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人付き合いとWeb同期 文字コミュニケーションの時間的レンジの広さの価値

不在着信だけ残すのといきなり電話してくるのは相手の時間と行動を拘束する行為だからやめてくれ(はてな匿名ダイアリー)

これがTwitterでバズっていたのですが気安く電話を掛ける"電話野郎"だった身としては耳が痛い話で。
電話って相手の顔色が窺えないから逆にずけずけと相手の時間と行動を拘束してしまうなと。

一方でテキストのコミュニケーションは時間拘束から自由で便利というのはその通り。

私も旧友の人達がBlogでもやってくれてると近況を知れて有り難いと想うのですが、今はそういうのはFacebookなのでしょう。FBよりBlogの方が内向き感がないしPUSHされないから好みなのですが、それは我儘というものか。

SNSがシェアハウスとすればBlogはワンルームに訪ねてくというか。生活は共にしてないけれど時に近況をやり取りする距離感。

リアルの友人関係は書くもので繋がったわけではないですから文章をTLで同期するより自分で読みたいときに訪れるのが一種の理想ではあるのですが、公開の場に色々と書くのは差しさわりが生じることがあるというのはわかります。

”直接会わずともSkypeで家飲みでいいじゃないか"とか思ってしまうWebに浸った人間なのですが、結婚とかしてたら"外で会う"ことの自由さも想像できます。

実際の処、Webを通じて1:Nの同期を行いたい、なんてのは普遍的な欲望ではないかもなとは想います。

仕事から帰って飯食ってニュースみて風呂入って、なんてしたら午前様になることもあるだろうし、パートナーや子供とやりとりして趣味をちょっとしたらそれを記録する時間なんてとても取れないし。私も色々書いてますが、毎日更新って無理な話で。まぁ毎日更新されたら追うの大変だからしなくていいのだけれど。

"今更昔みたいに友達付き合いに時間もかけられないし、年一の飲みと年賀状で効率的に交流を凝縮でいいじゃないか"って感じかなと。まぁ、友達付き合いに時間かけるのは暇人のすることと言われたらぐうの音も出ないw

年一飲みは盆暮れしか帰郷できない事情もわかるのですが、年賀状とかはちょっと形骸的に感じてしまって。義務的に年賀状だけでやりとりするよりも上で書いたみたいに心がふいに向いたときにやりとりできたら、なんて思ったりします。まぁ年賀状自体は古来から続くソーシャルネットワークサーヴィスなのだとも理解してます。

人間、何かの行為を共通に持たないとコミュニケーションが嚙み合わないのかもとこの頃想います。それは例えば行事だったり、趣味であったり、子育てかもしれないし、仕事への熱中度かもしれないし。そうした事を越えて旧友とコミュニケーションを取るには"空間"を共にする事が結構大事な意味を持つのかもとここまで書いて想いました。

ただ個人的にはSNSで繋がっていなくとも、ふと"あの人どうしてるかな"とWebサイトを訪ねて”あぁ、元気にやってるんだ”とか"こんなこと最近想ってるんだ"と知れるのは嬉しく感じて。何もPushされずにふとPullでみる、そんな親交。そういう場を読みたい、自分も用意したいとBlogを綴ってるのもあるかもしれません。

また今の時代、コミュニケーションにおいて即時性が兎角求められる気がしますが、それは文字のコミュニケーションの良さを殺してしまっているのかも。LINEやEメールの返信の速さはそんな期待せずに2、3日見た方が気分が安まる気がします。返信の気分は人それぞれですから。

さらに思うに、人に何かを薦めたり働きかけた時、即座に反応されることを私などはついつい期待してしまいますが、それも過大な期待だと。

私自身もある同級生の子から"水カンやぼくりり、グレーテルのかまどとか面白いよ"って言われてもその魅力に自分がリーチするまで時間がかかったりしました。特に音楽なんてのは"いかに自分がその地点に到達するか"が大事で。

だからこそ他者のアクションにタイムラグなく反応する人が時代を波乗る気もしますが、情報発信する側として、即反応がなくても無駄でなく、種子が芽吹くまでに時間がかかることもあることも知っているといい、そう思います。

上で「Facebookは書くものでは繋がってはいない人とTLで同期するから居心地が悪い」と書きましたが、他人と100%の同期や共感・評価を求めること自体が土台無理な話でもあります。

BlogやTwitterをやっていても全然反応が普段なくともこちらで何かミスがあるとクレームをつける"読み手"はざらにいて。昔はそういう読者にムカついたりもしたものですが、今は"私はこの人に文章をサービスとして提供出来ているんだなぁ"と考える様になりました。

"これは面白い"と私は"いいね"を積極的にするのですが、読んで反応するコトって案外ハードル高いコトと考えるヒトって多い印象。

その点Twitterは反応も結構あったり、何しろ相手も"書き手"なのでフリーライド感がないのはいいと想います。自分の身の回りの狭い範囲に"何か書いてくれること"を求め地獄を起こしたことがあるので。

ネットの広大さ、PUSHよりもPULLの文字コミュニケーションの精神的な自由さに感謝を述べたい。文字コミュニケーションの時間的レンジの広さの価値を今、再発見しているところです。


Erik Mongrain - AirTap!

by wavesll | 2017-04-12 02:32 | 小噺 | Comments(0)

『欲望の資本主義2017 ルールが変わるとき』をみて

第1章~第3章
第4章~第5章
第6章~第8章
第9章~最終章

前編「欲望の資本主義2017 ルールが変わる時」(Dailymotion)
後編「欲望の資本主義2017 ルールが変わる時」(Dailymotion)

BS1スペシャル「欲望の資本主義2017 ルールが変わる時」をみました。

安田洋祐(大阪大学准教授)をナビゲーターにジョセフ・スティグリッツ(コロンビア大学教授 2001年ノーベル経済学賞受賞 アメリカ大統領経済諮問委員会委員長 世界銀行チーフエコノミストなどの要職を歴任)、トマス・セドラチェク(チェコ総合銀行チーフエコノミスト 経済学者 24歳のとき初代大統領の経済アドバイザーに抜擢 チェコでベストセラーとなった著書『善と悪の経済学』は世界15か国語に翻訳)、ルチル・シャルマ(モルガンスタンレーインベストメントマネジメント投資ストラテジスト 25年にわたり各国を調査 情報を分析『The Rise and Fall of Nations(国家の盛衰)』はアメリカでベストセラー)、エマニュエル・トッド(歴史人口学者 フランス国立人口統計学研究所 所属 旧ソ連崩壊 金融危機 イギリスEU離脱などの予言を的中)等の識者に低成長時代をいかに舵取りをしていくかが語られていました。

スティグリッツ教授は「富の一極集中の解消が成長の鍵だ」といい、セドラチェク氏はもっとドラスティックに「資本主義が必ず成長するというのはナイーブな思い込みで"成長資本主義"から変わらなければならない」と言います。

しかしアルヴィン・ロス(スタンフォード大学教授 2012年ノーベル経済学賞受賞 市場の制度を設計する「マーケットデザイン」研究の先駆者)は「資本主義の死を宣言するのは早計だ。資本はリターンを得続けているよ。シリコンバレーに住んでいるんだが多くのビジネスが集まっている」と語ります。

