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teebs展【Ante Vos】@KATA 4/18 & 4/19

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恵比寿リキッドルーム2FのTIMEOUTダイナーの横にあるスペースKATAでのteebs展に行ってきました。

c0002171_21434672.jpg大体7時前あたりについて、入口の物販の処でバッチ型音楽プレイヤーを受け取ります。中にはteebsがこの展覧会の為に用意した20分間の音源が入っています。うむ、いい感じ。

中は写真自由だったので結構撮っちゃいました。
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c0002171_21495127.jpgどれも印象的だったなぁ。

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物販コーナーも充実していて、さっき書いたバッチ型プレーヤー(音源入り)が2000円、日本未発売のMixCDが1500円、Tシャツが3500円、1stと2ndのヴァイナルなんかも売ってました。

ロビーへ出ると、なんとteebsが飲んでる!通訳らしき人と話してるのをちらちらみてて、意を決して話しかけてみました。「もしかして、teebs?」「貴方の音楽に感動しました」「とてもクールな音楽だった」とかつたない英語で話しかけ、向うもクールとかいってくれたけどようわからんかったのが悔しい!握手して、新譜『E S T A R A』を見せたら喜んでくれた!

一旦恵比寿駅まで戻ったのですが、20:00からレセプションがあるのでやっぱ行ってみるかと引き換えし、レセプのワインを飲みながらスピーチを聴きました。会場は人で一杯になってました。

この展覧会はLAでやったものを東京に持ってきたもので、『訴えかけるモノ』を基準に選んだレコードのジャケに描いた作品を展示しているとの事。2万円から作品自体も売っているそうです。

Teebsの写真まで取らせてもらって、「Brainfeeder4に行くよ」と声かけて、帰ってきました。やー、ロビーで握手できた時は感動したなぁ。5月の新木場が楽しみです。

この展覧会は明日までで、明日はteebsを交えたトークイベントもあるそうですよ。

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追記
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やー、今日も来ちゃいました。会場で聴ける音源が気に入ってしまってまた聞きたくて(なら買えよ

c0002171_22141737.jpgグッズとしても魅力的だったんだけれども。でもこの音源はこの展覧会の空間で聴くのにとどめた方がスペシャルな感じが保たれていいのかなとも思って。

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じっくり音源を堪能しながらアートをみてました。レコードジャケに上書きしたコラージュ作品、なかには松山千春のレコードもあったそう。俺気付けなかったけどw

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で、わざわざ2日連続して来たもう一つの大きな理由が、teebsのインタビューが行われたのです。渡辺克巳(BRUTUS)さんの呼び込みでteebsと竹村卓(ライター/編集者)さんが入場し、竹村さんが質問する形で進みました。その後観客からの質疑応答もあって、結構観客の皆さんからのteebsへの質問がツボをつくものだったりして面白かったです。

以下に思い出せるところをつらつらかきたいと思います。

幼少期はどんな感じでした?
カリビアンミュージック、ジミヘンドリクス、ジェイムスブラウン、ダンスミュージックなどが好きだった。
人に対し気配りする子供だったが、付き合っていたのが悪がきたちが多かったのでトラブルなんかも起こしたりしてた。

絵を描き始めた後に音楽を作り始めたのですよね?
最初はアクリルなんかの安価な素材で描いていた。今回の様なコラージュ作品を作るようになったのは、サンプリングで音楽を作っていることと関係しているかもしれない。素材を探して加工するという行為は関係あると思う。
今回の展示の絵は全部で400点あって、50づつアルバムのように纏めている。4というのは自分にとって大切な数字で、絵の中にある4つの矢印なんかも自分のしるし。
今回使ったレコードは、水でぬれてたり汚れたりして安く売っていたのをたくさん手に入れて加工したもの。
この展覧会はこの後オーストラリアとロンドン、サンフランシスコでも開かれる予定。

Ante Vosというタイトルの意味は何ですか?
作品が作品になる前という意味だったり、作品として完成する前のもとのレコードの意味だったり重層的な意味。

地元ロサンゼルスはどんなところですか?そこから作品に影響されたりすることはありますか?
LAは砂漠にあるオアシスみたいな巨大な街でいろんな人たちがいる。影響を受けていると思う。音楽とか、画家とか面白いけれど、LAの全てが好きなわけではなくて、ハリウッドなんかは整形されすぎで好きじゃない。

