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己の獣性を認めた上で






昔は己は善き人間だと想っていたけれど、力を持ったり、死に瀕した意識を持った時に己の中の獣性が顕在化して。

無垢なんて子供じみた妄信が破壊されて、逆に幼稚に露悪性を撒き散らしても吐瀉物にまみれるばかり。

生きる力が弱く、正しくも悪しくもあれなかった。

深山幽谷で霞を食って生きるには、俗っぽすぎた。かといって街区での競り合いはまた黒いものが溜る。

適切な主張と、老獪さ、そして許容力、人の間を泳ぐには、それが必要で。

掠れちまう棘は、外套の内に。そしてサンクチュアリを海に。ぬくもりはそばに。

己の闕如を認識した上で、生存を汚れても望むように、有るものを以て、短剣の錆びを払って歩めたら。

そんな、遠くまで見切ってしまうような、すぐ先が崖かもしれないような日常の淵、Grapevineに存在を問われた気がした。

自分の生を決定するのは、やはり己なのだ。事実の連続から転がり滾った精神の音楽、生きる様が鳴動する。

究みに微かでも迫れるように、何ができるか。未だに雲の中を追い求めているような不確かさの中、ダガーを研ぐ他ない。

by wavesll | 2017-12-05 00:46 | 私信 | Trackback | Comments(0)

挑発する藝術の秘 アイ・ウェイウェイ《安全な通行》《Reframe》@横浜トリエンナーレ

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横浜トリエンナーレでのアイ・ウェイウェイ(艾未未)《安全な通行》《Reframe》は救命ボートと難民によって実際に使われた救命胴衣による美術館正面の外壁全面を用いたインスタレーション作品で、トリエンナーレの象徴ともいえる作品。

強力なヴィジュアル・イメージを放つ本作品に対して、Twitterでみた一つの意見に膝を打ちました。
それは「これはケバブなのではないか」という視点。

成程と。なぜ救命胴衣を縦に重ね連ねたかの一つの解としてケバブのメタファとして中東世界からの様を顕わそうとしたというのはあるかもしれないと想ったのでした。

勿論これはアイ・ウェイウェイが提示したこのヴィジュアルに対する一つの見解であり、確定した正解とは言い切れません。寧ろこの謎の意味を考える行為そのものがこのArtの価値なのだと想います。

昨夜「断言には一歩引き、断言で否定されたらその根拠を訊き反論するといい」と書きました。

確かに呪いの様な言論にはその正体を明らかにすることは健全な行為ですが、自分を否定してくる言説に触れたときの方が居心地のいい環境にいるより化学反応というか、論考が深まることはあります。

挑発してくる敵はいまいましいけれども、しかしそういう人間を完全に排除すると色々と鈍ります。

そしてその時に安易に正解を聴かずに”何故か?”を考え続ける営為が思考の深度を増幅させることもあるかもしれません。

ただ前述したように”謎”が人間関係などに関わる場合は寧ろさくっと聴いた方が解決スピードが上がり実利があることも多く、そして悩みすぎて潰れてしまっては元も子もありません。

そうした時にArtが”この意味が分かるか”と挑発することはとても大きな意義を持つと想うのです。

挑発するArtは現代美術に限らず、例えばジブリ・アニメもそうです。宮崎駿監督の『耳をすませば』の企画書が凄すぎるという記事が先日話題になりましたが、その企画書を具現化する能力に舌を巻くと共に企画としての深い眼差しに驚嘆しました。

それは「もののけ姫」企画書に於いても「風立ちぬ」企画書に於いても、名匠による作品は時代へ突き刺さる洞察から、いかに生きるべきかという本源的な秘に挑む目論見なのだなと。

それはアイ・ウェイウェイのインスタレーションにも通じるものがあると感じました。圧倒的なヴィジュアルの強さで具現化された”Concept”の見事さ。
無論全てのArtがそういうものでもないと理解していますが、生の秘、その深い謎を提起する藝術を私はみてみたいなぁと透徹な朝の空気に想いました。
by wavesll | 2017-10-26 09:43 | 私信 | Trackback | Comments(0)

安倍は何故勝ったのか。「リベラル」「保守」とはそもそも何か。 -総選挙の分析を調べ、政治を考える

衆議院議員選挙は自民党の大勝に終わりました。

希望の党が失速し、立憲民主党が躍進はしたけれども、野党が割れ自公の与党連合に負けた結果となりました。

今回の選挙に限らず、「リベラル」「保守」といった言葉が政治記事では飛び交います。中には「日本のリベラルはリベラルな経済政策を行っていなく、寧ろ保守の自民党がリベラルなリフレ政策を行っている」なんてごちゃごちゃした話も。

そんなぐちゃぐちゃに対して「リベラル」の逆は「保守」ではなく…歴史に耐えるものさしで、中島岳志さんと現代日本を読み解く政治学(Yahooニュース)という記事は羅針盤を示してくれました。

そもそもの「リベラル」「保守」の起源から、現代においてどのような定義でこれらのタームが用いられているか、そして本質的な政治視座をどう設定できるか。

私自身、「リベラル」という横文字をふわっとしたニュアンスで使っていたので、丁寧な説明は大変勉強になる良記事でした。

さて、今回の選挙、森友・加計問題は私はそこまで大きな話でもないと考えていたのですが、安保法制、秘密保護法案、共謀罪にはかなり違和感を持っていたのに加え、遂には消費増税を唱え、「安倍はアベノミクスだけは上手くやったけれど、8%に上げたことは完全なる失策だったな」と考えていた最後の壁も崩されたことで、私は反自民に投じました。

しかし結果としては自民の大勝。しかしTVは「排除発言」がどうだとか浅い話しかしないし、今回の選挙の結果についてどう考えればよいのだろう?何故安倍は勝ったのかと「?」を想っていた時、投票行動などに詳しい政治学者で慶応大学教授の小林良彰さんと憲法学者で九州大学教授の南野森さんがSession22にて行った今回の投票を分析が非常に役に立ちました。

ラジオ番組ですが、上のリンクから一定期間は聴け、Radikoのタイムフリー期間なら10/23(月)22:00-24:00のTBSラジオで聴けるのですが、有意義な情報だと感じたので、以下に選り抜き文字起こしします。

