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電通巨悪観(広告=悪)から一歩進んで

要旨:
・好いか悪いかのスタートラインに立つ為の宣伝は意義がある
・寧ろマスの媒体が"枠"に載せるか否かの目利きが低質だから澱みが生まれている
・"これは広告です"と"作為"を隠さず、その上で拡散したくなるものが今の"刺さるアド"ではないか


TVをみていて「最近いやに同じ事物が取り上げられてるな」とか想うことないですか?

「おぉ!コレが今熱いのか!!」というのが期待されている反応なのかもしれませんが自分は穿った人間なので「あぁ電通に金払って番組内広告してるのだな、アドか、アドw」と想ったりします。

私はマスコミのゴリ押しとかが大嫌いだし"宣伝で魅力を水増しするなんてナンセンス、良質なものが必要とされる処に届くシステムをWebが達成するのが一番いい"と想っているのですが、実は最近"宣伝の意義"を感じたりしていて。

それは実はこのBlogに立脚した話でして。天へ挑む究道者 ETV特集「曜変~陶工・魔性の輝きに挑む~」 をみてとかが、ETVで再放送されたり鑑定団で曜変天目が取り上げられてアクセス数がドカっと来たりしてることがあって。

また過去記事ってそんなにアクセス数を集めるものはないのですが、Twitterで例えば「そういやYASHIBU Vol.3でブレイク前のSuchmosみたなー」とか呟くとlink踏まれたりして。

記事があることが分かった上で"興味ない"とされるならまだしも"存在を知ってたら読んだけど、存在すら知らないから読むきっかけもない"こともあると、宣伝=悪ではないのかもしれない、と。

今でも"宣伝で商品の魅力を水増し"したり"良質なものが低品質なものに宣伝量で負ける"とかには嫌悪感がありますが、"スタートラインに立つ為の為のアド"は必要だし、そこでの擽り方を考えるのは正当な活動なのだと想いました。

広告代理店はクライアントの商品を売り込むために必死に働き、営業・宣伝は"努力"なのだと想います。では何故"広告は悪"だと想ったか。それは営業・宣伝されるプロダクトが、質の面で広告で推されてなく売れてないモノより質が低く感じるからでしょう。

実際、私も90年代にTVの音楽情報がTKプロデュースで埋め尽くされたときは"小室ウゼー"と想ってましたし、AKBなんかは最悪で、初期の頃、可愛くもないメンバーが週刊誌のグラビアを埋めたり、或いは音楽番組の"枠"を埋めたり、握手券チートでCDランキングを詰まらない曲でハッキングしたりするのは、明確に邪悪だと感じてました。

宣伝担当や営業担当が全精力でハイプを仕掛けてくるのは必要悪として、そこでメディアの人間が"質"を見抜いて自分の媒体の"枠"に載せるかどうかが最も重要で。

それは逆の意味でも大事というか、小室楽曲はいいのも多かったし、最近だと『君の名は。』をキネ旬が無視せずに年間ベストに組み入れた方が価値観の流布としても効果的だったと感じます。また私はもう坊主憎けりゃ袈裟まで憎いレベルになってますけれどもAKB系でもいい曲は良い曲なのでしょうし、N.E.5.5. / The Choice Is Yours × サイレントマジョリティなんかは面白いですしね。

すべて是々非々に"正当に質を評価する目利き"こそメディアが信頼されるポイントだとすれば、コンテンツと広告がごっちゃになるのは悪で。
そうしないと製作費が捻出できない現実の事情はありながらも、"枠が買われる"自体になると指標が指標として機能しない悪循環が起きます。

冒頭で"あーこれアドだと、アド(嗤"としたのは、広告なのに広告じゃないように装っているから。
今の時代は"自然を装った作為"を嫌いますから、寧ろ広告は<広告です!>と"作為"を主張した方が信頼されるのではとも想うのです。

私自身の中では広告の見え方は変わりましたが、広告屋が「最近の客はノリが悪い」というのは阿呆な発言だなと想うし、今の時代に"躍らせる広告"の革新が社会企業的な方向も絡んで起きたらいいなぁと想います。

今はWebで拡散が起きる時代ですから、「マス&個人メディアが取り上げたくなるプレゼンテーション」が現代の広告技術の指標になるのだろうなと想う次第です。

cf.
KIRIN「一番搾り 熊本づくり」を全国発売 売り上げ1本につき10円を熊本地震の被災地の復興支援策に活用

【イタリア地震】サイゼリヤが一部のパスタ「399円のうち100円」も寄付する赤字覚悟の復興支援を発表
by wavesll | 2017-01-12 01:57 | 小ネタ | Comments(0)

他者から見た面白さは、いらない? / メディア(BlogやTwitter)をやる意味って何?

