カテゴリ:小噺( 169 )

フィクションと現実の『真情と芝居』.

よくアメリカのドラマや映画に出ている役者がインタヴューで「これはフィクションなのだ」とか「現実じゃない」と話すことがあって。クリエーションへの客観的な目線はとても成熟していると感じます。

一方で日本のクリエイターの一部は自分の人生よりも自分の作品を大切にしている印象があります。

日本は"労働"が"労道"になって、犠牲を払うことが尊い、なんて不健全な意識がありますが、承認欲求や自己実現欲はあくまでそれ以前の三大欲求などが満たされた後に欲するもので、自分の人生を大切にして、自分の尊厳をダンピングしてほしくはないと感じます。

オタク的近視眼がクオリティの突き詰めに作用していることは否定しませんし、勝負する範囲の選択と集中を行うことで納得できる戦いを行える点はありますが、人生の在り方は広くて。クリエーションが寧ろ人生を押し潰すと感じたら、今いる狭い界隈だけが世界全てでないと認知することは救いになると思うのです。

私も藝術作品には黙示録的な未来視の意味を感じたり、現実の比喩としてその原型探しをしたり、クリエーションに”真実”を見出そうとしたりすることがあります。

のめり込ませる熱は貴いと想うし、例えば"ROCK"なんかは”真情の叫び”が表現の硬度になっていると感じるのですが、Ametsubの件でもそうですが、クリエーションとしての感性の評価と、アーティストの人としての社会的な評価は独立したものだと近年は感じます。双方大事なベクトルで。

メディアに顕れる世界は、あくまで『Performance』であると共に、実社会の職務での役割なんかも一種の『芝居』でもある。そして、外部からは表現された『芝居/Performance』がその人の社会の中での在り様にみえるし、そして核となる『真情』がないと薄っぺらく見透かされてしまう。

そういった意味でクリエーションに対して客観的な視点を持つと共に、『私としての真情』と『公としてのPerformance』の鬩ぎ合いの中で本音2.0が今求められていると想います。
by wavesll | 2017-09-26 02:36 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

正論を吐いてるつもりがフォースの暗黒面(憎しみ・批難・不満)に堕さないようにする心的スタンス

「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」

 世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、
「世間というのは、君じゃないか」
 という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。

(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

 汝《なんじ》は、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣《あくらつ》、古狸《ふるだぬき》性、妖婆《ようば》性を知れ! などと、さまざまの言葉が胸中に去来したのですが、自分は、ただ顔の汗をハンケチで拭いて、
「冷汗《ひやあせ》、冷汗」
 と言って笑っただけでした。

 けれども、その時以来、自分は、(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。

 そうして、世間というものは、個人ではなかろうかと思いはじめてから、自分は、いままでよりは多少、自分の意志で動く事が出来るようになりました。

ー太宰治『人間失格』

土用の丑の日は、もうダサイことにしようぜ…
人でなしになりきれないニンゲンの意見

と鰻への想いを連呼しているのですが、こんなに土用の丑の日DISをしている人間がいても身近な人間にも鰻を食べた者達が散見されて、嫌な気持ちに苛まれます。

とは言え、俯瞰すればグリーンピースなんかには自分も醒めた視線を向けているし、こうした時に相手を動かしたい側が声高に叫ぶのは合理的な策ではないと想います。

いっくら口酸っぱく言った所で肉親すら動かせないんじゃ…と想いますが、宮崎駿ですら作品の想いが伝わらないと悩み、対象年齢をポニョまで下げていったという逸話を引き合いに、「ロリならぬ次世代にしか未来はないのかもしれぬ」と嗤った方がいいかもなんて想ったり。

まぁ、この状況下で鰻を食べることを煽るメディアや食べちゃう人間は愚鈍というか、無知蒙昧というか、世間や「普通」ならば問題ないという自らの頭で考える知能のない人間だなとは思いますが、と同時に「僕の思い通りにならないなんて嫌だい嫌だい」なんて愚図るのも無様で、「他人は他人、己は己」と峻別するアドラー心理学的な割りきりが必要なのだと想います。他人は所詮他人なんだから。

「社会正義」を成そうとして、寧ろ毒にまみれて嫌われる人を散見します。

「毒を吐く」ヒトは、外部から嫌な気持ちにさせられて体内で生成された「毒」を吐いていて、当人としては致し方のない防御反応なのかもしれません。

しかし毒塗れの人は嫌われてしまう。この非共感メカニズムはアダムスミスも『道徳感情論』に描いています。

黒いヘドロ、フォースの暗黒面に囚われないためには、あくまで"自分は自分が欲することをしている"という観点に立脚するといいと想います。

不愉快なことを「俺はそれは不愉快だ」というのはよくても、そこに「正義」の御旗を掲げると途端に心は不安定になります。「当たり前・普通」が為されないと、黒いヘドロが生成されてしまう。

あくまで「己の欲望」と捉えた方が発散的で、心的バランスを崩さないように想います。それは優しい幻想のない酷な話だけれど、酷(Cool)で実際的なスタンスだと、私は思います。(と書くことで発散する方策w 鰻の資源消費をサステイナブルにしようとする者たちにフォースのご加護のあらんことを。

John Williams Conducts The Main Theme From Star Wars

by wavesll | 2017-07-26 08:05 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

人でなしになりきれないニンゲンの意見

Linkin Park - The Messenger


土用の丑の日DISがまるで社会正義を嘯くいい子ちゃんみたいになっていますが、逆で。

鰻大好きだから持続可能に食いたく、ワシントン条約に引っかかるようになって食えなくなって欲しくないから価格メカニズムや法規制でウナギを守りたい。根底に欲望のない主張は信頼ならないと私は想います。

