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カテゴリ:小噺( 174 )

ジャーナリズムの公共意義 ―お笑い芸人VS原発事故 マコ&ケンの原発取材2000日をみて

お笑い芸人VS原発事故 マコ&ケンの原発取材2000日(dailymotion)
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NNNドキュメント「お笑い芸人VS原発事故 マコ&ケンの原発取材2000日」、大変興味深く観ました。

福島第一原発事故から6年弱、東京電力が行ってきた記者会見の最多出席者はなんと、お笑い芸人「おしどり」のマコ・ケン夫婦だ。芸人が場違いだ、とのバッシングを猛勉強で乗り切り、鋭くしつこく追求し、世に出て来なかった幾つもの事実に光を当てた。東電の会見者らが何度も沈黙したりタジタジになる事も。医学部中退のマコちゃんは子ども達や原発作業員の健康問題を掘り下げ、得意の突っ込みでにっこり笑って原発事故を斬る。

みて驚いたのは東電の隠蔽体質の凄まじさ。
原発が爆発したときの煙に放射性物質がどれだけ含まれているかも正されないと公表されなかったり、福島県北部では汚染が見られても宮城県南部で調査をしていなかったり。"そんな事もやってないのか"と驚愕しました。

そしてこの番組で最も驚いたのは国際シンポジウムへ行ったときにマコさんがオフレコで聴いた(しかしICで録っていた)言葉。

「今まで原発は"事故を起こさない"とセールスしてきたが今はそうは言えない。しかしこれからアジア・アフリカに50基つくる計画がある。だから"事故を起こしても大丈夫"と売り込む。原発事故が起きても住民が除染し住み続けるモデルケースをつくることが大切だ」

実際に事故が起きることを想定に入れればとてもじゃないけれど低コストなどとは言えない原発産業の権益で世界が回されてしまうのは恐ろしい話だなと想いました。

NNNドキュメント「お笑い芸人VS.原発事故 マコ&ケンの原発取材2000日」を支持できない理由というtogetterまとめもありました。福島に今も住んでおられる方々にとって、マコさんの存在は風評被害を招くような疎ましい存在なのかもしれません。また東電や役人としてはマコさんの指摘に答えることで全体の解決スピードが落ちてしまうという認識もあるかもしれません。

ただ、こういう人がきちんと勉強した上で訊くべきことを追及をすることで、例えば一消費者である私は"あぁ不正は許されていないのだな"と食品への"科学的知見"に対する一定の信頼を持つことが出来ます。

そういった意味では線量計を裸で地面に直置きするシーン等はマコさんや番組制作者側の知識への不安も覚えると共にマコさんを叩く菊池誠さんも誤りがあって、単純に1つのソースを妄信するだけでなく複数の視点をもって事実を検証するのが大事ですね。

東電の人も役人の人も限られたマンパワーで身を粉にして働いてくれていると思います。だからこそ、ジャーナリストを疎ましく想うのではなく、外部調査機関として意義があるのだと想いました。

公の役人、企業とジャーナリスト、そして私の様な一般人は、お互いに緊張感を持ちながらリスペクトをしあうことが大切なのでしょう。公や企業の人も人間で。しかし特権をもって振るったりする。それに対する批判的な視点はかかせない。

今マスコミはカスゴミとして厄介者の特権階級だと叩かれていますが、、必要な指摘を行うジャーナリズムが有用な場面はとても多いとこの番組を見て感じました。

本当の意味ではジャーナリストは問題提起だけでなく課題解決まで提案し実働できたらいいのかもしれません。市民運動はソーシャルエントレプレナーやクラウドファンディングと組み合わさることで実行力を持つのかも。


中々に見ごたえの合ったこの番組、2月12日(日)11:00からBS日テレで再放送されるそうです。一見の価値はあると想います。

cf. 「 福島産を全部避けるのが一番安全」は本当か!?(cakes 開沼博 / 俗流フクシマ論批判)
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by wavesll | 2017-02-07 07:15 | 小噺 | Comments(0)

批判の速度、身体の速度 リトアニアの徴兵制復活から見る"実際的"な速度

Kryžių kalnas / Góra Krzyży / Hill of Crosses HD

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NHKBS1 「激動の世界をゆく▽バルト三国ロシアとヨーロッパのはざま/小国アイデンティティー」にてリトアニアで徴兵制が復活したことが報じられていました。

バルト三国の市内にはナチスやソビエトによる抑圧時代の遺構も数多く、市民は再びクリミアで暴威を振るったプーチンを警戒。リトアニアの国旗の赤は、祖国を護るために流した血の色。

「自分達で守ろうとしない国を他の国が守ってくれるはずがないでしょう」。リトアニアの若者の切実な言葉を聴きました。
学校では緊急事態の際の訓練が行われ、コンピューターが無作為に選ぶ形で行われている徴兵は今は志願兵で足りているそうです。

日本だと、軍事の話をしようとするだけでも「軍靴の足音だ」と批判の声が上がったり、沖縄の米軍基地は憎まれる存在。

戦争は悲劇。平和を愛すること、暴力を忌避することを肯定したい。と同時に己の身を守るために武力を持たず、米国に軍事をアウトソーシングしまるで児童のように依存しているが故、属国的な振る舞いに甘んじる母国。

悲嘆は対症療法で。根本治療は祈りでなく、現実を考える細部の積み重ねの智慧と行動から発露するもの。理想を体現するのは個別具体的な仕事で、それについて検討することすら忌避しては何も解決しないのではとも想います。

ただ勿論、軍の無法図な肥大や軍産複合体の形成ははっきりと悪で。割れ窓理論を認識しながらも"必要な質と量"に関する議論がなされるべきで、敵愾心を煽り恐怖で支配しない"武の道"を修めることが必要なのかもしれません。

ちょっと想うのが、政治って何が何でも批判され目の敵にされているというか、"政治を褒めるメディア"はないかということ。

マスコミをみていたら日本の政治家や官僚が無能にしか見えません。単に褒めるというより数字と事実で内外と比較して是々非々で評価すべきで。

政治は交渉と妥協だから切り捨てられた声をメディアが取り上げる意義はわかるけれども、「このメディアは批判しかしない」という色眼鏡をかけられたら批判への信頼も落ちるのではと想います。

イデオロギーに堕するから反知性主義がバックラッシュとして起きてしまう。"己が正義の側にいる時"こそ自問自答すべきで。

批判のための批判になり"完璧"を目指そうとすると無理が来る。無理が来てはリベラルの好きな"道理"も引っ込んでしまうのではないでしょうか。

言葉はヴァーチャルな存在でもあり、情報はめくるめくほどにつくりだせ消費されるものですが、現実を動かすのは人間の身体です。

言論人とかメディア、企業経営層が精神論を魔法のように、根性を無限の資源のように、無放図なサーヴィス負荷を是とし、身体性・メカニズムを考えないプログラムが苦難を生む癌なのでは。

身体を変えることは時間がかかります。すぐに結果が出ない、或いはドラスティックに変えようとするとRIZAPが脳卒中を引き起こすように惨い破壊が起きてしまう。これはトランプとも相似です。