"成熟"みたいなことをやれこれ考えてみるにという文章を先日書きました。

そこで”成熟というのは野郎同士の稚気な狂い競争から、真っ当で実直な人間になっていくこと”みたいなことを書いたのですが、ちょっと想起したのは"面白い人間であることは必要か"というテーマがあるなということで。

このBlogを始めた19才の頃は、阿呆まっしぐらな大学生で、人生をネタに生きていた気がします。まぁ今から考えたら全然低レベルなのですが、Xmasに野郎二人でお台場の観覧車に並んだり、ねずみ講の勧誘にノコノコついていってレポしたり、実録!渋谷でスカウトされたよ顛末記なんてのを書いたり。

上がり下がりありましたがこうして今もBlogを書いているのは書き始めたころから"内輪受けにはならないようにしたい"と想って書き続けていたからかもしれません。

内輪の楽屋落ちみたいな内容というよりも、他者がみて少しは見甲斐があったと想えるような、面白味がある内容を書きたい。そう思って、最初は個人ニュースサイトとして始めて『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』に載ったりして、ガンガンに更新してました。毎日数時間費やしてw

ただ、大学を卒業する頃に、"やっぱりニュースだと『自分の記事』という感じがしないなぁ"と想ったのと色々あったりしてばっさりそれらを削除し、それまで書いていた日常に想起したことや、最近書いているような音楽だとかアート、旅の記事をメインとしたサイトになってきました。

それでも、こういうサイトをやっていると『自分で作品を創らないの?』とか言われます。悪友からは『クリエイティヴィティがゼロ』ともwそういうのは"キュレーションメディア"に私自身も感じる手抜き感というか、「あいつ楽しやがって」というやっかみなのだとか、単純に価値が感じられないのだなぁと想って、"なんだあの野郎、もっといい記事書いて認めさせてやる"と発奮したりします。

その上で"自分自身が人から『面白い』と想われることは自分自身にとっては価値があるのか"みたいなことも考えたりもするのです。<表現を世に出す労力を払うよりも、"面白さ"なんていう必須でない事に精を出すよりも、自分は仕事で金を稼いで表現を金なり時間なり払って楽しむ方が楽しい>と想う人もいるだろうし、実際、文化が生きるのには金が必要なのは事実。金を払わない人は客ですらないです。また私自身が楽器を習得するなり絵を描くなり、或いは物語を書いたりしないでこうして個人メディアをやっているのも、言ってみれば"メディア"という消費と創造の狭間をやりたい、まぁ言ってみればいいとこどりをしたいみたいなところも正直あるのかもしれません。実際、数字上は羅列型ニュースサイトをやっていた頃の方がいい数字が出ていたし、質は兎も角生産量を考えると集客アヴェレージとしては創造<媒体だと想います。

このサイトも、元々がニュースサイトというのを(自分内での)隠れ蓑に、仕入れた素材をばっと出すだけ、みたいな記事もあるし、この記事のように新聞でいうところの社説というか、論考が入った文章もあります。Webにモノを書くことは生活の一部でこれがないとリズムが狂う位の、或いは記したエントリや呟きは半ば我が子の様な愛情が我ながらあります。まぁ過去の自分が焼き付いていて時に"これはないw"と苦笑せざるを得ないときもありますが。

あと、それこそ学生の頃書いた円と棒でみる日記・blog・個人ニュース・新聞で当時思索したように羅列型総合ニュースを止め少しばかり手を入れた記事を書こうとすると、どうしても内輪受けというか"クラスタ内部ウケ"になってしまうなぁとも思います。

Twitterでは趣味・モノコトで繋がる気がしますが、Facebookなんかで自分の守備範囲外の趣味のこと書かれると"ほーん"という返ししかできなかったするみたいに、学友やリアルな繋がりだと趣味のコアな話は敬遠されるというか、どう面白がればいいかがわからない、逆に言えばそういう一般層向けではなく、好事家しか楽しめない、みたいな感触が今の鴎庵には多少あるかなと想うのです。

