タグ:コミュニケーション ( 77 ) タグの人気記事

人間の会話の本質とは? 人間ってナンだ?~超AI入門~第一回から

ETV 人間ってナンだ?~超AI入門~を観ました。松尾豊(東京大学大学院工学系研究科・准教授)とチュートリアルの徳井がレギュラーの最新の人工知能の仕組みを解き明かし人間とは何か?考える教養エンタメ。第一回のテーマは「会話」でゲストは『コンビニ人間』で芥川賞を獲た作家の村田紗耶香さん。

現在は会話するロボットが増えましたが、最新の会話ロボットは心理学者ロバート・プルチックによる人間の8つの基本感情
「喜び」「悲しみ」「信頼」「嫌悪」「心配」「驚き」「怒り」「期待」
これらの分類を数値化して人工知能での会話に活かしてるとのこと。

けれど基本的にロボットの会話は「〇〇と入力されたらXXと返信する」というプログラム。

古くは半世紀前に開発されたイライザという対話システムでは基本的にオウム返しでの対応なのに、チャットをしている側は寧ろセラピーを受けるように真情を吐露したそうです。

実際セラピーの人がやっていることも、相手の話を反響させるとおりだとのこと。

現在はどういう発話の時にどういう発話があるかのデータベースが拡充しています。しかし、AIは言葉の”意味”が分かっているわけではなくてパターンを学習し、対話を打ち返しているだけとのこと。

そもそも”本心”がないのも勿論、コトバ一つ一つを”処理”しているだけで、”会話が成立しているように見えるだけ”とのこと。何も理解していなくてもやりとりが成立している、と。

ただ、例えば「疲れた」という言葉を言うと、何故人間は「疲れた」という言葉の意味が分かるのでしょうか。

それは人間は自分自身が「疲れた」状態を体験しているのと、その状態を「疲れた」という言葉で表すと結び付けているから。

しかし、例えば小説家は、自分自身で体験していなくても、詳細な観察と想像力をめぐらして「体験抜き」で物語を書くことがあります。この身体抜きで言葉を紡ぐ作用はAI的であるとも言えます。

今までAIは”表層の概念”は処理できても、”概念が指し示すもの”は理解できませんでした。しかし画像認識が出来る様になって、シンボル・グラウンディング問題(記号接地問題)はいずれ解決されるかもしれないそうです。

しかし、「林檎」や「馬」、「縞」といった画像で認知することができる概念なら簡単ですが、「自由」「勇気」「民主主義」といった抽象概念をどうAIに理解させるか。

例えば「自由」という言葉の定義を「禁止されていないこと」として、インプットされた「一般社会で禁止されていること」でない事とする等、環境とインタラクション(相互作用)することで概念を設定することが現在考えられているそうです。

番組では世界でトップ3に入る人工知能研究者であるフェイスブック人工知能研究所所長ヤン・ルカン氏にインタビューを行いました。

そこで語られた現在進行形のAIの学習方策が「敵対的学習」とか「敵対的ネットワーク」というアイディア。

これは2つのディープラーニング・システムを用意し一つ目の機械が予想したことに対して二つ目の機械が評価を下すというもの。

具体的に話すと、Generator(生成器)のディープ・ラーニング・システムとDiscriminator(識別機)というディープ・ラーニング・システムを用意し、例えばGに「山の画像」を生成させ、Dに「山の写真」と「Gが作った山の画像」のどちらが本物か判別させます。

そして次にD(識別機)が本物だと誤認する様なニセ画像をつくれるG(生成器)をつくる。そしてそれを見分けられるDをつくり、それを騙すGをつくり、これを繰り返しレベルを上げていく。

これは例えば日銀とニセ札犯がお札の偽造のイタチごっこを繰り返し精度を上げていくようなもの。これもそうなのかはちょっとわかりませんが、Alpha Goなんかも、Alpha Go同士で何万回も対戦して人知が及ばない領域へ切磋琢磨したという話を聴いたことがあります。

それによって「自然な会話」が達成された場合、例えばAIは「笑い」を生成できるか。これについては「自然な会話」が達成できた時、「会話のスムーズ度」を100ポイントから20ポイントに変えることで「意外性」を出すことは出来そうだという話です。

しかし「スムーズでない会話」が果たして面白いか。「笑い」を定量的に定義する必要がありそうです。

人間もデータから学習し、周りから影響を受けます。しかし「学習」の一方で「進化由来の本能・感情」がある。普通の人は本能・感情が出てくる一方で、学習した事しか大きく打ち出せない人もいる。

心とはなんでしょう?例えば「男ロボットに女ロボットを好きになる」というプログラムをすることはできる。でもそれは恋愛と言えるでしょうか?自発性がない命じられた恋。

自発性とは言うけれども、恋愛は種を残すために進化の過程で会得した本能ともいえます。色んな感情は進化由来で、食べ物を食べて美味しいのは生存に有効な成分が入っているからで、腐ったものが不味いのは生命に危険だから。

「感情や本能を持っているように見せかけること」は出来るけれども、神のプログラムのような「感情・本能」を人の手でプログラミングするのは相当難しいと。

ここまで聴いて想ったのはモテない男向けに『これで女を落せるデート指南書』みたいなものが出ていたり、もっと一般的に『心理学に基づいた相手を動かす仕草読本』なんかがあったりしますが、これはヒトの本能や”空気”を自然に理解できない人に、後天的に、そしてAI的に人の感情を学習させるメソッドなのかなと。

多くの場合イライラは睡眠不足や栄養不足の結果であったり、男女の間で好きになるかどうかは身体的接触であったり匂いに含まれる化学物質であったり、或いはキスはバクテリアの交換なんて話を聴くと、人間の心は化学反応と身体感覚の結果と言う面も大きいかもしれないと。

