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Paul McCartney Live in Tokyo Dome 2017.4.27

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ポール・マッカートニーの東京ドーム初日へ行ってきました!

ポール、やっヴァ★★★★★!!!

「A Hard Day’s Night」で始まるも実は最初30分は"こんなものか"と想っていたのが本音の処でした。

私自身の人生初ライヴが東京ドームでのイエモンの活動休止ライヴで。高校生の時に見た米粒のTHE YELLOW MONKEYはまさに"ロックスター"でした。

そこから色々なフェスやインストアライヴ、ライヴハウス、そしてビルボードやブルーノートのような演奏が目でみえる距離音楽が鳴る場所でみるようになって。聴く音も広がって。

ロックが主食だとしたら、前菜・デザートのような音楽に味蕾を刺激されるようになった今の耳で聴くと、"あぁビートルズでさえもこれくらいに聴こえるものなのか…自分のビートルズ体験はある意味クワトロでみたMANDO DIAOだったのかも…"と。

しかし「1985」から嵌ってきて!そうなるとどんどんポールとバンドの調子が尻上がりに!

「どうやって作曲してるのと思うかい?」というMCから爪弾いて小鳥がさえずるかのように歌を鳴らしたのが素敵でした。

「Love Me Do」のハモニカをみれて"おぉ!"と想ったり、カニエ&リアーナと2016年に出した「FourFiveSeconds」がすっごく好いのがとっても嬉しかった!!!!!!!!

そしてジョージに捧げたウクレレで弾き始めた「Something」はエクスクルーシヴな刺激も与えてくれて。そこから「Ob-La-Di, Ob-La-Da」、「Band on the Run」、「Back In The U.S.S.R.」!!

ポールのライヴが2h越えするのは、音楽すれっからしもにっかりしてしまうほど魔法の国へ連れてくほぐしを与えて呉れるからかも。もう最高だなこりゃ。

そして「Let It Be」から「Live And Let Die」そして「Hey Jude」!

「Let It Be」は聞き逃すまいと集中しすぎて瞬間に熔けて過ぎ去って、「Live And Let Die」の火柱と炸裂音に燃え、そして「Hey Jude」のシンガロング!!!!!あんな幸せな煙い空間ねーわ!今まで平間の焼肉北京がベストだったけれどポールがNo.1◎!

Enは「Yesterday」で始まりバンドメンバーを祝う「Birthday」からの「Golden Slumbers」「Carry That Weight」「The End」。THE YELLOWMONKEY以来の東京ドームの音楽ライヴ。初心に還ってロック少年に立ち戻る、音楽の綺羅星をみた一夜でした★★★★★★★!

cf.
ポール・マッカートニー、4/27の東京ドーム公演初日のセットリストが明らかに(NME)

by wavesll | 2017-04-28 00:48 | Sound Gem | Trackback | Comments(2)

三木清『人生論ノート』@100分de名著 第4週 「死」を見つめて生きる

c0002171_13211266.jpg三木清『人生論ノート』@100分de名著 第1週 真の幸福とは何か
三木清『人生論ノート』@100分de名著 第2週 自分を苦しめるもの
三木清『人生論ノート』@100分de名著 第3週 ”孤独”や"虚無"と向き合う

ETV、100分de名著で取り上げられた三木清『人生論ノート』視聴記も、今回がラスト。

執筆直前に妻を亡くした三木、戦争直前、死が近い時代に三木は希望についても説きました。最終回は死と希望について三木が伝えたかったことを読み解きます。

死について

近頃私は死というものをそんなに恐ろしく思わなくなった。年齢のせいであろう。以前はあんなに死の恐怖について考えまた書いた私ではあるが。

この数年の間に私は一度ならず近親の死に会った。そして私はどんなに苦しんでいる病人にも死の瞬間には平和が来ることを目撃した。


昭和14年、三木はこの時41才。2年前に妻を亡くし親類や友人を立て続けに見送った頃。この一節には死から目を背けず死の恐怖に惑わされずに生きたいという三木の想いが込められていた。

死について考えることが無意味であるなどと私はいおうとしているのではない。死は観念である。

誰もが生きている間には自分の死を経験することができない。死を経験したときには死んでいるから人はいない。だから我々が死について考える時は"観念"として考える他はない。

ただ実際には難しく、死は人生に入り込み、生の直下に死はある。

死の恐怖が薄らいだのはなぜか?→確率の問題。生きていて死んだ人に会える確率はゼロだが、死ねば会えるかもしれないと考えたから。"そうあって欲しい"という要請からこの考え方に三木は到達。

同時に後に残す者たちに三木はこう言っている。

執着するものがあるから死にきれないということは、執着するものがあるから死ねるということである。

「執着するものがあるから死ねる」というのは"人間はそんなに立派に死ななくてもいい、執着するものがあって死んでもいい"。潔く死ぬのが美しいという時代に、悔いを残して死んでもいいという勇気のメッセージ。