かといって、まるで氾濫するラヴ・ソングみたいな最大公約数のことばかり書いても面白くないですしね。趣味で繋がれない友人と会話に困ると女話や共通の悪友の悪口に流れるのですが、どうにもこれが嫌で。何らかの光る刺激が受けられる話ができればいいのになーと想ったりするし、だからこそBlogでは私が想う"何らかの光る刺激"を書こうとはしています。

その上で、最近思うのが"他人から見て面白いことに価値はあるのか?"みたいなところなのです。
例えば自分でスポーツをすれば、プロフェッショナルなレベルでなくとも面白い。或いはそれこそ恋愛なんて、他人からみてどうだとかは全くの無意味な話で、寧ろ恋愛の話を他者への見世物にするみたいなのは大切な何かを穿き違えた話だなと想えたり(ちなみに芸能人の恋愛スキャンダルを報道するのも不愉快だなと想います)。

"お客様"として外部で鑑賞するのではなくて自分自身がプレイするようになれば、少し出来ただけでもかなり楽しい、寧ろ他人から見た評価なんかおまけ、みたいな感覚になれるのかもしれないとも想うのです。労力がそのまま価値となるマルクス的な世界がそこにある気がします。DIYで"自分がやる眼"でみれば、他者や環境に対して本当に大きな畏敬の念が持てるし、引いては"神様ぶったお客様"から脱して日本のブラックな環境をどうにかできるかもしれません。

"みられる自分"を意識することはエデンの蛇が食わせた林檎のようなものかもしれないなとも想います。承認欲求の肥大がグロテスクな様相を示しているのは現代日本の一つの景観で。

そんな中でメディア/ブロガー/記者とは?みたいな事を考えることは意味があることだと想います。Internetによって創作者と観客が直で繋がれるなら尚更。今、羅列型ニュースサイトなんかはクロールがほぼ自動運営されていますが、AIが記事を書き始めているというし、メディアこそ"何故ヒトがやるのか"を考えないと泡と消えるのだろうなとも想います。

一つ想うのは、やっぱり最終的には”その人そのもの”が重要なのだろうなと。例えばニュースアンカーの人格というか。ストレートニュースに"感想"は要りませんが、滲み出る人としての匂いがシステムに対する人間の矛なのだろうと想うのです。人工知能「東ロボくん」が“東大入学を諦め”たのは、英語や現代文の文脈を読む力が分からなかったからだそうです。少なくとも現状では「物語・文藝・文脈・調査報道」のようなものはAIに喝破されていないのだと想いました。

と、同時に、メディアなり、これはアートでもジャーナリズムでもいいのですが、一番の動機は「自分のみたい/読みたいモノを創りたい」からだと想います。単純にやっていて楽しい。その楽しさがBlogを続けてこれた理由だし、内輪受けは厭だといいながら鴎庵の最大の読者は自分自身だと想います。この"私"という装置、選別と推敲の感性や、創ることで楽しさが出てくる生物の資質がヒトがAIに侵されないサンクチュアリなのかもしれないな、なんて最近思っています。

趣味に"意味"を求め始めたら結構ヤバくて、趣味の最大の意味は楽しさに尽きる。"みられる"のは"みたい"から創始している。そう想うのです。BlogやTwitterは競技でもないですが技術を自分の中で更新して内輪受けでない記事を書いていきたい、なんつー意識高いこと言っとる間に筆を動し取材しろっすね。 しかしサイト論て究極の内輪ウケだな(苦笑
by wavesll | 2016-11-27 10:27 | 私信 | Comments(0)

読書感想: 新田祥子 / もうだいじょうぶ! 心臓がドキドキせず あがらずに話せるようになる本

c0002171_18521595.jpg新田祥子著 『もうだいじょうぶ! 心臓がドキドキせず あがらずに話せるようになる本』を読みました。

私は緊張しいの人間で。特に仕事とかで"これは失敗してはいけない"という思いが強い時や"きちんとしなければ"と言う思いが強い時は物凄くあがってしまいます。文章を書く際なんかも、Webにはこれだけ饒舌に書けるのにも関わらずビジネス上の文だったり、"読み手が批判的な目で粗探ししてきそうだ"というプレッシャーの中で文章を書きあげるのがどうにもこうにも不得手で。