何か影響を受ける様な好きなアーティストはいますか?
レイ・バービーとクートマが好き。影響を受けていると思う。またスケボーからの影響を受けることもあると思う。またアーティストからは作品からというよりもパーソナリティから影響を受けることの方が大きい。アーティストは何でもやっていいわけではなく、自分の作品い責任を持つべきだと思う。

色々なアーティストとコラボすることがありますが?
基本的には一人で創っているけれど、絵でも音楽でもコラボすることはあるし、機会があれば今後もコラボしていきたい。

日本はいかがですか?
日本は好き。おにぎりは最高。今回の来日は仕事じゃなくプライベートで、昨日は2時まで飲んで朝築地に行ってその後お台場でガンダムみてきた。火曜には京都にいく予定。

今後の予定は?
5月のbrainfeeder4ではライヴペインティングをやる予定。今年中にミニアルバムをもう1枚出したい。またprefuse73とまた何かやりたい。

絵は、あらかじめ構想を決めて書くものですか?それとも感覚で?
特にあらかじめ決めて描いているわけではない。それで失敗することもあるけれど、それも味だなと思っている。逆に音楽は作りこみできる。でもやはり失敗も味だなと思う。

dablabのInto infinityは今後も続けますか?
続けたいと思っている。

絵の花とかのマークにはどんな意味があるのですか?
花のマークは、花は人をいい気分にさせるし、絵をかいた時にこのスペースに花があったらいいなと思ったところに描いている。その作品のイメージをまとめる感じで自然に書いている。内なる自然に従う感じ。

以上、記憶違いや抜けもあるかと思いますが、トークを思い返してみました。インストモノは歌詞がないのでこういう形で意図などをしれるのは興味深かったです。自分はteebsの音楽に桃源郷的な居心地の良さを感じて快楽性を見ていたのですが、彼自身はただ刺激を求めてそのためには何をやってもいいというよりももっと人間性を大切に考えていて印象的で感銘を受けました。絵と音楽の相乗効果で非常にいい刺激を受けることのできる展覧会を開いてくれたteebsとスタッフの皆さんに感謝。
by wavesll | 2014-04-18 22:03 | 展覧会 | Comments(0)

『日本教の社会学』読書ノート5 軽く総括

読書ノート1 日本は民主主義でも自由でもない
読書ノート2 言論の自由は日本にはない?
読書ノート3 「空気」メカニズム
読書ノート4 日本人の根本視座、自然・人間・本心・実情・純粋

と、つらつらとメモを纏めてきました。これ以降も『日本教の社会学』では<日本的序列>であったりとか、労働観をはじめとした日本的資本主義の倫理であったりだとか、自殺と許しであったりだとか、明治維新を達成するために作られた浅見絅斎の学問など、なかなか興味深い話が続くのですが、ひとまず前回までで私にとって最も印象的な部分は書き残したので、このエントリでは本全体の感想を述べたいと思います。

前回のエントリでも書いたのですが、この本に描かれる日本教徒の姿、非常に自分自身の考え方の背後にある思考法だなと思いました。

特に読書ノート1に書いた『民主主義』・『自由』の概念、読書ノート3の『空気』、読書ノート4の『自然』観などはハタと膝を打つ場面もありました。

一方でこれらの事柄が果たして日本独自のモノなのかというというとちょっと疑義が挟まれます。
想いだすのは大学時代、研究発表の場である発表者の子が日本庭園と西欧庭園の違いについて語っていた際にある白人女性の教授が「日本人はすぐ日本は特殊だというが、"日本庭園の独自の特徴・思想"は西欧にも同じものがあったりする、日本は独自だという主張は安易な主張なのではないか」とコメントしていたことです。

文章によって理論的に描かれる事柄は、どうしても現実抽出するものですし、そうでないと理論になりませんから、どうしても細かい話は捨象されてしまいますが、実際には案外、この本で語られる『日本教徒』の思考法って他の国でも応用効くのでは?と思いました。その意味で読書ノート4でも書きましたが、海外の人に表してもらいたいなぁと思いました。

また海外の話で言うと、主に出てくる"海外"として欧米、中国が挙げられていますが、今の時代で考えるならば東南アジアや中東、あるいはアフリカなんかの事例も合わせて分析をかいたら面白いのでは?などとも思いました。宗教で言うとヒンドゥー教やイスラーム教の視座もあったらいいな、と。

