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正論を吐いてるつもりがフォースの暗黒面(憎しみ・批難・不満)に堕さないようにする心的スタンス

「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」

 世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、
「世間というのは、君じゃないか」
 という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。

(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

 汝《なんじ》は、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣《あくらつ》、古狸《ふるだぬき》性、妖婆《ようば》性を知れ! などと、さまざまの言葉が胸中に去来したのですが、自分は、ただ顔の汗をハンケチで拭いて、
「冷汗《ひやあせ》、冷汗」
 と言って笑っただけでした。

 けれども、その時以来、自分は、(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。

 そうして、世間というものは、個人ではなかろうかと思いはじめてから、自分は、いままでよりは多少、自分の意志で動く事が出来るようになりました。

ー太宰治『人間失格』

土用の丑の日は、もうダサイことにしようぜ…
人でなしになりきれないニンゲンの意見

と鰻への想いを連呼しているのですが、こんなに土用の丑の日DISをしている人間がいても身近な人間にも鰻を食べた者達が散見されて、嫌な気持ちに苛まれます。

とは言え、俯瞰すればグリーンピースなんかには自分も醒めた視線を向けているし、こうした時に相手を動かしたい側が声高に叫ぶのは合理的な策ではないと想います。

いっくら口酸っぱく言った所で肉親すら動かせないんじゃ…と想いますが、宮崎駿ですら作品の想いが伝わらないと悩み、対象年齢をポニョまで下げていったという逸話を引き合いに、「ロリならぬ次世代にしか未来はないのかもしれぬ」と嗤った方がいいかもなんて想ったり。

まぁ、この状況下で鰻を食べることを煽るメディアや食べちゃう人間は愚鈍というか、無知蒙昧というか、世間や「普通」ならば問題ないという自らの頭で考える知能のない人間だなとは思いますが、と同時に「僕の思い通りにならないなんて嫌だい嫌だい」なんて愚図るのも無様で、「他人は他人、己は己」と峻別するアドラー心理学的な割りきりが必要なのだと想います。他人は所詮他人なんだから。

「社会正義」を成そうとして、寧ろ毒にまみれて嫌われる人を散見します。

「毒を吐く」ヒトは、外部から嫌な気持ちにさせられて体内で生成された「毒」を吐いていて、当人としては致し方のない防御反応なのかもしれません。

しかし毒塗れの人は嫌われてしまう。この非共感メカニズムはアダムスミスも『道徳感情論』に描いています。

黒いヘドロ、フォースの暗黒面に囚われないためには、あくまで"自分は自分が欲することをしている"という観点に立脚するといいと想います。

不愉快なことを「俺はそれは不愉快だ」というのはよくても、そこに「正義」の御旗を掲げると途端に心は不安定になります。「当たり前・普通」が為されないと、黒いヘドロが生成されてしまう。

あくまで「己の欲望」と捉えた方が発散的で、心的バランスを崩さないように想います。それは優しい幻想のない酷な話だけれど、酷(Cool)で実際的なスタンスだと、私は思います。(と書くことで発散する方策w 鰻の資源消費をサステイナブルにしようとする者たちにフォースのご加護のあらんことを。

John Williams Conducts The Main Theme From Star Wars

by wavesll | 2017-07-26 08:05 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

人でなしになりきれないニンゲンの意見

Linkin Park - The Messenger


土用の丑の日DISがまるで社会正義を嘯くいい子ちゃんみたいになっていますが、逆で。

鰻大好きだから持続可能に食いたく、ワシントン条約に引っかかるようになって食えなくなって欲しくないから価格メカニズムや法規制でウナギを守りたい。根底に欲望のない主張は信頼ならないと私は想います。

例えば私は旅行が好きで。特に海外旅行には胸が躍ります。しかし地球温暖化という意味では大陸間を航空機で飛ぶことは排出ガスから大変に悪い行為で。

だからエコロジストを自認する人間が世界を飛び回ってる、なんてのはとんでもない自己矛盾だと想うのですが、私自身も自分の欲望を優先し旅してしまいます。

また、鰻を買わないという行動が消費者として最も大きな意思表示だ、なんて思ったりするのですが、ブラック企業、例えばユニクロではなるだけ買わないようにしていても、大手コンビニなんかは気にせずに利用してしまったり。Amazonもマケプレなんかは利用してしまっています。レインズ系飲食店やアリさんマークの引越社は絶対使わないけど。

陰鬱な哲学者は"全世界で悲惨な暮らしをしている人がいるのに幸福を享受するのは罪だ"というけれど、それは"自然"から求められるところではない、なんてアダム・スミスの論がありますが、他人の気持ちを踏みにじった時、悪く思う気もしながら、どこか権力の快楽を感じたりもするゴミ具合。自身の行為を全部振り返って、自分のことを善人だ、とか、真っ当な人間だなんてとてもじゃないけれど言えません。

キリスト教には原罪なんて言葉がありますが、罪を犯していない人間はいません。

「自分は真っ当な人間だ」なんて言いながら土用の丑の日に嬉々として鰻を食っていたり、意識高い系を自認するのに飛行機を使いまくってる人間には「お前クソ野郎じゃねえか、勘違いするな」と言いたくなります。

かといって自分は悪くないって思ってるヒトの方が悪なのか、自分は悪いよと開き直ってるヒトの方が悪なのか。まぁ両方悪です。

個人的には自分は悪くないと思ってるやつの方が気分悪いけれど、「自分は悪だから、悪の道を突き詰めたっていいんだ、俺は糞野郎なんだから」とやられたらたまらない。

そう考えると、日本人よりも海外の方が犯罪が多いのは、海外は「自分はクズだ(から犯罪して当然だ)」という人間が多くて、日本人の方が(それも勘違いなのだけれど)「自分は真っ当な人間だ」とプライドを持っている人間が多いからかも、なんて思ったりします。

さて、色々とこじらせているアスペ気味の自分は、自分のことを無批判に"真っ当だ"なんて思えません。それどころか、突き詰めて言えば、この世の人間は全員あるく糞袋みたいなものだとすら思ったりします。

それでも。自分は汚点があると認識したうえで、出来る範囲は善き人間であろうとしたい。100%の善人になれなければ100%の悪人になる、なんて0-100の思考ではなくて、勇気ある灰色の姿勢をゆければ、なんて思います。

さて、鰻。

欲望を抑えるのではなく、サステイナブルに消費できる資源を拡大していくことこそがベストな道で。20世紀を乗り越えていくというのは、そういうことなんじゃないかなと想います。

このままではワシントン条約で規制され一気に鰻が食べれなくなるハードランディングになる未来がみえていますし、水産庁が動かないのも大きな要因ですが、お上に任せる豚になるだけでなく、消費者としても自律的に不買行動で示すのが必要だと私は思います。

今はWebを探索すれば代替食品はかなり見つかるのですが、正直代替では状況を変えるのは難しい気がします。"鰻系"で"鰻を越える"のが生まれるのがゲームが決定的に変わる時だと。

さらなる快楽による解決策を模索したくて。たとえば酒は私も大好きで最近金麦が案外行けるじゃないかと思う安舌人間なのですが、ビールを止めるには禁欲ではなくて別の快楽を用意するのが手っ取り早いと想います。