更にUberへの投資で著名な投資集団のスコット・スタンフォード(シェルパ・キャピタルCEO 元ゴールドマン・サックス社員 2013年ベンチャー投資企業を設立)は「私たちはより効率化する方法を常に探しているんだ。経済学でいうところの生産性だね。労働力が変わらないのに成果物は増える。そして利潤 成長 波及 創造的破壊を追究する。いかにして効率的な進化がなされない古い産業を駆逐するか。市場をとれ。需要と供給が働きあって加速して規模の効果が働いて新旧交代が起こる。それがイノベーションだ。そして消費者をハッピーにするんだ」と。

そしてシャルマ氏は「2008年リーマンショック以後、危機以前の時代より速いペースで成長できている国はまったくない。西欧だけじゃない。インド、中国、ナイジェリア、南アフリカ、ブラジル…どこでも。世界経済はスローダウンしている。」としながら「1950年~2008年は世界経済の成長率は毎年4%と異様に高い」とし、その原因を人口爆発と国家債務の増大にあるとし、「歴史的に見れば世界は今でも急速な成長をしていると言える。1950年~2008年はさておきね」と語ります。

世界経済は、"富の前借り"の破綻によってそのペースを変えて、従来の成長率を前提とした社会基盤が成り立たない事態になっていると。

この番組は前編(1~5章)は2016年に放送され、後編(6~最終章)は新作なのですが、Uber等のシェアリングエコノミー技術が社会全体にとってバラ色の未来と言えないといえども、ベンチャーが伸びたり人口が減少していない欧米は2%以上の経済成長を続けているのに対し、日本はマイナス成長。

今の欧米の経済識者が「低成長の時代にどう対応した社会・個人のありようを求めるか」と語っているのに対して安永竜夫(三井物産代表取締役社長 発展途上国のインフラ開発への投資など新事業を開拓)や原丈人(デフタパートナーズグループ会長 アライアンス・フォーラム財団代表/内閣府参与 ベンチャー企業育成のための政策提言や新技術をもちいた支援など国内外で活動)が「日本は進んだ経済観念を持っていて、これからガンガン成長することも可能だ」と息まいているコントラストが…

老人が若者より活力があるとも言えますが、"往年の夢よもう一度"で五輪や万博を開こうとするような頭じゃ現在に対応した"悟り世代"がみしみしと労働負荷をかけられる、ミスマッチが起きそうで。パラダイムが変わるには今の経営層が消えないといけないのではと想うと共に、2%すら経済成長が起きないのはやはり気脈がおかしい気がするところです。

番組では経済学の巨人アダム・スミスとケインズの思想に触れています。

アダム・スミスは"各個人が自己利益の追求をすることで『見えざる手』が働き社会が調整される"と自由貿易を唱え、ケインズは「社会の安定のため最も恐れるべきは失業者の増大 危機を回避するには国は借金をしてでも仕事をつくる そしてお金という血液を市場にめぐらせる」と唱えましたが、番組ではそれらに対して妄信することに警鐘を鳴らしています。

「見えざる手」は存在せず、市場のルールによって調整機能は担保されている。また「もう危機から7~8年経って経済は回復しているのに財政赤字を続けていいとはケインズは言わなかったはずだ」と。エマニュエル・トッド氏に至っては「自由貿易を辞めれば経済成長する」と。今までのルールが通用しない時代になったということでしょうし、アダム・スミスの時代とは異なりほとんどの人間が商業に携わる今、労働者は消費者でもあることを慮らなければならないということでしょう。

また数学的な部分を含め、経済学に触れると一見未来予測が可能であるかのように錯覚しがちですが、気鋭の経済学者であるセドラチェク氏から「"リスク"と"不確実性"は異なり、未来はわからない」と語られたのは大きなことで。

ケインズも「わたしたちの未来についての知識は実に曖昧で不確実なものだ」と言っていますが、悲完全情報状態に加え、人間という不確実な因子が絡む長期にわたる未来予測は難しいと、現代のトランプ時代に起きるシリアや北朝鮮情勢をみるとまざまざと得心します。

このように、経済学の不完全さが結果として語られた番組ですが、一つの大きな軸で語られたのが『何をもって成長とするのかの新しい尺度・観方が求められる』ということ。

GDPは適切な指標でなく、シャルマ氏によると「2007年のアメリカの住宅バブルのピークにはアメリカは1ドルの成長を得るため3ドル負債を増やしていた。今中国は1ドルの成長を得るために4ドルも負債を増やして成長率を維持している」とのこと。

スティグリッツ氏は「経済成長について話すときは"成長"の意味をはっきりさせないといけない。GDPは経済力を測るにはいい指標とは言えない。環境汚染、資源乱用を考慮にいれてないし、富の分配も社会の持続性も考慮されていない。問題だらけだ。経済における成長の本質をこの先変えていくべきだと強く思っている」といいます。

或いは原氏が「会社は株主の物だっていう考え方から会社っていうのは株主も重要な要素だけれども会社を成り立たせている社員、仕入れ先、地域社会、顧客、地球も含めた、この社中全体のおかげで会社が反映しているわけだから、上げた利益は社中に対して還元していく。こういう資本主義の事を『公益資本主義』という風にいいます」と言うように"成長の指標"をより実際的なものに刷新する必要があると想いました。

「欲望は満たされることを望まない 増殖することを望む」との言葉がありました。欲望をコントロールするには禅的に抑制するのもありですが、さらなる魅惑、さらなる欲望を提示・誘導することで"モアベターな欲望 モアベターな社会"を達成するというスキームこそ現実的に効力があるのではないか、そういった意味でも"新しい指標"が望まれます。

自然科学である物理学と社会科学である経済学は異なるけれども、"成長、あるいは幸福をより適切に測る統一理論"、それは即ち世界への認知をパラダイムシフトさせる真理を解き明かす行為が希求されているのだ、そう番組を見て想いました。

cf,
アダム・スミス 著, 山岡 洋一 訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』 読書メモ

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読む
『日本教の社会学』読書ノート
by wavesll | 2017-04-06 19:02 | 小噺 | Comments(0)

何でも公開したいとみなが思っているとは限らないという当たり前の事実について

Thundercat - Drunk (FULL ALBUM)


南米旅行から帰ってきたはいいのですがまだラグが治っていなくてこんな時間に起きてつらつらWebを流しています。

私はかなりルーズにTwitterやBlogなんかを綴っているので、思考がだだ漏れていて。
これ、悪意を持って批判的に読み込まれたら危ないとは思いつつもサトラレ状態。

一応Blogの方は比較的かっちり書いているつもりですが、Tweetは楽屋落ちというか緩すぎで「ンなことはチラシの裏に書いとけ」なノイズに塗れ、身を美しくしたいと想いつつも気を抜くと…。

まぁ、己の事は自己責任なので我が身に返って来るだけなのですが、扱いが難しいのは他人様の情報。飲みとか、電話とかで出たトークをWebに書いて幾度も失敗したことがありまして。

個人のスキャンダル的なことは「それは武士の情けで見逃してやれよ」と私も想うし、それは芸能人へのパパラッチなんかも不毛な商売してんなと想うのですが笑い話的なことでも関係者の気分を害したり。

