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承認欲求を求めてもいいし、みなに好かれなくてもいいし、全てに肯定的でなくていい

pokka pokka / Fishmans


NUMBER GIRL - I don't know (ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2002) LIVE


私は面と向かって相手の気分を害することを言うことが苦手で。その癖Webなんかだと駄々洩れさせたりとかして口ならぬキーボードから災いを招いたりしてしまって。空リプの誤配もあったり、結局陰口ですしね。

また、「分からないこと」が我慢ならなくて。人から何かを薦められたときなんかも、その時魅力が分からなくても”この人が薦めるものなのだから、きっといいものなのだろう”と期待値を込めて肯定的な返答をしたりしてしまいます。

その後魅力が分かった時に「最初は分かってなかったのだけれども魅力が分かった!」と興奮気味に伝えて、「何で最初分からなかったときにそう言わないのか」と言われたことがあって。

"そうか、期待値込みでポジティヴを装うのも、それが期待値で今は分かってないと伝えないと裏切りになるのか"と気づかされました。

そう想って振り返ると、世の人は"わからないこと"には寛容なのだなと。

相手の魅力が分からない内は最強というか、どんなに無礼な発言をしても罪悪感は感じないというか。”そもそも価値がないことを分かっているんだ”というスタンスかもしれません。

寧ろ”価値があるんだ”と力説することの方がみっともないことと想われている節があります。いわゆる「承認欲求叩き」なんかも相手が今ある評価に満足せずに承認をさらに求めることに対するいらだちというか。

ただ、そもそも承認欲求それ自体はマズローの欲求5段階説の中のタームで。ネガティヴな色はありません。

食欲・性欲・睡眠欲の生理的欲求、風雨や危険をしのげる安心な暮らしがしたい安全欲求、集団に属したり仲間を得て孤独から逃れる社会的欲求(帰属欲求)が満たされた人間が、次に求めるのが、他者から認められたい、尊敬されたいという尊厳欲求(承認欲求)です。

私も昔はコミュニケーション欲とでもいうか、分解すれば社会的欲求と承認欲求が欲しくて欲しくてクレクレ乞食な無様なこともやってしまって。Blogやmixiにコメントが付かないのに悩んだ時期もありました。

ただそれは狭い村社会に属していたから起きた問題で。Webの公海に出て、Twitterなんかで800人弱の人をフォローして、十数人の方々と良くやり取りをして、そこそこの頻度でいいねなんかが来て、たまに返信コメントが付いたりするとそれで結構満足する自分を発見します。

逆にこのTweetなんか830RTされて1500いいねとかされているんですが、正直言うと通知がひっきりなしに来る感覚で。数字だけだと自分の器では体感を越えているし、寧ろ体感するくらいのリアクションが来たら対応できないと。普通のTweetで3, 4いいねがつくくらいが一番いいというか。

ひとりの人間が親しくつながっていられる最大数は50人から150人程度だという説もありますが、現在のリアルとオンラインのコミュニケーション量で、社会欲求も承認欲求も飽和に近いなと。

そういった意味で、今は"他人にウケることを目的にしているではなく自分が読みたいことを書くためにWebをやってる"、なんてマズローでいえば自己実現欲めいたことを言えるのですが、これも4段階まで満たされたから言えることで。他者からの評価を得るために頑張るって至極真っ当な動機だと想います。

だいぶ話がそれました。元に戻すと、"わからない人間"を相手にするときは相当骨が折れるのが常だと覚悟するか、そもそものターゲットを絞るのが、生業にし数字を求めないなら有効な方策ということ。

”分かっている人相手”でも相当な人数が存在するし、可処分時間でコミュニケーションに割ける分なんかそれで埋まるのが、私は実際の処です。

また、"わからないコトはわからない/わかってはいない”と言うのが誠実だと。

昔の私は傲慢で、身近な人のいうことは何でも理解できて適切に面白さをこちらは判断できるのに周りはこちらの感性を理解しえないことが多いと驕っていました。

しかし、Webの大海に出て、自分自身が大切にしている分野でも先達はいくらでもいて、前は理解できなかったものでも時を経ると良さがわかることを知って。一方で自分自身の理解にも限界があることも知って。

面白く感じていないモノを、わざわざ声高に貶す必要はないけれど、おべんちゃらを無理に言うのも不誠実なのだと今は感じています。無知の知を知った上で、誠実に発言することの大事さを知りました。

こういうサイトを結構な頻度で更新したいと思うとついネタに妥協というか、本心でない褒めをやってしまいそうになります。

でも、金を得ているわけでもないインディーメディアなのだから、本当に書きたいものだけを書くことこそがレゾンデートルだよなと。昔の仲間には"どうせ分からないからぬるいことを言っておけばいい"と考えていましたが、自分で推すものは、誠の心をもって今は発言したいです。

それで読まれなかった時でも"これ読まないなんてもったいないことしてるなぁ"と想える水準を出すのが理想だと。

社会的欲求と承認欲求が満たされたから、自己実現を目指せる。案外私の欲求の器は無尽蔵でもありませんでした。

もしかしたらその先に、マズローが晩年、5段階の欲求階層の上に、さらにもう一つの段階があると唱えた「自己超越」という段階へ行ける時もあるのかもしれません。

”「目的の遂行・達成『だけ』を純粋に求める」という領域で、見返りも求めずエゴもなく、自我を忘れてただ目的のみに没頭し、何かの課題や使命、職業や大切な仕事に貢献している状態”。なんだか読み切りの『ZETMAN』みたいな話ですね。

スピッツ / チェリー

by wavesll | 2017-07-06 23:19 | 私信 | Trackback | Comments(0)

世界へ懸ける人、日本で懸ける人、この國の仕事観・労働社会環境へ思馳せるTV3番組

 山路を登りながら、こう考えた。

 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。

 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い。
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NHKBS1 柔道とJUDO~世界で進化する柔の道~を視ました。

現在、世界に広がるJUDO.

東京五輪無差別級で日本を破ったオランダのヘーシングも、世界選手権で日本を破ったフランス柔道も、戦後GHQに禁止され職にあぶれた柔道家が世界へ活路を見出した結果。

日本の閉鎖空間の中で牛後と燻るならば、海外で鶏口となった方が活きる。これには国内電機企業が不遇にした技術者が韓国へ行ったのを彷彿とさせられました。ヘーシングを鍛え技に力で勝つ柔道を作り上げた道上伯はその先駆けだったのだなと。

ロンドン五輪で金が獲れなかったのは世界各地でサンボやチダオバやモンゴル相撲など現地の格闘術が加味された新たな柔道が生まれていたから。

日本から飛び出した柔道指導者はフランス柔道育ての親である粟津正蔵をはじめとして個性教育を大事にするようです。コロンビアの女子選手を教える柔道家は「勝つことが恩返し」という。ワールドスタンダードになるとはこういう事。

それに対して日本柔道代表の井上康生監督は「異常な」レベルの鍛え方を目指して異種格闘も組み込みながら修業しています。先頭を走る伝統は革新をし続けなければならない、世界が追いかけてくる、追い越さんとするトップランナーの立場の厳しさがありました。