私に真に愛するものがあるならそのことが私の永生を約束する。
想いを残した人がいるということは死後自分が還っていくべき所を持っている。

折に触れて思い出してもらえればその時自分は永生を約束されている→この根拠は自分自身が妻を忘れていないという愛からではないか。

妻の死の一年後、その一周忌に追悼文集を編集し、「幼きものの為に」という自身の文章も載せた。

やさしい言葉をかけたこともほとんどなかったが今彼女に先立たれてみると私はやはり彼女を愛していたのだということをしみじみと感じるのである。

彼女の存命中に彼女に対して誇り得るような仕事のできなかったことは遺憾である。

私が何か立派な著述をすることを願って多くのものをそのために犠牲にして顧みなかった彼女のために私は今後、私に残された生涯において能う限りの仕事をしたいものだ。

そしてそれを土産にして、待たせたね、と云って彼女の後を追うことにしたいと思う。


『人生論ノート』が刊行された翌年、三木は徴用されフィリピンで従軍する。そこでの戦争体験は彼の哲学を大いに変貌させるはずだった。しかし帰国した三木に言論発表の場はなく、娘と疎開する。

そして昭和20年3月、逃亡犯だった友人を匿ったという嫌疑で逮捕される。敗戦後も釈放されることなく、9月、獄死する。

もし私が彼等と再会することができるーこれは私の最大の希望であるーとすればそれは私の死に於いてのほか不可能であろう。

共産党員だった友人を匿えば身の危険が伴うのは分かり切っていたが、人間として三木は友達が助けをもとたときに救わないはずはなかった。

敗戦後も釈放されず毛布に付いた疥癬にやられ独房で一人死んだ三木。「三木は死ななくてもよい命を落とした」。

三木は戦争に往った数少ない哲学者。その経験を生かした書作を残せたはずだった。

三木は人間の生命と歴史における過去を重ね合わせ、その意味についてこう述べている。

過去は何よりもまず死せるものとして絶対的なものである。この絶対的なものはただ絶対的な死であるか、それとも絶対的な生命であるか。

死せるものは今生きているもののように生長することもなければ老衰することもない。そこで屍者の生命が信ぜられるならば、それは絶対的な生命でなければならぬ。

この絶対的な生命は真理にほかならない。


死=過去(歴史)と同等に考える歴史観を三木は持っていた。"死"が絶対的であるがゆえに"過去"もまた絶対的である。

過去を自分の都合のいいように利用し解釈する危険性を指摘している。"歴史修正主義"を三木は厳しく指摘している。

歴史を改ざんしようとすることは歴史を尊重していないこと。人間の"死"を尊重することは"歴史"を尊重することでもある。

雑誌「文学界」における最後の連載は「希望について」だった。

希望について

人生においては何事も偶然である。しかしまた人生においては何事も必然である。このような人生を我々は運命と称している。

偶然の物が必然の必然の物が偶然の意味をもっている故に人生は運命なのである。希望は運命の如きものである。人生は運命であるように人生は希望である。

運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである。


戦時下にあっても三木は最後まで絶望することなく人生論を書いた。

三木は個人、個性が失われつつあった時代に自分とは何か人間とは何かを問い続けた哲学者。そして最後まで人間の可能性を信じていた人だった。

もし一切が保証されていたら希望すらありえない。希望こそが生命の形成力である。

絶望することは簡単で、絶望しない人生を選んだのが三木の生き方。

「私は未来への良き希望を失うことができなかった」

国家全体が戦争へ向かって言論弾圧しても考えることを止めない、"言ってもしょうがない"にならない。精神のオートマティズムに巻き込まれると抜け出すのは至難の業。

三木がこれを書いた時代と現代は通じる感覚がある。しかしそういう時代に生きているからといって絶望する必要もないし生きている意味はないわけではない。

三木清は終生理想主義者だった。理想だけが現実を変える力があると三木は書作を通じて語りかけている。
by wavesll | 2017-04-27 15:30 | 書評 | Trackback | Comments(0)

三木清『人生論ノート』@100分de名著 第3週 ”孤独”や"虚無"と向き合う

c0002171_11145499.jpg三木清『人生論ノート』@100分de名著 第1週 真の幸福とは何か
三木清『人生論ノート』@100分de名著 第2週 自分を苦しめるもの

に続き、100分de名著 三木清『人生論ノート』視聴記。解説は岸見一郎氏です。

哲学者三木清は『人生論ノート』の中で私たち人間は虚無の中に生きるのだと説いた。
海のような広大な世界で、人間は自らを形成して生きてゆくのだ。第三回は虚無や孤独と向き合うことで"人間とは何か"を考える。

