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M. マクルーハン『メディア論』 内容でなく表現形態こそがメディアをメディア足らしめている

Yukihiro Takahashi & METAFIVE / split spirit (Vimeo)
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マーシャル・マクルーハン『メディア論 人間の拡張の諸相』を読みました。

彼は"メディア"を通り一遍な見方ではなく、"人間の拡張としての環境媒体"と捉えます。彼のメディア観はこのWeb時代に於いて益々先見の明を感じるというか、
「われわれはその中枢神経組織自体を地球規模で拡張してしまっていて、わが地球にかんするかぎり、空間も時間もなくなってしまった」
という端書きをはじめとして、士郎正宗『攻殻機動隊』1巻を読んだ時のような未来視のヴィジョンを感じました。

とは言え、文中で出てくる言葉の定義が不明瞭な所も。のっけから「外爆発」、「内爆発」って何?となったし、マクルーハンの提唱した「HOTなメディア」「COOLなメディア」というのも、「TVがCOOLで映画がHOTなのの違いは高精細かどうかだけ?」とか今の視点で見るとちょっとはてなとなったり。しかしこの粗いながらもフロンティアを滑走する感覚はまさにクールな面白味がありました。

中でも面白かったのは"メディアはメッセージである"というアイデア。
これはメディアをメディア足らしめている力の源泉は、その"内容"でなく"表現形態"であるという話。

テレビの内容は映画であり、映画の内容は小説であり、小説の内容は書き言葉であり、書き言葉の内容は話し言葉である、メディアをメディア足らしめているのは内容ではないと。

その中で、例えば本は一人によって書かれた個人対個人の告白という形態ですが、新聞は記事群のモザイク状の集合体で"公の集団意識への参加"を発生させる形態である。そして新聞を新聞足らしめている源はその"コンテンツ"ではなく、"モザイク状の表現形式"と"配送やキオスクでの販売によって毎日みんなが読んでいるという環境 / システム"にある。と。

私がこの考えに非常に得心が言ったのは、"WebのCGMサーヴィス"なんかは正にそうだと想ったからです。TwitterをTwitter足らしめている、InstagramをInstagram足らしめている、FacebookをFacebook足らしめているのは"そこに書かれている内容"ではなく、"そのプラットフォームがどんな形態を持っているか"であり"どれだけの人が参加しているか"だと。これを1964年に上梓したマクルーハンの先見の明に舌を巻いてしまいました。

メディアを"人間の拡張"と唱え、ヒトは"拡張した己自身に自惚れる"と唱えたマクルーハン。彼のメディア論が面白いのは"どんな五感が使われているかによっての分類"にもあると思います。

彼は"そもそも西洋文明が発達したのは表音文字であるアルファベットがあったからだ"と説きます。そこに於いて音(聴覚)と文字(視覚)と"言葉の意味"が峻別され、そのディバイドから文明が形づくられていったと。

先ほどの"メディアは形態である"に通じる話ですが、私も昔「マンガは視覚と意味のメディア、音楽は聴覚と時間のメディア、アニメは視覚・聴覚・時間・意味のメディア」とか文学部の文化論の講義に潜ったとき思ったものでした。確かに西洋文明は"何かを分割すること、その分業"によって形づくられてきた印象があります。

マクルーハンは文字文化は分化を推し進めてきた一方、オートメーション・電気は統合を推進すると述べています。光の速さで地球が狭くなり、Global Villageが生まれる、と。そこでは五感が統合された、参加が促されるCoolなメディア環境があるだろうと。

まさに今インターネットによって"国際的な世間"が生まれつつあります。そしてそれに伴う軋轢も生じ、Brexitやトランプ大統領誕生、欧州での極右政党の躍進が起きている。そんなグローバル化へのバックラッシュの中で"マクルーハンならばどんな未来を視るだろう"とも想うし、単純にスマホやVRゴーグルについての彼の見解を聴いてみたいです。

マクルーハンは我々の技術が環境になることによって心身自体も影響を多大に受ける、そして芸術家のみがその中で平衡感覚を失わず「パンチを逸らす」術を提示する、と説きました。そんなVisionが今世界のどこかで生まれているのかもしれません。我々がゆく未来は、今萌芽している。その蠢きに五感を澄ませたい、そう想いました。

目次

ペーパーパック版への序文

第一部
はしがき
1 メディアはメッセージである
2 熱いメディアと冷たいメディア
3 加熱されたメディアの逆転
4 メカ好き  感覚麻痺を起こしたナルキッソス
5 雑種のエネルギー  危険な関係
6 転換子としてのメディア
7 挑戦と崩壊  創造性の報復

第二部
8 話されることば  悪の華?
9 書かれたことば  耳には目を
10 報道と紙のルート
11 数   群衆のプロフィール
12 衣服  皮膚の拡張
13 住宅  新しい外観と新しい展望
14 貨幣  貧乏人のクレジット・カード
15 時計  時のかおり
16 印刷  それをどう捉えるか
17 漫画 『マッド』――テレビへの気違いじみた控えの間
18 印刷されたことば  ナショナリズムの設計主
19 車輪、自転車、飛行機
20 写真   壁のない売春宿
21 新聞   ニュース漏洩による政治
22 自動車  機械の花嫁
23 広告   お隣りに負けずに大騒ぎ
24 ゲーム  人間の拡張
25 電信   社会のホルモン
26 タイプライター 鉄のきまぐれの時代へ
27 電話   咆哮する金管か、チリンとなる象徴か
28 蓄音機  国民の肺を縮ませた玩具
29 映画   リールの世界
30 ラジオ  部族の太鼓
31 テレビ  臆病な巨人
32 兵器   図像の戦い
33 オートメーション 生き方の学習

訳者あとがき
メディア研究者のための参考文献

cf.
マクルーハンと「メディア論」をソーシャル時代に改めて考えてみる (新聞紙学的)

by wavesll | 2017-05-19 19:47 | 書評 | Comments(0)

一周目、二周目そして三周目の人生、旅、音楽

Okada Takuro / Ur (soundcloud link)

ティピカルな挿話1.
SpotifyでAt the Drive-InとSlowdiveの新譜を聴いて、"あぁ、ROCKの音だなと想。

ティピカルな挿話2.
テレ朝の"あいつ、今何してる"の番組予告で芸能人が「なんでみんなそんなにドラマがあるんだ」と言うのに逆にびっくりする。

本論
良くある話で、学生が終わると(新しい)音楽を聴かなくなる、なんてものがあります。

原因は幾つか考えられて、まずは仕事が忙しくなって音楽に割く時間がなくなる。二つ目は友達との遊びがなくなることで、カラオケやダベリといった"コミュニケーションの為の音楽聴取需要"が消える。

ただ、私として推したいのは"リスニングの一周目が大体その辺で終わるから説"で。

音楽に限った話ではないですが、何をみても"あぁアレとアレの掛け合わせね"とか、既視感に囚われる時期ってありませんか?そして今までも聴いていた音楽も段々刺激が麻痺・逓減して、ぶっちゃけてしまうと飽きが来る。そこに上に挙げたような要因が被さり、音楽から気が離れていくことはあるのではないでしょうか?