例えば私は旅行が好きで。特に海外旅行には胸が躍ります。しかし地球温暖化という意味では大陸間を航空機で飛ぶことは排出ガスから大変に悪い行為で。

だからエコロジストを自認する人間が世界を飛び回ってる、なんてのはとんでもない自己矛盾だと想うのですが、私自身も自分の欲望を優先し旅してしまいます。

また、鰻を買わないという行動が消費者として最も大きな意思表示だ、なんて思ったりするのですが、ブラック企業、例えばユニクロではなるだけ買わないようにしていても、大手コンビニなんかは気にせずに利用してしまったり。Amazonもマケプレなんかは利用してしまっています。レインズ系飲食店やアリさんマークの引越社は絶対使わないけど。

陰鬱な哲学者は"全世界で悲惨な暮らしをしている人がいるのに幸福を享受するのは罪だ"というけれど、それは"自然"から求められるところではない、なんてアダム・スミスの論がありますが、他人の気持ちを踏みにじった時、悪く思う気もしながら、どこか権力の快楽を感じたりもするゴミ具合。自身の行為を全部振り返って、自分のことを善人だ、とか、真っ当な人間だなんてとてもじゃないけれど言えません。

キリスト教には原罪なんて言葉がありますが、罪を犯していない人間はいません。

「自分は真っ当な人間だ」なんて言いながら土用の丑の日に嬉々として鰻を食っていたり、意識高い系を自認するのに飛行機を使いまくってる人間には「お前クソ野郎じゃねえか、勘違いするな」と言いたくなります。

かといって自分は悪くないって思ってるヒトの方が悪なのか、自分は悪いよと開き直ってるヒトの方が悪なのか。まぁ両方悪です。

個人的には自分は悪くないと思ってるやつの方が気分悪いけれど、「自分は悪だから、悪の道を突き詰めたっていいんだ、俺は糞野郎なんだから」とやられたらたまらない。

そう考えると、日本人よりも海外の方が犯罪が多いのは、海外は「自分はクズだ(から犯罪して当然だ)」という人間が多くて、日本人の方が(それも勘違いなのだけれど)「自分は真っ当な人間だ」とプライドを持っている人間が多いからかも、なんて思ったりします。

さて、色々とこじらせているアスペ気味の自分は、自分のことを無批判に"真っ当だ"なんて思えません。それどころか、突き詰めて言えば、この世の人間は全員あるく糞袋みたいなものだとすら思ったりします。

それでも。自分は汚点があると認識したうえで、出来る範囲は善き人間であろうとしたい。100%の善人になれなければ100%の悪人になる、なんて0-100の思考ではなくて、勇気ある灰色の姿勢をゆければ、なんて思います。

さて、鰻。

欲望を抑えるのではなく、サステイナブルに消費できる資源を拡大していくことこそがベストな道で。20世紀を乗り越えていくというのは、そういうことなんじゃないかなと想います。

このままではワシントン条約で規制され一気に鰻が食べれなくなるハードランディングになる未来がみえていますし、水産庁が動かないのも大きな要因ですが、お上に任せる豚になるだけでなく、消費者としても自律的に不買行動で示すのが必要だと私は思います。

今はWebを探索すれば代替食品はかなり見つかるのですが、正直代替では状況を変えるのは難しい気がします。"鰻系"で"鰻を越える"のが生まれるのがゲームが決定的に変わる時だと。

さらなる快楽による解決策を模索したくて。たとえば酒は私も大好きで最近金麦が案外行けるじゃないかと思う安舌人間なのですが、ビールを止めるには禁欲ではなくて別の快楽を用意するのが手っ取り早いと想います。

例えば数日飲まないで本を読んだりオーディオで音楽を聴いたときの脳内麻薬を味わったとき「飲まないのも悪くねえな」と想ったことがあります。

蛇の道は蛇。欲望を絶つことで寧ろ快楽が増えるような有機体の神秘を、どっか活かせないかなぁなんて、悟っても善人でもないけれど人でなしにもなり切れない、でも『何も考えずいい塩梅』になれないくらいは色々こじらせてるニンゲンとしては想うのです。まずは土用の丑の日の旬でない鰻は完全スルーから。
by wavesll | 2017-07-25 22:20 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

最悪な最高を生きていると

椎名林檎 - 長く短い祭 from百鬼夜行


AKBの総選挙である女の子が結婚宣言をして、阿鼻叫喚の総スカンを食らったのをみて。その後ケンドリックラマーのTシャツを着るとかも含めて、「面白いなーこの子、ここまで爆弾仕掛けて、グループ自体も破壊しようとするのは秋元筋金入ってんなw」と嗤ったのですが、「仕事ならば何でもいいのか/面白ければなんでもいいのか」のモラル破壊問題ってやっぱりあるなぁと想った處。

"恋愛禁止"を一番の恋盛りの女の子たちに求めるのは、人間性の破壊にならないか。「いや、せめて建前は守れよ」といいたくなる気持ちは分かりますが、寧ろ彼女は純情だからこそ嘘をつくのに耐えきれなかったのではないかと。

プロフェッショナルというのは総じてどこか役割を演じることが必要となるし、建前を守る安心があるから社会が成り立つのですが、「建前」が形骸化して、最初から「嘘」になってしまうと不味い。嘘を吐きすぎると無法な心理が生まれるのではないか。

グループでも会社でも、創業メンバーは「理想=建前」を内発的に得心して、そしてサービスや心意気を徐々に発展・習得していきます。しかし、後発の新米の心身にとっては「既にあるスーパー・パワー」は半ばフリーキーに振り切れて限界を超えた負荷になっているのではないかと。

さらに顧客は"更なる進化がないと面白くない"と言い出し、無理を越えて「最悪」を「最高」と嘯いて尽くしていると、無視できない歪に蝕まれるのではないか。体育会の部活をさらに激しく厳しくしたような、若いうちにしかできず時間が限られているアイドルという仕事は濡れ手に粟の水商売でもあり、構造としてモラルハザードが起きて当然にも想えます。