(選り抜き開始)
<選挙結果は「議席」と「得票率」という”結果”がある。>
今回、比例代表は自民党37.5%、小選挙区だと75%の議席を取った。

一方で自民党が取った得票率は43%。

本当の”民意”は「得票率」だけれども、選挙後に話題になるのは「議席」の方。

得票率と議席がズレるのは与野党問わず起こり、それは小選挙区制度の問題。

<では自民党は今回どこから票を持ってきたか、>

先ず今回、自民党支持者の85.2%が自民党に投票している。身内を固めきれたのが大きい。安倍さんは支持率は上下しているように見えるが、自民党の支持者からはしっかり支持されている。

一方無党派層で一番多かったのは立憲民主で28.3%。それから希望の党と自民党が22%で同じくらい。結局”反自民票”が割れてしまった。

”自民党は支持するけれども安倍は独断的だから支持しない”という人には小池の排除発言は独断的に見え悪印象だった。野党の票を割ったオウンゴールがあった。また民進から希望に移る際に安保に関する政策を転向した候補者が信頼を失ったこともあったかもしれない。そして小池自身は選挙に出なかったため、盛下がっていった。

一方立憲民主は準備が足りず、小選挙区でも候補者が足りなくて、比例代表では東海6区で候補者が足りなくて自民に一人分譲る結果になってしまった。

結果立民への票と希望への票は拮抗。そうなると自民党は43%の得票率で自民以外の得票率が57%でも70%以上の議席を取れてしまうという結果が起きた。

2009年の民主党が政権交代をした際も得票率は50%いっていない。小選挙区と言う制度は民意の反映において問題点がある。

<世界の民主主義には2つある。 >

一つはウエストミンスター民主主義。英米加豪などの旧イギリス領での政治制度では”多様な意見を入り口で多数決で決める”為、小選挙区制をとる。

もう一つがコンセンサスデモクラシー。欧州大陸では比例代表で国民の民意をそのまま国会に持っていく。国会で議論をして決めていく。

日本の制度だと、50%行っていない得票率の候補が選出された上で、国会で多数決をし定数不均衡の2:1があるため地方に住む12%の民意がモノを言うので、7%位の民意で決まる。

比例代表は選挙では多数決をせず国会の審議で多数決をするため多数決は一回だが、小選挙区は選挙と国会で多数決を2回する。

選挙結果で民意を反映できるのか。
イギリスは二大政党じゃなくなっている。スコットランド独立党、英国独立党があり、保守党と労働党だけでは済まない。ドイツもそう。米国で共和党と民主党で上手く行っているのは、米国には地方交付税がなく、地域によってかなり明確な色をもって金持ちと貧しい人で住民が住み分けているため死票が少なく民意が反映しやすいからとのこと。

日本では小選挙区は合わないと小林教授。

<比例代表の問題点>
一方で南野教授は「比例代表一本だとワイマール共和国のように、選挙の前に選挙後どのような連立が起きるか投票者が分からない状況が起きる」と述べる。

連立が前提となると、ワンイシューで連立が崩壊するリスクもある。日本でも例えば辺野古の時社民党が抜けたりしたが、ワイマールだと平均内閣維持期間が8か月から1年だった。コロコロコロコロ政権が変わると、国民側から”強い執行権を持ったリーダー”への希求が生まれ、それがヒトラーに繋がったという指摘もある。

上のように比例代表にもメリット・デメリットがある。またフランスは下院で二回投票制を行っており、大統領選挙も決選投票を行っている。(この場合、選挙コストは増大する)。

小選挙区も比例代表もあり、模索を続けるほかない。

<年齢層別の投票先の差異>
さて、今回の総選挙では10代20代が自民党に入れた。30.4%が自民党に比例代表で入れている。立憲民主が3.5%、希望が6.5%。

立憲民主に入れたのは60代。学生運動世代が社会党時代から上にシフトしている。自民党に入れたのは15.7%。

(筆者注:朝日新聞の調査では18~29歳では41%が自民と答え、希望13%、立憲6%を上回った。一方、60代では自民27%、立憲20%、希望10。)

若者の自民党支持は13歳から14歳の頃に民主党政権を体験し、「民主党は駄目だ」という原体験をキープしている。逆に60代はロッキード事件を体験し、それをキープしている。

実際、今回公明党が「#2009年何してた」というキャンペーンを行い、若い世代に民主党時代のトーンを訴えようとしていた。実際自民党は若い人ほど票を投じている。これは今の就職率が高いことも大きい。

<男女の投票先の差異、社会争点と生活争点、対立争点と合意争点>
女性はどちらかというと希望の党が多く、男性は立憲民主の方がかなり多かった。
これは党首が女性だったことに加え、立憲民主は生活争点(年金、社会福祉)より社会争点(憲法、集団的自衛権)を訴えたこともあると考えられる。

安倍は社会争点(教育基本法、憲法改正)で下野し、2012年以来生活争点を前面に出している。アベノミクスを訴え、男女共同参画を訴え、今回は「保育園落ちた日本死ね」に対し消費税増税分を保育園幼稚園無償化に使うと訴える。

”百点のリベラル政策をやれ”と野党がいう所を”51点のリベラル政策をやります”とするところで、自民党支持層の支持を失わずにその他の層へも訴える。これは上手い。

この安倍首相の戦略、立憲と希望で野党が割れたこと、そして小選挙区制度が今回の「議席率」という結果に繋がった。

争点の出し方が「消費税を8%のままにした方がいいですか?それとも10%に上げた方がいいですか?」ならば結果は違ったかもしれない。しかし「幼児教育に使った方がいいですか?」という生活争点を出しながら「国難突破」という社会争点を安倍は出した。

そして「幼児教育無償化」と「北朝鮮強硬姿勢」は誰も反対しない合意争点であり、対立に成らず現状維持になりやすく、実に巧みだった。憲法などの対立争点はあまり主張しなかった。

このように選挙対策を練った上で、野党がバタバタしている時に解散できるのが解散権が伝家の宝刀といえる理由。与党にかなり有利な制度といえる。

世論調査をすると今回の選挙の政策イメージは≪立憲民主と共産≫と≪それ以外≫の二極構造と捉えられていた。共産は立憲に食われて、希望は自民や維新とは十分に違いを示せなかった。

安保法制なども有権者は「決まったものは仕方ない」という現状肯定な所があり、賛否は半々くらい。この反対票が野党で割れ、賛成は大半へ自民へ流れた。

<憲法改正問題>
憲法9条も三項を加えることは賛成が62.3%、反対が32.7%。ここでも安倍の巧い方策が目立つ。ただ、この改憲が将来どういった変化が生まれるかというとかなり大きな影響が生まれるかもしれず、そこを学者や政治家はきちんと解き明かし論議をしないと禍根を残す。

