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世の中プライドばっかり高い馬鹿ばかりだから

North Korean National Anthem - "Aegukka" (KO/EN)


北朝鮮危機に関してかまびすしいここ数日。Web上でも百家争鳴しています。

ここぞとばかりに『日本はもう駄目。こうだから駄目なんだ』と声を上げる人もいたり。
でも“苦くても良薬”って文脈を共にしてない人には通じなくて。リベラルの人が“危機”に実行力を持てないのって結局そこ。プライド高い馬鹿ばかりなんですよ世の中。そこを保守は分かってるから強い。

伝え方が九割というか、適切な礼儀というか。"普段こういう話しても小馬鹿にしてあしらう癖に"とか"きちんと考えず聞く耳持たずリソース割かないからこうなるんだ"とかチクリとやりたい気持ちも勿論分かります。

『日本はもう駄目だ』と言いたくなるくらい経済も学術も下り坂、幼稚な政治etcで、日本を愛すが故に今の日本を憎み見下すのもわかります。

しかし現実に状況を変えていく仲間をつくって実行力を本気で持ちたいなら、日本人は無駄にプライド高い馬鹿ばかり(勿論私も含めて)だから、言い方を工夫しないと自慰行為だとも思うのです。

私も昔、しんどくても働いている社会の先友に『資本主義の豚!』と暴言を吐いて総スカンになったことがあって。あの頃「北朝鮮が東京にミサイルを落としたら日本国民は再軍備に一気に傾く」とか言ってて今じゃ笑えなくなってるのが笑うしかないのですが、自分自身のしくじりをWeb論客の方々に伝えたい気持ちがあります。

日本は国防を合衆国に投げる無責任体質だし、日本人には社会問題、政治課題に関心を払わない癖に自分自身は自分自身の責任を果たしていると信じて疑わない勝手な人もいます。自分がクズだと認識していない。足りていると想っている。

そんな自分の生き方が正しいと無批判に信じているのに一時期は驚愕したものですが、今は己を否定してしまうと鬱の螺旋になって仕事が廻らないと感じますし、「俺らダメだぜ~」でやってくには社会は悪意が多すぎて。批判の矢面に立つにはそれは余りに無防備だと今なら理解できます。みんな自分の仕事で頑張っている、それは尊いです。

一方で人間、自分が理解できることしかその凄さが感じられなくて。そして多くの人は自分自身がスタンダードだと疑わない。社会や政治に関心を払う位の余裕がないほど労働強度が高いこともあるでしょう。

だからこそ、こうやって社会情勢に関心が集まっている時に、嫌味を言わずに度量を魅せると、価値が認められるのになと想います。普段の無理解から怒りがたまってこのチャンスを不意にする人、結構いるけれど。

ま、怒りってのは基本的には甘えですよ。自己追及できてないんだから。とは言え反撃しないといつまでも嫌な思いをさせてくる人間がいるから、自分が弱いと認めて怒ることが大事で。ただ政治的には言い方が9割だったりドブ攫いが大事だったり。

知識ある人達が“どうせ分からない意味がない”と言葉を濁し、素人が“どうせ分からない意味がない”とやっちゃって象牙の塔がWebでの島宇宙になっては残念です。

実際、専門的な世界へ行くといわゆる世の中の"常識"とは異なった理論で動いていて。そこで世間からの無理解にあまりに多くの人が傷ついて、攻撃性を持たざるを得ないようにも感じます。理解者が身近に一人二人いれば大分精神は安寧しそうだけれど。

そういった無理解と批判の応酬を和らげるために、社会の公器であるマスコミが真っ当な仕事をしてくれたらいいですね。コミュ力の権化の芸人でなく、専門家を尊ぶ価値観があればなぁと想います。

とまぁ自分を棚上げにして一席ぶってしまいました(苦笑)シャープにいらんこと言わない方が格好いいんだけどなぁw恥ばっかりかいてきたし、今後も恥の多い人生でのたうち回るのでしょう。こういう時ロック・アティチュードはダサカッコよさ肯定で便利ですねw

Green Day - Minority (Video)

by wavesll | 2017-04-24 21:46 | 私信 | Comments(0)

ヨアキム・トリアー『母の残像』 ペルソナが剥がれる"本当の瞬間"の家族の肖像

「母の残像」予告編


c0002171_5375750.jpg伊勢佐木町のジャック&ベティでヨアキム・トリアー監督による『母の残像』をみました。大変に心揺さぶられました。

交通事故で死んだ戦場写真家の母と、残された父兄弟の物語。この三人それぞれに私自身を観た思いで。『カルテット』『人間の値打ち』等、昨今の人間ドラマの傑作群にこの作品も連なると想います。

何しろ役者たちの演技が上手い。イザベル・ユペールのキャリア・ウーマン然とした不敵な笑み、ジェシー・アイゼンバーグの賢く好感度の良い青年然とした顔、そして何より名演だったデヴィン・ドイルドの"難しい年頃の少年"の顔。「まさにどんぴしゃの顔つきをしてる」と惚れ惚れしてました。

しかし劇の終盤“それらはペルソナだったのかも”と想って。ペルソナが剥がされた顔。何とも名付けられない、粗く素の顔。それが映されます。

そんなものはみせずに済むならそれでいいだろうし見せたくないものでしょう。少なくとも社会生活を送る上では。ある意味一番ギャップがなかったガブリエル・バーン演じる役者の父親は職務を引退していました。