その後みた日曜美術館の萬鉄五郎回。藝大に首席で入学しながら、泥を被ってでも己の求める画業を突き詰めた芸術家。

当時先端だった後期印象派を追いかけてた頃は魅力をそこまで感じなかったのですが、故郷に帰り土に根差した辺りからオリジナリティーがぐんぐん出て。冒頭に載せた『裸婦(宝珠を持つ人)』など凄まじい域に達していました。

藝の道って、死ぬまで研ぎ続けることができる。黒田清輝展@東博を観た際も西洋列強に"坂の上の雲"を日本人は追いかけた感慨がありましたが、本当の個性は先端を越えた先の、心身の底からにじみ出てくる、人生そのものの藝で。

真似ぶことから研鑽は始まりながら、守破離の境地へ達した先に本当の藝術の開拓があるのだと。自分のアイデンティティと、その分野の先端の土地の技を合わせた美がそこにありました。

と、同時に日本ではこういう異端はかなり白眼視されたこともあったそうです。国外へ流出した柔道家たちに日本が脅かされることもそうですが、この國の全体主義的な"空気"が日本を弱めることにもつながるのではないか、そんなことを考えさせられました。

また地球規模でみれば、柔道が広がったこともそして逆に西洋絵画の技法が広まったのも人類の幸福量を上げたと想います。

そう思っていたところに、第26回FNSドキュメンタリー大賞 ノミネート作品 透明な外国人たち 彼らに支えられた街TOKYOは重く響きました。
東京で生活する中でよく見かける外国人労働者。そこにいることが当たり前になりすぎて、なのに、彼らのことを何一つ知らない……。彼らはまるで透明人間のように、“見えない存在”なのかもしれない。

中でも技能実習制度の外国人たちの職場は、日本の若者の働かない場所。彼らはなぜ日本に来て、どういう思いで生活しているのか? クリーニングと総菜製造。二つの現場で働くベトナム人を取材した。やがて一人が突然の失踪。再び巡り合った時、彼が語った失踪の理由は意外なものだった……。
経済格差を利用し、年収の数倍の費用を払って日本にやって来たアジアの人達を貧困に落とし込んで使役する仕組み。

番組の中で"大人になってもらわないと"という言葉がありましたが、現状の苦しさを耐え抜くことが大人なのだという"空気"は日本人自身もどん詰まりに疲弊させているのではないか。それを強く想わされました。

これからAI化によってホワイトカラーが減っていくと、肉体労働者の比率が上がっていくとしたら。そうした時ブルーカラーの待遇を良くするのではなく外国人とロボットと競わせ、奴隷人民層をつくるか。"社会を成り立たせる"って何でしょう。

トリクルダウンが虚妄だったことが暴かれた今、国際競争力を奴隷依存のダンピングでなくイノベーションと自由闊達な"人間原理"から"成り立たせられないか"。意思決定層がみている景色と、下で働く人たちがみている景色は違うかもしれないけれど。

この番組のナレーションはなんと向井秀徳だったのですが、覆面リサーチボス潜入みたいな試みが階層の架け橋な仕組みとしてあったら冷凍都市にもぬくもりが少し発生するのかな。。

少なくとも現状の風土を変えなければ、日本は海外の人から働くに魅力的な土地から外れていくと想います。

グローバル競争の中で個人として出来ることは何か?度量の大きな社会なんてのは実現が難しいこの自己責任な割にきりきりいわれる國内を相手に疲弊するのは得策ではなさそうか?世界規模にニッチを見出しオンリーワンになるまで道を究めるのも一策か?

『草枕』冒頭を心に標しながら、そんなことを考えました。


cf.
◆『欲望の資本主義2017 ルールが変わるとき』をみて

◆欲望の民主主義 世界の景色が変わる時をみて
◆三木清『人生論ノート』@100分de名著
◆『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読む
◆『嫌われる勇気』は読まずに、関連文書を読む ~自己欺瞞を超えて <アドラー心理学に触れて>
◆アダム・スミス 著, 山岡 洋一 訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』 読書メモ
◆マット・リドレー 『繁栄 明日を切り拓くための人類10万年史』 交易と創新による10万年の商業史
◆常に最大の効用生産性を発揮するのが幸福なのか -ザック・リンチ/ニューロ・ウォーズを読んで
◆『日本教の社会学』読書ノート1 日本は民主主義でも自由でもない
◆パリ白熱教室 トマ・ピケティ講義 第1回(dailymotion)
by wavesll | 2017-07-04 20:34 | 私信 | Trackback | Comments(0)

Liam Gallagher - Don´t Look Back In Anger - Glastonbury 2017

Liam Gallagher - Don´t Look Back In Anger - Glastonbury 2017

Slip inside the eye of your mind
心の瞳に滑り込むと
Don't you know you might find
何をみつけるか知らなかったのか
A better place to play
もっといい遊び場を
You said that you'd once never been
お前は一度だってないと言っていた
But all the things that you've seen
けれどお前がみてきたすべては
Will slowly fade away
ゆっくりと消えゆくんだ

So I'll start the revolution from my bed
だから俺は寝床から革命を始めるんだ
Cos you said the brains I had went to my head
お前が俺は自惚れてるっていったから
Step outside, summertime's in bloom
夏真っ盛りの外へ出る
Stand up beside the fireplace
暖炉の横から立ち上がって
Take that look from off your face
そんなお前の顔はやめてくれ
You ain't ever gonna burn my heart out
お前は俺の心を燃やし尽くせないのだから

And so, Sally can wait
そしてそう、サリーは待てる
She knows it's too late as we're walking on by
彼女は俺たちが共に歩くには遅すぎるって知ってるから
Her soul slides away
彼女の心は離れていく
But don't look back in anger
けれど怒りに任せて振り返らないでくれ
I heard you say
そうお前が言うのを聴いたんだ

Take me to the place where you go
お前が行くところに連れてってくれ
Where nobody knows if it's night or day
誰も知らないところへ 昼夜問わず
But please don't put your life in the hands
けれどお前の手の中の人生を委ねないでくれ
Of a Rock 'n' Roll band
ロックンロールバンドの連中には
Who'll throw it all away
放り出しちまう連中には
I'm gonna start a revolution from my bed
俺は寝床から革命を始めるよ
Cause you…
だってお前が…

グラストンベリー・フェスティヴァル、旗がはためき発煙筒が焚かれ、正直現場にいる連中は舞台なんか見えないと想います。それでも"Rock"としか表現できない精神があふれていて。この大合唱なんか最高。いつかこの中に身を投じてみたい、そう思わせる旅してみたい夢の目的地の一つです。

昔、敬愛する先輩が「旅したいという感覚が分からない、結局逃げだろう?」とどこかに書いていて。けれど別の場では「NYには行ってみたい」と書いていて。

一方で私は旅が好きなのですが、NYにはあまり行きたいとは思わなくて。

それは例えばあの先輩は舞台が好きだったり、一方で私は自然の景観や歴史的・精神的な建築が好きだったりと言った表面的な違いもあるのですが、やはり「旅が好きかどうか」が大きい気もします。

NYは”現代の都市のアーキテクチャ”だとして、そこに在るものは質が高いかもしれないけれどそれも地球上に敷衍しているものに想えるのです。都市は何処へ行っても都市というか、生活したり、仕事したりするには魅力的だけれども、観光という面ではNYにわざわざ身銭を切っていくほどでもない。

