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透き通る文体の奥にある生と我 / リチャード・ブローティガン『西瓜糖の日々』個人的な読み解き

c0002171_21454752.jpgこの感想文はネタバレを含みます。ご注意を。ただ、この物語は文体や質感を味わう作品だと想います。

Richard Brautigan (原著), 藤本 和子 (翻訳) / 西瓜糖の日々を読みました。2度読みました。

2度、とあえて断ったのは初回の読後感が、まさにスイカの甘みのような、美味しいんだけれどどう感想を書いていいかがわからないものだったという事があったのです。

非常に繊細な"わたし"が身を寄せる、心の機微が尊重されるiDEATHというコミューンの姿とそこから弾かれた人達の破壊衝動の対比が西瓜糖のほのかな甘みの文体の先にありました。

そして今2回目の読書を終えて想うのはこの本は淡々とした現実的な時間進行でありながら、おとぎ話やSF的な要素の層を持ちながら、枠組みとしては『我と生』という存在を描こうとしたものであろう、ということです。

物語は大きく2つの構造があります。一つは組織対組織、一つは個人対個人。

この物語には「町」以外に、主人公が身を寄せるiDEATH(アイデス)に対してインボイルという狼藉者が暮らす『わすれられた世界』の一団、そして虎の群体という集団があります。

『西瓜糖の日々』では多くの事が完全に解説されずに話が進んでいくのですが、この『わすれられた世界』についてもそう。

ただ多くのファンタジーではこういった存在は"文明崩壊後の世界の側から見た現代社会をロストテクノロジーとして捉えたもの"であり、この本でもそれで大まかにはあっていると想います。

そうしてみるとマーガレットにとっては非常に面白いモノが落っこちているという、そして"わたし"にとっては醜悪なものが多いという『わすれられた世界』は"欲望が渦巻く現代消費世界の残骸"と捉えられます。

そして『iDEATH』とは『我執を捨てた者たちのコミューン』という意味なのではないか、と想うのです。

そう考えるとインボイルが「虎を殺してはならなかった」といい、己達を血みどろし死ぬことでアイデスを蘇らせようとしたことは、人食い虎達は暴力的な存在であるけれども、自然のままに生きている存在で、iDEATHが忌避する"資本主義的な欲望"から最も遠い存在でもあったからだと想います。

実際最後の虎達が殺されて燃やされた跡地にiDEATHが鱒の孵化場を創るのは「狩りから畜産」という"資本の蓄積"がiDEATH自身の内にあることを示しているのではないかと。

しかし結局のところ、欲望に溺れその原理を追求したインボイル達は自ら命を絶つ結果となりました。iDEATHという死を冠した組織の方が存続しました。

サステイナブルという観点で"進歩・発展"がない、或いは遅々として進まないiDEATHのような在り方の方が破滅へは至らず世界を消費しきらない、ということなのかもしれません。

ここでもう一つの構造、個人対個人に話を移したいと想います。

『西瓜糖の日々』は一言でいえば『"わたし"とマーガレットの話』です。
"わたし"はこの物語で描かれている日々、常にマーガレットに捉われています。

昔の恋人、しかしマーガレットは『わすれられた世界』の物達に魅了され、そのことに嫌悪感を持った"わたし"の心は離れ、今は"わたし"はポーリーンと付き合っている。

しかしマーガレットは未だに"わたし"に執着していて、マーガレットの親友だったポーリーンも気を病んでいる。

私は"わたし"の気持ちも分かるし、マーガレットやインボイルの気持ちも分かります。

単純に面白いことや刺激を追い求めたいマーガレットの探究心も分かるし、その刺激的な世界に身を置いているインボイルの側から見るとiDEATHの連中は愚鈍でお花畑で、現実をみていないようにみえるのもわかります。

逆に"わたし"等iDEATHの面々から見ると"何故不必要な快楽を得たいとするのか"とマーガレットやインボイルに嫌悪感を抱く。自分の中にない欲望を持った人間を人は忌避してしまう。

そうした無理解を受けたインボイルやマーガレットが、最初は理不尽からの悲しみを、そして怒りを覚え、対立、破壊衝動に駆られていく…。

快楽に身をゆだねる人は弱さを抱えていて、そして段々と"快楽を必要としている"から意識が"こんなに凄い快楽を得られる自分は凄い"になっていく。私自身もそういうところがあるので、この本を読んでいてちょっと心が痛んだところもありました。

"生の歓び"を謳歌しようとしたときに、その歓びが"大人しい人々"からは嫌悪の眼で見られる事、あると想います。

例えば私は中高の頃はクラスの端で寝てた人間なので、クラスの中心で騒いでいた連中をどこか斜めの眼でみていましたし、今だってFacebookのリア充自慢はちょっと見てられないなと想います。

一方で私自身も自分の気の合う人々とコミューンではないですが緩いつながりをもって、私自身の生の歓びを追求している。"i"を"DEATH"はさせられない、そうして日々を過ごしてます。

そして"わたし"自身もマーガレットに正面から向き合わず、避けることで彼女を死へと追い詰める、そしてそれを罪とも感じないドライさも、リチャード・ブローティガンは描き出しています。

この物語はどちらの肩を持つこともなく、明確な正解を出すわけでもない。或いはこうした物語構造としてのパースペクティヴをはっきりと示しているわけでもありません。

この”西瓜糖”の甘みのような、ほんのりした、すらすらと過ぎていく文章自体がこの物語の価値で、その曖昧として明確な解がないことが、この物語を"現実の比喩"に在らせているのだと想います。

自然の掟の虎でも、我執と欲望に駆られたインボイル一派でも、或いは西瓜糖のような生のiDEATHともまた違った、しかしそのトライアングルの内側のP点に私の人生は座標がある、そんな感想を持ちました。
by wavesll | 2017-03-10 22:34 | 書評 | Comments(0)

アダム・スミス著/山岡 洋一訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』第四・五編読書メモ

c0002171_1103964.jpg第一編 読書メモそして第二・三編読書メモ
から一年弱。度々の長期の離脱を経て、今朝方とうとう国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究 (下) を読み切ることができました。

下巻の内容は第四編「経済政策の考え方」では重商主義や重農主義を検証しながら、自由貿易こそが社会における真の富を増加させる方策と論じられました。

その論理から当時イギリスのものだったアメリカ植民地にも敬意ある自立を促した方がいいと導きされたり、統治を商人が行う東インド会社の害悪について論じたり非常に先進的な思想が語られていました。

また最終章である第五編「主権者または国の収入」は主権者が行うべきサービス(夜警国家としての防衛、司法、道路などの公共施設の経営)と税についての噺。

伝えたい理論を古今東西の夥しいファクトで実証し現実が仮説と違う場合もきちんと書いた実体のある理論書でした。

第四編で貿易において、一国との間で赤字となったとしても規制を掛けずに富を自由に動かした方が国の真の富は増加していると論じているのは、確かに輸送技術やインターネットによるトランスナショナル化等商業環境が18世紀とは大きく変わっている点はあるにせよ、現代の重商主義者である米国大統領なんかにも読んでもらいたいな、なんて思ったりしました。

また幹線道路などの整備は国全体の利益になるとしながらも、基本的には通行料などで黒になる計画として行うべきで、国は乱脈経営してはならない、という話は北海道新幹線を通した人間達に聴かせてみたいな、等と想ったり。『国富論』は経済学の古典ですが、現代においても聴くべき思考が書いてあると想います。