憲法改正の発議への手続きは、国会で2/3以上の賛成で可決し、可決されてから60日から180日かけて国民投票が行われる。公職選挙法と勝手が違い、現状だとCM等もバンバン行うことが出来るなどの規制が緩い。
(選り抜き終了)

さて、文字起こしの最後で触れられていた憲法改正の国民投票。安倍首相はまだ先のことだと言っていましたが、それを視野に入れているのは間違いありません。

その際、50日以上にも及ぶ政治運動期間が設けられるとのこと。そうなった際は例えばTwitterや、デモ、或いは電話運動など、政治活動が行われることだと想います。

ただ、近年の政治言論をWebでみていると自分と異なる政治思想を持つ人に対して、非常に攻撃的で、ともすると軽蔑したり馬鹿にしたり、下にみる発言が、右にしろ左にしろ散見されます。

今回の投票率は台風がぶつかったこともあり、戦後2番目の低さの53.68%でした。
政治思想が固まっている人を動かすのは難しいものがありますから、憲法改正したい勢力も、改正させたくない勢力も、残りの46%の層の掘り起こしが大きいと想います。

そういう時に上にあるような態度を露見させていると、「こいつとは根本から話が合わない」と思われ、対話には何の説得力も発揮できないと想います。

内輪でのびのびやるのは私も好きだけれど、そもそもの「当たり前」が異なる相手と話すときに対話を拒絶し相手の話を聴かず自分の主張を押し付けるだけでは、意識が高いのではなく、ただ偉そうな鼻つまみ者になってしまいます。

あるTV番組で選挙コンサルの女性が「一寸の虫にも五分の魂があることを忘れた候補者は落ちます」と言っていて。

どんなに無知に見えても、どんなに愚かに見えても、そもそも政治意識が低くても、みなプライドがあり、それを害されたら途端にそっぽを向く”浮動の一票”なのだと胆に据えねば選挙の戦は勝てないのだと感じ入りました。

「こうあるべき」の「こうあるべき」が共有できない人とコミュニケーションしなければならないのは、端的に言って苦痛で。私自身も苦手中の苦手です。けれど「選挙に勝つ」という結果を出すために「他者を動かしたい」なら、それは必要となるだろうと想うのです。

とはいえ論評者は常に2番手以下、行動を起こした人が1番手。言うは易し、行うは難し。これは不変。実装するものが道を切り開きます。

その上で、中々Webでの「情報発信」では工夫をしなければなりませんが、政治運動においてはPUSHよりもPULL、傾聴の姿勢が実効力を持ちうると想います。

ただでさえ”正義”を背負うと、人は強硬姿勢になりがちで、それはその人にとっての「当たり前の価値観」に基づいた結果です。

けれどより自分が望む結果にハンドリングしたいならば、そしてその未来が独りよがりでなく広く受け入れられるものならば、傾聴し出てきた問題意識への解として、自らの主張を丁寧な言葉で提案出来たら一番いいし、その問題を掬い解決する事こそが政治なのだと想った選挙戦でした。

Arcadia - "Election Day (7" Version)" (Official Music Video)

by wavesll | 2017-10-24 20:18 | 私信 | Trackback | Comments(0)

Blogの対価

Webに文章を書くことを表現活動というのはかなり烏滸がましいですが、一種のアウトプット・サーヴィスを行っているものとすれば、ではその”対価”は何だろう?とも思います。

実は私の中でそれは答えが出ていて、”藝仲間”がいること”共に情報を送ってくれること”が対価かなと。

アナクロなWebの住民としてはROM(Read Only Member)には何処か釈然としない思いもあって。鴎庵は特に縛りはないですが、Twitterのフォローは呟きもリアクションもない方は外したりしてます。趣味のアウトプットだからこそ拘れるものだと思うので。

面白い藝を提供してくれる人たちと繋がれるのは嬉しくて。昔は情報発信しない人にけしかけたりとかアレな行為をしていましたが、今は反響営業が主で楽しくやれています。

ただ、こうして好きなことをWebで発信できていると、飲みとか年賀状かの付き合いごとに対する意欲が落ちるところはありますねw

相手からすると「Webで遊ぶのはともかくちゃんと行事には付き合えよ」とか「ネットでなく現実を生きろよ」いう感じかもしれませんが、コミュ欲が情報通信で満たされていると「Webで非同期でコミュニケーションできればプレゼン的に後にも残るし一番よくないか?」とか。「飲みの誘いの前に面白い噺があるかWebで試聴させろよ」とかw不遜だw社会性が無いw

まぁ、忘年会でだけ会うのもナンセンスというか、今の時代コミュニケーションしたいことがあったらWebですぐやりとりできますし、そういった非同期の対話が呼び水となって会った方が形骸化してないかなと。実際、やりとりすると必ず発見がある友には感謝がたえません。

恋人や家族がいて、仕事もあって。中々コミュニケーションにリソースを割けない。それなら年一で一気にやりたいというのも、わからんではないです。だからWebのアウトプットは強いれるものではないと思います。

ただ自分は、未だに何となく普段から場を共有する関係が好きで、ある程度密度のあるコミュニケーションをしたい。

とはいえ余りに濃いコミュニケーションは少数相手では負荷になりますから。直接話すパートナーと言える人達がいれば、したい話をしてもどっかで受け止めてくれる人がいる位の大海にボトルメールが投げられている今の環境はありがたく、”みなに好かれなくてもいい”自由を愉しんでいます。目下の処Twitter社が倒産しなければいいなというのが願いです(苦笑

今思ったのは私が飲み会よりSNSを好むのは、酒や飯を肴にするより、音楽や画、映画や文章など文化的肴をアテに話がしたいというのがより精確な処かもしれません。普段の暮らしの面白話もWebに書いちゃう人間なのでwそういった意味でPCやオーディオでネタを引き出せる家飲みなんかは好きですね。

人のプライヴェートへの関心が薄い、人との折衝を避けるという意味で、"本当の人生を生きてない文化中毒者”という指摘は考慮すべきだとは想います。

これは今に始まったことではなく学生の頃も「このサークル飲みの金でCDや映画を払える…」とかアレなこと想ってた人間でしたから、中々に筋金入りで…。それでも月一で普段合わない人や新しい人との飲みは入れ、新しい血を入れるよう努めている感じです。

cf.
◆人付き合いとWeb同期 文字コミュニケーションの時間的レンジの広さの価値

◆何でも公開したいとみなが思っているとは限らないという当たり前の事実について
by wavesll | 2017-09-25 21:13 | 私信 | Trackback | Comments(0)