世の中、無垢な人ばかりではないですからね。言質を取って引きずり降ろそうとしたりマウンティング仕掛けてくる人間の事を考えればそういう話も面白可笑しく書くものではないと得心します。どこで不発弾が爆発するか、分かりませんし。

また特にスキャンダルでも笑い話でもなく、盛り上がった議論から特に私が面白いと思ったことを書いた場合も問題になったことがあります。「精確に理解しないで書くんじゃない」とか「俺から聴いたと書くな」や「ちゃんと聞いた話だと書いて欲しい」と言われたことも(別々の人たちから)。

これもまぁ「あいつに何か話すと拡散されるから厭だ」というネガティヴな感情は分かります。

とは言えスキャンダルに関して『天網恢恢疎にして漏らさず』と想うのと同様に、外部に何かを発信した時点でどう解釈されるかは相手の自由で、理解の方向をコントロールしたかったらそれだけ自明な物言い、伝導率を高くすべきではとは想ったり。

しかし相手に不利益をもたらしてしまっているので、基本的には私が悪い話だと思います。秘密が維持できるから廻るものが廻っているのだと今なら理解できます。

そんな訳で、いわゆる"素の一般人"の人たちの事柄は扱うことは非常に難しいものです。権利意識がプロより寧ろ強い。ちょっとズレますがコスプレ写真のULみたいなもので、細やかに許可を取りながらでないと後々に禍根を残してしまいます。

「面白いからシェアしたい」というのはこちらの欲望で。何でも公開したいとみなが思っているとは限らないというのは当たり前の事実。

そうなると公開情報だけ扱うのが基本的には一番適当なのではないかとも想います。SNS時代、世に公開されている情報だけでも無数にあって"言論村"も拡がっているし、プロの方は色んな解釈や言葉が投げかけられることに対して覚悟が決まっているし。一億総タブロイド記者みたいになっては監視社会みたいなものですからね。どうせ暴くなら巨悪をでしょう。

このBlogでは様々な創作物のスクラップブックのような事もやっていますが、著作権の問題も含めて、色々と舵取りをしていきたく思っています。中々ないネタを仕入れる事には筋を通して、そして筆力に関しては寧ろありふれたネタの調理法こそ問われるところだなと想います。思索のシャベルを深くDigりたい。

P.S.
この記事は夜明け前に最も似合う2017年式AOR、Thundercat - Drunkを聴きながら書きました。

こういうサイト論を書くと本当に筆が良く進む癖に音楽的なことはベイグな事しか書けないのは、私は物語的・言語的にしか音楽を理解できていないのだなと想います。

このアルバムについても当初のとっかかりは「今AORって良いな」という潮流を読み取るコンセプチュアルな面でしたし、音楽をトレンドで聴くのは賛否両論あるけれども敢えて言えばThundercat - Drunk は非常にトレンディーだと想います。今丁度欲しい味を上手く提示できたアルバムだと。

しかしこの盤は決してコンセプトの仕掛けだけでなくて、音としても魅惑を感じれる一枚だと思います。ベースの弾力感もそうですが、ビートとの絡みがきびきびと良くて。そしてジャケからは想像できないファンタジーで愛に満ちた音色が入るのも素敵で。私にとって音楽は理解するものでなく、感じるものなのかもしれません。兎にも角にも『DRUNK』、お薦めの一枚です。

cf.
本音2.0

by wavesll | 2017-04-05 03:57 | 小噺 | Comments(0)

3.11から6年 刹那と継続

波よせて(石垣島、米原)


【小沢健二】流動体について (TV-LIVE)


3.11の時。一番苛烈な心情だった頃。

その時私は死が近かった心持から"お前らも漸く死を近くに感じたか"とかの呪いの気持ちと、"生き延びたことを先ずは気付かねばなるまい"という動転からSNSで東京の人々に向けて惨いことを口走っていました。

間接的な暴挙ではありますが、そこに被災者の方々への思い遣りはなく、我欲のみでした。

3.11で"普通の有り難み"に気づいた方々は多かったことでしょう。一方で、今も自殺者は2万人/年を超え、毎年3.11以上の厄災が起きていることは"普通の人々"からは"最終的には自己責任だし、仕方ないこと"とされる。結局”自分事”でないことは"他人事"、そんな"普通の人々"への恨みだったと今は想います。

誰しも"自分自身の視線"がスタンダード、デフォルトであって。"人生の重み"なんてのは自分で計ればいいことで他人に押し付けるものでは、ないですね。

あの時の自分は今平静から振り返ると惨いものがありました。音楽で安楽を伝えようとしてSNSで『波よせて』を薦めたり。津波があったばかりなのに。

時を経て今は"普通の人が普通の人生を成り立たせるためにどれだけ努力と研鑽をしているか"が身に沁みます。

"普通の人の無関心の冷酷さ"も認識した6、7年前。今は自分自身の未熟さや甘ったれさを認識すると共に、ただ大声で叫ぶだけでは逆効果、ということも振り返れば理解できます。

アダム・スミスも”施しは度を超えない”と書いていました。端的に言えば愛と尊厳が足りているからこそ、他者へ慈しみを持てるし、度を越えた慈愛の施しは寧ろ虚栄心から来て、犠牲感の無理を産むものなのかもしれません。

情報は幾らでも増殖しインフレーションを起こしますが、結果として身体性を伴わない虚像を産む恐れがあるのかもしれない、そしてそれは『西瓜糖の日々』のインボイル達のようにカタストロフへ繋がっていくのかもしれない…。

音楽や言葉は認知に働きかけるけれども、その魔法の前提、ファンダメンタルに関わる"世を成り立たせる仕事"もまた貴い。魔法を上滑りさせずに実体化するには、刹那の継続、身体性が必要なのかもしれない、朱夏に入りそんなことを想うようになりました。

そうした時に、小沢健二の新譜『流動体について』が心に浮上して。

最初聴いたときは焼き直しというか、“毎日の環境学の先がこれ?”と想ったのですがリリースから数日経って、不意に口ずさんでしまうメロディと“もしも過ちに気がつくことがなかったのなら”とリブートを示す歌詞に、王子さまではなくなったかも知らないけれど生身の人間等身大の身体性を感じて。

藝能の現場でサヴァイヴしていくには激烈なI/Oをやり抜かねばなりません。
その一種狂気を孕んだShowをMust Go Onして行く螺旋から降りて。サンプリングや引用といった自分以上の拡大から距離を離れて、その上で今『流動体について』に"再到達"したことが心に沁みたのです。

閑話休題。最近みた夢で、私はブログの記事について電話で釈明していました。その記事は書く書く言ってまるで書かなかった記事で。

高倉健を題材に“過ちを犯した後で、贖罪するにはどうすれば良いか”を書く予定のもの。どこかで刑務所から戻って来て、その罪の意識を背負った上で生きざるを得ない幸せの黄色いハンカチの高倉健は、侵略戦争の罪を負った上で国際社会で生きていかざるを得ない戦後日本のメタファだと聴いたのが深層意識に残っていたのだと想います。