身体を動かさない、現場に密着しない言説は今そっぽを向かれつつあると想います。Webで素人が幾らでも流せますから。プロの言説はドキュメンタリー的でないと価値を失うのではないか、そう思います。

その意味で心と脳の白熱教室でオックスフォードのエレーヌ・フォックス教授が言っていた悲観脳を楽観脳に変える方法は身体的な行動に落とし込まれていて、精神論に嵌らずに良かった。"心"すら個別具体的な行動の積み重ねであると。

じっくり、徐々に。日々微かにしか変化していないかも知れないけれども、日が伸びていくのを感じる視座の様に、中長期的な視野を持てれば上向くこともある、そんな気がする立春の夕です。

そしてそれは、政治家や言論人が"あの時何を語っていたか"を覚えておき、喉元過ぎればと言いっ放しを許さないプレッシャーを与える事だと想います。身体的な言論、これが社会の礎になるのではないか、そう想うのです。

吉井和哉 - トブヨウニ(YOSHII BUDOKAN 2007)


cf. マスメディアのハレとケ。/TVのバラエティを叩くより報道検証企画を求めたい。
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by wavesll | 2017-02-04 17:17 | 小噺 | Comments(0)

マスメディアのハレとケ。/TVのバラエティを叩くより報道検証企画を求めたい。

Television - Marquee Moon


僕が嫌いなナイナイ岡村さんの話(キングコング西野 オフィシャルダイアリー)がTwitterで盛り上がり、それに釣られて久方ぶりにみてしまいました、めちゃイケ。

『君の名は』のパロで岡村と西野が生活を入れ替わるという企画。

岡村と西野は仲をこじらせていたのですが、西野が騒動の発端となったオールナイトニッポンの打ち合わせに行って岡村が膨大なハガキを自分で一枚一枚選んでいるのを知ったり、岡村が西野の絵本製作への熱意を知って、西野がひな壇を拒否したのはお笑いで生きる道を真剣に考えているからと知ったり。

岡村は西野が寧ろ絵本とかを通して普段お笑いに触れない人たちへリーチし人を巻き込みたいとの思いがあることを知り、西野も岡村の不器用な愛情を知り。互いの事情・心情を理解していくさまが描かれました。

個人的には"対立する犬猿が互いの立場を入れ替えるロールプレイ"ってとても好いなと想って。最近自分もすっかりオッサンになりつつあり、若い子の気持ちを忘れて蔑ろにしているかもしれないと想ったり、逆にお年寄りの気持ちを想像できてないのだろうなぁと想っていたもので。

こういうのって頭で考えるより体感した方が遥かに実際的な効能があると想うし、高齢者体験セットを使って老化後のカラダを体感したり、逆に地位を入れ替えることでお互いの心情理解が進みそうで。そういう研修をリンクアンドモチベーションとかが既に作ってそうですが。個人的にはウヨクの人とサヨクの人の生活が逆転した企画をみてみたいw

西野のブログで実際私自身久方ぶりにめちゃイケをみたし、彼の意図は成功していると想います。しかしながら西野の絵本は西野はあくまで原案・プロデュースで絵は別人が書いていることに触れなかったり、この企画自体大いなる内輪受けで、最後の濱口の笑う男だけだと笑いが足りないというか。西野は絵を描いてないことは公開しているのだからこの点でもう一回波風立てても良かったなぁ。ドキュメンタリー風の企画の割りに全体的にみんないい子で、制作側の意図に沿ってまとまってしまった感はありました。

とは言え、こういうネタフリに時間をかけたドキュメンタリーな企画はレギュラー回よりも断然面白いと想うし、めちゃイケの笑いに良くも悪くも真面目なところが出てて良い回でした。最近のTVバラエティはネットのツッコミに対応するために悪意やエクストリームの面白さを追求しすぎているからめちゃイケのまっすぐな笑いは寧ろ暖かくていいかも。(子供にも見せられる熱血な面白さという意味で沸騰ワード10なんかもいいかなと想います。バナナマンが一番活きているのはそんなバカなマンだと想うけれど)

自分は移り気な人間で、毎回代り映えのない番組にはすぐに飽きてしまって。次の刺激をすぐに求めてしまうというか。好きなTV番組もクレイジージャーニーであったりぶら美であったり。毎回違いがわかる番組しかみてなくて。家、ついていってイイですか?は偶に見るけれどYouは何しに日本へ?もこれ系の企画が飽和した今は最近はみなくなってきています。極論するとTVはすべてSP企画でやって欲しい、レギュラーコーナーの"ケ"でなく"ハレ"をTVには求めてしまうのが本音です。

とは言え現実的にそういうスマッシュヒットなSP企画がポンポン出てくるわけでもなく、決まったスキームで数字を獲って事業を営むのはとても大事なこと。

先刻書いたMichael Naura Quintetの記事の流れでInterFmのJazz ain't Jazzを久々に聴きまして。 クラブジャズの色気が過剰に感じて最近聴いてなかったのですが、沖野さんの選曲は相変わらずいかしていてかなり愉しませていただきました。事業というのは続けることが価値。私みたいな移り気な客ではなく、作り手を支えるのは常連だなと改めて感じたところでもありました。

ちょっと話はズレますが、ラジオだと聴取率調査週間をスペシャルウィークといって特別企画をやったりもするのですが、寧ろ普段の"ケ"の企画で数字を採らないと意味はないのでは?と想ったり。時計代わりにながら聴きしている人も多そうなラジオの方が先に完全オンデマンド化され、TVは未だに円盤販売に邁進するのは権利関係の煩雑さもあるのでしょうが、製作費が段違いだというのもありそう。

実際、華やかにみえるマスコミの内実はかなりのブラックな労働環境だと聴きます。メディアで働いている人は相当ハードにそして地道に仕事をしていて、業務改善の余裕とかない、或いはその努力はすでにしているのでしょう。それに私自身かなりのTVっ子でHDレコーダーを使っていると日常生活ではTV漬けになるような生活を送って楽しく(1.4倍速で)TV番組をみているので、バラエティ・教養番組はかなり面白いのがBS含めるとありすぎるくらいに感じます。

それに対し音楽番組は良いミュージシャンの発掘機能がロックフェスやDOMMUNE以下だなぁと。これは芸能事務所の営業力が強すぎるのが原因でおあり"センスがないせいでメジャーがしっかり衰退してるじゃないか"と嗤う他イマは無いのかもなぁと。地上波でミュージシャンが一番楽しそうなのは綾小路翔と森山直太朗ののトーク番組のスジガネーゼだしなぁ。

もっと言えば娯楽に関しては別にあればあるだけいいけれど、なくても致命的なものではないし、今はネットもあるのでマスメディアが消えてもマイペンライなのですが、明確に指摘しなければならないのは報道番組で。日本の、特にTVの報道番組の質の低さは酷すぎだと言わざるを得ません。

朝夕の芸能ニュースばっかり流している芥のようなニュースバラエティは論外として、NHKも最近は悪い意味でポップに迎合してきているし、結構いいなとテレ東のモーサテとかみているのですが毎日株価予想外しすぎw何のための有識者なのかとw