単なる"本音"とも違うペルソナが剝がされた"本当の瞬間"、それが印象的で。

半ばぶっちゃけというか隠し事なく話をする父、彼とギクシャクする弟。私自身弟とは上手くコミュニケーションが取れない人間で、「こういう奴あるある」とみてました。

しかし、好きな女の子に長文の告白録を渡そうとしたりとか、自分に一種の靈力があると想ったりとかをみてると「こいつは俺でもあったのかもしれない」と想って。そういった意味では世渡りが上手そうな兄が一番遠いのかも。

そして、女の子が自分の中での崇高な存在でないことを受け容れて、エゴを押し付けるだけから相手とコミュニケーションの度量を持つ、男へのステップを上るシーンも良かった。女の子の側にも純な良さがあったのも。

失った人からの残像は、自分の心が生み出した共に生きる想像。仲違いした人を夢見することもあるなと想ったり。人が生きていく上で溜まっていく精神的な残骸たち。そういうものを人間ドラマはデフラグしてくれます。心をさらってくれる、素晴らしいフィルムでした。
by wavesll | 2017-04-17 05:38 | 映画 | Comments(0)

LEGOムービー -レゴの楽しさとアウトプットの得意な人不得意な人双方向の理解の物語

The LEGO® Movie - Official Main Trailer [HD]


レゴランドのオープンに合わせて映画天国で流れた『LEGOムービー』。これがめちゃくちゃよくできていて。

主人公のノリとか、重苦しくなく終始みていて明るい感じがするとか、何より本物のレゴを使ったかのような映像などこどもが大好きになりそうな空気感に包まれながらも大人がみても面白い名作でした。

主人公はマニュアル人間で、作中で自由自在にレゴを組み立てるレゴの達人たちから「駄目な奴だ」とみられるのですが、その"普通の人間"という特性を生かしたハックで活躍します。

この映画はマニュアルに頼ってばかりの人間が自分の頭で考えられるようになるというドラマと、自在に活躍できている人達が自分たちがそれに驕っていることに気づき、普通の人の価値を尊ぶというドラマ、その双方向の理解が描かれているのが素晴らしく感じました。

どんな人たちも、生きる営みを積み重ねていて。すべての面ですべての人を凌駕している人はいなくて。個人個人それぞれでこの世界を航海している。ヒトは全知全能ではないからこそ、互いに貴ぶことができる。これは年を重ねるごとにその想いを感じます。

昨日の記事で「Webに何も書かずにROMるだけでフリーライドしてる人」についての複雑な気持ちを書きましたが、自己表現であったりアウトプットをしていない人でも、その内面には豊かな世界が広がっていることは自明で。逆に上手く話を引き出す技を習得出来たら私なんかは一皮むけるのになと常々想っているところです。

宮崎駿は作品として取り組むことにゴーを出すためには三つの条件がある、というようなことを言っていた。「それはつくられるべきものか」「それはつくるべきものか」「それは売れるか」という三つの問いにパスすることという言葉があったと聴いたことがありますが、この映画はまさにそういう感覚を与えてくれる『LEGOムービー』。


またレゴがメタ的にもレゴなところがいい。子どもも、かつて子どもだった大人も、そして大きなお友達も満足できる映画。これをみてちょっとレゴランドにも行ってみたくなりました◎

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by wavesll | 2017-04-13 06:11 | 映画 | Comments(0)

人付き合いとWeb同期 文字コミュニケーションの時間的レンジの広さの価値

不在着信だけ残すのといきなり電話してくるのは相手の時間と行動を拘束する行為だからやめてくれ(はてな匿名ダイアリー)

これがTwitterでバズっていたのですが気安く電話を掛ける"電話野郎"だった身としては耳が痛い話で。
電話って相手の顔色が窺えないから逆にずけずけと相手の時間と行動を拘束してしまうなと。

一方でテキストのコミュニケーションは時間拘束から自由で便利というのはその通り。

私も旧友の人達がBlogでもやってくれてると近況を知れて有り難いと想うのですが、今はそういうのはFacebookなのでしょう。FBよりBlogの方が内向き感がないしPUSHされないから好みなのですが、それは我儘というものか。

SNSがシェアハウスとすればBlogはワンルームに訪ねてくというか。生活は共にしてないけれど時に近況をやり取りする距離感。

リアルの友人関係は書くもので繋がったわけではないですから文章をTLで同期するより自分で読みたいときに訪れるのが一種の理想ではあるのですが、公開の場に色々と書くのは差しさわりが生じることがあるというのはわかります。

”直接会わずともSkypeで家飲みでいいじゃないか"とか思ってしまうWebに浸った人間なのですが、結婚とかしてたら"外で会う"ことの自由さも想像できます。

実際の処、Webを通じて1:Nの同期を行いたい、なんてのは普遍的な欲望ではないかもなとは想います。

仕事から帰って飯食ってニュースみて風呂入って、なんてしたら午前様になることもあるだろうし、パートナーや子供とやりとりして趣味をちょっとしたらそれを記録する時間なんてとても取れないし。私も色々書いてますが、毎日更新って無理な話で。まぁ毎日更新されたら追うの大変だからしなくていいのだけれど。

"今更昔みたいに友達付き合いに時間もかけられないし、年一の飲みと年賀状で効率的に交流を凝縮でいいじゃないか"って感じかなと。まぁ、友達付き合いに時間かけるのは暇人のすることと言われたらぐうの音も出ないw