ノンバーバルなコミュニケーションが無意識的に作用する一方で、コトバの果たす役割は物凄く大きくて。同じ要望をするにしても言い方によって相手の反応が大きく変わったり。

AIの研究って「人間の理」の解析なのかもしれないと想わされた番組でした。そしてヒトがつくるヒトの写し身である人工知能と、人はコミュニケーションをどう取っていくのか。今まさに発展している分野、興味は尽きません。

この『人間ってナンだ?~超AI入門~』は全12回。第2回は明日の22時から。次回のテーマは「感じる」。

物をつかむ、動かす、目の前の物に反応する…。そんな何気ない行為にこそ人間のスゴイ力が隠れている?「フレーム問題」ってナンだ?考える前に反応する人間の本質って?人間の可能性と限界について感じ、考える要素満載の新感覚AI入門。ゲストは元陸上選手の為末大。

とのこと。もしよければ◎
by wavesll | 2017-10-12 22:29 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

フィクションと現実の『真情と芝居』.

よくアメリカのドラマや映画に出ている役者がインタヴューで「これはフィクションなのだ」とか「現実じゃない」と話すことがあって。クリエーションへの客観的な目線はとても成熟していると感じます。

一方で日本のクリエイターの一部は自分の人生よりも自分の作品を大切にしている印象があります。

日本は"労働"が"労道"になって、犠牲を払うことが尊い、なんて不健全な意識がありますが、承認欲求や自己実現欲はあくまでそれ以前の三大欲求などが満たされた後に欲するもので、自分の人生を大切にして、自分の尊厳をダンピングしてほしくはないと感じます。

オタク的近視眼がクオリティの突き詰めに作用していることは否定しませんし、勝負する範囲の選択と集中を行うことで納得できる戦いを行える点はありますが、人生の在り方は広くて。クリエーションが寧ろ人生を押し潰すと感じたら、今いる狭い界隈だけが世界全てでないと認知することは救いになると思うのです。

私も藝術作品には黙示録的な未来視の意味を感じたり、現実の比喩としてその原型探しをしたり、クリエーションに”真実”を見出そうとしたりすることがあります。

のめり込ませる熱は貴いと想うし、例えば"ROCK"なんかは”真情の叫び”が表現の硬度になっていると感じるのですが、Ametsubの件でもそうですが、クリエーションとしての感性の評価と、アーティストの人としての社会的な評価は独立したものだと近年は感じます。双方大事なベクトルで。

メディアに顕れる世界は、あくまで『Performance』であると共に、実社会の職務での役割なんかも一種の『芝居』でもある。そして、外部からは表現された『芝居/Performance』がその人の社会の中での在り様にみえるし、そして核となる『真情』がないと薄っぺらく見透かされてしまう。

そういった意味でクリエーションに対して客観的な視点を持つと共に、『私としての真情』と『公としてのPerformance』の鬩ぎ合いの中で本音2.0が今求められていると想います。
by wavesll | 2017-09-26 02:36 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

Blogの対価

Webに文章を書くことを表現活動というのはかなり烏滸がましいですが、一種のアウトプット・サーヴィスを行っているものとすれば、ではその”対価”は何だろう?とも思います。

実は私の中でそれは答えが出ていて、”藝仲間”がいること”共に情報を送ってくれること”が対価かなと。

アナクロなWebの住民としてはROM(Read Only Member)には何処か釈然としない思いもあって。鴎庵は特に縛りはないですが、Twitterのフォローは呟きもリアクションもない方は外したりしてます。趣味のアウトプットだからこそ拘れるものだと思うので。

面白い藝を提供してくれる人たちと繋がれるのは嬉しくて。昔は情報発信しない人にけしかけたりとかアレな行為をしていましたが、今は反響営業が主で楽しくやれています。

ただ、こうして好きなことをWebで発信できていると、飲みとか年賀状かの付き合いごとに対する意欲が落ちるところはありますねw

相手からすると「Webで遊ぶのはともかくちゃんと行事には付き合えよ」とか「ネットでなく現実を生きろよ」いう感じかもしれませんが、コミュ欲が情報通信で満たされていると「Webで非同期でコミュニケーションできればプレゼン的に後にも残るし一番よくないか?」とか。「飲みの誘いの前に面白い噺があるかWebで試聴させろよ」とかw不遜だw社会性が無いw

まぁ、忘年会でだけ会うのもナンセンスというか、今の時代コミュニケーションしたいことがあったらWebですぐやりとりできますし、そういった非同期の対話が呼び水となって会った方が形骸化してないかなと。実際、やりとりすると必ず発見がある友には感謝がたえません。

恋人や家族がいて、仕事もあって。中々コミュニケーションにリソースを割けない。それなら年一で一気にやりたいというのも、わからんではないです。だからWebのアウトプットは強いれるものではないと思います。

ただ自分は、未だに何となく普段から場を共有する関係が好きで、ある程度密度のあるコミュニケーションをしたい。

とはいえ余りに濃いコミュニケーションは少数相手では負荷になりますから。直接話すパートナーと言える人達がいれば、したい話をしてもどっかで受け止めてくれる人がいる位の大海にボトルメールが投げられている今の環境はありがたく、”みなに好かれなくてもいい”自由を愉しんでいます。目下の処Twitter社が倒産しなければいいなというのが願いです(苦笑

今思ったのは私が飲み会よりSNSを好むのは、酒や飯を肴にするより、音楽や画、映画や文章など文化的肴をアテに話がしたいというのがより精確な処かもしれません。普段の暮らしの面白話もWebに書いちゃう人間なのでwそういった意味でPCやオーディオでネタを引き出せる家飲みなんかは好きですね。