逆に上の立場からみたら、石原莞爾などもそうですが、自分はきちんと論理だてて大勝負に臨んでいたのに、"蛮勇な大博打でもOKなんだ"とみられ自らを模倣してるつもりの若手の暴走に頭を抱える事態が起きているのだと想います。"人倫は守れよ"と。

さらに、10代も、20代も中身はガキそのもので。ましてや芸能産業なんてのは"大人"も餓鬼なのではと。みな虚勢を張って、真実ベースの対話ができていなかったのでは?ただでさえ弱音を吐くことが良しとされない、"命がけでみんなやってんだから"となりがちなのは心身のダンピングがそこかしこで起きる現代日本の労働環境の縮図にも感じます。その反動ともいえるサービス強化へのスパイラルも。

モラルハザードはファンの側にも起きていて。小舅というか、10代20代の女の子に極めて厳しい指摘を続けるミソジニーが起きているのは、"自分はこんなにも相手のことを女として好きなのに、相手は俺なんか歯牙にもかけない、でも惹かれてしまう"という状況構造が引き起こしているのではないかと想います。

アイドルも、運営も、ファンも、みな餓鬼ばかりで須藤凜々花ならずとも「DAMN(畜生)」と言いたくなります。"ぬるい頑張りじゃ競争に生き残れないんだよ!"と言うのもわかります。私自身も一時期アイドルに嵌ってIdol Musiqueを聴かない理由があるとすればという記事を描いたりし、その魅力がわからないわけではありません。

ただ、群集心理の波濤に押し流されず自分を大事にして仕事をしてくれたほうがきらきらした夢を与えられると想うのです。少なくとも「最悪」を「最高」と自分に嘘を吐かないで欲しい。やりがい搾取で成される虚勢の繁栄よりも、真心の本音2.0が、今欲され、伸びしろがあるのではないかと。「嘘」ではなく、信じられる「建前」を時に喧々諤々異論を交わしながら成してほしい。自分を大事にしないと他者も大事に出来ない。そう20代を終えて想うようになりました。

余談
ちなみに、怒り心頭に達している方々に朗報なのですが、100年も経てばムカつく奴も全員死ぬそうですよ。世界丸ごと憎んでいる方にも朗報なのですが数十億年後には太陽が地球を飲み込むので嫌な連中の子々孫々丸ごと死滅するそうです。"それでもこのムカつきが止まらねえんだよ!"という方には北方先生の「ソープへ行け!」を進呈したします。
by wavesll | 2017-06-21 21:09 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

人付き合いとWeb同期 文字コミュニケーションの時間的レンジの広さの価値

Yosi Horikawa - Letter


不在着信だけ残すのといきなり電話してくるのは相手の時間と行動を拘束する行為だからやめてくれ(はてな匿名ダイアリー)

これがTwitterでバズっていたのですが気安く電話を掛ける"電話野郎"だった身としては耳が痛い話で。
電話って相手の顔色が窺えないから逆にずけずけと相手の時間と行動を拘束してしまうなと。

一方でテキストのコミュニケーションは時間拘束から自由で便利というのはその通り。

私も旧友の人達がBlogでもやってくれてると近況を知れ、実際にトークライヴしなくても試聴みたいなことが出来て有り難いと想うのですが、今はそういうのはFacebookなのでしょう。FBよりBlogの方が内向き感がないしPUSHされないから好みなのですが、それは我儘というものか。

SNSがシェアハウスとすればBlogはワンルームに訪ねてくというか。生活は共にしてないけれど時に近況をやり取りする距離感。

リアルの友人関係は書くもので繋がったわけではないですから文章をTLで同期するより自分で読みたいときに訪れるのが一種の理想ではあるのですが、公開の場に色々と書くのは差しさわりが生じることがあるというのはわかります。

”直接会わずともSkypeで家飲みでいいじゃないか"とか思ってしまうWebに浸った人間なのですが、結婚とかしてたら"外で会う"ことの自由さも想像できます。

実際の処、Webを通じて1:Nの同期を行いたい、なんてのは普遍的な欲望ではないかもなとは想います。

仕事から帰って飯食ってニュースみて風呂入って、なんてしたら午前様になることもあるだろうし、パートナーや子供とやりとりして趣味をちょっとしたらそれを記録する時間なんてとても取れないし。私も色々書いてますが、毎日更新って無理な話で。まぁ毎日更新されたら追うの大変だからしなくていいのだけれど。

"今更昔みたいに友達付き合いに時間もかけられないし、年一の飲みと年賀状で効率的に交流を凝縮でいいじゃないか"って感じかなと。まぁ、友達付き合いに時間かけるのは暇人のすることと言われたらぐうの音も出ないw

年一飲みは盆暮れしか帰郷できない事情もわかるのですが、年賀状とかはちょっと形骸的に感じてしまって。義務的に年賀状だけでやりとりするよりも上で書いたみたいに心がふいに向いたときにやりとりできたら、なんて思ったりします。まぁ年賀状自体は古来から続くソーシャルネットワークサーヴィスなのだとも理解してます。

人間、何かの行為を共通に持たないとコミュニケーションが嚙み合わないのかもとこの頃想います。それは例えば行事だったり、趣味であったり、子育てかもしれないし、仕事への熱中度かもしれないし。そうした事を越えて旧友とコミュニケーションを取るには"空間"を共にする事が結構大事な意味を持つのかもとここまで書いて想いました。

ただ個人的にはSNSで繋がっていなくとも、ふと"あの人どうしてるかな"とWebサイトを訪ねて”あぁ、元気にやってるんだ”とか"こんなこと最近想ってるんだ"と知れるのは嬉しく感じて。何もPushされずにふとPullでみる、そんな親交。そういう場を読みたい、自分も用意したいとBlogを綴ってるのもあるかもしれません。