例えば数日飲まないで本を読んだりオーディオで音楽を聴いたときの脳内麻薬を味わったとき「飲まないのも悪くねえな」と想ったことがあります。

蛇の道は蛇。欲望を絶つことで寧ろ快楽が増えるような有機体の神秘を、どっか活かせないかなぁなんて、悟っても善人でもないけれど人でなしにもなり切れない、でも『何も考えずいい塩梅』になれないくらいは色々こじらせてるニンゲンとしては想うのです。まずは土用の丑の日の旬でない鰻は完全スルーから。
by wavesll | 2017-07-25 22:20 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

アダム・スミス著 村井章子+北川知子訳『道徳感情論』ー"もしアダ"が書きたくなる稀代の"いいね論"

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アダム・スミス 著, 山岡 洋一 訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』を読んでから、"次は『道徳感情論』だな"と考えていて。訳の読み易さから日経BP アダム・スミス (著), 村井 章子 , 北川 知子(翻訳) 『道徳感情論』を手に取りました。

「人間というものをどれほど利己的とみなすとしても、なおその生まれ持った性質の中には他の人のことを心に懸けずにはいられない何らかの働きがあり、他人の幸福を目にする快さ以外に何も得るものがなくとも、その人たちの幸福を自分にとってなくてはならないと感じさせる」

"人間は自己利益を追究する生物だ"という『国富論』に対して、"ヒトは共感によって行動する"という『道徳感情論』、実際に読んでみると現代においては極めて優れた"いいね論"であり、『もしもいいねが欲しくてたまらないSNSユーザーがアダム・スミスの『道徳感情論』を読んだら』という二匹目のどじょうを狙いたくなるネタ満載のクラシックでした。

アダム・スミス教授は、確かに"ヒトは共感するもの"と書いているのですが、"何を良しとするか"について極めてシビアな共感の条件を挙げています。

例えば"怒りや悲しみ、憎しみに人は共感するどころか怒っている人に不快感を覚える"だとか、"喜びには比較的共感しやすいがそれは嫉妬心がない場合に限り、大きく儲かったとかよりも些細な喜びが共感を集めやすい"だとか。

中でも心に残ったパンチラインは”隣人が愛せる以上に自分を愛してはならない”。「汝のごとく汝の隣人を愛せよ」から更に進んだ、客観性の極致がこの思想にはありました。

"いいね"をもらうだけでなく、"自分が他者にいいねする"事についてもスミス教授は示唆を与えています。"いいね"を大盤振る舞いしても有難がられず、根拠がきっちり相手も理解できる時に恩賞を与えるのが効果的だと。

ここら辺は私自身は異論もあって。常にポジ出してくれる人は嬉しいし、幸せの閾値を下げると当人もよりHAPPYになるのではと実感から想いました。

アダム・スミスはかなりエスタブリッシュメント寄りな論客で。権力と財力がある人をヒトビトは尊敬するし、そうした貴族が素晴らしい流行を生み出したりする、寧ろ革新勢力は世の中の秩序を乱すことも往々にしてあるし、という論を述べています。

貧乏人が資産家・権力者を目指すのは犠牲にするものが大きすぎる、なんて話は現代社会では馴染まない考えにも感じました。ちょっとスミス教授は保守的にすぎる感もありました。

そして『道徳感情論』の思想の大きな特徴は"『自然』を受け容れる"ということ。
共感の心の行き届く範囲も、遠い地の大災害よりも自分の些細な傷の方が大きく感じるのは自然だと。

陰鬱な哲学者は"全世界で悲惨な暮らしをしている人がいるのに幸福を享受するのは罪だ"というけれど、それは"自然"から求められるところではない、というアダム・スミスの論。

スミスは本書で"自然"を神だとか本能と言った意味で使っていると感じました。神の見えざる手ならぬ"自然の見えざる手"が人間心理を情操していくと。アダムスミスの保守思想は、"神が創ったこの"自然"世界を肯定する"という宗教心から生まれているように想います。

"自然"からすれば、何かの"いいね"を言うことは善だけれども義務ではなく、されなくても文句は言えない。
胸中の第三者の視線に応えることが素晴らしい姿勢で、そこに応えている限り、自分自身を誇れるというスミスの思想は強靭な人間工学だと感じました。

人間工学という意味では、スミスは"美の感性"についても語っています。
人の感性はみなれた慣習や流行に影響を受けるし、一番美を感じるのは、平均値・中庸の美だと。

確かに石原さとみなんか見ていると色んな女性の表情が宿っているというか、イデア的なものに美を感じる仕組みが心にはあるのかも、なんて思いました。

アダム・スミスが"いいね"という人間は思慮深い人間、適切さのある人間、他者には寛容で慈悲深く心動かされ、自分のことには微塵も動揺しない人。

また、自尊心や虚栄心は不快さを他者に感じさせることもあるけれど、多くの人はその人の自己評価以上に敬意は払わないから、卑屈な態度よりかは自尊心や虚栄心のある方が好ましいと述べています。

徳への愛、真の栄誉を得ることは偉大なる目標だとスミスは言います。

最大に"いいね"がされる生き方は称賛や褒められることを欲するのでなく、称賛、褒め、"いいね"に値する人間になることを欲するべきだと。これもまた真理ですね。

この読書では数奇なセレンディピティも感じて。訳者後書きを読むとこの本は『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』を訳した山岡 洋一さんの葬儀時に村井さんが名乗り出で、その遺志を継いで行われたプロジェクトだったとのこと。

日経BPの『国富論』もそうだったのですが、本書も非常に読み易く、こうした志のある翻訳書は日本の宝だなと想いました。

経済学とは価値観の学問だという想いをより強くする、社会哲学の書、堪能しました。
by wavesll | 2017-07-13 19:01 | 書評 | Trackback | Comments(0)

青い座禅、縁は流転する ZAZEN BOYS - MATSURI SESSION 2・26 2004 TOKYO

ZAZEN BOYS - MATSURI SESSION 2・26 2004 TOKYO [Album] [2004]


"おお!コレYoutubeにあんのか!"と想ったのがザゼンボーイズのライヴ盤、MATSURI SESSION。
特にこの青盤は『KIMOCHI』といいエモさ全開で、当時は「ZAZENはスタジオ盤よりライヴ盤の方が断然いいな」と想っていました。

私は高校時代はナンバガを背伸びして聴いてた人間で。それこそ『サッポロ OMOIDE IN MY HEAD 状態』を今は無き横浜モアーズのタワレコで聴いて鳥肌立った辺りから本意気で惚れこんでいって。

そこからするとZAZENのスタジオ盤はナンバガが持っていたエモさが減った気がしたというか。ようやくナンバガを追っかけていた当時の私にはまた精神年齢が高くモードチェンジしていたのだと想います。

それでもLIVEでみると座禅は最高で。そしてこのライヴ盤も、今聴き返すと「向井、青いなー!!!!」と想います。バリアオハルじゃねえかと。

Miles Davis - Kind of Blueに一杯の水 第100回酒と小皿と音楽婚礼Fela Kuti - Zombie X Firestone Union Jack IPA 朱夏は此の道 第101回酒と小皿と音楽婚礼にもしたためたことなのですが、ここ2,3年で自分の中で心身のModeが変わりつつある気がして。