人のプライヴェートへの関心が薄い、人との折衝を避けるという意味で、"本当の人生を生きてない文化中毒者”という指摘は考慮すべきだとは想います。

これは今に始まったことではなく学生の頃も「このサークル飲みの金でCDや映画を払える…」とかアレなこと想ってた人間でしたから、中々に筋金入りで…。それでも月一で普段合わない人や新しい人との飲みは入れ、新しい血を入れるよう努めている感じです。

cf.
◆人付き合いとWeb同期 文字コミュニケーションの時間的レンジの広さの価値

◆何でも公開したいとみなが思っているとは限らないという当たり前の事実について
by wavesll | 2017-09-25 21:13 | 私信 | Trackback | Comments(0)

藝と支え Ametsub / Mbira Lights 1 EPに寄せて

Ametsub - Mbr / Flurries (Easy)


ametsub - mbr/mbirambient


Ametsub - Ajisai


Ametsubが音楽レーベルflauに空き巣に入ったことで逮捕された件を知り、何ともいえない気持ちになって丑三時までLogを読んでいました。

音楽は魔法を産むけれど、それを支える会社は人間が営む組織で、魔法ではなく労働と資金で動きます。その経営を危うくする程の損害を与えたのは犯罪です。

それでも、Ametsubくらい名の知れた人が窃盗をしなければならないほど貧すれば鈍す、というシビアな事象があったのではないかと想わざるを得ません。

私自身でいえばAmetsubは一度生でライヴをみたことがあり、またレコ屋やWebサイトで当然良く名前を観ていました。

今までは音楽はそこまでは嵌っていなかったのですが、今回の騒動から検索して知った今夏リリースの『Mbira Lights 1 EP』が特筆すべき音楽で、尚更茫然としました。

霊性を帯びて深く響く金属製の楽器の音。そこに珠のように転がるンビラ?の音。山霧の様な通底音と、心地よく刻まれ放たれるビート。素晴らしい。こんな音を創れる人がよりにもよって窃盗とは…。

この事件は、金だけの問題ではないだろうけれども、やはり他者と他者との軋轢は金で解決できる部分は大きいだろうし、YoutubeやSpotifyでフリーライドしている"客"ともいえない者としては「残念だ」とか、とてもじゃないけど言えないというか。それを引き起こしたのは金を払わなかったお前にも一因があるだろうと自問してしまいます。

金を出すのは藝への一番のサポートで。特に今の時代、音源や活字の様な情報に金を出すのはその人の活動への投資といった色合いも大きく感じます。

ただ”アーティストを支える”というのは、大してあるわけではない可処分所得の中で音楽やアート、旅をやっている自分には重荷な所もあって。やはり藝そのものへの対価として藝を認めた人に出来る限り何か貢献したいし、”楽しんでおいて評価するだけ”でフリーライドしてるのは非情な行為だとは自認しておきたい。

中々システム作りが難しいのかもしれないけれど、数百円単位で軽く投げ銭できる仕組みができると一番いいなぁと。Bandcampなんかは結構理想に近い感覚はあります。国内市場で成り立たないならば全球的に広く浅くが理想だなと。いいYoutube動画やサンクラ音源には個々に100円以上は払いたいです。

鋭利な音楽を好む人間には演奏側にも聴取側にも一定の割合で人格破綻者がいて。灰域の美から排除されず、Ametsub氏がカムバックすることを外野として望むばかりです。

cf.
フィクションと現実の『真情と芝居』.

by wavesll | 2017-09-25 07:57 | 私信 | Trackback | Comments(0)

正論を吐いてるつもりがフォースの暗黒面(憎しみ・批難・不満)に堕さないようにする心的スタンス

「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」

 世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、
「世間というのは、君じゃないか」
 という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。

(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

 汝《なんじ》は、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣《あくらつ》、古狸《ふるだぬき》性、妖婆《ようば》性を知れ! などと、さまざまの言葉が胸中に去来したのですが、自分は、ただ顔の汗をハンケチで拭いて、
「冷汗《ひやあせ》、冷汗」
 と言って笑っただけでした。

 けれども、その時以来、自分は、(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。

 そうして、世間というものは、個人ではなかろうかと思いはじめてから、自分は、いままでよりは多少、自分の意志で動く事が出来るようになりました。

ー太宰治『人間失格』

土用の丑の日は、もうダサイことにしようぜ…
人でなしになりきれないニンゲンの意見

と鰻への想いを連呼しているのですが、こんなに土用の丑の日DISをしている人間がいても身近な人間にも鰻を食べた者達が散見されて、嫌な気持ちに苛まれます。

とは言え、俯瞰すればグリーンピースなんかには自分も醒めた視線を向けているし、こうした時に相手を動かしたい側が声高に叫ぶのは合理的な策ではないと想います。

いっくら口酸っぱく言った所で肉親すら動かせないんじゃ…と想いますが、宮崎駿ですら作品の想いが伝わらないと悩み、対象年齢をポニョまで下げていったという逸話を引き合いに、「ロリならぬ次世代にしか未来はないのかもしれぬ」と嗤った方がいいかもなんて想ったり。

まぁ、この状況下で鰻を食べることを煽るメディアや食べちゃう人間は愚鈍というか、無知蒙昧というか、世間や「普通」ならば問題ないという自らの頭で考える知能のない人間だなとは思いますが、と同時に「僕の思い通りにならないなんて嫌だい嫌だい」なんて愚図るのも無様で、「他人は他人、己は己」と峻別するアドラー心理学的な割りきりが必要なのだと想います。他人は所詮他人なんだから。