私自身の"一周目"の話をすると、いつ初めて音楽を意識したかはもう覚えてないのですが、最初に買ったCDはアルバムではハチャトゥリャンの『剣の舞』、シングルではサザンの『愛の言霊』だと想います。丁度小学校高学年くらい。

そこから中学でブルハ、ブランキー、ミッシェルに心酔し、ゆずやDAなんかも聴いてました。そして椎名林檎にもガン嵌り。林檎の艶いグラビアをみるためでもないけれど、一時期はロキノンジャパンなんかも買って。

RIJFは高2の時に2001年のバンプがトップバッターの日に行きました。トリをDAと迷った挙句『スクリューボールコメディー』がフェイバリットだったためレイクのソウルフラワーユニオンで心引き摺られながら「ええじゃないか」でタコ踊りしたのはいい思い出。

高校の頃は誰の目も気にせず"クズクラブ"みたいなのを作って、寧ろ真面目側で伸び伸びやっていた所が、大学では本当に人間的に良くできた人たちに囲まれ、"〇〇君って個性的で面白いね"と言われ、面白キャラに開花、けれど大きな挫折も味わって鬱に追い込まれ、復帰後はますます"ダメ人間道・不真面目道"を突き進む様に。

そのあたりで聴いていたのはフィッシュマンズでした。丁度リユニオンがあって『空中』『宇宙』が出たのもあるけれども、佐藤さんの言葉、サウンドが琴線に触れて。それと共にROVOを聴いたり、ワールドミュージック、特にガムランやブルガリアンヴォイスなんかを聴いたり、当時流行りだった"DJ目線で選ぶJAZZ"なんかを聴いたりしていました。銀杏やシロップも聴いたなぁ。

音楽を選ぶことは自分という人間を表明する事でした。高校の洋楽に詳しい連中と差別化するためにワールド系を聴いたり、或いは大学では仲間内で自己ブランディングの為に"ロック道"を深めたのかもしれません。

mixiなんかで自分の日記の本文の前に好きな邦楽の歌詞を乗っけて先輩から「お前の文章だけ読みたいのに邪魔だ」なんて言われて。当時は寧ろ自分の文章よりも自分の好きな音楽の歌詞を聴いてもらいたいくらいで。すっかりロックという正義の信奉者でした。

閑話休題、学生時代までは私は漫画を読みまくっていたのですが、そしてある時を境に漫画雑誌はグラビアくらいしかチェックしなくなってしまったのですが、マンガを読まなくなった方が現実のヒトの表情を読み取れるようになった気がします。

漫画はあまりに表情が分かりやすく演技づけられていて、その刺激に慣れると生身の人間の機微を捉えられなかったのかもしれないと今となっては想います。同様にあの頃はロックンローラーの言葉の強さに痺れていて、同期や先輩の言葉をちょっと馬鹿にしていたというか。もし今のネット環境におかれたらアスペルガー判定されていたように思います。

ロック思想が自分にフィットしていたのは価値基準の反転があったから。駄目で、下品で、頭悪くて、etcetc、そんなドブネズミみたいな状態こそが美しい。その倒錯を邁進していたものですから、全くモテませんでした。

当時のサークルでの人間関係において己を道化として扱っていた分、ますます音楽で誇りのバランスを取ろうとしていた自分。鬱から脱するときに行った初めての海外、北京旅行で旅に目覚めて。まぁその前に幽霊部員だった別のサークルで北海道自転車旅行なんかもやっていたのですが、音楽と旅が自分のアイデンティティになった気がします。

そして音楽や旅の話を思いっきりぶつけられる友人は(本当はいたかもしれなかったけれど)その時はいなく感じて。寧ろ変人的なポジションになるというか、だんだん「最高だな」と嘯いても上滑りしていきました。

そして就職したはいいものの思いもよらずまたしても鬱で潰れ、人生最悪の時というか、死を考えるちょっと不味いレベルの一時期を過ごしました。

底で「自分は本当に死にたいならば死んでいる。生きたいから生きているのだ。結局のところ今までの自分の人生ひっくるめて、全ての事は自分が全部勘案した上でやりたいことしかやっていなかったのだ」と言うバーサク状態で復活。実際にはストレス源だった会社を正式に退社したのが大きかったと想います。

その状態でmixiへ舞い戻ると皆何も書かなくなっていました。今考えれば会社のしがらみとかもあったかもしれないし、書く時間もなかったかもしれないし、それほど書きたいこともなかったのかもしれません。そこで愚かな私は「あぁ皆鬱ならば、鬱屈した資本主義を全否定してやろう」と大暴れ。

「資本主義の豚が!」とか暴言吐いておいていいねが貰えないことに逆ギレして。寧ろ当時ニートだったお前の方が資本主義の豚だろという。

とは言え図らずも"あぁ、自分はあれだけ大学時代に活動に付き合っていても、『そうしたいことなんだな』と想われただけで、異論を唱えた時『普通に』否定されるのだな"と。今現在の視点から考えれば本当に甘ちゃんな話だなと思うのですが、オウム真理教を脱会した人間の様に憎悪に駆られました。

そんなこともあって、仲間とも疎遠になり。頭が冷えると大きな罪悪感にやられ、「自分の人生は何も与得るものがなく害を撒き散らしただけだった」と自己否定感に覆われ。そこから就職したり、気持ちを晴らして再び旅へ出れるようになるまで、時の流れが必要となりました。