また今の時代、コミュニケーションにおいて即時性が兎角求められる気がしますが、それは文字のコミュニケーションの良さを殺してしまっているのかも。LINEやEメールの返信の速さはそんな期待せずに2、3日見た方が気分が安まる気がします。返信の気分は人それぞれですから。

さらに思うに、人に何かを薦めたり働きかけた時、即座に反応されることを私などはついつい期待してしまいますが、それも過大な期待だと。

私自身もある同級生の子から"水カンやぼくりり、グレーテルのかまどとか面白いよ"って言われてもその魅力に自分がリーチするまで時間がかかったりしました。特に音楽なんてのは"いかに自分がその地点に到達するか"が大事で。

だからこそ他者のアクションにタイムラグなく反応する人が時代を波乗る気もしますが、情報発信する側として、即反応がなくても無駄でなく、種子が芽吹くまでに時間がかかることもあることも知っているといい、そう思います。

上で「Facebookは書くものでは繋がってはいない人とTLで同期するから居心地が悪い」と書きましたが、他人と100%の同期や共感・評価を求めること自体が土台無理な話でもあります。

BlogやTwitterをやっていても全然反応が普段なくともこちらで何かミスがあるとクレームをつける"読み手"はざらにいて。昔はそういう読者にムカついたりもしたものですが、今は"私はこの人に文章をサービスとして提供出来ているんだなぁ"と考える様になりました。

"これは面白い"と私は"いいね"を積極的にするのですが、読んで反応するコトって案外ハードル高いコトと考えるヒトって多い印象。

その点Twitterは反応も結構あったり、何しろ相手も"書き手"なのでフリーライド感がないのはいいと想います。自分の身の回りの狭い範囲に"何か書いてくれること"を求め地獄を起こしたことがあるので。

ネットの広大さ、PUSHよりもPULLの文字コミュニケーションの精神的な自由さに感謝を述べたい。文字コミュニケーションの時間的レンジの広さの価値を今、再発見しているところです。


Erik Mongrain - AirTap!

by wavesll | 2017-04-12 02:32 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

『欲望の資本主義2017 ルールが変わるとき』をみて

第1章~第3章
第4章~第5章
第6章~第8章
第9章~最終章

前編「欲望の資本主義2017 ルールが変わる時」(Dailymotion)
後編「欲望の資本主義2017 ルールが変わる時」(Dailymotion)

BS1スペシャル「欲望の資本主義2017 ルールが変わる時」をみました。

安田洋祐(大阪大学准教授)をナビゲーターにジョセフ・スティグリッツ(コロンビア大学教授 2001年ノーベル経済学賞受賞 アメリカ大統領経済諮問委員会委員長 世界銀行チーフエコノミストなどの要職を歴任)、トマス・セドラチェク(チェコ総合銀行チーフエコノミスト 経済学者 24歳のとき初代大統領の経済アドバイザーに抜擢 チェコでベストセラーとなった著書『善と悪の経済学』は世界15か国語に翻訳)、ルチル・シャルマ(モルガンスタンレーインベストメントマネジメント投資ストラテジスト 25年にわたり各国を調査 情報を分析『The Rise and Fall of Nations(国家の盛衰)』はアメリカでベストセラー)、エマニュエル・トッド(歴史人口学者 フランス国立人口統計学研究所 所属 旧ソ連崩壊 金融危機 イギリスEU離脱などの予言を的中)等の識者に低成長時代をいかに舵取りをしていくかが語られていました。

スティグリッツ教授は「富の一極集中の解消が成長の鍵だ」といい、セドラチェク氏はもっとドラスティックに「資本主義が必ず成長するというのはナイーブな思い込みで"成長資本主義"から変わらなければならない」と言います。

しかしアルヴィン・ロス(スタンフォード大学教授 2012年ノーベル経済学賞受賞 市場の制度を設計する「マーケットデザイン」研究の先駆者)は「資本主義の死を宣言するのは早計だ。資本はリターンを得続けているよ。シリコンバレーに住んでいるんだが多くのビジネスが集まっている」と語ります。

更にUberへの投資で著名な投資集団のスコット・スタンフォード(シェルパ・キャピタルCEO 元ゴールドマン・サックス社員 2013年ベンチャー投資企業を設立)は「私たちはより効率化する方法を常に探しているんだ。経済学でいうところの生産性だね。労働力が変わらないのに成果物は増える。そして利潤 成長 波及 創造的破壊を追究する。いかにして効率的な進化がなされない古い産業を駆逐するか。市場をとれ。需要と供給が働きあって加速して規模の効果が働いて新旧交代が起こる。それがイノベーションだ。そして消費者をハッピーにするんだ」と。

そしてシャルマ氏は「2008年リーマンショック以後、危機以前の時代より速いペースで成長できている国はまったくない。西欧だけじゃない。インド、中国、ナイジェリア、南アフリカ、ブラジル…どこでも。世界経済はスローダウンしている。」としながら「1950年~2008年は世界経済の成長率は毎年4%と異様に高い」とし、その原因を人口爆発と国家債務の増大にあるとし、「歴史的に見れば世界は今でも急速な成長をしていると言える。1950年~2008年はさておきね」と語ります。

世界経済は、"富の前借り"の破綻によってそのペースを変えて、従来の成長率を前提とした社会基盤が成り立たない事態になっていると。

この番組は前編(1~5章)は2016年に放送され、後編(6~最終章)は新作なのですが、Uber等のシェアリングエコノミー技術が社会全体にとってバラ色の未来と言えないといえども、ベンチャーが伸びたり人口が減少していない欧米は2%以上の経済成長を続けているのに対し、日本はマイナス成長。

