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3.11から6年 刹那と継続

波よせて(石垣島、米原)


【小沢健二】流動体について (TV-LIVE)


3.11の時。一番苛烈な心情だった頃。

その時私は死が近かった心持から"お前らも漸く死を近くに感じたか"とかの呪いの気持ちと、"生き延びたことを先ずは気付かねばなるまい"という動転からSNSで東京の人々に向けて惨いことを口走っていました。

間接的な暴挙ではありますが、そこに被災者の方々への思い遣りはなく、我欲のみでした。

3.11で"普通の有り難み"に気づいた方々は多かったことでしょう。一方で、今も自殺者は2万人/年を超え、毎年3.11以上の厄災が起きていることは"普通の人々"からは"最終的には自己責任だし、仕方ないこと"とされる。結局”自分事”でないことは"他人事"、そんな"普通の人々"への恨みだったと今は想います。

誰しも"自分自身の視線"がスタンダード、デフォルトであって。"人生の重み"なんてのは自分で計ればいいことで他人に押し付けるものでは、ないですね。

あの時の自分は今平静から振り返ると惨いものがありました。音楽で安楽を伝えようとしてSNSで『波よせて』を薦めたり。津波があったばかりなのに。

時を経て今は"普通の人が普通の人生を成り立たせるためにどれだけ努力と研鑽をしているか"が身に沁みます。

"普通の人の無関心の冷酷さ"も認識した6、7年前。今は自分自身の未熟さや甘ったれさを認識すると共に、ただ大声で叫ぶだけでは逆効果、ということも振り返れば理解できます。

アダム・スミスも”施しは度を超えない”と書いていました。端的に言えば愛と尊厳が足りているからこそ、他者へ慈しみを持てるし、度を越えた慈愛の施しは寧ろ虚栄心から来て、犠牲感の無理を産むものなのかもしれません。

情報は幾らでも増殖しインフレーションを起こしますが、結果として身体性を伴わない虚像を産む恐れがあるのかもしれない、そしてそれは『西瓜糖の日々』のインボイル達のようにカタストロフへ繋がっていくのかもしれない…。

音楽や言葉は認知に働きかけるけれども、その魔法の前提、ファンダメンタルに関わる"世を成り立たせる仕事"もまた貴い。魔法を上滑りさせずに実体化するには、刹那の継続、身体性が必要なのかもしれない、朱夏に入りそんなことを想うようになりました。

そうした時に、小沢健二の新譜『流動体について』が心に浮上して。

最初聴いたときは焼き直しというか、“毎日の環境学の先がこれ?”と想ったのですがリリースから数日経って、不意に口ずさんでしまうメロディと“もしも過ちに気がつくことがなかったのなら”とリブートを示す歌詞に、王子さまではなくなったかも知らないけれど生身の人間等身大の身体性を感じて。

藝能の現場でサヴァイヴしていくには激烈なI/Oをやり抜かねばなりません。
その一種狂気を孕んだShowをMust Go Onして行く螺旋から降りて。サンプリングや引用といった自分以上の拡大から距離を離れて、その上で今『流動体について』に"再到達"したことが心に沁みたのです。

閑話休題。最近みた夢で、私はブログの記事について電話で釈明していました。その記事は書く書く言ってまるで書かなかった記事で。

高倉健を題材に“過ちを犯した後で、贖罪するにはどうすれば良いか”を書く予定のもの。どこかで刑務所から戻って来て、その罪の意識を背負った上で生きざるを得ない幸せの黄色いハンカチの高倉健は、侵略戦争の罪を負った上で国際社会で生きていかざるを得ない戦後日本のメタファだと聴いたのが深層意識に残っていたのだと想います。

私は結局、真に謝らずに筋通さずに生きてきてしまいました。

率直に謝る前段階の"過ちがあった"と認めるだけの事にこんなにも長い時間が掛かってしまいました。ただ、軽薄な謝罪の言葉よりも、自分は不遜だったと本心で認める方が私にとっては本質的なことでした。

色々な場所で失態を重ね、鬼門が増えてきた私にとっては世界の広さは救いでもあります。そして、そのひ弱さは邪悪ですらある、と今は想います。

過去は変えられないし、もう交わることもなくそれぞれの人生が伸びて行く事もあると想います。自分の身体で生活を営むだけでもタフな行為だし、博愛と虚栄は峻別しなければなりません。

摩擦や衝突に無理に身を突っ込むこともないだろうと想います。寧ろ相手に迷惑になることもあるだろうと想います。

その上で、今の自分で手が届く範囲には、一人の個人としてキャパを知った上で援けが出来る時していければ。"意識高い系"は要は"口だけ"だと想うので"刹那と継続の行為"で成していくことを積み重ねていきたい。些細なことから。

そして、言葉を積み重ねる事。言葉は言葉でしかないけれど、言葉。

一つ一つは紙のような薄さ/軽さでも、刹那を積み重ねて継続することで、情報は厚みと言う身体を、そして投下された正の時間分の重みを持つのだと想います。

結局のところ己は己の悩みしか負えません。他者と本気で向き合いたければ究極的には当事者となるしかないし、そうでないと薄っぺらになる。何かに真剣に向き合おうとするならば、時をかけて"自分事"にする他ありません。

起点はいつでもある。実は自身が権益や関係を持っていたり当事者性があることに気づくことだってあると想います。

無論、内部の"お約束"を無視した黒船的提案がさくっと盲点をついてケミストリーやパラダイムシフトを起こすこともあります。

しかし化学反応を起こす原料を作るのは時の積み重ね、技の積み重ねではないかなぁと今は想うのです。未開拓な道を示すのは素晴らしいけれど、言葉は仮想で。アイディアだけの空論と言われないためには身体を伴った行為、或いは実験、せめてアルゴリズムまで示す必要があると想います。

そして行為を為したらその結果を虚心坦懐に受け止めていく。文を認めることで澱と火と仁を浄めて。平成が終わりかけていくときに、私自身も何かの変容が来ていると感じます。幸運か、不運か。スロウスピードながら。

cf.
本音2.0

by wavesll | 2017-03-11 12:08 | 小噺 | Comments(0)

批判の速度、身体の速度 リトアニアの徴兵制復活から見る"実際的"な速度

Kryžių kalnas / Góra Krzyży / Hill of Crosses HD

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NHKBS1 「激動の世界をゆく▽バルト三国ロシアとヨーロッパのはざま/小国アイデンティティー」にてリトアニアで徴兵制が復活したことが報じられていました。

バルト三国の市内にはナチスやソビエトによる抑圧時代の遺構も数多く、市民は再びクリミアで暴威を振るったプーチンを警戒。リトアニアの国旗の赤は、祖国を護るために流した血の色。

「自分達で守ろうとしない国を他の国が守ってくれるはずがないでしょう」。リトアニアの若者の切実な言葉を聴きました。
学校では緊急事態の際の訓練が行われ、コンピューターが無作為に選ぶ形で行われている徴兵は今は志願兵で足りているそうです。