年一飲みは盆暮れしか帰郷できない事情もわかるのですが、年賀状とかはちょっと形骸的に感じてしまって。義務的に年賀状だけでやりとりするよりも上で書いたみたいに心がふいに向いたときにやりとりできたら、なんて思ったりします。まぁ年賀状自体は古来から続くソーシャルネットワークサーヴィスなのだとも理解してます。

人間、何かの行為を共通に持たないとコミュニケーションが嚙み合わないのかもとこの頃想います。それは例えば行事だったり、趣味であったり、子育てかもしれないし、仕事への熱中度かもしれないし。そうした事を越えて旧友とコミュニケーションを取るには"空間"を共にする事が結構大事な意味を持つのかもとここまで書いて想いました。

ただ個人的にはSNSで繋がっていなくとも、ふと"あの人どうしてるかな"とWebサイトを訪ねて”あぁ、元気にやってるんだ”とか"こんなこと最近想ってるんだ"と知れるのは嬉しく感じて。何もPushされずにふとPullでみる、そんな親交。そういう場を読みたい、自分も用意したいとBlogを綴ってるのもあるかもしれません。

また今の時代、コミュニケーションにおいて即時性が兎角求められる気がしますが、それは文字のコミュニケーションの良さを殺してしまっているのかも。LINEやEメールの返信の速さはそんな期待せずに2、3日見た方が気分が安まる気がします。返信の気分は人それぞれですから。

さらに思うに、人に何かを薦めたり働きかけた時、即座に反応されることを私などはついつい期待してしまいますが、それも過大な期待だと。

私自身もある同級生の子から"水カンやぼくりり、グレーテルのかまどとか面白いよ"って言われてもその魅力に自分がリーチするまで時間がかかったりしました。特に音楽なんてのは"いかに自分がその地点に到達するか"が大事で。

だからこそ他者のアクションにタイムラグなく反応する人が時代を波乗る気もしますが、情報発信する側として、即反応がなくても無駄でなく、種子が芽吹くまでに時間がかかることもあることも知っているといい、そう思います。

上で「Facebookは書くものでは繋がってはいない人とTLで同期するから居心地が悪い」と書きましたが、他人と100%の同期や共感・評価を求めること自体が土台無理な話でもあります。

BlogやTwitterをやっていても全然反応が普段なくともこちらで何かミスがあるとクレームをつける"読み手"はざらにいて。昔はそういう読者にムカついたりもしたものですが、今は"私はこの人に文章をサービスとして提供出来ているんだなぁ"と考える様になりました。

"これは面白い"と私は"いいね"を積極的にするのですが、読んで反応するコトって案外ハードル高いコトと考えるヒトって多い印象。

その点Twitterは反応も結構あったり、何しろ相手も"書き手"なのでフリーライド感がないのはいいと想います。自分の身の回りの狭い範囲に"何か書いてくれること"を求め地獄を起こしたことがあるので。

ネットの広大さ、PUSHよりもPULLの文字コミュニケーションの精神的な自由さに感謝を述べたい。文字コミュニケーションの時間的レンジの広さの価値を今、再発見しているところです。


Erik Mongrain - AirTap!

by wavesll | 2017-04-12 02:32 | 小噺 | Comments(0)

ジェローム・スピケ『ナディア・ブーランジェ』 クラシックからポップ領域まで20世紀音楽教育の女傑の生涯

c0002171_3535192.jpgナディア・ブーランジェの名を知ったのはエグベルト・ジスモンチを通して。

フランスでナディアに師事したエグベルトはナディアから"ブラジルの音楽を活かしなさい"と伝えられ、ブラジルに戻った後先住民と共に暮らしたりしてインスピレーションの背骨をつくったという逸話。

同時期にピアソラにも嵌ったのですが、ピアソラにタンゴの道を薦めたのも彼女だと知り、そこから色々検索してみると音楽教育を通して20世紀の音楽に巨大な結果を残したことを知りました。

そんな時に本書『ナディア・ブーランジェ』を知り、彼女の足跡や人となりを読みたいと手に取ったのです。

彼女に厳しく音楽を叩き込み大きな影響をもたらしたロシア人の母ライサと、彼女がコンセルヴァトワール(パリ国立高等音楽院)にて師事したフランス人音楽家のエルネストの間に生まれたナディア。夭折した妹のリリも稀有な音楽家でした。

ナディアの人生には輝かしい芸術人・文化人の交友関係がありました。
父エルネストの交友関係にはサン=サーンスやジュール・ベルヌなどがいたし、ナディア自身もフォーレに学び、モーリス・ラヴェルとも同じクラスで、後年は公私ともどもストラヴィンスキーと交友を持ったナディア。20世紀のパリにどれだけの才能が集まっていたかが鮮やかに描かれていました。

そして交友関係からもナディアの人となりが伝わるというか、彼女はセレブリティと睦まじくするのが好きで。野心を持っている人間が好きな印象。彼女自身も野心的に自分の才能で栄光へ向かって邁進しましたし、教え子には圧倒的な才能か圧倒的な金銭を求めました(圧倒的な富裕層のおかげで才能あるものに授業料免除を行えたという側面もあったようです)

