メル・ギブソン『パッション』 -君を知ったその日から僕の地獄に音楽は絶えない

私はオタクで引きこもりだからさんざん外に出払ったり、サブカルスノッブを気取ったり出来る。逆説的ですが。

自分が得意なことと逆のことをやるというのは同じベクトル上だから案外簡単です。
マザーテレサがいうように好きの反対は嫌いじゃなくて無関心。

俺が知る限りでも科学的なヒトでもスピリチュアルを否定しない方もいます。科学的であるということは、全ての可能性を検証することだから。
あるいは真に技術が好きなヒトは自然に学びます。自然から零れ落ちるところに創新はあるから。

だからやるべきなのは自分の中に持つベクトルを増やすことと、持っているベクトルをプラスマイナス両方に伸ばしていくことなのでしょう。

ところで俺が通った保育園はキリスト教系でした。
日曜とかは聖書読まされたものでした。

今となってはキリスト教関係のことはほとんど覚えてないけど唯一覚えている思い出はクリスマスの学芸会で披露した劇。私はイエスの父親ヨセフを演じ、マリア役の子と人形を掲げて何かいっていたと思います。ヨセフは第九ですから、保育園でもプロップでしたw

なんでこんな話を出したかというと今日は友達と『The Passion of the Christ』を借りて観たから。

ユダの裏切りから磔までのキリストの受難を描いたこの映画、非常に色々考えさせられました。メルギブソン気合はいりすぎw

当時のユダヤ人からみると完全に敵対する新興宗教の教祖であるイエスは、罪人の汚名を着せられ民衆に憎まれ、蔑まれ、石を投げられ、朦朧としながら十字架を担いでゴルゴダの丘を登ります。既に体は鞭で腫れ上がって血が滲み頭には無理やり茨を押し付けられ、片目は潰れ、弟子には裏切られ、人間イエスは丘を登る。

これを観ながら思ったのはオウム真理教の麻原のこと。
このイエスへの仕打ちは地下鉄サリン事件が起きたときに麻原はこれくらいの罰を受けるべきだと考えていたことでした。
しかし実際に目の当たりにしてしまうと、目を背けたくなる。罰はヒトを野蛮にすると思ってしまいました。

麻原は姿格好をキリストっぽくしようと真似ていたのかもいしれません。自分が正義だと妄信している時が人間は一番獣性が顕れる気がします。ましてや救世主だと想うと、敵対者は悪魔となる。非常に危険です。

人間イエスが聖者となれたのは民衆から憎まれ、蔑まれ、呪われ痛めつけられたからと遠藤周作は言います。

これは私自身の経験でもそうなのですが、自分が汚れれば汚れるほど人に寛容になれます。

労苦と苦難を一身に背負い、全人類の罪をかぶる意思をイエスは持っていると周りが思ったからキリスト教は力があるのでしょう。業が深いほど聖に近づきます。インドの乞食とか、障害者とかはだから聖のイメージがある。

音楽の世界でも、業の深い者の曲は偶に心に響くものがあったりします。

例えば稲葉のソロデビュー作『遠くまで』

商業主義のトップ張ってる人のこういう曲は貴重。なぜなら銀杏BOYZ聴いて胸に響くのは当たり前だから。

市場が細分化しすぎて音楽に限らないがそれぞれの島宇宙内でしか通じないコトが多すぎる現状、レアグルーヴとなる楽曲は自分が属してるグループによっても変わってくるかもしれません。

最近一番良かったのは『創聖のアクエリオン』
ロボットアニメの主題歌でその方面では評価高いこの歌、普通に名曲。是非聴いてください。

業が深いほど聖だといえるとなると、浜崎とかミスチルとかも聞かなければならないかもしれませんね。
by wavesll | 2007-06-15 01:11 | 映画 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://kamomelog.exblog.jp/tb/6313698
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
<< 太陽光発電の男 喜びとは誰かが去るかなしみを胸... >>