私は結局、真に謝らずに筋通さずに生きてきてしまいました。

率直に謝る前段階の"過ちがあった"と認めるだけの事にこんなにも長い時間が掛かってしまいました。ただ、軽薄な謝罪の言葉よりも、自分は不遜だったと本心で認める方が私にとっては本質的なことでした。

色々な場所で失態を重ね、鬼門が増えてきた私にとっては世界の広さは救いでもあります。そして、そのひ弱さは邪悪ですらある、と今は想います。

過去は変えられないし、もう交わることもなくそれぞれの人生が伸びて行く事もあると想います。自分の身体で生活を営むだけでもタフな行為だし、博愛と虚栄は峻別しなければなりません。

摩擦や衝突に無理に身を突っ込むこともないだろうと想います。寧ろ相手に迷惑になることもあるだろうと想います。

その上で、今の自分で手が届く範囲には、一人の個人としてキャパを知った上で援けが出来る時していければ。"意識高い系"は要は"口だけ"だと想うので"刹那と継続の行為"で成していくことを積み重ねていきたい。些細なことから。

そして、言葉を積み重ねる事。言葉は言葉でしかないけれど、言葉。

一つ一つは紙のような薄さ/軽さでも、刹那を積み重ねて継続することで、情報は厚みと言う身体を、そして投下された正の時間分の重みを持つのだと想います。

結局のところ己は己の悩みしか負えません。他者と本気で向き合いたければ究極的には当事者となるしかないし、そうでないと薄っぺらになる。何かに真剣に向き合おうとするならば、時をかけて"自分事"にする他ありません。

起点はいつでもある。実は自身が権益や関係を持っていたり当事者性があることに気づくことだってあると想います。

無論、内部の"お約束"を無視した黒船的提案がさくっと盲点をついてケミストリーやパラダイムシフトを起こすこともあります。

しかし化学反応を起こす原料を作るのは時の積み重ね、技の積み重ねではないかなぁと今は想うのです。未開拓な道を示すのは素晴らしいけれど、言葉は仮想で。アイディアだけの空論と言われないためには身体を伴った行為、或いは実験、せめてアルゴリズムまで示す必要があると想います。

そして行為を為したらその結果を虚心坦懐に受け止めていく。文を認めることで澱と火と仁を浄めて。平成が終わりかけていくときに、私自身も何かの変容が来ていると感じます。幸運か、不運か。スロウスピードながら。

cf.
本音2.0

by wavesll | 2017-03-11 12:08 | 小噺 | Comments(0)

ジャーナリズムの公共意義 ―お笑い芸人VS原発事故 マコ&ケンの原発取材2000日をみて

お笑い芸人VS原発事故 マコ&ケンの原発取材2000日(dailymotion)
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NNNドキュメント「お笑い芸人VS原発事故 マコ&ケンの原発取材2000日」、大変興味深く観ました。

福島第一原発事故から6年弱、東京電力が行ってきた記者会見の最多出席者はなんと、お笑い芸人「おしどり」のマコ・ケン夫婦だ。芸人が場違いだ、とのバッシングを猛勉強で乗り切り、鋭くしつこく追求し、世に出て来なかった幾つもの事実に光を当てた。東電の会見者らが何度も沈黙したりタジタジになる事も。医学部中退のマコちゃんは子ども達や原発作業員の健康問題を掘り下げ、得意の突っ込みでにっこり笑って原発事故を斬る。

みて驚いたのは東電の隠蔽体質の凄まじさ。
原発が爆発したときの煙に放射性物質がどれだけ含まれているかも正されないと公表されなかったり、福島県北部では汚染が見られても宮城県南部で調査をしていなかったり。"そんな事もやってないのか"と驚愕しました。

そしてこの番組で最も驚いたのは国際シンポジウムへ行ったときにマコさんがオフレコで聴いた(しかしICで録っていた)言葉。

「今まで原発は"事故を起こさない"とセールスしてきたが今はそうは言えない。しかしこれからアジア・アフリカに50基つくる計画がある。だから"事故を起こしても大丈夫"と売り込む。原発事故が起きても住民が除染し住み続けるモデルケースをつくることが大切だ」

実際に事故が起きることを想定に入れればとてもじゃないけれど低コストなどとは言えない原発産業の権益で世界が回されてしまうのは恐ろしい話だなと想いました。

NNNドキュメント「お笑い芸人VS.原発事故 マコ&ケンの原発取材2000日」を支持できない理由というtogetterまとめもありました。福島に今も住んでおられる方々にとって、マコさんの存在は風評被害を招くような疎ましい存在なのかもしれません。また東電や役人としてはマコさんの指摘に答えることで全体の解決スピードが落ちてしまうという認識もあるかもしれません。

ただ、こういう人がきちんと勉強した上で訊くべきことを追及をすることで、例えば一消費者である私は"あぁ不正は許されていないのだな"と食品への"科学的知見"に対する一定の信頼を持つことが出来ます。

そういった意味では線量計を裸で地面に直置きするシーン等はマコさんや番組制作者側の知識への不安も覚えると共にマコさんを叩く菊池誠さんも誤りがあって、単純に1つのソースを妄信するだけでなく複数の視点をもって事実を検証するのが大事ですね。

東電の人も役人の人も限られたマンパワーで身を粉にして働いてくれていると思います。だからこそ、ジャーナリストを疎ましく想うのではなく、外部調査機関として意義があるのだと想いました。

公の役人、企業とジャーナリスト、そして私の様な一般人は、お互いに緊張感を持ちながらリスペクトをしあうことが大切なのでしょう。公や企業の人も人間で。しかし特権をもって振るったりする。それに対する批判的な視点はかかせない。

今マスコミはカスゴミとして厄介者の特権階級だと叩かれていますが、、必要な指摘を行うジャーナリズムが有用な場面はとても多いとこの番組を見て感じました。

本当の意味ではジャーナリストは問題提起だけでなく課題解決まで提案し実働できたらいいのかもしれません。市民運動はソーシャルエントレプレナーやクラウドファンディングと組み合わさることで実行力を持つのかも。


中々に見ごたえの合ったこの番組、2月12日(日)11:00からBS日テレで再放送されるそうです。一見の価値はあると想います。

cf. 「 福島産を全部避けるのが一番安全」は本当か!?(cakes 開沼博 / 俗流フクシマ論批判)
by wavesll | 2017-02-07 07:15 | 小噺 | Comments(0)

批判の速度、身体の速度 リトアニアの徴兵制復活から見る"実際的"な速度

Kryžių kalnas / Góra Krzyży / Hill of Crosses HD

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NHKBS1 「激動の世界をゆく▽バルト三国ロシアとヨーロッパのはざま/小国アイデンティティー」にてリトアニアで徴兵制が復活したことが報じられていました。

バルト三国の市内にはナチスやソビエトによる抑圧時代の遺構も数多く、市民は再びクリミアで暴威を振るったプーチンを警戒。リトアニアの国旗の赤は、祖国を護るために流した血の色。

「自分達で守ろうとしない国を他の国が守ってくれるはずがないでしょう」。リトアニアの若者の切実な言葉を聴きました。
学校では緊急事態の際の訓練が行われ、コンピューターが無作為に選ぶ形で行われている徴兵は今は志願兵で足りているそうです。