中でも最も心に残ったのは
施しやふるまいが度を超えることはめったにないが、虚栄心はかならず度を超える。
という一文。

アダム・スミスは地域の名士や宗教が人々の心を原初に掴み、尊敬されていたのに、今はその神通力を失ったことは商業の発展と密接に関係あると論じています。

古代、自分が食べられる分を大きく超える農作物を生み出す土地権益をもった者は、多くを周りの人々に振る舞って、人々を援けていた。そうして尊敬を集めていた。
しかし商業が発展して、交換価値が高い技巧が凝らされた"商品"が登場して、自分の産み出したものを自分で使い切っても足りないくらいの贅沢な欲望が生まれる環境が形成されました。
そうして権力者はそのパワーを自分のために使いきるようになり、"サービス"は"対価"を必要とするようになり、結果として民衆からの敬意は失われていった、と。

自分だけの利己的な楽しみに収入を使う場合には、どれほどつまらない楽しみでも、思慮分別のある人ですら、熱中しすぎて身を滅ぼすことがある。
(中略)
だが、贅沢にならないもてなしや見栄をはらない施しで財産を食いつぶした人は、あまりいないはずである。(贅沢なもてなしや、見栄をはった施しで身を滅ぼした人は多いだろうが)。


虚栄心とどう付き合うかは、例えばSNSで肥大化した承認欲求のコントロールへ繋がったり、現代人にも響くテーマとなっていると想います。

日々の愉楽が、労働の再生産に必要な分を超えたとき"浪費"になる。食っていける人が多くなればなるほど、社会は真の意味で発展しているのであり、真っ当にいきることが価値ある生だ。アダム・スミスはそう言っているようにも思います。

確かに消費が美徳になるというのは貴族的なアティチュードであって。それを身を滅ぼしながら行おうとするのは愚か者のすること。脳と躰を動かして創造を行うことは消費の螺旋から解脱することに繋がるのかもしれない。そう想いました。

無論、消費には社会的・個人的な効能があって。他者に奉仕する事だけが美徳とされる価値観は抹香臭いなと感じてしまいます。その上で"時間をかけて咀嚼する事が生み出すふくよかさ"に思いを馳せる読書となりました。

大学一年生の頃、教授から「砂や小石でバケツを満杯にしてしまったら岩を入れるスペースはなくなってしまう。しかし先に岩を入れれば、その隙間に砂や小石を入れられる、だから大学時代は古典を読もう」と言われたことが頭に残っています。

あれから十年以上を経て、漸く巖に手を伸ばす気になりました。そして今『国富論』を読み終わって。今、ゴールではなくスタートラインに立っているような気分です。

"いつか『国富論』を読んでみたい。『国富論』を読めば何かが変わるかもしれない"そう想っていたところがあったのですが、それは"インドに行けば何か変わる"というのと同じようなことで。

古典を読むことは旅に似ていて。或いは登山もメタファになると感じます。違う景色をみながら一歩一歩高まっていく。

けれど、今は古典読書はワークアウトに近い気がしています。効能がすぐめきめきとインスタントに現れる事ではない、一発逆転はない。けれど振り返れば、前とは違う起点へ進んでいる。そういう上下巻でした。
by wavesll | 2017-02-27 19:05 | 書評 | Comments(0)

読書感想: 新田祥子 / もうだいじょうぶ! 心臓がドキドキせず あがらずに話せるようになる本

c0002171_18521595.jpg新田祥子著 『もうだいじょうぶ! 心臓がドキドキせず あがらずに話せるようになる本』を読みました。

私は緊張しいの人間で。特に仕事とかで"これは失敗してはいけない"という思いが強い時や"きちんとしなければ"と言う思いが強い時は物凄くあがってしまいます。文章を書く際なんかも、Webにはこれだけ饒舌に書けるのにも関わらずビジネス上の文だったり、"読み手が批判的な目で粗探ししてきそうだ"というプレッシャーの中で文章を書きあげるのがどうにもこうにも不得手で。

今までプレゼン白熱教室なんかをみて、<準備と想定演習を反復することを重ねて、ターゲットの好みを徹底的にリサーチして反映させる>とか"成る程"と想ったのですが、実際問題それだけの準備の時間的余裕が与えられないことも多いし、"正攻法に人事を尽くして天命を待つ事が出来ればいいけれど、そのスピード感に体力・精神力的についていけん…"と想っていたことも事実。そんなわけでこの本を手に取ったのです。

そこで書かれていたのは<『あがる』とは精神現象でなく生理現象>だということ。<あがる人は恥をかいた記憶が反芻されて、脳が自尊心を守ろうとして過剰防衛反応を示している>とのことでした。

あがる人は鬱なんかにもなりやすい性質らしく、完璧を求めて反省を繰り返すそうです。その為自分の駄目だったところばかりが記憶に残り、<あがった、失敗した>という記憶が強化され、ますます苦手意識が高まるそう。

原因は幼少期に勉強をしすぎたり、TVゲーム等で対人コミュニケーションの経験に乏しくなってしまったり、最近だとSNSに没頭してフェイス2フェイスのコミュニケーションに触れる時間が少ない場合もあるとか。しかし大人になってからでも訓練であがり症は直すことができるそうです。

まず減点嗜好を脱却し出来たところを見ること。"ま、いっか"と安心で心を満たせばあがらないとのこと。
更に声の震えなんかは、骨伝導で聴く自分自身の認識程他人にはつたわっていないので、"最低限これだけは伝えるポイント"さえクリアすればOK、くらいなラインを設定するのも有用かと。過剰な反省でますます苦手意識が強化されるのを避けるのを優先したいところ。

そして面白いと想ったのは口や舌、表情筋の筋トレをするといいというくだり。また猫背や服装をしゃんとするという"見た目の与える印象の改善"というアドバイスも。

不安というのは漠然としているからこそ大きくなるもので、やるべきことを具体化すると不安は半分は解消されるというのもその通りだと想いました。"あがり"というのを脳に原因を求めるというより身体全体の問題と定義するのが好感が持てました。

きちんとした訓練を積んで”ドキドキしないスピーチ”の記憶を定着させればあがることはなくなるそうです。ここら辺は著者の人がやってるセミナーの宣伝だなと想いましたがw

そして人に対する苦手意識の段では”この人苦手だな”と記憶するより”この人はこういう特徴がある”と記憶すると漠然とした苦手意識で記憶が埋まることなく、寧ろフラットな”事柄”として記憶されるとのこと。

そして<対人コミュニケーションを上手くいく為に>の段ではまず<コミュニケーションが上手くいかないのはあなたが自分の話ばかりしているから。相手の話を聞くのが大事>とのこと。”それは知ってるんだよ”とwしかしここからが面白かったのです。

<質問をするときは『事柄』でなく『相手の感情』にフォーカスを>とのことでした。『情報』を得ようとすると相手は”なんでそんな根掘り葉掘り聞かれなきゃならないんだ”と想い、反応が悪くなる。そこを<その時相手は何を想ったのか>を聴くと会話が弾むと。なるほど!といった感じでした。自分がLINEなんかで友人と話が弾まないのは相手に情報を聴いていたからかと。なるほどなーといった感じ。

また何かを断る場面では"状況/事情"の説明が大事だとのことでした。これは実際の場面では話したくない事情なんかもあったりするだろうし、上手い事いい抜ける狡さもいるかなと。

大前提としてあがり易い人は相手の反応を自分で推測してどんどんネガ思考に陥ってしまうという点があり、そんなコトは相手が考えればいいことだと切り離すのが大事だとのことでした。

ここら辺は"うっわ耳が痛いなー"というか。昔mixiで足跡がついたのに"いいね"が押されないことに対して「俺の書くものは1クリックもする価値がないほどつまらないと想われてるのか」と逆切れした黒歴史があるのです>< 自発的に書いていることなんだから、アドラー心理学を持ち出すまでもなく相手の反応は相手の課題ですからね(苦笑