日本だと、軍事の話をしようとするだけでも「軍靴の足音だ」と批判の声が上がったり、沖縄の米軍基地は憎まれる存在。

戦争は悲劇。平和を愛すること、暴力を忌避することを肯定したい。と同時に己の身を守るために武力を持たず、米国に軍事をアウトソーシングしまるで児童のように依存しているが故、属国的な振る舞いに甘んじる母国。

悲嘆は対症療法で。根本治療は祈りでなく、現実を考える細部の積み重ねの智慧と行動から発露するもの。理想を体現するのは個別具体的な仕事で、それについて検討することすら忌避しては何も解決しないのではとも想います。

ただ勿論、軍の無法図な肥大や軍産複合体の形成ははっきりと悪で。割れ窓理論を認識しながらも"必要な質と量"に関する議論がなされるべきで、敵愾心を煽り恐怖で支配しない"武の道"を修めることが必要なのかもしれません。

ちょっと想うのが、政治って何が何でも批判され目の敵にされているというか、"政治を褒めるメディア"はないかということ。

マスコミをみていたら日本の政治家や官僚が無能にしか見えません。単に褒めるというより数字と事実で内外と比較して是々非々で評価すべきで。

政治は交渉と妥協だから切り捨てられた声をメディアが取り上げる意義はわかるけれども、「このメディアは批判しかしない」という色眼鏡をかけられたら批判への信頼も落ちるのではと想います。

イデオロギーに堕するから反知性主義がバックラッシュとして起きてしまう。"己が正義の側にいる時"こそ自問自答すべきで。

批判のための批判になり"完璧"を目指そうとすると無理が来る。無理が来てはリベラルの好きな"道理"も引っ込んでしまうのではないでしょうか。

言葉はヴァーチャルな存在でもあり、情報はめくるめくほどにつくりだせ消費されるものですが、現実を動かすのは人間の身体です。

言論人とかメディア、企業経営層が精神論を魔法のように、根性を無限の資源のように、無放図なサーヴィス負荷を是とし、身体性・メカニズムを考えないプログラムが苦難を生む癌なのでは。

身体を変えることは時間がかかります。すぐに結果が出ない、或いはドラスティックに変えようとするとRIZAPが脳卒中を引き起こすように惨い破壊が起きてしまう。これはトランプとも相似です。

身体を動かさない、現場に密着しない言説は今そっぽを向かれつつあると想います。Webで素人が幾らでも流せますから。プロの言説はドキュメンタリー的でないと価値を失うのではないか、そう思います。

その意味で心と脳の白熱教室でオックスフォードのエレーヌ・フォックス教授が言っていた悲観脳を楽観脳に変える方法は身体的な行動に落とし込まれていて、精神論に嵌らずに良かった。"心"すら個別具体的な行動の積み重ねであると。

じっくり、徐々に。日々微かにしか変化していないかも知れないけれども、日が伸びていくのを感じる視座の様に、中長期的な視野を持てれば上向くこともある、そんな気がする立春の夕です。

そしてそれは、政治家や言論人が"あの時何を語っていたか"を覚えておき、喉元過ぎればと言いっ放しを許さないプレッシャーを与える事だと想います。身体的な言論、これが社会の礎になるのではないか、そう想うのです。

吉井和哉 - トブヨウニ(YOSHII BUDOKAN 2007)


cf. マスメディアのハレとケ。/TVのバラエティを叩くより報道検証企画を求めたい。
by wavesll | 2017-02-04 17:17 | 小噺 | Comments(0)

暁闇の青光にMiles Davis - In a Silent Way

Miles Davis - In a Silent Way - 1969


アルコールで前頭葉が少し痛みを覚えながら、意識が切れるまでTVを流していた3:47。ディスプレイの平面のに映るRealが虚構に感じるのは眠気の泥にまみれているからか。

ニュースで看護師になって8ヶ月で自殺した女性が報じられていた。

なりたかった職について、そのRealを回す労働疲労の重みが心を蝕んだのか。自分がなりたかった仕事だから、頑張って、頑張って、全然足りない自分が嫌いになって、鬱になってしまう若者の躯。

健康に属している内は鬱の事など七面倒な陰気話で、鬱だった俺も離れれば忘れてしまう。

精神が疾患を起こし、平衡を失った時、仮想と実在は限りなく一体になって。己の生の重みが一夜の夢と等しくなってしまう。

平衡を失った明け方。つい今しがたの出来事と、死にたくなるような過去の醜聞が同時に想起していた頃を思い出す。世の中を呪い、それ以上に自分自身を殺したくてならなかったあの頃。

生き永らえて。生き永らえてしまえば世の中の温かみに感謝する余裕が出てくる。人間、一番度量が試されるのは損切りで、精神が切羽詰まっては諦める事すらできない。

みずみずしいジャズが鳴っている。
hr-Sinfonieorchester X Francesco Tristano X Moritz von Oswaldを聴いた時も想ったけれども、時を越える藝術はみずみずしい。"再生"とはよく言ったものだ。じきに太陽が宙へ昇るように何度でも"再生"を繰り返せる。

エレーヌ・フォックス教授は認識が蛋白質を形成すると述べた。脳神経すら半ば精神で出来ているならば、心身は半ば以上エーテルなのかもしれぬ。

姿を持たぬ心は、姿を持たぬ芸術である音楽に共鳴するなら、心は何度も再生するかもしれぬ。

サステイナブルな営為になるには再生と消耗を整えること。再生には時がかかる。必要なのは闇の中で生き永らえる兵站。

淡々と心の行を積むことを具体的行動に落とし込み継続維持できれば、閾値まで達せれば。春立ちぬやもしれぬ。

寂かな道でそう考えた。
by wavesll | 2017-02-04 04:15 | Sound Gem | Comments(0)

心と脳の白熱教室から感じた心のアクセルとブレーキ。悲観脳の出来かた。楽観脳のつくりかた。

もうずっと前に録画していた『心と脳の白熱教室』をみました。
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番組概要によると
自分はどうして、こんなに後ろ向きの性格なのだろう、そして、あいつはなぜあんなに楽観的なのだろう、自分の性格について思い悩み、どうしたら、もっと人生を有意義に生きることができるか、それは、古今東西の人類の永遠のテーマである。

オックスフォード大学・感情神経科学センターのエレーヌ・フォックス教授は、認知心理学、神経科学、遺伝学を組み合わせた独自の研究で、セロトニン運搬遺伝子と楽観性との関連を指摘する学説を発表し、一大センセーションを巻き起こした。

今回、同僚で私生活のパートナーでもあるケヴィン・ダットン博士とともに、最新科学で人類の永遠のテーマである性格の悩みを解き明かすとともに、実践的な性格改造に挑む特別授業を紹介する。
とのこと。