日本だと、軍事の話をしようとするだけでも「軍靴の足音だ」と批判の声が上がったり、沖縄の米軍基地は憎まれる存在。

戦争は悲劇。平和を愛すること、暴力を忌避することを肯定したい。と同時に己の身を守るために武力を持たず、米国に軍事をアウトソーシングしまるで児童のように依存しているが故、属国的な振る舞いに甘んじる母国。

悲嘆は対症療法で。根本治療は祈りでなく、現実を考える細部の積み重ねの智慧と行動から発露するもの。理想を体現するのは個別具体的な仕事で、それについて検討することすら忌避しては何も解決しないのではとも想います。

ただ勿論、軍の無法図な肥大や軍産複合体の形成ははっきりと悪で。割れ窓理論を認識しながらも"必要な質と量"に関する議論がなされるべきで、敵愾心を煽り恐怖で支配しない"武の道"を修めることが必要なのかもしれません。

ちょっと想うのが、政治って何が何でも批判され目の敵にされているというか、"政治を褒めるメディア"はないかということ。

マスコミをみていたら日本の政治家や官僚が無能にしか見えません。単に褒めるというより数字と事実で内外と比較して是々非々で評価すべきで。

政治は交渉と妥協だから切り捨てられた声をメディアが取り上げる意義はわかるけれども、「このメディアは批判しかしない」という色眼鏡をかけられたら批判への信頼も落ちるのではと想います。

イデオロギーに堕するから反知性主義がバックラッシュとして起きてしまう。"己が正義の側にいる時"こそ自問自答すべきで。

批判のための批判になり"完璧"を目指そうとすると無理が来る。無理が来てはリベラルの好きな"道理"も引っ込んでしまうのではないでしょうか。

言葉はヴァーチャルな存在でもあり、情報はめくるめくほどにつくりだせ消費されるものですが、現実を動かすのは人間の身体です。

言論人とかメディア、企業経営層が精神論を魔法のように、根性を無限の資源のように、無放図なサーヴィス負荷を是とし、身体性・メカニズムを考えないプログラムが苦難を生む癌なのでは。

身体を変えることは時間がかかります。すぐに結果が出ない、或いはドラスティックに変えようとするとRIZAPが脳卒中を引き起こすように惨い破壊が起きてしまう。これはトランプとも相似です。

身体を動かさない、現場に密着しない言説は今そっぽを向かれつつあると想います。Webで素人が幾らでも流せますから。プロの言説はドキュメンタリー的でないと価値を失うのではないか、そう思います。

その意味で心と脳の白熱教室でオックスフォードのエレーヌ・フォックス教授が言っていた悲観脳を楽観脳に変える方法は身体的な行動に落とし込まれていて、精神論に嵌らずに良かった。"心"すら個別具体的な行動の積み重ねであると。

じっくり、徐々に。日々微かにしか変化していないかも知れないけれども、日が伸びていくのを感じる視座の様に、中長期的な視野を持てれば上向くこともある、そんな気がする立春の夕です。

そしてそれは、政治家や言論人が"あの時何を語っていたか"を覚えておき、喉元過ぎればと言いっ放しを許さないプレッシャーを与える事だと想います。身体的な言論、これが社会の礎になるのではないか、そう想うのです。

吉井和哉 - トブヨウニ(YOSHII BUDOKAN 2007)


cf. マスメディアのハレとケ。/TVのバラエティを叩くより報道検証企画を求めたい。
by wavesll | 2017-02-04 17:17 | 小噺 | Comments(0)

マスメディアのハレとケ。/TVのバラエティを叩くより報道検証企画を求めたい。

Television - Marquee Moon


僕が嫌いなナイナイ岡村さんの話(キングコング西野 オフィシャルダイアリー)がTwitterで盛り上がり、それに釣られて久方ぶりにみてしまいました、めちゃイケ。

『君の名は』のパロで岡村と西野が生活を入れ替わるという企画。

岡村と西野は仲をこじらせていたのですが、西野が騒動の発端となったオールナイトニッポンの打ち合わせに行って岡村が膨大なハガキを自分で一枚一枚選んでいるのを知ったり、岡村が西野の絵本製作への熱意を知って、西野がひな壇を拒否したのはお笑いで生きる道を真剣に考えているからと知ったり。

岡村は西野が寧ろ絵本とかを通して普段お笑いに触れない人たちへリーチし人を巻き込みたいとの思いがあることを知り、西野も岡村の不器用な愛情を知り。互いの事情・心情を理解していくさまが描かれました。

個人的には"対立する犬猿が互いの立場を入れ替えるロールプレイ"ってとても好いなと想って。最近自分もすっかりオッサンになりつつあり、若い子の気持ちを忘れて蔑ろにしているかもしれないと想ったり、逆にお年寄りの気持ちを想像できてないのだろうなぁと想っていたもので。

こういうのって頭で考えるより体感した方が遥かに実際的な効能があると想うし、高齢者体験セットを使って老化後のカラダを体感したり、逆に地位を入れ替えることでお互いの心情理解が進みそうで。そういう研修をリンクアンドモチベーションとかが既に作ってそうですが。個人的にはウヨクの人とサヨクの人の生活が逆転した企画をみてみたいw

西野のブログで実際私自身久方ぶりにめちゃイケをみたし、彼の意図は成功していると想います。しかしながら西野の絵本は西野はあくまで原案・プロデュースで絵は別人が書いていることに触れなかったり、この企画自体大いなる内輪受けで、最後の濱口の笑う男だけだと笑いが足りないというか。西野は絵を描いてないことは公開しているのだからこの点でもう一回波風立てても良かったなぁ。ドキュメンタリー風の企画の割りに全体的にみんないい子で、制作側の意図に沿ってまとまってしまった感はありました。

とは言え、こういうネタフリに時間をかけたドキュメンタリーな企画はレギュラー回よりも断然面白いと想うし、めちゃイケの笑いに良くも悪くも真面目なところが出てて良い回でした。最近のTVバラエティはネットのツッコミに対応するために悪意やエクストリームの面白さを追求しすぎているからめちゃイケのまっすぐな笑いは寧ろ暖かくていいかも。(子供にも見せられる熱血な面白さという意味で沸騰ワード10なんかもいいかなと想います。バナナマンが一番活きているのはそんなバカなマンだと想うけれど)

自分は移り気な人間で、毎回代り映えのない番組にはすぐに飽きてしまって。次の刺激をすぐに求めてしまうというか。好きなTV番組もクレイジージャーニーであったりぶら美であったり。毎回違いがわかる番組しかみてなくて。家、ついていってイイですか?は偶に見るけれどYouは何しに日本へ?もこれ系の企画が飽和した今は最近はみなくなってきています。極論するとTVはすべてSP企画でやって欲しい、レギュラーコーナーの"ケ"でなく"ハレ"をTVには求めてしまうのが本音です。

とは言え現実的にそういうスマッシュヒットなSP企画がポンポン出てくるわけでもなく、決まったスキームで数字を獲って事業を営むのはとても大事なこと。

先刻書いたMichael Naura Quintetの記事の流れでInterFmのJazz ain't Jazzを久々に聴きまして。 クラブジャズの色気が過剰に感じて最近聴いてなかったのですが、沖野さんの選曲は相変わらずいかしていてかなり愉しませていただきました。事業というのは続けることが価値。私みたいな移り気な客ではなく、作り手を支えるのは常連だなと改めて感じたところでもありました。

