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ドラッカーを読む ~歴史観編~

supercell 君の知らない物語


<<知識労働者の労働者としての寿命が組織の寿命を越える時代>>
ドラッカーは20世紀をどのような時代だと捉えているかと言うと、世界人口の爆発的な伸びと、先進諸国における高齢化をもたらす平均寿命の爆発的な伸びの時代だとしている。

また労働者の質的な転換としては肉体労働者から知識労働者へのシフトが起きていることをあげている。先進諸国において20世紀初めは労働人口の90%から95%は肉体労働者だった。知識労働者はわずかだった。しかし今日アメリカでは知識労働者が40%を占める。

知識労働者は肉体労働者より長く働くことができる。普通ある組織が繁栄できる期間は30年程である。しかし知識労働者は30年を越えて成果を上げ続けることができる。つまり組織が繁栄できる期間を越えて労働者が働く時代が来ている。

つまり一人の人間が労働者として成果を上げ成長していく為には、一つの組織だけではなく、第二の人生を歩む必要が来るという事を示唆している。そのために組織のマネジメントに頼らない<自己マネジメント>が必要な時代になってきているとしている。


<<テクネが知識となる時代>>
テクネとは技能のこと。かつて知識とは自己認識、すなわち自らの知的・道徳的・精神的成長のためのものか、何をいかに言うかをしるか、すなわち論理・文法・修辞であった。つまり知識は行為に関わるものではなく、効用を与えるものではなかった。生産に関わるものではなかった。テクネは職人の間での秘伝とされていた。

しかし、18世紀に、ドゥニ・ディドロとジャン・ダランベールが『百科全書』を編纂した。これらは技能に関するあらゆる知識を体系的にまとめ、徒弟にならずとも技能技術者になれることを目指していた。つまりテクネが知識となった。

つまり『百科全書』や初期の技術学校はテクネ(秘伝の技術)を体系的にまとめ、公開することで、経験を知識に、徒弟制を教科書に、秘伝を方法論に、作業を知識に置き換えた。

これによって社会と文明が技術によって世界規模で転換したのが産業革命だった。

技術は、生産の集中すなわち工場を必要とした。技術は数万に及ぶ職人の作業場には適用できない。技術は生産が一つの屋根の下に集中されて初めて適用できた。

<<成果を生むのは資本ではなく専門知識の時代>>
資本主義社会では、組織が持つ資本が生産の主要な関数だった。しかし、今は会社で働く上でPCが生産を産み出しているわけではない。PCを使いこなす知識を持った人間が、生産の主要な関数だ。つまり生産は資本ではなく人間が持つ専門知識が産み出すものとなってきている。

つまり、技術が人一人一人の仕事場に適用できるようになり、資本が持っていた優位性が低下する一方で、人一人一人が持つ知識(テクネ)こそが生産に関与するようになったというわけ。


前回書いたように、ドラッカーは教養と言うものを重視している。それはグローバル化する世界において、一般教養と言う全人類に共通の知識があることで相互理解が行えるからだ。相互にお互いの立場を一般教養によって理解できる。

その上で、成果を生み出すのはテクネだとしている。これら専門知識の習得こそが成果を生み出せる人間になるために必要なことだとドラッカーは述べている。


Northern Bright & Shakazombie 「GET YOURSELF ARRESTED」
by wavesll | 2011-03-30 11:39 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

ドラッカーを読む ~コミュニケーション、教育ある人間としての在り方編~

サニーデイ・サービス「ふたつのハート」


ここ10日くらい『はじめて読むドラッカー【自己実現編】プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか』を読んでいた。

本自体は歯医者に勤める母親が勤め先の先生に勧められて持ってきたのを適当に読んだのだが、なかなかどうしてドラッカー、ただ売れてるだけじゃなくて本当に内容がある人で、特に<知識社会が来ているし、来る>という考えは俺が大学生の頃に考えてたのと同じだったし、他にも個人的に腑に落ちまくる点がありまくる好著だった。これを気に他のエッセンシャル版も読んでみようかと想った。