特にフォックス教授の『楽観脳・悲観脳』の話が非常に面白く"この内容を纏めたらBlogのネタになるぞ"と想ったのでした。

しかし再放送されるくらい反響があったこともあり、既に纏められている方がかなりいられまして。

例えば敏腕ビジネスマンなら押さえておきたいテレビ情報さん

心と脳の白熱教室|第1回楽観脳と悲観脳
心と脳の白熱教室|第2回本当の楽観主義とは
心と脳の白熱教室|第3回あなたの中のサイコパス
心と脳の白熱教室|第4回あなたの性格は変えられる

こんな感じで内容が詳細にスナップされているので、この記事では私がおっと想った所をノートした後コメントやらなんやらしていけたらなと想います。

I. 楽観脳(サニー・ブレイン)
・ポジティブで楽観的な考えに心を向かわせる脳の回路のこと
・側坐核(歓びや快楽を司る脳の領域)の働きが強い

II. 悲観脳(レイニー・ブレイン)
・ネガティブで悲観的な心の動きを生む脳の回路のこと
・扁桃体(危険を察知し恐怖のシグナルを発する脳の部位)の働きが強い

III. 認知バイアス
・自分の思い込みや願望、恐怖心のために論理的な判断を下せなくなる心理パターン。この繰り返しで我々は脳を楽観的or悲観的に調整している

・認知バイアスの種類は

1)帰属の誤り:物事の原因を"自分に問題があった"とするか、"他者/社会/世界に問題があった"と考えるか

2)注意のバイアス:ネガティヴな事の反応速度とポジティヴな事への反応速度の差

3)解釈のバイアス:"あいまいな事"への解釈 ex. ”これしかorこんなに”

4)記憶のバイアス:日常的な些細なことに関し、楽しいことばかり覚えているか、悪いことばかり覚えているか

・トラウマから悲観的な考えを持った人の認知バイアスを修正するにはネガティヴな考えを疑問視するのが変えるきっかけとして有用。

ex. 日記などで記録しておくと、後で読み返したときに選択的記憶バイアスがあったことに気づける。

IV. 恐怖のシステム(扁桃体)も快楽のシステム(側坐核)も脳には重要

・根本的な恐怖のシステムの方が快楽のシステムの方が強いシステム。

・脳の働きもあり、ネガティヴなニュースが頒布され、更に否定的なバイアスがかかってしまう。

・扁桃体が傷つくと恐れの感情がなくなったり、他者を妄信したりして危うい。

・適度な悲観主義が生きる上では必要。

V. 認知バイアスへの対処

・物事の解釈で状況の捉え方が違ってくる
ex.ウッディ・アレン『アニー・ホール』の"も or しか"

・根深い自分への負のイメージを解消するにはバイアスだと認識させること、そして事実だとしても些細なことを認識させることが有用。

VI. 幸福感をつくるもの

・安心感&愛情

・信頼でき、自分を認めて支えてくれる大人が(親でなくても)一人いることで、辛い状況でも子どもは楽観脳になれる

・金銭面の安心感は一定量では意味があるけれども、余分な富があっても他人と比較し幸福度が低下する
cf. 「お金はあればあるほど幸せ」か? 富・所得と幸福度の関係

・他人の夢や他人が望むことに付き合うのではなく、自分が本当に何がしたいかを自問し社会からの圧に屈せずに本当にやりたいことをやるのが大事。

ex. マイケル・J・フォックスの遺伝子的には中庸でも強い楽観主義

VII. 殆どの人間は鬱でも万事順調でもなくどっちつかずの"ぱっとしない状態"

・"ぱっとしない"から”万事順調”になるには

1) 非常に高いレベルで訓練を積んでいる忍耐力が強い人に真似ぶ

2) 友人や家族と一緒にいること、良い社会的つながりがあること

3) 具体的な目標を持っていること。それを達成するのが困難でも、何かしらの行動をとって挑戦すること(その為に(1)が大事)

VIII. 物事が困難な状況になったときに立ち直れる「心の回復力」を持つことが大事

・悪条件でも上手く対応できる人は感情をコントロールする術を熟知している

・ 「心の回復力」が高い人はポジティヴもネガティヴも関係なく経験してきた情緒的出来事が多い

IX. 楽観的な人に共通するのは"現実的な楽観主義"であること

・困難な現実に直面しても”物事はいつか好転する”と長期的な視点を持てる人が"健全な楽観主義者"

・楽観主義と少しの悲観主義が必要

X. 楽観主義とは単なるポジティヴ思考ではない。その要素は

1. ポジティヴな思考
2. ポジティヴな行動
3. 根気と粘り強さ
4. 自分の人生をコントロールしている感覚

・ポジティヴな思考よりポジティヴな行動が大事

・楽観度が高い人はすぐに諦めない。現実のビジネスで重要になるのはこの"粘り強さ"。

ex. エジソンの「我々は失敗したのではない、ただ上手くいかない1万通りの方法を見つけただけだ」

・自分の運命をコントロールできるという感覚が幻想であっても大いに力となり有益になってくれる

・修道女の医療記録調査では楽観的な人は悲観的な人より寿命が十年長く、健康的

・フィンランドで行われた5千人の調査では、深刻な人生の出来事がない時は楽観主義者の人と悲観主義の人で欠勤日数の差はなかった。
しかし深刻な出来事があった場合、楽観主義者の方が悲観主義の人より欠勤日数が少なく、打たれ強い。

XI. 楽観脳か悲観脳は遺伝子と環境の相互作用によって発現する
・遺伝子はたんぱく質をつくり、それが脳に楽観脳の回路や悲観脳の回路をつくる

・脳内で感情の安定を図るセロトニンの運搬遺伝子には長いタイプと短いタイプがあり、長い型はポジティヴな傾向、短い型はネガティヴな傾向がある。

・短い型のセロトニン運搬遺伝子を持つ人はネガティヴな情報に注意を引かれると"注意バイアス実験"で判明した。

・キングスカレッジのセロトニン運搬遺伝子とうつ病の相関関係を探った847人の被験者を3才から26才まで観察した実験によると

1) セロトニン運搬遺伝子が長いか短いかによっては鬱病の発症リスクの差はなかった。

2) 23年間にかなり深刻な出来事を3つ以上体験していた短い型の遺伝子の人は鬱病のリスクがぐっと高かったが、長い型の人は深刻な事態が起きても鬱病のリスクは平均値と変わらなかった。

3) (1)と(2)から遺伝子と、人生に起きる悲劇的な体験、この2つが組み合わさった時に鬱病が起きることがわかった。

XII. 私たちは悲観脳を楽観脳に変えられるのか?
・リスク遺伝子を持っていても、環境がいい時は寧ろより良好な行動を示すが、劣悪な環境の下ではそれに影響されアルコール依存症や鬱病など悪い行動に走る。これからリスク遺伝子は柔軟性遺伝子と呼べる。