ちょっと話はズレますが、ラジオだと聴取率調査週間をスペシャルウィークといって特別企画をやったりもするのですが、寧ろ普段の"ケ"の企画で数字を採らないと意味はないのでは?と想ったり。時計代わりにながら聴きしている人も多そうなラジオの方が先に完全オンデマンド化され、TVは未だに円盤販売に邁進するのは権利関係の煩雑さもあるのでしょうが、製作費が段違いだというのもありそう。

実際、華やかにみえるマスコミの内実はかなりのブラックな労働環境だと聴きます。メディアで働いている人は相当ハードにそして地道に仕事をしていて、業務改善の余裕とかない、或いはその努力はすでにしているのでしょう。それに私自身かなりのTVっ子でHDレコーダーを使っていると日常生活ではTV漬けになるような生活を送って楽しく(1.4倍速で)TV番組をみているので、バラエティ・教養番組はかなり面白いのがBS含めるとありすぎるくらいに感じます。

それに対し音楽番組は良いミュージシャンの発掘機能がロックフェスやDOMMUNE以下だなぁと。これは芸能事務所の営業力が強すぎるのが原因でおあり"センスがないせいでメジャーがしっかり衰退してるじゃないか"と嗤う他イマは無いのかもなぁと。地上波でミュージシャンが一番楽しそうなのは綾小路翔と森山直太朗ののトーク番組のスジガネーゼだしなぁ。

もっと言えば娯楽に関しては別にあればあるだけいいけれど、なくても致命的なものではないし、今はネットもあるのでマスメディアが消えてもマイペンライなのですが、明確に指摘しなければならないのは報道番組で。日本の、特にTVの報道番組の質の低さは酷すぎだと言わざるを得ません。

朝夕の芸能ニュースばっかり流している芥のようなニュースバラエティは論外として、NHKも最近は悪い意味でポップに迎合してきているし、結構いいなとテレ東のモーサテとかみているのですが毎日株価予想外しすぎw何のための有識者なのかとw

それに関しては"その情報を得た上で皆が動くから"と言えるかもだけれども、政治家の発言だとかどの新聞がどの政策を支持したとかお互いがもっと監視・指摘しあえばいいのにメディアは何故"情報/考察の正しさ"が検証されないのかと想います。あまりにゆるふわすぎるというか。

メディアとか広告もそうですが、こういうラフさ、以前はそのいい加減さが好きだったのだけれども。逆に電車とかはもっとラフになったほうが社会が緩くなっていいと想うのだけれども。最近は「みんな下らない芸能ニュースには怒り心頭で突撃する癖に本当に真面目に抗議しなければならない政治等の硬い報道の質には触れないっていうのは何故だろか」と想ってしまいます。

一番の怠慢はニュースバラエティの「レギュラーコメンテーター」と言う謎のポジション。ニュース番組はアンカーがいれば成り立つし、本来コメントや解説を求めるとしたらその道の専門家をゲストに招くのが王道だと想うのですが、それをサボってレギュラーコメンテーターなる半分トーシロにコメントさせるのが酷い。その点、「教えてわかる人」と言ってた頃の知りたがり!は良かったのですが。

報道ではTVと比べれば新聞はまだきちんとしているように感じるし、ニュースと映像って尺を採るので相性が悪いのではとも想うのですが、公共放送の意義としてもNHKBS1でや世界のニュースの翻訳報道番組と国内ニュースを組み合わせて24時間のニュースchをやってくれないかと。

逆に映像のないラジオなんかだと結構突っ込んだ内容のあります。ザ・ボイス荻上チキSession22をブレンドして自分の中でバランスとってたりしてます。ラジオのニュースバラエティ位の人数の少なさと一つのニュースにかける時間があるとレギュラーコメンテーターも活きるなぁ。TVのコメンテーターの問題はタレントの手遊び的な浅い意見しか喋ってないことかもしれません。

現実にメディアの自浄努力を考えると(これは自爆/自縛案件ではあるかもしれませんが)年の瀬に「あの時アイツはこう言ってたSP」とかをやるといいのでは。現状コレをやれる胆力があるのは文春くらいしか思いつきませんが。今イメージダウンしてるフライデー辺りに政治家・評論家・新聞・TVの発言の検証企画、やってほしいなぁ。もしくはDeNAに。

DeNAやリクルート、サイバーエージェント等いわゆる"キュレーションメディア"をやってる会社って金を書けずに他媒体の褌で記事作って取材費浮かしてるので、ならばこの"有識者発言検証企画"、図書館とTVウォッチャーさえいれば出来るから今年は無理でも来年末位にやってくれんかなーと想うのです。

とは言ってもメディアで飯食ってる人にとっては鬼門過ぎる企画だし、こういうのは2ch辺りで年末の祭り企画的に行ったりして2chまとめサイトで拡散するか、「お前がやれ」と言われる案件かもしれませんね。

cf.
クロスオーナーシップ (メディア)(wikipedia)

家事をしながらRadiko Time Freeで聴きたい音楽番組 +Alpha
by wavesll | 2016-12-11 01:39 | 小噺 | Comments(0)

"成熟"みたいなことをやれこれ考えてみるに

直木賞受賞前の藤沢周平を描く『ふつうが一番 作家・藤沢周平 父の一言』をみました。

奇をてらわない、背筋がしゃんとした家族たちのホームドラマが逆に鮮やかに感じました。俺も石井ふく子案件を楽しめる日が来るとはw<ふつうが一番>というテーゼはともすれば今は物議を醸すかもしれないけれども、<(その人にとっての)普通が一番いい、贅沢をしなくてもいい>という方向に理解しました。

<まだ日本が貧しかった時代。人の心は温かかった>みたいなステレオタイプな切り口だけれども、日比谷公園で会うだけのデート、喫茶店に行くのも稀という話に"あぁ、コンテンツを消費しなくともコミュニケーションに頭と心を使えば人生は楽しいのかもしれない"とは想いました。

金や娯楽のドーピングで人間性のだらしなさを誤魔化し人生を埋めていくのではなく、"人生の味付けは他者の創作物で濃くしなくていい、自らのまっすぐな人生を"というのがふく子イズムなのでしょうか。確かに"消費でライフスタイルレースを”みたいなのも違う気もするし、最近の若者の"ラヴ < コンテンツ"への箴言にも感じました。

只、ラヴ > コンテンツを唱えながら"我々の格式高い創作物は見る価値がある"というのは矛盾を孕む気も。

こないだのintoxicateでも想いましたが、スマホの電源が落ちると雑誌を手に取る気になります。読めば面白い。編集と校正が生み出す"紙の水準"はWebの柔文より強度があります。面白い、けれど人は易きに流れてしまうとも想います。

「狂った所が評価される」のではなく「本質的な良さが評価される」ことを念頭に研鑽を重ねることの重要さを私自身この6.7年噛み締めているのですが、もし石井ふく子プロデューサーがそれを若い人に伝えたかったとしたら、『ふつうが一番』はちょっと面白味に欠けすぎて中高年の内輪受けにも感じました。