彼女の教室は数多の音楽人を育てましたが、そのスタンスを表す言葉があります。

「あなたは自分自身でないといけません。いたずらに影響を受け、同調することは危険です。ドビュッシーの人格は強烈でしたから、周辺の人々に影響を及ぼし、多くの人たちの自己形成の妨げになりました。彼らは、自分たちが『ペレアス』の続きを書いているのだと思っていても、実際は並行和声を並べるだけでした。そして、他の人たちは『春の祭典』の反復和声を作ってばかりいました。つまり、二番煎じをしていただけなのです」

教え子たちのアイデンティティを認め、才能と個性を伸ばすことに一心に情熱を傾けたナディア。
アストル・ピアソラに「これこそあなたの分野です。交響曲などやめて、タンゴにあなたの力を注ぎなさい」と述べたのは有名なエピソード。

さらに『ラプソディ・イン・ブルー』などで稀有な才能を発揮していたジョージ・ガーシュインから教えを請われても、寧ろその教えが彼の個性の妨げになると"自分の音楽を書き続けるべきだ"と説得したことからも彼女の哲学が見て取れます。

彼女は20世紀の人物。世界大戦はやはり彼女の人生へ影を落としました。WW2中アメリカへ逃れた彼女が再びパリに帰ってきたとき、親交のあったサン=テグジュペリやポリニャック公爵夫人、ポール・ヴァレリーはこの世から消えようとしていました。

92歳で死ぬまで、音楽教室、指揮、講演など夥しい仕事をとてつもないエネルギッシュさで行ったナディア。Wikipediaには彼女の教え子が列記されています。クインシー・ジョーンズやフィリップ・グラス、レナード・バーンスタイン、ミッシェル・ルグランなど綺羅星のようなミュージシャンの育ての親。現代に続く音楽の龍脈が、そこにありました。
by wavesll | 2017-04-08 05:09 | 書評 | Comments(0)

何でも公開したいとみなが思っているとは限らないという当たり前の事実について

Thundercat - Drunk (FULL ALBUM)


南米旅行から帰ってきたはいいのですがまだラグが治っていなくてこんな時間に起きてつらつらWebを流しています。

私はかなりルーズにTwitterやBlogなんかを綴っているので、思考がだだ漏れていて。
これ、悪意を持って批判的に読み込まれたら危ないとは思いつつもサトラレ状態。

一応Blogの方は比較的かっちり書いているつもりですが、Tweetは楽屋落ちというか緩すぎで「ンなことはチラシの裏に書いとけ」なノイズに塗れ、身を美しくしたいと想いつつも気を抜くと…。

まぁ、己の事は自己責任なので我が身に返って来るだけなのですが、扱いが難しいのは他人様の情報。飲みとか、電話とかで出たトークをWebに書いて幾度も失敗したことがありまして。

個人のスキャンダル的なことは「それは武士の情けで見逃してやれよ」と私も想うし、それは芸能人へのパパラッチなんかも不毛な商売してんなと想うのですが笑い話的なことでも関係者の気分を害したり。

世の中、無垢な人ばかりではないですからね。言質を取って引きずり降ろそうとしたりマウンティング仕掛けてくる人間の事を考えればそういう話も面白可笑しく書くものではないと得心します。どこで不発弾が爆発するか、分かりませんし。

また特にスキャンダルでも笑い話でもなく、盛り上がった議論から特に私が面白いと思ったことを書いた場合も問題になったことがあります。「精確に理解しないで書くんじゃない」とか「俺から聴いたと書くな」や「ちゃんと聞いた話だと書いて欲しい」と言われたことも(別々の人たちから)。

これもまぁ「あいつに何か話すと拡散されるから厭だ」というネガティヴな感情は分かります。

とは言えスキャンダルに関して『天網恢恢疎にして漏らさず』と想うのと同様に、外部に何かを発信した時点でどう解釈されるかは相手の自由で、理解の方向をコントロールしたかったらそれだけ自明な物言い、伝導率を高くすべきではとは想ったり。

しかし相手に不利益をもたらしてしまっているので、基本的には私が悪い話だと思います。秘密が維持できるから廻るものが廻っているのだと今なら理解できます。

そんな訳で、いわゆる"素の一般人"の人たちの事柄は扱うことは非常に難しいものです。権利意識がプロより寧ろ強い。ちょっとズレますがコスプレ写真のULみたいなもので、細やかに許可を取りながらでないと後々に禍根を残してしまいます。

「面白いからシェアしたい」というのはこちらの欲望で。何でも公開したいとみなが思っているとは限らないというのは当たり前の事実。

そうなると公開情報だけ扱うのが基本的には一番適当なのではないかとも想います。SNS時代、世に公開されている情報だけでも無数にあって"言論村"も拡がっているし、プロの方は色んな解釈や言葉が投げかけられることに対して覚悟が決まっているし。一億総タブロイド記者みたいになっては監視社会みたいなものですからね。どうせ暴くなら巨悪をでしょう。

このBlogでは様々な創作物のスクラップブックのような事もやっていますが、著作権の問題も含めて、色々と舵取りをしていきたく思っています。中々ないネタを仕入れる事には筋を通して、そして筆力に関しては寧ろありふれたネタの調理法こそ問われるところだなと想います。思索のシャベルを深くDigりたい。