それに関しては"その情報を得た上で皆が動くから"と言えるかもだけれども、政治家の発言だとかどの新聞がどの政策を支持したとかお互いがもっと監視・指摘しあえばいいのにメディアは何故"情報/考察の正しさ"が検証されないのかと想います。あまりにゆるふわすぎるというか。

メディアとか広告もそうですが、こういうラフさ、以前はそのいい加減さが好きだったのだけれども。逆に電車とかはもっとラフになったほうが社会が緩くなっていいと想うのだけれども。最近は「みんな下らない芸能ニュースには怒り心頭で突撃する癖に本当に真面目に抗議しなければならない政治等の硬い報道の質には触れないっていうのは何故だろか」と想ってしまいます。

一番の怠慢はニュースバラエティの「レギュラーコメンテーター」と言う謎のポジション。ニュース番組はアンカーがいれば成り立つし、本来コメントや解説を求めるとしたらその道の専門家をゲストに招くのが王道だと想うのですが、それをサボってレギュラーコメンテーターなる半分トーシロにコメントさせるのが酷い。その点、「教えてわかる人」と言ってた頃の知りたがり!は良かったのですが。

報道ではTVと比べれば新聞はまだきちんとしているように感じるし、ニュースと映像って尺を採るので相性が悪いのではとも想うのですが、公共放送の意義としてもNHKBS1でや世界のニュースの翻訳報道番組と国内ニュースを組み合わせて24時間のニュースchをやってくれないかと。

逆に映像のないラジオなんかだと結構突っ込んだ内容のあります。ザ・ボイス荻上チキSession22をブレンドして自分の中でバランスとってたりしてます。ラジオのニュースバラエティ位の人数の少なさと一つのニュースにかける時間があるとレギュラーコメンテーターも活きるなぁ。TVのコメンテーターの問題はタレントの手遊び的な浅い意見しか喋ってないことかもしれません。

現実にメディアの自浄努力を考えると(これは自爆/自縛案件ではあるかもしれませんが)年の瀬に「あの時アイツはこう言ってたSP」とかをやるといいのでは。現状コレをやれる胆力があるのは文春くらいしか思いつきませんが。今イメージダウンしてるフライデー辺りに政治家・評論家・新聞・TVの発言の検証企画、やってほしいなぁ。もしくはDeNAに。

DeNAやリクルート、サイバーエージェント等いわゆる"キュレーションメディア"をやってる会社って金を書けずに他媒体の褌で記事作って取材費浮かしてるので、ならばこの"有識者発言検証企画"、図書館とTVウォッチャーさえいれば出来るから今年は無理でも来年末位にやってくれんかなーと想うのです。

とは言ってもメディアで飯食ってる人にとっては鬼門過ぎる企画だし、こういうのは2ch辺りで年末の祭り企画的に行ったりして2chまとめサイトで拡散するか、「お前がやれ」と言われる案件かもしれませんね。

cf.
クロスオーナーシップ (メディア)(wikipedia)

家事をしながらRadiko Time Freeで聴きたい音楽番組 +Alpha
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by wavesll | 2016-12-11 01:39 | 小噺 | Comments(0)

"成熟"みたいなことをやれこれ考えてみるに

直木賞受賞前の藤沢周平を描く『ふつうが一番 作家・藤沢周平 父の一言』をみました。

奇をてらわない、背筋がしゃんとした家族たちのホームドラマが逆に鮮やかに感じました。俺も石井ふく子案件を楽しめる日が来るとはw<ふつうが一番>というテーゼはともすれば今は物議を醸すかもしれないけれども、<(その人にとっての)普通が一番いい、贅沢をしなくてもいい>という方向に理解しました。

<まだ日本が貧しかった時代。人の心は温かかった>みたいなステレオタイプな切り口だけれども、日比谷公園で会うだけのデート、喫茶店に行くのも稀という話に"あぁ、コンテンツを消費しなくともコミュニケーションに頭と心を使えば人生は楽しいのかもしれない"とは想いました。

金や娯楽のドーピングで人間性のだらしなさを誤魔化し人生を埋めていくのではなく、"人生の味付けは他者の創作物で濃くしなくていい、自らのまっすぐな人生を"というのがふく子イズムなのでしょうか。確かに"消費でライフスタイルレースを”みたいなのも違う気もするし、最近の若者の"ラヴ < コンテンツ"への箴言にも感じました。

只、ラヴ > コンテンツを唱えながら"我々の格式高い創作物は見る価値がある"というのは矛盾を孕む気も。

こないだのintoxicateでも想いましたが、スマホの電源が落ちると雑誌を手に取る気になります。読めば面白い。編集と校正が生み出す"紙の水準"はWebの柔文より強度があります。面白い、けれど人は易きに流れてしまうとも想います。

「狂った所が評価される」のではなく「本質的な良さが評価される」ことを念頭に研鑽を重ねることの重要さを私自身この6.7年噛み締めているのですが、もし石井ふく子プロデューサーがそれを若い人に伝えたかったとしたら、『ふつうが一番』はちょっと面白味に欠けすぎて中高年の内輪受けにも感じました。

その上で、Youthから不惑へ渡る三十路を歩む人間にとって”真っ当”や”節度”、或いは”モラル”、”品の良さ”みたいなテーゼの重要性は日々とみに増していっていると感じるのです。

"如何に狂うか競争"というか、"僕を見て!僕の中のモンスターがこんなにおっきくなったよ!”って意識が十余年前はあって。駄目ならば駄目なほど面白さが増して、はちゃめちゃさに遊んでいた頃がありました。ただ、それは野郎ウケはあったけれども、女の子にはモテなかったw "面白い人がいい"みたいなのは"破滅的な甘ったれ"ではなくて、"真っ当で小粋なユーモア"くらいなものが求められていたのだと想います。女子の知人が増えてくると、野郎とのコミュニケーションとは評価軸がまるで違うことを感じます。

さらに男同士でも年行ってくると突っ込まれづらくなるというか。下の世代からは"いやいや年甲斐もない、ちゃんとして下さいよ。ちょけるのは若い人の特権ですよ"という感があるし、昔は天然キャラだったのが"ちょっと逆に気を使うのでちゃんとしてほしい"みたいになる感じになってきたり。

同い年辺りにしても下手に弱みを晒すとそれを嗤ってマウンティングしてくる輩もどんどん出てくるし、昔からの持論で<他人をいじる人間はそれと同じくらい自分もいじられることを受け容れる度量がないといけない>と想うのですが、他人をいじり倒す癖に自分がいじられると不機嫌になる人間も。

上の人間がそれやったらハラスメントだし、まぁ大体の人はいじりもいじられもせず上品になるけれど阿呆な儘の人もいるなぁとは想ったり。こうしてみると、"狂った駄目な面白さ"みたいなのは狂った世界であるTVやお笑い芸人界の話、或いは幼稚な世界の話で、私自身はそういう稚気は好きなのですが、大人になれば実直にならなければいけない面は現実にありますね。個人的には破壊的な笑いは好きなんですけどね。