特に私のような極私的な関心ごとを書く場合は、mixiのような閉鎖的な人間関係の所に書くよりも、寧ろWebの大海に書いた方が性に合っている気がします。このBlogの一日のhit数が大体PCからが100、スマホからが100なので、日本国民の1/500,000の確率でも関心が共有出来たなら僥倖で。その代わりに書きたいことを画くインディー・スピリットでやっていきたいなぁと想います。

とはいえ、この本を読んで一番びっくりしたのは文字が大きくて1ページ辺りの文字数がとても少ない事!
まとめサイトで良くあるみたいなリーダビリティーを追究したつくりに”1500円の本でも、いやだからこそここまで読みやすさを追求しないと手に取ってもらえないのか”という其のサービス精神に驚きました。

私は利便性とか機能性を疎かにしたのはインディー・スピリットの追求というより怠けかもなぁと想いました。とはいえ、この”怠け”というぼんやりした言葉では漠然とした不安が広がるばかりですから、”テーマ検索のしやすさ”とか"英語でもサマリーを書く"とか、具体的な案件に明瞭化してこうと思った次第です◎
by wavesll | 2016-11-02 18:58 | 書評 | Comments(0)

九鬼周造 『「いき」の構造』を読む -民族から生まれた精神性・価値観は国外に互換し輸出入は可能か?

c0002171_5371069.jpg九鬼周造著 『「いき」の構造』、哲学者九鬼が生きた現実を闡明にしていく本書、私は数年前、図書館で見掛け"なんか面白そうだな"と手に取ったのですがその時は借りず、数年経った今"よし、読んでみよう"と読み切った次第でした。この藤田正勝氏による全注釈が付いた講談社文庫版は章ごとの解説も含めとても読みやすく仕上がっていました。

初端から「言語というのは各国語で交換可能な物か」という問いが提示され、興味深い。
フランス語のCiel, Boisは英語のSky, Wood、ドイツ語のHimmel, Waldとは完全には一致しないという話。
これは実は私自身も、
"「猫」という単語は日本で見られる猫から立ち上がる言葉であって、CatやGatoはやっぱり英語圏やスペイン語圏の猫から立ち上がる概念だから、それぞれ微妙に異なるのではないか"
と考えたことがあって、同じ問題意識をもって読めました。言わば"猫という言語→実在する猫"ではなく"実在する猫→猫という概念"というディープラーニング方式で人は「猫」という言葉/概念を体得すると想うのです。

民族的な特殊性が言葉に現れる顕著な例として、九鬼はフランス語のEspritがドイツ語のGeistや英語のSpirit, Wit, Intelligenceと交換可能か?という問いを放ちます。これらの言葉は各々の国の民族性や風土に根差した魂のありようをもって存在している言葉、九鬼はそういうのです。

そして日本語においては「いき」という概念が、この種の民族的色彩の著しい語で、Chic、Elegant, Coquet等では完全に互換することは出来ないと九鬼は述べます。「いき」に近い感覚を形相的には西洋文化にも見つけることができるけれど、それは偶然似通っただけで、意味体験としての「いき」の理解は本質を問わなければならないと述べるのです。

そこから「いき」とは何かの語が示す事柄の説明に入ります。九鬼は江戸時代の文献などを駆使して、「いき」とは

・異性に対する「媚態」:一元的の自己が異性との間に可能的関係を構成する二元的態度

・「意気」すなわち「意気地」:「いき」は媚態でありながら尚、異性に対して一種の反抗を示す強みを持った意識

・「諦め」:運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心。これにより垢抜けにあっさり、すっきり、瀟洒なる心持ちとなる

要するに「いき」とは、我が国の文化を特色づけている道徳的理想主義(意気)と宗教的非現実性(諦め)との形相因によって、質量因たる媚態が自己の存在実現を完成したもの。「垢抜けして(諦)、張りのある(意気地)、色っぽさ(媚態)」ということができないだろうか?そう九鬼は定義するのです。
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その後、九鬼は上品―下品、派手―地味、渋味―甘味といった軸から「いき」の座標を求めようとします。「いき」は媚態であるのだけれども、派手すぎたら野暮になる、また「いき」は意気の反抗心もあるから上品すぎても違う。「いき」は甘味から渋味に至る路の間にある、と九鬼は論じています。

確かに日本人の好きなテイストって「このケーキ甘すぎなくて美味しい」とか、甘ったるさのみなのを嫌います。また媚態というか、モテたいという意味でも、あんまりがっついてる人は嫌われるというか、恋人が欲しくても出会いは自然じゃないと格好が悪いといった感じ、あるかもしれないよなーと想いながら読んでいました。

面白いのは意気・野暮・甘味・渋味・上品・下品・派手・地味を各頂点として「いき」を図示しようとしている点。この直六面体を使えば、「雅」や「乙」、「きざ」そして「いろっぽさ」等も求められるそうです。

ここから「いき」が現れる具体的事例が挙げられていきます。湯上りは「いき」だとか、横縞より縦縞が「いき」だとか。ただここら辺はそこまでピンとこなかったかな。音楽において完璧な調和よりちょっとした変位の崩しがあるほうが「いき」だというのはちょっと面白かったです。

そして結論部。

体験を味わう際、五感は独立しているのではなく混然一体となり連携する、その中で聴覚と視覚は物事の違いを分けていく働きがあり、それは感覚上の趣味といえる。趣味とは道徳的及び美的評価に際して見られる人格的および民族的色合いのこと。ニーチェは「愛しないものを直ちに呪うべきか」と問い「それは悪い趣味で、下品だと思う」と述べています。

「いき」という趣味を九鬼は「媚態」「意気地」「諦め」とこれまでいってきましたが、この結論部ではそれらの観念的分析では抜け落ちる間隙があることを率直に認めています。

その上で、外国にあるものでも「いき」に似た感覚の具体的事象(芸術作品や仕草、建築)があるかもしれないけれども、「いき」の持つ本質は日本民族に固有のものであって、海外のもので「いき」に感じるものがあってもそれは「現代人の好む何ものか」でしかない、「いき」はわが民族存在の自己開示として把握されるべきものであると〆ます。

ここの議論で私が思ったのはHip HopはNYの黒人のルールに則らなければならない、或いは日本人がロックをやるのは馬鹿らしい、といったような論点、つまりその土地固有の魂から出ずる表現や精神様態は、域外に輸出、或いは逆に輸入可能なのかという点です。

九鬼は本書の草稿を巴里において書いたそうですが、異国の地から逆に日本が照らされたこの本はしかし、未だ世界が分断されていた、世界が広くグローバル化に塗り潰される前の世の中に書かれたようにも想います。

インターネットが地球を覆い、全球化した世界で生きる先進国を初めとする若者たちは一種文化に壁など意識しないのではとも想ったり、しかしISを初めとして民族・宗教間対立が起こり、右派勢力が台頭するのを見ると人間、妥当な"自分たちの国・文化"と想える範囲が広すぎるのも辛いのだなとも思ったり。

そんな中で、共生していく為に、まず互いの異なる点を真摯に見つめて、単にそれを一面的な価値観で塗り潰すのではなく、寧ろその色合いのグラデーション、或いは粒立ちが維持されたまま共に生きる、点描のような世界像へ向けた思索の試みだったのではないかなと、私は想いました。

XXYYXX // XXYYXX // Full Album


最後に最近気に入ってる「いき」な音楽を。海外産だけどw1995年生まれの俊英が2012年に出したこの音楽、音のシンプルさに、ジャンルも国も違うのだけれどもTHE BLUE HEARTSのような瑞々しい感性を感じました。ロックはともすると野暮になりがちだし、野暮を良しとする文化かもしれません。そういった意味で文化圏が全球化したインターネット以後の世界で生み出される色気と抑制が織りなすビートシーンに日本人の「いき」の感性は寄り添える気がします。
by wavesll | 2016-09-07 07:16 | 書評 | Comments(0)