藝と支え Ametsub / Mbira Lights 1 EPに寄せて

Ametsub - Mbr / Flurries (Easy)


ametsub - mbr/mbirambient


Ametsub - Ajisai


Ametsubが音楽レーベルflauに空き巣に入ったことで逮捕された件を知り、何ともいえない気持ちになって丑三時までLogを読んでいました。

音楽は魔法を産むけれど、それを支える会社は人間が営む組織で、魔法ではなく労働と資金で動きます。その経営を危うくする程の損害を与えたのは犯罪です。

それでも、Ametsubくらい名の知れた人が窃盗をしなければならないほど貧すれば鈍す、というシビアな事象があったのではないかと想わざるを得ません。

私自身でいえばAmetsubは一度生でライヴをみたことがあり、またレコ屋やWebサイトで当然良く名前を観ていました。

今までは音楽はそこまでは嵌っていなかったのですが、今回の騒動から検索して知った今夏リリースの『Mbira Lights 1 EP』が特筆すべき音楽で、尚更茫然としました。

霊性を帯びて深く響く金属製の楽器の音。そこに珠のように転がるンビラ?の音。山霧の様な通底音と、心地よく刻まれ放たれるビート。素晴らしい。こんな音を創れる人がよりにもよって窃盗とは…。

この事件は、金だけの問題ではないだろうけれども、やはり他者と他者との軋轢は金で解決できる部分は大きいだろうし、YoutubeやSpotifyでフリーライドしている"客"ともいえない者としては「残念だ」とか、とてもじゃないけど言えないというか。それを引き起こしたのは金を払わなかったお前にも一因があるだろうと自問してしまいます。

金を出すのは藝への一番のサポートで。特に今の時代、音源や活字の様な情報に金を出すのはその人の活動への投資といった色合いも大きく感じます。

ただ”アーティストを支える”というのは、大してあるわけではない可処分所得の中で音楽やアート、旅をやっている自分には重荷な所もあって。やはり藝そのものへの対価として藝を認めた人に出来る限り何か貢献したいし、”楽しんでおいて評価するだけ”でフリーライドしてるのは非情な行為だとは自認しておきたい。

中々システム作りが難しいのかもしれないけれど、数百円単位で軽く投げ銭できる仕組みができると一番いいなぁと。Bandcampなんかは結構理想に近い感覚はあります。国内市場で成り立たないならば全球的に広く浅くが理想だなと。いいYoutube動画やサンクラ音源には個々に100円以上は払いたいです。

鋭利な音楽を好む人間には演奏側にも聴取側にも一定の割合で人格破綻者がいて。灰域の美から排除されず、Ametsub氏がカムバックすることを外野として望むばかりです。

cf.
フィクションと現実の『真情と芝居』.

by wavesll | 2017-09-25 07:57 | 私信 | Trackback | Comments(0)

承認欲求を求めてもいいし、みなに好かれなくてもいいし、全てに肯定的でなくていい

pokka pokka / Fishmans


NUMBER GIRL - I don't know (ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2002) LIVE


私は面と向かって相手の気分を害することを言うことが苦手で。その癖Webなんかだと駄々洩れさせたりとかして口ならぬキーボードから災いを招いたりしてしまって。空リプの誤配もあったり、結局陰口ですしね。

また、「分からないこと」が我慢ならなくて。人から何かを薦められたときなんかも、その時魅力が分からなくても”この人が薦めるものなのだから、きっといいものなのだろう”と期待値を込めて肯定的な返答をしたりしてしまいます。

その後魅力が分かった時に「最初は分かってなかったのだけれども魅力が分かった!」と興奮気味に伝えて、「何で最初分からなかったときにそう言わないのか」と言われたことがあって。

"そうか、期待値込みでポジティヴを装うのも、それが期待値で今は分かってないと伝えないと裏切りになるのか"と気づかされました。

そう想って振り返ると、世の人は"わからないこと"には寛容なのだなと。

相手の魅力が分からない内は最強というか、どんなに無礼な発言をしても罪悪感は感じないというか。”そもそも価値がないことを分かっているんだ”というスタンスかもしれません。

寧ろ”価値があるんだ”と力説することの方がみっともないことと想われている節があります。いわゆる「承認欲求叩き」なんかも相手が今ある評価に満足せずに承認をさらに求めることに対するいらだちというか。

ただ、そもそも承認欲求それ自体はマズローの欲求5段階説の中のタームで。ネガティヴな色はありません。

食欲・性欲・睡眠欲の生理的欲求、風雨や危険をしのげる安心な暮らしがしたい安全欲求、集団に属したり仲間を得て孤独から逃れる社会的欲求(帰属欲求)が満たされた人間が、次に求めるのが、他者から認められたい、尊敬されたいという尊厳欲求(承認欲求)です。

私も昔はコミュニケーション欲とでもいうか、分解すれば社会的欲求と承認欲求が欲しくて欲しくてクレクレ乞食な無様なこともやってしまって。Blogやmixiにコメントが付かないのに悩んだ時期もありました。

ただそれは狭い村社会に属していたから起きた問題で。Webの公海に出て、Twitterなんかで800人弱の人をフォローして、十数人の方々と良くやり取りをして、そこそこの頻度でいいねなんかが来て、たまに返信コメントが付いたりするとそれで結構満足する自分を発見します。

逆にこのTweetなんか830RTされて1500いいねとかされているんですが、正直言うと通知がひっきりなしに来る感覚で。数字だけだと自分の器では体感を越えているし、寧ろ体感するくらいのリアクションが来たら対応できないと。普通のTweetで3, 4いいねがつくくらいが一番いいというか。

ひとりの人間が親しくつながっていられる最大数は50人から150人程度だという説もありますが、現在のリアルとオンラインのコミュニケーション量で、社会欲求も承認欲求も飽和に近いなと。

そういった意味で、今は"他人にウケることを目的にしているではなく自分が読みたいことを書くためにWebをやってる"、なんてマズローでいえば自己実現欲めいたことを言えるのですが、これも4段階まで満たされたから言えることで。他者からの評価を得るために頑張るって至極真っ当な動機だと想います。

だいぶ話がそれました。元に戻すと、"わからない人間"を相手にするときは相当骨が折れるのが常だと覚悟するか、そもそものターゲットを絞るのが、生業にし数字を求めないなら有効な方策ということ。