今の欧米の経済識者が「低成長の時代にどう対応した社会・個人のありようを求めるか」と語っているのに対して安永竜夫(三井物産代表取締役社長 発展途上国のインフラ開発への投資など新事業を開拓)や原丈人(デフタパートナーズグループ会長 アライアンス・フォーラム財団代表/内閣府参与 ベンチャー企業育成のための政策提言や新技術をもちいた支援など国内外で活動)が「日本は進んだ経済観念を持っていて、これからガンガン成長することも可能だ」と息まいているコントラストが…

老人が若者より活力があるとも言えますが、"往年の夢よもう一度"で五輪や万博を開こうとするような頭じゃ現在に対応した"悟り世代"がみしみしと労働負荷をかけられる、ミスマッチが起きそうで。パラダイムが変わるには今の経営層が消えないといけないのではと想うと共に、2%すら経済成長が起きないのはやはり気脈がおかしい気がするところです。

番組では経済学の巨人アダム・スミスとケインズの思想に触れています。

アダム・スミスは"各個人が自己利益の追求をすることで『見えざる手』が働き社会が調整される"と自由貿易を唱え、ケインズは「社会の安定のため最も恐れるべきは失業者の増大 危機を回避するには国は借金をしてでも仕事をつくる そしてお金という血液を市場にめぐらせる」と唱えましたが、番組ではそれらに対して妄信することに警鐘を鳴らしています。

「見えざる手」は存在せず、市場のルールによって調整機能は担保されている。また「もう危機から7~8年経って経済は回復しているのに財政赤字を続けていいとはケインズは言わなかったはずだ」と。エマニュエル・トッド氏に至っては「自由貿易を辞めれば経済成長する」と。今までのルールが通用しない時代になったということでしょうし、アダム・スミスの時代とは異なりほとんどの人間が商業に携わる今、労働者は消費者でもあることを慮らなければならないということでしょう。

また数学的な部分を含め、経済学に触れると一見未来予測が可能であるかのように錯覚しがちですが、気鋭の経済学者であるセドラチェク氏から「"リスク"と"不確実性"は異なり、未来はわからない」と語られたのは大きなことで。

ケインズも「わたしたちの未来についての知識は実に曖昧で不確実なものだ」と言っていますが、悲完全情報状態に加え、人間という不確実な因子が絡む長期にわたる未来予測は難しいと、現代のトランプ時代に起きるシリアや北朝鮮情勢をみるとまざまざと得心します。

このように、経済学の不完全さが結果として語られた番組ですが、一つの大きな軸で語られたのが『何をもって成長とするのかの新しい尺度・観方が求められる』ということ。

GDPは適切な指標でなく、シャルマ氏によると「2007年のアメリカの住宅バブルのピークにはアメリカは1ドルの成長を得るため3ドル負債を増やしていた。今中国は1ドルの成長を得るために4ドルも負債を増やして成長率を維持している」とのこと。

スティグリッツ氏は「経済成長について話すときは"成長"の意味をはっきりさせないといけない。GDPは経済力を測るにはいい指標とは言えない。環境汚染、資源乱用を考慮にいれてないし、富の分配も社会の持続性も考慮されていない。問題だらけだ。経済における成長の本質をこの先変えていくべきだと強く思っている」といいます。

或いは原氏が「会社は株主の物だっていう考え方から会社っていうのは株主も重要な要素だけれども会社を成り立たせている社員、仕入れ先、地域社会、顧客、地球も含めた、この社中全体のおかげで会社が反映しているわけだから、上げた利益は社中に対して還元していく。こういう資本主義の事を『公益資本主義』という風にいいます」と言うように"成長の指標"をより実際的なものに刷新する必要があると想いました。

「欲望は満たされることを望まない 増殖することを望む」との言葉がありました。欲望をコントロールするには禅的に抑制するのもありですが、さらなる魅惑、さらなる欲望を提示・誘導することで"モアベターな欲望 モアベターな社会"を達成するというスキームこそ現実的に効力があるのではないか、そういった意味でも"新しい指標"が望まれます。

自然科学である物理学と社会科学である経済学は異なるけれども、"成長、あるいは幸福をより適切に測る統一理論"、それは即ち世界への認知をパラダイムシフトさせる真理を解き明かす行為が希求されているのだ、そう番組を見て想いました。

cf,
アダム・スミス 著, 山岡 洋一 訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』 読書メモ

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読む
『日本教の社会学』読書ノート

欲望の民主主義 世界の景色が変わる時 第1・2章 第3・4章 第5章 第6章 第7・最終章

欲望の民主主義 世界の景色が変わる時をみて
by wavesll | 2017-04-06 19:02 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

何でも公開したいとみなが思っているとは限らないという当たり前の事実について

Thundercat - Drunk (2017) Full Album


南米旅行から帰ってきたはいいのですがまだラグが治っていなくてこんな時間に起きてつらつらWebを流しています。

私はかなりルーズにTwitterやBlogなんかを綴っているので、思考がだだ漏れていて。
これ、悪意を持って批判的に読み込まれたら危ないとは思いつつもサトラレ状態。

一応Blogの方は比較的かっちり書いているつもりですが、Tweetは楽屋落ちというか緩すぎで「ンなことはチラシの裏に書いとけ」なノイズに塗れ、身を美しくしたいと想いつつも気を抜くと…。

まぁ、己の事は自己責任なので我が身に返って来るだけなのですが、扱いが難しいのは他人様の情報。飲みとか、電話とかで出たトークをWebに書いて幾度も失敗したことがありまして。

個人のスキャンダル的なことは「それは武士の情けで見逃してやれよ」と私も想うし、それは芸能人へのパパラッチなんかも不毛な商売してんなと想うのですが笑い話的なことでも関係者の気分を害したり。

世の中、無垢な人ばかりではないですからね。言質を取って引きずり降ろそうとしたりマウンティング仕掛けてくる人間の事を考えればそういう話も面白可笑しく書くものではないと得心します。どこで不発弾が爆発するか、分かりませんし。