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読む

c0002171_5405238.jpgマックス・ウェーバー (著), 中山 元 (翻訳)『日経BPクラシックス プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読みました。

ドイツにおいてプロテスタントが経済的な上層の地位に占める割合が高いのは何故なのか?を論の切っ掛けに、ベンジャミン・フランクリンが言うような≪「時は金なり~したがって時間を無駄にせず勤勉であれ」、「信用は金なり~他人との取引において正直・誠実であれば信用は高まり、さらなる利益を生む」、「金は金を生む~だから浪費するのでなく節約と合理的な運用が必要」≫という自分の資本を増やすことを自己目的にする倫理、「資本主義の精神」はどこから来たのかを論じます。

その結論を述べると、『天職(ベルーフ、コーリング)という観念を土台とした合理的な生活態度はキリスト教的な禁欲から生まれたもの』とマックス・ウェーバーは解き明かします。

ルターの宗教改革からカルヴィニズムが生まれ、とりわけ"神によって救われる人間か救われない人間は予め定められている"という予定説が人々に"私は神によって救われるのか否か"と常に不安定な状態をもたらし、"労働を天から与えられた職業"と考え、仕事に打ち込み神の栄光を現世に表すことに従事することによって"自分は救われている"と確信するための手段にしているとウェーバーは論じます。

プロテスタントの禁欲の教えは全てのキリスト者に対して、できる限り多くの利益を獲得するとともに、できる限り節約するように戒めます。この勤勉と節約により富が蓄積されるのです。

日本のお釈迦さまは『蜘蛛の糸』のように試しに罪人にチャンスを与えてサイコロを振りますが、全知全能なるGodは全てを見通しているはずだ、という論争。まさにロゴスの闘いというか、みな日本教なこの国にいると中々信教の実質的な影響力は感じずらいですが、海外では倫理というのは宗教から生まれえる、だからこそ異教徒・異民族と"常識"がぶつかり合う。そんな17世紀~19世紀欧州の空気を感じました。


c0002171_6354564.jpg今回の読解に非常に援けになったのは牧野 雅彦 (著) 新書で名著をモノにする 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 でした。ある意味『プロ倫』本体より面白い読書体験だったかもしれません。

『プロ倫』の前段階としてマルクスの『資本論』があり、ウェーバーはニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』にも大きな影響を受けています。また同時代のゾンバルトとも大いに論戦を行った。そういった流れを踏まえて『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』やその他のウェーバーの論文を論じたいい新書でした。

マルクスの『資本論』は富の基本形態は商品であり、商品の価値には使用価値と交換価値があり、マルクスは価値の源泉はその商品に投下された人間の労働だと言います。
労働力という特殊な商品は、その価格(多くの場合労働を再生産できるだけの賃金)を超えて働かせることができ、その剰余価値が資本家に搾取され利潤となり投資され、生産力が拡大されていく。とマルクスは論じます。

これに対しゾンバルトは『近代資本主義』において経済のシステムを「需要充足経済」と「営利経済」に分類し、個人などの具体的な需要充足を目的とする前者と飽くなき利益を求める後者としての資本主義経済を支える精神は単なる金銭欲や黄金欲とは異なっていると提示しました。

『プロ倫』はこれらの議論を受けての書物でしたが、ウェーバーは利潤追求の精神の直接の起源がプロテスタンティズムにあると論証したわけではなく、上に書いたようにむしろ利潤を追求しない禁欲的精神態度に由来し、天職に打ち込む態度をプロテスタンティズムは生んだというものでした。

ウェーバーの思想や問題意識の源泉を彼の個人史に求めるのは彼の知性に失礼かなとも思うのですが、脚注にあったウェーバーの個人的な事情は面白く読めました。彼は1897年に神経症に倒れ、病気からの回復過程で「プロ倫」等を書きます。不安から必死に逃れるため学問に打ち込んだウェーバー、ウェーバーは親に経済的に依存している「面目ない立場」に苦しむとともに母ヘレーネからの「職業を通じて己の使命を果たす人間のみが一人前」という圧力から解放されるために論文に打ち込んだのかもしれません。「資本主義の精神」を無限の利潤追求の精神でなく「職業義務」の観念の由来から検討するという課題設定という話は面白く読めました。

カルヴィニズムから生まれた禁欲による資産形成とその運用による資本形成は徐々に宗教的な熱狂は冷めていき、ウェーバーは「宗教的生命力に満ちた17世紀が功利主義的なその相続人達に残したのは何よりもまず、貨幣獲得もそれが合法的にさえ行われるならそれでいいという、恐ろしく―パリサイ的なといってもいい―疚しくない良心であった。『神に喜ばれるのは難し』という精神は消え失せた。こうして独特の市民的な職業のエートス(精神態度)が生まれたのである」と述べています。

ここの「パリサイ的」精神とは律法や規則に拘るだけではなく、それに従わないものを道徳的に非難し自分たちの道徳基準を強制しようとする攻撃的で強圧的な態度が「資本主義の精神」には孕まれているということ。

「疚しくない良心」とそれに基づく資本主義的労働者の形成により造られた近代的な経済秩序は「鋼鉄のような檻」と化しそこに住むのは「精神無き専門人、心情無き享楽人、この無に等しい者達は、自分達こそ人類が未だかつて到達したことのない段階に到達したのだと自惚れることになるだろう」とウェーバーはいいます。とこの「末人」は『ツァラトゥストラ』に出てくるものです。

ルサンチマンに牽制され、理想であれ富であれ遠くを見据えものに挑む努力そのものに人々が倦み飽きる時代が来る、彼らはそこそこの生活に満足し、適度の刺激と健康さえあれば満足する。その点で皆平等で、そう思わぬものは狂人として排除される。彼らは自分達が知識があり賢明で、ぬるま湯のような生活が本当の幸福であると想いこむ。そんな時代が来るだろうとニーチェは言うのです。

論文の最終局面に「末人」を書いたマックス・ウェーバーの問題意識は現代にも響くものがあります。

ウェーバーは神々から召命された天職を全うする、といった精神から倫理が消え、欲望も理想もなくなる社会が来るのではと想ったのかもしれません。何にも情熱を持てなくなった時に、その世界は徐々に冷えていくのか…? ロボットが労働を代理するようになればますます人間が"働く"意味もなくなります。さらに言えばAIが人間を知能で越えるシンギュラリティが起きれば"理性"すら意義を失い半ば家畜になってしまうかもしれません。

一方で、マネーを求めるレースにより、需要充足経済の朴訥とした時代が終わり、厳しい競争時代になっているとも言えます。経済選良達が弱者に対して無慈悲性を出すのは"努力"がトリガーとなっている気も。

私自身の考えを言えば、経済活動によって神の国を造るというよりは、CERN等の宇宙物理理論を発展させていくことこそ人類の使命であり、最もわくわくする事柄に感じますが、それも"人類"の名を借りた科学振興なのかもしれません。お金を別の方向に使えば救える悲劇もあるのにとも思いながらも、ついついマネーを心躍る方向に遣いたいとも思ってしまう。

その時"人間の使命、或いは地球市民の喜びとは?"或いは個人間における"人間らしさ"とは何かを考える事こそが社会的・哲学的課題になる時代、シンギュラリティは2045年ごろやってくると言われています。

その問題意識に通じるものを百年前に描いたウェーバーに感嘆するとともに、"人間"をもっともっと知りたい、社会システムを思考するためには人間理解こそ重要なのだという気持ちが高まった読書体験でした。