虚無について
"虚無"は"ニヒリズム"ではなく、"人間の条件"。
虚無だからこそ我々は生きていく価値があると三木は考えた。

どんな方法でも良い、自己を集中しようとすればするほど私は自己が何かの上に浮いているように感じる。いったい何の上にであろうか。虚無の上にというのほかない。

自己は虚無の中の一つの点である。この点は限りなく縮小されることができる。
しかしそれはどんなに小さくなっても自己がその中に浮き上がっている虚無と一つのものではない。

生命は虚無でなく虚無はむしろ人間の条件である。

けれどもこの条件は恰も一つの波、一つの泡沫でさえもが海というものを離れて考えられないようにそれなしには人間が考えられぬものである。


虚無を大海に例えるなら私たち人間は一つの泡のようなものでしかない。しかし如何に小さな存在であっても海がなければ泡も存在しない。

つまり海は泡が存在するための条件であり、虚無は人間が存在するための条件なのだ。

さらにとてつもなく広大な世界で生きるために、人間には形成力が必要である。

生命とは虚無を掻き集める力である。それは虚無からの形成力である。

そもそも何もないことを押さえて、"無いからつくっていく”。これは前回の虚栄の話に通じる。

泡のような人間という存在、海があまりに広大過ぎて生きていくことに絶望するような徒労感・無意味感に襲われる。

しかし我々は"存在する"という事実から逃れられない。だったら何とかして虚無を掻き集めて自分自身で生きていく"意味"を作っていかないといけない。だから虚無からの形成力という話になる。

人生は形成である
"虚無"を”世界”や”宇宙”に置き換えてもいい。たとえ無意味に見える人生であっても誰かによって決められるわけじゃない。自分で形成して行くしかない。

しかし社会が変容したことによって現代人の自己形成は難しくなったと三木は述べる。

昔は生まれてから死ぬまでに出逢う人間は百人ほどで、限定された社会。しかし今は無限定な社会にヒトは住んでいる。顔も名前もわからない人たちとの関係。

ヒトは"私とあなたの間"に人間を作る。しかし現代は個性を形づくる関係が無数にある。

結果人間は無限定なアノニム(匿名)な存在になる。多くの人と繋がっているのに人は孤立していってしまう。

虚無との向き合い方を三木はこう説く。

今日の人間の最大の問題はかように形のない物から如何にして形を作るかということである。

三木は虚無から何かを形づくる力を構想力と名付けた。そして構想力の為には混合の弁証法が必要だと説いた。

弁証法とは本来、矛盾や対立を統一するやりかた。しかし三木は矛盾や対立を抱え込んだまま混合させるやり方を提示する。

その為には秩序が必要となる。様々な要素の配列や組み合わせを適切に位置付ける。それにより人間は虚無から脱出できる、と。

混合の弁証法:異質な考えを排除せず、すべて受け入れていこうという考え方。

秩序について
どのような外的秩序も心の秩序に合致しない限り真の秩序ではない。
(略)
秩序は生命あらしめる原理である。そこにはつねに温かさがなければならぬ。


秩序とは上から押し付けたり機械的に切り捨てるものではない。秩序には温かさが必要。

さらに三木は国歌の秩序もどうあるべきかも考察した。

第二次世界大戦が始まった頃、三木は近衛文麿を中心とした研究会のブレーンとなり政治の世界に足を踏み入れる。日中戦争をなんとか終結させられないか、時代を生きる哲学者として三木は積極的に国策研究に関わった。

しかし戦争は泥沼化。昭和15年「昭和研究会」は解散。敢えて体制に加担しファシズムや軍国主義に抗してきた三木にとっては大きな挫折だった。

その翌年に三木は『秩序について』を書き上げる。

外的秩序は強力によっても作ることができる。しかし心の秩序はそうではない。人格とは秩序である。自由というものも秩序である。

外的秩序という言葉で三木は国家の秩序を考察する。為政者は自分に都合の良い秩序を強制しようとするが、心の秩序に合わないものは真の秩序とは言えない。

三木は形成の思想から日中戦争を傍観することをせず政治に関わった。

三木は上からの押し付けでは真の秩序はできないと説いた。が、軍部の独走を止める事は出来なかった。

三木は色んな価値を認めるという意味の"価値多元主義"の危うさに気づく。現代の例でいうと「ヘイトスピーチも言論の自由である」と言われれば誰も止められない。

土台になるべき価値を認めなければならない。その「価値体系」の大切さ。

混合の弁証法の話も含め、"価値体系"と"価値多元"は別なのか?→すべての価値を受け容れるのは危険。

人間存在の尊厳を大切にすることを土台としていられれば、多様な価値を内包できる。しかしそれがないと人間は無秩序なアナーキー(虚無主義)に陥る。

何も価値観がないところに新しく強力な価値観を植え付けることは簡単。子供たちに特定の価値観を植え付けることは容易。批判能力がないから。

秩序の根源には「人間の尊厳」を認めるという価値体系が必要

虚無を認識しながら自分で価値観を形成していかないといけないと対で理解していないと容易く扇動されてしまう。「ニヒリズムは独裁主義の温床である」。

一方昭和15年に三木は『孤独について』を発表する。

孤独について

孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく大勢の人間の「間」にあるのである。孤独は「間」にあるものとして空間の如きものである。