実際NYの番組をみるのは私は好きで。ついこの間も”地球タクシー”でNYにハシド派のユダヤ人が現代大衆文明と隔絶した暮らしをしながらNYに棲んでいると聴き、興味を惹かれたりもしました。けれども、どこかでNYは自分から遊びに行くというよりも、必要に応ずることで行く街に感じて。

そういった意味で先輩が言っていた「旅に魅力を感じない」と「NYには行きたい」は整合するなと想うのです。

まぁ、自分は基本暑いくらいのところが好きで。南米とか。イタリアとか。そこでいうと欧米は寒くwドイツなんかは無機質なイメージがあったのですが、ベルクハインという世界最高峰に入るハードルが高いクラブがあると聴いて興味を持てました。グラストンベリーもそうですがやっぱり音楽があると興味を持てるのかもしれませんwただNYだけはなんか違うんだよなー。少なくとも現在は。

旅は自分にとって青い春の象徴なのですが、今こうして"Don't Look Back in Anger"を聴いて。最近"青春"に決着がついていく感覚を想っていて。

自分は中高一貫に行ったからか人間関係が舞台が変わるたびにリセットされていく感覚があるのですが、距離感を誤り衝突し、怒りに任せて切り捨ててしまったことが過去にあります。

もうこんな齢になると今更プライヴェートで無理するのはこちらにも向こうにも無しだろうと想って働きかけないのも礼かと考えているのですが、少なくとも自分の中では怒りは遠のかせるようにしたいと。

道は違えたけれど、俺は俺でこの星の上で暮らしを営み、そして、共に生きる人を大事にしようと。人生の不安定さは寧ろ増していくのだけれど、悪を心の底に認識しながら、魂の解放を音楽に託して。
by wavesll | 2017-06-26 05:47 | 私信 | Trackback | Comments(0)

Memento mori日

Blankey Jet City - Sweet Days


Blankey Jet City / COME ON


一年に一回誕生日を祝うより、一年に一回“明日死ぬとしたら何やりたい”か考える日があってもいい。死を想う日というか。毎日やることこなして、コンテンツ消費して、“で結局何をしてから死にたいのか”見つめるの、良さそうだ。

311の後、結婚が増えたのは「死」を想った人が多かったからでは。"いつか"の前に"死"は来るかもしれない。と。「死」を想うと本当にやりたいことだけが浮き彫りになる。俺は何がしたいかな?イランへの旅?家庭を築くこと?

好きだった人も、亡くなってゆく。好きだったバンドも無くなっていく。好きだった店も失くなっていく。その後で哭くより、生きてるうちに笑いあえるように。"死ぬ前に何がしたいか想う日"、個人的な風習にしようかな、誕生日と紐づけるのもいいかもしれない。Memento mori.
by wavesll | 2017-06-15 23:39 | 私信 | Trackback | Comments(0)

一周目、二周目そして三周目の人生、旅、音楽

Okada Takuro / Ur (soundcloud link)

ティピカルな挿話1.
SpotifyでAt the Drive-InとSlowdiveの新譜を聴いて、"あぁ、ROCKの音だなと想。

ティピカルな挿話2.
テレ朝の"あいつ、今何してる"の番組予告で芸能人が「なんでみんなそんなにドラマがあるんだ」と言うのに逆にびっくりする。

本論
良くある話で、学生が終わると(新しい)音楽を聴かなくなる、なんてものがあります。

原因は幾つか考えられて、まずは仕事が忙しくなって音楽に割く時間がなくなる。二つ目は友達との遊びがなくなることで、カラオケやダベリといった"コミュニケーションの為の音楽聴取需要"が消える。

ただ、私として推したいのは"リスニングの一周目が大体その辺で終わるから説"で。

音楽に限った話ではないですが、何をみても"あぁアレとアレの掛け合わせね"とか、既視感に囚われる時期ってありませんか?そして今までも聴いていた音楽も段々刺激が麻痺・逓減して、ぶっちゃけてしまうと飽きが来る。そこに上に挙げたような要因が被さり、音楽から気が離れていくことはあるのではないでしょうか?

私自身の"一周目"の話をすると、いつ初めて音楽を意識したかはもう覚えてないのですが、最初に買ったCDはアルバムではハチャトゥリャンの『剣の舞』、シングルではサザンの『愛の言霊』だと想います。丁度小学校高学年くらい。

そこから中学でブルハ、ブランキー、ミッシェルに心酔し、ゆずやDAなんかも聴いてました。そして椎名林檎にもガン嵌り。林檎の艶いグラビアをみるためでもないけれど、一時期はロキノンジャパンなんかも買って。

RIJFは高2の時に2001年のバンプがトップバッターの日に行きました。トリをDAと迷った挙句『スクリューボールコメディー』がフェイバリットだったためレイクのソウルフラワーユニオンで心引き摺られながら「ええじゃないか」でタコ踊りしたのはいい思い出。

高校の頃は誰の目も気にせず"クズクラブ"みたいなのを作って、寧ろ真面目側で伸び伸びやっていた所が、大学では本当に人間的に良くできた人たちに囲まれ、"〇〇君って個性的で面白いね"と言われ、面白キャラに開花、けれど大きな挫折も味わって鬱に追い込まれ、復帰後はますます"ダメ人間道・不真面目道"を突き進む様に。

そのあたりで聴いていたのはフィッシュマンズでした。丁度リユニオンがあって『空中』『宇宙』が出たのもあるけれども、佐藤さんの言葉、サウンドが琴線に触れて。それと共にROVOを聴いたり、ワールドミュージック、特にガムランやブルガリアンヴォイスなんかを聴いたり、当時流行りだった"DJ目線で選ぶJAZZ"なんかを聴いたりしていました。銀杏やシロップも聴いたなぁ。

音楽を選ぶことは自分という人間を表明する事でした。高校の洋楽に詳しい連中と差別化するためにワールド系を聴いたり、或いは大学では仲間内で自己ブランディングの為に"ロック道"を深めたのかもしれません。

mixiなんかで自分の日記の本文の前に好きな邦楽の歌詞を乗っけて先輩から「お前の文章だけ読みたいのに邪魔だ」なんて言われて。当時は寧ろ自分の文章よりも自分の好きな音楽の歌詞を聴いてもらいたいくらいで。すっかりロックという正義の信奉者でした。

閑話休題、学生時代までは私は漫画を読みまくっていたのですが、そしてある時を境に漫画雑誌はグラビアくらいしかチェックしなくなってしまったのですが、マンガを読まなくなった方が現実のヒトの表情を読み取れるようになった気がします。

漫画はあまりに表情が分かりやすく演技づけられていて、その刺激に慣れると生身の人間の機微を捉えられなかったのかもしれないと今となっては想います。同様にあの頃はロックンローラーの言葉の強さに痺れていて、同期や先輩の言葉をちょっと馬鹿にしていたというか。もし今のネット環境におかれたらアスペルガー判定されていたように思います。

ロック思想が自分にフィットしていたのは価値基準の反転があったから。駄目で、下品で、頭悪くて、etcetc、そんなドブネズミみたいな状態こそが美しい。その倒錯を邁進していたものですから、全くモテませんでした。