俺で良けりゃ必要としてくれ CALL ME CALL ME
電話一本でいつでも呼んでくれ 後悔ないようにしとくぜ
「人間的」とは何かな 答えの数が世の中の形
何年過ぎても同じさ 人が人の上を目指し 何年先でも同じさ 「I LOVE YOU」 「I LOVE YOU」が灰になる
―YOSHII LOVINSON/CALL ME



by wavesll | 2016-08-31 08:04 | 書評 | Comments(0)

『嫌われる勇気』は読まずに、関連文書を読む ~自己欺瞞を超えて <アドラー心理学に触れて>

c0002171_2434392.jpg週刊ダイヤモンド 2016年 7/30 号 [雑誌] (今こそ! 「嫌われる勇気」 初めてのアドラー心理学)は非常に面白い特集でした。

ここ数年自己啓発系からは遠ざかっていたので『嫌われる勇気』そして『幸せになる勇気』も良く知らなく、微かに"アドラー心理学"という言葉は知っていたのですが"嫌われることをいとわないきちんと叱る教育論だろう、なんか自分にはあわなそうだ"と敬遠していたのです。

しかし、実際のアドラー心理学は私が想像していたのとは違う、というか真逆でした。

彼はフロイトやユングと共に勉強会に参加し、後に袂を分かった人物で、その主張の根幹は"人の行動は過去のトラウマ等の『原因』でなく、何がしたいかという『目的』によって起こされる"というもの。

『目的』を達成するために、(主にアドラーは教育論を得意分野としましたが)『自分の課題と他人の課題を峻別し、他者の課題に踏み込まず、自分の課題に他人を踏み込ませない』・『承認を得ようとしない』。何故なら人生の悩みは全て人間関係から起きているから。

その為『人を褒めない・人を叱らない』。その代わりに感謝と尊敬を伝え勇気づけることが推奨される。人を支配しようとするタテの繋がりでなく、フラットな人間関係こそが大事だ、と。

アドラー心理学は自己中心的な哲学かもしれない、或いは人を突き放す哲学かもしれない。しかし人は体験からでしか学べない。子どもが失敗しそうになった時に先回りして苦難を取り除くのではなく、一度失敗の痛みを味合わせ、自分の行為の責任と結果を認識させたうえで、これからは失敗しなうようにどうするか考えさせる。何、人間は死ぬ一瞬前からでも変われる。

というような特集でした。『嫌われない勇気』の番外編が載っていたり、なかなか上手く纏まっている特集だったように思えます。アドラー心理学は自己啓発の祖ということですが、『自分の小さな「箱」から脱出する方法』に於ける"自己欺瞞をなくす方法"に通ずる考えだなと。しかし、他者からの承認や評価を求めないとしたら、確かに人に嫌われるかもしれないけれど自由な人生を歩めるかもしれない。しかし、他者からの承認や評価がなければ"金を稼ぐこと"が不可能では?金がなければ経済的自立ひいては精神的自立も難しいのでは?と想ったのも事実でした。

なぜアドラー心理学に共感と疑問を持ったのかというと、酷い鬱で引篭りをしていた時に、もう何日も寝床で苦しんでいた時期が昔あったのですが、その時に自分の中で光明が差したのは『もし俺が死にたいのなら今すぐ死んでいるはずだ。俺は生きているのだから、生きていたいんだ。みな、色んなことを勘案したうえで生き方を選択しているのだから、全部ひっくるめたうえで"みなやりたいことをやりたいようにやっているんだ"』という考えに辿り着いたからでした。

そしてしかし、今はこれは傲慢な考えであるとも思います。私はこの考えに至って、ある意味"嫌われる勇気が持てた"というか、結局自分はやりたいことをやれているんだと思えましたが、例えば重病を患ってしまっている人に"あなたもやりたいことをやりたいように、生きたいように生きている"なんて言うのは大変傲慢な態度ですし、精神疾患に関しても、逆にアドラー心理学に追い詰められてしまう方もいるようです。実際、トラウマで脳に拒否回路が出来ることもあるでしょうし、"精神力の8割は体力"という言葉もありますし、身体的な嫌悪感は根性論だけでは解決できないとも想います。

その上でよりアドラー心理学のことを知りたいと、『嫌われる勇気』著者の一人で日本におけるアドラー心理学の第一人者の岸見一郎氏の

アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために
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アドラーに学ぶ よく生きるために働くということ
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を拝読しました。ダイヤモンドを読んで疑問に思った点が幾つか解消されているのと、特に後者では働くということに関して自分が知りたかったことが端的に描かれている気がしました。

人間、特に子どもは親の関心を引こうと"特別"でありたがります。親の期待に応えて真っすぐな道(例えば勉強やスポーツ)で成果を出して特別であれればいいですが、それらで上手くいかないと"悪いことをしようとして特別になりたがる"ことをしようとするそうです。不良行為の根本には親に構ってほしい、世間に自分の存在を認めさせたいという心理があると、岸見氏は論じます。大人でも"優越感競争"に興じるのは劣等感の裏返しだと。

"普通であることを恐れない"ことが成熟の証だと。そして"自分にしか出来ない、代わりの効かない仕事をするべきだ"と。

一見これらは矛盾するように思えますが、人間社会は分業の世であり、人それぞれ経験も知識も技能も違います。目指す理想も違います。自分の中で"ど真ん中真っすぐな球"を投げても、人によってコースに違いが必ずできるし、だからこそ人間社会は分業で成り立っている。何も奇をてらわず、自分が一番いいという形で社会に貢献していると想えることが幸福を与えてくれる。私にはそう読めました。勿論、普通に囚われ過ぎて開拓心を失ったらいけないとも思いますが。

書籍の中では"共同体感覚"そのものが間違っている場合もあると語られていたり、仕事に関しても一度は思いっきり鍛錬して習熟したうえでないと仕事が楽しい楽しくないは語れないと書かれていたり、実際的に"自分の意志は伝え、相手に流されずとも角が立たない断り方"とかが提示されていて、一読だけでは拾いきれない数多くの示唆が書かれており、身になる本を読めたな、と想いました。『嫌われる勇気』は対話形式の自己啓発本臭が強すぎてちょっと読んだだけでやめてしまったのですが、また時が来たら読むかもしれません。

仕事が面白くない、嫌だ、踏み出せない、どうせ駄目だといって目を背け続けている事実を叩きつけられたというか、少しでも前に進むために学習や訓練すら行わないのは自己欺瞞で、駄目だと再認識させられました。人生が誰かとの競争ではなく、自己の絶対的な旅路だと考えれば、自分自身の等身大の人生を認められる。まだちっぽけなプライドが残ってはいますが、この読書を機に再チャレンジをリスタートし、じりじりと研鑽を積みたい。そう思いました。

P.S.
これらの著作、Amazonの書評にエッセンスをまとめてくださっている方がいるので、要点だけ知りたい方は書評を眺めるのもいいと思います。そして気になったら手に取られて損はないと思います。

追記
以前は無償の善意を振りまき、他者に愛されていた私も、鬱を経験して『自分は生きたいように生きているのだ』と自覚し、そして行き過ぎて傍若無人になってしまった私はその後多くの信頼を失うことになります。ただその過程で気づいたのは、友人は友人であって、友人に何かしてもらえると考えるのは多くの場合は錯覚であるということ。勿論、出来る範囲で付き合いをしたり、貢献することはいいことだけれども、各個人の人生は各個人の人生で、それこそ家族とかパートナーでないと、他者である私の人生を共に過ごすことは、ほとんどない。みな自分の人生に精一杯なのだということです。