また特にスキャンダルでも笑い話でもなく、盛り上がった議論から特に私が面白いと思ったことを書いた場合も問題になったことがあります。「精確に理解しないで書くんじゃない」とか「俺から聴いたと書くな」や「ちゃんと聞いた話だと書いて欲しい」と言われたことも(別々の人たちから)。

これもまぁ「あいつに何か話すと拡散されるから厭だ」というネガティヴな感情は分かります。

とは言えスキャンダルに関して『天網恢恢疎にして漏らさず』と想うのと同様に、外部に何かを発信した時点でどう解釈されるかは相手の自由で、理解の方向をコントロールしたかったらそれだけ自明な物言い、伝導率を高くすべきではとは想ったり。

しかし相手に不利益をもたらしてしまっているので、基本的には私が悪い話だと思います。秘密が維持できるから廻るものが廻っているのだと今なら理解できます。

そんな訳で、いわゆる"素の一般人"の人たちの事柄は扱うことは非常に難しいものです。権利意識がプロより寧ろ強い。ちょっとズレますがコスプレ写真のULみたいなもので、細やかに許可を取りながらでないと後々に禍根を残してしまいます。

「面白いからシェアしたい」というのはこちらの欲望で。何でも公開したいとみなが思っているとは限らないというのは当たり前の事実。

そうなると公開情報だけ扱うのが基本的には一番適当なのではないかとも想います。SNS時代、世に公開されている情報だけでも無数にあって"言論村"も拡がっているし、プロの方は色んな解釈や言葉が投げかけられることに対して覚悟が決まっているし。一億総タブロイド記者みたいになっては監視社会みたいなものですからね。どうせ暴くなら巨悪をでしょう。

このBlogでは様々な創作物のスクラップブックのような事もやっていますが、著作権の問題も含めて、色々と舵取りをしていきたく思っています。中々ないネタを仕入れる事には筋を通して、そして筆力に関しては寧ろありふれたネタの調理法こそ問われるところだなと想います。思索のシャベルを深くDigりたい。

P.S.
この記事は夜明け前に最も似合う2017年式AOR、Thundercat - Drunkを聴きながら書きました。

こういうサイト論を書くと本当に筆が良く進む癖に音楽的なことはベイグな事しか書けないのは、私は物語的・言語的にしか音楽を理解できていないのだなと想います。

このアルバムについても当初のとっかかりは「今AORって良いな」という潮流を読み取るコンセプチュアルな面でしたし、音楽をトレンドで聴くのは賛否両論あるけれども敢えて言えばThundercat - Drunk は非常にトレンディーだと想います。今丁度欲しい味を上手く提示できたアルバムだと。

しかしこの盤は決してコンセプトの仕掛けだけでなくて、音としても魅惑を感じれる一枚だと思います。ベースの弾力感もそうですが、ビートとの絡みがきびきびと良くて。そしてジャケからは想像できないファンタジーで愛に満ちた音色が入るのも素敵で。私にとって音楽は理解するものでなく、感じるものなのかもしれません。兎にも角にも『DRUNK』、お薦めの一枚です。

cf.
本音2.0

by wavesll | 2017-04-05 03:57 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

3.11から6年 刹那と継続

波よせて(石垣島、米原)


【小沢健二】流動体について (TV-LIVE)


3.11の時。一番苛烈な心情だった頃。

その時私は死が近かった心持から"お前らも漸く死を近くに感じたか"とかの呪いの気持ちと、"生き延びたことを先ずは気付かねばなるまい"という動転からSNSで東京の人々に向けて惨いことを口走っていました。

間接的な暴挙ではありますが、そこに被災者の方々への思い遣りはなく、我欲のみでした。

3.11で"普通の有り難み"に気づいた方々は多かったことでしょう。一方で、今も自殺者は2万人/年を超え、毎年3.11以上の厄災が起きていることは"普通の人々"からは"最終的には自己責任だし、仕方ないこと"とされる。結局”自分事”でないことは"他人事"、そんな"普通の人々"への恨みだったと今は想います。

誰しも"自分自身の視線"がスタンダード、デフォルトであって。"人生の重み"なんてのは自分で計ればいいことで他人に押し付けるものでは、ないですね。

あの時の自分は今平静から振り返ると惨いものがありました。音楽で安楽を伝えようとしてSNSで『波よせて』を薦めたり。津波があったばかりなのに。

時を経て今は"普通の人が普通の人生を成り立たせるためにどれだけ努力と研鑽をしているか"が身に沁みます。

"普通の人の無関心の冷酷さ"も認識した6、7年前。今は自分自身の未熟さや甘ったれさを認識すると共に、ただ大声で叫ぶだけでは逆効果、ということも振り返れば理解できます。

アダム・スミスも”施しは度を超えない”と書いていました。端的に言えば愛と尊厳が足りているからこそ、他者へ慈しみを持てるし、度を越えた慈愛の施しは寧ろ虚栄心から来て、犠牲感の無理を産むものなのかもしれません。

情報は幾らでも増殖しインフレーションを起こしますが、結果として身体性を伴わない虚像を産む恐れがあるのかもしれない、そしてそれは『西瓜糖の日々』のインボイル達のようにカタストロフへ繋がっていくのかもしれない…。

音楽や言葉は認知に働きかけるけれども、その魔法の前提、ファンダメンタルに関わる"世を成り立たせる仕事"もまた貴い。魔法を上滑りさせずに実体化するには、刹那の継続、身体性が必要なのかもしれない、朱夏に入りそんなことを想うようになりました。

そうした時に、小沢健二の新譜『流動体について』が心に浮上して。

最初聴いたときは焼き直しというか、“毎日の環境学の先がこれ?”と想ったのですがリリースから数日経って、不意に口ずさんでしまうメロディと“もしも過ちに気がつくことがなかったのなら”とリブートを示す歌詞に、王子さまではなくなったかも知らないけれど生身の人間等身大の身体性を感じて。