”分かっている人相手”でも相当な人数が存在するし、可処分時間でコミュニケーションに割ける分なんかそれで埋まるのが、私は実際の処です。

また、"わからないコトはわからない/わかってはいない”と言うのが誠実だと。

昔の私は傲慢で、身近な人のいうことは何でも理解できて適切に面白さをこちらは判断できるのに周りはこちらの感性を理解しえないことが多いと驕っていました。

しかし、Webの大海に出て、自分自身が大切にしている分野でも先達はいくらでもいて、前は理解できなかったものでも時を経ると良さがわかることを知って。一方で自分自身の理解にも限界があることも知って。

面白く感じていないモノを、わざわざ声高に貶す必要はないけれど、おべんちゃらを無理に言うのも不誠実なのだと今は感じています。無知の知を知った上で、誠実に発言することの大事さを知りました。

こういうサイトを結構な頻度で更新したいと思うとついネタに妥協というか、本心でない褒めをやってしまいそうになります。

でも、金を得ているわけでもないインディーメディアなのだから、本当に書きたいものだけを書くことこそがレゾンデートルだよなと。昔の仲間には"どうせ分からないからぬるいことを言っておけばいい"と考えていましたが、自分で推すものは、誠の心をもって今は発言したいです。

それで読まれなかった時でも"これ読まないなんてもったいないことしてるなぁ"と想える水準を出すのが理想だと。

社会的欲求と承認欲求が満たされたから、自己実現を目指せる。案外私の欲求の器は無尽蔵でもありませんでした。

もしかしたらその先に、マズローが晩年、5段階の欲求階層の上に、さらにもう一つの段階があると唱えた「自己超越」という段階へ行ける時もあるのかもしれません。

”「目的の遂行・達成『だけ』を純粋に求める」という領域で、見返りも求めずエゴもなく、自我を忘れてただ目的のみに没頭し、何かの課題や使命、職業や大切な仕事に貢献している状態”。なんだか読み切りの『ZETMAN』みたいな話ですね。

スピッツ / チェリー

by wavesll | 2017-07-06 23:19 | 私信 | Trackback | Comments(0)

世界へ懸ける人、日本で懸ける人、この國の仕事観・労働社会環境へ思馳せるTV3番組

 山路を登りながら、こう考えた。

 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。

 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い。
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NHKBS1 柔道とJUDO~世界で進化する柔の道~を視ました。

現在、世界に広がるJUDO.

東京五輪無差別級で日本を破ったオランダのヘーシングも、世界選手権で日本を破ったフランス柔道も、戦後GHQに禁止され職にあぶれた柔道家が世界へ活路を見出した結果。

日本の閉鎖空間の中で牛後と燻るならば、海外で鶏口となった方が活きる。これには国内電機企業が不遇にした技術者が韓国へ行ったのを彷彿とさせられました。ヘーシングを鍛え技に力で勝つ柔道を作り上げた道上伯はその先駆けだったのだなと。

ロンドン五輪で金が獲れなかったのは世界各地でサンボやチダオバやモンゴル相撲など現地の格闘術が加味された新たな柔道が生まれていたから。

日本から飛び出した柔道指導者はフランス柔道育ての親である粟津正蔵をはじめとして個性教育を大事にするようです。コロンビアの女子選手を教える柔道家は「勝つことが恩返し」という。ワールドスタンダードになるとはこういう事。

それに対して日本柔道代表の井上康生監督は「異常な」レベルの鍛え方を目指して異種格闘も組み込みながら修業しています。先頭を走る伝統は革新をし続けなければならない、世界が追いかけてくる、追い越さんとするトップランナーの立場の厳しさがありました。

その後みた日曜美術館の萬鉄五郎回。藝大に首席で入学しながら、泥を被ってでも己の求める画業を突き詰めた芸術家。

当時先端だった後期印象派を追いかけてた頃は魅力をそこまで感じなかったのですが、故郷に帰り土に根差した辺りからオリジナリティーがぐんぐん出て。冒頭に載せた『裸婦(宝珠を持つ人)』など凄まじい域に達していました。

藝の道って、死ぬまで研ぎ続けることができる。黒田清輝展@東博を観た際も西洋列強に"坂の上の雲"を日本人は追いかけた感慨がありましたが、本当の個性は先端を越えた先の、心身の底からにじみ出てくる、人生そのものの藝で。

真似ぶことから研鑽は始まりながら、守破離の境地へ達した先に本当の藝術の開拓があるのだと。自分のアイデンティティと、その分野の先端の土地の技を合わせた美がそこにありました。

と、同時に日本ではこういう異端はかなり白眼視されたこともあったそうです。国外へ流出した柔道家たちに日本が脅かされることもそうですが、この國の全体主義的な"空気"が日本を弱めることにもつながるのではないか、そんなことを考えさせられました。

また地球規模でみれば、柔道が広がったこともそして逆に西洋絵画の技法が広まったのも人類の幸福量を上げたと想います。

そう思っていたところに、第26回FNSドキュメンタリー大賞 ノミネート作品 透明な外国人たち 彼らに支えられた街TOKYOは重く響きました。
東京で生活する中でよく見かける外国人労働者。そこにいることが当たり前になりすぎて、なのに、彼らのことを何一つ知らない……。彼らはまるで透明人間のように、“見えない存在”なのかもしれない。

中でも技能実習制度の外国人たちの職場は、日本の若者の働かない場所。彼らはなぜ日本に来て、どういう思いで生活しているのか? クリーニングと総菜製造。二つの現場で働くベトナム人を取材した。やがて一人が突然の失踪。再び巡り合った時、彼が語った失踪の理由は意外なものだった……。
経済格差を利用し、年収の数倍の費用を払って日本にやって来たアジアの人達を貧困に落とし込んで使役する仕組み。

番組の中で"大人になってもらわないと"という言葉がありましたが、現状の苦しさを耐え抜くことが大人なのだという"空気"は日本人自身もどん詰まりに疲弊させているのではないか。それを強く想わされました。

これからAI化によってホワイトカラーが減っていくと、肉体労働者の比率が上がっていくとしたら。そうした時ブルーカラーの待遇を良くするのではなく外国人とロボットと競わせ、奴隷人民層をつくるか。"社会を成り立たせる"って何でしょう。

トリクルダウンが虚妄だったことが暴かれた今、国際競争力を奴隷依存のダンピングでなくイノベーションと自由闊達な"人間原理"から"成り立たせられないか"。意思決定層がみている景色と、下で働く人たちがみている景色は違うかもしれないけれど。

この番組のナレーションはなんと向井秀徳だったのですが、覆面リサーチボス潜入みたいな試みが階層の架け橋な仕組みとしてあったら冷凍都市にもぬくもりが少し発生するのかな。。

少なくとも現状の風土を変えなければ、日本は海外の人から働くに魅力的な土地から外れていくと想います。

グローバル競争の中で個人として出来ることは何か?度量の大きな社会なんてのは実現が難しいこの自己責任な割にきりきりいわれる國内を相手に疲弊するのは得策ではなさそうか?世界規模にニッチを見出しオンリーワンになるまで道を究めるのも一策か?