またこの本が書かれた81年から比べると、2014年現在の日本は、終身雇用も崩壊していれば、インターネットによって海外が近くなったりだとか、『日本的社会・日本的共同体』も様変わりしている状況にあります。なにしろ移民を入れようだとか、多国籍の人と共に働く職場もあったり、逆に日本の文化が世界に広がった食文化やアニメなどの事例もある時代なので、今の時代の『日本教』論が書かれることが待たれます。

小室さんほどの様々な分野に精通した博覧強記の方はなかなかいらっしゃらないと思われるので、多分野の研究者の共著・あるいはパネルディスカッションの編集によって書かれると良いかもしれません。

あと、これ言ったら顰蹙かもしれませんが『日本教の社会学』に感じた一番の懸念は『博覧強記の二人の対談だけれど、なんか勉強で知った知識だけで、実際の人間の機微に疎くない?』でした。偏見ですが研究者は理が勝ちすぎて情の力学に弱い感があります。今こういった日本人論を書くなら、研究者数人とマツコデラックスやらおぎやはぎやら絡ませて世慣れた人間の意見も入れるといいかもしれません。

私自身は、日本に生きづらさを感じる身でもあったりするのですが、本書に描かれる事柄を<日本教徒の社会で生きる上のマニュアル>的な本として、興味深く読むことが出来ました。日本人の思考フレームというか、『日本教徒の取り扱いかた』みたいなマニュアル本を、海外の日本で働きたい人や日本研究者向けに、簡略化と現在にブラッシュアップしたものを著するのは、結構需要あるのでは?この本の様な大きな理論は読んでて面白かったです。

一連のエントリで本書に興味を持たれた方は、アマゾンでは高額で取引されていますが、図書館などにも置いてあるので、是非手に取られることをお勧めします。時代は変わって日本社会も変わりつつありますが、現在でも大いに通じる論点が数多く示されている良著だと感じました。
by wavesll | 2014-04-08 10:27 | 書評 | Comments(0)

『日本教の社会学』読書ノート4 日本人の根本視座、自然・人間・本心・実情・純粋

読書ノート1 日本は民主主義でも自由でもない
読書ノート2 言論の自由は日本にはない?
読書ノート3 「空気」メカニズム
さて、『日本教の社会学』読書ノートも第4回となりました。今回も気になったところのメモ(黒字)と私のコメント(赤字)で書いていきたいと思います。

サクラメントとは
サクラメントとは救済のための儀礼。サクラメントをすれば教会が救済を請け負ってくれる。
カトリックには洗礼堅信聖餐告解終油叙階結婚と7つのサクラメントがあり、これはみな一種の宣誓で、奥儀への参加である。
一方プロテスタントには聖餐と洗礼の2つのサクラメントしかない。

もちろん日本教にはキリスト教のサクラメントに対応する儀礼はないわけだが、サクラメントと同様な社会的機能をするもの、これはあると思う。それを構造神学的な日本教のサクラメントと呼ぶことにして、それについてこれから論じてみたい。

サクラメントは一種の通過儀礼のようなもの。サクラメントを通ることで今までと違う状態になるという事。日本教の中でそういったものは何であるか。機能社会構造の連関で見れば聖餐は"人間"、洗礼は"自然"、懺悔・告解は"本心"ではないか。

自然

日本人が自然と言った場合と西洋人が自然と言うのと全然違う。
日本人の自然という言葉は、自己の内心の秩序と社会秩序と自然秩序をひっくるめた言葉で、この3つは一致すべきもの、一致したものであるというのが基本的な意味。以上3つが全部自然。

だから「自然を尊べ」といった場合、どの自然をいっているのかわからない。「ごく自然にやらなければならない」「あれのやり方は不自然だ」「社会がこんなだとは不自然だ」これ全部基本が同じで、絶対的規範となっている。

これはキリスト教的な考えからはおかしい。そうなら人間の自由意思はなくなる。
テリッヒが述べるところには、「人間というのは自然的必然の過程で生きているものではなく、歴史的必然がある」。しかし日本人には歴史的過程がなく、みな自然的必然論。