藝能の現場でサヴァイヴしていくには激烈なI/Oをやり抜かねばなりません。
その一種狂気を孕んだShowをMust Go Onして行く螺旋から降りて。サンプリングや引用といった自分以上の拡大から距離を離れて、その上で今『流動体について』に"再到達"したことが心に沁みたのです。

閑話休題。最近みた夢で、私はブログの記事について電話で釈明していました。その記事は書く書く言ってまるで書かなかった記事で。

高倉健を題材に“過ちを犯した後で、贖罪するにはどうすれば良いか”を書く予定のもの。どこかで刑務所から戻って来て、その罪の意識を背負った上で生きざるを得ない幸せの黄色いハンカチの高倉健は、侵略戦争の罪を負った上で国際社会で生きていかざるを得ない戦後日本のメタファだと聴いたのが深層意識に残っていたのだと想います。

私は結局、真に謝らずに筋通さずに生きてきてしまいました。

率直に謝る前段階の"過ちがあった"と認めるだけの事にこんなにも長い時間が掛かってしまいました。ただ、軽薄な謝罪の言葉よりも、自分は不遜だったと本心で認める方が私にとっては本質的なことでした。

色々な場所で失態を重ね、鬼門が増えてきた私にとっては世界の広さは救いでもあります。そして、そのひ弱さは邪悪ですらある、と今は想います。

過去は変えられないし、もう交わることもなくそれぞれの人生が伸びて行く事もあると想います。自分の身体で生活を営むだけでもタフな行為だし、博愛と虚栄は峻別しなければなりません。

摩擦や衝突に無理に身を突っ込むこともないだろうと想います。寧ろ相手に迷惑になることもあるだろうと想います。

その上で、今の自分で手が届く範囲には、一人の個人としてキャパを知った上で援けが出来る時していければ。"意識高い系"は要は"口だけ"だと想うので"刹那と継続の行為"で成していくことを積み重ねていきたい。些細なことから。

そして、言葉を積み重ねる事。言葉は言葉でしかないけれど、言葉。

一つ一つは紙のような薄さ/軽さでも、刹那を積み重ねて継続することで、情報は厚みと言う身体を、そして投下された正の時間分の重みを持つのだと想います。

結局のところ己は己の悩みしか負えません。他者と本気で向き合いたければ究極的には当事者となるしかないし、そうでないと薄っぺらになる。何かに真剣に向き合おうとするならば、時をかけて"自分事"にする他ありません。

起点はいつでもある。実は自身が権益や関係を持っていたり当事者性があることに気づくことだってあると想います。

無論、内部の"お約束"を無視した黒船的提案がさくっと盲点をついてケミストリーやパラダイムシフトを起こすこともあります。

しかし化学反応を起こす原料を作るのは時の積み重ね、技の積み重ねではないかなぁと今は想うのです。未開拓な道を示すのは素晴らしいけれど、言葉は仮想で。アイディアだけの空論と言われないためには身体を伴った行為、或いは実験、せめてアルゴリズムまで示す必要があると想います。

そして行為を為したらその結果を虚心坦懐に受け止めていく。文を認めることで澱と火と仁を浄めて。平成が終わりかけていくときに、私自身も何かの変容が来ていると感じます。幸運か、不運か。スロウスピードながら。

cf.
本音2.0

by wavesll | 2017-03-11 12:08 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

ジャーナリズムの公共意義 ―お笑い芸人VS原発事故 マコ&ケンの原発取材2000日をみて

お笑い芸人VS原発事故 マコ&ケンの原発取材2000日(dailymotion)
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NNNドキュメント「お笑い芸人VS原発事故 マコ&ケンの原発取材2000日」、大変興味深く観ました。

福島第一原発事故から6年弱、東京電力が行ってきた記者会見の最多出席者はなんと、お笑い芸人「おしどり」のマコ・ケン夫婦だ。芸人が場違いだ、とのバッシングを猛勉強で乗り切り、鋭くしつこく追求し、世に出て来なかった幾つもの事実に光を当てた。東電の会見者らが何度も沈黙したりタジタジになる事も。医学部中退のマコちゃんは子ども達や原発作業員の健康問題を掘り下げ、得意の突っ込みでにっこり笑って原発事故を斬る。

みて驚いたのは東電の隠蔽体質の凄まじさ。
原発が爆発したときの煙に放射性物質がどれだけ含まれているかも正されないと公表されなかったり、福島県北部では汚染が見られても宮城県南部で調査をしていなかったり。"そんな事もやってないのか"と驚愕しました。

そしてこの番組で最も驚いたのは国際シンポジウムへ行ったときにマコさんがオフレコで聴いた(しかしICで録っていた)言葉。

「今まで原発は"事故を起こさない"とセールスしてきたが今はそうは言えない。しかしこれからアジア・アフリカに50基つくる計画がある。だから"事故を起こしても大丈夫"と売り込む。原発事故が起きても住民が除染し住み続けるモデルケースをつくることが大切だ」

実際に事故が起きることを想定に入れればとてもじゃないけれど低コストなどとは言えない原発産業の権益で世界が回されてしまうのは恐ろしい話だなと想いました。

NNNドキュメント「お笑い芸人VS.原発事故 マコ&ケンの原発取材2000日」を支持できない理由というtogetterまとめもありました。福島に今も住んでおられる方々にとって、マコさんの存在は風評被害を招くような疎ましい存在なのかもしれません。また東電や役人としてはマコさんの指摘に答えることで全体の解決スピードが落ちてしまうという認識もあるかもしれません。

ただ、こういう人がきちんと勉強した上で訊くべきことを追及をすることで、例えば一消費者である私は"あぁ不正は許されていないのだな"と食品への"科学的知見"に対する一定の信頼を持つことが出来ます。