そこで今回から数回にわたり、この本の中で印象に残った部分を紹介していきたい。


<<コミュニケーションは発信する側ではなく、受け取る側が重要>>
コミュニケーションをする上で、<人は自分の期待するものしか知覚しない>という大原則を忘れてはならない。期待に反するコミュニケーションをされると、人はそれを無視するか、反発する。

だから、コミュニケーションの発話者は受け手の理解できる言葉で話すべきだし、受け手が何を求めているのかを理解することが重要だ。

しかしそれ以上に<受け手が発話者のことを理解することが重要である>。
例えば部下に自分がやっているような意思決定の責任を与えることで、上司が直面している問題に対する理解が生まれ、普段何故上司が部下に対しそのようなことを言っているかに共感できるようになる。

つまり自分自身がコミュニケーションのプレイヤーとしての能力を問われる時、最も重要なのは<何をどのように言えるか>ではなく<何をどのように理解できるか>である。


つまり、コミュニケーションされた物事に対して相手の意見をいかに理解できるかが本来コミュニケーションにおいては大事だという事。もちろん発話者の立場に立った時でも相手の事を理解して、相手に伝わるようにコミュニケーションは行われなければならない。そしてその為には、相手の立場をロールプレイするといいということだった。


<<教育をこれからの社会の中で活かしていく為に>>
今の若者は大学を卒業して数年後には、「勉強してきたことに意味はない。現在していることや、関心あることや、なりたいと思っているものと関係ない」として教養課程も一般教養も完全に拒否している。

しかし、ポスト資本主義社会においてはこれまでのどの社会よりも教育ある人間を必要とする。もちろん人文主義者の言うような書物偏重主義は超越され、教育的な人間は分析的な能力だけでなく、経験的な知覚を持つ。

ポスト資本主義社会は「知識社会」であると共に「組織社会」である。この二つの社会は相互依存でありながら概念・世界観・価値観を異にする。知識人は組織を手段として見る。

つまり組織のおかげで彼らの専門化された知識を適用することができる。一方で経営管理者は知識を組織の目的を実現する為の手段として見る。

知識人にとっては組織が無いと<好きな事をするだけ>になり、意味あるものが無くなる。逆に組織人の世界も、知識人による均衡がなければ、組織人が支配する無気力な灰色の世界になってしまう。

これからの人々は、知識社会と組織社会両方に属し、生きていかなければならない。

そして、知識人は自分の専門知識を一般知識としてわかりやすく発信することで、社会の構成員同士での相互理解を進めなければならない。つまり社会の中で活きた知識が教養にならなければならない。

その際、他の専門分野の理解において必要なのは、それが「何についてのものか」「何をしようとするものか」「中心的な関心事は何か」「中心的な理論は何か」「どのような新しい洞察を与えてくれるか」「それについて知られていない事は何か」「問題や関心は何か」ということだ。裏を返せばこれらのことを発信することで、真の知識人として意味あるものになれる。


俺はこの世界からブラックボックスなくしたい。すべてとは言わずとも、中心的な部分に関しては色々な業界の<常識>を理解できて、<話せる奴>になりたい。その為にできるだけ色々な業界で、その業界のコアな部分を話してくれる人たちと付き合って、様々な<本当に使える教養>を身につけたいと思っている。


サニーデイ・サーヴィス 『青春狂走曲』
今朝の風はなんだかちょっと
冷たく肌に吹いてくるんだ
ぼんやりした頭が少ししゃんとするんだ
憶えてない夢のせいで心が
何メートルか沈み込むんだ
熱い濃いコーヒーを飲みたいんだ
そっちはどうだい うまくやってるかい
こっちはこうさ どうにもならんよ
今んとこはまあ そんな感じなんだ

夏の朝がぼくに呼びかける
「調子はどうだい うまくやっているかい」
気分が良くなって外へ飛び出すんだ
愉快な話どこかにないかい?
そんなふうなこと口にしてみれば
街を歩く足どりも軽くなるから不思議さ
そっちはどうだい うまくやってるかい
こっちはこうさ どうにもならんよ
今んとこはまあ そんな感じなんだ