どうにも30を越えた辺りから関係性の中の立ち位置が少しばかり変わりつつあるというか、それまでは<評価される/可愛がられる>立場だったのが<評価する/可愛がる>立場になることもしばしば起きてきたというか。

人の上に立てる器の人間ではないこんな自分に、信頼を寄せ頼って呉れる人ができて。そして自分自身としても、ある程度己を信じられるようにもなって。人間関係が精神年齢を進めると実感しています。

相変わらず浮わついた渡世をしているのはいなめないのですが、旅してる時しか生きてる気がしなかった頃より、詩画音楽というレイヤーで心身を満たせるようになってきている己は、案外好きです。

そして完全に意外だったのは必至でボケを考えてた頃よりある程度シリアス気味にネタをやるようにした方がウケがいいということw

みんながツッコミ目指すと揚げ足取りの地獄みたいな世の中になって、実際に今メディア上の語り口がプロもアマチュアもどんどん性格悪くなって自意識過敏な世になってる気もします。

私個人は人生をネタにかけ道化を演じる若人は俄然応援したいところではあるし、連中は楽してるぜ、同時にあいつらも大変ではあるとも伝えたい。

承認欲求を求めてもいいし、みなに好かれなくてもいいし、全てに肯定的でなくていいというエントリにも書きましたが、Webコミュニケーションを追いかけるだけで可処分時間は足りない現状。

その上、古典の名著、グッドミュージック・アーカイヴ、日々のTV/Radio etcetc、幾らでも楽しませてくれる人たちがいる。

今はそんな気脈が通じるままに、来るもの拒まず去る者追わずと明きらめるのも縁かと想えたのも自分の中では大きな気持ちの変化でした。評価されるのを欲すというより評価する側にもなる変化の一つで。

バンドのMagicは確かに存在するけれども、向井秀徳はとてもいい気脈で縁を引き寄せてきたと想います。このライヴ盤のメンバーからアヒトイナザワもひなっちも抜けていくけれど、座禅は強靭に続いていく。

"ずっとこのBANDが続く"ことは叶わない先に、新しい景色が。

縁は流転するのを悟るのも大人の階段かなんて想う文月の23:49、繰り返される諸行は無常、蘇る性的衝動…。
by wavesll | 2017-07-11 23:49 | Sound Gem | Trackback | Comments(0)

承認欲求を求めてもいいし、みなに好かれなくてもいいし、全てに肯定的でなくていい

pokka pokka / Fishmans


NUMBER GIRL - I don't know (ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2002) LIVE


私は面と向かって相手の気分を害することを言うことが苦手で。その癖Webなんかだと駄々洩れさせたりとかして口ならぬキーボードから災いを招いたりしてしまって。空リプの誤配もあったり、結局陰口ですしね。

また、「分からないこと」が我慢ならなくて。人から何かを薦められたときなんかも、その時魅力が分からなくても”この人が薦めるものなのだから、きっといいものなのだろう”と期待値を込めて肯定的な返答をしたりしてしまいます。

その後魅力が分かった時に「最初は分かってなかったのだけれども魅力が分かった!」と興奮気味に伝えて、「何で最初分からなかったときにそう言わないのか」と言われたことがあって。

"そうか、期待値込みでポジティヴを装うのも、それが期待値で今は分かってないと伝えないと裏切りになるのか"と気づかされました。

そう想って振り返ると、世の人は"わからないこと"には寛容なのだなと。

相手の魅力が分からない内は最強というか、どんなに無礼な発言をしても罪悪感は感じないというか。”そもそも価値がないことを分かっているんだ”というスタンスかもしれません。

寧ろ”価値があるんだ”と力説することの方がみっともないことと想われている節があります。いわゆる「承認欲求叩き」なんかも相手が今ある評価に満足せずに承認をさらに求めることに対するいらだちというか。

ただ、そもそも承認欲求それ自体はマズローの欲求5段階説の中のタームで。ネガティヴな色はありません。

食欲・性欲・睡眠欲の生理的欲求、風雨や危険をしのげる安心な暮らしがしたい安全欲求、集団に属したり仲間を得て孤独から逃れる社会的欲求(帰属欲求)が満たされた人間が、次に求めるのが、他者から認められたい、尊敬されたいという尊厳欲求(承認欲求)です。

私も昔はコミュニケーション欲とでもいうか、分解すれば社会的欲求と承認欲求が欲しくて欲しくてクレクレ乞食な無様なこともやってしまって。Blogやmixiにコメントが付かないのに悩んだ時期もありました。

ただそれは狭い村社会に属していたから起きた問題で。Webの公海に出て、Twitterなんかで800人弱の人をフォローして、十数人の方々と良くやり取りをして、そこそこの頻度でいいねなんかが来て、たまに返信コメントが付いたりするとそれで結構満足する自分を発見します。

逆にこのTweetなんか830RTされて1500いいねとかされているんですが、正直言うと通知がひっきりなしに来る感覚で。数字だけだと自分の器では体感を越えているし、寧ろ体感するくらいのリアクションが来たら対応できないと。普通のTweetで3, 4いいねがつくくらいが一番いいというか。

ひとりの人間が親しくつながっていられる最大数は50人から150人程度だという説もありますが、現在のリアルとオンラインのコミュニケーション量で、社会欲求も承認欲求も飽和に近いなと。

そういった意味で、今は"他人にウケることを目的にしているではなく自分が読みたいことを書くためにWebをやってる"、なんてマズローでいえば自己実現欲めいたことを言えるのですが、これも4段階まで満たされたから言えることで。他者からの評価を得るために頑張るって至極真っ当な動機だと想います。

だいぶ話がそれました。元に戻すと、"わからない人間"を相手にするときは相当骨が折れるのが常だと覚悟するか、そもそものターゲットを絞るのが、生業にし数字を求めないなら有効な方策ということ。

”分かっている人相手”でも相当な人数が存在するし、可処分時間でコミュニケーションに割ける分なんかそれで埋まるのが、私は実際の処です。

また、"わからないコトはわからない/わかってはいない”と言うのが誠実だと。

昔の私は傲慢で、身近な人のいうことは何でも理解できて適切に面白さをこちらは判断できるのに周りはこちらの感性を理解しえないことが多いと驕っていました。

しかし、Webの大海に出て、自分自身が大切にしている分野でも先達はいくらでもいて、前は理解できなかったものでも時を経ると良さがわかることを知って。一方で自分自身の理解にも限界があることも知って。

面白く感じていないモノを、わざわざ声高に貶す必要はないけれど、おべんちゃらを無理に言うのも不誠実なのだと今は感じています。無知の知を知った上で、誠実に発言することの大事さを知りました。

こういうサイトを結構な頻度で更新したいと思うとついネタに妥協というか、本心でない褒めをやってしまいそうになります。

でも、金を得ているわけでもないインディーメディアなのだから、本当に書きたいものだけを書くことこそがレゾンデートルだよなと。昔の仲間には"どうせ分からないからぬるいことを言っておけばいい"と考えていましたが、自分で推すものは、誠の心をもって今は発言したいです。