三木は"孤独には美的な誘惑があり、味わいがある"と書き、決して"孤独を乗り越えよ"とは言わなかった。寧ろ"たった一人であることを自覚し、孤独に耐えることは生きる上で大切なことだ"とした。

感情は主観的で知性は客観的であるという普通の見解には誤謬がある。むしろその逆が一層真理に近い。

感情は多くの場合客観的なもの社会化されたものであり、知性こそ主観的なもの人格的なものである。

真に主観的な感情は知性的である。孤独は感情でなく知性に属するのでなければならぬ。


三木は孤独を大切なものと説く。大勢との間に「孤独」という隙間を持てる人は迎合しないことでもある。

「孤独は感情でなく知性に属するのでなければならぬ」戦争へ向けてみんなで熱狂していた時代に孤独を説いた三木。孤独のうちにいられることが"強さ"。

知性に属する孤独。知性は煽ることが出来ない、でも感情は煽ることが出来る。

孤独だけが個人の人格、内面の独立を守ることが出来る。不屈の闘志が、この本にはある。

三木清『人生論ノート』@100分de名著 第4週 「死」を見つめて生きる
by wavesll | 2017-04-27 15:17 | 書評 | Trackback | Comments(0)

三木清『人生論ノート』@100分de名著 第2週 自分を苦しめるもの

c0002171_10473978.jpg三木清『人生論ノート』@100分de名著 第1週 真の幸福とは何か

100分de名著、三木清が太平洋戦争前夜に書いた『人生論ノート』を岸見一郎さんのナビゲートでおくる第二週。今回は虚栄心、怒りと憎しみ、嫉妬についてです。

虚栄心とは

虚栄は人間の存在そのものである。人間は虚栄によって生きている。虚栄はあらゆる人間的なもののうち最も人間的なものである。

人間は生きる上で不安や怖れを抱えている。そこから少しでも目を背けるために自分以上の自分を造り出そうとしている。

全ての人間的といわれるパッションはヴァニティ(虚栄)から生れる。

いかにして虚栄をなくすることが出来るのか。創造的な生活のみが虚栄を知らない。創造というのはフィクションを作ることである。フィクションの実在性を証明する事である。


三木は「虚栄と付き合うには」と三つの方法を提示している。

1. 虚栄を徹底する
仮面をかぶり続けて虚像を演じきる。一生仮面をかぶり続ければそれが本性になる。

伊集院も"芸名である伊集院光としてこうありたい、こう思って欲しいとすることがある、それは嘘を吐くというわけでもない”と述べた。私もハンドルネームでの発言で逆に引っ張られたりします。

パーソン(人間)の語源はペルソナ(仮面)

2. 虚栄心を小出しにする
ささやかな贅沢をする。日常生活で虚栄心を少しづつ満足させる工夫をする。

小出しだと虚栄もボロが出ない。その程度の虚栄ならば徹底できる。

そこそこの虚栄は必要だ

3. 創造によって虚栄を駆逐する
「創造的な生活のみが虚栄を知らない。創造というのはフィクションを作ることである」

「人生とはフィクションを作ることだ」
人というのは孤独ではいられない。他の人の評価を絶えず気にする。でもそういう気持ちから作られる人生は虚栄。自分の意志で人生を創造していけば虚栄を駆逐できる。

虚栄と言っても全てが駄目ではなく、今ある自分よりもより上を目指す、そのために努力をする、向上心とも言える。

嫉妬について

どのような情念でも天真爛漫に現れる場合、つねに或る美しさをもっている。しかるに嫉妬には天真爛漫ということがない。
(略)
愛は純粋であり得るに反して嫉妬はつねに陰険である。嫉妬こそ(略)悪魔に最もふさわしい属性である。


愛と嫉妬は似ている。術策的で持続的な点において。そのため長続きして人間を苦しめる。愛があるからこそ嫉妬が生まれる。嫉妬がさらに想像力を働かして心を忙しくさせてしまう。

「想像力は魔術的なものである。ひとは自分の想像力で作り出したものに対して嫉妬する」

愛と嫉妬は厳密には区別できない。

嫉妬の対象
1. 自分より高い地位にある人

2. 自分よりも幸福な状態にある人

3. 特殊なものや個性的なものではなく、量的なもの、一般的なもの


つまり嫉妬は平均化を求める傾向がある。

相手を低めようとする。自分を高める建設的な努力をしないで相手を貶めようとするのが平均化。

今もSNS等をみるに日本の社会全体が平均化を求める傾向がある。誰かが幸せになることを許さない、みんな平均化を求めている。

それに対抗するには”個性を認める”こと。自信がないから嫉妬する、他の人のようになりたいと想う。"この自分を認めるということ"から始めるしかない。自分を認めることで他者を認める事が出来る。