そういった意味では線量計を裸で地面に直置きするシーン等はマコさんや番組制作者側の知識への不安も覚えると共にマコさんを叩く菊池誠さんも誤りがあって、単純に1つのソースを妄信するだけでなく複数の視点をもって事実を検証するのが大事ですね。

東電の人も役人の人も限られたマンパワーで身を粉にして働いてくれていると思います。だからこそ、ジャーナリストを疎ましく想うのではなく、外部調査機関として意義があるのだと想いました。

公の役人、企業とジャーナリスト、そして私の様な一般人は、お互いに緊張感を持ちながらリスペクトをしあうことが大切なのでしょう。公や企業の人も人間で。しかし特権をもって振るったりする。それに対する批判的な視点はかかせない。

今マスコミはカスゴミとして厄介者の特権階級だと叩かれていますが、、必要な指摘を行うジャーナリズムが有用な場面はとても多いとこの番組を見て感じました。

本当の意味ではジャーナリストは問題提起だけでなく課題解決まで提案し実働できたらいいのかもしれません。市民運動はソーシャルエントレプレナーやクラウドファンディングと組み合わさることで実行力を持つのかも。


中々に見ごたえの合ったこの番組、2月12日(日)11:00からBS日テレで再放送されるそうです。一見の価値はあると想います。

cf. 「 福島産を全部避けるのが一番安全」は本当か!?(cakes 開沼博 / 俗流フクシマ論批判)
by wavesll | 2017-02-07 07:15 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

批判の速度、身体の速度 リトアニアの徴兵制復活から見る"実際的"な速度

Kryžių kalnas / Góra Krzyży / Hill of Crosses HD

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NHKBS1 「激動の世界をゆく▽バルト三国ロシアとヨーロッパのはざま/小国アイデンティティー」にてリトアニアで徴兵制が復活したことが報じられていました。

バルト三国の市内にはナチスやソビエトによる抑圧時代の遺構も数多く、市民は再びクリミアで暴威を振るったプーチンを警戒。リトアニアの国旗の赤は、祖国を護るために流した血の色。

「自分達で守ろうとしない国を他の国が守ってくれるはずがないでしょう」。リトアニアの若者の切実な言葉を聴きました。
学校では緊急事態の際の訓練が行われ、コンピューターが無作為に選ぶ形で行われている徴兵は今は志願兵で足りているそうです。

日本だと、軍事の話をしようとするだけでも「軍靴の足音だ」と批判の声が上がったり、沖縄の米軍基地は憎まれる存在。

戦争は悲劇。平和を愛すること、暴力を忌避することを肯定したい。と同時に己の身を守るために武力を持たず、米国に軍事をアウトソーシングしまるで児童のように依存しているが故、属国的な振る舞いに甘んじる母国。

悲嘆は対症療法で。根本治療は祈りでなく、現実を考える細部の積み重ねの智慧と行動から発露するもの。理想を体現するのは個別具体的な仕事で、それについて検討することすら忌避しては何も解決しないのではとも想います。

ただ勿論、軍の無法図な肥大や軍産複合体の形成ははっきりと悪で。割れ窓理論を認識しながらも"必要な質と量"に関する議論がなされるべきで、敵愾心を煽り恐怖で支配しない"武の道"を修めることが必要なのかもしれません。

ちょっと想うのが、政治って何が何でも批判され目の敵にされているというか、"政治を褒めるメディア"はないかということ。

マスコミをみていたら日本の政治家や官僚が無能にしか見えません。単に褒めるというより数字と事実で内外と比較して是々非々で評価すべきで。

政治は交渉と妥協だから切り捨てられた声をメディアが取り上げる意義はわかるけれども、「このメディアは批判しかしない」という色眼鏡をかけられたら批判への信頼も落ちるのではと想います。

イデオロギーに堕するから反知性主義がバックラッシュとして起きてしまう。"己が正義の側にいる時"こそ自問自答すべきで。

批判のための批判になり"完璧"を目指そうとすると無理が来る。無理が来てはリベラルの好きな"道理"も引っ込んでしまうのではないでしょうか。

言葉はヴァーチャルな存在でもあり、情報はめくるめくほどにつくりだせ消費されるものですが、現実を動かすのは人間の身体です。

言論人とかメディア、企業経営層が精神論を魔法のように、根性を無限の資源のように、無放図なサーヴィス負荷を是とし、身体性・メカニズムを考えないプログラムが苦難を生む癌なのでは。

身体を変えることは時間がかかります。すぐに結果が出ない、或いはドラスティックに変えようとするとRIZAPが脳卒中を引き起こすように惨い破壊が起きてしまう。これはトランプとも相似です。

身体を動かさない、現場に密着しない言説は今そっぽを向かれつつあると想います。Webで素人が幾らでも流せますから。プロの言説はドキュメンタリー的でないと価値を失うのではないか、そう思います。

その意味で心と脳の白熱教室でオックスフォードのエレーヌ・フォックス教授が言っていた悲観脳を楽観脳に変える方法は身体的な行動に落とし込まれていて、精神論に嵌らずに良かった。"心"すら個別具体的な行動の積み重ねであると。

じっくり、徐々に。日々微かにしか変化していないかも知れないけれども、日が伸びていくのを感じる視座の様に、中長期的な視野を持てれば上向くこともある、そんな気がする立春の夕です。

そしてそれは、政治家や言論人が"あの時何を語っていたか"を覚えておき、喉元過ぎればと言いっ放しを許さないプレッシャーを与える事だと想います。身体的な言論、これが社会の礎になるのではないか、そう想うのです。

吉井和哉 - トブヨウニ(YOSHII BUDOKAN 2007)


cf. マスメディアのハレとケ。/TVのバラエティを叩くより報道検証企画を求めたい。
by wavesll | 2017-02-04 17:17 | 小噺 | Trackback | Comments(0)