今はやりたくない事には(少なくともプライヴェートでは)"したい無理"でも関わらない姿勢でやりたいように等身大でやっています。只まぁ昔からそうですが脇が甘くて。こんな記事書いちゃうのも危ういとは想うのですが。ただ、ここまで明白に書かないと続きの話に繋がらないかもしれず。

そんな形で大いなる失意から自己否定する中で、先ほど述べたように漫画をあまり読まなくなったり、ロックの言葉を聴くのが辛くなったりしていったのでした。こんな経緯を辿る人間はなかなかにいないとは思いますが、20代も半ばになると青臭い言葉が性に合わなくなってくる人は結構いるのではないかと思います。

それでも大学時代後半に邦楽ロックから少し脱していたのもあって、ワールドミュージックやジャズ、レアグルーヴからファンクへ進んだ自分は2012年にジャミロクワイ目当てでサマソニへ初めて行き、いわゆる"洋楽シーン"へ遅蒔きながら入るようになりました。

2周目の音楽は、インストゥルメンタルだったり、歌があっても外国語で意味はダイレクトに分からなかったりするために、"いかにサウンドとして面白いか"が胆となりました。その時の自分にとっての新しさ。最終的にはノイズやフィールドレコーディング、南米音楽あたりを好んで聴くようになりました。

ここまで行くと、もはや”自分の好きな音楽は誰にとっても好かれる”という妄信は流石にしなくなって。

時代の趨勢でも音楽市場が落ち目になって。思い返してみれば大学の頃だって「良い音楽を聴いてるから好かれる」ことはなく、"どうせわからんだろう"という考えてみれば失礼な諦念で生活していたのですが、世間的にも"音楽は時代を映す共通言語"という鏡ではなくなっていったように思います。

しかし、Webの繋がりの中で寧ろ今までの人生でないほどリスナー仲間が出来る様になりました。勿論、聴いている音の趣味は違えど、ミュージックフリークであることは伝わってきて。

同質性がないことがわかっている"他者"という距離感が寧ろ好いのだと想います。あまりに狭い関係だと軋轢が生まれてしまう。"同じでないことが分かっている関係"の居心地の良さは、海外で言語の意思疎通レベルが低いからこそ仲良くなれるあの感覚にも通じる気がします。

衣食住足りて礼節を知るというか、貧すれば鈍すというか、攻撃的に荒む事と自己尊厳が低い事は有意の相関があり、暴走している人間にこそ愛と敬意のある対処が要るけれども、そういう人間は不快で憎みやすく、事は難しいものです。

敬愛する人から「君は暴言を吐いたり何かを貶さなくてもいい位、私にとって価値のある人間なのだ」と認められることが、どれだけの憎悪をネガポジ反転できるか。

問題はいわゆる"普通の人"だってそこまで余裕ある人生を送っている訳ではない点で。未熟でも"理想的な先達、倫理"を装っていることが、(必要なことかもしれませんが)やはり無理があるのではと想います。しかし何より憎悪は基本的には甘えの一種で。己の価値を落します。逆に敬愛のコミュニケーションがいかに自尊心をもたらしてくれるか。

話したい話を遠慮なくコアに放れ、時に反応もある。私にとってWebとの、そして大切な人との出逢いは僥倖でした。

と、告白録をここまで書いてきました。一時期は旅をしている時しか生きている感覚がないほどでしたが、今、普段の生活にも満たされ、旅はボーナスステージ的な、以前より日常に近い事象となりました。ある意味旅が二周目になったのかもしれません。

逆に音楽は二周目を終えて三周目になってきている気もします。

”音の新しさ”は勿論大きな魅力の因子だけれども、そもそもBJCに嵌ったとき"新しさ"を意識して聴いていたわけではありませんでした。音楽を音楽として、イデオロギーから解き放たれて聴けるようになりつつある気がします。完全に3周目に離陸するにはまだで、今はエレクトロニクスの新しさとクラシックの瑞々しさに蠱惑されていますがROCKにもJulian Casablancas and The Voidz - Tyrannyやex森は生きているなど昂奮する音源は現在もあります。

そして人生は一周きり。最近、昔の記事に載せていた音楽の歌詞を幾つか消したりしています。このブログは12年前の当初個人ニュースサイトだったのですが、6年前くらいに羅列ニュース記事をかなり消して自分の記事を残して、そして今歌詞への依存も減らして。徐々に己で書く比率を増やしている流れです。

6年後は何かをアテに書くこともなくなるかもしれません。そして12年後は何も書かなくなるかも。最近思うのはメディアに載るものしか観測することは難しいけれども、メディアに載らない世界の方が遥かに深く広いということ。

自分から誇示せずとも豊饒の人生を送る人は夥しく存在するし、アノニマスな芥は兎も角、承認欲求、コミュニケーション欲、自己顕示欲からの解脱はもしかしたら自分の身にも起こるかもしれないということ。

未来には期待と不安が綯交ぜですが、不惑の頃の自分がより善く生きていられるように精進を積んでいけたらと想います。

誰かの撮った写真の場所をみる旅のようなものでなく、第一運動として未踏な実験が行えるような、そして愛情が満ちる。そんな日々を送れたら最高だと想います。

cf.
本音2.0

(失っていたとみられた)ゼロ年代邦楽ベストと現在の都市インディー

Egberto Gismonti - Palhaço

by wavesll | 2017-05-11 01:16 | 私信 | Comments(0)

三木清『人生論ノート』@100分de名著 第3週 ”孤独”や"虚無"と向き合う

c0002171_11145499.jpg三木清『人生論ノート』@100分de名著 第1週 真の幸福とは何か
三木清『人生論ノート』@100分de名著 第2週 自分を苦しめるもの

に続き、100分de名著 三木清『人生論ノート』視聴記。解説は岸見一郎氏です。

哲学者三木清は『人生論ノート』の中で私たち人間は虚無の中に生きるのだと説いた。
海のような広大な世界で、人間は自らを形成して生きてゆくのだ。第三回は虚無や孤独と向き合うことで"人間とは何か"を考える。

虚無について
"虚無"は"ニヒリズム"ではなく、"人間の条件"。
虚無だからこそ我々は生きていく価値があると三木は考えた。

どんな方法でも良い、自己を集中しようとすればするほど私は自己が何かの上に浮いているように感じる。いったい何の上にであろうか。虚無の上にというのほかない。

自己は虚無の中の一つの点である。この点は限りなく縮小されることができる。
しかしそれはどんなに小さくなっても自己がその中に浮き上がっている虚無と一つのものではない。