自分を変えようとする努力を止めたときに変われている

怒りについて・憎しみについて

世界が人間的に、余りに人間的になったとき必要なのは怒であり、神の怒を知ることである。今日、愛については誰も語っている。誰が怒について真剣に語ろうとするのであるか。切に義人を思う。義人とは何かー怒ることを知れる者である。

今日、怒の倫理的意味ほど多く忘れられているものはない。怒はただ避くべきものであるかのように考えられている。しかしながらもし何者かがあらゆる場合に避くべきであるとすればそれは憎しみであって怒ではない。怒はより深いものである。


腹が立った時に内に篭って憎しみつづけるよりもカラっと怒った方がマシだ

社会の利害関係や不正に対して公憤を覚えるのは必要だ。←戦前の空気に対しての想い

怒り:突発的、純粋性・単純性・精神性、目の前にいる人に対して

憎しみ:習慣的で永続的、自然性(反知性的)、目の前にいない人(アノニム)に対して

怒りには目の前の人への怒りの理由がある感情。しかし憎しみには理由がない。元々の理由は分からず、憎しみを持続するために憎むようになる。憎しみは匿名の相手に向けるもの。ヘイトスピーチなど個人でないものへの反知性的なもの。憎しみから抜けるには知性的であれ。

偽善について

偽善者が恐ろしいのは彼が偽善的であるためであるというよりも彼が意識的な人間であるためである。

偽善者が意識しているのは絶えず他人であり社会。彼らは他者の評価や社会的な評判だけを意識して求められた役割だけを果たそうとする。つまり善悪の価値基準を他人に任せて自分で判断しない=精神のオートマティズム

道徳の社会性というが如きことが力説されるようになって以来いかに多くの偽善者が生じたであろうか。

これが発表されたのは昭和16年8月。数か月後の開戦を前に翼賛体制の重苦しい空気が言論界にも立ち込めていた。

今日どれだけの著作家が表現の恐ろしさをほんとに理解しているか。

偽善者は往々にして権力に阿り、他人をも破滅させる。三木のメッセージは言論人への警鐘だったのかもしれない。

"道徳の社会性"とは個人よりも社会が優先される考え方。個人の幸福を唱えてはいけないという時代背景の中でこの言葉が使われている。

もう一つは倫理が上から押し付けられる時勢を念頭に置いている。一人一人が納得し時に疑問、否定をしないといけないのに道徳の押し付けがされる時代は非常に危険。

異を唱えない人たち=”偽善者”
言わなきゃならないことを言わないことを反省し、自己保身でなく言わなければならないことを言う表現者としての責任を決して忘れてはいけない。

言論者・表現者の責任は”〇〇を言った責任”が意識されがちだが、"言わなかったことも「責任」"

三木が戦争前夜の空気の中でこの本を発表した事。表現の仕方を考え詰めて発表したことは貴い。三木は思想を理由に殺された。

思想や信条を理由に殺されることがつい数十年前に日本で起きたことを我々は忘れてはならない。これから同じことが繰り返されぬために言うべきことを言う勇気を持たなければならない。

三木清『人生論ノート』@100分de名著 第3週 ”孤独”や"虚無"と向き合う
三木清『人生論ノート』@100分de名著 第4週 「死」を見つめて生きる
by wavesll | 2017-04-27 15:02 | 書評 | Trackback | Comments(0)

三木清『人生論ノート』@100分de名著 第1週 真の幸福とは何か

c0002171_10454236.jpg三木清『人生論ノート』(青空文庫)

好きでよく見ているETV「100分de名著」でアドラー研究者で著名な岸見一郎さんの解説により三木清の『人生論ノート』が取り上げられ、大変滋味深く番組を観ました。

三木清氏自体への説明は
哲学者・三木清が『人生論ノート』に至るまで(NHKテキストView)
三木清 人生論ノート(松岡正剛の千夜千冊)
あたりをご覧になっていただいて、ここでは『人生論ノート』は戦争の不穏な暗い時代に三木が「怒」「孤独」「嫉妬」「成功」など私たち誰もがつきあたる問題に、哲学的な視点から光を当てて書かれた一般向けの哲学的エッセイとして書いていたとだけ触れておきましょう。

このエントリでは番組で取り上げられた三木の思想と伊集院などの解釈等を記したいと想います。

幸福について

今日の人間は幸福についてほとんど考えない。(中略)幸福を語ることがすでに何か不道徳なことであるかのように感じられるほど今の世の中は不幸に充ちているのではあるまいか。

国家総動員法の下、個人が幸福を追求することが許されない時代。

幸福の要求が今日の良心として復権されねばならぬ。と三木は説きます。

三木がこれを書いたのは個人より社会を優先しようとするファシズムの下、幸福への要求が抹殺されていた時代。
しかし現代も「自分幸せでーす」みたいなのって言いづらい。同調圧力により個人の幸福が蔑ろにされているという状況は今日にもある。