「社会正義」を成そうとして、寧ろ毒にまみれて嫌われる人を散見します。

「毒を吐く」ヒトは、外部から嫌な気持ちにさせられて体内で生成された「毒」を吐いていて、当人としては致し方のない防御反応なのかもしれません。

しかし毒塗れの人は嫌われてしまう。この非共感メカニズムはアダムスミスも『道徳感情論』に描いています。

黒いヘドロ、フォースの暗黒面に囚われないためには、あくまで"自分は自分が欲することをしている"という観点に立脚するといいと想います。

不愉快なことを「俺はそれは不愉快だ」というのはよくても、そこに「正義」の御旗を掲げると途端に心は不安定になります。「当たり前・普通」が為されないと、黒いヘドロが生成されてしまう。

あくまで「己の欲望」と捉えた方が発散的で、心的バランスを崩さないように想います。それは優しい幻想のない酷な話だけれど、酷(Cool)で実際的なスタンスだと、私は思います。(と書くことで発散する方策w 鰻の資源消費をサステイナブルにしようとする者たちにフォースのご加護のあらんことを。

John Williams Conducts The Main Theme From Star Wars

by wavesll | 2017-07-26 08:05 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

人でなしになりきれないニンゲンの意見

Linkin Park - The Messenger


土用の丑の日DISがまるで社会正義を嘯くいい子ちゃんみたいになっていますが、逆で。

鰻大好きだから持続可能に食いたく、ワシントン条約に引っかかるようになって食えなくなって欲しくないから価格メカニズムや法規制でウナギを守りたい。根底に欲望のない主張は信頼ならないと私は想います。

例えば私は旅行が好きで。特に海外旅行には胸が躍ります。しかし地球温暖化という意味では大陸間を航空機で飛ぶことは排出ガスから大変に悪い行為で。

だからエコロジストを自認する人間が世界を飛び回ってる、なんてのはとんでもない自己矛盾だと想うのですが、私自身も自分の欲望を優先し旅してしまいます。

また、鰻を買わないという行動が消費者として最も大きな意思表示だ、なんて思ったりするのですが、ブラック企業、例えばユニクロではなるだけ買わないようにしていても、大手コンビニなんかは気にせずに利用してしまったり。Amazonもマケプレなんかは利用してしまっています。レインズ系飲食店やアリさんマークの引越社は絶対使わないけど。

陰鬱な哲学者は"全世界で悲惨な暮らしをしている人がいるのに幸福を享受するのは罪だ"というけれど、それは"自然"から求められるところではない、なんてアダム・スミスの論がありますが、他人の気持ちを踏みにじった時、悪く思う気もしながら、どこか権力の快楽を感じたりもするゴミ具合。自身の行為を全部振り返って、自分のことを善人だ、とか、真っ当な人間だなんてとてもじゃないけれど言えません。

キリスト教には原罪なんて言葉がありますが、罪を犯していない人間はいません。

「自分は真っ当な人間だ」なんて言いながら土用の丑の日に嬉々として鰻を食っていたり、意識高い系を自認するのに飛行機を使いまくってる人間には「お前クソ野郎じゃねえか、勘違いするな」と言いたくなります。

かといって自分は悪くないって思ってるヒトの方が悪なのか、自分は悪いよと開き直ってるヒトの方が悪なのか。まぁ両方悪です。

個人的には自分は悪くないと思ってるやつの方が気分悪いけれど、「自分は悪だから、悪の道を突き詰めたっていいんだ、俺は糞野郎なんだから」とやられたらたまらない。

そう考えると、日本人よりも海外の方が犯罪が多いのは、海外は「自分はクズだ(から犯罪して当然だ)」という人間が多くて、日本人の方が(それも勘違いなのだけれど)「自分は真っ当な人間だ」とプライドを持っている人間が多いからかも、なんて思ったりします。

さて、色々とこじらせているアスペ気味の自分は、自分のことを無批判に"真っ当だ"なんて思えません。それどころか、突き詰めて言えば、この世の人間は全員あるく糞袋みたいなものだとすら思ったりします。

それでも。自分は汚点があると認識したうえで、出来る範囲は善き人間であろうとしたい。100%の善人になれなければ100%の悪人になる、なんて0-100の思考ではなくて、勇気ある灰色の姿勢をゆければ、なんて思います。

さて、鰻。

欲望を抑えるのではなく、サステイナブルに消費できる資源を拡大していくことこそがベストな道で。20世紀を乗り越えていくというのは、そういうことなんじゃないかなと想います。

このままではワシントン条約で規制され一気に鰻が食べれなくなるハードランディングになる未来がみえていますし、水産庁が動かないのも大きな要因ですが、お上に任せる豚になるだけでなく、消費者としても自律的に不買行動で示すのが必要だと私は思います。

今はWebを探索すれば代替食品はかなり見つかるのですが、正直代替では状況を変えるのは難しい気がします。"鰻系"で"鰻を越える"のが生まれるのがゲームが決定的に変わる時だと。

さらなる快楽による解決策を模索したくて。たとえば酒は私も大好きで最近金麦が案外行けるじゃないかと思う安舌人間なのですが、ビールを止めるには禁欲ではなくて別の快楽を用意するのが手っ取り早いと想います。

例えば数日飲まないで本を読んだりオーディオで音楽を聴いたときの脳内麻薬を味わったとき「飲まないのも悪くねえな」と想ったことがあります。

蛇の道は蛇。欲望を絶つことで寧ろ快楽が増えるような有機体の神秘を、どっか活かせないかなぁなんて、悟っても善人でもないけれど人でなしにもなり切れない、でも『何も考えずいい塩梅』になれないくらいは色々こじらせてるニンゲンとしては想うのです。まずは土用の丑の日の旬でない鰻は完全スルーから。
by wavesll | 2017-07-25 22:20 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

アダム・スミス著 村井章子+北川知子訳『道徳感情論』ー"もしアダ"が書きたくなる稀代の"いいね論"

c0002171_11153066.jpg
アダム・スミス 著, 山岡 洋一 訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』を読んでから、"次は『道徳感情論』だな"と考えていて。訳の読み易さから日経BP アダム・スミス (著), 村井 章子 , 北川 知子(翻訳) 『道徳感情論』を手に取りました。