「どうしてそういうことをしたんだ?」「うん、ごく自然にこうなっちゃったんだ」と。
何事も自然現象と理解したら、人間には自由という概念はなくなる。

一方、中国語にも日本語の「自然」にあたる言葉はない。
中国語では、人間以外の自然を「天地」といい、人間の内なる自然、つまり人間本来の素質を「性」という。
日本と違い、儒教と道教では自然に対する評価は異なるものの、そのまま規範化されることはない。

日本では自然がそのまま規範化される。つまり自然のままであるのが何より良い、とされるからそういうことになるのだと思う。だから日本教徒は自然であれば救済されることになり、サクラメントの機能をする。

中国ではこうはいかない。儒教など大部分の諸家の説には、礼学、すなわち人間の作った文化こそ尊ぶべきもので、生の自然は否定されるべきもの。

これに対し道教では人間の作った文化を否定し、自然尊重で日本人の自然観と相通ずるものがあるが、よくみると実はそうではない。道教が尊重する自然とは、道教の方法論によって制御された自然であって、ありのままの自然ではない。だから道教では仙術を習得しこれにより超自然的存在を自由にしようとする。

だから道教が重視し規範とするのは自然でなく超自然。
そして超自然的存在である天界が中国社会そっくりに作られている。皇帝(天帝)がいて官僚制度があり、官僚は職務に忠実でなく賄賂も取れば悪事もする。だから天界にも刑務所もあれば死刑もある。
地上の政治制度=礼学そっくりに作られ、これが理想である。

ユダヤ教・キリスト教では天地の始まりは神が造った。日本では神が産んだ。中国ではいつのまにか始まっていた。

聖書では人間は神の被造物なので、元来、自由意思はないはず。しかしアダムとイブは違った。これをどう考えるかは面倒な問題だった。ラビ・アキバはこれを借金と解釈した。神が無限に持つ自由意思を人間に貸してくれている。ただし借金には契約がある。この契約が律法でこれに違反すると最後の清算の時困るぞと。

人間には借りている自由意思があるから、今、自由意思がある。創造と自由、被造物と自由の関係をこう捉える。ただし動物にはそれがない。そこが本質的な違いで人間と動物を分ける。人間がなぜ人間でありうるのかという基本問題をそういうふうに解釈している。

そういう社会における自然の概念は、大変に自由と対立する概念。だから自然も本質であるというならまた自由も本質であるというわけ。「人間が自然に近づけば近づくほどそれがよろしいんだ」というような日本人のような発想は出てこない。

自然というのは、日本人にとっては完成された状態であり、これが規範としての自然。
自然がそのまま規範化される。日本での「自然」とは、一方においては「ありのまま」だが他方においては「あるべき姿」で、それが正しいとされる。

ところが自然の規範化は矛盾を内包する。つまり「ありのまま」が自然だとして、この論理を推し進めていくと、不自然なものもそこにあるわけであすから、それを含めてありのままが自然だということになってしまう。これが正しいのか正しくないのか。日本人の自然観には常にこの矛盾がついて回る。

中国の場合はいわば自然は無規範。中国において人に対比されるのは禽獣。人と禽獣の根本的相違は、禽獣には規範がないのに人にはこれがある。だから、人が規範を失えば禽獣に等しい。
中国における自然とは天地だが、禽獣の居場所は地。つまり自然の少なくとも一部は無規範。これでは自然はそのまま規範化されようがない。

さて、日本人における『自然』ということ、ここら辺で少し小休止しましょう。どうやらこの『自然』。ただ単に『天然自然』であるだけでなく、自分の内心や社会のありようと言った『人間』にもまたがる概念であるというところが、西欧とも中国とも違う日本独自の部分というのが、山本小室両氏の意見の様です。

私自身も例えば環境問題なんかを考える際の思考フレームとして「でも人間だって宇宙の一部なのだから、人間が自然にやってしまうのも仕方ないのでない?」なんて考えたこともありました。

おそらく、この社会自体をまるで自然現象の様に捉え、そして自然ならば仕方ないとする日本人の性質が『日本人には作為の契機がない』という読書ノート123で論じられて生きたことを生んでいるもの、ということが今後論じられるのではないでしょうか?なんて考えながら、続きをどうぞ。


本心
中国には「本心」という言葉がない。中国人にとって「本心」なんかどうでもよく、決定的なときにしかるべき行動をとるかどうか、これがすべて。
親孝行であるかどうかの判定基準もそうだし、友人の間の「信」もその通り。そのマニュアルが準備されていて、その通りにするのが「信」、そうしないのは「信」ではない。

契約のある社会にも「本心」はない。契約を守るか守らないかだけで、「俺は本心では…」といっても誰にも通用しない。日本では本心がなければ社会から排除されるから「お前の本心に聞いてみろ」なんて言われて「俺は本心なんてない」といったら御終い。じゃあ本心とは何ぞや?

