透き通る文体の奥にある生と我 / リチャード・ブローティガン『西瓜糖の日々』個人的な読み解き

c0002171_21454752.jpgこの感想文はネタバレを含みます。ご注意を。ただ、この物語は文体や質感を味わう作品だと想います。

Richard Brautigan (原著), 藤本 和子 (翻訳) / 西瓜糖の日々を読みました。2度読みました。

2度、とあえて断ったのは初回の読後感が、まさにスイカの甘みのような、美味しいんだけれどどう感想を書いていいかがわからないものだったという事があったのです。

非常に繊細な"わたし"が身を寄せる、心の機微が尊重されるiDEATHというコミューンの姿とそこから弾かれた人達の破壊衝動の対比が西瓜糖のほのかな甘みの文体の先にありました。

そして今2回目の読書を終えて想うのはこの本は淡々とした現実的な時間進行でありながら、おとぎ話やSF的な要素の層を持ちながら、枠組みとしては『我と生』という存在を描こうとしたものであろう、ということです。

物語は大きく2つの構造があります。一つは組織対組織、一つは個人対個人。

この物語には「町」以外に、主人公が身を寄せるiDEATH(アイデス)に対してインボイルという狼藉者が暮らす『わすれられた世界』の一団、そして虎の群体という集団があります。

『西瓜糖の日々』では多くの事が完全に解説されずに話が進んでいくのですが、この『わすれられた世界』についてもそう。

ただ多くのファンタジーではこういった存在は"文明崩壊後の世界の側から見た現代社会をロストテクノロジーとして捉えたもの"であり、この本でもそれで大まかにはあっていると想います。

そうしてみるとマーガレットにとっては非常に面白いモノが落っこちているという、そして"わたし"にとっては醜悪なものが多いという『わすれられた世界』は"欲望が渦巻く現代消費世界の残骸"と捉えられます。

そして『iDEATH』とは『我執を捨てた者たちのコミューン』という意味なのではないか、と想うのです。

そう考えるとインボイルが「虎を殺してはならなかった」といい、己達を血みどろし死ぬことでアイデスを蘇らせようとしたことは、人食い虎達は暴力的な存在であるけれども、自然のままに生きている存在で、iDEATHが忌避する"資本主義的な欲望"から最も遠い存在でもあったからだと想います。

実際最後の虎達が殺されて燃やされた跡地にiDEATHが鱒の孵化場を創るのは「狩りから畜産」という"資本の蓄積"がiDEATH自身の内にあることを示しているのではないかと。

しかし結局のところ、欲望に溺れその原理を追求したインボイル達は自ら命を絶つ結果となりました。iDEATHという死を冠した組織の方が存続しました。

サステイナブルという観点で"進歩・発展"がない、或いは遅々として進まないiDEATHのような在り方の方が破滅へは至らず世界を消費しきらない、ということなのかもしれません。

ここでもう一つの構造、個人対個人に話を移したいと想います。

『西瓜糖の日々』は一言でいえば『"わたし"とマーガレットの話』です。
"わたし"はこの物語で描かれている日々、常にマーガレットに捉われています。

昔の恋人、しかしマーガレットは『わすれられた世界』の物達に魅了され、そのことに嫌悪感を持った"わたし"の心は離れ、今は"わたし"はポーリーンと付き合っている。

しかしマーガレットは未だに"わたし"に執着していて、マーガレットの親友だったポーリーンも気を病んでいる。

私は"わたし"の気持ちも分かるし、マーガレットやインボイルの気持ちも分かります。

単純に面白いことや刺激を追い求めたいマーガレットの探究心も分かるし、その刺激的な世界に身を置いているインボイルの側から見るとiDEATHの連中は愚鈍でお花畑で、現実をみていないようにみえるのもわかります。

逆に"わたし"等iDEATHの面々から見ると"何故不必要な快楽を得たいとするのか"とマーガレットやインボイルに嫌悪感を抱く。自分の中にない欲望を持った人間を人は忌避してしまう。

そうした無理解を受けたインボイルやマーガレットが、最初は理不尽からの悲しみを、そして怒りを覚え、対立、破壊衝動に駆られていく…。

快楽に身をゆだねる人は弱さを抱えていて、そして段々と"快楽を必要としている"から意識が"こんなに凄い快楽を得られる自分は凄い"になっていく。私自身もそういうところがあるので、この本を読んでいてちょっと心が痛んだところもありました。

"生の歓び"を謳歌しようとしたときに、その歓びが"大人しい人々"からは嫌悪の眼で見られる事、あると想います。

例えば私は中高の頃はクラスの端で寝てた人間なので、クラスの中心で騒いでいた連中をどこか斜めの眼でみていましたし、今だってFacebookのリア充自慢はちょっと見てられないなと想います。

一方で私自身も自分の気の合う人々とコミューンではないですが緩いつながりをもって、私自身の生の歓びを追求している。"i"を"DEATH"はさせられない、そうして日々を過ごしてます。

そして"わたし"自身もマーガレットに正面から向き合わず、避けることで彼女を死へと追い詰める、そしてそれを罪とも感じないドライさも、リチャード・ブローティガンは描き出しています。

この物語はどちらの肩を持つこともなく、明確な正解を出すわけでもない。或いはこうした物語構造としてのパースペクティヴをはっきりと示しているわけでもありません。

この”西瓜糖”の甘みのような、ほんのりした、すらすらと過ぎていく文章自体がこの物語の価値で、その曖昧として明確な解がないことが、この物語を"現実の比喩"に在らせているのだと想います。

自然の掟の虎でも、我執と欲望に駆られたインボイル一派でも、或いは西瓜糖のような生のiDEATHともまた違った、しかしそのトライアングルの内側のP点に私の人生は座標がある、そんな感想を持ちました。
by wavesll | 2017-03-10 22:34 | 書評 | Comments(0)
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