『草枕』冒頭を心に標しながら、そんなことを考えました。


cf.
◆『欲望の資本主義2017 ルールが変わるとき』をみて

◆欲望の民主主義 世界の景色が変わる時をみて
◆三木清『人生論ノート』@100分de名著
◆『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読む
◆『嫌われる勇気』は読まずに、関連文書を読む ~自己欺瞞を超えて <アドラー心理学に触れて>
◆アダム・スミス 著, 山岡 洋一 訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』 読書メモ
◆マット・リドレー 『繁栄 明日を切り拓くための人類10万年史』 交易と創新による10万年の商業史
◆常に最大の効用生産性を発揮するのが幸福なのか -ザック・リンチ/ニューロ・ウォーズを読んで
◆『日本教の社会学』読書ノート1 日本は民主主義でも自由でもない
◆パリ白熱教室 トマ・ピケティ講義 第1回(dailymotion)
by wavesll | 2017-07-04 20:34 | 私信 | Trackback | Comments(0)

Liam Gallagher - Don´t Look Back In Anger - Glastonbury 2017

Liam Gallagher - Don´t Look Back In Anger - Glastonbury 2017

Slip inside the eye of your mind
心の瞳に滑り込むと
Don't you know you might find
何をみつけるか知らなかったのか
A better place to play
もっといい遊び場を
You said that you'd once never been
お前は一度だってないと言っていた
But all the things that you've seen
けれどお前がみてきたすべては
Will slowly fade away
ゆっくりと消えゆくんだ

So I'll start the revolution from my bed
だから俺は寝床から革命を始めるんだ
Cos you said the brains I had went to my head
お前が俺は自惚れてるっていったから
Step outside, summertime's in bloom
夏真っ盛りの外へ出る
Stand up beside the fireplace
暖炉の横から立ち上がって
Take that look from off your face
そんなお前の顔はやめてくれ
You ain't ever gonna burn my heart out
お前は俺の心を燃やし尽くせないのだから

And so, Sally can wait
そしてそう、サリーは待てる
She knows it's too late as we're walking on by
彼女は俺たちが共に歩くには遅すぎるって知ってるから
Her soul slides away
彼女の心は離れていく
But don't look back in anger
けれど怒りに任せて振り返らないでくれ
I heard you say
そうお前が言うのを聴いたんだ

Take me to the place where you go
お前が行くところに連れてってくれ
Where nobody knows if it's night or day
誰も知らないところへ 昼夜問わず
But please don't put your life in the hands
けれどお前の手の中の人生を委ねないでくれ
Of a Rock 'n' Roll band
ロックンロールバンドの連中には
Who'll throw it all away
放り出しちまう連中には
I'm gonna start a revolution from my bed
俺は寝床から革命を始めるよ
Cause you…
だってお前が…

グラストンベリー・フェスティヴァル、旗がはためき発煙筒が焚かれ、正直現場にいる連中は舞台なんか見えないと想います。それでも"Rock"としか表現できない精神があふれていて。この大合唱なんか最高。いつかこの中に身を投じてみたい、そう思わせる旅してみたい夢の目的地の一つです。

昔、敬愛する先輩が「旅したいという感覚が分からない、結局逃げだろう?」とどこかに書いていて。けれど別の場では「NYには行ってみたい」と書いていて。

一方で私は旅が好きなのですが、NYにはあまり行きたいとは思わなくて。

それは例えばあの先輩は舞台が好きだったり、一方で私は自然の景観や歴史的・精神的な建築が好きだったりと言った表面的な違いもあるのですが、やはり「旅が好きかどうか」が大きい気もします。

NYは”現代の都市のアーキテクチャ”だとして、そこに在るものは質が高いかもしれないけれどそれも地球上に敷衍しているものに想えるのです。都市は何処へ行っても都市というか、生活したり、仕事したりするには魅力的だけれども、観光という面ではNYにわざわざ身銭を切っていくほどでもない。

実際NYの番組をみるのは私は好きで。ついこの間も”地球タクシー”でNYにハシド派のユダヤ人が現代大衆文明と隔絶した暮らしをしながらNYに棲んでいると聴き、興味を惹かれたりもしました。けれども、どこかでNYは自分から遊びに行くというよりも、必要に応ずることで行く街に感じて。

そういった意味で先輩が言っていた「旅に魅力を感じない」と「NYには行きたい」は整合するなと想うのです。

まぁ、自分は基本暑いくらいのところが好きで。南米とか。イタリアとか。そこでいうと欧米は寒くwドイツなんかは無機質なイメージがあったのですが、ベルクハインという世界最高峰に入るハードルが高いクラブがあると聴いて興味を持てました。グラストンベリーもそうですがやっぱり音楽があると興味を持てるのかもしれませんwただNYだけはなんか違うんだよなー。少なくとも現在は。

旅は自分にとって青い春の象徴なのですが、今こうして"Don't Look Back in Anger"を聴いて。最近"青春"に決着がついていく感覚を想っていて。

自分は中高一貫に行ったからか人間関係が舞台が変わるたびにリセットされていく感覚があるのですが、距離感を誤り衝突し、怒りに任せて切り捨ててしまったことが過去にあります。

もうこんな齢になると今更プライヴェートで無理するのはこちらにも向こうにも無しだろうと想って働きかけないのも礼かと考えているのですが、少なくとも自分の中では怒りは遠のかせるようにしたいと。

道は違えたけれど、俺は俺でこの星の上で暮らしを営み、そして、共に生きる人を大事にしようと。人生の不安定さは寧ろ増していくのだけれど、悪を心の底に認識しながら、魂の解放を音楽に託して。
by wavesll | 2017-06-26 05:47 | 私信 | Trackback | Comments(0)

Memento mori日

Blankey Jet City - Sweet Days


Blankey Jet City / COME ON


一年に一回誕生日を祝うより、一年に一回“明日死ぬとしたら何やりたい”か考える日があってもいい。死を想う日というか。毎日やることこなして、コンテンツ消費して、“で結局何をしてから死にたいのか”見つめるの、良さそうだ。

311の後、結婚が増えたのは「死」を想った人が多かったからでは。"いつか"の前に"死"は来るかもしれない。と。「死」を想うと本当にやりたいことだけが浮き彫りになる。俺は何がしたいかな?イランへの旅?家庭を築くこと?