その上で、Youthから不惑へ渡る三十路を歩む人間にとって”真っ当”や”節度”、或いは”モラル”、”品の良さ”みたいなテーゼの重要性は日々とみに増していっていると感じるのです。

"如何に狂うか競争"というか、"僕を見て!僕の中のモンスターがこんなにおっきくなったよ!”って意識が十余年前はあって。駄目ならば駄目なほど面白さが増して、はちゃめちゃさに遊んでいた頃がありました。ただ、それは野郎ウケはあったけれども、女の子にはモテなかったw "面白い人がいい"みたいなのは"破滅的な甘ったれ"ではなくて、"真っ当で小粋なユーモア"くらいなものが求められていたのだと想います。女子の知人が増えてくると、野郎とのコミュニケーションとは評価軸がまるで違うことを感じます。

さらに男同士でも年行ってくると突っ込まれづらくなるというか。下の世代からは"いやいや年甲斐もない、ちゃんとして下さいよ。ちょけるのは若い人の特権ですよ"という感があるし、昔は天然キャラだったのが"ちょっと逆に気を使うのでちゃんとしてほしい"みたいになる感じになってきたり。

同い年辺りにしても下手に弱みを晒すとそれを嗤ってマウンティングしてくる輩もどんどん出てくるし、昔からの持論で<他人をいじる人間はそれと同じくらい自分もいじられることを受け容れる度量がないといけない>と想うのですが、他人をいじり倒す癖に自分がいじられると不機嫌になる人間も。

上の人間がそれやったらハラスメントだし、まぁ大体の人はいじりもいじられもせず上品になるけれど阿呆な儘の人もいるなぁとは想ったり。こうしてみると、"狂った駄目な面白さ"みたいなのは狂った世界であるTVやお笑い芸人界の話、或いは幼稚な世界の話で、私自身はそういう稚気は好きなのですが、大人になれば実直にならなければいけない面は現実にありますね。個人的には破壊的な笑いは好きなんですけどね。

その癖、ならばと真面目一本で行くと"堅苦しくてノリが悪い"なんて言われそうでwバカやるならバカ一本、真面目ならば真面目一色でやりたい人間からすると"いい塩梅"みたいなのを求めてくる"普通の人"の鵺の様な恐ろしさは苦手で。みんななんであんなに器用に場面場面でペルソナを切り替えられるんだろうなぁ(苦笑

そんな多様な演技の使い分けが苦手な人間が、今模索の中で"こんな道もあるのか"と想ったのがJamie Lidellの『Building A Begining』というアルバムでした。

Jamie Lidell - Walk Right Back


その前のアルバムのエレクトリックな試みからは180°異なるウォームな風合い。奥さんと共に作ったという詩には家庭人としての歓び、愛に満ちた日々の声があふれていて、理想の旦那像というか、餓鬼から脱して成熟した男になるってこういうことかもしれないと芽が開いた気がしました。

私自身はまだその境地へ達していなくて、少しばかり面白味に欠けると想ってしまうきらいはありますが、エレクトロニクスを経過し上品に駆使し今魅せるソウルフルを歌ったJamieのブランケットのような包容力。ストレートを洗練させる、いい四十の目標となる姿を聴けたのは僥倖で。未来の探究となる大切な贈り物となりました。

昔は"カッコつけてる奴は信頼ならない"と思っていたし、”ぶってること”への気恥ずかしさがあったのですが、翻って私自身は間が抜けている人間ですからwカッコ良くあろうとするくらいで丁度いいことに気づきましたw

嘘だとか演技とかは嫌いなので、あくまで正直に。でも甘ったれた"自分への誠実さ"ではなく、"本音で目指したい姿"への歩みを続けられて行けたらいいなぁと。生きていく、サバイヴし、自分の中で"これでいい"という確信が想える水準まで努める、共に生きていく人を幸せにできたら最上に嬉しい。Jamie Lidellのソウルフルな温かみを胸に宿しながら現在地にそう想います。
by wavesll | 2016-11-26 08:44 | 小噺 | Comments(0)

休息の時 Joss Turnbullによるイランの打楽器Tombakとエレクトロニクスを聴きながら

Joss Turnbull - tombak, effects


https://soundcloud.com/jossturnbull

独逸のグループ、LebiDeryaのパーカス、Joss Turnbullの千駄木でのライヴがあるのを知り、行こうかと思っていたのですが、今夜はパスしてこのYoutube動画で心身を休めようかと想いました。

人間の生産活動が最大化されるためには、期限が定められて、その中で競争原理が働くことが要。人間の躰自体は飢餓に耐えうるので、本来生命活動を維持するために必要な労働は現代は少なくて済むはずですが(例えば深夜にYoutubeでイランの打楽器の演奏をみる等)効用を最大化しようと人は労働の緊張を維持し続けています。向上心のなせる業といえるかもしれません。

英国のEU離脱に続きトランプの米国大統領選勝利により2016年という年が歴史上の大きな曲がり角になりました。富を独占するエリート層の"正しい選択"に下層化していく大衆が"NO"を突き付けた年となったといえるでしょう。

しかし、経済を排外的にしても庶民の暮らしは良くならない、というか悪化するでしょう。それでも反旗を翻した理由、エスタブリッシュメント層が見誤っていたのは、経済的に弱い立場の人々もプライドがあり蔑ろにされれば自らの持つパワーを行使するという点。驕れるエリート層の思い通りになってたまるかという破壊衝動と、その裏にある自らの生活の基盤が崩されることへの恐れがそこにありました。

とは言え、電通を見ればわかるようにエリート達も怠惰に美味しく稼いでいるわけではなく骨身を削って競争に身を投じているからこそ満足のいく取り分が欲しいし、低所得者を"努力が足りない"と軽視しがちな現実があります。しかし実際問題として新自由主義・金融支配層への反逆が起きている今、身を切らないと秩序の破壊は免れないでしょう。

また構造的な問題として途上国が発展して競争相手となってきた結果先進国が搾取できなくなった為、今まで下駄を履いていた中間層を維持できず全世界的にエリートと下層で格差が広がる流れがあります。

その解決には起こらなかったトリクルダウンに此れ以上期待するのではなく、結局は租税回避を封じ込める国際的な取り決めに各国指導者がリーダーシップを発揮し、再配分を達成するしか本質的な解決にはならないとピケティ以後の視座では想えます。

とは言え、生き馬の目を抜く世の中で真夜中に静かな、しかし熱のある音楽を聴いていると、立ち止まる時間、整える時間、あるいは緊張から解放された時間が愛おしく想えて。

ペルーへ行った際ガイドの方が「ペルーの人は怠け者なのに対し日系移民はよく働いたから大成功して。それに反発した人々に日系の人の家は焼き討ちにあって。それから日系の人もペルーの人に利益が行くようにした」と話していて。何も皆がむしゃらに働きたい人間ばかりじゃないのに勝手に競争に巻き込まれたら厭だものなぁと想ったものでした。