P.S.
この記事は夜明け前に最も似合う2017年式AOR、Thundercat - Drunkを聴きながら書きました。

こういうサイト論を書くと本当に筆が良く進む癖に音楽的なことはベイグな事しか書けないのは、私は物語的・言語的にしか音楽を理解できていないのだなと想います。

このアルバムについても当初のとっかかりは「今AORって良いな」という潮流を読み取るコンセプチュアルな面でしたし、音楽をトレンドで聴くのは賛否両論あるけれども敢えて言えばThundercat - Drunk は非常にトレンディーだと想います。今丁度欲しい味を上手く提示できたアルバムだと。

しかしこの盤は決してコンセプトの仕掛けだけでなくて、音としても魅惑を感じれる一枚だと思います。ベースの弾力感もそうですが、ビートとの絡みがきびきびと良くて。そしてジャケからは想像できないファンタジーで愛に満ちた音色が入るのも素敵で。私にとって音楽は理解するものでなく、感じるものなのかもしれません。兎にも角にも『DRUNK』、お薦めの一枚です。

cf.
本音2.0

by wavesll | 2017-04-05 03:57 | 小噺 | Comments(0)

これぞ暁斎!展@Bunkamura -奇想の真骨頂

Bunkamuraミュージアムにゴールドマンコレクション これぞ暁斎!展をみに行きました。会期末でもあり大変な盛況で。

お目当てはこれ、『名鏡倭魂 新板』、堪能しました。
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そして他のも素晴らしい絵ざっくざくで。

入り口すぐの『蛙の学校』などの動物の擬人画は鳥獣戯画っぽくて愛らしい。中でも『山葡萄に猿』の猿がまたいい顔してて。ファンタジーだけでなく『カマキリを捉える子犬』なんかは立体的でリアルな筆致。『鯰の曳き物を引く猫たち』なんか『きょうの猫村さん』みたいなほのぼの感。

次が鴉の章。『枯木に鴉』『枯木に夜鴉』を並べるとウォーホルのような現代的な感覚が。啼いている鴉を描いた『烏瓜に二羽の鴉』もいいし、『月下 梅に鴉』の円の補完デザインは好い!

日本画は西洋画と比べると動物を主軸にした絵が多い印象ですが、暁斎の動物画はその獣の性格と言うか、キャラまでもが伝わる生き生きとした筆運びで。『象』なんかもそう。

『枇杷猿、瀧白猿』はこの展覧会随一の美をもった作品かも、やはり猿の顔が至高。画像LINK貼りましたが生は格別なのでみて頂きたい。『虎を送り出す兎』は鳥羽と書いてあって鳥獣戯画からの流れを感じさせるし、『眠る猫に蝶』のまん丸ネコの可愛いこと。『蛙の放下師』は生き生きとした大道芸をする蛙を水墨画で画いた作品。暁斎の作品はユーモラスな感性が流れていますが中でも『月に手を伸ばす足長手長、手長猿と手長海老』は最高に笑えましたw

現代的と言うか、ワールドワイドに画題を求めた暁斎は『鳥と獣と蝙蝠』ではイソップ童話に着想を得ています。『通俗伊蘇普物語』は黒でベタ塗りの迫力ある冊子。

なんというか、暁斎の絵って現代の漫画みたいなんですよね。『動物の曲芸』はちょっと『ビリーバット』っぽいし。『暁斎酔画』では寺田克也キム・ジョン・ギのような奇想天外なラクガキングぶりを魅せてくれます。

一方で『暁斎楽画』のようなリアリズムな兎を描いたり。『暁斎漫画』も素晴らしかったし、幅が広い!『雨中さぎ』では近代版画ポスターみたいな画風も。

でもやっぱり猿の表情が良くて。『松に猿』の赤いちゃんちゃんこ猿もいいし。

『とくはかに五万歳(徳若に御万歳)』・『蛙の鬼退治』・『舶来虎豹幼絵巻』・『西域舶来大象之写真』・『<天竺渡来大評判 象の戯遊>』なんてのは小学生が"こんなの描きたいな"と夢想するようなユーモラスで愛らしくもかっこいい擬人化作品。昔はカエルがこんなにも身近だったのだなぁと。

暁斎は幕末から明治維新を経る時代を生きて。当時のグローバルを描いています。『船上の西洋人』は蒸気船の上の光景。『各国人物図』は象を操るアフリカ人、ラクダと共にいるアラブ人、そしてエスキモーなんかも描かれていたり。流石訃報がフィガロに載っただけの事はある国際派。

『野菜づくし、魚介づくし』は当時の画家たちのオールスター合作で愉しい作品。『五聖奏楽図』はキリスト、釈迦、孔子、老子、神武天皇が一堂に会しています。『大仏と助六』は『聖☆おにいさん』みたいな筆さばき。

『町の蛙たち』『蛙の人力車』には電線が。文明開化の音が聞こえると共にファンタジーに技術が入るとちょっと『千と千尋の神隠し』のニュアンスを感じたり。擬人化だと『雀の書画会』の鳥人的ユーモラスもいい。

『墨合戦』はホーリー宜しくデカい筆で墨を塗り合う合戦場が描かれていて。一人一人の生き生きと板体遣いが本当に見事、素晴らしかった。また『放屁合戦』はもうアヴァンギャルドすぎるw屁がスペシウム光線のように出ているw『暁斎絵日記』は単行本のあとがき漫画みたい。

そして目玉達。『蒙古賊船退治之図』は波と火薬との迫力満点、戦後の少年誌の特集ページっぽい感じ。画像より実物はもっとイエローが鮮やか。『名鏡倭魂 新板』はいわずもがなの名作、逃げる妖怪には着物姿や洋装姿のモノも。『不可和合戦之図』は薩長との戦をメタファとして描いたようでした。