当時のサークルでの人間関係において己を道化として扱っていた分、ますます音楽で誇りのバランスを取ろうとしていた自分。鬱から脱するときに行った初めての海外、北京旅行で旅に目覚めて。まぁその前に幽霊部員だった別のサークルで北海道自転車旅行なんかもやっていたのですが、音楽と旅が自分のアイデンティティになった気がします。

そして音楽や旅の話を思いっきりぶつけられる友人は(本当はいたかもしれなかったけれど)その時はいなく感じて。寧ろ変人的なポジションになるというか、だんだん「最高だな」と嘯いても上滑りしていきました。

そして就職したはいいものの思いもよらずまたしても鬱で潰れ、人生最悪の時というか、死を考えるちょっと不味いレベルの一時期を過ごしました。

底で「自分は本当に死にたいならば死んでいる。生きたいから生きているのだ。結局のところ今までの自分の人生ひっくるめて、全ての事は自分が全部勘案した上でやりたいことしかやっていなかったのだ」と言うバーサク状態で復活。実際にはストレス源だった会社を正式に退社したのが大きかったと想います。

その状態でmixiへ舞い戻ると皆何も書かなくなっていました。今考えれば会社のしがらみとかもあったかもしれないし、書く時間もなかったかもしれないし、それほど書きたいこともなかったのかもしれません。そこで愚かな私は「あぁ皆鬱ならば、鬱屈した資本主義を全否定してやろう」と大暴れ。

「資本主義の豚が!」とか暴言吐いておいていいねが貰えないことに逆ギレして。寧ろ当時ニートだったお前の方が資本主義の豚だろという。

とは言え図らずも"あぁ、自分はあれだけ大学時代に活動に付き合っていても、『そうしたいことなんだな』と想われただけで、異論を唱えた時『普通に』否定されるのだな"と。今現在の視点から考えれば本当に甘ちゃんな話だなと思うのですが、オウム真理教を脱会した人間の様に憎悪に駆られました。

そんなこともあって、仲間とも疎遠になり。頭が冷えると大きな罪悪感にやられ、「自分の人生は何も与得るものがなく害を撒き散らしただけだった」と自己否定感に覆われ。そこから就職したり、気持ちを晴らして再び旅へ出れるようになるまで、時の流れが必要となりました。

今はやりたくない事には(少なくともプライヴェートでは)"したい無理"でも関わらない姿勢でやりたいように等身大でやっています。只まぁ昔からそうですが脇が甘くて。こんな記事書いちゃうのも危ういとは想うのですが。ただ、ここまで明白に書かないと続きの話に繋がらないかもしれず。

そんな形で大いなる失意から自己否定する中で、先ほど述べたように漫画をあまり読まなくなったり、ロックの言葉を聴くのが辛くなったりしていったのでした。こんな経緯を辿る人間はなかなかにいないとは思いますが、20代も半ばになると青臭い言葉が性に合わなくなってくる人は結構いるのではないかと思います。

それでも大学時代後半に邦楽ロックから少し脱していたのもあって、ワールドミュージックやジャズ、レアグルーヴからファンクへ進んだ自分は2012年にジャミロクワイ目当てでサマソニへ初めて行き、いわゆる"洋楽シーン"へ遅蒔きながら入るようになりました。

2周目の音楽は、インストゥルメンタルだったり、歌があっても外国語で意味はダイレクトに分からなかったりするために、"いかにサウンドとして面白いか"が胆となりました。その時の自分にとっての新しさ。最終的にはノイズやフィールドレコーディング、南米音楽あたりを好んで聴くようになりました。

ここまで行くと、もはや”自分の好きな音楽は誰にとっても好かれる”という妄信は流石にしなくなって。

時代の趨勢でも音楽市場が落ち目になって。思い返してみれば大学の頃だって「良い音楽を聴いてるから好かれる」ことはなく、"どうせわからんだろう"という考えてみれば失礼な諦念で生活していたのですが、世間的にも"音楽は時代を映す共通言語"という鏡ではなくなっていったように思います。

しかし、Webの繋がりの中で寧ろ今までの人生でないほどリスナー仲間が出来る様になりました。勿論、聴いている音の趣味は違えど、ミュージックフリークであることは伝わってきて。

同質性がないことがわかっている"他者"という距離感が寧ろ好いのだと想います。あまりに狭い関係だと軋轢が生まれてしまう。"同じでないことが分かっている関係"の居心地の良さは、海外で言語の意思疎通レベルが低いからこそ仲良くなれるあの感覚にも通じる気がします。

衣食住足りて礼節を知るというか、貧すれば鈍すというか、攻撃的に荒む事と自己尊厳が低い事は有意の相関があり、暴走している人間にこそ愛と敬意のある対処が要るけれども、そういう人間は不快で憎みやすく、事は難しいものです。

敬愛する人から「君は暴言を吐いたり何かを貶さなくてもいい位、私にとって価値のある人間なのだ」と認められることが、どれだけの憎悪をネガポジ反転できるか。

問題はいわゆる"普通の人"だってそこまで余裕ある人生を送っている訳ではない点で。未熟でも"理想的な先達、倫理"を装っていることが、(必要なことかもしれませんが)やはり無理があるのではと想います。しかし何より憎悪は基本的には甘えの一種で。己の価値を落します。逆に敬愛のコミュニケーションがいかに自尊心をもたらしてくれるか。

話したい話を遠慮なくコアに放れ、時に反応もある。私にとってWebとの、そして大切な人との出逢いは僥倖でした。

と、告白録をここまで書いてきました。一時期は旅をしている時しか生きている感覚がないほどでしたが、今、普段の生活にも満たされ、旅はボーナスステージ的な、以前より日常に近い事象となりました。ある意味旅が二周目になったのかもしれません。

逆に音楽は二周目を終えて三周目になってきている気もします。

”音の新しさ”は勿論大きな魅力の因子だけれども、そもそもBJCに嵌ったとき"新しさ"を意識して聴いていたわけではありませんでした。音楽を音楽として、イデオロギーから解き放たれて聴けるようになりつつある気がします。完全に3周目に離陸するにはまだで、今はエレクトロニクスの新しさとクラシックの瑞々しさに蠱惑されていますがROCKにもJulian Casablancas and The Voidz - Tyrannyやex森は生きているなど昂奮する音源は現在もあります。

そして人生は一周きり。最近、昔の記事に載せていた音楽の歌詞を幾つか消したりしています。このブログは12年前の当初個人ニュースサイトだったのですが、6年前くらいに羅列ニュース記事をかなり消して自分の記事を残して、そして今歌詞への依存も減らして。徐々に己で書く比率を増やしている流れです。

6年後は何かをアテに書くこともなくなるかもしれません。そして12年後は何も書かなくなるかも。最近思うのはメディアに載るものしか観測することは難しいけれども、メディアに載らない世界の方が遥かに深く広いということ。

自分から誇示せずとも豊饒の人生を送る人は夥しく存在するし、アノニマスな芥は兎も角、承認欲求、コミュニケーション欲、自己顕示欲からの解脱はもしかしたら自分の身にも起こるかもしれないということ。