自分の課題は自分の課題。他者は出来る範囲で手助けしてくれることもあるけれども、自分の人生は自分で責任を持つ、そして共に人生を歩む人たちには、また、やっぱり本気で関わりたいし、そうしたときにも自律するために、自立するためにこそアドラー心理学をスパイスに使うと意義深いのだなと想いました。人は過去(トラウマ)にも未来(将来への期待)にも影響を受けて今を生きていると想います。今は今だけでなく過去にも未来にも繋がっているけれど、最善だと想える今の過ごし方をしていくトレーニングは人生をより良いものにするのだと、今は想うのです。そうして自立と自律ができてこそ、私に付き合ってくれる人への尊敬が自然に心から湧き出で、友とも信頼関係が築けるのではないか。今はそう想います。


この後『幸せになる勇気』を読んで、アドラー心理学についてもう一本記事を書きました。

続・アドラー心理学 <幸せになる勇気/黒い十人の女/天> ぬくもりという名の獣道

Depeche Mode-Violator (Full Album Remastered)


cf.
二村ヒトシ『すべてはモテるためである』 ・ 『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』短評



by wavesll | 2016-07-22 03:47 | 書評 | Comments(0)

アダム・スミス著/山岡 洋一訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』第二・三編読書メモ

c0002171_19491881.jpgアダム・スミス 著, 山岡 洋一 訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』 第一編 読書メモに続き、上巻を読み切りました。

第一編では"富とは何か、何を持って価値とみなすか、その原理とメカニズム"について論じられましたが、第二編では資本の分類、そしていかにして資本が増大していくか、その蓄積と利用について語られ、第三編では富を管理する政治の側面の分析がなされていました。

アダム・スミスの視点だと、単純な快楽に金を使うのは浅ましい行為で、日々の娯楽に消費するのではなくで、資本は資本を増やしていく為に使うのが素晴らしい使い方だとしているのが印象的でした。しかし、こうした消費快楽が、大領主が富を家来たちを喰わせるのではなく宝物を買いあさることに使わせ、結果として都市国家の成立、つまり商人・手工業者の独立に繋がったと、第三編では論じていました。

また、第二編では銀行による信用創造が解説されるのですが、面白かったのは、過去の歴史を辿って、”無法図な貸し出しは必ず破綻する。世の企業家は「なぜ貸し渋りをするのか」と騒ぎ立てるが、そんな声に惑わされず、慎重な貸し出し業務を行うべきだ"という論陣が張られていること。それから200年以上たち、量的緩和やゼロ金利政策が行われる現代日本からすると、隔世の感というか、実際2世紀過ぎてるんだもんなぁと想いました。

生産的労働、つまり社会資本のストックとしてモノが残る労働と、非生産的労働、宗教・法律・医者・文人・エンターテイメント産業の人々を分けるのも興味深かったです。当時は著作権と言うものが無かったから、これらのサービス業者はフローとしてしかみなされなかったのでしょうか?"遊び好きは怠惰で貧しい"といわれるのは耳の痛い言葉ですね(苦笑 第三次産業が発達する現代の先進国は、コモディティから抜け出すためにデザイン性やエンターテイメント性、あるいは好感度なサーヴィスが求められることを想うと、数世紀前は貴族が暮らしていた生活高度を庶民が愉しむようになったと。アダム・スミスが現在を見たら、驚くでしょうね。或いは嘆くかもしれないw

それでも、スミスは"大国が民間人の浪費や無謀な経営で貧しくなることはないが、政府の浪費や無謀な政策でまずしくなることはある"と述べます。ここでやり玉に挙がるのは軍事費と宮殿や教会の煌びやかな建築費。憲法改憲や新国立競技場で揺れるどこかの国にも適用できるような話です。

政治と税の使い方に関して、本書を読んで興味がわきました。第三編では国王や大領主が如何に民衆を支配していたかが語られるのですが、そこでは集められた税は、支配層の贅沢や、軍を維持する費用、政治を行う費用に与えられていた。この税の利用の移り変わりと言うか、いかに”富の再分配”に遷移していったかの歴史、気になるなぁ。その前に政治、法、軍(当時の領主は判事でもあり総司令官でもあった)というのが社会のリーダー層に求められることなのだろうなぁと。アダム・スミスを読んでいると小さな政府の信奉者になりそうでもありましたwケインズも読みたくなりました。

また、"人は誰でも農業がやりたい。生きていくものを自分の手で誰にも指示されずにコントロールしたいから。その次は製造業、最後に一番結果をコントロールできない貿易がやりたいものだが、リスクを取った分だけ儲けも大きくなっていく"とか、"領主は自分の土地を改良してより生産的にしようとはしないが、商人は成功の見込みが見えたら、どんどん資本を投下して改良していく"という話も、リターンを得るためにはリスクを取れるか、計画性があるか、決断できるかにかかってるんだなぁと想いました。

いよいよ次の編からは下巻。アダム・スミス教授の話は面白く、学びと言う贅沢な時間を過ごせて幸せですが、スミス教授からは「生産しろ!」とどやされそうですねw

アダム・スミス著/山岡 洋一訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』第四・五編読書メモ
by wavesll | 2016-04-07 20:36 | 書評 | Comments(0)

アダム・スミス 著, 山岡 洋一 訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』 第一編 読書メモ

c0002171_14451933.jpgアダム・スミス 著, 山岡 洋一 訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』
此の本を手に取ったのは、大学で経済学部だったくせにまるで経済を勉強せず、文学部の授業が一番楽しかった人間だった私が、社会の中で揉まれたり、打ちのめされたり、浮かんだりする中で、本当の意味で経済を学びたいと想った時に、翻訳家の山岡さんのこの文を読んだからでした。

経済学の始まり、古典中の古典のこの本を、この人の訳なら読めそうな気がする、そう想って取った本書。感想を述べると、困難、だけど読みやすいといったところでしょうか。実際、ようやく第一編を読み終えたところで、残り3/4が残っている状態なので、一編ずつ読書メモを纏めようかと想ったのでした。

「困難、だけど読みやすい」というのは、古典の格調高い難解な訳文でなく、平易な文章で訳されているので非常に読みやすいのです。しかし、まるで数学の定理を積み重ねていくような論理の山嶺に登る感覚と言うか、一文たりとも読み飛ばさない本でして、じりじり山頂を目指しているところです。

社会に出て経済と言うものを考えた時に、経済学は"価値の学問"だと思っていました。脳科学や社会学、法学、そして数学など多岐に渡る学際的な"人は何によって動くのか"を考える学問だと。そしてアダム・スミスはまさにこの第一編で"商品の真の価格と名目価格、労働価格と金銭価格"について論じています。

人間は分業を行う事で、各作業工程の熟練化とイノベーションを起こし、社会を発展させてきた。人はそれぞれ"プロフェッショナルな専門家"になることで、特に都市に於いては顧客が多いため、ニッチな職業でもやっていけるようになった。当初は物々交換だったが、貨幣を発明し、更に交換を便利にし、分業を助け、社会を発展させてきた。

その結果、人は自分の生活に必用なものの極一部しか自らでは作らなくなった。そうしたとき、人が豊かかどうかは、他人の労働を如何に支配あるいは購入できるかで測ることが出来るようになった。

アダム・スミスは"ものの真の価格、つまり、ものを入手したいときに本当に必要になるのは、それの生産に要する手間であり、苦労である(中略)労働こそが当初の代価、本来の通貨であり(中略)富の価値は、それで購入できるか支配できる労働の量にまったく等しい"と述べています。

商品の価値の真の尺度は労働ですが、違う種類の労働を比べるには、時間だけでなく、どこまで厳しい仕事かとか、創意工夫が必要な仕事かも考慮しなければならず、便宜上市場での駆け引きや交渉で労働の価値は決まります。そして貨幣経済の元では労働の価値はそれで交換できる商品の量で考えられ、商品の交換価値は貨幣で考えられる。とスミスは述べます。

