国立新美術館開館10周年 安藤忠雄展―挑戦―に行ってきました。
出掛けにコンビニでチケットを発券し、9:30頃に現地についてまだ開いてないチケット売り場をスルーして展覧会に並ぼうとしたらもう大分人が並んでいて。
≪光の教会≫のまっさらな写真が撮りたかった私はやきもきしたのですが、入場してみると先に入った人達は直島ブースに人だかりをつくっていました。
今日は安藤さん自らによるギャラリートークの最終日だったのです。
順路の途中に野外に出る形で建てられている≪光の教会≫にも既に人はいましたが、お互い察していただけたお陰で満足のいく写真が撮れました。
その後、安藤忠雄さんと藤本壮介さんのギャラリートークを拝見。
「アジアには活気がある」「日本のように消費をしない国には未来がない」「仕事や資金をいかに社会に還元するか」「二度とやりたくないと想う位一度は働いてみるといい」「最近の人は本を読まなくなった。子供向け図書館のプロジェクトをしている」「大学生で可能性があるのは2年まで、3年からは自由がない」「自分で考えろ」などを楽しい語り口で語られていました。
安藤さん自身も「自分のつくった家は住みずらい、けどそこは自分で何とかしてほしい」とw
安藤さんの設計した渋谷駅は全くもって使いづらいし、表参道ヒルズなんかもイマイチなユーザビリティだと感じるのですが、Artとしての建築づくりには強烈なエゴが必要となるのかもしれない、そしてそれは"人生に於けるディレクション"でもそうなのかもしれないと想わされました。
その後最初に戻って展示を観ようとして、個人の邸宅の模型や写真が並んでいたのですが、まぁ混みあっていて。なかなかスムーズにみれなくて。
そして大きな模型展示なんかもあってヴェニスの≪プンタ・デラ・ドガーナ≫やパリの≪ブルス・ドゥ・コメルス(進行中)≫なんかの展示には”おぉ!こんなストレートに近い引き出しもあるのか”とも想ったのですが、建築系の展示は
オスカー・ニーマイヤー展以来だったのもあり、通常の展覧会とはいささか鑑賞の勝手が違うなという感じ。
そんな中でも1/1サイズの≪光の教会≫は大きなインスタレーション体験となりました。混みあってきてからも、前に人が入る時もあれば、みなで写真を撮るために人が引いたりしたりもしていました。
2回目の今度は1人でのギャラリートークを聴きながら眺めていたのが
≪真駒内滝野霊園 頭大仏≫という大仏を丘で覆ってしまった作品。”この作品や
≪地中美術館≫なんて、古墳みたいだよなぁ”と想ったときに、私の中で”地水火風”という想念が湧きました。
≪頭大仏≫≪地中美術館≫等が『地』、北海道勇払部の
≪水の教会≫やその他多くの水を湛えた建築作品が『水』、そして≪光の教会≫が『火(日)』、四大元素の建築を彼は造っている。では安藤忠雄は『風の建築』もつくっているのではないか?この視点を引っ掛かりに展覧会を見ることが出来るかもしれない。
しかし中々『風の建築』をみつけることは能わなくて。確かに≪ロックフィールド静岡ファクトリー≫なんか風車もあったり、或いは映像展示≪もうひとつのANDO作品ー継続する力≫でのビルや街区の緑化事業は植物が風に揺れる様がありましたが、自分の中でパキっとこなくて。
”そろそろ帰るか。。最後にもう一度≪光の教会≫をみるか”と、内部に入り、ベンチに座り、十字の光隙を眺めていた時にすっと”その先の空間、空気”がダイレクトに感ぜられて。それは風や冷気が直に入ってくることもあって、”そういえば
茨木の≪光の教会≫の十字はガラスで埋ってるらしく、今回安藤さんたっての願いで孔として明けたんだよな”と想ったときに”これは風(空気)の建築と呼べるかもしれない”と想って。
広大な外の空間を予期させるイコンとしての光の十字に、この展覧会のヴァージョンで安藤忠雄は地水火風の風も成したのだと想ったのでした。
ちなみに新美の敷地に建てられた≪光の教会≫は西向きなので朝日が入らず、14~16時ほどが一番輝くそうですが、茨木春日丘教会のように十字の光が床に照らすことはないそうです。ただ妄想ながらいいEurekaを得ることが出来ました。