それで読まれなかった時でも"これ読まないなんてもったいないことしてるなぁ"と想える水準を出すのが理想だと。

社会的欲求と承認欲求が満たされたから、自己実現を目指せる。案外私の欲求の器は無尽蔵でもありませんでした。

もしかしたらその先に、マズローが晩年、5段階の欲求階層の上に、さらにもう一つの段階があると唱えた「自己超越」という段階へ行ける時もあるのかもしれません。

”「目的の遂行・達成『だけ』を純粋に求める」という領域で、見返りも求めずエゴもなく、自我を忘れてただ目的のみに没頭し、何かの課題や使命、職業や大切な仕事に貢献している状態”。なんだか読み切りの『ZETMAN』みたいな話ですね。

スピッツ / チェリー

by wavesll | 2017-07-06 23:19 | 私信 | Trackback | Comments(0)

アドルフ・ヴェルフリ展@東京ステーションギャラリーにみる暗部と光辺

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B'z「LOVE PHANTOM」Live Gym PLEASURE95


Lostprophets - Rooftops (A Liberation Broadcast)


アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国展を東京ステーションギャラリーにみに行きました。

初見ではその禍々しさに心理主義とは想いながらも、”この人は相当鬱屈した状態で描いたのでは?それにしてもこの絵、誰にも似ていない、敢えて言うならば綿密に描き込まれた小学生のノートの落書きだ…タペストリーや聖堂的な文様構造体が絵に落とし込まれている…みているだけで鬱の気持ちに巻き込まれてしまうようだ…”と想っていました。

精神病院に入れられ、治療の一環として絵を描き始めたヴェルフリ。彼の妄想の世界は幾つかの物語を産み、「聖アドルフ巨大創造物」を作り地球の土地を買い上げ近代化させるという話では彼は聖アドルフII世として世に君臨しました。

そして明かされる真実、幼くして母と父を亡くし、貧困の中で育った彼が精神病院へ入れられたのは、何度かの女性との交際と破局の後で、14才、7才、3才半の少女を強姦したことからでした。「作品と作家は別」と言われても、これは…というレベル。

と、同時にどうしても"あぁ、この画家はどうしようもない疎外感の中で、『俺を理解してくれ、俺を理解してくれ』と尽きることのない思考の海沼に生涯沈み続けたのではないか…"とも思ったのでした。

己と他者を区別できない幼稚さ、他人が気分を害することを平気でやってしまう押し付け、相手のことに究極的には敬意を払わない甘え、精神年齢の低さと対照的な煮えたぎるリビドー。

私自身が昔、周りの人間から愛想をつかされた頃、そんな状態に陥っていたなと。その頃は半ば精神が過剰になりすぎて、出雲において超常現象の妄幻を旅したりした、危うい時期がありました。

この頃の記述は私にとっては黒歴史なのですが、先日記事を整理したときに眺めると、自分自身のことながら「こいつ薬でもやってるんじゃないか」という精神の異常な火花が異形を顕わしていて、ちょっとした見ものではありました。

ただ、それ以上にショックだったのは、大学の頃の自分の書いたものが何にも面白くないものが多くて…。当時は"なんで内容があるのに評価されないんだ"と想っていたものですが、引用している歌詞・音楽を抜くとスッカスカで。剽窃を消したら、血肉になっていない等身大の自分の小ささを認識せざるを得ませんでした。

10年経つと自分自身も他人になるのか、他人の視点で私自身の文章を眺めると、"これでは伝わらないな…"と想ったものでした。音楽に酔って、そのカオスのままゲロったような文章、しかも自力で考え出したものでもない…それでは評価のしようもないなと。

と、同時に私自身も周りの人間をどこか見下していたというか、"全然面白くない、もっと刺激のあることを書かないと伝わらない"と想いながら”普通”に"つき合ってやっていた意識"があって、”こちらは理解されない”犠牲感が精神を削っていたところもあったように思います。

今、己の興味の小ささを認識できるのは、あの頃よりも少しは自分の脚で立って、興味が広がり、身体性を得たからかもしれません。同時に今興味のないものは興味がないと付き合わない強かさも学びました。

昔は自分のことを読解力と需要の幅が広い、面白さを拾う能力が高いと想っていて、周りの人間は受容体が狭い上、閾値が高い。なんて思っていたのですが、とんだ井の中の蛙。分からないものはわんさかあると認識し「分からないと罪悪感も感じない」と知ると、周囲に無駄に期待しなくなるし、同時に寛容になれます。

同じ目線を共有することも出来るパートナーや他山の石となる自分と似た失敗してる人、自分が理解できない才気あふれる若者、尊敬できる先達との交わり、そして己の未熟さを認識できたのは僥倖という他ありません。

そしてあの頃世界を飲み込むかの如く欲望していた愛情と共感は、案外少量でも十分満たされることを知って。この6年は、幽界から身体を生成してきた時季だったのではないか、俺はヴェルフリには良い意味でも悪い意味でもならず、世界の片隅に庵を持てたのだなと想ったのでした。

そうして2周目の観覧をしました。すると、初見ではカオスの複雑性に噎せかえりみえずらかったヴェルフリの"新しいカタチを生み出す能力、色彩感覚、そして画面構成の妙"といった才を視ることができました。

『グニッペ(折りたたみナイフ)の主題』のシダのような造形。『ニーツォルン=ヴェスト〔西〕トラクター=トンネル=ハル〔響き〕』の小学生さ。『チンパンジー=ツォルン〔怒り〕=タール〔谷〕』『グランド=ホテル, ソルト=レイク=シティ』『氷湖の=ハル〔響き〕, 巨大=都市』『事故=転落, ドゥフィ, =27,386フィートの深さ, ローゼン〔バラ〕=ツォルン〔怒り〕=南壁にて. 北=西=インド, アジア. "35頁" 』の大聖堂のイコンやタペストリーのような聖性。

『ネゲルハル〔黒人の響き〕』の道路・山・楽譜・円・螺旋のデザイン構成、『南=ロンドン』の都市形成性・新しい紋様、『北=アマゾンの大聖堂=ヘルヴェチア〔スイスの擬人像〕=ハル〔響き〕』のシステムとして動いている世界の機械性、『アリバイ』の尽きることのない思考によって描かれ続ける色彩とシステム。『利子計算=最終, 1912年6月1日, 11頁』などといった現実と数字のある作品も。

『林務官の=家, ヴィラディンク, 大-大=ガイザッハ〔ヤギ農園〕=チャッハ, 聖アドルフ=森:帝=国, 中国:アージア』のカオスに酔い『ぶどう酒. フェニン. オリアンダー〔セイヨウキョウチクトウ〕. カロリナ=ケラー〔貯蔵庫〕:精神疾患患者の=施設 』にもシステムを。『神聖なる医大にして=父なる=神の=天使ヴィドンナ』には小学生を。『巨大な=都市, 聖アドルフの=ハル〔響き〕』にはシンプルを。『クリノリン, ギーガー=リナ. 糸つむぎ=リナ. 安楽椅子=リナ. おとぎ話=安楽椅子=リナ. 大=大=女神』にはノートの落書きの至高を。