今までプレゼン白熱教室なんかをみて、<準備と想定演習を反復することを重ねて、ターゲットの好みを徹底的にリサーチして反映させる>とか"成る程"と想ったのですが、実際問題それだけの準備の時間的余裕が与えられないことも多いし、"正攻法に人事を尽くして天命を待つ事が出来ればいいけれど、そのスピード感に体力・精神力的についていけん…"と想っていたことも事実。そんなわけでこの本を手に取ったのです。

そこで書かれていたのは<『あがる』とは精神現象でなく生理現象>だということ。<あがる人は恥をかいた記憶が反芻されて、脳が自尊心を守ろうとして過剰防衛反応を示している>とのことでした。

あがる人は鬱なんかにもなりやすい性質らしく、完璧を求めて反省を繰り返すそうです。その為自分の駄目だったところばかりが記憶に残り、<あがった、失敗した>という記憶が強化され、ますます苦手意識が高まるそう。

原因は幼少期に勉強をしすぎたり、TVゲーム等で対人コミュニケーションの経験に乏しくなってしまったり、最近だとSNSに没頭してフェイス2フェイスのコミュニケーションに触れる時間が少ない場合もあるとか。しかし大人になってからでも訓練であがり症は直すことができるそうです。

まず減点嗜好を脱却し出来たところを見ること。"ま、いっか"と安心で心を満たせばあがらないとのこと。
更に声の震えなんかは、骨伝導で聴く自分自身の認識程他人にはつたわっていないので、"最低限これだけは伝えるポイント"さえクリアすればOK、くらいなラインを設定するのも有用かと。過剰な反省でますます苦手意識が強化されるのを避けるのを優先したいところ。

そして面白いと想ったのは口や舌、表情筋の筋トレをするといいというくだり。また猫背や服装をしゃんとするという"見た目の与える印象の改善"というアドバイスも。

不安というのは漠然としているからこそ大きくなるもので、やるべきことを具体化すると不安は半分は解消されるというのもその通りだと想いました。"あがり"というのを脳に原因を求めるというより身体全体の問題と定義するのが好感が持てました。

きちんとした訓練を積んで”ドキドキしないスピーチ”の記憶を定着させればあがることはなくなるそうです。ここら辺は著者の人がやってるセミナーの宣伝だなと想いましたがw

そして人に対する苦手意識の段では”この人苦手だな”と記憶するより”この人はこういう特徴がある”と記憶すると漠然とした苦手意識で記憶が埋まることなく、寧ろフラットな”事柄”として記憶されるとのこと。

そして<対人コミュニケーションを上手くいく為に>の段ではまず<コミュニケーションが上手くいかないのはあなたが自分の話ばかりしているから。相手の話を聞くのが大事>とのこと。”それは知ってるんだよ”とwしかしここからが面白かったのです。

<質問をするときは『事柄』でなく『相手の感情』にフォーカスを>とのことでした。『情報』を得ようとすると相手は”なんでそんな根掘り葉掘り聞かれなきゃならないんだ”と想い、反応が悪くなる。そこを<その時相手は何を想ったのか>を聴くと会話が弾むと。なるほど!といった感じでした。自分がLINEなんかで友人と話が弾まないのは相手に情報を聴いていたからかと。なるほどなーといった感じ。

また何かを断る場面では"状況/事情"の説明が大事だとのことでした。これは実際の場面では話したくない事情なんかもあったりするだろうし、上手い事いい抜ける狡さもいるかなと。

大前提としてあがり易い人は相手の反応を自分で推測してどんどんネガ思考に陥ってしまうという点があり、そんなコトは相手が考えればいいことだと切り離すのが大事だとのことでした。

ここら辺は"うっわ耳が痛いなー"というか。昔mixiで足跡がついたのに"いいね"が押されないことに対して「俺の書くものは1クリックもする価値がないほどつまらないと想われてるのか」と逆切れした黒歴史があるのです>< 自発的に書いていることなんだから、アドラー心理学を持ち出すまでもなく相手の反応は相手の課題ですからね(苦笑

特に私のような極私的な関心ごとを書く場合は、mixiのような閉鎖的な人間関係の所に書くよりも、寧ろWebの大海に書いた方が性に合っている気がします。このBlogの一日のhit数が大体PCからが100、スマホからが100なので、日本国民の1/500,000の確率でも関心が共有出来たなら僥倖で。その代わりに書きたいことを画くインディー・スピリットでやっていきたいなぁと想います。