その癖、ならばと真面目一本で行くと"堅苦しくてノリが悪い"なんて言われそうでwバカやるならバカ一本、真面目ならば真面目一色でやりたい人間からすると"いい塩梅"みたいなのを求めてくる"普通の人"の鵺の様な恐ろしさは苦手で。みんななんであんなに器用に場面場面でペルソナを切り替えられるんだろうなぁ(苦笑

そんな多様な演技の使い分けが苦手な人間が、今模索の中で"こんな道もあるのか"と想ったのがJamie Lidellの『Building A Begining』というアルバムでした。

Jamie Lidell - Walk Right Back


その前のアルバムのエレクトリックな試みからは180°異なるウォームな風合い。奥さんと共に作ったという詩には家庭人としての歓び、愛に満ちた日々の声があふれていて、理想の旦那像というか、餓鬼から脱して成熟した男になるってこういうことかもしれないと芽が開いた気がしました。

私自身はまだその境地へ達していなくて、少しばかり面白味に欠けると想ってしまうきらいはありますが、エレクトロニクスを経過し上品に駆使し今魅せるソウルフルを歌ったJamieのブランケットのような包容力。ストレートを洗練させる、いい四十の目標となる姿を聴けたのは僥倖で。未来の探究となる大切な贈り物となりました。

昔は"カッコつけてる奴は信頼ならない"と思っていたし、”ぶってること”への気恥ずかしさがあったのですが、翻って私自身は間が抜けている人間ですからwカッコ良くあろうとするくらいで丁度いいことに気づきましたw

嘘だとか演技とかは嫌いなので、あくまで正直に。でも甘ったれた"自分への誠実さ"ではなく、"本音で目指したい姿"への歩みを続けられて行けたらいいなぁと。生きていく、サバイヴし、自分の中で"これでいい"という確信が想える水準まで努める、共に生きていく人を幸せにできたら最上に嬉しい。Jamie Lidellのソウルフルな温かみを胸に宿しながら現在地にそう想います。
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by wavesll | 2016-11-26 08:44 | 小噺 | Comments(0)

休息の時 Joss Turnbullによるイランの打楽器Tombakとエレクトロニクスを聴きながら

Joss Turnbull - tombak, effects


https://soundcloud.com/jossturnbull

独逸のグループ、LebiDeryaのパーカス、Joss Turnbullの千駄木でのライヴがあるのを知り、行こうかと思っていたのですが、今夜はパスしてこのYoutube動画で心身を休めようかと想いました。

人間の生産活動が最大化されるためには、期限が定められて、その中で競争原理が働くことが要。人間の躰自体は飢餓に耐えうるので、本来生命活動を維持するために必要な労働は現代は少なくて済むはずですが(例えば深夜にYoutubeでイランの打楽器の演奏をみる等)効用を最大化しようと人は労働の緊張を維持し続けています。向上心のなせる業といえるかもしれません。

英国のEU離脱に続きトランプの米国大統領選勝利により2016年という年が歴史上の大きな曲がり角になりました。富を独占するエリート層の"正しい選択"に下層化していく大衆が"NO"を突き付けた年となったといえるでしょう。

しかし、経済を排外的にしても庶民の暮らしは良くならない、というか悪化するでしょう。それでも反旗を翻した理由、エスタブリッシュメント層が見誤っていたのは、経済的に弱い立場の人々もプライドがあり蔑ろにされれば自らの持つパワーを行使するという点。驕れるエリート層の思い通りになってたまるかという破壊衝動と、その裏にある自らの生活の基盤が崩されることへの恐れがそこにありました。

とは言え、電通を見ればわかるようにエリート達も怠惰に美味しく稼いでいるわけではなく骨身を削って競争に身を投じているからこそ満足のいく取り分が欲しいし、低所得者を"努力が足りない"と軽視しがちな現実があります。しかし実際問題として新自由主義・金融支配層への反逆が起きている今、身を切らないと秩序の破壊は免れないでしょう。

また構造的な問題として途上国が発展して競争相手となってきた結果先進国が搾取できなくなった為、今まで下駄を履いていた中間層を維持できず全世界的にエリートと下層で格差が広がる流れがあります。

その解決には起こらなかったトリクルダウンに此れ以上期待するのではなく、結局は租税回避を封じ込める国際的な取り決めに各国指導者がリーダーシップを発揮し、再配分を達成するしか本質的な解決にはならないとピケティ以後の視座では想えます。

とは言え、生き馬の目を抜く世の中で真夜中に静かな、しかし熱のある音楽を聴いていると、立ち止まる時間、整える時間、あるいは緊張から解放された時間が愛おしく想えて。

ペルーへ行った際ガイドの方が「ペルーの人は怠け者なのに対し日系移民はよく働いたから大成功して。それに反発した人々に日系の人の家は焼き討ちにあって。それから日系の人もペルーの人に利益が行くようにした」と話していて。何も皆がむしゃらに働きたい人間ばかりじゃないのに勝手に競争に巻き込まれたら厭だものなぁと想ったものでした。

翻って日本。現在国内も個人商店は巨大資本に切り替わり自らの裁量で事を行える競争環境ではないグローバルな闘争に曝され、ストレスフルな環境を耐え抜く労働者が数多く存在し、非正規労働者は4割を超えました。

ソヴィエトが倒れてから四半世紀、資本主義が増長した軋轢に対応する"その先"は北欧型の福祉社会なのか、或いはBIなのか、ともするとAIとロボットが労働する社会なのか将又別の未来なのかは現在はまだ判別できませんが、封建的な独裁社会ではなく、各人が自分の人生を自分の速度で歩める自由を求めたい。

そしてその環境・社会は他人に与えられるものでなく、自分で選び取るもの。その為には個人の務めを。深い夜のまどろみに心と躰を休息させる自由を行使しながら、そう想います。

Joss Turnbull - Riqq, Tombak and Daf


cf,
エストニアの吟遊詩人でありmulti奏者:Pastacasの音楽に触れて

とれない疲れに!押すだけで疲労回復に効果的な7つのツボ(治療院ギルド)
AFRICA EXPRESS PRESENTS THE ORCHESTRA OF SYRIAN MUSICIANS WITH DAMON ALBARN AND GUESTS
米国民はなぜトランプを選んだか?ー生活者の視点から(Willyの脳内日記)
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by wavesll | 2016-11-10 03:21 | 小噺 | Comments(0)

百鬼も活きられる世の好い加減さを。渋谷ハロウィンの喧騒から。

ピコ太郎「PPAP」×YMO「Solid State Survivor」



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さて、昨日はハロウィン。私も何か気の利いたことをしたいと新宿の信濃屋で仕入れたパンプキンビール呑んでいい気分になってました。

そして行ったは渋谷。実は渋谷ハロウィンは一昨年、去年に次いで来るのは3回目。今年は金土日月と車両を止めて歩行者天国を実施するなどしていましたが、週末はイマイチ盛り上がりに欠けるというか、仮装勢が少なくて、私を含めて見学者ばかりな感だったので”渋谷ハロウィーンもフェーズが変わったのかな”と想っていたのですが、31日の本番は流石の盛り上がり。PPAPで騒ぎ、センター街はゾンビにあふれて、外国人も超楽しそうでかなりのハッピーハロウィンなひと時を過ごせました。

