The Smiths – The Queen Is Dead (Full Album) = 1986
今になって旧い友たちの意識が分かる、そんなことがあります。
例えば他者からの論評に付和雷同せず、一次情報に自分で当たる大切さとか。SNSなんかの又聞きで判断する、さらには声を上げるのは危険なことと認識して。
或いはアクロバティックなことばかりに目を奪われず日々のルーティンのカイゼンをやり抜くことの強靭さや、或いは社会の権力闘争に於ける悪意の存在。こういった”場を守る”ことの意義に、今も完全に分かっているわけでもないのですが、昔は一欠片の敬意もなかったなと。
そうした”しっかりしたもの”に対する覇道として”感性”があるとして、分かり合えぬ人々に”君の話は面白くない”と話すのもまた一種の逃避なのかもしれません。面白くない人間がいるのではなく、面白がれない自分がいる。
そもそも年を経るにつれ”面白いという刺激”がいらなくなったりかまける余裕がなくなるのかもなんて周囲を見ていて感じたり。とは言え必要なものが確保できれば相手のゲームに乗らない身の軽さは維持したいものです。
”正しいこと”と”コミュニケーションが成り立つこと”は完全には一致しないもの。主張だけで傾聴が欠けては意思疎通は成立しないし、”正しさ”は立場と時代によって変わるもの。私は昔は”誰にも愛されたい”のような粗野な夢想をしていましたが、今は”石の舟はついに浮かばず”も悪くないと感じています。
生来の気の軽さから、旧くからの関係に酷い言葉をかけてしまった過去があって。あれは粗忽な行為でした。大切に想える/想われるのでなければ無理に交わらなくても良いかもしれないと今は考えています。庵は開いていますしね。
もしかするとアイデンティティに迷い友人関係に重く依存する幼年期を漸く抜けつつあるのかもしれません。要るものは身一つ、あとは端末でもあればそれでいい。共に生きる人が存在すれば大変な幸福。R&DとPR、そして対話のバランスの微調整を続けながら、75億のあかりの一つを燈して。どっかしら外して生きたい。そう想います。