「人間というものをどれほど利己的とみなすとしても、なおその生まれ持った性質の中には他の人のことを心に懸けずにはいられない何らかの働きがあり、他人の幸福を目にする快さ以外に何も得るものがなくとも、その人たちの幸福を自分にとってなくてはならないと感じさせる」

"人間は自己利益を追究する生物だ"という『国富論』に対して、"ヒトは共感によって行動する"という『道徳感情論』、実際に読んでみると現代においては極めて優れた"いいね論"であり、『もしもいいねが欲しくてたまらないSNSユーザーがアダム・スミスの『道徳感情論』を読んだら』という二匹目のどじょうを狙いたくなるネタ満載のクラシックでした。

アダム・スミス教授は、確かに"ヒトは共感するもの"と書いているのですが、"何を良しとするか"について極めてシビアな共感の条件を挙げています。

例えば"怒りや悲しみ、憎しみに人は共感するどころか怒っている人に不快感を覚える"だとか、"喜びには比較的共感しやすいがそれは嫉妬心がない場合に限り、大きく儲かったとかよりも些細な喜びが共感を集めやすい"だとか。

中でも心に残ったパンチラインは”隣人が愛せる以上に自分を愛してはならない”。「汝のごとく汝の隣人を愛せよ」から更に進んだ、客観性の極致がこの思想にはありました。

"いいね"をもらうだけでなく、"自分が他者にいいねする"事についてもスミス教授は示唆を与えています。"いいね"を大盤振る舞いしても有難がられず、根拠がきっちり相手も理解できる時に恩賞を与えるのが効果的だと。

ここら辺は私自身は異論もあって。常にポジ出してくれる人は嬉しいし、幸せの閾値を下げると当人もよりHAPPYになるのではと実感から想いました。

アダム・スミスはかなりエスタブリッシュメント寄りな論客で。権力と財力がある人をヒトビトは尊敬するし、そうした貴族が素晴らしい流行を生み出したりする、寧ろ革新勢力は世の中の秩序を乱すことも往々にしてあるし、という論を述べています。

貧乏人が資産家・権力者を目指すのは犠牲にするものが大きすぎる、なんて話は現代社会では馴染まない考えにも感じました。ちょっとスミス教授は保守的にすぎる感もありました。

そして『道徳感情論』の思想の大きな特徴は"『自然』を受け容れる"ということ。
共感の心の行き届く範囲も、遠い地の大災害よりも自分の些細な傷の方が大きく感じるのは自然だと。

陰鬱な哲学者は"全世界で悲惨な暮らしをしている人がいるのに幸福を享受するのは罪だ"というけれど、それは"自然"から求められるところではない、というアダム・スミスの論。

スミスは本書で"自然"を神だとか本能と言った意味で使っていると感じました。神の見えざる手ならぬ"自然の見えざる手"が人間心理を情操していくと。アダムスミスの保守思想は、"神が創ったこの"自然"世界を肯定する"という宗教心から生まれているように想います。

"自然"からすれば、何かの"いいね"を言うことは善だけれども義務ではなく、されなくても文句は言えない。
胸中の第三者の視線に応えることが素晴らしい姿勢で、そこに応えている限り、自分自身を誇れるというスミスの思想は強靭な人間工学だと感じました。

人間工学という意味では、スミスは"美の感性"についても語っています。
人の感性はみなれた慣習や流行に影響を受けるし、一番美を感じるのは、平均値・中庸の美だと。

確かに石原さとみなんか見ていると色んな女性の表情が宿っているというか、イデア的なものに美を感じる仕組みが心にはあるのかも、なんて思いました。

アダム・スミスが"いいね"という人間は思慮深い人間、適切さのある人間、他者には寛容で慈悲深く心動かされ、自分のことには微塵も動揺しない人。

また、自尊心や虚栄心は不快さを他者に感じさせることもあるけれど、多くの人はその人の自己評価以上に敬意は払わないから、卑屈な態度よりかは自尊心や虚栄心のある方が好ましいと述べています。

徳への愛、真の栄誉を得ることは偉大なる目標だとスミスは言います。

最大に"いいね"がされる生き方は称賛や褒められることを欲するのでなく、称賛、褒め、"いいね"に値する人間になることを欲するべきだと。これもまた真理ですね。

この読書では数奇なセレンディピティも感じて。訳者後書きを読むとこの本は『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』を訳した山岡 洋一さんの葬儀時に村井さんが名乗り出で、その遺志を継いで行われたプロジェクトだったとのこと。

日経BPの『国富論』もそうだったのですが、本書も非常に読み易く、こうした志のある翻訳書は日本の宝だなと想いました。

経済学とは価値観の学問だという想いをより強くする、社会哲学の書、堪能しました。
by wavesll | 2017-07-13 19:01 | 書評 | Trackback | Comments(0)

青い座禅、縁は流転する ZAZEN BOYS - MATSURI SESSION 2・26 2004 TOKYO

ZAZEN BOYS - MATSURI SESSION 2・26 2004 TOKYO [Album] [2004]


"おお!コレYoutubeにあんのか!"と想ったのがザゼンボーイズのライヴ盤、MATSURI SESSION。
特にこの青盤は『KIMOCHI』といいエモさ全開で、当時は「ZAZENはスタジオ盤よりライヴ盤の方が断然いいな」と想っていました。

私は高校時代はナンバガを背伸びして聴いてた人間で。それこそ『サッポロ OMOIDE IN MY HEAD 状態』を今は無き横浜モアーズのタワレコで聴いて鳥肌立った辺りから本意気で惚れこんでいって。