そして面白いのは、金兌換性の当時は、金銀の価値と言う絶対的な保証のもとで貨幣経済がなりたつのかと思いきや、ポトシ銀山の発見など、金銀の使用可能量の増加によって銀の価値が上下したりするという話です。ここら辺の話はアベノミクスの量的緩和に通じる話で、昔からそういうメカニズムはあったのだなぁと。価値の尺度となる貨幣自身も価値が上下する変数となるというのは、面白くも面倒臭いですね。

労働の真の価格は労働に対して支払われる生活の必需品と利便品の量であり、名目価格は労働に対して払われる金銭の量。労働の報酬が高いか低いかは真の価格によって決まります。

同じ時期、同じ場所であれば真の価格と名目価格の比率はどの商品でも同じですが、時期が違ったり場所が違うと価格差(=裁定)が発生し、それもビジネスチャンスになると。確かにもう表参道ではだいぶ空いてるエッグスシングスも船橋では行列ですものね。

極未開な社会では労働の生産物は全て働いた人のものになるが、資本を蓄積する人が登場すると、労働者が原材料に付け加えた価値は、資本を事業に投じてリスクを取った事業主の利益と労働者の賃金の2つにあてられます。更にその土地が私有財産の場合、地代が価格の第三要素になります。

そうして作られる商品の"自然価格"とは商品の値打ち通りの価格、つまりその商品を市場に供給した人にとって実際に要した額に等しい価格です。この実際に要した額は原価や元値と違って、資本の利益(売り手の生活費)としてその地域での通常の利益率も加算されたモノです。

そして実際に売買される一般的な価格を市場価格と呼びます。アダムスミスは市場価格は需要と供給のバランスにより自然価格に収斂していくと述べます。それは儲からなくなった事業をやる人間がどんどん減っていき、もうかる事業に人が向かうからというロジック。確かにマット・リドレー著『繁栄』にはアメリカでは毎年19%の事業が入れ替わっていると書いてあったきもします。ちなみにこれは経済学トリビアなのですが、アダムスミス自身は「神の見えざる手」という表現は使わなかったようです。

しかし、スミス自身、この神の見えざる手は現実では慈雨分に働いていないと述べます。それ徒弟制などの職業を少人数に限定する法律によって職業移動の自由がはばまれることなどを挙げています。

労働者にとって経営者からいい条件を引き出せるときは、労働者の需要が増え続けている局面。労働賃金の上昇をもたらすのは国富の大きさではなく、国富の増加が続くことだそうです。ここら辺の話は日本よりシンガポールが勢いがあるから一人あたりのGDPにも勢いがあるという話や、長期デフレを何とかしてインフレに持っていきたいという経済政策にも通じる話です。国富が大きくても長期にわたって停滞している国は労働の賃金は高いとは考えられないそうです。

また、貧しい人は結婚への意欲が弱まるが、結婚できなくなるわけではなく、貧しい方が子沢山になるという論も出てきます。スコットランド高地地方で栄養失調に近い女性は20人以上子を産むのも少なくないが、贅沢三昧の貴婦人は子供を一人も産めないことも多いし、大抵2人か3人で精一杯だそう。享楽への情熱が強くなるから、なんて話は現在の先進国の少子化にも通じる話ですね。
ちなみにスコットランドの20人の話には裏の理由があって、20人生まれても環境の厳しさから2人も生き残れなかったそうです。

また、スミスは人口の最大部分を占める下層労働者が幸せに暮らせるのは豊かさが頂点に達した時でなく、社会が前進している時だそう。停滞している時は元気が無く、衰退している時は憂欝。どこかの国のエセリベラルな保守主義者に聴かせたいwまた労働の報酬が高いと庶民は勤勉になり、未来の為にも働くそうです

労働の賃金は快くなく、厳しいほど高くなり、仕事を習得するのが難しいほど高くなります。またいつもある業務か、臨時の業務かでも異なり、臨時の方が高いです。これは日本は派遣業でしっかりこのルールでやらないとアンフェアですね。その他社会的信用の高さや、成功を収められる可能性が高いかどうかも高低に影響します。面白いのは弁護士のような成功を収められる職業は、鳴りたいと想っている人に比べて成れる人が少なく、その敗者の分も勝者が総取りしているから高くなると。若い内は自分の能力を高く見積もりがちですからね。しかしその自惚れが社会を動かす原動力にもなっているのですね。

実際にはその他、地域地域での特色があり、当時の欧州は住む場所の移転が不自由でしたから、スミスの理想はなかなか難しかったそうです。都市部でないと成功し拡大できない業務もありましたしね。

また文人は聖職者になる教育を受けたが聖職者に成れなかった人の成れの果てだったそうです。少なくとも印刷技術ができるまでは文人は教師になるくらいしかなかったそうです。教育の安価化によって文人がギリシアの昔から比べると天と地ほどきつくなってきているという話は、インターネットによって苦しんでいる活字産業にも通じる話ですが、スミスはこの不平等は社会にとっては総合的にはいいことだと論じています。

その他、面白かった論では、高価な商品の総額よりも、安価な商品の総額の方が大きいという話。甲本ヒロトが「一番売れてるラーメンが一番美味かったら、一番美味いラーメンはカップヌードルになるぜ」という話を逆から読んだみたいで面白かったです。更にいえば、豊かな国ほど高級品が高値で売買されるようになるという話も面白く読めました。社会が発達し、富が増えれば、モノは自然と高値になっていくという。トランスナショナル化と失われた20年が進む日本ではなかなか上手くいっていませんが、綿密にデータに当たって書かれている本書を読むと、経済学は学ぶ価値があるなと想わされました。労働者と地主は自分の利益を最大化すると社会の利益も最大化するが、雇い主が利益を最大化しようとすると社会の利益が損なわれることもあるというのはブラック企業や内部留保に通じる話で、現代にも通じます。

というか、経済学部に限らず全学部でこれが読まれたら、国の活力が変わるかもレベルの読書体験。
今後の2~5編も楽しみです。

アダム・スミス著/山岡 洋一訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』第二・三編読書メモ
アダム・スミス著/山岡 洋一訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』第四・五編読書メモ
by wavesll | 2016-03-29 16:25 | 書評 | Comments(0)

マット・リドレー 『繁栄 明日を切り拓くための人類10万年史』 交易と創新による10万年の商業史

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マット・リドレー著 『繁栄 明日を切り拓くための人類10万年史』を読了しました。

人類が文明を発展させた要因は"交換"とそれによって起きた"分業による専門化"、更に"アイディアの生殖によって起こされるイノヴェーション"にあると論じた本書。10万年前の手斧石器から、古代・中世、そして産業革命以後から現代(2010年初版発行)に至るまでの人類史を"世の中はどんどん良くなっていて、これからも良く成り続ける"という楽観論を夥しいまでのエビデンスの印象によって説得を聴く読書体験でした。

比較優位による自由貿易が繁栄を約束し、今身の回りにあるモノは、数千人、数万人の協業によって創られていること。或いは、交流を行わなくなったタスマニアの民の中で技術が退化して行ったこと等が論じられます。“自給自足は貧困を産む”と。TPPとも関係づけられる話で、果たしていま日本で出来る比較優位な産業とは何なのか?あるいはマット氏が論じる貿易の自由によって、逆にルサンチマンは堪らないのか。或いは"ウォルマート"のようなスーパーは昔ながらの個人専門店の"分業"を壊しはしないか。更に言うと本書が出た後起きたシリア内戦で欧州に人が流入しているが、富を貪っていた欧州が自由を与えないのは不義理でないか。さらに言えばマット氏の地元、イギリスなどEUとしても福祉を認めない、このナショナリズムにおけるバックラッシュを考えたとき、単なる楽観はいただけないかもなと想いながら読んでいました。