きみに会ったらどんなふうな話をしよう
そんなこと考えると楽しくなるんです

そっちはどうだい うまくやっているかい
こっちはこうさ どうにもならんよ
今んとこはまあ そんな感じなんだ
by wavesll | 2011-03-28 12:08 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

上座部Styleと大乗Style

人間発電所(CLASSIC MIX)-Buddha Brand

振り返ってみると、やはりみなはwebで自己表現をそもそもそんなにしたくないんだなぁと想。webで自己表現する必要性を感じていないし、それをそんな大事なことだと思っていない。結果としてwebで自己表現できないんだなと想った。

俺自身は自分の好きな事を好きなだけ発表できるという事でwebでプライベートに情報発信することは楽しいことだったし、コミュニケーション欲も人並み以上にあったし、物事を考えたり調べたり学んだりするのが好きだったからできたんだろう。<いつか神話を画きたい>という夢もあったしね。

いわば俺は個人の悟りを目指す上座部仏教のスタイルでやってきたわけだ。
で、去年twitterで小説風のものを画き終えて、いわば<悟りに達した>んだよね。目標に達した。
そこで俺が想ったのは<じゃあ今度は大乗をやろう>ということだったんだw

しかし、俺はおそらく大乗の意味を取り間違えていた。
俺は大乗は<みなを悟りに導くこと>だとして、みんなに俺と同じように上座部スタイルの修業を課すことを求めて仕舞った。でも本当は大乗ってのは<衆生を救う>ことだから、もっと楽にできること。例えば<南無弥陀仏と唱える>レベルの事をやれば救われるよレベルのことを課すべきだったんだ。

たぶん俺がやったのは大乗としてはレベルが高すぎたんだろう。特に今年に入ってからのエントリは。みんなそもそもやる気が無いんだから、いきなりこのレベルのものをやれだとか理解しろだとか言うのは難しすぎてますますやる気を失ってしまったんじゃないだろうか?

これから大乗をやりたいのであれば、よりシンプルにエントリをまとめることが重要になるだろう。
だからこれからは俺は上座部タイプのエントリと大乗タイプのエントリを画くようにこころがけようと想。
by wavesll | 2011-03-25 22:56 | 私信 | Trackback | Comments(0)

抽象空間の進化

アイネ・クライネ・ナハトムジーク第一楽章 モーツァルト


一昨日の事でなんで俺がムカついたかと言えば、奴の方が頭がよいかのような空気になったからだ。

しかし、考えてみれば奴は俺に新しいモノの見方を教えてくれたという面もある。あの場ではやり込められた感はあったけれども、そもそも国際的な安全保障は奴のフィールドなのだから、あいつの方が理論が詰まってて当たり前だ。そこは自分の意見と違っても、合気というか、乗っかるのも手だ。

乗っかった先にアウフヘーベンして、ジンテーゼを生み出せばよい。
別に対談相手は敵じゃない。2人で論述を組み立てる仲間なんだ。そこで相手の方が情報気圧が高かったらパサーになってもいいと想。

俺が知識だとか情報とかが好きなのは抽象的な事柄には熱力学の第一法則が働かないからだ。つまり情報には質量が無い。人から人へ無限にコピーできるという利点がある。そしてお金と違ってゼロサムではなくいくらでも産み出せる。一旦教えられた側は、つまり知った時点で<知っている>という点では教えた側と同等だ。まぁ<教えられる>ように使いこなせるレベルや<創りだすレベル>と言うのは更にもう一段深い理解が必要になるけれども。

人類の歴史と言うのは抽象空間の進化の歴史でもあるかもしれない。
言語や非言語によって顕される抽象空間(情報)が時間の経過とともに積み重なって行く。
それらの堆積の表面が現代と言う地層なんだ。俺たちは仏陀やエジソン、モーツァルトを自在に使いこなせることができる。これは幸せなことだと想う。

こと抽象空間の進化と言う点においては歴史が進むにつれ進歩と調和が産み出され続けていると想。

ちなみにクラシックの重ね聴きは抽象的な感覚を養うらしいよ(^^)

Turkish March (Mozart)