そこからするとZAZENのスタジオ盤はナンバガが持っていたエモさが減った気がしたというか。ようやくナンバガを追っかけていた当時の私にはまた精神年齢が高くモードチェンジしていたのだと想います。

それでもLIVEでみると座禅は最高で。そしてこのライヴ盤も、今聴き返すと「向井、青いなー!!!!」と想います。バリアオハルじゃねえかと。

Miles Davis - Kind of Blueに一杯の水 第100回酒と小皿と音楽婚礼Fela Kuti - Zombie X Firestone Union Jack IPA 朱夏は此の道 第101回酒と小皿と音楽婚礼にもしたためたことなのですが、ここ2,3年で自分の中で心身のModeが変わりつつある気がして。

どうにも30を越えた辺りから関係性の中の立ち位置が少しばかり変わりつつあるというか、それまでは<評価される/可愛がられる>立場だったのが<評価する/可愛がる>立場になることもしばしば起きてきたというか。

人の上に立てる器の人間ではないこんな自分に、信頼を寄せ頼って呉れる人ができて。そして自分自身としても、ある程度己を信じられるようにもなって。人間関係が精神年齢を進めると実感しています。

相変わらず浮わついた渡世をしているのはいなめないのですが、旅してる時しか生きてる気がしなかった頃より、詩画音楽というレイヤーで心身を満たせるようになってきている己は、案外好きです。

そして完全に意外だったのは必至でボケを考えてた頃よりある程度シリアス気味にネタをやるようにした方がウケがいいということw

みんながツッコミ目指すと揚げ足取りの地獄みたいな世の中になって、実際に今メディア上の語り口がプロもアマチュアもどんどん性格悪くなって自意識過敏な世になってる気もします。

私個人は人生をネタにかけ道化を演じる若人は俄然応援したいところではあるし、連中は楽してるぜ、同時にあいつらも大変ではあるとも伝えたい。

承認欲求を求めてもいいし、みなに好かれなくてもいいし、全てに肯定的でなくていいというエントリにも書きましたが、Webコミュニケーションを追いかけるだけで可処分時間は足りない現状。

その上、古典の名著、グッドミュージック・アーカイヴ、日々のTV/Radio etcetc、幾らでも楽しませてくれる人たちがいる。

今はそんな気脈が通じるままに、来るもの拒まず去る者追わずと明きらめるのも縁かと想えたのも自分の中では大きな気持ちの変化でした。評価されるのを欲すというより評価する側にもなる変化の一つで。

バンドのMagicは確かに存在するけれども、向井秀徳はとてもいい気脈で縁を引き寄せてきたと想います。このライヴ盤のメンバーからアヒトイナザワもひなっちも抜けていくけれど、座禅は強靭に続いていく。

"ずっとこのBANDが続く"ことは叶わない先に、新しい景色が。

縁は流転するのを悟るのも大人の階段かなんて想う文月の23:49、繰り返される諸行は無常、蘇る性的衝動…。
by wavesll | 2017-07-11 23:49 | Sound Gem | Trackback | Comments(0)

承認欲求を求めてもいいし、みなに好かれなくてもいいし、全てに肯定的でなくていい

pokka pokka / Fishmans


NUMBER GIRL - I don't know (ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2002) LIVE


私は面と向かって相手の気分を害することを言うことが苦手で。その癖Webなんかだと駄々洩れさせたりとかして口ならぬキーボードから災いを招いたりしてしまって。空リプの誤配もあったり、結局陰口ですしね。

また、「分からないこと」が我慢ならなくて。人から何かを薦められたときなんかも、その時魅力が分からなくても”この人が薦めるものなのだから、きっといいものなのだろう”と期待値を込めて肯定的な返答をしたりしてしまいます。

その後魅力が分かった時に「最初は分かってなかったのだけれども魅力が分かった!」と興奮気味に伝えて、「何で最初分からなかったときにそう言わないのか」と言われたことがあって。

"そうか、期待値込みでポジティヴを装うのも、それが期待値で今は分かってないと伝えないと裏切りになるのか"と気づかされました。

そう想って振り返ると、世の人は"わからないこと"には寛容なのだなと。

相手の魅力が分からない内は最強というか、どんなに無礼な発言をしても罪悪感は感じないというか。”そもそも価値がないことを分かっているんだ”というスタンスかもしれません。

寧ろ”価値があるんだ”と力説することの方がみっともないことと想われている節があります。いわゆる「承認欲求叩き」なんかも相手が今ある評価に満足せずに承認をさらに求めることに対するいらだちというか。

ただ、そもそも承認欲求それ自体はマズローの欲求5段階説の中のタームで。ネガティヴな色はありません。

食欲・性欲・睡眠欲の生理的欲求、風雨や危険をしのげる安心な暮らしがしたい安全欲求、集団に属したり仲間を得て孤独から逃れる社会的欲求(帰属欲求)が満たされた人間が、次に求めるのが、他者から認められたい、尊敬されたいという尊厳欲求(承認欲求)です。

私も昔はコミュニケーション欲とでもいうか、分解すれば社会的欲求と承認欲求が欲しくて欲しくてクレクレ乞食な無様なこともやってしまって。Blogやmixiにコメントが付かないのに悩んだ時期もありました。

ただそれは狭い村社会に属していたから起きた問題で。Webの公海に出て、Twitterなんかで800人弱の人をフォローして、十数人の方々と良くやり取りをして、そこそこの頻度でいいねなんかが来て、たまに返信コメントが付いたりするとそれで結構満足する自分を発見します。

逆にこのTweetなんか830RTされて1500いいねとかされているんですが、正直言うと通知がひっきりなしに来る感覚で。数字だけだと自分の器では体感を越えているし、寧ろ体感するくらいのリアクションが来たら対応できないと。普通のTweetで3, 4いいねがつくくらいが一番いいというか。