とはいえ、この本を読んで一番びっくりしたのは文字が大きくて1ページ辺りの文字数がとても少ない事!
まとめサイトで良くあるみたいなリーダビリティーを追究したつくりに”1500円の本でも、いやだからこそここまで読みやすさを追求しないと手に取ってもらえないのか”という其のサービス精神に驚きました。

私は利便性とか機能性を疎かにしたのはインディー・スピリットの追求というより怠けかもなぁと想いました。とはいえ、この”怠け”というぼんやりした言葉では漠然とした不安が広がるばかりですから、”テーマ検索のしやすさ”とか"英語でもサマリーを書く"とか、具体的な案件に明瞭化してこうと思った次第です◎
by wavesll | 2016-11-02 18:58 | 書評 | Comments(0)

Krzysztof Kieślowski 『Amator』 ― 1情報発信者として想う覚悟無きメディア行為の暴力性

クシシュトフ・キェシロフスキ監督の『アマチュア』をみました。
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Bunkamuraの特集上映サイトによると
家族、安定した生活、そして友人にも恵まれ、フィリップは平凡ながらも幸せに暮らしていた。彼は娘の成長を撮ろうと旧式の8ミリカメラを買う。しかし家族を撮るつもりが、彼はどんどんとファインダー越しの世界に引き込まれてしまう。自らの働く工場の式典を撮影した映像がアマチュア映画のコンクールに入賞。映画製作も始める。しかし夫婦仲は悪化し…。社会状況への愛すべき皮肉や映画の魅力、そして人生における欲望との葛藤を描き、「映像文化にとって真のコペルニクス的革命」と評され、世界にキェシロフスキの名を知られるきっかけとなった一作。
とのこと。彼女が特集上映でみて激賞していて。私は渋谷TSUTAYAでレンタルしました。

メディア行為を行う主人公にWebに色々書いている自分を少なからず重ねてみたのですが、平穏でつつましい幸せな生活を望む心と、メディア活動をすることで自分の世界が広がり、少なからず評価されたり、自己表現できることにのめり込む欲望の対立は少なからず身につまされました。

単純に仕事の面白味(その仕事でモテるようになったり自分を認める人間関係が拡がる快楽)にかまけて家庭をおざなりにし破綻を招くという話にも読めますが、ここに"メディア活動"という要素があることが、物語に現代性を与えていると感じました。

何よりも見ていて心がずきずきしたのは"秘密を公開し暴く行為がもたらす被害に対して思慮が足りない中途半端な正義の結末"が描かれていること。

自分はこうして未だにブログをやっていることでもそうですが、人に自分が面白いと想うことを伝えるのが好きで、大学時代は"噂拡声器"みたいな感じに半ば疎ましがられながら、友人のずっこけ話を拡散したりしていたのです。ぺらぺら話す自分自身はモテなかったこともあり怖いものがなかったので自分の醜聞もべらべら笑い話にしていたのですが、ある友人からは"お前は面白い話ができていいよな、恋人とかがいたらそういう話だって大っぴらにできないもんだぜ"とか言われたり、もっと強く"べらべら喋っちゃいけないこともある、消せ"と言われたこともありました。

当時は謝りながらも心のどこかで"言われちゃ嫌なことはやらなければいいのに"と想っていました。ただ、社会に出たり、パートナーができたりして失敗を重ねながら今思うのは"真実を隠すことで世の中が回っていることもある。必ずしも皆清廉潔白でだけではいられないとしたら、馬鹿正直にべらべらと自分のことを話したり、他者の秘密を明らかにすることでそのバランスを崩すことは、果たして正義といいきれるのだろうか"ということです。

劇中の主人公フィリップも社会悪を暴く、というか事実を提示することをアマチュア映画で行います。それ自体は純粋な気持ちから起きたことでもありますが、結果として親しい人に余波がきてしまう。何かを暴くとバランスが崩れ、今までと同じではいられなくなってしまう。それはもちろん良い結果も起こしますが、今までのつっかえ棒が壊れて混乱だって起こしてしまう。その被害を起こしたという事実に責任をとれるのか、あるいは暴くことで自らが他人を傷つけることへの覚悟が持てるのか。"AMATOR"という概念が示す覚悟のなさが胸を突きました。

インターネットは公共の往来になりました。誰でも読めることを意識せずにバカッター行為をしてしまう若者が問題になりましたし、2chに「殺す」と書いたら逮捕されてしまいます。今日も熊本地震の際のデマTweetで1人逮捕されました。何も『悪魔の詩』に対するイスラム過激派を持ち出さずとも公に出す言論はお遊びで済まず、言論の自由は反発や糾弾を覚悟した上でのものでなくてはならないのが現実です。

