2017年 04月 27日 ( 3 )

三木清『人生論ノート』@100分de名著 第4週 「死」を見つめて生きる

c0002171_13211266.jpg三木清『人生論ノート』@100分de名著 第1週 真の幸福とは何か
三木清『人生論ノート』@100分de名著 第2週 自分を苦しめるもの
三木清『人生論ノート』@100分de名著 第3週 ”孤独”や"虚無"と向き合う

ETV、100分de名著で取り上げられた三木清『人生論ノート』視聴記も、今回がラスト。

執筆直前に妻を亡くした三木、戦争直前、死が近い時代に三木は希望についても説きました。最終回は死と希望について三木が伝えたかったことを読み解きます。

死について

近頃私は死というものをそんなに恐ろしく思わなくなった。年齢のせいであろう。以前はあんなに死の恐怖について考えまた書いた私ではあるが。

この数年の間に私は一度ならず近親の死に会った。そして私はどんなに苦しんでいる病人にも死の瞬間には平和が来ることを目撃した。


昭和14年、三木はこの時41才。2年前に妻を亡くし親類や友人を立て続けに見送った頃。この一節には死から目を背けず死の恐怖に惑わされずに生きたいという三木の想いが込められていた。

死について考えることが無意味であるなどと私はいおうとしているのではない。死は観念である。

誰もが生きている間には自分の死を経験することができない。死を経験したときには死んでいるから人はいない。だから我々が死について考える時は"観念"として考える他はない。

ただ実際には難しく、死は人生に入り込み、生の直下に死はある。

死の恐怖が薄らいだのはなぜか?→確率の問題。生きていて死んだ人に会える確率はゼロだが、死ねば会えるかもしれないと考えたから。"そうあって欲しい"という要請からこの考え方に三木は到達。

同時に後に残す者たちに三木はこう言っている。

執着するものがあるから死にきれないということは、執着するものがあるから死ねるということである。

「執着するものがあるから死ねる」というのは"人間はそんなに立派に死ななくてもいい、執着するものがあって死んでもいい"。潔く死ぬのが美しいという時代に、悔いを残して死んでもいいという勇気のメッセージ。

私に真に愛するものがあるならそのことが私の永生を約束する。
想いを残した人がいるということは死後自分が還っていくべき所を持っている。

折に触れて思い出してもらえればその時自分は永生を約束されている→この根拠は自分自身が妻を忘れていないという愛からではないか。

妻の死の一年後、その一周忌に追悼文集を編集し、「幼きものの為に」という自身の文章も載せた。

やさしい言葉をかけたこともほとんどなかったが今彼女に先立たれてみると私はやはり彼女を愛していたのだということをしみじみと感じるのである。

彼女の存命中に彼女に対して誇り得るような仕事のできなかったことは遺憾である。

私が何か立派な著述をすることを願って多くのものをそのために犠牲にして顧みなかった彼女のために私は今後、私に残された生涯において能う限りの仕事をしたいものだ。

そしてそれを土産にして、待たせたね、と云って彼女の後を追うことにしたいと思う。


『人生論ノート』が刊行された翌年、三木は徴用されフィリピンで従軍する。そこでの戦争体験は彼の哲学を大いに変貌させるはずだった。しかし帰国した三木に言論発表の場はなく、娘と疎開する。