『象による取るに足らない私の救済』にこの人の色の感覚は矢張り凄いなと。『パリの=美術=展覧会にて』『ロング・アイランドの実験室』ではコラージュも。美術的技術を補うのにコラージュは使われたのかな?『アーレ川沿いの聖アンナの=家の中にいる神聖なる聖アドルフ:ベルン』の水色黒と『気高き伯爵夫人, タマレナ・フォン・ティーガー〔虎〕=ヴァント〔壁〕』の緑黒の清冽な美しさ。『全能なるガラスの=響き』の凝縮さ。『小鳥=揺りかご. 田舎の=警察官. 聖アドルフII世. , 1866年, 不幸な災=難』のカラフルさ、『テーディ:東スイスの:氷河. 標高1,986,000時間, 聖アドルフ, 運搬人, ベルン』の寓話性。

『オイメスの死. 事故.』にみる想念、『父なる=神=聖アドルフの=ハープ』の流水的、『フリードリッヒ大王の揺りかごの側で』の構成力、『テクラ-真珠』のキレイ、『聖アドルフ=墓=泉=城』をみるとこの人はコラージュも良いけどやっぱりこの人自身の鉛筆・色鉛筆がいい、と。『偉大な東の=海にある聖アドルフの=船』の曼殊沙華、『芸者-お茶と小笛〔小煙管〕』なんて写真に色付けも。

遺作となった『葬送行進曲』1929-30シリーズでは『無題(キャンベル・トマト・スープ)』『無題(エスキモー/潜水夫)』『無題(フーバー〔掃除機のブランド名〕)』『無題(恐竜)』『無題(円形の中のアジア人)』と、大分憑き物が落ちてきた気がしました。

やはり1917年あたりの『聖アドルフ=リング, 全能なる, =巨大な=汽船』あたりが一番脂がのっていた狂い具合な気がしました。

アウトサイダーアートというと、原美術館でみたヘンリー・ダーガーの透明な狂気が印象深いですが、ヴェルフリの文字で埋め尽くされたカオスの複雑系には、ヴェルフリ自身の心理をさぐるというより、私の暗部を抉り出される思いをしました。今みれたのは良い機会でした。

東京ステーションギャラリー自体も昔のままのレンガがみれる場もあり、良かったです。日曜迄。特殊な体験が味わえると想います。
by wavesll | 2017-06-17 04:05 | 展覧会 | Trackback | Comments(0)

Memento mori日

Blankey Jet City - Sweet Days


Blankey Jet City / COME ON


一年に一回誕生日を祝うより、一年に一回“明日死ぬとしたら何やりたい”か考える日があってもいい。死を想う日というか。毎日やることこなして、コンテンツ消費して、“で結局何をしてから死にたいのか”見つめるの、良さそうだ。

311の後、結婚が増えたのは「死」を想った人が多かったからでは。"いつか"の前に"死"は来るかもしれない。と。「死」を想うと本当にやりたいことだけが浮き彫りになる。俺は何がしたいかな?イランへの旅?家庭を築くこと?

好きだった人も、亡くなってゆく。好きだったバンドも無くなっていく。好きだった店も失くなっていく。その後で哭くより、生きてるうちに笑いあえるように。"死ぬ前に何がしたいか想う日"、個人的な風習にしようかな、誕生日と紐づけるのもいいかもしれない。Memento mori.
by wavesll | 2017-06-15 23:39 | 私信 | Trackback | Comments(0)

M. マクルーハン『メディア論』 内容でなく表現形態こそがメディアをメディア足らしめている

Yukihiro Takahashi & METAFIVE / split spirit (Vimeo)
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マーシャル・マクルーハン『メディア論 人間の拡張の諸相』を読みました。

彼は"メディア"を通り一遍な見方ではなく、"人間の拡張としての環境媒体"と捉えます。彼のメディア観はこのWeb時代に於いて益々先見の明を感じるというか、
「われわれはその中枢神経組織自体を地球規模で拡張してしまっていて、わが地球にかんするかぎり、空間も時間もなくなってしまった」
という端書きをはじめとして、士郎正宗『攻殻機動隊』1巻を読んだ時のような未来視のヴィジョンを感じました。

とは言え、文中で出てくる言葉の定義が不明瞭な所も。のっけから「外爆発」、「内爆発」って何?となったし、マクルーハンの提唱した「HOTなメディア」「COOLなメディア」というのも、「TVがCOOLで映画がHOTなのの違いは高精細かどうかだけ?」とか今の視点で見るとちょっとはてなとなったり。しかしこの粗いながらもフロンティアを滑走する感覚はまさにクールな面白味がありました。

中でも面白かったのは"メディアはメッセージである"というアイデア。
これはメディアをメディア足らしめている力の源泉は、その"内容"でなく"表現形態"であるという話。

テレビの内容は映画であり、映画の内容は小説であり、小説の内容は書き言葉であり、書き言葉の内容は話し言葉である、メディアをメディア足らしめているのは内容ではないと。

その中で、例えば本は一人によって書かれた個人対個人の告白という形態ですが、新聞は記事群のモザイク状の集合体で"公の集団意識への参加"を発生させる形態である。そして新聞を新聞足らしめている源はその"コンテンツ"ではなく、"モザイク状の表現形式"と"配送やキオスクでの販売によって毎日みんなが読んでいるという環境 / システム"にある。と。

私がこの考えに非常に得心が言ったのは、"WebのCGMサーヴィス"なんかは正にそうだと想ったからです。TwitterをTwitter足らしめている、InstagramをInstagram足らしめている、FacebookをFacebook足らしめているのは"そこに書かれている内容"ではなく、"そのプラットフォームがどんな形態を持っているか"であり"どれだけの人が参加しているか"だと。これを1964年に上梓したマクルーハンの先見の明に舌を巻いてしまいました。

メディアを"人間の拡張"と唱え、ヒトは"拡張した己自身に自惚れる"と唱えたマクルーハン。彼のメディア論が面白いのは"どんな五感が使われているかによっての分類"にもあると思います。

彼は"そもそも西洋文明が発達したのは表音文字であるアルファベットがあったからだ"と説きます。そこに於いて音(聴覚)と文字(視覚)と"言葉の意味"が峻別され、そのディバイドから文明が形づくられていったと。

先ほどの"メディアは形態である"に通じる話ですが、私も昔「マンガは視覚と意味のメディア、音楽は聴覚と時間のメディア、アニメは視覚・聴覚・時間・意味のメディア」とか文学部の文化論の講義に潜ったとき思ったものでした。確かに西洋文明は"何かを分割すること、その分業"によって形づくられてきた印象があります。

マクルーハンは文字文化は分化を推し進めてきた一方、オートメーション・電気は統合を推進すると述べています。光の速さで地球が狭くなり、Global Villageが生まれる、と。そこでは五感が統合された、参加が促されるCoolなメディア環境があるだろうと。