一方で遊女を描いた『<岡田屋内>於ろく』の美少女っぷりは漫画太郎先生が萌え娘を書いたときのような驚きがw背景のアヤメを描いたのが月岡芳年というのも興味深い。

遂に植物の擬人化というか、カボチャが人間のように等身を持つ『<家保千家の戯> 天皇祭/ろくろ首』なんてのも。『<新文教歌撰>』では骸骨が楽しそう。『<暁斎漫画> 第三号 化々学校』ではカッパが学び舎で勉強してましたw

暁斎はいわゆる吉祥絵も描いていて。『鐘馗と鬼』の荒々しさ。そして『鬼を蹴り上げる鐘馗』の、蹴り上げる動きが満ち満ちているダイナミックな画。『鐘馗と鬼/酒樽を盗む雷神』がまたイイ顔しててw『鬼の恵方詣』の鬼の表情がまたよし!『鷹に追われる風神』なんて画題も。『猩々の宴会』は今でもそのまんまポン酒のポスターに使えそうな感じ。『朱鐘馗と鬼』の朱がまた効いてました。

暁斎は春画も描いていて。性のなかに笑いがあるのがまた好い。『笑絵三幅対』には女陰のハンコが押されてて草w『松茸の絵をみるお福たち』は笑うしかないw『障子の穴』では『太陽の季節』がw『稚児男色絵巻』では享楽が、『連理枝比翼巻』ではぐっちょぐちょの乱交が。『春画絵暦豆判組物』『大和らい』『屏風一双の内』でも笑いの要素が好い感じ。

展覧会のメインビジュアルにも使われている『地獄大夫と一休』はクレイジーというかスレスレの危うい領域にいる二人が自在に魅力を放っていて。一休の怪僧ぶりと地獄太夫の色気が凄かったです。

『閻魔大王浄玻璃鏡図』の鬼の造詣が相変わらず素晴らしいし、『鬼の集い』の表情がまたいい。『変化の技を練習する狐たち』は『NARUTO』っぽさがあるw『三味線を弾く洋装の骸骨と踊る妖怪』はブルックだしw『百鬼夜行図屏風』もほんと顔がいい。『<暁斎楽画> 第二号 榊原健吉山中遊行之図』もいい顔!"いい顔"ばっかいってるけど、本当に人物像が伝わる表情が見事すぎて。

『<新板かげつくし>』ではついに妖怪がサザエさんEDライクな影絵になってしまったw

最後の「祈るー仏と神仙、先人への尊崇」の章では『祈る女と鴉』が素晴らしかった。すっきりと冴える遊女の気品と言ってもいい色気と、大きくホログラフィックに迫る鴉。

暁斎は確かに変わった絵を描きます。変わってる事は暁斎のとても大きな魅力です。ただ彼は“変わってる”と言われる事にアンビバレントな気持ちを持ったのではないかとも想ったり。単なる変わり種でなく、彼の中の本質的な美意識が根底にあって。しかしそれはナイーヴ過ぎる感想かもしれません。奇想で勝負するという覚悟の生きざまをみた展覧会でした。

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by wavesll | 2017-04-03 05:05 | 展覧会 | Comments(0)

3.11から6年 刹那と継続

波よせて(石垣島、米原)


【小沢健二】流動体について (TV-LIVE)


3.11の時。一番苛烈な心情だった頃。

その時私は死が近かった心持から"お前らも漸く死を近くに感じたか"とかの呪いの気持ちと、"生き延びたことを先ずは気付かねばなるまい"という動転からSNSで東京の人々に向けて惨いことを口走っていました。

間接的な暴挙ではありますが、そこに被災者の方々への思い遣りはなく、我欲のみでした。

3.11で"普通の有り難み"に気づいた方々は多かったことでしょう。一方で、今も自殺者は2万人/年を超え、毎年3.11以上の厄災が起きていることは"普通の人々"からは"最終的には自己責任だし、仕方ないこと"とされる。結局”自分事”でないことは"他人事"、そんな"普通の人々"への恨みだったと今は想います。

誰しも"自分自身の視線"がスタンダード、デフォルトであって。"人生の重み"なんてのは自分で計ればいいことで他人に押し付けるものでは、ないですね。

あの時の自分は今平静から振り返ると惨いものがありました。音楽で安楽を伝えようとしてSNSで『波よせて』を薦めたり。津波があったばかりなのに。

時を経て今は"普通の人が普通の人生を成り立たせるためにどれだけ努力と研鑽をしているか"が身に沁みます。

"普通の人の無関心の冷酷さ"も認識した6、7年前。今は自分自身の未熟さや甘ったれさを認識すると共に、ただ大声で叫ぶだけでは逆効果、ということも振り返れば理解できます。

アダム・スミスも”施しは度を超えない”と書いていました。端的に言えば愛と尊厳が足りているからこそ、他者へ慈しみを持てるし、度を越えた慈愛の施しは寧ろ虚栄心から来て、犠牲感の無理を産むものなのかもしれません。

情報は幾らでも増殖しインフレーションを起こしますが、結果として身体性を伴わない虚像を産む恐れがあるのかもしれない、そしてそれは『西瓜糖の日々』のインボイル達のようにカタストロフへ繋がっていくのかもしれない…。