そう考えると世の中のアングラであったり、密やかな悦びの豊饒さはもうネットには置けないのだと思います。秘密倶楽部は現実に帰ったというか、ごく限られた内輪の間でそういった愉しみは保全されるべきで、メディア人の個人的な名誉欲のために暴かれるのは、思慮がない。信頼関係に基づく許しがない、或いは傷つける覚悟がない限り行ってはいけない。そういう風に、今は想うのです。

劇中でも"本気になったことが一度もない"という台詞がありましたが、アマチュアを言い訳に無責任に報じることの危うさを想います。決定的なカタストロフィの前に知れたのは良かった、と共に、『真実すべてを伝えることも混乱を巻き起こし、"行為を伴わない言説"もヴァーチャルではなく現実なのか…』とも想ったりもします。そうなると言論の自由、思想の自由はあっても、言葉にしたら戦争なんだな…と。私なんかは物理的な行動か金銭的コストそして時間コストがないとどうも"現実の痛み"とは思えないのですが、世の中では仮想/冗談として笑って済ませない範囲は広大なんだなぁと。まだ考えが纏まりきってないかもしれません。言葉の暴力というのは厳然としてありますし、時間コストを奪ってしまいますしね。ただ自由を失った結果社会に闇が拡がることや社会に余裕が失われることにも功罪はあると思いますし…。

情報発信やジャーナリズムに求められる責任に、"事実を報じる"以外に"結果に責任を持つ"ことが含まれるのか。それはアマチュアという立場ではどうなるのか…1情報発信者として、大きな問題提示をこの映画からは突きつけられられました。その答えは、今後の私自身の態度と言葉で示したいと思います…。ただ、少なくとも言論は凶器にもなるということは、意識していきたいと想います…。

追記
だからこそ、フィクションという形で現実を浮かび上がらせる行為に価値があるのだなと想いました。また、隠し事がある人間の方が詩の技巧は向上するかもしれませんね。

フィクション故に真実が現れる 演技と本心-カズオ・イシグロ 文学白熱教室から
by wavesll | 2016-07-20 19:54 | 映画 | Comments(0)

秘する場を照らすは世界を浅くするか ライヴレポ・展覧会レポ省察 追記:異形の引き算

昨晩、そして一昨日のRichard Devine, Eat Static @Super Deluxe → Arca + Jesse Kanda @Womb、素晴らしい2夜でした。連日クラブイヴェントへ通ったのですが、鱈腹食べたというか、かなり満足しきってしまいました。もう食べられないくらい。

鱈腹で言えば、今夜地元のリストランテで食べた穴子のリゾットがとても爽やかで夏らしく絶品でした。

それぞれの生の瞬間はかけがえのない魅惑に満ちていたのですが、その魅力のすべてはwebには載っておりません。Arcaも音源だけを聴いていたらまるで印象の違う音楽家だし、穴子のリゾットの旨味も私の表現力では十分に伝えられない。生の感覚はWebにはULされない。仮に極上のブートレグをDLしたとしても現場での体験は五感ですから、現実は捨象された上で情報網に乗ります。

ただ捨象された表現は、逆に言えば抽出された表現とも言えます。
先日観た『ローマの休日』の白黒の陰影に得も言われぬ優雅さを感じたのもそうですが、捨象された美ってありますよね。私はフィールドレコーディング音楽が好きでして。勿論、そこには風圧も、温感も、匂いも記録されてはいない音とジャケット写真だけの作品なのですが、音楽から情景が脳裏に立ち昇るのです。

想像力を掻き立てられ、その場にいないのにより純粋にその音で描かれた世界を味わうことがフィールドレコーディング作品体験です。ミロのヴィーナスのような、欠けているからこそ輝くうつくしさ。

将来的にライヴヴィデオはVRゴーグルでその会場を360°寫した体験型のパッケージになっていくことは想像に難くありません。一方その恩恵に預かれるライヴは限られるでしょう。現状でも感想レポすら書かれないライヴは多いですし、珠玉のライヴが日の目を見ないのは、もどかしくもあるような、でも自分だけの大切な思い出として秘匿したいような背反する想いにかられます。

只、そもそもライヴレポ記事ってあまり読まれない、というか読み返されはしないんですよね。このblogでもライヴレポや美術展のレポなんかも結構書いているのですが、中々アクセス的な成果は難しかったり。

