2017年 07月 30日 ( 1 )

書だ!石川九楊展@上野の森美術館

書だ!石川九楊展@上野の森美術館に行ってきました。
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≪歎異抄(全文)No.18≫
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藝大へ行った帰りにみかけたこの展覧会。がっつり書の展覧会へ来たのは初めてだったのですが、こーれは大変に格好良い展覧会でした。

初っ端≪エロイ・エロイ・ラマサバクタニ≫から薄墨に太く書かれた文字群!あふるる心情がみてとれます。≪言葉は雨のように降り注いだー私訳イエス伝≫の強烈な文字の詰め方、書き込みに、自分自身が中高時代に執拗なまでに英単語を連打でぎちぎちに描き込んだノートを想いだして。

≪生きぬくんや≫もマンガの吹き出しのような勢いが炸裂、≪エロイエロイラマサバクタニ又は死篇≫は82mに及ぶ超大作で、作品の途中で轟風が吹くかのように巨大な文字が出てくるのが印象的。この時期は≪世界の月経はとまった≫のように灰色の地に書かれた作品が多いですが、そこから白の世界へ戻って≪はぐれ鳥とべ≫が書かれて。白に言葉が配置されると、文字がビートになる感覚がありました。

それは李賀詩シリーズにも顕著で。黒で塗りつぶされて奥にうっすら文字が書いてある≪李賀詩 將進酒 No.2≫をみると、昔"自分がMステに出るなら各国語が入り混じったわけわかめなライムをして、その言葉とは無関係に歌詞として日本国憲法がスクロールさせたい"と考えたのを想いだしたというかw

言葉のフォルムと意味が展開、転化しそれ自体がオリジナルな輝きになるというか。個人的には水カンをみたときに”やられたー”とか思ったものでした。あっちの方が実装能力が高すぎておみそれなんだけどw

さらに≪李賀詩 感諷五首(五連作)≫は何というか将来のHIPHOPを感じたというか、言葉をビートにした先に、ラップをPCで加工して引き延ばして拡大延長したテクノミュージックのような、巨魁な作品でした。

そして次の部屋に入ると更に石川氏の書は飛躍して。≪徒然草 No.22≫はもう電子的な草叢のような書画だし、≪徒然草 No.16≫はもはやポストロックな山海。

そして≪歎異抄(全文)No.18≫は図形楽譜化のような、音楽の理性と身体としての文字フォルムが止揚していました。

一方で≪無間地獄・一生造悪≫のような極太のフォントや≪逆説・十字架・陰影≫のような神代文字化した様な漢字フォントの作品もあって。そして本当に方形の、地図のようにもみえる≪方丈記 No.5≫も素晴らしかった。

2Fへ上がるとそこには何と源氏物語の各帖をモチーフにした書が。もう、どれも良くて。桐壺、帚木、夕顔、若紫、葵、花散里、明石、蓬生、松風、少女、玉鬘、常夏、篝火、野分、真木柱、梅枝、若菜 上、若菜 下、柏木、匂宮、竹河、橋姫、椎本、総角、早蕨、宿木、東屋、浮舟、蜻蛉、手習、夢浮橋…好いの上げようとしたら上げすぎてしまったw

これを視ながら感じていたのは、ともすればこういう"現代的なセンス"は”西洋的”と捉えられがちだけれども、こういった感性は日本人、日本文化の中の内在していたのだなと。梅棹忠夫『文明の生態史観』を読んだのもそうだし、数年前京都旅行でみた角屋のモダン・デザイン性にもその想いの萌芽がありました。

そこから中2階へ降りると、≪カラマーゾフの兄弟 III≫などの作品が。文学を題材にするときに、言語での味わいと訳文の解釈の問題をどうするかとかの意見が出ました。興味深い。

≪生涯は夢の中径≫も良かったし吉本隆明に捧げた≪もしもおれが死んだら世界は和解してくれと書いた詩人が逝ったー追悼吉本隆明≫も素晴らしかった。

そこから、社会的な問題意識を持った作品群が続いて。≪二OOO一年九月十一日晴ー垂直線と水平線の物語I (上)≫や≪9/11事件以後II≫、≪戦争という古代遺制≫、≪領土問題≫、≪敗戦古希 其一≫、≪敗戦古希 其二≫。敗戦期に誕生した石川氏ならではの筆致でした。

そして、器に四文字熟語をかいて沢山つくった≪盃千字文≫も愉しいし、最後に展示してあった≪五十年を語るー妻へ I≫、≪五十年を語るー妻へ II≫も理知的な中に温かい愛情を感じる素敵な作品でした。

この日は石川氏による≪歎異抄≫解説がありました。
石川氏は計20作の歎異抄を書いたのですが、No.18でようやく全文ヴァージョンまで完成して。
隷書を横に延ばしていく中で、縦の画を横の画が突っ切るスタイルが生まれたことがブレイクスルーだったとのこと。

質疑応答コーナーでは、"無心で書いているのか?"との質問に”徹底的に有心”と答えていて。評論家もやっていたから、相当に綿密な計算のもとでかかれていると想ったのですが、やはり。

手癖で書かないようにどんどんスタイルを変えて行ったり、時に左手で書いてみたり。歎異抄では文字の滲みすら起きないようにインクと紙を選んだとのこと。

また”読めない文字も書なのか”との質問には”書を視る上でいけないのは『上手い・下手』とか『読めるかどうか』を考えること。書は『書くこと』であり、書く姿があればそれは書。絵画との違いは一点一画を書いていくリズム、自分はあくまでも文章を書いている”とのことでした。

梅棹さんもそうだし、吉田博展@東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館 日本人にしか描けない洋画、その探究でも"凄腕の旅人だ"と想ったものですが、文学の海へダイヴし自らとケミストリーを興して作品として発火する石川さんも、本当に素晴らしい旅人だと想いました。

本当の未知は、有心の先の、完璧なコントロールの先にある偶然天地に。刺激的な展覧会でした。なんと今日まで。是非是非お薦めです。

cf.
石川九楊の「書」だ。(ほぼ日刊イトイ新聞)

by wavesll | 2017-07-30 09:47 | 展覧会 | Trackback | Comments(0)