音楽や言葉は認知に働きかけるけれども、その魔法の前提、ファンダメンタルに関わる"世を成り立たせる仕事"もまた貴い。魔法を上滑りさせずに実体化するには、刹那の継続、身体性が必要なのかもしれない、朱夏に入りそんなことを想うようになりました。

そうした時に、小沢健二の新譜『流動体について』が心に浮上して。

最初聴いたときは焼き直しというか、“毎日の環境学の先がこれ?”と想ったのですがリリースから数日経って、不意に口ずさんでしまうメロディと“もしも過ちに気がつくことがなかったのなら”とリブートを示す歌詞に、王子さまではなくなったかも知らないけれど生身の人間等身大の身体性を感じて。

藝能の現場でサヴァイヴしていくには激烈なI/Oをやり抜かねばなりません。
その一種狂気を孕んだShowをMust Go Onして行く螺旋から降りて。サンプリングや引用といった自分以上の拡大から距離を離れて、その上で今『流動体について』に"再到達"したことが心に沁みたのです。

閑話休題。最近みた夢で、私はブログの記事について電話で釈明していました。その記事は書く書く言ってまるで書かなかった記事で。

高倉健を題材に“過ちを犯した後で、贖罪するにはどうすれば良いか”を書く予定のもの。どこかで刑務所から戻って来て、その罪の意識を背負った上で生きざるを得ない幸せの黄色いハンカチの高倉健は、侵略戦争の罪を負った上で国際社会で生きていかざるを得ない戦後日本のメタファだと聴いたのが深層意識に残っていたのだと想います。

私は結局、真に謝らずに筋通さずに生きてきてしまいました。

率直に謝る前段階の"過ちがあった"と認めるだけの事にこんなにも長い時間が掛かってしまいました。ただ、軽薄な謝罪の言葉よりも、自分は不遜だったと本心で認める方が私にとっては本質的なことでした。

色々な場所で失態を重ね、鬼門が増えてきた私にとっては世界の広さは救いでもあります。そして、そのひ弱さは邪悪ですらある、と今は想います。

過去は変えられないし、もう交わることもなくそれぞれの人生が伸びて行く事もあると想います。自分の身体で生活を営むだけでもタフな行為だし、博愛と虚栄は峻別しなければなりません。

摩擦や衝突に無理に身を突っ込むこともないだろうと想います。寧ろ相手に迷惑になることもあるだろうと想います。

その上で、今の自分で手が届く範囲には、一人の個人としてキャパを知った上で援けが出来る時していければ。"意識高い系"は要は"口だけ"だと想うので"刹那と継続の行為"で成していくことを積み重ねていきたい。些細なことから。

そして、言葉を積み重ねる事。言葉は言葉でしかないけれど、言葉。

一つ一つは紙のような薄さ/軽さでも、刹那を積み重ねて継続することで、情報は厚みと言う身体を、そして投下された正の時間分の重みを持つのだと想います。

結局のところ己は己の悩みしか負えません。他者と本気で向き合いたければ究極的には当事者となるしかないし、そうでないと薄っぺらになる。何かに真剣に向き合おうとするならば、時をかけて"自分事"にする他ありません。

起点はいつでもある。実は自身が権益や関係を持っていたり当事者性があることに気づくことだってあると想います。

無論、内部の"お約束"を無視した黒船的提案がさくっと盲点をついてケミストリーやパラダイムシフトを起こすこともあります。

しかし化学反応を起こす原料を作るのは時の積み重ね、技の積み重ねではないかなぁと今は想うのです。未開拓な道を示すのは素晴らしいけれど、言葉は仮想で。アイディアだけの空論と言われないためには身体を伴った行為、或いは実験、せめてアルゴリズムまで示す必要があると想います。

そして行為を為したらその結果を虚心坦懐に受け止めていく。文を認めることで澱と火と仁を浄めて。平成が終わりかけていくときに、私自身も何かの変容が来ていると感じます。幸運か、不運か。スロウスピードながら。

cf.
本音2.0

by wavesll | 2017-03-11 12:08 | 小噺 | Comments(0)

批判の速度、身体の速度 リトアニアの徴兵制復活から見る"実際的"な速度

Kryžių kalnas / Góra Krzyży / Hill of Crosses HD

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NHKBS1 「激動の世界をゆく▽バルト三国ロシアとヨーロッパのはざま/小国アイデンティティー」にてリトアニアで徴兵制が復活したことが報じられていました。

バルト三国の市内にはナチスやソビエトによる抑圧時代の遺構も数多く、市民は再びクリミアで暴威を振るったプーチンを警戒。リトアニアの国旗の赤は、祖国を護るために流した血の色。

「自分達で守ろうとしない国を他の国が守ってくれるはずがないでしょう」。リトアニアの若者の切実な言葉を聴きました。
学校では緊急事態の際の訓練が行われ、コンピューターが無作為に選ぶ形で行われている徴兵は今は志願兵で足りているそうです。

日本だと、軍事の話をしようとするだけでも「軍靴の足音だ」と批判の声が上がったり、沖縄の米軍基地は憎まれる存在。

戦争は悲劇。平和を愛すること、暴力を忌避することを肯定したい。と同時に己の身を守るために武力を持たず、米国に軍事をアウトソーシングしまるで児童のように依存しているが故、属国的な振る舞いに甘んじる母国。