そして昭和20年3月、逃亡犯だった友人を匿ったという嫌疑で逮捕される。敗戦後も釈放されることなく、9月、獄死する。

もし私が彼等と再会することができるーこれは私の最大の希望であるーとすればそれは私の死に於いてのほか不可能であろう。

共産党員だった友人を匿えば身の危険が伴うのは分かり切っていたが、人間として三木は友達が助けをもとたときに救わないはずはなかった。

敗戦後も釈放されず毛布に付いた疥癬にやられ独房で一人死んだ三木。「三木は死ななくてもよい命を落とした」。

三木は戦争に往った数少ない哲学者。その経験を生かした書作を残せたはずだった。

三木は人間の生命と歴史における過去を重ね合わせ、その意味についてこう述べている。

過去は何よりもまず死せるものとして絶対的なものである。この絶対的なものはただ絶対的な死であるか、それとも絶対的な生命であるか。

死せるものは今生きているもののように生長することもなければ老衰することもない。そこで屍者の生命が信ぜられるならば、それは絶対的な生命でなければならぬ。

この絶対的な生命は真理にほかならない。


死=過去(歴史)と同等に考える歴史観を三木は持っていた。"死"が絶対的であるがゆえに"過去"もまた絶対的である。

過去を自分の都合のいいように利用し解釈する危険性を指摘している。"歴史修正主義"を三木は厳しく指摘している。

歴史を改ざんしようとすることは歴史を尊重していないこと。人間の"死"を尊重することは"歴史"を尊重することでもある。

雑誌「文学界」における最後の連載は「希望について」だった。

希望について

人生においては何事も偶然である。しかしまた人生においては何事も必然である。このような人生を我々は運命と称している。

偶然の物が必然の必然の物が偶然の意味をもっている故に人生は運命なのである。希望は運命の如きものである。人生は運命であるように人生は希望である。

運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである。


戦時下にあっても三木は最後まで絶望することなく人生論を書いた。

三木は個人、個性が失われつつあった時代に自分とは何か人間とは何かを問い続けた哲学者。そして最後まで人間の可能性を信じていた人だった。

もし一切が保証されていたら希望すらありえない。希望こそが生命の形成力である。

絶望することは簡単で、絶望しない人生を選んだのが三木の生き方。

「私は未来への良き希望を失うことができなかった」

国家全体が戦争へ向かって言論弾圧しても考えることを止めない、"言ってもしょうがない"にならない。精神のオートマティズムに巻き込まれると抜け出すのは至難の業。

三木がこれを書いた時代と現代は通じる感覚がある。しかしそういう時代に生きているからといって絶望する必要もないし生きている意味はないわけではない。

三木清は終生理想主義者だった。理想だけが現実を変える力があると三木は書作を通じて語りかけている。
by wavesll | 2017-04-27 15:30 | 書評 | Trackback | Comments(0)

三木清『人生論ノート』@100分de名著 第3週 ”孤独”や"虚無"と向き合う

c0002171_11145499.jpg三木清『人生論ノート』@100分de名著 第1週 真の幸福とは何か
三木清『人生論ノート』@100分de名著 第2週 自分を苦しめるもの

に続き、100分de名著 三木清『人生論ノート』視聴記。解説は岸見一郎氏です。

哲学者三木清は『人生論ノート』の中で私たち人間は虚無の中に生きるのだと説いた。
海のような広大な世界で、人間は自らを形成して生きてゆくのだ。第三回は虚無や孤独と向き合うことで"人間とは何か"を考える。

虚無について
"虚無"は"ニヒリズム"ではなく、"人間の条件"。
虚無だからこそ我々は生きていく価値があると三木は考えた。

どんな方法でも良い、自己を集中しようとすればするほど私は自己が何かの上に浮いているように感じる。いったい何の上にであろうか。虚無の上にというのほかない。

自己は虚無の中の一つの点である。この点は限りなく縮小されることができる。
しかしそれはどんなに小さくなっても自己がその中に浮き上がっている虚無と一つのものではない。

生命は虚無でなく虚無はむしろ人間の条件である。

けれどもこの条件は恰も一つの波、一つの泡沫でさえもが海というものを離れて考えられないようにそれなしには人間が考えられぬものである。


虚無を大海に例えるなら私たち人間は一つの泡のようなものでしかない。しかし如何に小さな存在であっても海がなければ泡も存在しない。

つまり海は泡が存在するための条件であり、虚無は人間が存在するための条件なのだ。

さらにとてつもなく広大な世界で生きるために、人間には形成力が必要である。

生命とは虚無を掻き集める力である。それは虚無からの形成力である。

そもそも何もないことを押さえて、"無いからつくっていく”。これは前回の虚栄の話に通じる。

泡のような人間という存在、海があまりに広大過ぎて生きていくことに絶望するような徒労感・無意味感に襲われる。

しかし我々は"存在する"という事実から逃れられない。だったら何とかして虚無を掻き集めて自分自身で生きていく"意味"を作っていかないといけない。だから虚無からの形成力という話になる。