Wolfgang Amadeus Mozart - Symphony 40 in G min KV 550


Mozart - Requiem


Wolfgang Amadeus Mozart - Piano Concerto No. 21 - Andante

Mozart The Magic Flute Queen of the Night Aria

Mozart - The Magic Flute - Overture (Levine/Met Orch)
by wavesll | 2011-03-25 08:01 | 私信 | Trackback | Comments(0)

Roll Play

Cocco ニライカナイ


今日俺はダチと横浜で飲んだ。
そいつは青学の奴で、肉の会でもっとも遅くに大学を卒業する社会不適合っぷりでは俺をしのぐ奴なのだが、卒業式の答辞を任されるくらい真摯に勉強して、正直俺なんかよりもよっぽど賢く、本も読んでいる奴だ。

今日俺は久しぶりに話し相手に圧倒された。何処までも続くかのような口上。口を挟む暇もないような論理の積み重ね。正直ストレスが溜まったw聴いててwwwwwまるで自分の言ってることが認められない感じw俺自身が周りの人に与えてるのはこーいうストレスなのかなと想った。奴自身には悪気はまるでない。むしろ俺自身の不勉強さゆえのストレスだというのも更にストレスだったw

やはり、自らの身をもって体験しないとわからない感覚ってあるよなー。色々なROLLを体験することで人は大きくなれる気がする。実際、奴が言ってた「話してる最中に気になる点があったら口をはさんでほしい」というのは俺が想ってたことそのものだったから、俺も頑張って話についていって最終的には互角と言うか、負けてはいるんだけど言うべきことは言う、相違点と同意点をはっきりさせることまではやった。俺の場合は両方の立場が分かる中間管理職的な立場なのでより大変なのだがw

両方の立場が分かるといえば俺自身は昔は右翼と言うか、日本礼賛な人間だったのだが、日本社会が毎年3万人以上自殺を産み出していることを実感して逆に左翼になった人間なので、正直体制側の意見もわかる微妙な立場にいる。というかこの<微妙>というのが乙なもので、0か100かどちらか一方ではなく、間の妥協点を探ることがこれからの日本には求められていることだと想う。

学校教育の中で様々なROLL(立場)を体験できるといいと想うんだけどなぁ。

社会で暮していく上で、ルサンチマンが溜まることはある。

例えば上司に対してルサンチマンが溜まる。
例えば天下りの官僚に対してルサンチマンが溜まる。

しかし、これらの仕事を自分でやるとすれば、その辛さを身を持って知れば<仕方のないこと>というのは分かると想う。逆に言えば<それでも許せない事>もあると想う。 この場合でもROLL PLAYすることは大事だ。

俺は、自分自身が善く生きるためにも、様々なROLLを体験したい。本当は身を持って体験したいけれども、人生の機会は限られてるから、どうしても仮想体験になる。上手い具合に色んな立場を仮想体験できるゲームや小説や楽曲があればいいなぁと常々想っている。

そして、少なくとも俺の人生については他者が仮想体験できるように、web上に記録を残していきたいと想っている。


二階堂和美 - 今日を問う Part2
by wavesll | 2011-03-24 00:40 | 私信 | Trackback | Comments(0)

第2の人生

俺は人間というものは糞袋だと想っていた。いや、今もその点はその通りだと想っている。

生命は他者を傷つけて生きている。特に人間は傍若無人に他の種を危険にさらして平気な顔をしているような最悪の種だ。滅んだ方が善いと想っていた。いや、今もその点はその通りだと想っている。

しかし、そんな俺でも去年、ほんとに死ぬかと想うような出来事があった時に想ったのは<死にたくない>という想いだった。誰しも生きていきたいんだという非常に基本的なことにようやく気付けた。

俺は福本先生の描いたアカギの思想に感化されて、常に自由に、成功を貯めず、身は軽く、半ば死を望みながら生きる生き方をしてきたいと想っていた。それがロックだと想ったから。今でもなるだけ自由に、身は軽く生きていたい。

