作ったという詩には家庭人としての歓び、愛に満ちた日々の声があふれていて、理想の旦那像というか、餓鬼から脱して成熟した男になるってこういうことかもしれないと芽が開いた気がしました。

私自身はまだその境地へ達していなくて、少しばかり面白味に欠けると想ってしまうきらいはありますが、エレクトロニクスを経過し上品に駆使し今魅せるソウルフルを歌ったJamieのブランケットのような包容力。ストレートを洗練させる、いい四十の目標となる姿を聴けたのは僥倖で。未来の探究となる大切な贈り物となりました。

昔は"カッコつけてる奴は信頼ならない"と思っていたし、”ぶってること”への気恥ずかしさがあったのですが、翻って私自身は間が抜けている人間ですからwカッコ良くあろうとするくらいで丁度いいことに気づきましたw

嘘だとか演技とかは嫌いなので、あくまで正直に。でも甘ったれた"自分への誠実さ"ではなく、"本音で目指したい姿"への歩みを続けられて行けたらいいなぁと。生きていく、サバイヴし、自分の中で"これでいい"という確信が想える水準まで努める、共に生きていく人を幸せにできたら最上に嬉しい。Jamie Lidellのソウルフルな温かみを胸に宿しながら現在地にそう想います。
by wavesll | 2016-11-26 08:44 | 小噺 | Comments(0)
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