悲嘆は対症療法で。根本治療は祈りでなく、現実を考える細部の積み重ねの智慧と行動から発露するもの。理想を体現するのは個別具体的な仕事で、それについて検討することすら忌避しては何も解決しないのではとも想います。

ただ勿論、軍の無法図な肥大や軍産複合体の形成ははっきりと悪で。割れ窓理論を認識しながらも"必要な質と量"に関する議論がなされるべきで、敵愾心を煽り恐怖で支配しない"武の道"を修めることが必要なのかもしれません。

ちょっと想うのが、政治って何が何でも批判され目の敵にされているというか、"政治を褒めるメディア"はないかということ。

マスコミをみていたら日本の政治家や官僚が無能にしか見えません。単に褒めるというより数字と事実で内外と比較して是々非々で評価すべきで。

政治は交渉と妥協だから切り捨てられた声をメディアが取り上げる意義はわかるけれども、「このメディアは批判しかしない」という色眼鏡をかけられたら批判への信頼も落ちるのではと想います。

イデオロギーに堕するから反知性主義がバックラッシュとして起きてしまう。"己が正義の側にいる時"こそ自問自答すべきで。

批判のための批判になり"完璧"を目指そうとすると無理が来る。無理が来てはリベラルの好きな"道理"も引っ込んでしまうのではないでしょうか。

言葉はヴァーチャルな存在でもあり、情報はめくるめくほどにつくりだせ消費されるものですが、現実を動かすのは人間の身体です。

言論人とかメディア、企業経営層が精神論を魔法のように、根性を無限の資源のように、無放図なサーヴィス負荷を是とし、身体性・メカニズムを考えないプログラムが苦難を生む癌なのでは。

身体を変えることは時間がかかります。すぐに結果が出ない、或いはドラスティックに変えようとするとRIZAPが脳卒中を引き起こすように惨い破壊が起きてしまう。これはトランプとも相似です。

身体を動かさない、現場に密着しない言説は今そっぽを向かれつつあると想います。Webで素人が幾らでも流せますから。プロの言説はドキュメンタリー的でないと価値を失うのではないか、そう思います。

その意味で心と脳の白熱教室でオックスフォードのエレーヌ・フォックス教授が言っていた悲観脳を楽観脳に変える方法は身体的な行動に落とし込まれていて、精神論に嵌らずに良かった。"心"すら個別具体的な行動の積み重ねであると。

じっくり、徐々に。日々微かにしか変化していないかも知れないけれども、日が伸びていくのを感じる視座の様に、中長期的な視野を持てれば上向くこともある、そんな気がする立春の夕です。

そしてそれは、政治家や言論人が"あの時何を語っていたか"を覚えておき、喉元過ぎればと言いっ放しを許さないプレッシャーを与える事だと想います。身体的な言論、これが社会の礎になるのではないか、そう想うのです。

吉井和哉 - トブヨウニ(YOSHII BUDOKAN 2007)


cf. マスメディアのハレとケ。/TVのバラエティを叩くより報道検証企画を求めたい。
by wavesll | 2017-02-04 17:17 | 小噺 | Comments(0)

暁闇の青光にMiles Davis - In a Silent Way

Miles Davis - In a Silent Way - 1969


アルコールで前頭葉が少し痛みを覚えながら、意識が切れるまでTVを流していた3:47。ディスプレイの平面のに映るRealが虚構に感じるのは眠気の泥にまみれているからか。

ニュースで看護師になって8ヶ月で自殺した女性が報じられていた。

なりたかった職について、そのRealを回す労働疲労の重みが心を蝕んだのか。自分がなりたかった仕事だから、頑張って、頑張って、全然足りない自分が嫌いになって、鬱になってしまう若者の躯。

健康に属している内は鬱の事など七面倒な陰気話で、鬱だった俺も離れれば忘れてしまう。

精神が疾患を起こし、平衡を失った時、仮想と実在は限りなく一体になって。己の生の重みが一夜の夢と等しくなってしまう。

平衡を失った明け方。つい今しがたの出来事と、死にたくなるような過去の醜聞が同時に想起していた頃を思い出す。世の中を呪い、それ以上に自分自身を殺したくてならなかったあの頃。

生き永らえて。生き永らえてしまえば世の中の温かみに感謝する余裕が出てくる。人間、一番度量が試されるのは損切りで、精神が切羽詰まっては諦める事すらできない。

みずみずしいジャズが鳴っている。
hr-Sinfonieorchester X Francesco Tristano X Moritz von Oswaldを聴いた時も想ったけれども、時を越える藝術はみずみずしい。"再生"とはよく言ったものだ。じきに太陽が宙へ昇るように何度でも"再生"を繰り返せる。

エレーヌ・フォックス教授は認識が蛋白質を形成すると述べた。脳神経すら半ば精神で出来ているならば、心身は半ば以上エーテルなのかもしれぬ。

姿を持たぬ心は、姿を持たぬ芸術である音楽に共鳴するなら、心は何度も再生するかもしれぬ。

サステイナブルな営為になるには再生と消耗を整えること。再生には時がかかる。必要なのは闇の中で生き永らえる兵站。

淡々と心の行を積むことを具体的行動に落とし込み継続維持できれば、閾値まで達せれば。春立ちぬやもしれぬ。

寂かな道でそう考えた。
by wavesll | 2017-02-04 04:15 | Sound Gem | Comments(0)