その結果、一人きりでやれることは或る程度限界までやれたと想う。26年間で俺は俺自身が到達できる結構上の方まで到達できたという感覚はある。何しろ、妄想の中とは言え、宗教団体と敵対して自爆テロかまし、これまた暗示の中かも知れないがUFOに追われてるんだからwんでもってモテたいという欲求も南米で晴れたしw小説っぽい書き物もかけたし。大学出た時は26までにここまでのことになるとは想えなかった。

そして今思うのはある女の子が俺に言った「ロックじゃなくてもいいじゃないですか、相手を幸せにするためならば」という言葉だ。

確かに、今まで俺は自分のことばかりを考えて、周りの事をそんなに考えてなかったのかもしれない。というか、周りの人間も我慢せずにやりたいことをやっているもんだと想っていたが、おそらくは言いたい事も言わず、やりたいこともやらない人生を送っているんだろう。

俺自身がこれかやるべきことは、俺個人の幸福や自由を追求することと共に、手の届く範囲の人々の幸福や自由を達成することなのかもしれないなぁと想う。

俺はこれまでの生き方を少し変えようと、去年の末くらいから想っている。それはコミュニケーションすることだ。おそらく、自己主張をしてこなかった人達はそれに慣れて仕舞って、自己主張がそもそもできない体になってしまっている。そういう人たちに働きかけて、自己表現できる、アシストだけでなく自分でゴールが決められる人へCoachingしていくことが、これから俺がしていきたいことだ。

人生一度きり、やりたいことをやりきる勇気を与えられるような人間になりたい。

それだけでなく、ロックの定義も変えることにした。
死に向うだけでなく、生きて還ってくる。愛する人と共に生きるということを、当り前だが大切にしたい。俺は昔は自分自身の命も大切に扱わなかったが、それでは俺を想ってくれている人の気持ちを傷つけて仕舞っていることにようやく気付いた。もちろん俺の気持ちも大事なのだが、これからは周りの気持ちも大事にしようと想う。対話し、コミュニケーションする中で、より善い生を歩めればいいなと想。


椎名林檎 -- ありあまる富
by wavesll | 2011-03-23 05:11 | 私信 | Trackback | Comments(0)

天災と日本人

【オピニオン】砕け散った日本の鏡(WSJ)が非常に興味深かった。特に天災に関しては<水に流す>という意識。これを<責任を考えない>という問題と<復興へ邁進する>という美点に分けたところが印象的だった。

日本人は人智を超えた力は全て天災とみなす考えがあると想う、原爆にも適用されているように想えるし、 例えば平安時代には疫病は誰かの呪いだと想われ大仏建造がなされていた。

辛い思いをした後は必ず救済される。という考え方はおそらく天災から来ているのだろう。天災によって過去が清算されるという禊の意識があると想う。

あと、記事中で想ったのは、日本人は<助けられたがらない人種>だということだ。自分の事は自分でやりますという意識が強くて、天災並の人智を超えてるものでようやく助けられる立場に身を置けるという感じだ。これは逆に言えば人智でどうにかなるものは自分でどうにかしろという姿勢。だから社会的な出来事について日本人は救済を求めないし、しないんだなぁと想った。これは正直良くないと想う、俺は。人間はそんなに強くはない。まぁ<日本人>は強いのかもしれないけど。その点で俺は日本人じゃないんだろう。

死生観にも天災が影響を及ぼしてると記事は言う。生の儚さを前提に生きていると。これが余りに行きすぎて、死ぬことに対する違和感が薄い人が多いのかもしれない。<あっさり死ぬ>っていうか、自分の生に対する執着が薄い点も日本人が自殺しやすい一因なのかもなぁ。

天災に立ち向かうため日本人は一致団結する。全体を救うために何でもするようになる。特に男は命を懸けることに憧れすら感じているところがあると想う。死に場所を求める美学がある。しかし、俺は個々の生を慈しみたい。生きる勇気を持つ人間になりたい。女流詩人の言葉がふとよぎった。


「私が『君死にたまふことなかれ』と歌ひ候こと、桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠臣愛国などの文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずる ことの流行は、この方かへって危険と申すものに候はずや」-与謝野晶子