生命は虚無でなく虚無はむしろ人間の条件である。

けれどもこの条件は恰も一つの波、一つの泡沫でさえもが海というものを離れて考えられないようにそれなしには人間が考えられぬものである。


虚無を大海に例えるなら私たち人間は一つの泡のようなものでしかない。しかし如何に小さな存在であっても海がなければ泡も存在しない。

つまり海は泡が存在するための条件であり、虚無は人間が存在するための条件なのだ。

さらにとてつもなく広大な世界で生きるために、人間には形成力が必要である。

生命とは虚無を掻き集める力である。それは虚無からの形成力である。

そもそも何もないことを押さえて、"無いからつくっていく”。これは前回の虚栄の話に通じる。

泡のような人間という存在、海があまりに広大過ぎて生きていくことに絶望するような徒労感・無意味感に襲われる。

しかし我々は"存在する"という事実から逃れられない。だったら何とかして虚無を掻き集めて自分自身で生きていく"意味"を作っていかないといけない。だから虚無からの形成力という話になる。

人生は形成である
"虚無"を”世界”や”宇宙”に置き換えてもいい。たとえ無意味に見える人生であっても誰かによって決められるわけじゃない。自分で形成して行くしかない。

しかし社会が変容したことによって現代人の自己形成は難しくなったと三木は述べる。

昔は生まれてから死ぬまでに出逢う人間は百人ほどで、限定された社会。しかし今は無限定な社会にヒトは住んでいる。顔も名前もわからない人たちとの関係。

ヒトは"私とあなたの間"に人間を作る。しかし現代は個性を形づくる関係が無数にある。

結果人間は無限定なアノニム(匿名)な存在になる。多くの人と繋がっているのに人は孤立していってしまう。

虚無との向き合い方を三木はこう説く。

今日の人間の最大の問題はかように形のない物から如何にして形を作るかということである。

三木は虚無から何かを形づくる力を構想力と名付けた。そして構想力の為には混合の弁証法が必要だと説いた。

弁証法とは本来、矛盾や対立を統一するやりかた。しかし三木は矛盾や対立を抱え込んだまま混合させるやり方を提示する。

その為には秩序が必要となる。様々な要素の配列や組み合わせを適切に位置付ける。それにより人間は虚無から脱出できる、と。

混合の弁証法:異質な考えを排除せず、すべて受け入れていこうという考え方。

秩序について
どのような外的秩序も心の秩序に合致しない限り真の秩序ではない。
(略)
秩序は生命あらしめる原理である。そこにはつねに温かさがなければならぬ。


秩序とは上から押し付けたり機械的に切り捨てるものではない。秩序には温かさが必要。

さらに三木は国歌の秩序もどうあるべきかも考察した。

第二次世界大戦が始まった頃、三木は近衛文麿を中心とした研究会のブレーンとなり政治の世界に足を踏み入れる。日中戦争をなんとか終結させられないか、時代を生きる哲学者として三木は積極的に国策研究に関わった。

しかし戦争は泥沼化。昭和15年「昭和研究会」は解散。敢えて体制に加担しファシズムや軍国主義に抗してきた三木にとっては大きな挫折だった。

その翌年に三木は『秩序について』を書き上げる。

外的秩序は強力によっても作ることができる。しかし心の秩序はそうではない。人格とは秩序である。自由というものも秩序である。

外的秩序という言葉で三木は国家の秩序を考察する。為政者は自分に都合の良い秩序を強制しようとするが、心の秩序に合わないものは真の秩序とは言えない。

三木は形成の思想から日中戦争を傍観することをせず政治に関わった。

三木は上からの押し付けでは真の秩序はできないと説いた。が、軍部の独走を止める事は出来なかった。

三木は色んな価値を認めるという意味の"価値多元主義"の危うさに気づく。現代の例でいうと「ヘイトスピーチも言論の自由である」と言われれば誰も止められない。

土台になるべき価値を認めなければならない。その「価値体系」の大切さ。

混合の弁証法の話も含め、"価値体系"と"価値多元"は別なのか?→すべての価値を受け容れるのは危険。

人間存在の尊厳を大切にすることを土台としていられれば、多様な価値を内包できる。しかしそれがないと人間は無秩序なアナーキー(虚無主義)に陥る。

何も価値観がないところに新しく強力な価値観を植え付けることは簡単。子供たちに特定の価値観を植え付けることは容易。批判能力がないから。

秩序の根源には「人間の尊厳」を認めるという価値体系が必要

虚無を認識しながら自分で価値観を形成していかないといけないと対で理解していないと容易く扇動されてしまう。「ニヒリズムは独裁主義の温床である」。

一方昭和15年に三木は『孤独について』を発表する。

孤独について

孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく大勢の人間の「間」にあるのである。孤独は「間」にあるものとして空間の如きものである。

三木は"孤独には美的な誘惑があり、味わいがある"と書き、決して"孤独を乗り越えよ"とは言わなかった。寧ろ"たった一人であることを自覚し、孤独に耐えることは生きる上で大切なことだ"とした。

感情は主観的で知性は客観的であるという普通の見解には誤謬がある。むしろその逆が一層真理に近い。

感情は多くの場合客観的なもの社会化されたものであり、知性こそ主観的なもの人格的なものである。

真に主観的な感情は知性的である。孤独は感情でなく知性に属するのでなければならぬ。


三木は孤独を大切なものと説く。大勢との間に「孤独」という隙間を持てる人は迎合しないことでもある。

「孤独は感情でなく知性に属するのでなければならぬ」戦争へ向けてみんなで熱狂していた時代に孤独を説いた三木。孤独のうちにいられることが"強さ"。

知性に属する孤独。知性は煽ることが出来ない、でも感情は煽ることが出来る。

孤独だけが個人の人格、内面の独立を守ることが出来る。不屈の闘志が、この本にはある。

三木清『人生論ノート』@100分de名著 第4週 「死」を見つめて生きる
by wavesll | 2017-04-27 15:17 | 書評 | Comments(0)