三木清は逮捕され投獄され、大学を追われ在野の哲学者として『人生論ノート』を書いた。

幸福は徳に反するものでなくむしろ幸福そのものが徳である。
我々は我々の愛する者に対して、自分が幸福であることよりなお以上の善いことを為し得るであろうか。


あの時代、自己犠牲や滅私奉公が徳とされていたので、幸福=徳は危険な思想。しかし自分が幸福であることは"利己主義"ではない。例えば介護について。自分を犠牲にして介護するから徳ではなくそれを全うするから幸福ではなく、自分が幸せでなければ人を幸せにすることすらできない。

成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった

三木は成功は"過程"であり、幸福は"存在"であるといっている。「こういう目標を達成出来たら幸せになれる」というのは成功を求めている。しかし何かを達成出来たら幸せになれるのではなく人はもうこの瞬間に幸せであるという考え方。これが「幸福は存在である」というもの。

必ずしも成功と幸福は繋がっているのではなく、幸福とは各人にとって"オリジナルなもの"。
「絵にかいたような幸せ」と「本当の幸せ」は別。

成功は"量的"なものと三木は言う。そして幸福は”質的”なもの
誰もが真似できないオリジナルな幸福を持っている。それを追究すべきで、誰もが求めそうな幸福を追い求めてはいけない。

幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。

しかし真の幸福は彼はこれを捨て去らないし捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。

この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である。


刹那的な幸福、いつわりの幸福をコートを脱ぐようにためらうことなくいつでも脱ぎすてられる人が本当の幸福なんだと三木は考えている。でもいつわりの幸福は脱ぎすてられるけれども、絶対譲れないものがある。それは”人格・命"である。それが真の幸福。

心筋梗塞で仕事を失い、ベッドの上で逡巡したとき、自分が生きてることが幸福なんだと想えた時に、どんな困難でも耐え抜き生き抜けると岸見さんは想ったという。

"幸福感"と"幸福"は違う。高揚した感じ、情緒的な感じ、感覚的な感じではない。真の幸福は熱狂を醒ますもの。幸福とは"知性"で考えるもの。感性で捉えるものではない。

自分自身の幸福とは何かを考え抜かなければならないし、それを放棄してはいけない。
三木は戦争の末期に投獄され、敗戦しても解放されず、獄死する。しかし彼の言葉は今も活きています。

三木清『人生論ノート』@100分de名著 第2週 自分を苦しめるもの
三木清『人生論ノート』@100分de名著 第3週 ”孤独”や"虚無"と向き合う
三木清『人生論ノート』@100分de名著 第4週 「死」を見つめて生きる
by wavesll | 2017-04-26 21:10 | 書評 | Trackback(1) | Comments(0)

Timket(Ethiopia) & Fatele(Tuvalu)。 地域古来の原文化と西洋の混合聖歌想

Timket Celebration in Ethiopia


エチオピアというとÉthiopiquesシリーズを始めとする、ちょっと演歌にも似た濃さのある爵士の音楽文化があることで知られていますが、かの地で行われるTimkatという宗教祭の映像をみて、これはいいなと感じたのでした。
1月19日を挟んで3日間に渡り開催される、キリストの洗礼を祝う行事です。祭りは数々の教会の十戒を収めた「契約の箱」を象徴する「タボット」を僧侶が持ってくることからスタート。沢山のベルを鳴らし、トランペットを吹き、そして香を焚きながら、聖なる水または小川に近いテントへと運びます。そして祭りの本番となる翌日、豪華な衣裳に実を包んだ司祭や僧侶達は、タボットの周りに集まり水をまき、誓いを新たにします。

その後、タボットが収められていた教会へと帰る間、歌や踊りが続く中で司祭、長老、聖職者などの祝辞が続きます。そして最終日は、エチオピアで一番人気のある大天使「聖ミカエル」に捧げられます。アディスアベバでは町の北東に位置する「ジャン・メダ」に多くのテントが建てられ、2時に行われるミサにランプの火を灯して参加。暁には僧侶達が、近くの川に儀式用の十字架でセットされた蝋燭の火を消します。このお祭りは誰でも見学することができます。(from DTACエチオピア観光情報局)
この時に使われる鈴がエジプトのシストラムのような形状で、基督教とAfricaの文明の混血具合がなんともいえぬ聖性を生み出していると感じました。

その時に想起したのがツバルのFatele.