未来には期待と不安が綯交ぜですが、不惑の頃の自分がより善く生きていられるように精進を積んでいけたらと想います。

誰かの撮った写真の場所をみる旅のようなものでなく、第一運動として未踏な実験が行えるような、そして愛情が満ちる。そんな日々を送れたら最高だと想います。

cf.
本音2.0

(失っていたとみられた)ゼロ年代邦楽ベストと現在の都市インディー

Egberto Gismonti - Palhaço

by wavesll | 2017-05-11 01:16 | 私信 | Trackback | Comments(0)

世の中プライドばっかり高い馬鹿ばかりだから

North Korean National Anthem - "Aegukka" (KO/EN)


北朝鮮危機に関してかまびすしいここ数日。Web上でも百家争鳴しています。

ここぞとばかりに『日本はもう駄目。こうだから駄目なんだ』と声を上げる人もいたり。
でも“苦くても良薬”って文脈を共にしてない人には通じなくて。リベラルの人が“危機”に実行力を持てないのって結局そこ。プライド高い馬鹿ばかりなんですよ世の中。そこを保守は分かってるから強い。

伝え方が九割というか、適切な礼儀というか。"普段こういう話しても小馬鹿にしてあしらう癖に"とか"きちんと考えず聞く耳持たずリソース割かないからこうなるんだ"とかチクリとやりたい気持ちも勿論分かります。

『日本はもう駄目だ』と言いたくなるくらい経済も学術も下り坂、幼稚な政治etcで、日本を愛すが故に今の日本を憎み見下すのもわかります。

しかし現実に状況を変えていく仲間をつくって実行力を本気で持ちたいなら、日本人は無駄にプライド高い馬鹿ばかり(勿論私も含めて)だから、言い方を工夫しないと自慰行為だとも思うのです。

私も昔、しんどくても働いている社会の先友に『資本主義の豚!』と暴言を吐いて総スカンになったことがあって。あの頃「北朝鮮が東京にミサイルを落としたら日本国民は再軍備に一気に傾く」とか言ってて今じゃ笑えなくなってるのが笑うしかないのですが、自分自身のしくじりをWeb論客の方々に伝えたい気持ちがあります。

日本は国防を合衆国に投げる無責任体質だし、日本人には社会問題、政治課題に関心を払わない癖に自分自身は自分自身の責任を果たしていると信じて疑わない勝手な人もいます。自分がクズだと認識していない。足りていると想っている。

そんな自分の生き方が正しいと無批判に信じているのに一時期は驚愕したものですが、今は己を否定してしまうと鬱の螺旋になって仕事が廻らないと感じますし、「俺らダメだぜ~」でやってくには社会は悪意が多すぎて。批判の矢面に立つにはそれは余りに無防備だと今なら理解できます。みんな自分の仕事で頑張っている、それは尊いです。

一方で人間、自分が理解できることしかその凄さが感じられなくて。そして多くの人は自分自身がスタンダードだと疑わない。社会や政治に関心を払う位の余裕がないほど労働強度が高いこともあるでしょう。

だからこそ、こうやって社会情勢に関心が集まっている時に、嫌味を言わずに度量を魅せると、価値が認められるのになと想います。普段の無理解から怒りがたまってこのチャンスを不意にする人、結構いるけれど。

ま、怒りってのは基本的には甘えですよ。自己追及できてないんだから。とは言え反撃しないといつまでも嫌な思いをさせてくる人間がいるから、自分が弱いと認めて怒ることが大事で。ただ政治的には言い方が9割だったりドブ攫いが大事だったり。

知識ある人達が“どうせ分からない意味がない”と言葉を濁し、素人が“どうせ分からない意味がない”とやっちゃって象牙の塔がWebでの島宇宙になっては残念です。

実際、専門的な世界へ行くといわゆる世の中の"常識"とは異なった理論で動いていて。そこで世間からの無理解にあまりに多くの人が傷ついて、攻撃性を持たざるを得ないようにも感じます。理解者が身近に一人二人いれば大分精神は安寧しそうだけれど。

そういった無理解と批判の応酬を和らげるために、社会の公器であるマスコミが真っ当な仕事をしてくれたらいいですね。コミュ力の権化の芸人でなく、専門家を尊ぶ価値観があればなぁと想います。

とまぁ自分を棚上げにして一席ぶってしまいました(苦笑)シャープにいらんこと言わない方が格好いいんだけどなぁw恥ばっかりかいてきたし、今後も恥の多い人生でのたうち回るのでしょう。こういう時ロック・アティチュードはダサカッコよさ肯定で便利ですねw

Green Day - Minority (Video)

by wavesll | 2017-04-24 21:46 | 私信 | Trackback | Comments(0)

本日から8日間ボリビアへ行ってきます。

LOS KJARKAS : MIX EXCLUSIVO DJ. CRIS 2013 ...!! (AUDIO)


前回南米へ足を踏み入れた時は日本に帰ってきてすぐに311が。そして今回の南米旅行は3月11日の直後。
何かが掴みとれたらいいなという気持ちと、気楽にワクワクドキドキして楽しめたらという気持ちその両方を携えてボリビアへ行ってきます。

映像はボリビアで人気のフォルクローレバンド。チャランゴが効いてます◎

帰りは23日の予定です。それでは一時 i Hasta la vista !

cf.
ボリビア・スクレの聖女 X Tyondai Braxton / Central Market 第21回音の貝合わせ


ウユニ旅行記 1日目・2日目 南米の空 成田→LA→リマ→フリアカ→ラパス
3日目 UYUNIの町、鏡雲、夕陽、宙星
4日目 パステルな暁・ウユニ塩原探索・塩のホテル
5日目 ラパス 海を探すとき
6日目・最終日 リマの太平洋、『人間の値打ち』
by wavesll | 2017-03-16 00:01 | 私信 | Trackback | Comments(0)

ラルンガル・ゴンパ 天空の“宗教都市”~チベット仏教・紅の信仰の世界~をみて

NHKBSプレミアムでセルタン・ラルン五明仏学院(ラルンガル・ゴンパ)への取材がされていました。
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世界最大の仏教僧院。斜面にひしめいているのは1万を超える修行僧の小屋。
仏の教えに生涯をささげる修業が行われているチベット仏教都市。

中心にある大経堂で僧に話を聴くと"チベット仏教の話はしたい、しかしそれ以外の話は何もしたくない"、と。
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止語(私語禁止)の、お堂の中で唱えられるお経は、JVCのワールドミュージックシリーズとは異なり、寧ろ南太平洋の島国の歌のような柔らかなハーモニーがありました。
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ケンポ・ジグメ・プンツォ師が何もなかった土地に粗末な小屋を建てて修業をはじめたラルンガル・ゴンパ。"他者を害することなく自己を律しろ"という遺言は固く守られているそう。
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お堂の前では"問答"の修業が行われていました。
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『例えば花瓶の存在を考える 花瓶が"生滅変化する形成物"でない「苦」であるならそれは"生滅変化する形成仏"ではないのか?』
『同意する』
『ではその同意の意味は何ぞや?』
『同意したでしょう』