三木清『人生論ノート』@100分de名著 第2週 自分を苦しめるもの

c0002171_10473978.jpg三木清『人生論ノート』@100分de名著 第1週 真の幸福とは何か

100分de名著、三木清が太平洋戦争前夜に書いた『人生論ノート』を岸見一郎さんのナビゲートでおくる第二週。今回は虚栄心、怒りと憎しみ、嫉妬についてです。

虚栄心とは

虚栄は人間の存在そのものである。人間は虚栄によって生きている。虚栄はあらゆる人間的なもののうち最も人間的なものである。

人間は生きる上で不安や怖れを抱えている。そこから少しでも目を背けるために自分以上の自分を造り出そうとしている。

全ての人間的といわれるパッションはヴァニティ(虚栄)から生れる。

いかにして虚栄をなくすることが出来るのか。創造的な生活のみが虚栄を知らない。創造というのはフィクションを作ることである。フィクションの実在性を証明する事である。


三木は「虚栄と付き合うには」と三つの方法を提示している。

1. 虚栄を徹底する
仮面をかぶり続けて虚像を演じきる。一生仮面をかぶり続ければそれが本性になる。

伊集院も"芸名である伊集院光としてこうありたい、こう思って欲しいとすることがある、それは嘘を吐くというわけでもない”と述べた。私もハンドルネームでの発言で逆に引っ張られたりします。

パーソン(人間)の語源はペルソナ(仮面)

2. 虚栄心を小出しにする
ささやかな贅沢をする。日常生活で虚栄心を少しづつ満足させる工夫をする。

小出しだと虚栄もボロが出ない。その程度の虚栄ならば徹底できる。

そこそこの虚栄は必要だ

3. 創造によって虚栄を駆逐する
「創造的な生活のみが虚栄を知らない。創造というのはフィクションを作ることである」

「人生とはフィクションを作ることだ」
人というのは孤独ではいられない。他の人の評価を絶えず気にする。でもそういう気持ちから作られる人生は虚栄。自分の意志で人生を創造していけば虚栄を駆逐できる。

虚栄と言っても全てが駄目ではなく、今ある自分よりもより上を目指す、そのために努力をする、向上心とも言える。

嫉妬について

どのような情念でも天真爛漫に現れる場合、つねに或る美しさをもっている。しかるに嫉妬には天真爛漫ということがない。
(略)
愛は純粋であり得るに反して嫉妬はつねに陰険である。嫉妬こそ(略)悪魔に最もふさわしい属性である。


愛と嫉妬は似ている。術策的で持続的な点において。そのため長続きして人間を苦しめる。愛があるからこそ嫉妬が生まれる。嫉妬がさらに想像力を働かして心を忙しくさせてしまう。

「想像力は魔術的なものである。ひとは自分の想像力で作り出したものに対して嫉妬する」

愛と嫉妬は厳密には区別できない。

嫉妬の対象
1. 自分より高い地位にある人

2. 自分よりも幸福な状態にある人

3. 特殊なものや個性的なものではなく、量的なもの、一般的なもの


つまり嫉妬は平均化を求める傾向がある。

相手を低めようとする。自分を高める建設的な努力をしないで相手を貶めようとするのが平均化。

今もSNS等をみるに日本の社会全体が平均化を求める傾向がある。誰かが幸せになることを許さない、みんな平均化を求めている。

それに対抗するには”個性を認める”こと。自信がないから嫉妬する、他の人のようになりたいと想う。"この自分を認めるということ"から始めるしかない。自分を認めることで他者を認める事が出来る。

自分を変えようとする努力を止めたときに変われている

怒りについて・憎しみについて

世界が人間的に、余りに人間的になったとき必要なのは怒であり、神の怒を知ることである。今日、愛については誰も語っている。誰が怒について真剣に語ろうとするのであるか。切に義人を思う。義人とは何かー怒ることを知れる者である。

今日、怒の倫理的意味ほど多く忘れられているものはない。怒はただ避くべきものであるかのように考えられている。しかしながらもし何者かがあらゆる場合に避くべきであるとすればそれは憎しみであって怒ではない。怒はより深いものである。


腹が立った時に内に篭って憎しみつづけるよりもカラっと怒った方がマシだ

社会の利害関係や不正に対して公憤を覚えるのは必要だ。←戦前の空気に対しての想い

怒り:突発的、純粋性・単純性・精神性、目の前にいる人に対して

憎しみ:習慣的で永続的、自然性(反知性的)、目の前にいない人(アノニム)に対して

怒りには目の前の人への怒りの理由がある感情。しかし憎しみには理由がない。元々の理由は分からず、憎しみを持続するために憎むようになる。憎しみは匿名の相手に向けるもの。ヘイトスピーチなど個人でないものへの反知性的なもの。憎しみから抜けるには知性的であれ。

偽善について

偽善者が恐ろしいのは彼が偽善的であるためであるというよりも彼が意識的な人間であるためである。

偽善者が意識しているのは絶えず他人であり社会。彼らは他者の評価や社会的な評判だけを意識して求められた役割だけを果たそうとする。つまり善悪の価値基準を他人に任せて自分で判断しない=精神のオートマティズム

道徳の社会性というが如きことが力説されるようになって以来いかに多くの偽善者が生じたであろうか。

これが発表されたのは昭和16年8月。数か月後の開戦を前に翼賛体制の重苦しい空気が言論界にも立ち込めていた。

今日どれだけの著作家が表現の恐ろしさをほんとに理解しているか。

偽善者は往々にして権力に阿り、他人をも破滅させる。三木のメッセージは言論人への警鐘だったのかもしれない。

"道徳の社会性"とは個人よりも社会が優先される考え方。個人の幸福を唱えてはいけないという時代背景の中でこの言葉が使われている。

もう一つは倫理が上から押し付けられる時勢を念頭に置いている。一人一人が納得し時に疑問、否定をしないといけないのに道徳の押し付けがされる時代は非常に危険。

異を唱えない人たち=”偽善者”
言わなきゃならないことを言わないことを反省し、自己保身でなく言わなければならないことを言う表現者としての責任を決して忘れてはいけない。

言論者・表現者の責任は”〇〇を言った責任”が意識されがちだが、"言わなかったことも「責任」"

三木が戦争前夜の空気の中でこの本を発表した事。表現の仕方を考え詰めて発表したことは貴い。三木は思想を理由に殺された。

思想や信条を理由に殺されることがつい数十年前に日本で起きたことを我々は忘れてはならない。これから同じことが繰り返されぬために言うべきことを言う勇気を持たなければならない。