まさに今インターネットによって"国際的な世間"が生まれつつあります。そしてそれに伴う軋轢も生じ、Brexitやトランプ大統領誕生、欧州での極右政党の躍進が起きている。そんなグローバル化へのバックラッシュの中で"マクルーハンならばどんな未来を視るだろう"とも想うし、単純にスマホやVRゴーグルについての彼の見解を聴いてみたいです。

マクルーハンは我々の技術が環境になることによって心身自体も影響を多大に受ける、そして芸術家のみがその中で平衡感覚を失わず「パンチを逸らす」術を提示する、と説きました。そんなVisionが今世界のどこかで生まれているのかもしれません。我々がゆく未来は、今萌芽している。その蠢きに五感を澄ませたい、そう想いました。

目次

ペーパーパック版への序文

第一部
はしがき
1 メディアはメッセージである
2 熱いメディアと冷たいメディア
3 加熱されたメディアの逆転
4 メカ好き  感覚麻痺を起こしたナルキッソス
5 雑種のエネルギー  危険な関係
6 転換子としてのメディア
7 挑戦と崩壊  創造性の報復

第二部
8 話されることば  悪の華?
9 書かれたことば  耳には目を
10 報道と紙のルート
11 数   群衆のプロフィール
12 衣服  皮膚の拡張
13 住宅  新しい外観と新しい展望
14 貨幣  貧乏人のクレジット・カード
15 時計  時のかおり
16 印刷  それをどう捉えるか
17 漫画 『マッド』――テレビへの気違いじみた控えの間
18 印刷されたことば  ナショナリズムの設計主
19 車輪、自転車、飛行機
20 写真   壁のない売春宿
21 新聞   ニュース漏洩による政治
22 自動車  機械の花嫁
23 広告   お隣りに負けずに大騒ぎ
24 ゲーム  人間の拡張
25 電信   社会のホルモン
26 タイプライター 鉄のきまぐれの時代へ
27 電話   咆哮する金管か、チリンとなる象徴か
28 蓄音機  国民の肺を縮ませた玩具
29 映画   リールの世界
30 ラジオ  部族の太鼓
31 テレビ  臆病な巨人
32 兵器   図像の戦い
33 オートメーション 生き方の学習

訳者あとがき
メディア研究者のための参考文献

cf.
マクルーハンと「メディア論」をソーシャル時代に改めて考えてみる (新聞紙学的)

by wavesll | 2017-05-19 19:47 | 書評 | Trackback | Comments(0)

一周目、二周目そして三周目の人生、旅、音楽

Okada Takuro / Ur (soundcloud link)

ティピカルな挿話1.
SpotifyでAt the Drive-InとSlowdiveの新譜を聴いて、"あぁ、ROCKの音だなと想。

ティピカルな挿話2.
テレ朝の"あいつ、今何してる"の番組予告で芸能人が「なんでみんなそんなにドラマがあるんだ」と言うのに逆にびっくりする。

本論
良くある話で、学生が終わると(新しい)音楽を聴かなくなる、なんてものがあります。

原因は幾つか考えられて、まずは仕事が忙しくなって音楽に割く時間がなくなる。二つ目は友達との遊びがなくなることで、カラオケやダベリといった"コミュニケーションの為の音楽聴取需要"が消える。

ただ、私として推したいのは"リスニングの一周目が大体その辺で終わるから説"で。

音楽に限った話ではないですが、何をみても"あぁアレとアレの掛け合わせね"とか、既視感に囚われる時期ってありませんか?そして今までも聴いていた音楽も段々刺激が麻痺・逓減して、ぶっちゃけてしまうと飽きが来る。そこに上に挙げたような要因が被さり、音楽から気が離れていくことはあるのではないでしょうか?

私自身の"一周目"の話をすると、いつ初めて音楽を意識したかはもう覚えてないのですが、最初に買ったCDはアルバムではハチャトゥリャンの『剣の舞』、シングルではサザンの『愛の言霊』だと想います。丁度小学校高学年くらい。

そこから中学でブルハ、ブランキー、ミッシェルに心酔し、ゆずやDAなんかも聴いてました。そして椎名林檎にもガン嵌り。林檎の艶いグラビアをみるためでもないけれど、一時期はロキノンジャパンなんかも買って。

RIJFは高2の時に2001年のバンプがトップバッターの日に行きました。トリをDAと迷った挙句『スクリューボールコメディー』がフェイバリットだったためレイクのソウルフラワーユニオンで心引き摺られながら「ええじゃないか」でタコ踊りしたのはいい思い出。

高校の頃は誰の目も気にせず"クズクラブ"みたいなのを作って、寧ろ真面目側で伸び伸びやっていた所が、大学では本当に人間的に良くできた人たちに囲まれ、"〇〇君って個性的で面白いね"と言われ、面白キャラに開花、けれど大きな挫折も味わって鬱に追い込まれ、復帰後はますます"ダメ人間道・不真面目道"を突き進む様に。

そのあたりで聴いていたのはフィッシュマンズでした。丁度リユニオンがあって『空中』『宇宙』が出たのもあるけれども、佐藤さんの言葉、サウンドが琴線に触れて。それと共にROVOを聴いたり、ワールドミュージック、特にガムランやブルガリアンヴォイスなんかを聴いたり、当時流行りだった"DJ目線で選ぶJAZZ"なんかを聴いたりしていました。銀杏やシロップも聴いたなぁ。

音楽を選ぶことは自分という人間を表明する事でした。高校の洋楽に詳しい連中と差別化するためにワールド系を聴いたり、或いは大学では仲間内で自己ブランディングの為に"ロック道"を深めたのかもしれません。

mixiなんかで自分の日記の本文の前に好きな邦楽の歌詞を乗っけて先輩から「お前の文章だけ読みたいのに邪魔だ」なんて言われて。当時は寧ろ自分の文章よりも自分の好きな音楽の歌詞を聴いてもらいたいくらいで。すっかりロックという正義の信奉者でした。

閑話休題、学生時代までは私は漫画を読みまくっていたのですが、そしてある時を境に漫画雑誌はグラビアくらいしかチェックしなくなってしまったのですが、マンガを読まなくなった方が現実のヒトの表情を読み取れるようになった気がします。

漫画はあまりに表情が分かりやすく演技づけられていて、その刺激に慣れると生身の人間の機微を捉えられなかったのかもしれないと今となっては想います。同様にあの頃はロックンローラーの言葉の強さに痺れていて、同期や先輩の言葉をちょっと馬鹿にしていたというか。もし今のネット環境におかれたらアスペルガー判定されていたように思います。

ロック思想が自分にフィットしていたのは価値基準の反転があったから。駄目で、下品で、頭悪くて、etcetc、そんなドブネズミみたいな状態こそが美しい。その倒錯を邁進していたものですから、全くモテませんでした。

当時のサークルでの人間関係において己を道化として扱っていた分、ますます音楽で誇りのバランスを取ろうとしていた自分。鬱から脱するときに行った初めての海外、北京旅行で旅に目覚めて。まぁその前に幽霊部員だった別のサークルで北海道自転車旅行なんかもやっていたのですが、音楽と旅が自分のアイデンティティになった気がします。

そして音楽や旅の話を思いっきりぶつけられる友人は(本当はいたかもしれなかったけれど)その時はいなく感じて。寧ろ変人的なポジションになるというか、だんだん「最高だな」と嘯いても上滑りしていきました。