人生は形成である
"虚無"を”世界”や”宇宙”に置き換えてもいい。たとえ無意味に見える人生であっても誰かによって決められるわけじゃない。自分で形成して行くしかない。

しかし社会が変容したことによって現代人の自己形成は難しくなったと三木は述べる。

昔は生まれてから死ぬまでに出逢う人間は百人ほどで、限定された社会。しかし今は無限定な社会にヒトは住んでいる。顔も名前もわからない人たちとの関係。

ヒトは"私とあなたの間"に人間を作る。しかし現代は個性を形づくる関係が無数にある。

結果人間は無限定なアノニム(匿名)な存在になる。多くの人と繋がっているのに人は孤立していってしまう。

虚無との向き合い方を三木はこう説く。

今日の人間の最大の問題はかように形のない物から如何にして形を作るかということである。

三木は虚無から何かを形づくる力を構想力と名付けた。そして構想力の為には混合の弁証法が必要だと説いた。

弁証法とは本来、矛盾や対立を統一するやりかた。しかし三木は矛盾や対立を抱え込んだまま混合させるやり方を提示する。

その為には秩序が必要となる。様々な要素の配列や組み合わせを適切に位置付ける。それにより人間は虚無から脱出できる、と。

混合の弁証法:異質な考えを排除せず、すべて受け入れていこうという考え方。

秩序について
どのような外的秩序も心の秩序に合致しない限り真の秩序ではない。
(略)
秩序は生命あらしめる原理である。そこにはつねに温かさがなければならぬ。


秩序とは上から押し付けたり機械的に切り捨てるものではない。秩序には温かさが必要。

さらに三木は国歌の秩序もどうあるべきかも考察した。

第二次世界大戦が始まった頃、三木は近衛文麿を中心とした研究会のブレーンとなり政治の世界に足を踏み入れる。日中戦争をなんとか終結させられないか、時代を生きる哲学者として三木は積極的に国策研究に関わった。

しかし戦争は泥沼化。昭和15年「昭和研究会」は解散。敢えて体制に加担しファシズムや軍国主義に抗してきた三木にとっては大きな挫折だった。

その翌年に三木は『秩序について』を書き上げる。

外的秩序は強力によっても作ることができる。しかし心の秩序はそうではない。人格とは秩序である。自由というものも秩序である。

外的秩序という言葉で三木は国家の秩序を考察する。為政者は自分に都合の良い秩序を強制しようとするが、心の秩序に合わないものは真の秩序とは言えない。

三木は形成の思想から日中戦争を傍観することをせず政治に関わった。

三木は上からの押し付けでは真の秩序はできないと説いた。が、軍部の独走を止める事は出来なかった。

三木は色んな価値を認めるという意味の"価値多元主義"の危うさに気づく。現代の例でいうと「ヘイトスピーチも言論の自由である」と言われれば誰も止められない。

土台になるべき価値を認めなければならない。その「価値体系」の大切さ。

混合の弁証法の話も含め、"価値体系"と"価値多元"は別なのか?→すべての価値を受け容れるのは危険。

人間存在の尊厳を大切にすることを土台としていられれば、多様な価値を内包できる。しかしそれがないと人間は無秩序なアナーキー(虚無主義)に陥る。

何も価値観がないところに新しく強力な価値観を植え付けることは簡単。子供たちに特定の価値観を植え付けることは容易。批判能力がないから。

秩序の根源には「人間の尊厳」を認めるという価値体系が必要

虚無を認識しながら自分で価値観を形成していかないといけないと対で理解していないと容易く扇動されてしまう。「ニヒリズムは独裁主義の温床である」。

一方昭和15年に三木は『孤独について』を発表する。

孤独について

孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく大勢の人間の「間」にあるのである。孤独は「間」にあるものとして空間の如きものである。