翻って日本。現在国内も個人商店は巨大資本に切り替わり自らの裁量で事を行える競争環境ではないグローバルな闘争に曝され、ストレスフルな環境を耐え抜く労働者が数多く存在し、非正規労働者は4割を超えました。

ソヴィエトが倒れてから四半世紀、資本主義が増長した軋轢に対応する"その先"は北欧型の福祉社会なのか、或いはBIなのか、ともするとAIとロボットが労働する社会なのか将又別の未来なのかは現在はまだ判別できませんが、封建的な独裁社会ではなく、各人が自分の人生を自分の速度で歩める自由を求めたい。

そしてその環境・社会は他人に与えられるものでなく、自分で選び取るもの。その為には個人の務めを。深い夜のまどろみに心と躰を休息させる自由を行使しながら、そう想います。

Joss Turnbull - Riqq, Tombak and Daf


cf,
エストニアの吟遊詩人でありmulti奏者:Pastacasの音楽に触れて

とれない疲れに!押すだけで疲労回復に効果的な7つのツボ(治療院ギルド)
AFRICA EXPRESS PRESENTS THE ORCHESTRA OF SYRIAN MUSICIANS WITH DAMON ALBARN AND GUESTS
米国民はなぜトランプを選んだか?ー生活者の視点から(Willyの脳内日記)
by wavesll | 2016-11-10 03:21 | 小噺 | Comments(0)

百鬼も活きられる世の好い加減さを。渋谷ハロウィンの喧騒から。

ピコ太郎「PPAP」×YMO「Solid State Survivor」



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さて、昨日はハロウィン。私も何か気の利いたことをしたいと新宿の信濃屋で仕入れたパンプキンビール呑んでいい気分になってました。

そして行ったは渋谷。実は渋谷ハロウィンは一昨年、去年に次いで来るのは3回目。今年は金土日月と車両を止めて歩行者天国を実施するなどしていましたが、週末はイマイチ盛り上がりに欠けるというか、仮装勢が少なくて、私を含めて見学者ばかりな感だったので”渋谷ハロウィーンもフェーズが変わったのかな”と想っていたのですが、31日の本番は流石の盛り上がり。PPAPで騒ぎ、センター街はゾンビにあふれて、外国人も超楽しそうでかなりのハッピーハロウィンなひと時を過ごせました。

一昨年の渋谷ハロウィンはめちゃめちゃ楽しくて、去年は混雑が酷くて楽しむどころではなかったのですが、今年はギリギリアウト位の塩梅だったので愉しめました。土日とズレたのと歩行者天国でスペースができたのが良かったのかもしれません。

私自身は渋谷のハロウィンの騒ぎはたとえ広告代理店が煽った部分はあったにせよ、主催者の無い野放図な祝祭とヴォランタリーでスペシャルな空間としてかつての桜木町高架下のグラフィティのようなストリートのリアルなファンタジーを感じて好きなのですが、Webなんかを検索すると怨嗟の念が渦巻いていて。

2chなんかはネガ意見ばかりだし。あそこのメイン層40代50代の男性だから小言は多くなるのはわかるけども。Twet検索でもコミケコスプレ勢の人達?が「あんなルール無用なのと一緒にして欲しくない」とのこと。ううむ。

人は誰でも自分とは異質の他人が調子乗ってるのは癪に障るところはあるし、リア充的な傍若無人な態度は渋谷ハロウィンにはあるかもしれず、ハロウィンでコスプレしてるウェーイ勢が「コミケ?コスプレイベント?ヲタキメェw!」なんてのがあったら唾棄すべきだなとは想います。ゴミや痴漢問題は改善すべき課題なのは確か。

とは言え普段「若者のXX離れ」なんて言われてしまう彼らが弾けている現代のユースカルチャーとして、そして原宿、表参道、中目黒、代官山、恵比寿といったエリアの中で最近文化発信地として磁場を失ってきている感のある渋谷の新たなウリとして、渋谷ハロウィンは続いていってほしいなぁ。桜木町のグラフィティは横浜市が関わって終わったけれど渋谷行政は上手いことやって欲しいものです。90年代の渋谷はどこか怖い街というか、あの敷居の高さが"ヤバさ"に連なっていた感がある気がします。街に色を付けて強度をもたらすのは惹きを作る意味ではいい選択だと想います。

それにしても、何でもかんでも全て褒め称えればいい訳でもなく、渋谷ハロウィンには若者が溢す問題点もあるけれど、目の敵のように叩く輩は残念というか、中には「秋葉原みたくトラックで突っ込め」なんて書き込みもあって。相模原の事件みたいにそういうのが影響して誤った正義感を振りかざす狂人が出てきたらどうするんだ…!?と想ってしまいます。

そもそも、そういう人は渋谷に行かなければいいだけの話で。自分と関りがないのに悪辣な意見を書いて怨念を滾らせるのは、まるでフジロックのタイムテーブルで好きなのを観ればいいのに自分が嫌いなアクトが一ついるだけで文句を言うようなメンタリテというか。

想うに“共存”とは“棲み分け”で、総てを均一化することでないのだと想います。己が気に入らないモノが社会に存在することを認め、距離を置く姿勢も大切で。勿論人倫に悖る行為は法で定め、規制する必要がありますが、多数派が少数を圧殺すると(たとえそれがウェーイなノイジーマイノリティでも)ファシズムとなってしまいます。

この国はマナーの領域に物凄く煩い割にはイジメなんかの法律で対応すべきところをなぁなぁで済ます処があって閉口します。本当に規制したければロビー活動をして法に訴えるのが筋かなと。とは言え今は渋谷で騒げているので、強者は渋谷ハロウィン勢ですから逆に棲み分けすべきなのは私の方で、2chやら何やらでガス抜きしている処に首を突っ込むのがいけないのだと今気づきました(苦笑 また繰り返しますが自浄でやるにせよ行政がやるにせよゴミと痴漢は解決すべきだと想います。

昔は「人種の坩堝」なんて表現がありましたが、最近は異質なものを融かしていくのではなく各人種が個性を保ちながら共存することを指すために「人種のサラダボウル」という表現を使うようです。

現代はインターネットで全世界がフラットになって、日本国内での叩きどころか国際的な"常識"を押し付けてくる欧米の輩などもいますが、無機質なグローバリズム(という名のダブルスタンダードな価値観の押し付け)には自分は閉口です。

寧ろ理想の治世というのは、ある人には不快に思われるような自由も存在できるような、或は複数の価値観が共存できるような世界。そしてこれは逆に生まれた土地に縛られず自分の合う場所へ自由に行ける世が来たら一番いいのにと想います。

とはいえ此れは世界で有数の安全がある日本社会にいるからこそ言えることで。更には渋谷でハロウィンで騒げる時世ですしねw渋谷ハロウィンもいつまで今のような形で開けるかは闇の中ですが、好い加減に馬鹿やれるような世を今は愉しみたい、まぁ神無月でカミサマ達が出雲に行っちゃってるから百鬼がわんさか現れちゃった、みたいな感じで御目零ししてもらえれば幸いです<(_ _)>

海外「日本のほうが楽しそう!」渋谷ハロウィンのクオリティの高さに海外から羨望の声(海外反応 キキミミ)
by wavesll | 2016-11-01 20:29 | 小噺 | Comments(0)