一昨年の渋谷ハロウィンはめちゃめちゃ楽しくて、去年は混雑が酷くて楽しむどころではなかったのですが、今年はギリギリアウト位の塩梅だったので愉しめました。土日とズレたのと歩行者天国でスペースができたのが良かったのかもしれません。

私自身は渋谷のハロウィンの騒ぎはたとえ広告代理店が煽った部分はあったにせよ、主催者の無い野放図な祝祭とヴォランタリーでスペシャルな空間としてかつての桜木町高架下のグラフィティのようなストリートのリアルなファンタジーを感じて好きなのですが、Webなんかを検索すると怨嗟の念が渦巻いていて。

2chなんかはネガ意見ばかりだし。あそこのメイン層40代50代の男性だから小言は多くなるのはわかるけども。Twet検索でもコミケコスプレ勢の人達?が「あんなルール無用なのと一緒にして欲しくない」とのこと。ううむ。

人は誰でも自分とは異質の他人が調子乗ってるのは癪に障るところはあるし、リア充的な傍若無人な態度は渋谷ハロウィンにはあるかもしれず、ハロウィンでコスプレしてるウェーイ勢が「コミケ?コスプレイベント?ヲタキメェw!」なんてのがあったら唾棄すべきだなとは想います。ゴミや痴漢問題は改善すべき課題なのは確か。

とは言え普段「若者のXX離れ」なんて言われてしまう彼らが弾けている現代のユースカルチャーとして、そして原宿、表参道、中目黒、代官山、恵比寿といったエリアの中で最近文化発信地として磁場を失ってきている感のある渋谷の新たなウリとして、渋谷ハロウィンは続いていってほしいなぁ。桜木町のグラフィティは横浜市が関わって終わったけれど渋谷行政は上手いことやって欲しいものです。90年代の渋谷はどこか怖い街というか、あの敷居の高さが"ヤバさ"に連なっていた感がある気がします。街に色を付けて強度をもたらすのは惹きを作る意味ではいい選択だと想います。

それにしても、何でもかんでも全て褒め称えればいい訳でもなく、渋谷ハロウィンには若者が溢す問題点もあるけれど、目の敵のように叩く輩は残念というか、中には「秋葉原みたくトラックで突っ込め」なんて書き込みもあって。相模原の事件みたいにそういうのが影響して誤った正義感を振りかざす狂人が出てきたらどうするんだ…!?と想ってしまいます。

そもそも、そういう人は渋谷に行かなければいいだけの話で。自分と関りがないのに悪辣な意見を書いて怨念を滾らせるのは、まるでフジロックのタイムテーブルで好きなのを観ればいいのに自分が嫌いなアクトが一ついるだけで文句を言うようなメンタリテというか。

想うに“共存”とは“棲み分け”で、総てを均一化することでないのだと想います。己が気に入らないモノが社会に存在することを認め、距離を置く姿勢も大切で。勿論人倫に悖る行為は法で定め、規制する必要がありますが、多数派が少数を圧殺すると(たとえそれがウェーイなノイジーマイノリティでも)ファシズムとなってしまいます。

この国はマナーの領域に物凄く煩い割にはイジメなんかの法律で対応すべきところをなぁなぁで済ます処があって閉口します。本当に規制したければロビー活動をして法に訴えるのが筋かなと。とは言え今は渋谷で騒げているので、強者は渋谷ハロウィン勢ですから逆に棲み分けすべきなのは私の方で、2chやら何やらでガス抜きしている処に首を突っ込むのがいけないのだと今気づきました(苦笑 また繰り返しますが自浄でやるにせよ行政がやるにせよゴミと痴漢は解決すべきだと想います。

昔は「人種の坩堝」なんて表現がありましたが、最近は異質なものを融かしていくのではなく各人種が個性を保ちながら共存することを指すために「人種のサラダボウル」という表現を使うようです。

現代はインターネットで全世界がフラットになって、日本国内での叩きどころか国際的な"常識"を押し付けてくる欧米の輩などもいますが、無機質なグローバリズム(という名のダブルスタンダードな価値観の押し付け)には自分は閉口です。

寧ろ理想の治世というのは、ある人には不快に思われるような自由も存在できるような、或は複数の価値観が共存できるような世界。そしてこれは逆に生まれた土地に縛られず自分の合う場所へ自由に行ける世が来たら一番いいのにと想います。

とはいえ此れは世界で有数の安全がある日本社会にいるからこそ言えることで。更には渋谷でハロウィンで騒げる時世ですしねw渋谷ハロウィンもいつまで今のような形で開けるかは闇の中ですが、好い加減に馬鹿やれるような世を今は愉しみたい、まぁ神無月でカミサマ達が出雲に行っちゃってるから百鬼がわんさか現れちゃった、みたいな感じで御目零ししてもらえれば幸いです<(_ _)>

海外「日本のほうが楽しそう!」渋谷ハロウィンのクオリティの高さに海外から羨望の声(海外反応 キキミミ)
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by wavesll | 2016-11-01 20:29 | 小噺 | Comments(0)

イジメストレス自殺対策に必要なのは"その場でNOと伝える技術と冷酷さ"を仕込むこと

Twitterで
ツイッターで楽しいのは人が美味しそうなものを食べてたり、楽しそうな場所で遊んでたり、好きなものをなぜ好きか熱く語っていたり、偶然すごく綺麗な風景に遭遇していたり、しょうもないギャグを思いついたり、そういった呟きであって、悪口や陰口やデマ、差別に関して無関係同士の殴り合いではない。
という文章をみて、ほんとその通りだと想って。

賢しい顔でヘイト芸をするよりラヴを話したいもの。批判するのが楽しくなってくるとヤバイと想いました。とは言え、批判ばかりの人はそれだけ人生自体がきついのだろうなとは想うのでやめろとは言えないところもあって。

Twitterだとかなり情報のフィルタリングが楽で自分の居心地良いTLを創りやすいので、穏やかな箱庭を乱されるとムカつくのですが、基本的に何かを批判する人、批判癖がついている人ってかなり厭な気分の中で生活する苦境にいる人だと想うんですよね。

私自身もネガティヴな部分はなるだけ出したくないと想いながらも未明から明け方位に脳のリミッターが外れてくると負の感情がついつい漏れてしまうことがあって。そんな話を一つします。

私は音楽にしてもイベントにしてもどっか新奇性を求めるところがあって、またそれを面白おかしく話すもので、保守的な感性の人からは”変な物事ばかり好きだなぁアイツは”と想われていたリ、或いは上質なものが好きな人からも”コンセプト頼みで実質が見えてないなぁあの人は”と想われているかもしれません。

で、つい先日も「野毛のJAZZ de 盆踊りに行かないか」と誘ったら喜色満面の顔で「絶対行かない」と言われまして。どうも自分の食指がそそるイヴェントはB級だとみられてるのではないかという不満があるのです。もっと本質的に価値があることだと伝えるべきなのでしょうけれども、そして私は本質的な価値もあると想っているのだけれども(実際渋さ知らずのLIVEで盆踊りができるイベントなのでした)、私のプレゼンも悪く、軽んじられたと感じてしまって。