特に"人類全体としてみればどんどん繁栄している、現代人はルイ14世と同じ暮らしをしている"といわれても実際に経済的幸福は相対的な順位で決まるだろうし、或いは悲劇に終われた人からすれば"全体が良くなったって自分には関係ないよ"と想うかもしれず、進歩のスピードが落ちても、公がすべき仕事はあるように思えます。

一番面白く読めたのは"再生エネルギーは環境に悪い、化石燃料がいかに人類と環境にとっていいのか"と言う部分。再生可能エネルギーは土地を使うし、自然の景観を壊すのみならず、原生林に使える土地も減らしてしまうとのこと。更に著者は遺伝子組み換え作物にも肯定的で、従来の小麦だって放射能を浴びせ突然変異させたものを口にしているのに、環境活動家によって遺伝子組み換え作物が、飢餓に苦しむアフリカですら忌み嫌われている、90億人になるとみられる人口を養うにはこの道しかないのに。しかも有機栽培も多くのエネルギーを消費するじゃないか、と論じます。

ここで想いだしたのは、学生の頃参加した"懐かしき未来"という講演会で、スピーカーが「古来からの精神的に豊かな暮らしに立ち返ろう」と言う話をしていた時に、自分が質問した「では地球の人口はいくつが最適だと思いますか」というのにはぐらかされたこと。昔ながらの生活は土地を使うし、ある意味とても贅沢で、現状の70億人もそれでは養えない。人類にとっての幸福の最大化とは何か、というのを考えざるを得ませんでした。

マット氏は、都市化が進むことで原野が蘇るかもしれない、とか、出生率は20世紀後半から先進国で落ち始めているし、もっと最近では少し持ち直し、人口増を抑えながら維持するようになっている、とデータを示して論じます。

ただ、彼の論は最初に反対する悲観論者の話を挙げ、それへの反論、と言う形で進むのですが、これ、逆にしても通じるのではと想うところもありました。また博覧強記振りも示してはいますが、江戸時代を貧困の時代と言い、イギリスの産業革命を持てはやすには、100万都市江戸の町人文化を知っている身としても異論があり、全てのデータも、突っ込んでみれば誤りがありそうな気がしました。それでも、自由な商売環境が実際的に人類を豊かにしてきたというのは、この星全体では正しい噺だと思います。

未来に対する楽観論を、まさに数々の先行研究のサンプリングで明らかにしようとする姿勢は"アイディアの交配によりイノヴェーションは向上する"というのを身をもって示していて、なるほどなぁと想わせることもあったし、生物学者の眼で見た人類10万年の商業史として面白く読むことが出来ました。とかく批判論がのさばる未来予測に新風を巻き起こしただけでなく、悲劇を求めるメディア・エンタメ、そして政府・学者に対して"でも実際生活って向上してるよね"と楽観で水を差した本書は、ともすれば"アーミッシュもいいなぁ"と想ってしまう自分に"創造的破壊"の世の中を渡る心構えを与えてくれました。

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Avicii - True (Full Album) (Deluxe Edition)

by wavesll | 2016-03-08 02:06 | 書評 | Comments(0)

常に最大の効用生産性を発揮するのが幸福なのか -ザック・リンチ/ニューロ・ウォーズを読んで

ザック・リンチ著『ニューロ・ウォーズ』を読みました。
c0002171_11502516.jpgfMRIによって進行中の脳の分析ができるようになって進んだ"ニューロ技術"を紹介する本書。

神経法学、マーケティング、金融、社交、美学、宗教、戦争、感情の整形、から論じる。6年前の本だが衝撃的でした。例えばこれから犯罪を犯すかどうかの意図を顔の筋肉から読み取る技術であったり、最前線で最大のパフォーマンスを行うことが求められるトレーダーや軍人は、ニューロ器具や精神に作用する薬を使って、人工的に"ゾーン"に入るようになるという話。藝術による脳内反応を分析して、より効果的な快楽を創りだせるようにしたり、神経内部の現象として神を捉えたり。

特に著者が力を書いていた法律面でのニューロ技術の導入の話は、分析の正誤の確率をしっかり話してくれたので、鈴木松美 編著 『日本人の声』よりも信頼できるかもとも想ったのですが、もう一つ深く書かれたいた軍事技術への転用の話は、"記憶を消す兵器"だったり"嘘をつけなくする薬剤"だったり、"すぐに筋肉が回復する装置"と俄かには受け入れずらい話でした。科学誌に論文が載ってる確かな話らしいですが。

受け入れずらいと言うのは、著者はこれからの20年は好むと好まざるにかかわらずニューロ技術を持つものが、競争に勝つ。トップ層の戦いに参加するためには、或いは敵に負けないためにはニューロ技術を推進しなければならない。とのことでした。

話を読んでいると、"悪の枢軸を打ち負かすため"との話が良く出てくるのですが、読んでるこちらとしてはアメリカこそが邪悪な技術を追い求める国家のようにみえてしまうのは否めません。

また、神経美容といって、記憶力を高める薬だったり、リタリンみたいなハイに慣れる薬が米国の学生の間では広く使われている。精神的な能力を補い増幅するために薬が使われるという話は、異様にも感じました。

しかし、それはアナクロな価値観かもしれません。"ニューロ技術は否応なく広がる"という著者の話は正しいと思うし、過去にはLSDも合法だった時代があったり、現代でもタバコとアルコールは摂取しているのは許されているし。実際日本でも神経美容薬と言うか、最近、あがり症に聴く薬、なんかのCMやってますよね。

或いは自分は"薬を使わない"ということを一つの誇りとして、薬を使わずに快くなるように音楽や芸術を使っているのですが、それはある意味、より良いオーガニック・ドラッグを探し求めているということかもしれません。結局目的は脳内麻薬を出すことなのだから、薬でも同じかもしれないし、それは素晴らし体験なのかもしれない。食わず嫌いなのかもしれません。

依存症にならない脳内麻薬発生装置ができたら、それはいいことかもしれません。『ウルトラヘヴン』のような世界が来るのかもしれません。

ただ、自分は、世俗的な生活ならば、精神の安定から最大の効用生産が行われると想うのですが、こと芸術に関しては、苦しみとか痛みとか哀しみとか、負の感情から名作が生まれること、あると想うのです。いつでもいつまでもハッピーで、常に最大出力で、最大の生産性を産むのが生きる目的なのか、そこには自分は一つの翳を観てしまう気もします。本書の中でも"悲しみが脳に深い感動を与える"とも書かれていましたが。

魔導技術のようなニューロ・テクノロジー、これらが世の中に広まり、森羅万象の全てが脳内の信号としてある程度把握されていく、操作されていく未来がやってくるのだな、と想いました。だからこそ、"生身の魔法"の価値が上がっていくのではないだろうかと想うと共に、ニューロ技術をその生身に掛け合わせるために使っていくのが、この先の世の中をヒトが生きていく方針なのかな、などと想いました。

人間の脳は1万年前からあまり変わってないし、特に感情をつかさどる部位は、哺乳類とか爬虫類脳とも言われています。技術をものにするために、身体がストレスを耐えられない負荷を感じていることからの軋轢は、ニューロ技術だけでなく、ある意味古代的な様式も重要になるのかもしれないと、この本を読んで逆に想った自分はやはりアナクロ爺の素養があるかもしれませんねw

Kenji Kawai - Cinema Symphony - Ghost In The Shell OST

by wavesll | 2016-03-05 12:37 | 書評 | Comments(0)