Fatele Vaitupu-Aku tama ke gali te aso, 2005


Fateleはツバルのミクロネシア文化の舞踊と音楽。ここに西洋からのメロディー等の影響が加わり、一時期西洋の支配者に禁止され、その後サモアの祝祭音楽舞踊が入る形にもなり、現在の形になったとされます。

先月リマに行ったとき、元々の精霊を祭る聖壇が潰され、カテドラルが造られている様がガイドされました。

ガイドさんに「西洋の征服者の建物が世界遺産として保持されているのは正直ペルーの人としてはどんな気持ちを持たれますか?」と聴くと、「リマの人たちは混血が進んでいるから色々あるけれど、地方の先住民の血が濃いところはやっぱり考えが違って」ということ。

ドラッカーもその著書で「世界は肯定的であれ否定的であれ西洋と関わらないと在れない時代になった」というようなことを言っています。我が国でも天皇陛下もスーツを着ているし、一般的な日本人も洋服だったり。アイデンティティ、血・文化の問題は誰もが得心行く姿は難しいもの。

西洋と向き合う形を考えるに、TimkatとFateleの聖歌はクレオール文化としての内発的な西洋の受け容れとして津々と響きました。

日本や韓国、台湾なんかのカフェをみると西洋よりも西洋らしいというか。『天空の城ラピュタ』であったり、Downyの青木裕のソロアルバムにも感じますがAsiaが解釈したEuropeが存在します。

一方でメドヴェージェワ選手のセーラームーンであったり、日本がみたものに更に影響を西洋が受けている時代であるのも面白い。それは日本がジャポニズムやクールジャパンの"海外が見るJPN"に逆に影響を受けたりするのに似ていて。

文化的な影響力の波は勿論移民と言ったような外発的な形もあるけれども、文化の持つ内発を誘発する形で"国際的な共棲"が起きたらいいなと。双方向の共棲の上で地域ごとに特別な色がくっきりと浮かび上がるような。血よりも濃い文明で生きる地球があっても良いかもしれない。TimkatとFateleの神なる響きにそんな祈りを持ってしまいました。
by wavesll | 2017-04-26 18:31 | Sound Gem | Trackback | Comments(0)

初音ミク X 鼓童 Special Live Performance 耳形成

[HD720P] This is NIPPON Premium Theater, Hatsune Miku x Kodo Special Live Performance


音楽の話してて一番困るのが相手がダサい音楽好きな時とかないですか?

二重の意味で言えないというか。相手への気遣いという点もあるのだけれど、自分自身の好みも時と共に変わるし、『今はその音は熱く感じない』位が正確なところ。未来の自分が好きな音楽は今はわからぬものです。

逆に昔は好きだったけど今は…という場合もあり。大体数年前に嵌った辺りが個人的に逆にダサくなるというか。

音楽は変わらなくても生体としての自分が変容するのを実感し、過去・現在・未来の中で「その音楽ダサいっしょ」というのが憚られるというw

この初音ミクも数年前の自分だったら受け付けないものであったと想います。

初音ミクも発表から10年。ボカロ技術もこなれてきたのもあるし、アイドルチューンにも流石に段々慣れてきたのもあるし、EDM&ヴォコーダー耳が出来たというのもあるかもしれないし、洋楽主体に聴くと普通のJPOPよりこれくらいストレンジな方が逆に聴けるのかも。

とまぁ色々言い訳してますがw複雑で江戸エキセントリックな初音ミクチューンに鼓童がオーセンティックな風味を加えていて、私自身は先日NHKBSプレミアムで放送されたこのライヴ、楽しくみれました。

何しろ、音楽は好き嫌いが千差万別で。自分自身の中でも好みは変容することもあるし、音楽好きだからこそ異様に拘り強い人いたり、野球や政治、宗教並に世間話で出すと地雷踏む確率高い気も。

『これ最高っしょ!』『これはダサいよね…』の共通認識がまるで成立しないことが多いから、音楽好きは『他人は他人、自分は自分』という多民族共生に必要なお互いに個人主義を尊重する観念が鍛えられてると想う処。その分同じものが好きだと判明すると歓びもひとしおw
by wavesll | 2017-04-25 19:48 | Sound Gem | Trackback | Comments(0)

SXSWでみたGlockabelleの指の箏爪で弾く鉄琴

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GLOCKABELLE | Lightbox Sessions | TIFF15


BS1スペシャル 「若者よ 世界を驚嘆させよ!大見本市SXSW」をみました。テキサス・オースティンで開かれる音楽や映画、IT技術のフェスティバル。

SXSW(サウス・バイ・サウス・ウエスト)にはJAPAN NITEという日があって、古くはNumbergirlなんかも参加していたのを覚えています。今年はおとぼけビ~バ~というガールズバンドが挑んでいました。

そんな気合の入ったパフォーマンス達の中で”おっ!”っと想ったのがこのGlockabelle。トイキーボードでのパフォーマンスも魅力的でしたが、目を引いたのは指に金属の爪をはめて鉄琴をプレイする姿。インディー・ミュージックに触れると今までみたことのないPLAY STYLEに触れられて嬉しかった。

"Keeping SXSW weird(SXSWは風変わりでいよう)"。Weirdであることを厭わない自由さが眩しかった。刺激を受けました。

また番組後編では日本の学生チームによるITガジェットでの挑戦が描かれていて。こうした他分野のショウケースも巻き込む試みもあってもいいなと。健康音楽なんかも多分野でしたが先進ピジネスと組むのが面白いしクール。

日本でも音楽フェスは飽和状態にあるというか、何かしたらの新味が欲しいと想う人もいるのでは?