三木清『人生論ノート』@100分de名著 第3週 ”孤独”や"虚無"と向き合う
三木清『人生論ノート』@100分de名著 第4週 「死」を見つめて生きる
by wavesll | 2017-04-27 15:02 | 書評 | Comments(0)

三木清『人生論ノート』@100分de名著 第1週 真の幸福とは何か

c0002171_10454236.jpg三木清『人生論ノート』(青空文庫)

好きでよく見ているETV「100分de名著」でアドラー研究者で著名な岸見一郎さんの解説により三木清の『人生論ノート』が取り上げられ、大変滋味深く番組を観ました。

三木清氏自体への説明は
哲学者・三木清が『人生論ノート』に至るまで(NHKテキストView)
三木清 人生論ノート(松岡正剛の千夜千冊)
あたりをご覧になっていただいて、ここでは『人生論ノート』は戦争の不穏な暗い時代に三木が「怒」「孤独」「嫉妬」「成功」など私たち誰もがつきあたる問題に、哲学的な視点から光を当てて書かれた一般向けの哲学的エッセイとして書いていたとだけ触れておきましょう。

このエントリでは番組で取り上げられた三木の思想と伊集院などの解釈等を記したいと想います。

幸福について

今日の人間は幸福についてほとんど考えない。(中略)幸福を語ることがすでに何か不道徳なことであるかのように感じられるほど今の世の中は不幸に充ちているのではあるまいか。

国家総動員法の下、個人が幸福を追求することが許されない時代。

幸福の要求が今日の良心として復権されねばならぬ。と三木は説きます。

三木がこれを書いたのは個人より社会を優先しようとするファシズムの下、幸福への要求が抹殺されていた時代。
しかし現代も「自分幸せでーす」みたいなのって言いづらい。同調圧力により個人の幸福が蔑ろにされているという状況は今日にもある。

三木清は逮捕され投獄され、大学を追われ在野の哲学者として『人生論ノート』を書いた。

幸福は徳に反するものでなくむしろ幸福そのものが徳である。
我々は我々の愛する者に対して、自分が幸福であることよりなお以上の善いことを為し得るであろうか。


あの時代、自己犠牲や滅私奉公が徳とされていたので、幸福=徳は危険な思想。しかし自分が幸福であることは"利己主義"ではない。例えば介護について。自分を犠牲にして介護するから徳ではなくそれを全うするから幸福ではなく、自分が幸せでなければ人を幸せにすることすらできない。

成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった

三木は成功は"過程"であり、幸福は"存在"であるといっている。「こういう目標を達成出来たら幸せになれる」というのは成功を求めている。しかし何かを達成出来たら幸せになれるのではなく人はもうこの瞬間に幸せであるという考え方。これが「幸福は存在である」というもの。

必ずしも成功と幸福は繋がっているのではなく、幸福とは各人にとって"オリジナルなもの"。
「絵にかいたような幸せ」と「本当の幸せ」は別。

成功は"量的"なものと三木は言う。そして幸福は”質的”なもの
誰もが真似できないオリジナルな幸福を持っている。それを追究すべきで、誰もが求めそうな幸福を追い求めてはいけない。

幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。

しかし真の幸福は彼はこれを捨て去らないし捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。

この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である。


刹那的な幸福、いつわりの幸福をコートを脱ぐようにためらうことなくいつでも脱ぎすてられる人が本当の幸福なんだと三木は考えている。でもいつわりの幸福は脱ぎすてられるけれども、絶対譲れないものがある。それは”人格・命"である。それが真の幸福。

心筋梗塞で仕事を失い、ベッドの上で逡巡したとき、自分が生きてることが幸福なんだと想えた時に、どんな困難でも耐え抜き生き抜けると岸見さんは想ったという。

"幸福感"と"幸福"は違う。高揚した感じ、情緒的な感じ、感覚的な感じではない。真の幸福は熱狂を醒ますもの。幸福とは"知性"で考えるもの。感性で捉えるものではない。

自分自身の幸福とは何かを考え抜かなければならないし、それを放棄してはいけない。
三木は戦争の末期に投獄され、敗戦しても解放されず、獄死する。しかし彼の言葉は今も活きています。

三木清『人生論ノート』@100分de名著 第2週 自分を苦しめるもの
三木清『人生論ノート』@100分de名著 第3週 ”孤独”や"虚無"と向き合う
三木清『人生論ノート』@100分de名著 第4週 「死」を見つめて生きる
by wavesll | 2017-04-26 21:10 | 書評 | Comments(0)

Timket(Ethiopia) & Fatele(Tuvalu)。 地域古来の原文化と西洋の混合聖歌想

Timket Celebration in Ethiopia


エチオピアというとÉthiopiquesシリーズを始めとする、ちょっと演歌にも似た濃さのある爵士の音楽文化があることで知られていますが、かの地で行われるTimkatという宗教祭の映像をみて、これはいいなと感じたのでした。
1月19日を挟んで3日間に渡り開催される、キリストの洗礼を祝う行事です。祭りは数々の教会の十戒を収めた「契約の箱」を象徴する「タボット」を僧侶が持ってくることからスタート。沢山のベルを鳴らし、トランペットを吹き、そして香を焚きながら、聖なる水または小川に近いテントへと運びます。そして祭りの本番となる翌日、豪華な衣裳に実を包んだ司祭や僧侶達は、タボットの周りに集まり水をまき、誓いを新たにします。

その後、タボットが収められていた教会へと帰る間、歌や踊りが続く中で司祭、長老、聖職者などの祝辞が続きます。そして最終日は、エチオピアで一番人気のある大天使「聖ミカエル」に捧げられます。アディスアベバでは町の北東に位置する「ジャン・メダ」に多くのテントが建てられ、2時に行われるミサにランプの火を灯して参加。暁には僧侶達が、近くの川に儀式用の十字架でセットされた蝋燭の火を消します。このお祭りは誰でも見学することができます。(from DTACエチオピア観光情報局)
この時に使われる鈴がエジプトのシストラムのような形状で、基督教とAfricaの文明の混血具合がなんともいえぬ聖性を生み出していると感じました。

その時に想起したのがツバルのFatele.