チベット仏教ではあらゆるものが如何に存在するか厳密な論理があり、それを理解するために問答の修業が重視されているそうです。
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女性もジョモ(尼僧)という修行者がいて、結婚することなく仏の教えに生涯をささげています。

修行者も建物も統一されている紅の赤は、世俗を離れ仏門の世界に入った神聖な色。
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山の上のギトゥル・ラカン(幻化堂)にはチベット人だけでなく漢族も各地からやってきてマニ車を回していました。
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手足を投げ出し仏に祈る"五体投地"という礼拝もされていました。
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"善い来世のため"に北京から祈りに来る女性もいました。
"輪廻転生"から解脱し極楽浄土の世界へ行くための地。

番組ではツェテン・トゥンドゥプさんという31歳の僧侶に取材します。
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肉は一切食べず、毎朝真言を7000回唱える。

もう17年も世俗の社会から離れ、悟りの境地、解脱に達して将来この世のすべての命、衆生を救うために修業を重ねています。
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「世俗の行いに時間を費やすべきではありません」と語るツェテンさん。31才、私と同世代の彼の言葉に衝撃が沁みてきました。

彼らの生活は家族からの送金や一般信者からのお布施で賄われています。
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この地では宗教で悟りを目指すことが価値ある姿だと認められ、社会の中で尊ばれている。

先ほどの問答もそうですが、世俗にいる私の眼から見ると、言葉は言葉であり、身体的な行為の実装を伴わなければ実行力がないと。

アダム・スミスが『国富論』で語ったように、宗教の社会的な価値は余った財で貧困な人々を食わせる事だと考えていたのでした。

そこに『人生は幻』、命は今のこの世だけでなく輪廻転生する、この世で功徳を積み、来世へ繋ぐことを信じる彼らの人生観は、"人はパンのみにして生きるにあらず"を超えて、世俗的価値観、より富を高めていくこととは違う精神世界がこの星で成り立っているのだと。

先ほどの問答もそうですが、仏教を一つの学問を究める道だとすれば、"チベット仏教の話はしたい、しかしそれ以外の話は何もしたくない"、と言う言葉も分かります。

学問の道を究めることは一つ世俗とは離れる處がある、そう思います。

それでも、現金収入を得るために中国企業で働くチベット人が増加し、子供への教育も中国語で行われ、中国化がここチベットでも進んでいます。

利便性・物質的な豊かさの誘惑と、伝統的な文化の独立性・精神的な豊かさの対立が、ここでも起きているのか…と想っていると、ある僧侶の部屋にはリンカーンとオバマのポスターが張られていました。

曰く、「(平等な)社会を作るための貢献をし、彼らの言葉は仏教の言葉に似ている、社会の問題を解決したから貼っている」と。
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現代社会の矛盾を大きく孕む合衆国に、古来の伝統を大切に守るチベット僧が共感を得ているというのは本質的な自由さとは何かを考える上では面白いと想うと共に、それでも多く食える人が増えることは幸せなことだし、"何が価値なのか"をみていて逡巡しました。

競争や争いが人間の本能に組み込まれたものだとしたら。殺生を禁じる宗教は貴いけれども、現実の権力闘争は精神的な行いでは止められていない。

自分を守るための矛がなければ、他者を害することなく自己を律すことすら無理なのではないか?
欲望を利用し"理想"を試みるバーリトゥードな相手と対峙しなければならないのだから…。

そう感じながら番組をみていると、中国共産党がラルンガル・ゴンパに仕掛けてきました。
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山の中腹に掲げられた<プンツォ様 私たちをお守りください>というチベット文字の横に中国語で<共産党と心をひとつにし"中国の夢"を築こう>というスローガンが掲げられている。

ラルンガル・ゴンパから人が消え、皆が小屋の中でひっそりとしました。

"他者を害することなく自己を律しろ"という教えは、信仰は本来個人的に高みへ達する事であり、他者に強いるものではないことを示しています。

本来は思想や主義もそう、完全に自由な中で意思決定がなされるのが理想。

しかしこの世の中には"他者を意のままに巻き込みたい"とする勢力がいて。

そして様々な組織、個人が人の上に立とうと争い続けている中、"自分だけが世界とは関係なく解脱を目指す"ことが不可能に近くあると共に、自慰的な行為なのではないか?人を治める世俗的な指導者がいないと、理想は空転してしまうのではないか?そう想いながらみていました。

その上で、世俗的・物質的に"人々が生命活動を行うことができる"上で、"どう生きるべきか"という精神的な問いが必要になってくると想ったのです。

ラルンガル・ゴンパでは十年間の仏教理論の学習が求められます。
毎年”問い方”と"答え方"の試験が行われます。
難解な知識の理解が15分の問答試験で行われ、その後3時間の筆記試験が。
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この"問い方"を求められることがいいなと。

大学教育における卒業論文もそうであるように本来学びの道にいる者には"良い答える"だけでなく"良い問いを生み出すこと"が求められるし、それは聖俗関係なく必要な能力だと想ったからです。

"情報"の価値がインターネットによって完全に破壊されてしまった現代、単純に情報量があるだけでは、もう価値がない今、"情報の身体性"はつまるところ"良い問いを生み出すこと"と"良い解を出すこと"。

古来からの学問のシンプルなセオリーですが、何かをインプットするときは、"問いと解"を意識しなければならない。単なる情報の羅列では価値は生まれない、そして知識・知恵に溺れることなく、"善い人間であろうとする心"を持たないと、全ては虚ろなものになってしまう、そう改めて思いました。

番組終盤、チベット仏教で行われる"鳥葬"が取り上げられました。
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人が死を迎えたとき、魂はその肉体から分離し、この世で漂い始める。ジョモ(尼僧)の真言は魂を慈悲深く供養すると信じられている。その後49日をかけ魂から人間的な感覚が失われ、次の再生の世界へ向かう。

亡骸が鳥葬場に運ばれ、閻魔の衣装を纏った鳥葬師によって、ハゲタカに捧げられる。
ハゲタカは魂を天界に運ぶ女神、"空行母"と信じられていて、ハゲタカに食べられることで、ハゲタカは腹いっぱいになれば他の動物を襲わず、別の命が救われる。

善き生まれ変わりになるための最後の功徳が鳥葬。

鳥葬師に輪廻転生の話を聴かせてほしいと頼むと、彼は「そのような質問に答えたこともないし、答える言葉も持ち合わせていない」と断った。

その代わり、お経を唱え始めたのです。

"この世に我も他者も存在しない 神も悪魔も存在しない
全ては無であり 悪も善もない 苦も楽もない 世俗も解脱もない
私の躰は供物として 鳥である空行母い献じます"
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まるでジョン・レノンの『イマジン』にような歌詞じゃないか。
"ポワ(魂の移転)"のお経だそうです。ポワってオウム真理教によって穢されてしまったけれど、本来はこんなにもロックな、身も蓋もない真実を言い放つ詩だったのか。

ボブ・ディランがノーベル文学賞を獲ったのも記憶に新しいですが、ロックミュージックの真価は真実を歌うことで社会に風穴を開けることで、だからこそ宗教指導者のような凄味を持っていたのだなと、ラルンガルの光景からそんなことを想起しました。