そして就職したはいいものの思いもよらずまたしても鬱で潰れ、人生最悪の時というか、死を考えるちょっと不味いレベルの一時期を過ごしました。

底で「自分は本当に死にたいならば死んでいる。生きたいから生きているのだ。結局のところ今までの自分の人生ひっくるめて、全ての事は自分が全部勘案した上でやりたいことしかやっていなかったのだ」と言うバーサク状態で復活。実際にはストレス源だった会社を正式に退社したのが大きかったと想います。

その状態でmixiへ舞い戻ると皆何も書かなくなっていました。今考えれば会社のしがらみとかもあったかもしれないし、書く時間もなかったかもしれないし、それほど書きたいこともなかったのかもしれません。そこで愚かな私は「あぁ皆鬱ならば、鬱屈した資本主義を全否定してやろう」と大暴れ。

「資本主義の豚が!」とか暴言吐いておいていいねが貰えないことに逆ギレして。寧ろ当時ニートだったお前の方が資本主義の豚だろという。

とは言え図らずも"あぁ、自分はあれだけ大学時代に活動に付き合っていても、『そうしたいことなんだな』と想われただけで、異論を唱えた時『普通に』否定されるのだな"と。今現在の視点から考えれば本当に甘ちゃんな話だなと思うのですが、オウム真理教を脱会した人間の様に憎悪に駆られました。

そんなこともあって、仲間とも疎遠になり。頭が冷えると大きな罪悪感にやられ、「自分の人生は何も与得るものがなく害を撒き散らしただけだった」と自己否定感に覆われ。そこから就職したり、気持ちを晴らして再び旅へ出れるようになるまで、時の流れが必要となりました。

今はやりたくない事には(少なくともプライヴェートでは)"したい無理"でも関わらない姿勢でやりたいように等身大でやっています。只まぁ昔からそうですが脇が甘くて。こんな記事書いちゃうのも危ういとは想うのですが。ただ、ここまで明白に書かないと続きの話に繋がらないかもしれず。

そんな形で大いなる失意から自己否定する中で、先ほど述べたように漫画をあまり読まなくなったり、ロックの言葉を聴くのが辛くなったりしていったのでした。こんな経緯を辿る人間はなかなかにいないとは思いますが、20代も半ばになると青臭い言葉が性に合わなくなってくる人は結構いるのではないかと思います。

それでも大学時代後半に邦楽ロックから少し脱していたのもあって、ワールドミュージックやジャズ、レアグルーヴからファンクへ進んだ自分は2012年にジャミロクワイ目当てでサマソニへ初めて行き、いわゆる"洋楽シーン"へ遅蒔きながら入るようになりました。

2周目の音楽は、インストゥルメンタルだったり、歌があっても外国語で意味はダイレクトに分からなかったりするために、"いかにサウンドとして面白いか"が胆となりました。その時の自分にとっての新しさ。最終的にはノイズやフィールドレコーディング、南米音楽あたりを好んで聴くようになりました。

ここまで行くと、もはや”自分の好きな音楽は誰にとっても好かれる”という妄信は流石にしなくなって。

時代の趨勢でも音楽市場が落ち目になって。思い返してみれば大学の頃だって「良い音楽を聴いてるから好かれる」ことはなく、"どうせわからんだろう"という考えてみれば失礼な諦念で生活していたのですが、世間的にも"音楽は時代を映す共通言語"という鏡ではなくなっていったように思います。

しかし、Webの繋がりの中で寧ろ今までの人生でないほどリスナー仲間が出来る様になりました。勿論、聴いている音の趣味は違えど、ミュージックフリークであることは伝わってきて。

同質性がないことがわかっている"他者"という距離感が寧ろ好いのだと想います。あまりに狭い関係だと軋轢が生まれてしまう。"同じでないことが分かっている関係"の居心地の良さは、海外で言語の意思疎通レベルが低いからこそ仲良くなれるあの感覚にも通じる気がします。

衣食住足りて礼節を知るというか、貧すれば鈍すというか、攻撃的に荒む事と自己尊厳が低い事は有意の相関があり、暴走している人間にこそ愛と敬意のある対処が要るけれども、そういう人間は不快で憎みやすく、事は難しいものです。

敬愛する人から「君は暴言を吐いたり何かを貶さなくてもいい位、私にとって価値のある人間なのだ」と認められることが、どれだけの憎悪をネガポジ反転できるか。

問題はいわゆる"普通の人"だってそこまで余裕ある人生を送っている訳ではない点で。未熟でも"理想的な先達、倫理"を装っていることが、(必要なことかもしれませんが)やはり無理があるのではと想います。しかし何より憎悪は基本的には甘えの一種で。己の価値を落します。逆に敬愛のコミュニケーションがいかに自尊心をもたらしてくれるか。

話したい話を遠慮なくコアに放れ、時に反応もある。私にとってWebとの、そして大切な人との出逢いは僥倖でした。

と、告白録をここまで書いてきました。一時期は旅をしている時しか生きている感覚がないほどでしたが、今、普段の生活にも満たされ、旅はボーナスステージ的な、以前より日常に近い事象となりました。ある意味旅が二周目になったのかもしれません。

逆に音楽は二周目を終えて三周目になってきている気もします。

”音の新しさ”は勿論大きな魅力の因子だけれども、そもそもBJCに嵌ったとき"新しさ"を意識して聴いていたわけではありませんでした。音楽を音楽として、イデオロギーから解き放たれて聴けるようになりつつある気がします。完全に3周目に離陸するにはまだで、今はエレクトロニクスの新しさとクラシックの瑞々しさに蠱惑されていますがROCKにもJulian Casablancas and The Voidz - Tyrannyやex森は生きているなど昂奮する音源は現在もあります。

そして人生は一周きり。最近、昔の記事に載せていた音楽の歌詞を幾つか消したりしています。このブログは12年前の当初個人ニュースサイトだったのですが、6年前くらいに羅列ニュース記事をかなり消して自分の記事を残して、そして今歌詞への依存も減らして。徐々に己で書く比率を増やしている流れです。

6年後は何かをアテに書くこともなくなるかもしれません。そして12年後は何も書かなくなるかも。最近思うのはメディアに載るものしか観測することは難しいけれども、メディアに載らない世界の方が遥かに深く広いということ。

自分から誇示せずとも豊饒の人生を送る人は夥しく存在するし、アノニマスな芥は兎も角、承認欲求、コミュニケーション欲、自己顕示欲からの解脱はもしかしたら自分の身にも起こるかもしれないということ。

未来には期待と不安が綯交ぜですが、不惑の頃の自分がより善く生きていられるように精進を積んでいけたらと想います。

誰かの撮った写真の場所をみる旅のようなものでなく、第一運動として未踏な実験が行えるような、そして愛情が満ちる。そんな日々を送れたら最高だと想います。

cf.
本音2.0

(失っていたとみられた)ゼロ年代邦楽ベストと現在の都市インディー

Egberto Gismonti - Palhaço

by wavesll | 2017-05-11 01:16 | 私信 | Trackback | Comments(0)