ひとりの人間が親しくつながっていられる最大数は50人から150人程度だという説もありますが、現在のリアルとオンラインのコミュニケーション量で、社会欲求も承認欲求も飽和に近いなと。

そういった意味で、今は"他人にウケることを目的にしているではなく自分が読みたいことを書くためにWebをやってる"、なんてマズローでいえば自己実現欲めいたことを言えるのですが、これも4段階まで満たされたから言えることで。他者からの評価を得るために頑張るって至極真っ当な動機だと想います。

だいぶ話がそれました。元に戻すと、"わからない人間"を相手にするときは相当骨が折れるのが常だと覚悟するか、そもそものターゲットを絞るのが、生業にし数字を求めないなら有効な方策ということ。

”分かっている人相手”でも相当な人数が存在するし、可処分時間でコミュニケーションに割ける分なんかそれで埋まるのが、私は実際の処です。

また、"わからないコトはわからない/わかってはいない”と言うのが誠実だと。

昔の私は傲慢で、身近な人のいうことは何でも理解できて適切に面白さをこちらは判断できるのに周りはこちらの感性を理解しえないことが多いと驕っていました。

しかし、Webの大海に出て、自分自身が大切にしている分野でも先達はいくらでもいて、前は理解できなかったものでも時を経ると良さがわかることを知って。一方で自分自身の理解にも限界があることも知って。

面白く感じていないモノを、わざわざ声高に貶す必要はないけれど、おべんちゃらを無理に言うのも不誠実なのだと今は感じています。無知の知を知った上で、誠実に発言することの大事さを知りました。

こういうサイトを結構な頻度で更新したいと思うとついネタに妥協というか、本心でない褒めをやってしまいそうになります。

でも、金を得ているわけでもないインディーメディアなのだから、本当に書きたいものだけを書くことこそがレゾンデートルだよなと。昔の仲間には"どうせ分からないからぬるいことを言っておけばいい"と考えていましたが、自分で推すものは、誠の心をもって今は発言したいです。

それで読まれなかった時でも"これ読まないなんてもったいないことしてるなぁ"と想える水準を出すのが理想だと。

社会的欲求と承認欲求が満たされたから、自己実現を目指せる。案外私の欲求の器は無尽蔵でもありませんでした。

もしかしたらその先に、マズローが晩年、5段階の欲求階層の上に、さらにもう一つの段階があると唱えた「自己超越」という段階へ行ける時もあるのかもしれません。

”「目的の遂行・達成『だけ』を純粋に求める」という領域で、見返りも求めずエゴもなく、自我を忘れてただ目的のみに没頭し、何かの課題や使命、職業や大切な仕事に貢献している状態”。なんだか読み切りの『ZETMAN』みたいな話ですね。

スピッツ / チェリー

by wavesll | 2017-07-06 23:19 | 私信 | Trackback | Comments(0)

アドルフ・ヴェルフリ展@東京ステーションギャラリーにみる暗部と光辺

c0002171_2361164.jpg

B'z「LOVE PHANTOM」Live Gym PLEASURE95


Lostprophets - Rooftops (A Liberation Broadcast)


アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国展を東京ステーションギャラリーにみに行きました。

初見ではその禍々しさに心理主義とは想いながらも、”この人は相当鬱屈した状態で描いたのでは?それにしてもこの絵、誰にも似ていない、敢えて言うならば綿密に描き込まれた小学生のノートの落書きだ…タペストリーや聖堂的な文様構造体が絵に落とし込まれている…みているだけで鬱の気持ちに巻き込まれてしまうようだ…”と想っていました。

精神病院に入れられ、治療の一環として絵を描き始めたヴェルフリ。彼の妄想の世界は幾つかの物語を産み、「聖アドルフ巨大創造物」を作り地球の土地を買い上げ近代化させるという話では彼は聖アドルフII世として世に君臨しました。

そして明かされる真実、幼くして母と父を亡くし、貧困の中で育った彼が精神病院へ入れられたのは、何度かの女性との交際と破局の後で、14才、7才、3才半の少女を強姦したことからでした。「作品と作家は別」と言われても、これは…というレベル。

と、同時にどうしても"あぁ、この画家はどうしようもない疎外感の中で、『俺を理解してくれ、俺を理解してくれ』と尽きることのない思考の海沼に生涯沈み続けたのではないか…"とも思ったのでした。

己と他者を区別できない幼稚さ、他人が気分を害することを平気でやってしまう押し付け、相手のことに究極的には敬意を払わない甘え、精神年齢の低さと対照的な煮えたぎるリビドー。

私自身が昔、周りの人間から愛想をつかされた頃、そんな状態に陥っていたなと。その頃は半ば精神が過剰になりすぎて、出雲において超常現象の妄幻を旅したりした、危うい時期がありました。

この頃の記述は私にとっては黒歴史なのですが、先日記事を整理したときに眺めると、自分自身のことながら「こいつ薬でもやってるんじゃないか」という精神の異常な火花が異形を顕わしていて、ちょっとした見ものではありました。

ただ、それ以上にショックだったのは、大学の頃の自分の書いたものが何にも面白くないものが多くて…。当時は"なんで内容があるのに評価されないんだ"と想っていたものですが、引用している歌詞・音楽を抜くとスッカスカで。剽窃を消したら、血肉になっていない等身大の自分の小ささを認識せざるを得ませんでした。

10年経つと自分自身も他人になるのか、他人の視点で私自身の文章を眺めると、"これでは伝わらないな…"と想ったものでした。音楽に酔って、そのカオスのままゲロったような文章、しかも自力で考え出したものでもない…それでは評価のしようもないなと。

と、同時に私自身も周りの人間をどこか見下していたというか、"全然面白くない、もっと刺激のあることを書かないと伝わらない"と想いながら”普通”に"つき合ってやっていた意識"があって、”こちらは理解されない”犠牲感が精神を削っていたところもあったように思います。

