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輪郭 -アレクサンドル・ソクーロフ『太陽』坂口安吾『堕落論』

銀座シネパトスにアレクサンドル・ソクーロフ監督が昭和天皇を描いたロシア映画、『太陽』を見に行きました。

多くのひとに見てもらいたいと思える映画でした。

イッセー尾形演じる天皇陛下は非常に気持ち悪いし、延々と続く薄暗いトーンの連続に眠くなるかもしれません。白状すると、かなりうつらうつらして重要なシーンを見逃してしまいました。これがロシア映画の洗礼ですかね。

けれども、ロシア人の手によって、あの時代の、あの場面が非常にうまく切り取られていました。
とにかく映像が美しく、幻のような情景を眺めるだけでも価値はあります。本来なら日本人に作ってもらいたかったけれども仕様がないですね。

今上天皇のお父上は当時、神でした。
あまりにも弱弱しく描き出される現人神。
その座を捨て、人間宣言をする裕仁様。

たった一世代前までこの国には神がいたという現実に、改めて愕然としました。
裕仁様が皇太子殿下に手紙をしたためるシーンがあり、今との繋がりを感じました。

あと、もうひとつ見てもらいたい理由としては、この映画、かなり笑いが起こるんです。
イッセーとか佐野史朗とかがたぶんアドリブでやってる場面とかはめちゃくちゃ面白いw。
あと、個人的には昭和天皇の口癖「あっそう」がかなりツボだったので、みなさんにこの映画をみてもらってこの面白さを分かち合いたいです。

海洋生物の研究者で、「進化論」のダーウィンの像を机の上に飾る天照大神の子孫の裕仁様。
ご自身のことをthe emperorと呼び、Iと決しておっしゃられないところに、天皇という機関でいなければならない運命と、生身の精神との葛藤を感じました。

決して史実どおりに作られたわけではなく(たとえば、四方の海 みな同朋(はらから)と 思う世に など波風の 立ちさわぐらんは開戦前に詠まれたもので、映画のように終戦間際に詠まれたものではない)、あくまで一人のロシア人の手によって紡がれた物語であっても、太陽の輪郭を捉える一歩には確実になっていました。

現在、史実はどう捉えられているのだろうと、読売新聞8/13号と8/15号に掲載された「昭和戦争」検証記事を読みました。

読売は張作霖爆殺事件からポツダム宣言までの出来事を「昭和戦争」と呼称し、この戦争の責任の所在がどこにあったのかを日本人自身の手によって明らかにすることが現在不可欠という考えに基づいて長期にわたり昭和戦争の戦争責任に関する特集を続けており、この2日間の記事はその総まとめでした。

13日は昭和戦争を「満州事変」、「日中戦争」、「三国同盟・南進」、「日米開戦」、「戦争継続」、「特攻・玉砕」、「本土決戦」、「原爆・ソ連参戦」の8つの時期に分け、それぞれの時期で責任の重い人物が挙げられています。

15日では特に責任が重いとされる東条英機と近衛文麿に焦点が当てられ、ほかにもその他指導層や軍官僚、メディアや天皇の責任について触れられていました。

その中で天皇は立憲制の枠の中で、実質的な権限はなく、責任はなかったとされています。この時期に天皇が政治に関与した3つの事柄、田中義一内閣の総辞職、二・二六事件の反乱軍に対する討伐命令、そして終戦の「聖断」はどれも平和を求めての行動だったとされていました。

読売のこの記事には、メディアの責任にも触れながら東京裁判でA級戦犯とされた正力松太郎に言及しないなどといった批判もありますが、あの戦争を日本人の手で定義づけようとすることは必要と思いました。

それと共に自分の無知さを実感し、読売史観とは別の視点も知る必要があると思いました。

そこで、今年生誕百年となる坂口安吾の『堕落論』を読みました。

彼の著作の中でもっとも有名な『堕落論』は文庫版で11ページの文章で、1946年に発表されたものです。文庫では堕落論の前後に書かれた小論がまとめられています。今回読んだのは角川文庫版と新潮文庫版でした。

その中で感じたのは、坂口氏は同時代人だということです。例えば『日本文化私観』の中での日米野球でベーブルースを見たという逸話や聖路加病院まで歩いたという逸話や、カタカナが多用される文面は現代の文章を読んでいるのと違和感がありません。
同時代の太宰や小林秀雄につっかかる様などはまるでblogの記事を読んでいるかのような感覚をうけました。

戦後の社会に蔓延る倫理観を一度捨て、真にリアルな生き方をするところから人間ははじまると説いた『堕落論』を始め、彼の論のテーマには戦争や、天皇というものが選ばれていました。

天皇は最高権力者といっても祭られているだけで、実際はなんの権力もなく、時の権力者がその意思を滑らかに社会に振るうための道具であると断じた『天皇小論』や、戦争はこれまでに社会に多くの利益をもたらしたという見解を示しながらも原爆以後の世界では、もはや戦争をやるべきではないとする『戦争論』は、60年前にこんな考えがあったのかと驚かされました。もはや武力衝突ではなんの解決も起こらず、政治・外交の手によってのみ世界の問題解決進められるべきだという言葉は、いまだに戦火の絶えない21世紀でも大きな意味を持つ言葉だと思います。

また『歴史探偵方法論』に沿って語られた天智天皇の後の天武天皇と内親王皇子の確執は読み応えがあり、天皇というシステムが作られる過程を探るのは、平成の現在から昭和を振り返るのよりはるかに難しいと思われるのですが、自由に(もしかしたらトンデモかもしれないけれど)展開される論は読んでいて非常に好奇心をかきたてられるものでした。

市井の人間として、戦中においても人々は案外バイタリティを失わなかったという述懐は、昭和という時代にひとつの輪郭を与えてくれました。

天皇を知ること、昭和を知ることは取りをなおさず日本を知ることであり、いくつもの「真実」をつなぎ合わせて自分なりの像を描くことは、続けていきたいです。

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by wavesll | 2006-09-07 02:09 | 小噺 | Comments(0)
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