好きだった人も、亡くなってゆく。好きだったバンドも無くなっていく。好きだった店も失くなっていく。その後で哭くより、生きてるうちに笑いあえるように。"死ぬ前に何がしたいか想う日"、個人的な風習にしようかな、誕生日と紐づけるのもいいかもしれない。Memento mori.
by wavesll | 2017-06-15 23:39 | 私信 | Trackback | Comments(0)

一周目、二周目そして三周目の人生、旅、音楽

Okada Takuro / Ur (soundcloud link)

ティピカルな挿話1.
SpotifyでAt the Drive-InとSlowdiveの新譜を聴いて、"あぁ、ROCKの音だなと想。

ティピカルな挿話2.
テレ朝の"あいつ、今何してる"の番組予告で芸能人が「なんでみんなそんなにドラマがあるんだ」と言うのに逆にびっくりする。

本論
良くある話で、学生が終わると(新しい)音楽を聴かなくなる、なんてものがあります。

原因は幾つか考えられて、まずは仕事が忙しくなって音楽に割く時間がなくなる。二つ目は友達との遊びがなくなることで、カラオケやダベリといった"コミュニケーションの為の音楽聴取需要"が消える。

ただ、私として推したいのは"リスニングの一周目が大体その辺で終わるから説"で。

音楽に限った話ではないですが、何をみても"あぁアレとアレの掛け合わせね"とか、既視感に囚われる時期ってありませんか?そして今までも聴いていた音楽も段々刺激が麻痺・逓減して、ぶっちゃけてしまうと飽きが来る。そこに上に挙げたような要因が被さり、音楽から気が離れていくことはあるのではないでしょうか?

私自身の"一周目"の話をすると、いつ初めて音楽を意識したかはもう覚えてないのですが、最初に買ったCDはアルバムではハチャトゥリャンの『剣の舞』、シングルではサザンの『愛の言霊』だと想います。丁度小学校高学年くらい。

そこから中学でブルハ、ブランキー、ミッシェルに心酔し、ゆずやDAなんかも聴いてました。そして椎名林檎にもガン嵌り。林檎の艶いグラビアをみるためでもないけれど、一時期はロキノンジャパンなんかも買って。

RIJFは高2の時に2001年のバンプがトップバッターの日に行きました。トリをDAと迷った挙句『スクリューボールコメディー』がフェイバリットだったためレイクのソウルフラワーユニオンで心引き摺られながら「ええじゃないか」でタコ踊りしたのはいい思い出。

高校の頃は誰の目も気にせず"クズクラブ"みたいなのを作って、寧ろ真面目側で伸び伸びやっていた所が、大学では本当に人間的に良くできた人たちに囲まれ、"〇〇君って個性的で面白いね"と言われ、面白キャラに開花、けれど大きな挫折も味わって鬱に追い込まれ、復帰後はますます"ダメ人間道・不真面目道"を突き進む様に。

そのあたりで聴いていたのはフィッシュマンズでした。丁度リユニオンがあって『空中』『宇宙』が出たのもあるけれども、佐藤さんの言葉、サウンドが琴線に触れて。それと共にROVOを聴いたり、ワールドミュージック、特にガムランやブルガリアンヴォイスなんかを聴いたり、当時流行りだった"DJ目線で選ぶJAZZ"なんかを聴いたりしていました。銀杏やシロップも聴いたなぁ。

音楽を選ぶことは自分という人間を表明する事でした。高校の洋楽に詳しい連中と差別化するためにワールド系を聴いたり、或いは大学では仲間内で自己ブランディングの為に"ロック道"を深めたのかもしれません。

mixiなんかで自分の日記の本文の前に好きな邦楽の歌詞を乗っけて先輩から「お前の文章だけ読みたいのに邪魔だ」なんて言われて。当時は寧ろ自分の文章よりも自分の好きな音楽の歌詞を聴いてもらいたいくらいで。すっかりロックという正義の信奉者でした。

閑話休題、学生時代までは私は漫画を読みまくっていたのですが、そしてある時を境に漫画雑誌はグラビアくらいしかチェックしなくなってしまったのですが、マンガを読まなくなった方が現実のヒトの表情を読み取れるようになった気がします。

漫画はあまりに表情が分かりやすく演技づけられていて、その刺激に慣れると生身の人間の機微を捉えられなかったのかもしれないと今となっては想います。同様にあの頃はロックンローラーの言葉の強さに痺れていて、同期や先輩の言葉をちょっと馬鹿にしていたというか。もし今のネット環境におかれたらアスペルガー判定されていたように思います。

ロック思想が自分にフィットしていたのは価値基準の反転があったから。駄目で、下品で、頭悪くて、etcetc、そんなドブネズミみたいな状態こそが美しい。その倒錯を邁進していたものですから、全くモテませんでした。

当時のサークルでの人間関係において己を道化として扱っていた分、ますます音楽で誇りのバランスを取ろうとしていた自分。鬱から脱するときに行った初めての海外、北京旅行で旅に目覚めて。まぁその前に幽霊部員だった別のサークルで北海道自転車旅行なんかもやっていたのですが、音楽と旅が自分のアイデンティティになった気がします。

そして音楽や旅の話を思いっきりぶつけられる友人は(本当はいたかもしれなかったけれど)その時はいなく感じて。寧ろ変人的なポジションになるというか、だんだん「最高だな」と嘯いても上滑りしていきました。

そして就職したはいいものの思いもよらずまたしても鬱で潰れ、人生最悪の時というか、死を考えるちょっと不味いレベルの一時期を過ごしました。

底で「自分は本当に死にたいならば死んでいる。生きたいから生きているのだ。結局のところ今までの自分の人生ひっくるめて、全ての事は自分が全部勘案した上でやりたいことしかやっていなかったのだ」と言うバーサク状態で復活。実際にはストレス源だった会社を正式に退社したのが大きかったと想います。