最後にツェテンさんのチベット語の読み書きを教える学校での活動と、2017年1月にツェテンさんの妹のユシィちゃんを訪ねた映像が。

"自分の故郷をどう思う?"という問いに応えたユシィちゃんの笑顔が眩しかったです。
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cf.
コーカサスに想う敬虔な質実さと都会の華美さのあいだ

by wavesll | 2017-03-13 21:01 | 私信 | Trackback | Comments(0)

MOGA THE ¥5 - コウモリ ―永遠に生きるかのように学び、明日死ぬかのように生きる焔を心躯に燈せ

MOGA THE ¥5 20曲メドレー(コウモリ 11:22~)
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Learn as if you will Live Forever, Live as if you will Die Tomorrow.
(永遠に生きるかのように学べ。明日死ぬかのように生きろ。) マハトマ・ガンディー


昨晩は高円寺ROOTSに前々から親交のあるBlue Staraightを観に行って。ブルーストレートの前にやってた大江戸三人衆げんこつのヘヴィな音も良かったし、この日でラストライヴだったアメリカに帰るイアンのドラムの太音に感動して。

タイトなライヴハウスで轟くロックはいい。この音一発で快い、アンプからの生々しい音が鳴らす速度は心臓と呼応する、そう感じて。

若い人の焦燥感は単純に細胞が溌溂としているからか、”生が短い"からかは分からないけれど、有り余る力を燃焼させたいと迸っているのは"死が近い感覚"があるからかもしれません。

生き永らえると、段々横断歩道も信号がチカチカしても走らずに"次まで待てばいいか"とゆったり余裕かましたり。そんな俺でもまた1から挑戦するような火の心をまだ持っているだろうか。

下手に他の分野で上手くなってしまうと恥をかくのを恐れ新しいことに挑むのは厭だと想ってしまうことも私はありました。

"何だって10000時間はやらないとモノにならない"なんて言葉がありますが、1日8時間使っても1250日、つまり4年はみっちりやらないと半端者なのは当然の事。

時代のせいにしたところで、或いは悲観脳のせいにしたって、何も変わらない。今の自分は鍛錬が全然足りてない。ただ着々と試行錯誤を積み重ねることで、マハトマ・ガンディーの言葉のように生きることでしか根本は変わらない。

ロック轟音に当てられて荒野を旅する二度寝の夢をみた朝、青天をみながら"火のような心はまだ俺にあるだろうか"と想っていました。

焦燥感、"何もない兵の心"を一番感じる音楽が自分の中では冒頭にあげたMOGA THE ¥5の『コウモリ』で。

この楽曲は『極東最前線』というコンピに入っていた曲で。向井秀徳がTOKYO FREEZEで初めて念仏的なラップを披露したり、サムライブルーで怒髪天が年を重ねた上での味が沁み込んだロックを素晴らしく鳴らしていたりするのですが、"火のような心"というと『コウモリ』を想起します。

歌詞を読んでも具体的なことは語られていないけれど、ただ衝動だけが刻まれていて。

MOGA THE ¥5は2011年に解散してしまいました。ただその衝動の最高速度は今でも何度でも再生される。

年を重ねて起こす火こそが真に凄い焔だと想いたい。
燃す生態系の事も慮りながら、心に火を絶やさないようにしたい。先ず一日に焔を。そして続けられる心と躰、関係性を。

Learn as if you will Live Forever,
 Live as if you will Die Tomorrow.


悟ったようなことを言いたくなる、心にドライヴがかかるサウンドで炎柱を浴びました。
by wavesll | 2017-02-11 22:44 | 私信 | Trackback | Comments(0)

心と脳の白熱教室から感じた心のアクセルとブレーキ。悲観脳の出来かた。楽観脳のつくりかた。

もうずっと前に録画していた『心と脳の白熱教室』をみました。
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番組概要によると
自分はどうして、こんなに後ろ向きの性格なのだろう、そして、あいつはなぜあんなに楽観的なのだろう、自分の性格について思い悩み、どうしたら、もっと人生を有意義に生きることができるか、それは、古今東西の人類の永遠のテーマである。

オックスフォード大学・感情神経科学センターのエレーヌ・フォックス教授は、認知心理学、神経科学、遺伝学を組み合わせた独自の研究で、セロトニン運搬遺伝子と楽観性との関連を指摘する学説を発表し、一大センセーションを巻き起こした。

今回、同僚で私生活のパートナーでもあるケヴィン・ダットン博士とともに、最新科学で人類の永遠のテーマである性格の悩みを解き明かすとともに、実践的な性格改造に挑む特別授業を紹介する。
とのこと。

特にフォックス教授の『楽観脳・悲観脳』の話が非常に面白く"この内容を纏めたらBlogのネタになるぞ"と想ったのでした。

しかし再放送されるくらい反響があったこともあり、既に纏められている方がかなりいられまして。

例えば敏腕ビジネスマンなら押さえておきたいテレビ情報さん

心と脳の白熱教室|第1回楽観脳と悲観脳
心と脳の白熱教室|第2回本当の楽観主義とは
心と脳の白熱教室|第3回あなたの中のサイコパス
心と脳の白熱教室|第4回あなたの性格は変えられる

こんな感じで内容が詳細にスナップされているので、この記事では私がおっと想った所をノートした後コメントやらなんやらしていけたらなと想います。

I. 楽観脳(サニー・ブレイン)
・ポジティブで楽観的な考えに心を向かわせる脳の回路のこと
・側坐核(歓びや快楽を司る脳の領域)の働きが強い

II. 悲観脳(レイニー・ブレイン)
・ネガティブで悲観的な心の動きを生む脳の回路のこと
・扁桃体(危険を察知し恐怖のシグナルを発する脳の部位)の働きが強い

III. 認知バイアス
・自分の思い込みや願望、恐怖心のために論理的な判断を下せなくなる心理パターン。この繰り返しで我々は脳を楽観的or悲観的に調整している

・認知バイアスの種類は

1)帰属の誤り:物事の原因を"自分に問題があった"とするか、"他者/社会/世界に問題があった"と考えるか

2)注意のバイアス:ネガティヴな事の反応速度とポジティヴな事への反応速度の差

3)解釈のバイアス:"あいまいな事"への解釈 ex. ”これしかorこんなに”

4)記憶のバイアス:日常的な些細なことに関し、楽しいことばかり覚えているか、悪いことばかり覚えているか

・トラウマから悲観的な考えを持った人の認知バイアスを修正するにはネガティヴな考えを疑問視するのが変えるきっかけとして有用。

ex. 日記などで記録しておくと、後で読み返したときに選択的記憶バイアスがあったことに気づける。

IV. 恐怖のシステム(扁桃体)も快楽のシステム(側坐核)も脳には重要

・根本的な恐怖のシステムの方が快楽のシステムの方が強いシステム。

・脳の働きもあり、ネガティヴなニュースが頒布され、更に否定的なバイアスがかかってしまう。

・扁桃体が傷つくと恐れの感情がなくなったり、他者を妄信したりして危うい。

・適度な悲観主義が生きる上では必要。

V. 認知バイアスへの対処

・物事の解釈で状況の捉え方が違ってくる
ex.ウッディ・アレン『アニー・ホール』の"も or しか"