いや、まぁアヴァンなイベントなのはそうだし、渋さだって知らない人は知らないし、知ってても趣味じゃない場合は仕方ないけれど、どうにも保守的な姿勢を正当だというような態度がカンに障って。とはいえその時は受け流してしまったんですよね。結局私自身も行けなかったのですが…。

その場で言えなかったのは私にも泣き所があって。どうにも私は油断すると喋りすぎてしまうんですよ。完全にコミュニケーションの貿易均衡が崩れて、相手に不満を溜めてしまっているのではないかというところもあって。後自分がクズな部分があると自認している友達ならいいのだけれども、その友は自分は真っ当だと想っているタイプだったので、真正面から彼の態度を批判するのはショックを与えてしまいそうだなといらぬ心配をしてしまったのもあります。

とはいえ黒いものは溜まって。「ええいあいつも大人だし、いいや奴もみるかもしれないがBlogのネタにしてしまえ、何なら見せてしまおうか」と書いているのですがwほんとこんな心配されるほど彼は神経がか細くないし、寧ろ悪意無く、ナチュラルに話しているだけで。指摘されれば「そんなつもりはなかったんだけど」と想うだろうなと予想されると想います。”良い奴”というのがあるから、逆にその場で反論を言いだしずらいのもあって。

みたいな"その場で不快感は感じたのだけれども即座に言語化できず口に出せなかったけど後後考えるとやっぱり不快だしとは言え何か時期外して言いずらくなってしまった黒いモノをWebに書くこと"は陰口なんでしょうかね?まぁ、やっぱり直接言った方が気持ちは晴れますが、直接言ったら波風立つし、こういうのも渡世の術なのではないかなとも思ったりしたのでした。

とまぁ、今回は気の置けない友達だからほぼ直接言い放てたから良かったものの、これが職場の上下関係がある中でネチネチやる人間とかがいたらかなりのストレスだろうなと想います。そういう人は2chとか鍵アカとかに痰を吐かざるを得ないのかなぁ、大きな会社ならカウンセラーがいたり、ホワイトな会社ならメンターが話聞いたりマネージしそうだけれど。

上に書いた”好きな奴なんだけどカンに障る”とか”相手を想うと傷つけたくない”なんて思考はイジメ自殺しちゃう子辺りも持ってそうな思考方向だなとふと思ったり。それで自分でストレス溜めて鬱になっちゃったら元も子もないですから、死ぬ前にNOという、或いはこの状況自体にNOと言って逃げ出す必要があります。

上にも書いたのですけれども、イジメという程度では全然ないけれどもカンに障ることをナチュラルに言う人間は悪意はなくて自然な態度をとっているだけで。良く「相手も楽しそうにしてた」なんて話聞きますがそれって結構本気で思ってるのだと想うのですよね。大学生同士の”いじり”なんかも結構そうで。お互いにいじってる内はいいのだけれども一方がいじるのが固定された関係って、その場が盛り上がるから優しい”いじられる方”も笑顔を作ってるだけで本当は黒いものもあると想うんですよね。

そういうものに「NO!」という。やめろという。或いは(これは本当に低級な小中高生の話で)拒否しても嫌がらせして来たら「これ以上やったらお前の家に火をつけるぞ、ペットの首をかっきるぞ」位いう。それでなんか言って来たら物的証拠あげて警察マターにするとか、そういう手法を教師は生徒に教えるといいと想います。敢えて「放火する」だの「ペットを殺す」だの過激なことを書いたのは、そういう冷酷な心を持つくらいの気概でないと優しい子はいじめっ子に気を使ってしまうと想うんですよ、で、思い詰めたら辛い。なら風穴開けようと。

勿論、本当に放火してしまったら自分がお縄ですから、実際には打たない核防衛みたいなもので。大人になるとこれは恐喝でやはりお縄になってしまうので、根回しやら何やら人間心理の機微を突きながら自分のいい方向に持ってかないといけませんが、職場に言いたいことがあったときに上手い具合に相談できる人間関係のチャンネルがあるだけでまるで視界が変わる気がします。Twitterなんかはうざい人間はRT非表示とかミュートとかブロックとかするのは何ら問題ないし、職場だってあんまりにも辛かったら転職の動き出しをすればいい話です。

ともあれ、付き合いを続ける人間ならば、不快なことがあったらその場で「不快だ」となるべく柔らかく、しかし必要十分に伝える瞬発力を磨くと共に、その場で言えずに時期を逃したなと想っても後で冗談交じりに軽く伝えたり、或いは変な空気になってもガチで伝えたり。まぁそういう意味でも冷酷さがないとか細い神経では生きるのは中々に辛いものだと想います。何より”言い放つ”、言語化して自分の外に出す、何らかの解を自分の中から出すことが、黒い気持ちを外部化して、精神状態を浄化する作用があると想います。相手が変わればいいけれど、相手を変える働きかけをするのは至難の業だし、そこにコストを払うより言いたいことを言い放つ・外部化することが現実的にはストレスに大きな効能を持つように想います。一度”模範解答”を固めておくと次そういう事態が起きた時すぐ口に出しやすくなりそうだし。

それに、他人様が自分の事を愛してくれるなんてのは甘ちゃんの考え方で。件の事例では私自身もイベントに誘ったこと自体は余計なお世話だったかもしれません。
とにかく頼まれたことを一生懸命してあげることはよくても、頼まれもしないことは絶対にしないこと。それが本当の親切というものでしょう。親切の押し売りだけは、いかに善意でもいただけません。
なんてTweetもありました。

逆に言えばそこを期待しないからこそ、親しき仲にも礼儀ありを求めるというか。お互いに「お前アホだなwwww」とやれればいいんですけどね。人間関係はコミュニケーションの面だけでなく敬意の面でも貿易均衡でないと上手くいかないのかもしれません。その為には私も成長しなければならないですね。

冒頭のTweetにも、「それは居心地のいい箱庭で自己満足したいだけ、戦ってる者はそんな戯言聴けないだろう」という気持ちもないではありませんが、TwitterはBlogとは違って半ばPushメディアですから、ネガティヴなものを流すならそれを薄めるくらいの面白い機知を。或いは負の感情を詩的表現に昇華する必要があるかもしれません。実際、不愉快な思いをしたことでこんな文章が出てきたし、批判はバネになることありますね、消化できる量と頻度なら。

最後に、いじめ・いじりに心痛めている方々へ。
他人を嗤う”良心的な人間”、なんて物が存在するところに、ロックの存在意義があるのではないかと想います。人から嗤われる苦しみを知る人間は人を攻撃できない優しさを持ってしまうことが多く、そんな少年少女の鬱屈を音楽が救ったこともありました。ロックがもたらした闘争意志が掬うこともあったと想います。いじめ・いじりに苦しむ方々、どうか死なないでほしい。あなたは強い。でもその辛さを自分で溜め込まないで、捌け口をどうか見つけて欲しいのです。