Mighty Crown 25周年 第一章 ~ CHRONIXX JAPAN TOUR ~@川崎クラブチッタとかMIYAKE ISSEY展 Fotos @新美とか。もうちょい読んでもらえる方法はないかなぁと思うのですが、難しい。個人的にはロックにディジュリドゥを絡ませDubsteppin' R'N'Rを打ち出したLOSALIOS 2013 LIVE "NO FUTURE "@恵比寿LIQUIDROOMなんかはその後の達也のPsychedelic Foundation等の活動につながるし、もっとうまく書けていればなぁと想いました。

他方、黒田清輝展@東博 もう一つの坂の上の雲江ノ展にメカ撮り行ってきた!なんかはTwitterで紹介して頂いてアクセスを集めたり、生誕300年 若冲展@東京都美術館 High Vision & High Standardは世間的にも若冲展が注目されていたからかさらっと書いた割にはアクセスを集めていました。10年以上前に書いた円と棒でみる日記・blog・個人ニュース・新聞でまとめた通り、集客にはニュース性が重要。私も自分が行ったライヴとか、行きたかったライヴくらいしか検索してまでみないので、気持ちはわかります。その上で、ニュース性が切れても読まれる需要を創るというのは憧れです。

その為にどうすればいいか。質を上げるという意味では、勿論修辞も文章の質だと思いますが事象と考察がどれだけ詰まっているかが"文章の内容"だと想います。変に表現をこねくり回すより、思考で叩上げたことを自然と連ねた方が美味い文章が書けた実感がある。

思索が触発されるという点だとGodspeed You! Black Emperor's live at Shibuya DUO MUSIC EXCHANGEなんかは上手く書けたかもなぁなんて思ったり。(ちなみに今回は過去記事linkを結構張っているのですが、記事の掘り返しが過去記事の蘇生の一つの手段なのでは?という考えでlink貼ってみています)

ただ、何でもかんでもwebに載せるのは豊饒な秘密の宝珠を雨曝しにするような、世界を浅くし色気を台無しにしてしまう恐れもあるのではという危惧があるのです。

昔のWeb世界は少しアングラな秘密倶楽部のような雰囲気がありましたが、現在のWebは完全に実社会化されたというか資本主義的なモラルの場になり、秘密倶楽部の集積だったものが、公のルールに曝されてしまいます。、政府に個人情報がビッグデータ的に管理される時代になってしまっているし、却ってWebに載らない現実の方が今はよっぽどアンダーグラウンドな気が最近しています。

さらにそもそも論を言えば単純にblog書くためにライヴ見るというのは自分にとっては本末転倒で。Arcaでモッシュピットでもみくちゃに盛り上がったのは私にとっては久しぶりで新鮮な歓びだったけれどレポ書くなら後ろでじっくり聞いた方がいいでしょう。でもそういうのは写真ばっかり撮って肉眼を蔑ろにするのに似た残念さがあって。分析的に聴くと酔いがさめるというか。あくまでファンの目線で熱狂を記したい。

そんなことも含め、捨象表現・抽出表現によって、限定や制限を活かすことで想像の余白の深さを保てるような方法がないものか、blogに関しては模索を続けていきたいです。基本的には自分が読みたい質を出せるように。その上で現場に行った人たちにとっての密やかな歓びも傷つけたくない。理想のレポ記事への道を進んでいきたいものです。

追記:
今夜放送されたプロフェッショナル仕事の流儀 異端の書体を創る書体デザイナー 藤田重信さん. 福沢諭吉の書道の本からフォントを創るなど、Diggerというか、DJ的なセンスを持ったアーティストだなと思ったのですが、番組後半で正統派書体デザイナーの鳥海修さんに新しい明朝体への意見を聞く場面があって、その時鳥海さんが「自分は削って削って造るけれど、藤田さんは意見も含めて加えて加えて造る」と言っていたのが心に留まりました。

引き算は本当に美しいのだけれども、私自身の文章は絶対足し算だし、異形の魅力を目指した方がいいのかもしれない、と。更に言えば、異形の引き算というか、ミロのヴィーナスも、フィールドレコーディングも大きな欠落そのものが異形というか。一旦行くところまで突っ走った後で、ゴロッと事故的に欠けさせる、なんて方法論で文章を造れないものか、削ることで増幅するというと禅問答のようですが、やってみたいです。
by wavesll | 2016-06-13 00:34 | 私信 | Comments(0)