・柔軟性遺伝子は環境により良くも悪くもなる。注意バイアスの訓練によりポジティヴになれるように脳に記憶を留め、注意バイアスをシフトさせることが出来る。
科学的に証明された、不安を取り除く無料ゲームアプリ『Personal Zen』(lifehacker)
「不安症状の治療にスマホゲームが有効」(ハフィントンポスト)

・人間の脳は時間がかかるがいつだってシフト出来る。

ex. レオナルド・ディカプリオの強迫性障害を演じることで強迫性障害に本当になってしまったこと

XIII. 脳をシフトするには

1.ポジティヴな行動
2.人生をコントロールしている感覚
3.粘り強さ

を大切にする。そして幸せであるかのように振る舞うと脳をシフト出来る。

・勿論だけれども、楽観脳と悲観脳、どちらを選ぶかは自由。

マインドフルネス瞑想を1日10分、8,9週間程行うと脳内制御に当たる領域が強化される。
ex.衝動を抑えられ、トラブルを避けられた男性

・メンタルトレーニングは毎日行い、数か月間続ける必要がある。認知バイアス(物事をどう捉えるか)は変えられる。

ここからコメント

エレーヌ教授の講義を"私は悲観脳のきらいがあるなぁ"と想いながらみていました。

物事のネガティヴな面を観がちで。番組中で行われた”楽観 or 悲観テスト"では悲観寄りのギリ中庸という結果が私は出てました。

中でも"打たれ弱さ"には悩まされていて…共感性羞恥の気もあったり、ストレス耐性が全然ないんですよね><

自己評価の低さと言うか、幾度の挫折から自分を道化なロールへ貶し込んでいた期間も長くて。

元々セロトニン運搬遺伝子がどうかは分かりませんが、注意・解釈バイアスにより悲観脳の回路を生み出していたのかもしれません。

今でも自分の運命を自分でコントロール出来ている気がしないのですが、プライヴェートのサイクルが足固めできているのか、新しいことに挑戦する気概が生まれてきている感覚があります。

ただ、これは悲観的な意見と言うわけではなく、これまでの反省からなのですが、今までこういう時に調子に乗ってアクセルを踏みすぎてしまうきらいが私はあるので、クラッシュしないように、こういう時こそ手綱を締めなければいけないなと想います。

結果として、人生の成果の量はインフレ出来ないかもしれませんが、自分の身体と対話しながら挑んでいけたらなと。

そういう意味でもマインドフルネス瞑想はやってみようかと想います。9週間は正直長そうですが、意識の問題に終わらせずに具体的な行動に落とし込んでくれたエレーヌ教授の講義から色々と滋味深い示唆を与えていただけました。

cf. ボケない!脳が若返る「めい想パワー」SP(ガッテン!)

個人的には社交がわからない風穴を開ける冒険 -電脳九龍城からの脱出と合わせ、外界へのアクセス/アクションに関する人纏まりなものを書いたなと想いました。
by wavesll | 2017-02-03 05:53 | 私信 | Comments(0)

風穴を開ける冒険 -電脳九龍城からの脱出

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Crazy Arcade in JAPAN!!! - KOWLOON WALLED CITY (Kawasaki Warehouse)


1/31の晩、20時に川崎駅の時計の下で待ち合わせ、九龍城砦をテーマにしたゲームセンター、ウェアハウス川崎にて行われているリアル脱出ゲーム『電脳九龍城からの脱出』をPLAYしてきました。

リアル脱出ゲームは初めてだったのですが面白いですね◎最初は"おいおいこれじゃ30分もかからず終わるだろw"と想っていたら中々に手こずって100分弱くらいかかったかな。

私と、友達と、友達の連れてきた女の子の三人でチャレンジしたのですが、なんかRPGのパーティーにでもなった気持ちで。その後の王将での飲みも楽しく、2人も楽しんでくれたようで何より。

この間の社交がわからないというエントリではTLが心地よくパーティが苦手だと書いたのですが、案外飲みもいけるじゃんと。逆にある意味BlogやTwitterではハガキ職人的な感じで気を張っている所もあるのかもしれません。

BlogもTLも私がエディットしたものではあるのだけれども、普段のフィールドと違う遊びだったのもあるけど、コンテンツ繋がりではない人とのラフな出会いは良い意味で風穴を開け張ってた気圧をベントしてくれたのでした。TwitterやBlogでももっと下らない事を書さないと←この凝り性がだめなんだw

何も新しい所へ一手を打っていかないと得意な所の外へ打ち出ること自体にちょっと怖れを持ってしまう。けれども案外チャレンジ張ってみると上手くいったり。登山なんかでもそうですしこうした飲みでもいいのですが、案外に自分は自分を見くびっているのかもしれません。

ところが昨日は一日ぐったりしてしまってw「あぁこれは社交がわからないで取り上げた典型的な内向型の人間の特徴じゃないか」とw

「回復にかかる時間」も含めてスケジュールを組むのが必要だと想いました。結果として人生で成し遂げられる事の進捗速度が遅くなったとしても、己自身のことをきちんと理解し自らの速度を受け容れるのが善しかと。

有限な時を 1.ホームグラウンドでの活動 2.未来への投資 3.風穴を開ける冒険の3つの丁度いい鼎で行えたらいいなぁ。何かをするとすぐに思念が出てきて、それを吐き出さないとどうにも具合が悪い面倒な生き方しかできないとは明きらめ、辿り着けるところまでいければ。

ちなみに当初『電脳九龍城からの脱出』は1/31までだったのですが2/28まで開催期間が延長されたそうです。友が言うにはかなり簡単なリアル脱出ゲーらしいですが、千円でサクッと楽しめるしお薦めです◎

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by wavesll | 2017-02-02 08:14 | 私信 | Comments(0)

社交がわからない

坂本慎太郎 まともがわからない


パーティーが苦手な人種で。

ヒトのタイプを外向的か内向的かで分ける見方があると聴いたのですが、私は外向的に見えて、実は内向的な人間なのだと感じます。

忘年会やら結婚式の二次会やら、〇〇飲みでもそうなのですが、結局大した話もなしにすらーっと時間と金を遣うなと。1対1で話すのは好きなのですが、4,5人辺りから話が薄まる感覚があります。そういう"多数と会うこと"が好きな人との違いは内向的脳と外向的脳の差なのかと得心しました。

最近は更に内向的な傾向が進み地元の知己に飲みに誘われても断ってしまったり。"何を話せばいいんだろう?"というかなりアレな状況に足を突っ込んできてて。ほんと、"普通の人"って何を話しているのだろう??(一応断っておくと勿論世間話は出来ますよw美容師の人と話すのなんかも好きですし)

じゃあヒトと何を話しているかと言ったら此処で書いているような音楽や映画などの"趣味・文化・社会・旅"の話。Twitterで繋がる人もどこかしら趣味や感性が深い人たちが多くなってきて。逆に得意分野以外の"話の前提が通じなさそうな人"とどんどん疎遠になってしまっていて。