三木は"孤独には美的な誘惑があり、味わいがある"と書き、決して"孤独を乗り越えよ"とは言わなかった。寧ろ"たった一人であることを自覚し、孤独に耐えることは生きる上で大切なことだ"とした。

感情は主観的で知性は客観的であるという普通の見解には誤謬がある。むしろその逆が一層真理に近い。

感情は多くの場合客観的なもの社会化されたものであり、知性こそ主観的なもの人格的なものである。

真に主観的な感情は知性的である。孤独は感情でなく知性に属するのでなければならぬ。


三木は孤独を大切なものと説く。大勢との間に「孤独」という隙間を持てる人は迎合しないことでもある。

「孤独は感情でなく知性に属するのでなければならぬ」戦争へ向けてみんなで熱狂していた時代に孤独を説いた三木。孤独のうちにいられることが"強さ"。

知性に属する孤独。知性は煽ることが出来ない、でも感情は煽ることが出来る。

孤独だけが個人の人格、内面の独立を守ることが出来る。不屈の闘志が、この本にはある。

三木清『人生論ノート』@100分de名著 第4週 「死」を見つめて生きる
by wavesll | 2017-04-27 15:17 | 書評 | Trackback | Comments(0)

三木清『人生論ノート』@100分de名著 第2週 自分を苦しめるもの

c0002171_10473978.jpg三木清『人生論ノート』@100分de名著 第1週 真の幸福とは何か

100分de名著、三木清が太平洋戦争前夜に書いた『人生論ノート』を岸見一郎さんのナビゲートでおくる第二週。今回は虚栄心、怒りと憎しみ、嫉妬についてです。

虚栄心とは

虚栄は人間の存在そのものである。人間は虚栄によって生きている。虚栄はあらゆる人間的なもののうち最も人間的なものである。

人間は生きる上で不安や怖れを抱えている。そこから少しでも目を背けるために自分以上の自分を造り出そうとしている。

全ての人間的といわれるパッションはヴァニティ(虚栄)から生れる。

いかにして虚栄をなくすることが出来るのか。創造的な生活のみが虚栄を知らない。創造というのはフィクションを作ることである。フィクションの実在性を証明する事である。


三木は「虚栄と付き合うには」と三つの方法を提示している。

1. 虚栄を徹底する
仮面をかぶり続けて虚像を演じきる。一生仮面をかぶり続ければそれが本性になる。

伊集院も"芸名である伊集院光としてこうありたい、こう思って欲しいとすることがある、それは嘘を吐くというわけでもない”と述べた。私もハンドルネームでの発言で逆に引っ張られたりします。

パーソン(人間)の語源はペルソナ(仮面)

2. 虚栄心を小出しにする
ささやかな贅沢をする。日常生活で虚栄心を少しづつ満足させる工夫をする。

小出しだと虚栄もボロが出ない。その程度の虚栄ならば徹底できる。

そこそこの虚栄は必要だ

3. 創造によって虚栄を駆逐する
「創造的な生活のみが虚栄を知らない。創造というのはフィクションを作ることである」

「人生とはフィクションを作ることだ」
人というのは孤独ではいられない。他の人の評価を絶えず気にする。でもそういう気持ちから作られる人生は虚栄。自分の意志で人生を創造していけば虚栄を駆逐できる。

虚栄と言っても全てが駄目ではなく、今ある自分よりもより上を目指す、そのために努力をする、向上心とも言える。

嫉妬について

どのような情念でも天真爛漫に現れる場合、つねに或る美しさをもっている。しかるに嫉妬には天真爛漫ということがない。
(略)
愛は純粋であり得るに反して嫉妬はつねに陰険である。嫉妬こそ(略)悪魔に最もふさわしい属性である。


愛と嫉妬は似ている。術策的で持続的な点において。そのため長続きして人間を苦しめる。愛があるからこそ嫉妬が生まれる。嫉妬がさらに想像力を働かして心を忙しくさせてしまう。