日本では「本心」という言葉はもともと仏教用語として古くからあったようだけれども、徳川時代の儒教系の学者は大体これを「性」といっていた。それでは庶民にわかりにくいだろうと、梅岩の弟子の手島堵庵が「本心」と言い直した。これはやはり内心における自然の秩序。だから不自然ではいけない。これはやはり内心における自然の秩序で、不自然はいけない。

本心はあるのかないのか、本心の基本は何かを梅岩は懸命に追及する。
彼は人間から何もかもはぎとっちゃったら最後に何が残るだろうと、赤ん坊を見に行く。

赤ん坊は呼吸しているだけ。自分の意志で呼吸しているわけではない。この呼吸をさせているのは宇宙の秩序のはず。人間を呼吸させて生かしている宇宙の継続的秩序がすなわち善だ。

だから、天然自然の秩序がすなわち善であり人間がその通りにあるのが善であるから、赤ん坊は善。そういう状態の時の心の状態を本心という。

本心通りにしているのが自然。不自然なことをしてはいけない。じゃそのマニュアルがあるかというと、別にない。だからいったいどうすればいいのか、ということになる。

自然に対しての不自然のような、本心に対しての非本心は内心の意味に使う不自然のこと。「あいつは作為がありすぎる」のような。

そうなると自然という事を本心ということは対応してないといけない。だから本心というのはそのままの心ではなく、規範化された自然に合致する心の状態。

それでは規範化された自然にならないようなものは何か。また本心にもとるような心の状態にせしむるものは何か。

私自身の、海外のフォーラムで色々な意見を読んだ感想で言うと、欧米にも「本心」というような感情概念はあると思います。山本さんも小室さんも、海外の事情は知っているのでしょうが、(特に小室さんは海外留学もされていますし)どうも日本を特殊化しようしようというような印象をこの本からは受ける部分は多々あります。

逆にいえばこの本で描かれる精神のありようは、もっと汎用性のあるものにもなるのではないか?海外の人々にも読まれるような機会がこの本に訪れればいいなぁと思います。現在は海外で読まれるどころか日本でも絶版でアマゾンでは2014年4月8日現在では47,750円ですが…。

実情
自分の情に対して正直であるのが、本心に対して正直だという事。
梅岩は、父が羊を盗めば子はアッと思うだろう。思った瞬間、これを隠してやりたいと思うのは子の情であろう。この時の実の情、実情が日本教のサクラメントの一つとして出てくる。

梅岩はその実情と事実をはっきり区別して、実情に正直なのが本心に対して正直でよろしい。事実を事実として行為するのは本心に対して正直でなく、よろしくないとしている。だから情緒が動くままに規範化される。

本心から犯罪を犯したいと思ったら、それが自然であるから当然となるが、それでいいのかという問題が起きてくる。これが情緒規範というものの最大の問題点。

これが一番よく出てくるのが「政治も情が基本である」といった西郷隆盛。政治は情の推にして、情の積み重ねであって、それ以外のものではない。と。

純粋人間、できた人間

西南戦争の直前にし学校の生徒が兵器庫から武器弾薬を奪う。その報告を受けた西郷には、「法に違反したんだから法は法として県令に突き出す」か「政治は情だけであるから、情に於いてしのびずで盗んだし学校の生徒と行を共にする」かの選択肢があった時、西郷は絶対に情をとる。

この身一つを打ち捨てて、若殿ばらにむくいなん、とされたら日本人は痺れてしまってもう何もいえなくなってしまう。西郷が日本人に圧倒的に人気があるというのもここ。ここで理屈を言ったら興ざめ。西郷が僧月照をかばいきれなくなったとき、薩摩潟に入水した。それ以外何もない。