心地いい反面これは悪い点でもあり、鴎庵の記述も"分かってる人向け"なところはいなめず、前提知識の説明とかが欠けて不誠実なところがあります。

自分の意識では「私の意見」と「紹介している物事」は同じくらい重要なことなのですが、昔から直接の知り合いからは「お前の考えは興味あるけれどお前の好きなモノには興味がない」と言われたり「Webで読むより直接会った方が全然面白いですね」と言われたり(苦笑 一般性を獲ようと想ったら、もっとプレゼンテーションの腕を上げないといかんですね。

身近な人に音楽の趣味とかを押し付け、好反応がないことに逆切れしたりする醜態を晒したことが昔ありました。今となっては"やらかした"と想います。Face2Faceで会ってきた人って必ずしも嗜好で繋がるわけではないし、ニーズのないことを推しても無理がありました。

Webだと趣味の繋がりが満たされるし、今はプライヴェートもカルチャーで友達と繋がって、世界の広さに助けられています。

思いを巡らすと私をパーティーに誘ってくれた人の気持ちもわかって。パーティーやライヴ、劇とか、その人がライフワークとして一番力を注いでいることで一番いいもてなしだから誘ってくれているのだなと想うのです。

斯く言う私自身も旧友に久しぶりにLINEした際に「去年はこんな音楽聴いてて。そちらはどう?」とかURLを送り、ものの見事に既読スルーされるという(苦笑 "お前のそういう話には興味ねえよ、こちとら子育てで忙しいんだよ!"やも。でもそういうことがあると実体験で"誘ってくれる人"の気持ちもわかって学びになりました。

PRの重要性は重々承知しながらも、mixiで記事日記書いてた頃はイイネの1クリックすら滅多にされなかった事を考えると、人が動いてくれるって大変な事なのだなとしみじみ想います。もっと言えば外向的脳を持つ人からすると"深い話など心の中で自己処理しとけ"って感じなのかもしれませんね。

そういった意味でWebの大海にボトルメールを投げ込むように記事やら呟きやらを放って反応を虚心坦懐に受け取るのがいいなぁと。元日に書いた今年の抱負は今年は"親しき仲に礼儀あり"をやっていきたいだったのですが、人間関係の要って"いい距離感"で”他者であること”に社交の胆もありそうだなんて所まで睦月に思索が進みました。

cf.
本音2.0

風穴を開ける冒険 -電脳九龍城からの脱出
心と脳の白熱教室から感じた心のアクセルとブレーキ。悲観脳の出来かた。楽観脳のつくりかた。
by wavesll | 2017-01-27 05:01 | 私信 | Comments(0)

電通巨悪観(広告=悪)から一歩進んで

要旨:
・好いか悪いかのスタートラインに立つ為の宣伝は意義がある
・寧ろマスの媒体が"枠"に載せるか否かの目利きが低質だから澱みが生まれている
・"これは広告です"と"作為"を隠さず、その上で拡散したくなるものが今の"刺さるアド"ではないか


TVをみていて「最近いやに同じ事物が取り上げられてるな」とか想うことないですか?

「おぉ!コレが今熱いのか!!」というのが期待されている反応なのかもしれませんが自分は穿った人間なので「あぁ電通に金払って番組内広告してるのだな、アドか、アドw」と想ったりします。

私はマスコミのゴリ押しとかが大嫌いだし"宣伝で魅力を水増しするなんてナンセンス、良質なものが必要とされる処に届くシステムをWebが達成するのが一番いい"と想っているのですが、実は最近"宣伝の意義"を感じたりしていて。

それは実はこのBlogに立脚した話でして。天へ挑む究道者 ETV特集「曜変~陶工・魔性の輝きに挑む~」 をみてとかが、ETVで再放送されたり鑑定団で曜変天目が取り上げられてアクセス数がドカっと来たりしてることがあって。

また過去記事ってそんなにアクセス数を集めるものはないのですが、Twitterで例えば「そういやYASHIBU Vol.3でブレイク前のSuchmosみたなー」とか呟くとlink踏まれたりして。

記事があることが分かった上で"興味ない"とされるならまだしも"存在を知ってたら読んだけど、存在すら知らないから読むきっかけもない"こともあると、宣伝=悪ではないのかもしれない、と。

今でも"宣伝で商品の魅力を水増し"したり"良質なものが低品質なものに宣伝量で負ける"とかには嫌悪感がありますが、"スタートラインに立つ為の為のアド"は必要だし、そこでの擽り方を考えるのは正当な活動なのだと想いました。

広告代理店はクライアントの商品を売り込むために必死に働き、営業・宣伝は"努力"なのだと想います。では何故"広告は悪"だと想ったか。それは営業・宣伝されるプロダクトが、質の面で広告で推されてなく売れてないモノより質が低く感じるからでしょう。

実際、私も90年代にTVの音楽情報がTKプロデュースで埋め尽くされたときは"小室ウゼー"と想ってましたし、AKBなんかは最悪で、初期の頃、可愛くもないメンバーが週刊誌のグラビアを埋めたり、或いは音楽番組の"枠"を埋めたり、握手券チートでCDランキングを詰まらない曲でハッキングしたりするのは、明確に邪悪だと感じてました。

宣伝担当や営業担当が全精力でハイプを仕掛けてくるのは必要悪として、そこでメディアの人間が"質"を見抜いて自分の媒体の"枠"に載せるかどうかが最も重要で。

それは逆の意味でも大事というか、小室楽曲はいいのも多かったし、最近だと『君の名は。』をキネ旬が無視せずに年間ベストに組み入れた方が価値観の流布としても効果的だったと感じます。また私はもう坊主憎けりゃ袈裟まで憎いレベルになってますけれどもAKB系でもいい曲は良い曲なのでしょうし、N.E.5.5. / The Choice Is Yours × サイレントマジョリティなんかは面白いですしね。

すべて是々非々に"正当に質を評価する目利き"こそメディアが信頼されるポイントだとすれば、コンテンツと広告がごっちゃになるのは悪で。
そうしないと製作費が捻出できない現実の事情はありながらも、"枠が買われる"自体になると指標が指標として機能しない悪循環が起きます。

冒頭で"あーこれアドだと、アド(嗤"としたのは、広告なのに広告じゃないように装っているから。
今の時代は"自然を装った作為"を嫌いますから、寧ろ広告は<広告です!>と"作為"を主張した方が信頼されるのではとも想うのです。

私自身の中では広告の見え方は変わりましたが、広告屋が「最近の客はノリが悪い」というのは阿呆な発言だなと想うし、今の時代に"躍らせる広告"の革新が社会企業的な方向も絡んで起きたらいいなぁと想います。

今はWebで拡散が起きる時代ですから、「マス&個人メディアが取り上げたくなるプレゼンテーション」が現代の広告技術の指標になるのだろうなと想う次第です。

cf.
KIRIN「一番搾り 熊本づくり」を全国発売 売り上げ1本につき10円を熊本地震の被災地の復興支援策に活用

【イタリア地震】サイゼリヤが一部のパスタ「399円のうち100円」も寄付する赤字覚悟の復興支援を発表
by wavesll | 2017-01-12 01:57 | 小ネタ | Comments(0)