・根深い自分への負のイメージを解消するにはバイアスだと認識させること、そして事実だとしても些細なことを認識させることが有用。

VI. 幸福感をつくるもの

・安心感&愛情

・信頼でき、自分を認めて支えてくれる大人が(親でなくても)一人いることで、辛い状況でも子どもは楽観脳になれる

・金銭面の安心感は一定量では意味があるけれども、余分な富があっても他人と比較し幸福度が低下する
cf. 「お金はあればあるほど幸せ」か? 富・所得と幸福度の関係

・他人の夢や他人が望むことに付き合うのではなく、自分が本当に何がしたいかを自問し社会からの圧に屈せずに本当にやりたいことをやるのが大事。

ex. マイケル・J・フォックスの遺伝子的には中庸でも強い楽観主義

VII. 殆どの人間は鬱でも万事順調でもなくどっちつかずの"ぱっとしない状態"

・"ぱっとしない"から”万事順調”になるには

1) 非常に高いレベルで訓練を積んでいる忍耐力が強い人に真似ぶ

2) 友人や家族と一緒にいること、良い社会的つながりがあること

3) 具体的な目標を持っていること。それを達成するのが困難でも、何かしらの行動をとって挑戦すること(その為に(1)が大事)

VIII. 物事が困難な状況になったときに立ち直れる「心の回復力」を持つことが大事

・悪条件でも上手く対応できる人は感情をコントロールする術を熟知している

・ 「心の回復力」が高い人はポジティヴもネガティヴも関係なく経験してきた情緒的出来事が多い

IX. 楽観的な人に共通するのは"現実的な楽観主義"であること

・困難な現実に直面しても”物事はいつか好転する”と長期的な視点を持てる人が"健全な楽観主義者"

・楽観主義と少しの悲観主義が必要

X. 楽観主義とは単なるポジティヴ思考ではない。その要素は

1. ポジティヴな思考
2. ポジティヴな行動
3. 根気と粘り強さ
4. 自分の人生をコントロールしている感覚

・ポジティヴな思考よりポジティヴな行動が大事

・楽観度が高い人はすぐに諦めない。現実のビジネスで重要になるのはこの"粘り強さ"。

ex. エジソンの「我々は失敗したのではない、ただ上手くいかない1万通りの方法を見つけただけだ」

・自分の運命をコントロールできるという感覚が幻想であっても大いに力となり有益になってくれる

・修道女の医療記録調査では楽観的な人は悲観的な人より寿命が十年長く、健康的

・フィンランドで行われた5千人の調査では、深刻な人生の出来事がない時は楽観主義者の人と悲観主義の人で欠勤日数の差はなかった。
しかし深刻な出来事があった場合、楽観主義者の方が悲観主義の人より欠勤日数が少なく、打たれ強い。

XI. 楽観脳か悲観脳は遺伝子と環境の相互作用によって発現する
・遺伝子はたんぱく質をつくり、それが脳に楽観脳の回路や悲観脳の回路をつくる

・脳内で感情の安定を図るセロトニンの運搬遺伝子には長いタイプと短いタイプがあり、長い型はポジティヴな傾向、短い型はネガティヴな傾向がある。

・短い型のセロトニン運搬遺伝子を持つ人はネガティヴな情報に注意を引かれると"注意バイアス実験"で判明した。

・キングスカレッジのセロトニン運搬遺伝子とうつ病の相関関係を探った847人の被験者を3才から26才まで観察した実験によると

1) セロトニン運搬遺伝子が長いか短いかによっては鬱病の発症リスクの差はなかった。

2) 23年間にかなり深刻な出来事を3つ以上体験していた短い型の遺伝子の人は鬱病のリスクがぐっと高かったが、長い型の人は深刻な事態が起きても鬱病のリスクは平均値と変わらなかった。

3) (1)と(2)から遺伝子と、人生に起きる悲劇的な体験、この2つが組み合わさった時に鬱病が起きることがわかった。

XII. 私たちは悲観脳を楽観脳に変えられるのか?
・リスク遺伝子を持っていても、環境がいい時は寧ろより良好な行動を示すが、劣悪な環境の下ではそれに影響されアルコール依存症や鬱病など悪い行動に走る。これからリスク遺伝子は柔軟性遺伝子と呼べる。

・柔軟性遺伝子は環境により良くも悪くもなる。注意バイアスの訓練によりポジティヴになれるように脳に記憶を留め、注意バイアスをシフトさせることが出来る。
科学的に証明された、不安を取り除く無料ゲームアプリ『Personal Zen』(lifehacker)
「不安症状の治療にスマホゲームが有効」(ハフィントンポスト)

・人間の脳は時間がかかるがいつだってシフト出来る。

ex. レオナルド・ディカプリオの強迫性障害を演じることで強迫性障害に本当になってしまったこと

XIII. 脳をシフトするには

1.ポジティヴな行動
2.人生をコントロールしている感覚
3.粘り強さ

を大切にする。そして幸せであるかのように振る舞うと脳をシフト出来る。

・勿論だけれども、楽観脳と悲観脳、どちらを選ぶかは自由。

マインドフルネス瞑想を1日10分、8,9週間程行うと脳内制御に当たる領域が強化される。
ex.衝動を抑えられ、トラブルを避けられた男性

・メンタルトレーニングは毎日行い、数か月間続ける必要がある。認知バイアス(物事をどう捉えるか)は変えられる。

ここからコメント

エレーヌ教授の講義を"私は悲観脳のきらいがあるなぁ"と想いながらみていました。

物事のネガティヴな面を観がちで。番組中で行われた”楽観 or 悲観テスト"では悲観寄りのギリ中庸という結果が私は出てました。

中でも"打たれ弱さ"には悩まされていて…共感性羞恥の気もあったり、ストレス耐性が全然ないんですよね><

自己評価の低さと言うか、幾度の挫折から自分を道化なロールへ貶し込んでいた期間も長くて。

元々セロトニン運搬遺伝子がどうかは分かりませんが、注意・解釈バイアスにより悲観脳の回路を生み出していたのかもしれません。

今でも自分の運命を自分でコントロール出来ている気がしないのですが、プライヴェートのサイクルが足固めできているのか、新しいことに挑戦する気概が生まれてきている感覚があります。

ただ、これは悲観的な意見と言うわけではなく、これまでの反省からなのですが、今までこういう時に調子に乗ってアクセルを踏みすぎてしまうきらいが私はあるので、クラッシュしないように、こういう時こそ手綱を締めなければいけないなと想います。

結果として、人生の成果の量はインフレ出来ないかもしれませんが、自分の身体と対話しながら挑んでいけたらなと。

そういう意味でもマインドフルネス瞑想はやってみようかと想います。9週間は正直長そうですが、意識の問題に終わらせずに具体的な行動に落とし込んでくれたエレーヌ教授の講義から色々と滋味深い示唆を与えていただけました。

cf. ボケない!脳が若返る「めい想パワー」SP(ガッテン!)

個人的には社交がわからない風穴を開ける冒険 -電脳九龍城からの脱出と合わせ、外界へのアクセス/アクションに関する人纏まりなものを書いたなと想いました。
by wavesll | 2017-02-03 05:53 | 私信 | Trackback | Comments(0)