西郷は純粋人間だからみんなから愛される。つまり、あの人は純粋だとか、不純だとかいった場合、情緒規範に対してあくまでもその通りに反応しているか否かの問題ですから、西郷の生き方は純粋。

人間は「純粋」であれば、どんな悪いことをしても許される。この意味で「純粋である事」は日本教のサクラメントの一つ。

純粋人間というのは簡単にいうと情緒規範だけ、ある意味で空体語だけ。しかし普通の人間は実体語の方でバランスをとっていなくちゃならない。

純粋人間の定義を整理すると、
1.情緒規範の人間
2.空体語の人間
3.教義学を持たない、つまり組織論的発想を持たない人間

そこから浮かび上がってくる「できた人間」というのは実体語の方にも対応し、同時に情緒的反応しかしない人間にも「わかった、わかった」といわなければならない。つまり「できた人間」とはいわゆる情緒規範じゃなくて自然規範でやらなければならない。

すなわち、規範としての自然じゃなくて、不自然の入った自然としての自然が規範になってるような人間。だから、ある程度不自然も認めてやる。これはもう純粋じゃないので「できた人間」とは少々不純な人間。なので不自然なる組織論的発想も無視しないということ。

同時に、実体語だけで対応しているけれども、ある程度空体語を相手に渡してやるような人間でないと「できた人間」ではない。つまり「できた人間」とは純粋人間の対極にあるんじゃなくて、純粋人間とその対極の不純人間のバランスにある。完全に不純人間になってしまうと「まだまだ人間が出来てない」となるので、バランスが取れてないといけない。

この『純粋人間』の下り、「でもこういう人が身近にいたら厄介だと思われてしまうだろうなぁ」と思いながら読んでました。だから『できた人間』が出てきて「そうそうwそうだよね」と思いましたw

物語や記事、文章を通しての理想の人間像とその反応と、実際に相対する人間に対する反応って違いますものね。この本は1981年に書かれたものなので、インターネットの影響は全くない状況なのですが、インターネットによって例えば芸能人なんかも神秘のヴェールが剥がされて、ただ単なる『純粋人間』ではいられなくなっていて、「芸能人と一般人は本来行動原理・精神が違うのに…」という声がでている現状をまたこの二人に分析してもらいたいなぁなんて思ったりしますね。

インターネットによる社会の変化は、まさに現在進行形でどんどん動き、さらに言えば技術の進化、プラットフォームの変化が目くるめく起きるという点でなかなか総括は難しく、先の予想も難しいですが、何かいい書籍はないでしょうか?もしあればぜひ拝読したいので、どなたかご教授ください<(_ _)>

本当に最近思うのは、SNSの発展によってコミュニケーションが娯楽としてどんどん時間をとるようになって、コンテンツもコミュニケーションを前提にしたものになっていく傾向が、自分の可視範囲だとあるのですが、その方向は芸能や研究にとって果たしてよいことなのだろうか?なんて最近は考えています。孤独の中で研ぎ澄まされる感性や精神の発露が、なぁなぁに塗されてしまうのではないか、なんて。

ビジネスとしてはコミュニケーションは性的快楽と比する位の脳内麻薬が出るようなのでガンガン利用されていくのだろうなとは思うのですが…。ただ一方でSNS疲れみたいなコミュニケーション方への反動も出ているので、仕事やら家庭やらで時間が取られる一般の社会人の話というより時間が自由な学生・子どもの文化に顕著となっていますが…。

彼等(私も20代なのでぎり含んでもいいかも)が創るカルチャーは社会を変えていくのか?それとも高齢化とカネの偏在から日本では鈍重な変化になるのか?気になる處です。

といったようなSNSの話をしたのは、昔mixiで「日記読んだらいいね!押せよ!」とやってしまい大ひんしゅくを買った恥ずかしい思い出があるんですよね、私(苦笑)。これを「信」のくだりの、こういうときはこういうことをするのが朋友という中国人の考えと、「本心」を大事にする日本人の感覚という視点で考えたら、「俺、チャイナっぽいw」と思ったのです。

というわけで、また次回お会いしましょう。おそらく、次の読書メモで、大体私がこの本で面白いなと感じたところは纏めきれそうだと思います。


読書ノート5 軽く総括
by wavesll | 2014-04-08 08:35 | 書評 | Comments(0)