その状態でmixiへ舞い戻ると皆何も書かなくなっていました。今考えれば会社のしがらみとかもあったかもしれないし、書く時間もなかったかもしれないし、それほど書きたいこともなかったのかもしれません。そこで愚かな私は「あぁ皆鬱ならば、鬱屈した資本主義を全否定してやろう」と大暴れ。

「資本主義の豚が!」とか暴言吐いておいていいねが貰えないことに逆ギレして。寧ろ当時ニートだったお前の方が資本主義の豚だろという。

とは言え図らずも"あぁ、自分はあれだけ大学時代に活動に付き合っていても、『そうしたいことなんだな』と想われただけで、異論を唱えた時『普通に』否定されるのだな"と。今現在の視点から考えれば本当に甘ちゃんな話だなと思うのですが、オウム真理教を脱会した人間の様に憎悪に駆られました。

そんなこともあって、仲間とも疎遠になり。頭が冷えると大きな罪悪感にやられ、「自分の人生は何も与得るものがなく害を撒き散らしただけだった」と自己否定感に覆われ。そこから就職したり、気持ちを晴らして再び旅へ出れるようになるまで、時の流れが必要となりました。

今はやりたくない事には(少なくともプライヴェートでは)"したい無理"でも関わらない姿勢でやりたいように等身大でやっています。只まぁ昔からそうですが脇が甘くて。こんな記事書いちゃうのも危ういとは想うのですが。ただ、ここまで明白に書かないと続きの話に繋がらないかもしれず。

そんな形で大いなる失意から自己否定する中で、先ほど述べたように漫画をあまり読まなくなったり、ロックの言葉を聴くのが辛くなったりしていったのでした。こんな経緯を辿る人間はなかなかにいないとは思いますが、20代も半ばになると青臭い言葉が性に合わなくなってくる人は結構いるのではないかと思います。

それでも大学時代後半に邦楽ロックから少し脱していたのもあって、ワールドミュージックやジャズ、レアグルーヴからファンクへ進んだ自分は2012年にジャミロクワイ目当てでサマソニへ初めて行き、いわゆる"洋楽シーン"へ遅蒔きながら入るようになりました。

2周目の音楽は、インストゥルメンタルだったり、歌があっても外国語で意味はダイレクトに分からなかったりするために、"いかにサウンドとして面白いか"が胆となりました。その時の自分にとっての新しさ。最終的にはノイズやフィールドレコーディング、南米音楽あたりを好んで聴くようになりました。

ここまで行くと、もはや”自分の好きな音楽は誰にとっても好かれる”という妄信は流石にしなくなって。

時代の趨勢でも音楽市場が落ち目になって。思い返してみれば大学の頃だって「良い音楽を聴いてるから好かれる」ことはなく、"どうせわからんだろう"という考えてみれば失礼な諦念で生活していたのですが、世間的にも"音楽は時代を映す共通言語"という鏡ではなくなっていったように思います。

しかし、Webの繋がりの中で寧ろ今までの人生でないほどリスナー仲間が出来る様になりました。勿論、聴いている音の趣味は違えど、ミュージックフリークであることは伝わってきて。

同質性がないことがわかっている"他者"という距離感が寧ろ好いのだと想います。あまりに狭い関係だと軋轢が生まれてしまう。"同じでないことが分かっている関係"の居心地の良さは、海外で言語の意思疎通レベルが低いからこそ仲良くなれるあの感覚にも通じる気がします。

衣食住足りて礼節を知るというか、貧すれば鈍すというか、攻撃的に荒む事と自己尊厳が低い事は有意の相関があり、暴走している人間にこそ愛と敬意のある対処が要るけれども、そういう人間は不快で憎みやすく、事は難しいものです。

敬愛する人から「君は暴言を吐いたり何かを貶さなくてもいい位、私にとって価値のある人間なのだ」と認められることが、どれだけの憎悪をネガポジ反転できるか。

問題はいわゆる"普通の人"だってそこまで余裕ある人生を送っている訳ではない点で。未熟でも"理想的な先達、倫理"を装っていることが、(必要なことかもしれませんが)やはり無理があるのではと想います。しかし何より憎悪は基本的には甘えの一種で。己の価値を落します。逆に敬愛のコミュニケーションがいかに自尊心をもたらしてくれるか。

話したい話を遠慮なくコアに放れ、時に反応もある。私にとってWebとの、そして大切な人との出逢いは僥倖でした。

と、告白録をここまで書いてきました。一時期は旅をしている時しか生きている感覚がないほどでしたが、今、普段の生活にも満たされ、旅はボーナスステージ的な、以前より日常に近い事象となりました。ある意味旅が二周目になったのかもしれません。

逆に音楽は二周目を終えて三周目になってきている気もします。

”音の新しさ”は勿論大きな魅力の因子だけれども、そもそもBJCに嵌ったとき"新しさ"を意識して聴いていたわけではありませんでした。音楽を音楽として、イデオロギーから解き放たれて聴けるようになりつつある気がします。完全に3周目に離陸するにはまだで、今はエレクトロニクスの新しさとクラシックの瑞々しさに蠱惑されていますがROCKにもJulian Casablancas and The Voidz - Tyrannyやex森は生きているなど昂奮する音源は現在もあります。

そして人生は一周きり。最近、昔の記事に載せていた音楽の歌詞を幾つか消したりしています。このブログは12年前の当初個人ニュースサイトだったのですが、6年前くらいに羅列ニュース記事をかなり消して自分の記事を残して、そして今歌詞への依存も減らして。徐々に己で書く比率を増やしている流れです。

6年後は何かをアテに書くこともなくなるかもしれません。そして12年後は何も書かなくなるかも。最近思うのはメディアに載るものしか観測することは難しいけれども、メディアに載らない世界の方が遥かに深く広いということ。

自分から誇示せずとも豊饒の人生を送る人は夥しく存在するし、アノニマスな芥は兎も角、承認欲求、コミュニケーション欲、自己顕示欲からの解脱はもしかしたら自分の身にも起こるかもしれないということ。

未来には期待と不安が綯交ぜですが、不惑の頃の自分がより善く生きていられるように精進を積んでいけたらと想います。

誰かの撮った写真の場所をみる旅のようなものでなく、第一運動として未踏な実験が行えるような、そして愛情が満ちる。そんな日々を送れたら最高だと想います。

cf.
本音2.0

(失っていたとみられた)ゼロ年代邦楽ベストと現在の都市インディー

Egberto Gismonti - Palhaço

by wavesll | 2017-05-11 01:16 | 私信 | Trackback | Comments(0)