Cocco 強く儚い者たち


cf.
"分かっていない他者に届く表現"によるコミュニケーションの話


"好きな物しか好きじゃない"人へのアプローチの考察
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by wavesll | 2016-09-20 05:47 | 小噺 | Comments(0)

TEDデジタル農業回からみるプラットフォームを握る価値観の胴元としての強かさ

This computer will grow your food in the future | Caleb Harper


Eテレのスーパープレゼンテーションで、「未来のデジタル農業」が取り上げられてました。

MITのメディアラボの中にコンピューター管理の農場を設けたケイレブ・ハーパーによるTED。
野菜の生育をコンピューターの分析・管理を以て行うことで、狙いは“若者が魅力を感じ、全世界で農業プラットフォームをつくる事”。

面白いと想ったのは"農業をプラットフォーム化で進化させる"というヴィジョン。
パーソナルフードコンピューター、フードデータセンター、フードサーバーが野菜作りの生育条件のレシピをオープンソースで共有する時代をつくろうという目論見。次世代の食の未来は次世代の農家をネットワークでつなぐプラットフォームにあると。

農業のオープンソース化や家庭や学校でもできる小型化・負担を減らして全世界の総体として次世代農業を築くという視点が素晴らしい。さらに言えばこの次世代農業プラットフォームを握ることで胴元として利益が上がりそうなのが凄いなと想いました。

ビジネスの視点が全世界の基盤を狙うというのが米国の強みだなと。
価値観を造りの面でもそうで。よく雑誌なんかでも"世界で一番うまいレストラン100店"とか"世界でベストな観光地"とか欧米は行います。日本は「東京が評価されて嬉しい」となったりしてますが、評価される側からそろそろ評価する側へ回ってもいいんじゃないかと想うのですよね。なんで日本の視座を示さないのかなと想います。

ここら辺の話は"分かっていない他者に届く表現"によるコミュニケーションの話にも繋がるのですが、"分かる奴だけ分かればいい"というドメスティックな姿勢を脱して、プラットフォームを担うにしても、世界のBest100を選ぶにしても、プレイヤーというより胴元として政治力・評価力を狙う野心を持ったビジネス/メディア人が出て来たら、それこそがクールジャパンな価値観の輸出になるんじゃないかなと感じました。
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by wavesll | 2016-09-16 11:56 | 小噺 | Comments(0)

時代精神批評と個人の眼目となる感想と経済―『プロ倫』を香辛料として探るメディアとの距離

高畑息子の性的暴行のニュースに対し思わず「興味ないんだけど」、「何を騒いでいるのか」とtwitterで言いそうになって慌てて飲み込んだ自分がいます。余計なことは言わずに興味ないならスルーすればいいのに人は自分が興味ないことを声高に言いたがるのは何故なのか。"逆同調圧力"とでもいうか"人は人"とできない訳は…?と。寧ろその心のメカニズムの方に今は結構興味があります。

今まで数度書いているのですが、ここ数年で本当に芸人が出るTVバラエティみる時間が減ったなぁという感覚があります。TVはニュースかドキュメンタリー入ったものばかり見るというか。そうなると「これは知っていて当たり前」みたいな文化情報環境からはちょっと離れるというか。"俺もおっさんになったものだ"とも思うのですが、インターネットで音楽情報とか映画情報とか引っ張ってくることは多いし、単にTVの求心力が自分の中でも落ちつつあるのかもしれません。スパイダーやガラポンTV等のオンデマンド機能が標準装備になる変革が起きないとこの傾向は続きそう。

年食っていくと段々物事の解釈を理論でなく自身の経験から読み解くようになるというか、メディアスターから距離が離れ始める気もします。端的に言うとここ数年でマスコミ芸能人の価値が自分の中で落ちたのを感じます。前は芸人のトークとかTV、ラジオ含めて貪る様に視聴してたし、ロックスターの詩は人生の啓示でした。最近だと唯一映画は『シン・ゴジラ』とか時代の黙示録的に今もちょっと捉えていますが。TVとかかなり虚業に思えるようになってしまいます…。寡占状態で無駄に金が使われていると感じてしまうというか…。

自分みたいな人間は「時代精神を掴みたい」とか大層な思いを抱いて30余年、文化やマスメディアに触れてきましたが、こういう態度は最近アナクロになりつつあるなぁと想うのです。

どうにも受験優等生的な過ちというか"文化の読み解きには一定の解がある、その解に達することができる人間こそ正しい芸術の受け手なのだ"と想いがちな自分が以前はいました。しかしそれは他者の目を気にしすぎるお坊ちゃんの思考というか、究極的には芸術作品と対峙した時に"自分の眼目"があればいいのかも、と最近想っています。

"誰もが魅了されるもの"は限りなく少なく、""時代精神"なんか配慮せず自分の趣向だけ考える人の方が多いし、いわゆる"時代の傑作"なんかも精々3割届けば御の字なのかも。ただでさえ冒頭に書いたような「興味ない」と言いたがる人達もインターネットで存在感増してるし。優等生的に、受動的な鑑賞という行為で優劣を競うのは狭い世界の話だとも思ったり。勿論批評・言論空間が100%受動的だとは思わないけれども"深い理解"を目指そうどころか必要とすらしない人は多いし、鑑賞眼があるより自分で手を動かす人が評価される時代は、文化空間が浅くなる時代でもあるかもなぁと想ったりしています。評論が注目されなくなった時代、言論では食えない時代におけるメディア行為とはと最近考えます。

そんな折、四川旅行中にホテルでYahooニュースをみているときに見つけた
村上龍最良の後継者であり震災後文学の最高傑作としての『シン・ゴジラ』(飯田一史)
という記事には感銘を受けました。文化と実業というか社会との関係の中でいかに働きかけていくのかについて村上龍の活動をメインに"今生まれるべき物語"について論じられたこの文章、読み甲斐がありました。

丁度今日、四川にも持って行った牧野雅彦著 新書で名著をモノにする 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読み切って、商品の価値とは?」、「経済は何故発展するの根本思想である"職業に人生を打ち込む価値観"はどこから生まれてきたのか?」、「金儲けに疚しさを感じずに"天職"に救われるのは何故か」。引いては民主主義、そして資本主義のブラックボックスに光を射そうとする『プロ倫』、流石世界史で習う名著だけあると想ったのも少し繋がる話で。

マルクスとエンゲルスによれば下部構造である経済が、上部構造である政治システム、社会の権力構造、住人の共通観念・道徳・宗教等、社会の非物質的要素を規定するとされていますが、『プロ倫』には『資本論』や『ツゥラトゥストラ』へのマックス・ウェーバーからの解答が書いてあるようです。芸術表現を考える為には経済を考えざるとえないと、今想います。

『プロ倫』本編はこれから読みたいのですが、それがひと段落したらメディア論を深めてみたい。主に「広告メカニズムとは」という文脈で。"突出したムーヴメントを起こす為には発表の場の寡占と多額な金がいるのか?"という問いは、今自分の中で温めてきているものです。現状、一番理不尽な金の流れがあるのは地上波TVの寡占状態だと想うので。
メディア環境やその経済的運用実態、背後の人間の思惑についてある程度知ることはかなり興味があります。それは個人としての"今・ここ"と時代精神というか人間の表現の最前線を考える上でも重要だろう、と。