同じ夜 椎名林檎

東京事変 スーパースター
by wavesll | 2011-03-22 15:44 | 私信 | Trackback | Comments(2)

箇条書き春分の日

・公ちゃんと中野ブロードウェイ行った

・公ちゃんは俺のネタをよく理解してくれてて賛同して色々書いてくれてて有難い人だ。

・自己表現してる奴はやっぱ好きだ。

・2人で世の中を面白くする人とつまんなくする人の話とかバカ噺しながら中野ブロードウェイ散策

・公ちゃんいわく俺はブロリーらしいw悟空じゃなかったのか、俺はw

・やっぱり気狂いって面白いよなぁと話し合う。

・青葉でらぁめん喰う

・新宿まで歩く

・京王百貨店の喫茶店でお互いがどの漫画のどのキャラなのか語り合う。公ちゃんは普賢真人で、俺はDIOらしい。俺、すっかり悪い奴になっちゃったな、ホントは心優しい奴なんだけどな~←いうよね~

・タワレコで音楽を視聴しまくる。Gui Borattoのbeautiful lifeTAPのSambachiana が良かった。ピアソラのタンゴのアルバムをポイントで購入。


sonnna日だった
by wavesll | 2011-03-22 01:17 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

EDEN

今日は香川に行ってしまう友達と横浜の牛角で飲んだ。

その時いわれたのは、「全然ジェネラルじゃない」「周りに変な人を呼び寄せてる」「研究者に向いている」ということだった。

まー奴は肉の会の中では一般的な感覚を持った奴だからなー、普通の奴から見たら俺はそう見えるんだろう。「個性がありすぎる」らしいし、俺は。まー会社組織で一回失敗するくらいは<規格>から外れたんだろうなー。

でも、<普通>ってのは一体何なんだろうなーと想う。一種の幻想なのではないだろうかとすら思う。考えてみれば<普通の人生>ってのも変な言葉だ。人の人生は個々だし、それぞれ特別なものだからだ。

なんか『人間失格』の「世間とは、お前だろ」という台詞を想い出すことが多い今日この頃だわ。主語が自分じゃない人が多すぎる、日本人は。

みなが考えが違うからこそ、あるいは持っている情報が違うからこそ交換する価値がある。俺はみんなの個性を知りたかったんだ。むしろ俺からすると人から違ったところこそが愛すべきポイントだし、よりみなのことを知るために君らの個性をしりたかった。

しかし、日本人は無個性であろうと努力してるのかもしれない。目立つこと、人から注目を浴びること、出る杭になることを避け、出る杭は打とうとするんだよなー。だから出過ぎた杭になるしかなかった、俺は。

ムラ社会の同調圧力から解き放たれてる人、自己検閲をしない人は、圧力の中にいる人から見ると<なんて自由にやってるのだろう>とみえるかもしれない。しかし、浮いた存在として見られること自体は俺にとってもなんとも居心地が悪い。ああ、この状態にみんななりたくないから自己主張しないんだなって感じだ。

今の日本人はムラの人間が都会に出てきたような、なんかどっちつかずの変な具合だ。
俺自身も変な具合にムラと都会が混じっている。というかこれは明治に夏目漱石が感じた共同体意識と個人主義の軋轢に他ならないのかも。

俺にとって日本社会って、ホームグラウンドというよりアウェイなんだよなー。だから海外の方が好きなのかもしれない。あるいは<旅してる人>ならば最初から<外部の人>だから楽しいのかもなー。

やっぱ俺は海外で就職することも念頭に置いてこの先人生組み立てようかな―、英語のリーディングライティングリスニングを趣味と実益を兼ねて勉強しなおそうかな。

ここではないどこかに約束の地があるという幻想が俺がこの國で生きていく為には必要だなー。


Yes - Sweetness

彼女は雨の午後に陽光を射してくれる
彼女は愛らしさをスプーンで掻きまわしてくれる
彼女は俺をみて、俺を沈んだ気分にはさせない
彼女は優しくしてくれる
彼女は俺を心地よくするために何を言えばいいのか知っている
俺がひとりきりでいたくない時に
今日、彼女は俺を連れ出し彼女が何処にいたのか話してくれた
彼女は俺を落ちつけて、甘美さの中に入れてくれる
どこかに行って見渡さないかと俺は彼女に伝えよう
彼女は愛らしさをみせてくれるはずだ
彼女は晴れ渡った日にする為に何を言えばいいかを知っている
俺が孤独になりたくない時に
君の宇宙が存在しなかったとしたら君がどう感じるか教えて欲しい
誰も抱きしめられなかったら。俺はやりかたが解らない。
俺は今日が今日なことが嬉しい。君がここにいてくれて嬉しい。