地球生物の知性から未知の精神活動を想像する:<モーガン・フリーマン 時空を超えて>

最近一番楽しみな番組、モーガン・フリーマン 時空を超えて。

今回は色々な地球生物の"知性"から未知の知的生命体、つまり宇宙人の知性の形が想像されていました。
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1. 脳を持たない植物の知性。
コンスエロ・デ・モラエスとマーク・メスカーという二人の研究者によると、アメリカネナシカズラという他の植物に寄生植物は根もなく光合成もせずに、宿主から栄養を奪います。そして宿主が健康かどうかをなんと"匂い"で検知するのです。

植物は匂いによって情報交換をしています。例えばダイズは芋虫が葉を食べにやってくると蜂を引き付ける物質を放出し、蜂の助けを借りて芋虫を駆除します。そして周囲の植物もSOS信号を感知し物質を放出します。

2. 意識は感覚入力と身体運動から。ヒトの知覚の拡大
意識が五感の相互統合作用だとすると、感覚のベクトルが増えたら…?
認知科学者サスキア・ネーゲルの実験によると、方位磁石ベルトによって"北"で振動を感じるようにする訓練を6週間積んだ被験者は、ベルトの振動に頼らずに北を認知するようになるそうです。感覚は拡大・成長できるという実験により、未知の知的生命体はヒトの五感とは異なる感覚を基にした精神活動を行っている可能性があるのです。

3. 蟻の"超個体"における社会構造
宇宙人は脳の神経細胞の結合が"個人"を超えている可能性があります。
ナイジェル・フランクスによると蟻は集団になると"超個体"を形成します。小さく知的でない個体が集合すると、巨大な知的生命体となるのです。蟻のコロニー全体が一つの脳の様な構造物となり、その中で情報交換をしているのです。

一匹の蟻は限られた指示に従って行動しているのですが、超個体全体としては高度な問題解決や価値判断、効率的な行動を行えるそうです。蟻によっては個々の個体は細胞の様なもので、社会全体が重要だと。

そしてコンピューター科学者ジェームズ・マーシャルによると蟻のコロニーの意思決定モデルをコンピューター解析すると、なんと霊長類の意思決定モデルと極めて似ているそうです。蟻のコロニーと、霊長類の個体の脳の意思決定は似ていると。
となると、蟻のコロニー全体としては"精神"があるのでしょうか?

蟻のコロニーは目の前の事しかできず、自己認識と想像力がない点が人間の"意識"と異なるそうです。

4. ヒトの同じく自己認識する脳を持った地球生物・タコ
蛸は無脊椎動物ですが、哺乳類に匹敵する思考能力を持っています。考えが深く利口で計算深くさえ見えるそうです。知性を持つ宇宙生命体に最も近い地球生物はタコだというデヴィッド・エデルマンは言います。火星人モデルは正しかったのかw

タコには複数の脳があります。五億の神経細胞のうち半数は腕にあり、蛸の腕は小さな脳を備え、これら複数の脳がコンピュータの分散処理システムのように働きます。タコの腕から頭脳へデータが送られる。しかも蛸の腕は本体から切り落とされても独立した生物のように動けるという。興味深い。

タコの眼は脊椎動物の眼に形が似ていて機能も似ているように、脳も脊椎動物レベルに働いているそう。

例えばバーンズ迷路というラット向けの"学習・視覚のナビゲーション能力"のテストを蛸に使った実験。
18個の穴の一つだけに逃げ場所の海水を入れ、その上だけに十字マークを書いておきます。

そのテストに慣らした上で十字マークをズラすと、タコはもう海水はないのにその穴へ来るそうです。つまり視覚による学習がタコにあるということです。

タコに意識はあるのか、自己認識や"世界"はあるのか?
人間は常に言葉でモノを考えますが、視覚による思考というものがあったら、ノンバ―バルな"意識"があるのかもしれません。

5. 言語の進化
しかしまずは未知の宇宙人と意思疎通するために、地球における"言語"を考える必要があります。

伝言ゲームによる文章の変化は、"参加者の脳が文章を改変した"といえ、その改変こそが言語の文化的進化と実験したサイモン・カービーは言います。

奇妙な名前を付けた"宇宙の果物"の名を被験者に覚えさせ、覚えていることを次の被験者に伝えさせます。
最初の名前は全く覚えられないものだったのに、伝言ゲームによる改変が行われていくうちに、一度聞くだけで覚えやすいものに"進化"していきました。

このように"言語は世代を経るごとに分かりやすくなっていく"というモデルが正しければ、宇宙人の言語は分かりやすいものに洗練されている、と推測できるかも、といえます。番組では現在マイク・ドゥズムラが研究しているテレパシー技術に関しても取り上げられていました。

しかしそうした"文化的進化"が"生物的には退化"を招くこともある、と言う科学者は言います。今後私たちは文化的には賢くなっても生物的には愚かになるかもしれません。

そうしたときに旧来は手間だと考えられた"生の手応え"こそが人間にとっての最大の愉しみになるかもしれません。

6. 思考と感情は表裏一体
知性が優れた氷の様に冷静な宇宙人像がSFには出てきますが、"言語や記憶、理性的な思考さえも全て感情に依存している"そうです。

感情と理性は全く別のモノとされ、動物的本能と理性は異なる、とギリシアの昔から言われていますが、感情と理性は切り離せないとリサ・バレットは言います。

感情の基本にある状態、コア・アフェクトを本人が気づかない内に変えることが出来るのです。二つの画像を同時に見せて、潜在的に意識された知覚が意識された"美しさ"が変わることを実験したのです。つまり"情報を受け取るスタンス"は無意識的・感情的な影響を大きく受ける、と。

"宇宙人の知性"というフックから、ヒトの精神活動のありようが検証された面白い回でした。次回13日のテーマは「“生殖”は変化するのか?」、これもまた楽しみです。
by wavesll | 2017-01-11 19:26 | 小ネタ | Comments(0)

1月1日に漱ぐ 清冽なイランのサントゥール

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。

2016/2017の瞬間は渋谷スクランブル交差点にいました。物凄い騒やかな年越しで。「HAPPY NEW YEAR!」で主に外国の人たちとHi5等のボディコミュニケーションしてました。こんなハッピーニューイヤー言ったの人生初かもw

25時前位まで渋谷でぷらついて、帰路。家で朝生みながら寝て、起きたらゆく美 くる美や録画してた紅白とか見ながら過ごして。

気が付けば日も傾く中で初詣に行ってきました。

正月の清冽な空気が好きで。もう心なしか空気が柔らかかったけれど、元旦の空は『悲しみの果て』が似合います。



部屋を飾り珈琲を淹れ、花を飾って新しい日を歩みたい。

新年の抱負というか、今年は"親しき仲に礼儀あり"をやっていきたいです。

どうも私は自分を下にみせる割にはそこをいじられるとやり返してしまって友人関係に諍いを起こす事が多くて。人にに突っ込むときは孔2つだと想うのですが、相手は別に悪意アリアリでやってるわけでもないし、最初から呼び水みたいなことはしないのが吉かなと。