今、己の興味の小ささを認識できるのは、あの頃よりも少しは自分の脚で立って、興味が広がり、身体性を得たからかもしれません。同時に今興味のないものは興味がないと付き合わない強かさも学びました。

昔は自分のことを読解力と需要の幅が広い、面白さを拾う能力が高いと想っていて、周りの人間は受容体が狭い上、閾値が高い。なんて思っていたのですが、とんだ井の中の蛙。分からないものはわんさかあると認識し「分からないと罪悪感も感じない」と知ると、周囲に無駄に期待しなくなるし、同時に寛容になれます。

同じ目線を共有することも出来るパートナーや他山の石となる自分と似た失敗してる人、自分が理解できない才気あふれる若者、尊敬できる先達との交わり、そして己の未熟さを認識できたのは僥倖という他ありません。

そしてあの頃世界を飲み込むかの如く欲望していた愛情と共感は、案外少量でも十分満たされることを知って。この6年は、幽界から身体を生成してきた時季だったのではないか、俺はヴェルフリには良い意味でも悪い意味でもならず、世界の片隅に庵を持てたのだなと想ったのでした。

そうして2周目の観覧をしました。すると、初見ではカオスの複雑性に噎せかえりみえずらかったヴェルフリの"新しいカタチを生み出す能力、色彩感覚、そして画面構成の妙"といった才を視ることができました。

『グニッペ(折りたたみナイフ)の主題』のシダのような造形。『ニーツォルン=ヴェスト〔西〕トラクター=トンネル=ハル〔響き〕』の小学生さ。『チンパンジー=ツォルン〔怒り〕=タール〔谷〕』『グランド=ホテル, ソルト=レイク=シティ』『氷湖の=ハル〔響き〕, 巨大=都市』『事故=転落, ドゥフィ, =27,386フィートの深さ, ローゼン〔バラ〕=ツォルン〔怒り〕=南壁にて. 北=西=インド, アジア. "35頁" 』の大聖堂のイコンやタペストリーのような聖性。

『ネゲルハル〔黒人の響き〕』の道路・山・楽譜・円・螺旋のデザイン構成、『南=ロンドン』の都市形成性・新しい紋様、『北=アマゾンの大聖堂=ヘルヴェチア〔スイスの擬人像〕=ハル〔響き〕』のシステムとして動いている世界の機械性、『アリバイ』の尽きることのない思考によって描かれ続ける色彩とシステム。『利子計算=最終, 1912年6月1日, 11頁』などといった現実と数字のある作品も。

『林務官の=家, ヴィラディンク, 大-大=ガイザッハ〔ヤギ農園〕=チャッハ, 聖アドルフ=森:帝=国, 中国:アージア』のカオスに酔い『ぶどう酒. フェニン. オリアンダー〔セイヨウキョウチクトウ〕. カロリナ=ケラー〔貯蔵庫〕:精神疾患患者の=施設 』にもシステムを。『神聖なる医大にして=父なる=神の=天使ヴィドンナ』には小学生を。『巨大な=都市, 聖アドルフの=ハル〔響き〕』にはシンプルを。『クリノリン, ギーガー=リナ. 糸つむぎ=リナ. 安楽椅子=リナ. おとぎ話=安楽椅子=リナ. 大=大=女神』にはノートの落書きの至高を。

『象による取るに足らない私の救済』にこの人の色の感覚は矢張り凄いなと。『パリの=美術=展覧会にて』『ロング・アイランドの実験室』ではコラージュも。美術的技術を補うのにコラージュは使われたのかな?『アーレ川沿いの聖アンナの=家の中にいる神聖なる聖アドルフ:ベルン』の水色黒と『気高き伯爵夫人, タマレナ・フォン・ティーガー〔虎〕=ヴァント〔壁〕』の緑黒の清冽な美しさ。『全能なるガラスの=響き』の凝縮さ。『小鳥=揺りかご. 田舎の=警察官. 聖アドルフII世. , 1866年, 不幸な災=難』のカラフルさ、『テーディ:東スイスの:氷河. 標高1,986,000時間, 聖アドルフ, 運搬人, ベルン』の寓話性。

『オイメスの死. 事故.』にみる想念、『父なる=神=聖アドルフの=ハープ』の流水的、『フリードリッヒ大王の揺りかごの側で』の構成力、『テクラ-真珠』のキレイ、『聖アドルフ=墓=泉=城』をみるとこの人はコラージュも良いけどやっぱりこの人自身の鉛筆・色鉛筆がいい、と。『偉大な東の=海にある聖アドルフの=船』の曼殊沙華、『芸者-お茶と小笛〔小煙管〕』なんて写真に色付けも。

遺作となった『葬送行進曲』1929-30シリーズでは『無題(キャンベル・トマト・スープ)』『無題(エスキモー/潜水夫)』『無題(フーバー〔掃除機のブランド名〕)』『無題(恐竜)』『無題(円形の中のアジア人)』と、大分憑き物が落ちてきた気がしました。

やはり1917年あたりの『聖アドルフ=リング, 全能なる, =巨大な=汽船』あたりが一番脂がのっていた狂い具合な気がしました。

アウトサイダーアートというと、原美術館でみたヘンリー・ダーガーの透明な狂気が印象深いですが、ヴェルフリの文字で埋め尽くされたカオスの複雑系には、ヴェルフリ自身の心理をさぐるというより、私の暗部を抉り出される思いをしました。今みれたのは良い機会でした。

東京ステーションギャラリー自体も昔のままのレンガがみれる場もあり、良かったです。日曜迄。特殊な体験が味わえると想います。
by wavesll | 2017-06-17 04:05 | 展覧会 | Trackback | Comments(0)