「想像力は魔術的なものである。ひとは自分の想像力で作り出したものに対して嫉妬する」

愛と嫉妬は厳密には区別できない。

嫉妬の対象
1. 自分より高い地位にある人

2. 自分よりも幸福な状態にある人

3. 特殊なものや個性的なものではなく、量的なもの、一般的なもの


つまり嫉妬は平均化を求める傾向がある。

相手を低めようとする。自分を高める建設的な努力をしないで相手を貶めようとするのが平均化。

今もSNS等をみるに日本の社会全体が平均化を求める傾向がある。誰かが幸せになることを許さない、みんな平均化を求めている。

それに対抗するには”個性を認める”こと。自信がないから嫉妬する、他の人のようになりたいと想う。"この自分を認めるということ"から始めるしかない。自分を認めることで他者を認める事が出来る。

自分を変えようとする努力を止めたときに変われている

怒りについて・憎しみについて

世界が人間的に、余りに人間的になったとき必要なのは怒であり、神の怒を知ることである。今日、愛については誰も語っている。誰が怒について真剣に語ろうとするのであるか。切に義人を思う。義人とは何かー怒ることを知れる者である。

今日、怒の倫理的意味ほど多く忘れられているものはない。怒はただ避くべきものであるかのように考えられている。しかしながらもし何者かがあらゆる場合に避くべきであるとすればそれは憎しみであって怒ではない。怒はより深いものである。


腹が立った時に内に篭って憎しみつづけるよりもカラっと怒った方がマシだ

社会の利害関係や不正に対して公憤を覚えるのは必要だ。←戦前の空気に対しての想い

怒り:突発的、純粋性・単純性・精神性、目の前にいる人に対して

憎しみ:習慣的で永続的、自然性(反知性的)、目の前にいない人(アノニム)に対して

怒りには目の前の人への怒りの理由がある感情。しかし憎しみには理由がない。元々の理由は分からず、憎しみを持続するために憎むようになる。憎しみは匿名の相手に向けるもの。ヘイトスピーチなど個人でないものへの反知性的なもの。憎しみから抜けるには知性的であれ。

偽善について

偽善者が恐ろしいのは彼が偽善的であるためであるというよりも彼が意識的な人間であるためである。

偽善者が意識しているのは絶えず他人であり社会。彼らは他者の評価や社会的な評判だけを意識して求められた役割だけを果たそうとする。つまり善悪の価値基準を他人に任せて自分で判断しない=精神のオートマティズム

道徳の社会性というが如きことが力説されるようになって以来いかに多くの偽善者が生じたであろうか。

これが発表されたのは昭和16年8月。数か月後の開戦を前に翼賛体制の重苦しい空気が言論界にも立ち込めていた。

今日どれだけの著作家が表現の恐ろしさをほんとに理解しているか。

偽善者は往々にして権力に阿り、他人をも破滅させる。三木のメッセージは言論人への警鐘だったのかもしれない。

"道徳の社会性"とは個人よりも社会が優先される考え方。個人の幸福を唱えてはいけないという時代背景の中でこの言葉が使われている。

もう一つは倫理が上から押し付けられる時勢を念頭に置いている。一人一人が納得し時に疑問、否定をしないといけないのに道徳の押し付けがされる時代は非常に危険。

異を唱えない人たち=”偽善者”
言わなきゃならないことを言わないことを反省し、自己保身でなく言わなければならないことを言う表現者としての責任を決して忘れてはいけない。

言論者・表現者の責任は”〇〇を言った責任”が意識されがちだが、"言わなかったことも「責任」"

三木が戦争前夜の空気の中でこの本を発表した事。表現の仕方を考え詰めて発表したことは貴い。三木は思想を理由に殺された。

思想や信条を理由に殺されることがつい数十年前に日本で起きたことを我々は忘れてはならない。これから同じことが繰り返されぬために言うべきことを言う勇気を持たなければならない。

三木清『人生論ノート』@100分de名著 第3週 ”孤独”や"虚無"と向き合う
三木清『人生論ノート』@100分de名著 第4週 「死」を見つめて生きる
by wavesll | 2017-04-27 15:02 | 書評 | Trackback | Comments(0)