あと昨年に今さら学んだ教訓は“黙らないと現実が回らないこともある”。

言葉を吐くときはそれが引き起こす摩擦を覚悟しないと。秘することを維持するのも成熟なのかも知れません。裏表なくゲレゲレといたいものですが、本年からは舌禍は意識して行こうと。

本音2.0も含めて、社会への姿勢が変わってきたのかもしれません。幼稚性を失うのは自由が失くなる気もするけれども。フリーダムな場はもうWebにはなく、それこそ馴染みの飲み屋等のリアルな倶楽部にあるのかな。

とは言え、現在の"本音"はWebでも誠実な正直さでやっていければいいなと想います。コミュニケーションに於いて傾聴することの大切さや有難さも近年とみに感じるところで。発信PUSHはWebで行いRealでは語りを相手から引き出せるようになれたらいいなというのも目標です。

さて、元旦の清冽な空気に音楽をかけたいなと想った時、ペルシャのサントゥールはどうだろうと。世界最古の音楽文化を持つイラン。ここから世界各地に楽器の系統樹が伸びていきました。そんなイランの楽器の一つ、サントゥール。

サンは百という意味で、沢山の弦が張られ、3オクターヴの音域を持ち、真鍮製の弦とスティール弦がクルミ製のボディに張られ、メズラブと呼ばれる軽量の木の撥で叩いて演奏します。これも西へ渡ってツィンバロムやダルシマーに、東では揚琴、ヤングム等になりました。

Classical music from Iran - Great masters of the santur - Hossein Farjami


決定盤!!イランの音楽 サントゥールの響き
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このサントゥールを名手ホセイン・ファルジャミの演奏で楽しめる盤を代官山蔦屋書店で借りてきておりまして。

透徹した金属の響きが期せずして1月1日にうってつけの音。どうやら今年も音楽狩猟の勘はかなり良さそうです^^
by wavesll | 2017-01-01 17:47 | 私信 | Comments(0)

本音2.0

Bob Dylan - Like a Rolling Stone


先日、マスメディアのハレとケ。/TVのバラエティを叩くより報道検証企画を求めたい。という記事を書きました。

その中で最近のTVバラエティは悪意の面白さを追求しすぎているという様なことを書きましたが、これは具体的には月曜から夜ふかしだとか、イッテQだとか、スター名鑑だとかゴッドタンだとかそんなバカなマン辺りを指しているのですが、こうしてみると今の面白番組ベストラインナップじゃないかw

これはつまり旧来のTV番組のつくりだとネット等の辛辣な感性の批評から阿呆扱いされてしまうことから、毒気を増すことでエンターテイメントのつくりをアップデートした結果だと想います。

この十数年、TVのあらゆるところに"お笑い芸人"が蔓延し役者やミュージシャン、スポーツ選手なんかもかなり"面白いコメント"が出来る様になった感が今はあります。

一時期流行り言葉になった"空気を読む"なんかもお笑いがTVに飽和したことから生まれたのではないかと私は考えています。それは同時に旧来の笑いがコモディティ化した故にTVでの"お笑い"がエクストリーム化していると。

これは個人的には弊害もあると感じていて。というか、<みな"お笑い"をやれるようになってユーモアに満ち溢れた楽しい世の中>になるかと想ったら<窮屈な"空気読め"な国>になってしまった。

これはボケ・ツッコミの本質として<異端をマジョリティの立場から嗤うこと>を孕むからだと想います。ツッコミ或いは"いじり"というのがボケ扱いされた人間からするとハラスメントに感じる事、あるのではないでしょうか。オネエやハゲは嗤っていいと安全圏にいるつもりの人でも他者を嗤う人間は自分も一歩"普通"から外れると嗤われる。

"自分の中の絶対的な基準"に沿って行動できる人は良くても"空気を読む"小心者の人は誰が主導しているわけでもない、しかし集団が生み出す鵺のような"空気"に圧力を感じているのでは。

年を重ねオジタリアンやオバタリアンのように図々しくなれればいいけれども、ナイーヴな十代はかなり他人の顔を伺いながら息苦しさを感じているのではないか、そしてそういう"空気"をつくる一端はこの国を覆う"お笑いと悪意"なのではないか。というのはメディアのパワーへの妄信でしょうか?

実は"お笑いの害"への対策はかなり明確にあって。年壱で出川や山ちゃん、狩野辺りが集まってACとかのCMで「俺たちはお金を稼ぐためにショーとしてバカにされても楽しそうにしているんだ。今、笑われることで心につらさがあっても周りが喜んでいるから嬉しいと想おうとしていた君、つらい時はつらいと言っていいんだよ。怒っていいんだよ。空気を読むことなんかより、自分を大事にすることが大切な事なんだ」とかやるといいのではないかなーなんて思います。

しかし実際問題、他人が喜ぶって嬉しいことだし、私もtwitterやblogやるくらいには承認欲求をこじらせている人間ですから、ネタに生きるプライド、みたいなものも理解できます。とは言え、自分を犠牲にすることで笑いを取るのはやっぱり禍根を残してしまうのではないかと想うのです。

LINEとかで裸を晒してしまう女の子を例に出すまでもなく、後々思い返して自らに大きな傷を作ってしまう対価に"その場の快楽"では余りに足りない。もし人を喜ばせるとしたら"本当の芸"でするべきではないか、そう思います。

と、同時にTVに於いては"本当の芸"より"茶化したフリートーク"の方が数字を獲れてしまうのが苦しいところで。「神ってる」が「流行ってない」と言われるのが顕わすのは旧来の本物の芸の王様である"野球"が存在感を失い"趣味の一つ"になった今。

ネットによって趣味が細分化された現在に"大衆"を相手にするマスコミが最大公約数のコンテンツとしてお笑いフリートークに頼るのは理解できます。そして、本物の芸を持つ人が本当の芸を魅せることをしなくなることで更にTV芸しかないTVから人が離れていくという。

勿論TVは寡占事業ですから、パワーが完全消滅することはないでしょう。最近もフリースタイルダンジョン逃げ恥がムーヴメントを起こしていますし、TVは一定のプレゼンスを保持するでしょう。芸人の"人間力"はますます増していくことだと想います。ただ、"板の上のファンタジー"と”その人の素”は区別されるべきで、その人の素の人間性が酷いからと言って排除していった結果が、しゃべくり芸のみがのさばるTVなのだとも思います。