Fatele Vaitupu-Aku tama ke gali te aso, 2005


Fateleはツバルのミクロネシア文化の舞踊と音楽。ここに西洋からのメロディー等の影響が加わり、一時期西洋の支配者に禁止され、その後サモアの祝祭音楽舞踊が入る形にもなり、現在の形になったとされます。

先月リマに行ったとき、元々の精霊を祭る聖壇が潰され、カテドラルが造られている様がガイドされました。

ガイドさんに「西洋の征服者の建物が世界遺産として保持されているのは正直ペルーの人としてはどんな気持ちを持たれますか?」と聴くと、「リマの人たちは混血が進んでいるから色々あるけれど、地方の先住民の血が濃いところはやっぱり考えが違って」ということ。

ドラッカーもその著書で「世界は肯定的であれ否定的であれ西洋と関わらないと在れない時代になった」というようなことを言っています。我が国でも天皇陛下もスーツを着ているし、一般的な日本人も洋服だったり。アイデンティティ、血・文化の問題は誰もが得心行く姿は難しいもの。

西洋と向き合う形を考えるに、TimkatとFateleの聖歌はクレオール文化としての内発的な西洋の受け容れとして津々と響きました。

日本や韓国、台湾なんかのカフェをみると西洋よりも西洋らしいというか。『天空の城ラピュタ』であったり、Downyの青木裕のソロアルバムにも感じますがAsiaが解釈したEuropeが存在します。

一方でメドヴェージェワ選手のセーラームーンであったり、日本がみたものに更に影響を西洋が受けている時代であるのも面白い。それは日本がジャポニズムやクールジャパンの"海外が見るJPN"に逆に影響を受けたりするのに似ていて。

文化的な影響力の波は勿論移民と言ったような外発的な形もあるけれども、文化の持つ内発を誘発する形で"国際的な共棲"が起きたらいいなと。双方向の共棲の上で地域ごとに特別な色がくっきりと浮かび上がるような。血よりも濃い文明で生きる地球があっても良いかもしれない。TimkatとFateleの神なる響きにそんな祈りを持ってしまいました。
by wavesll | 2017-04-26 18:31 | Sound Gem | Comments(0)

初音ミク X 鼓童 Special Live Performance 耳形成

[HD720P] This is NIPPON Premium Theater, Hatsune Miku x Kodo Special Live Performance


音楽の話してて一番困るのが相手がダサい音楽好きな時とかないですか?

二重の意味で言えないというか。相手への気遣いという点もあるのだけれど、自分自身の好みも時と共に変わるし、『今はその音は熱く感じない』位が正確なところ。未来の自分が好きな音楽は今はわからぬものです。

逆に昔は好きだったけど今は…という場合もあり。大体数年前に嵌った辺りが個人的に逆にダサくなるというか。

音楽は変わらなくても生体としての自分が変容するのを実感し、過去・現在・未来の中で「その音楽ダサいっしょ」というのが憚られるというw

この初音ミクも数年前の自分だったら受け付けないものであったと想います。

初音ミクも発表から10年。ボカロ技術もこなれてきたのもあるし、アイドルチューンにも流石に段々慣れてきたのもあるし、EDM&ヴォコーダー耳が出来たというのもあるかもしれないし、洋楽主体に聴くと普通のJPOPよりこれくらいストレンジな方が逆に聴けるのかも。

とまぁ色々言い訳してますがw複雑で江戸エキセントリックな初音ミクチューンに鼓童がオーセンティックな風味を加えていて、私自身は先日NHKBSプレミアムで放送されたこのライヴ、楽しくみれました。

何しろ、音楽は好き嫌いが千差万別で。自分自身の中でも好みは変容することもあるし、音楽好きだからこそ異様に拘り強い人いたり、野球や政治、宗教並に世間話で出すと地雷踏む確率高い気も。

『これ最高っしょ!』『これはダサいよね…』の共通認識がまるで成立しないことが多いから、音楽好きは『他人は他人、自分は自分』という多民族共生に必要なお互いに個人主義を尊重する観念が鍛えられてると想う処。その分同じものが好きだと判明すると歓びもひとしおw
by wavesll | 2017-04-25 19:48 | Sound Gem | Comments(0)

世の中プライドばっかり高い馬鹿ばかりだから

North Korean National Anthem - "Aegukka" (KO/EN)


北朝鮮危機に関してかまびすしいここ数日。Web上でも百家争鳴しています。

ここぞとばかりに『日本はもう駄目。こうだから駄目なんだ』と声を上げる人もいたり。
でも“苦くても良薬”って文脈を共にしてない人には通じなくて。リベラルの人が“危機”に実行力を持てないのって結局そこ。プライド高い馬鹿ばかりなんですよ世の中。そこを保守は分かってるから強い。

伝え方が九割というか、適切な礼儀というか。"普段こういう話しても小馬鹿にしてあしらう癖に"とか"きちんと考えず聞く耳持たずリソース割かないからこうなるんだ"とかチクリとやりたい気持ちも勿論分かります。

『日本はもう駄目だ』と言いたくなるくらい経済も学術も下り坂、幼稚な政治etcで、日本を愛すが故に今の日本を憎み見下すのもわかります。

しかし現実に状況を変えていく仲間をつくって実行力を本気で持ちたいなら、日本人は無駄にプライド高い馬鹿ばかり(勿論私も含めて)だから、言い方を工夫しないと自慰行為だとも思うのです。

私も昔、しんどくても働いている社会の先友に『資本主義の豚!』と暴言を吐いて総スカンになったことがあって。あの頃「北朝鮮が東京にミサイルを落としたら日本国民は再軍備に一気に傾く」とか言ってて今じゃ笑えなくなってるのが笑うしかないのですが、自分自身のしくじりをWeb論客の方々に伝えたい気持ちがあります。

日本は国防を合衆国に投げる無責任体質だし、日本人には社会問題、政治課題に関心を払わない癖に自分自身は自分自身の責任を果たしていると信じて疑わない勝手な人もいます。自分がクズだと認識していない。足りていると想っている。

そんな自分の生き方が正しいと無批判に信じているのに一時期は驚愕したものですが、今は己を否定してしまうと鬱の螺旋になって仕事が廻らないと感じますし、「俺らダメだぜ~」でやってくには社会は悪意が多すぎて。批判の矢面に立つにはそれは余りに無防備だと今なら理解できます。みんな自分の仕事で頑張っている、それは尊いです。

一方で人間、自分が理解できることしかその凄さが感じられなくて。そして多くの人は自分自身がスタンダードだと疑わない。社会や政治に関心を払う位の余裕がないほど労働強度が高いこともあるでしょう。