この歌、『バッファロー'66』のエンディング曲なんだけど、ギャロの気持ち、わかるなー。多分俺のサンクチュアリはどこにもなくて、ただ関係性の中にあるんだろう。
by wavesll | 2011-03-21 04:55 | 私信 | Trackback | Comments(0)

期待値を下げる


やー、辛かったー。よーやくダメ人間になれるわw

他人に指摘する時って、やりかえされる恐怖があるから、自分の弱みをみせられなくてすげー辛かったw

まぁ、みんな、頑張ってないとは想わない。それぞれ自分にできることをしているんだと想う。非道徳な人間なはずはないと想う。

でもそれは大半の生活保護の人だってそうだと想う。働きたくても自分が必要とする額を稼げないんだ。現実。

俺も半年ハロワ通ったけど会社決まらなかったし、バイトの面接にも落ち続けて、ようやく決まった塾講師のバイトだって週に6時間しか仕事が無い。

俺は趣味は読書と音楽とTVとインターネットだから、図書館とかYoutube使って安くあげられるからいいけど、金がかかる趣味なんかはできないし、その上で付き合いだとか移動費だとか、入学金の貯金だとかで全然金が無い。家に金が入れられない。だから今は親のすねをかじってる状態だ。

じゃあなんで偉そうに話したかと言うと、どうも周りが俺に偉そうにしてきそうな感があったからだ。日本だと経済的に自立していない人間を社会的に疎外する傾向がある気がする。ダメ人間だと。で、経済的に自立さえしていればしっかりした人間だと認められている気がした。俺は。

いやいやそーじゃないだろう、お前らだってダメ人間だろうというのを俺ははっきりさせたかった。

人間、常に強者の視点しか持てないと、傲慢になる。自分の弱みをしって初めて人に優しくなれる気がする。で、俺にとって君たちは常に社会の中で強者の位置を占めているクラスタの人たちだったから、経済的な負け犬である俺に負けている点をはっきりとさせて、お互いがお互いを優しく赦し合う、あるいはお互いがお互いをダメだと想いあう関係を創りたかったのさ。

ダメでいいじゃん、と俺はいいたい。ホントは。なぜダメじゃいけないんだろう?
ダメなところを完全に克服したら、誰に対しても偉そうな態度を取る奴になってしまいそうだ。謙虚の心を失ってしまいそうだと想う。俺から見ると日本の普通の奴らは謙虚な心を失っている。

自分がダメだとわかれば、他者に対する期待値も下げることができる。そして自分に対する期待値が低ければ、思い詰めて自殺することもなくなると想う。

俺は日本人が自分が幸福でないと想ってしまうことが、非常に残念なんだが、要はこの国を維持していく事、それ自体がきつすぎるんだと想。
お互いがお互いを律しまくっちゃって、まじめな人達は限界以上に自分にも他人にも求めて仕舞うんだろう。

で、求められると正直そこまでやらなくてもいいじゃん、ダメでもいいじゃんって気になると想う。俺もそう思う。

日本人は生きていく事にもっと幸福感を得るために、もっと緩い国になった方が善いと想う。ダメ人間同士許し合う方が楽だからだ。それによって経済は犠牲になるかもしれないが、経済が凄くても暮していて幸せじゃなかったら、なんのための経済なんだろう?一度Resetをかけるべきだと想う、この国で暮している人達の為に。

Theatre Brook - ありったけの愛

by wavesll | 2011-03-20 04:54 | 私信 | Trackback | Comments(0)