こうした見本市とのコラボレーションのケースは"これから新フェス誘致するぞ"という自治体の人にも"何か面白いフェスを興したい"という人にもいい示唆になるなと想いました。
by wavesll | 2017-04-25 07:22 | Sound Gem | Trackback | Comments(0)

世の中プライドばっかり高い馬鹿ばかりだから

North Korean National Anthem - "Aegukka" (KO/EN)


北朝鮮危機に関してかまびすしいここ数日。Web上でも百家争鳴しています。

ここぞとばかりに『日本はもう駄目。こうだから駄目なんだ』と声を上げる人もいたり。
でも“苦くても良薬”って文脈を共にしてない人には通じなくて。リベラルの人が“危機”に実行力を持てないのって結局そこ。プライド高い馬鹿ばかりなんですよ世の中。そこを保守は分かってるから強い。

伝え方が九割というか、適切な礼儀というか。"普段こういう話しても小馬鹿にしてあしらう癖に"とか"きちんと考えず聞く耳持たずリソース割かないからこうなるんだ"とかチクリとやりたい気持ちも勿論分かります。

『日本はもう駄目だ』と言いたくなるくらい経済も学術も下り坂、幼稚な政治etcで、日本を愛すが故に今の日本を憎み見下すのもわかります。

しかし現実に状況を変えていく仲間をつくって実行力を本気で持ちたいなら、日本人は無駄にプライド高い馬鹿ばかり(勿論私も含めて)だから、言い方を工夫しないと自慰行為だとも思うのです。

私も昔、しんどくても働いている社会の先友に『資本主義の豚!』と暴言を吐いて総スカンになったことがあって。あの頃「北朝鮮が東京にミサイルを落としたら日本国民は再軍備に一気に傾く」とか言ってて今じゃ笑えなくなってるのが笑うしかないのですが、自分自身のしくじりをWeb論客の方々に伝えたい気持ちがあります。

日本は国防を合衆国に投げる無責任体質だし、日本人には社会問題、政治課題に関心を払わない癖に自分自身は自分自身の責任を果たしていると信じて疑わない勝手な人もいます。自分がクズだと認識していない。足りていると想っている。

そんな自分の生き方が正しいと無批判に信じているのに一時期は驚愕したものですが、今は己を否定してしまうと鬱の螺旋になって仕事が廻らないと感じますし、「俺らダメだぜ~」でやってくには社会は悪意が多すぎて。批判の矢面に立つにはそれは余りに無防備だと今なら理解できます。みんな自分の仕事で頑張っている、それは尊いです。

一方で人間、自分が理解できることしかその凄さが感じられなくて。そして多くの人は自分自身がスタンダードだと疑わない。社会や政治に関心を払う位の余裕がないほど労働強度が高いこともあるでしょう。

だからこそ、こうやって社会情勢に関心が集まっている時に、嫌味を言わずに度量を魅せると、価値が認められるのになと想います。普段の無理解から怒りがたまってこのチャンスを不意にする人、結構いるけれど。

ま、怒りってのは基本的には甘えですよ。自己追及できてないんだから。とは言え反撃しないといつまでも嫌な思いをさせてくる人間がいるから、自分が弱いと認めて怒ることが大事で。ただ政治的には言い方が9割だったりドブ攫いが大事だったり。

知識ある人達が“どうせ分からない意味がない”と言葉を濁し、素人が“どうせ分からない意味がない”とやっちゃって象牙の塔がWebでの島宇宙になっては残念です。

実際、専門的な世界へ行くといわゆる世の中の"常識"とは異なった理論で動いていて。そこで世間からの無理解にあまりに多くの人が傷ついて、攻撃性を持たざるを得ないようにも感じます。理解者が身近に一人二人いれば大分精神は安寧しそうだけれど。

そういった無理解と批判の応酬を和らげるために、社会の公器であるマスコミが真っ当な仕事をしてくれたらいいですね。コミュ力の権化の芸人でなく、専門家を尊ぶ価値観があればなぁと想います。

とまぁ自分を棚上げにして一席ぶってしまいました(苦笑)シャープにいらんこと言わない方が格好いいんだけどなぁw恥ばっかりかいてきたし、今後も恥の多い人生でのたうち回るのでしょう。こういう時ロック・アティチュードはダサカッコよさ肯定で便利ですねw

Green Day - Minority (Video)

by wavesll | 2017-04-24 21:46 | 私信 | Trackback | Comments(0)

野毛の大道芸にいた青銅の武者

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by wavesll | 2017-04-24 00:40 | 街角 | Trackback | Comments(0)