だからこそ、こうやって社会情勢に関心が集まっている時に、嫌味を言わずに度量を魅せると、価値が認められるのになと想います。普段の無理解から怒りがたまってこのチャンスを不意にする人、結構いるけれど。

ま、怒りってのは基本的には甘えですよ。自己追及できてないんだから。とは言え反撃しないといつまでも嫌な思いをさせてくる人間がいるから、自分が弱いと認めて怒ることが大事で。ただ政治的には言い方が9割だったりドブ攫いが大事だったり。

知識ある人達が“どうせ分からない意味がない”と言葉を濁し、素人が“どうせ分からない意味がない”とやっちゃって象牙の塔がWebでの島宇宙になっては残念です。

実際、専門的な世界へ行くといわゆる世の中の"常識"とは異なった理論で動いていて。そこで世間からの無理解にあまりに多くの人が傷ついて、攻撃性を持たざるを得ないようにも感じます。理解者が身近に一人二人いれば大分精神は安寧しそうだけれど。

そういった無理解と批判の応酬を和らげるために、社会の公器であるマスコミが真っ当な仕事をしてくれたらいいですね。コミュ力の権化の芸人でなく、専門家を尊ぶ価値観があればなぁと想います。

とまぁ自分を棚上げにして一席ぶってしまいました(苦笑)シャープにいらんこと言わない方が格好いいんだけどなぁw恥ばっかりかいてきたし、今後も恥の多い人生でのたうち回るのでしょう。こういう時ロック・アティチュードはダサカッコよさ肯定で便利ですねw

Green Day - Minority (Video)

by wavesll | 2017-04-24 21:46 | 私信 | Comments(0)

ヨアキム・トリアー『母の残像』 ペルソナが剥がれる"本当の瞬間"の家族の肖像

「母の残像」予告編


c0002171_5375750.jpg伊勢佐木町のジャック&ベティでヨアキム・トリアー監督による『母の残像』をみました。大変に心揺さぶられました。

交通事故で死んだ戦場写真家の母と、残された父兄弟の物語。この三人それぞれに私自身を観た思いで。『カルテット』『人間の値打ち』等、昨今の人間ドラマの傑作群にこの作品も連なると想います。

何しろ役者たちの演技が上手い。イザベル・ユペールのキャリア・ウーマン然とした不敵な笑み、ジェシー・アイゼンバーグの賢く好感度の良い青年然とした顔、そして何より名演だったデヴィン・ドイルドの"難しい年頃の少年"の顔。「まさにどんぴしゃの顔つきをしてる」と惚れ惚れしてました。

しかし劇の終盤“それらはペルソナだったのかも”と想って。ペルソナが剥がされた顔。何とも名付けられない、粗く素の顔。それが映されます。

そんなものはみせずに済むならそれでいいだろうし見せたくないものでしょう。少なくとも社会生活を送る上では。ある意味一番ギャップがなかったガブリエル・バーン演じる役者の父親は職務を引退していました。

単なる"本音"とも違うペルソナが剝がされた"本当の瞬間"、それが印象的で。

半ばぶっちゃけというか隠し事なく話をする父、彼とギクシャクする弟。私自身弟とは上手くコミュニケーションが取れない人間で、「こういう奴あるある」とみてました。

しかし、好きな女の子に長文の告白録を渡そうとしたりとか、自分に一種の靈力があると想ったりとかをみてると「こいつは俺でもあったのかもしれない」と想って。そういった意味では世渡りが上手そうな兄が一番遠いのかも。

そして、女の子が自分の中での崇高な存在でないことを受け容れて、エゴを押し付けるだけから相手とコミュニケーションの度量を持つ、男へのステップを上るシーンも良かった。女の子の側にも純な良さがあったのも。

失った人からの残像は、自分の心が生み出した共に生きる想像。仲違いした人を夢見することもあるなと想ったり。人が生きていく上で溜まっていく精神的な残骸たち。そういうものを人間ドラマはデフラグしてくれます。心をさらってくれる、素晴らしいフィルムでした。
by wavesll | 2017-04-17 05:38 | 映画 | Comments(0)

LEGOムービー -レゴの楽しさとアウトプットの得意な人不得意な人双方向の理解の物語

The LEGO® Movie - Official Main Trailer [HD]


レゴランドのオープンに合わせて映画天国で流れた『LEGOムービー』。これがめちゃくちゃよくできていて。

主人公のノリとか、重苦しくなく終始みていて明るい感じがするとか、何より本物のレゴを使ったかのような映像などこどもが大好きになりそうな空気感に包まれながらも大人がみても面白い名作でした。

主人公はマニュアル人間で、作中で自由自在にレゴを組み立てるレゴの達人たちから「駄目な奴だ」とみられるのですが、その"普通の人間"という特性を生かしたハックで活躍します。

この映画はマニュアルに頼ってばかりの人間が自分の頭で考えられるようになるというドラマと、自在に活躍できている人達が自分たちがそれに驕っていることに気づき、普通の人の価値を尊ぶというドラマ、その双方向の理解が描かれているのが素晴らしく感じました。

どんな人たちも、生きる営みを積み重ねていて。すべての面ですべての人を凌駕している人はいなくて。個人個人それぞれでこの世界を航海している。ヒトは全知全能ではないからこそ、互いに貴ぶことができる。これは年を重ねるごとにその想いを感じます。

昨日の記事で「Webに何も書かずにROMるだけでフリーライドしてる人」についての複雑な気持ちを書きましたが、自己表現であったりアウトプットをしていない人でも、その内面には豊かな世界が広がっていることは自明で。逆に上手く話を引き出す技を習得出来たら私なんかは一皮むけるのになと常々想っているところです。

宮崎駿は作品として取り組むことにゴーを出すためには三つの条件がある、というようなことを言っていた。「それはつくられるべきものか」「それはつくるべきものか」「それは売れるか」という三つの問いにパスすることという言葉があったと聴いたことがありますが、この映画はまさにそういう感覚を与えてくれる『LEGOムービー』。


またレゴがメタ的にもレゴなところがいい。子どもも、かつて子どもだった大人も、そして大きなお友達も満足できる映画。これをみてちょっとレゴランドにも行ってみたくなりました◎

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by wavesll | 2017-04-13 06:11 | 映画 | Comments(0)