と、同時に時代の最前線の感覚が、表現が、今打開し進化していくダイナミズムが絵画や音楽で落ちている気もしないではありません。現代アート活動が"歴史の終わり"を迎えつつあるのか。或いは文化の最前線がビデオゲーム等に完全に軸足を移したのか。今を生きるために重要な表現とは何か、そしてそれは個人として感銘を受ける以上に社会で共通認識となるのか、或いは"時代精神"自体が大いなる虚構でしかないのか。

プラットホームの時代の波濤に揺られ揉まれながら、今を突き詰めた結果として未来に残る表現を見出すために少しばかりでも自分なりに見識を深めていければいいなぁと、想います。その視座となる"今、ここ"を個人として持つ為には上部下部両方の構造を客観として知らなければ。四川旅行でSNSと上手く付き合える距離を探ろうと想っていましたが、"個"を拡張するために古典と対話していきたいものです。
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by wavesll | 2016-08-24 05:18 | 小噺 | Comments(0)

政財界の裏金、それぞれの仕事、そして公共の良心-NHKスペシャル 未解決事件 file.5 ロッキード事件より

NHKスペシャル 未解決事件 file.5 ロッキード事件第一部~第三部をみました。
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田中角栄の首をとることになる戦後最大の疑獄、ロッキード事件。
米国ロッキード社から丸紅や全日空を通じて政財界に金がばら撒かれ、田中は5億円を丸紅から受け取ることで、航空機トライスターの導入を決めさせた事件。

しかし番組は更に闇に迫ります。当時新聞で報じられながらも確証が得られなかった昭和の怪物児玉誉士夫を通じて21億円がばら撒かれたことに加えて、当時日本で自国製造しようとしていた対潜哨戒機の計画を白紙にさせて、米国のP3Cを収入させることを通すために動いていたことを、検察の人間が持っていた内部資料、児玉の部下日吉修二の証言、元米国高官の証言、田中角栄の証言テープ、米国側の資料、事件に関わった丸紅社員の証言、当時の捜査官の証言から迫ります。

当時右翼青年が児玉邸に飛行機で突っ込んだことをみたり、大規模なデモが起きるのをみると、昭和の日本は荒々しい熱があったのだなと想います。それは逆を言えばシステムが出来上がってない、あるいは政財界の腐敗の酷さが今以上に酷く民衆から捉えれていたということでしょう。

児玉は国士と言われていたのに、何故米国企業の秘密代理人として暗躍したのか?番組では「日本の再軍備化を後押しさせるため」と匂わせていました。戦後自民党の悲願でもあった日本の再軍備(と国際的に大国の地位を占めること)の為に米国依存を高めることは。結果の為にはプロセスは問わないということでしょう。しかし人間は弱いもの。志は現実に負けます。児玉は死期近くに「自分はCIAの対日工作員だった」と告白しています。

政財の世界は魑魅魍魎。アダム・スミスは金を"他人を好きに使用することができる力"と称しましたが、児玉は自分の計画を進めるために金が必要だったというのも大きかったでしょう。そしてそれは金権政治で腕力をふるった田中角栄も同じ。当時の丸紅社員の証言では、「P3Cは高額だから、それを入れることで口銭が丸紅に手に入る。儲かるから進めた」というようなことを言いました。米国にしても、当時から現在までで1兆円を超えるP3Cの売り上げを日本に押し付けたかった。金を求める為の血みどろの陰謀が張り巡らされる、それこそが正義という闇が拡がっていました。

ロッキード事件における日本の属国性、アメリカとの実力差には忸怩たるものがりますが、政治の世界はスポーツではなく、全手段、全精力を傾けて交渉を行っていくべきだと想います。例えば沖縄を金で買い返還させたのなんか美味いやり方だったし、なぜエリツィン時代に北方領土でできなかったのか、と想います。単に自民党憎しで批判をあげつらうマスコミは、弊害もあるのだ。とKrzysztof Kieślowski 『Amator』 ― 1情報発信者として想う覚悟無きメディア行為の暴力性で思ったのですが、金と権力は吹き黙ると腐ってゆく、今回NHKがやったように闇に光を当てることはメディアの重要な役割なのだなと想いました。

と同時に、仕事というものは単に金というパワーを手に入れる為だけでなく、公の理想を達成するために行うという志がないといけないのだと想いました。組織における正義で、ロッキード事件で暗躍していた者たちは動きますが、再現ドラマでは検察は「あなたには良心がある」と落としていきます。組織人でなく、個人としての自由と良心のもとでは正義が変わる。ポジショントークを超える良心に人は準じるべきなのではと想うのです。

勿論、それは理想論で、実際は政財界はパワーゲーム。そのパワーの根源は経済の金の力であり、もっと言えば安全保障の軍事力。この部分をアメリカに握られていたら、日本は自主独立なんかできず首根っこ掴まれてるなと想うと共に、そのおかげで経済的繁栄を戦後70年続けてこれたことも事実。『日本教の社会学』読書ノート1 日本は民主主義でも自由でもないでも語られていましたが、自由というのはとてつもない犠牲と努力の上に成り立つものなのだと想います。

無論これまで見てきたように、政治家・官僚もそれぞれの利益を負うものであって、"理想的な公の正義"は現実、雲をつかむような話です。ロッキード事件の捜査が進んだのは角栄と三木総理の確執があったし、この番組ではちょっとしか触れられていませんが、検察自体も恣意的な捜査をする。東京都知事を例に出すまでもなく金の問題を抱えない政治家はいません。米国を見てもトランプは論外ですが、ヒラリーも裏工作をする灰色の政治家。それでもサンダースがヒラリーを支持したように現状でよりマシな行動をとっていくしかない。

その為の公共データベースを構築するうえで、メディアが闇に光を当てること、歴史の教訓を探ることは大事なのだ。そして闇に光を与えることで被害を負う人がいることを勘案しても出すべき情報かどうか、自分の私利私欲でメディア暴力を振るってないかを自問しながら、それでも出すべき膿は出すのが職業メディアの公共性なのかもな…と想いました。そして政治家も、法を犯しても成し遂げたいことがあるならば、自分の腹を切る覚悟がないといけない。生ぬるい態度のなぁなぁは国を暗黒に陥らせるのだと想うのです。

日本人はあの頃より、人物スケールが小振りになっているのかもしれません。そういう時『シン・ゴジラ』が描いた"個より群体として実力を発揮する日本人像"は一つの道を示唆していますが、現実には政治のリーダーに強い個体を求める動きが畝ってきています。何かを決定することは何かを捨てること。それでも極から極へ行くのではなく、一番良いと思われる地点を探す平衡感覚を持ち続けたいものです。

川井憲次 / ラビリンス, 未解決事件のテーマ

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by wavesll | 2016-08-02 04:26 | 小噺 | Comments(0)