さて、TVのお笑いの害への対案はそんな感じですがTVの笑いをエクストリーム化させたもう一つの"悪意"、"2chに代表されるWebのヘイトな罵詈雑言"は2chを潰せばそれで済むということでもなく、カストリ紙のような"低俗の正義、悪辣の誇り"によって批判も蛙の面にションベンですし、何よりも不味いのがネットが無ければそういう罵詈雑言を知ることもなかった子供がいきなり悪い大人の言説に触れる状況が起きてしまっているということ。

この冷笑的な空気の蔓延が、呪いの言葉が呪いの言葉を呼び、「汚い言葉や欲望の発露が<本音>なんだ」となってしまって<本音>をあけすけに言うことが持て囃される。これは<空気を読む>ことが余りにも強いられることの裏返しかもしれません。

ネットに書かれる<本音>。2chに書かれる便所の落書きの他、今年の流行語にも選ばれた<日本死ね>への反発もニュースになりました。言葉の下品さに眉を顰める"一般人"、「これは社会の歪に苦しむ人々の魂の叫びなのだ」という"良識派"。目的を重視するか手続き論を採るか。私はこれに関しては言葉の裏にある社会の暗部に対するアクションこそが最も重要だと想います。

<日本死ね>というのはあくまで煽りで、本当に伝えたいことは働くためには保育園に入れないといけないのに入れられない苦しさ。言葉の裏側にある現実の苦しみを想像したい。

それと同時に「チョン死ね」等のヘイトの言葉が書き連ねてある2chに対しても「あいつらはクズだ」と断じ、唾棄するのみになるのは悲しみを生む構造の根本的解決を放棄していると言えます。個人的体験では、攻撃的になり人に対して呪いの言葉を放ち続ける人は大きなストレスを抱えていたり、社会や他者から否定され続けている状態だと想うのです。

これを「怠惰な連中のゴミのような繰り言だ」とするのは簡単ですが、Brexitやトランプ勝利はこうした"マイノリティにパイを奪われるマジョリティ側の不平不満"の発露、いや"魂の叫び"でした。それはこの国でも安倍氏が首相の座をこんなにも長く続けて居られることに既に現れている事象。

汝の敵を愛せよではないですが、ネトウヨに対してモラルを振りかざして非難するのは言ってみれば対症療法で、根本治療のためには2chを始めとしたネット上のヘイトの裏の社会のストレスを緩和することをして初めて解決があると想います。

"<日本死ね批判>批判"の人も、立場が変われば同じ態度を"異教徒"に取ってしまっています。2chねらーのみじめさ、哀しさに、保育園レスのママへの思いやりの1/3でも分けてやって欲しい。そう想うのです。

日本のTVお笑い文化とネットが醸造した<空気を読むことの強要、悪意な本音、冷笑>、それに対抗するには"本音2.0"が有効なのではないかと私は考えております。

思春期の頃なんかは捻った思考をして世の中を斜めにみることが格好良く感じる向きがあって。真面目がカッコ悪く感じたり、"賢しい"ことが格好よく"世の中をハックするのが格好いい"みたいなことがあったかもしれません。しかしその成れの果てがDeNAのような虚業だとしたら。

寧ろ真っすぐな正攻法こそ学ぶべきもので、オリジナルな捻りは自分自身から自然と出てくるものではないかとこの年になると想います。無論、新しい技術を積極進取するのは一番大事で守旧的なマインドになっては淘汰されてしまいますが。

そこで発言するときに"本当にそこまでの悪意を言いたいと想っているのかな"というのは自問したい。或いは"真面目とか真っ当って気恥ずかしいけれど、自然に<それいいよね>とか思うこともあるよな"ってことも。

今はSNSとかで"みられる自分"を意識して、自意識に苦しむ人も多いかもしれません。今現在承認欲求に苦しんでいる人は、捻じれた自意識を芸術作品に昇華させられたら勿論最高なのですが、それが難しい時は困ってる人を助けたりしたらすげー素晴らしいことだと想います。

Webではニッチなスウィートスポットを追求し、リアルでは感性合う人などSRなので承認要求を爛れさせるより"必要とされること"を黙々とやるのが格好いい。

何も物凄い社会問題のボランティアをしようというわけでなくて、身近な人の"必要としている助け"をすることは素晴らしく貴いことだと想うし、"ヴォランタリーな奉仕"に賞賛が贈られる社会って、全然いかしてると想います。そういった意味で気の利いたサーヴィスにチップを払う海外の文化って面倒だけど、好意/行為に感謝を示す風習というのは悪くないのかも。

そうして”無理に過激を装わない<本音>を見極めること”の上で、"衝突から逃げずに対話によって<本音>と<本音>を刷り合わせること"が一番大事だと想います。

この<対話>という部分が最も大切で。"ネトウヨ"だとか"パヨク"だとか、相手をレッテル張りして人間として扱わないことでは何も解決しないし、寧ろ政治的な部分だけをピックアップして話すから対立が激化してしまう。礼儀を忘れずにファクトベースで合意形成の論議をしていけばいい。

また友達との間のSNS疲れなんかでもそうですが、<言いたいことは言う。しかしちゃんと伝え方を工夫し、良い距離感を維持する>のが理想で。自己欺瞞せず、偽りをする必要はなく、そこで自分の意思を伝えて具現化させるのがコミュニケーションだと想います。

そういう"人間関係"をやろうと想ったら、自然と付き合える人数は少なくなってしまうかもしれません。人間が管理できる数は150人までである。さらに、最大で5人までの親友を持つことができ、仲のいい友だちは15人までが限界だみたいな話もあります。

そうなると"対話もいいけれど炎上して1:Nの関係で多数と相対しなければならなくなった時どうする?"と言う話があると想います。この時はまた別の方策が必要ですが、目に見える人間集団の中で"コイツめんどくさい奴だな"と想われても、本音を話せる対話の努力をする、或いは自分がつらくなった時につらいことの愚痴や相談によって伝えるスキルを磨くことは有用で。

そしてコミュニケーション能力・政治力だけでなく<本物の芸を磨くこと>が世を渡っていく上で一番な戦略となってくれる、そう思います。本物の芸として板の上で歌舞くこと、そして素の旨みはレジリエンスの範囲で隠し味として効かせる。それが"伝達の力"で相乗効果を生む。そう<本音で>想うのです。

cf.
●続・アドラー心理学 <幸せになる勇気/黒い十人の女/天> ぬくもりという名の獣道

●自衛隊教官が教える「訓練を乗り切る隊員と急に折れる隊員の違い」とメンタルヘルス(togetter)
●おもてなし大国・日本の「思いやり指数」は世界最低レベル(DIAMOND Online)
●正義の人たちがインターネットを殺した(マイルドヤンキーにさよならを)
●2016年の音楽界を振り返る 西寺郷太 X 柴那典 X 宇野維正 X 田中宗一郎(WOWOWぷらすと)

Bob Dylan,My Back Pages, Glasgow, 9.04.1995


Bob Dylan, Lenny Bruce

by wavesll | 2016-12-12 21:49 | 小ネタ | Comments(0)