三木清『人生論ノート』@100分de名著 第3週 ”孤独”や"虚無"と向き合う

c0002171_11145499.jpg三木清『人生論ノート』@100分de名著 第1週 真の幸福とは何か
三木清『人生論ノート』@100分de名著 第2週 自分を苦しめるもの

に続き、100分de名著 三木清『人生論ノート』視聴記。解説は岸見一郎氏です。

哲学者三木清は『人生論ノート』の中で私たち人間は虚無の中に生きるのだと説いた。
海のような広大な世界で、人間は自らを形成して生きてゆくのだ。第三回は虚無や孤独と向き合うことで"人間とは何か"を考える。

虚無について
"虚無"は"ニヒリズム"ではなく、"人間の条件"。
虚無だからこそ我々は生きていく価値があると三木は考えた。

どんな方法でも良い、自己を集中しようとすればするほど私は自己が何かの上に浮いているように感じる。いったい何の上にであろうか。虚無の上にというのほかない。

自己は虚無の中の一つの点である。この点は限りなく縮小されることができる。
しかしそれはどんなに小さくなっても自己がその中に浮き上がっている虚無と一つのものではない。

生命は虚無でなく虚無はむしろ人間の条件である。

けれどもこの条件は恰も一つの波、一つの泡沫でさえもが海というものを離れて考えられないようにそれなしには人間が考えられぬものである。


虚無を大海に例えるなら私たち人間は一つの泡のようなものでしかない。しかし如何に小さな存在であっても海がなければ泡も存在しない。

つまり海は泡が存在するための条件であり、虚無は人間が存在するための条件なのだ。

さらにとてつもなく広大な世界で生きるために、人間には形成力が必要である。

生命とは虚無を掻き集める力である。それは虚無からの形成力である。

そもそも何もないことを押さえて、"無いからつくっていく”。これは前回の虚栄の話に通じる。

泡のような人間という存在、海があまりに広大過ぎて生きていくことに絶望するような徒労感・無意味感に襲われる。

しかし我々は"存在する"という事実から逃れられない。だったら何とかして虚無を掻き集めて自分自身で生きていく"意味"を作っていかないといけない。だから虚無からの形成力という話になる。

人生は形成である
"虚無"を”世界”や”宇宙”に置き換えてもいい。たとえ無意味に見える人生であっても誰かによって決められるわけじゃない。自分で形成して行くしかない。

しかし社会が変容したことによって現代人の自己形成は難しくなったと三木は述べる。

昔は生まれてから死ぬまでに出逢う人間は百人ほどで、限定された社会。しかし今は無限定な社会にヒトは住んでいる。顔も名前もわからない人たちとの関係。

ヒトは"私とあなたの間"に人間を作る。しかし現代は個性を形づくる関係が無数にある。

結果人間は無限定なアノニム(匿名)な存在になる。多くの人と繋がっているのに人は孤立していってしまう。

虚無との向き合い方を三木はこう説く。

今日の人間の最大の問題はかように形のない物から如何にして形を作るかということである。

三木は虚無から何かを形づくる力を構想力と名付けた。そして構想力の為には混合の弁証法が必要だと説いた。

弁証法とは本来、矛盾や対立を統一するやりかた。しかし三木は矛盾や対立を抱え込んだまま混合させるやり方を提示する。

その為には秩序が必要となる。様々な要素の配列や組み合わせを適切に位置付ける。それにより人間は虚無から脱出できる、と。

混合の弁証法:異質な考えを排除せず、すべて受け入れていこうという考え方。

秩序について
どのような外的秩序も心の秩序に合致しない限り真の秩序ではない。
(略)
秩序は生命あらしめる原理である。そこにはつねに温かさがなければならぬ。


秩序とは上から押し付けたり機械的に切り捨てるものではない。秩序には温かさが必要。

さらに三木は国歌の秩序もどうあるべきかも考察した。

第二次世界大戦が始まった頃、三木は近衛文麿を中心とした研究会のブレーンとなり政治の世界に足を踏み入れる。日中戦争をなんとか終結させられないか、時代を生きる哲学者として三木は積極的に国策研究に関わった。

しかし戦争は泥沼化。昭和15年「昭和研究会」は解散。敢えて体制に加担しファシズムや軍国主義に抗してきた三木にとっては大きな挫折だった。

その翌年に三木は『秩序について』を書き上げる。

外的秩序は強力によっても作ることができる。しかし心の秩序はそうではない。人格とは秩序である。自由というものも秩序である。

外的秩序という言葉で三木は国家の秩序を考察する。為政者は自分に都合の良い秩序を強制しようとするが、心の秩序に合わないものは真の秩序とは言えない。

三木は形成の思想から日中戦争を傍観することをせず政治に関わった。

三木は上からの押し付けでは真の秩序はできないと説いた。が、軍部の独走を止める事は出来なかった。

三木は色んな価値を認めるという意味の"価値多元主義"の危うさに気づく。現代の例でいうと「ヘイトスピーチも言論の自由である」と言われれば誰も止められない。

土台になるべき価値を認めなければならない。その「価値体系」の大切さ。

混合の弁証法の話も含め、"価値体系"と"価値多元"は別なのか?→すべての価値を受け容れるのは危険。

人間存在の尊厳を大切にすることを土台としていられれば、多様な価値を内包できる。しかしそれがないと人間は無秩序なアナーキー(虚無主義)に陥る。

何も価値観がないところに新しく強力な価値観を植え付けることは簡単。子供たちに特定の価値観を植え付けることは容易。批判能力がないから。

秩序の根源には「人間の尊厳」を認めるという価値体系が必要

虚無を認識しながら自分で価値観を形成していかないといけないと対で理解していないと容易く扇動されてしまう。「ニヒリズムは独裁主義の温床である」。

一方昭和15年に三木は『孤独について』を発表する。

孤独について

孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく大勢の人間の「間」にあるのである。孤独は「間」にあるものとして空間の如きものである。

三木は"孤独には美的な誘惑があり、味わいがある"と書き、決して"孤独を乗り越えよ"とは言わなかった。寧ろ"たった一人であることを自覚し、孤独に耐えることは生きる上で大切なことだ"とした。

感情は主観的で知性は客観的であるという普通の見解には誤謬がある。むしろその逆が一層真理に近い。

感情は多くの場合客観的なもの社会化されたものであり、知性こそ主観的なもの人格的なものである。

真に主観的な感情は知性的である。孤独は感情でなく知性に属するのでなければならぬ。


三木は孤独を大切なものと説く。大勢との間に「孤独」という隙間を持てる人は迎合しないことでもある。

「孤独は感情でなく知性に属するのでなければならぬ」戦争へ向けてみんなで熱狂していた時代に孤独を説いた三木。孤独のうちにいられることが"強さ"。

知性に属する孤独。知性は煽ることが出来ない、でも感情は煽ることが出来る。

孤独だけが個人の人格、内面の独立を守ることが出来る。不屈の闘志が、この本にはある。

三木清『人生論ノート』@100分de名著 第4週 「死」を見つめて生きる
by wavesll | 2017-04-27 15:17 | 書評 | Trackback | Comments(0)