『エル・ブリの秘密 世界一予約のとれないレストラン』 前衛的なレストランへの取材のプレゼンテーション

映画『エル・ブリの秘密 世界一予約のとれないレストラン』予告編


AbemaTVで映画『エル・ブリの秘密 世界一予約のとれないレストラン』をみました。
分子料理とも呼ばれる前衛的なレストランは、半年営業し半年は新メニューの開発へ費やされます。

R&D中の厨房は、アートが造られる実験場の様。オーナーシェフはまるでルネサンス期の親方のよう。AbemaTVでみた『二郎は鮨の夢を見る』の一子相伝的な厨房とはまた違う、創新の現場でした。それでも彼らはイノベーションは日々の積み重ねといいます。真に新しいものを開発するのは毎日をちょっとづつでも改善していく絶え間ぬ努力がいるのだなと想いました。

また、このドキュメンタリー映画は、ナレーションが無し。日本のドキュメント番組なんかはナレーションで"解説や読み解き方、場面の意味"が語られてしまいますが、この映画はあくまで素材となる取材対象の映像で視聴者に"答"を考えさせるのは上質だなぁと。地上波テレビなんか見るとワイプ芸やワイプ喋りなんかが氾濫し"感想くらい視聴者に任せられないのか"と想うことも多かったので、このプレゼンテーションの仕方はblog記事の更新にも活かせられないかなぁ等と想いながら、"でも感想を感想無しで書くのはどうすればいいのだろう?いろいろ試してみたい"等と考えながらみていました。

3時間で35品。現場は鉄火場の中で、相当高いんだろうし、一生に一度のつもりのお客さんばかりだったと思います。"今日は調子が悪くて"などとは絶対に言えない勝負の場に立ち続けるなんて料理人は物凄いアーティストだなと想いました。

一度食べてみたかったけれど、エル・ブリは2011年に閉店し、料理研究機関になっているそう。食べれるアート、その夢想が目で耳で脳で味わえる、驚きの料理店のドキュメンタリーでした。

P.S. 東京にも来ていた現在世界No1料理店 ノーマはどうなったかなと想ったら、『ノーマ、世界を変える料理』:美食界に革命を起こした天才シェフ、レネ・レゼピ!壮絶な道のりを追う4年間のドキュメンタリーが今公開されているそうですね。

映画『ノーマ、世界を変える料理』予告編



『二郎は鮨の夢を見る』、全編Youtubeにありました。
Jiro Dreams of Sushi 2011 720p BluRay

by wavesll | 2016-05-14 12:57 | 小噺 | Comments(0)

"音楽の要約"は可能?「音楽紹介ブログのYoutube動画、全部見ることめったにない問題」について。

自分は恐らくは音楽好きといって間違いでない人間だと想います。このブログでも良くYoutubeとかsoundcloudとかで音楽を紹介することが多いのですが、友達なんかからは「Youtubeはみないなぁ。ブログは読んでるけれど」なんていわれること、結構あるんですよね。

紹介する音楽よりも、私自身の文章を目当てにアクセスしてくれるというのは喜ばしいことかもしれませんが、文章よりも愛する音楽こそ聴いてほしい、みたいに思ったり。「聴きたくなる文を書け」ということかもしれません(苦笑)

ただ、その気持ちも分かるというか、音楽って本当に人それぞれ好みが違うのもありますが、音楽は"時間の藝術"であることが大きいのだなと想うのです。

自分は結構、展覧会なんかにも行くことが多いのですが、ビデオアートって苦手なんですよね。時間かかるじゃないですか、みるのに。その点、画や彫刻はぱっと把握できるのが、魅力を増していると想います。また自分は最近は読む頻度が減ったのですが漫画好きで、アニメより断然漫画だったのですが、それは漫画は読むスピードを自分でコントロールできるから。"時間が規定されていない藝術”の方がとっつきやすくあると想います。

実際、タブで同時に開いていれば好い話なのですが、私自身も他の方の音楽紹介記事で多数の音楽リンクが紹介されている時に、全部みるのはしないですし、一つを聴き終わる前に止めて他のものを開いたり、別のページに飛んでしまったりします。そういった意味で、鴎庵の文章は読むけど音楽は聴かない、というのは私自身もまぁわかるかもしれない…とも想ったりします。

"時間をリスナーが支配できる音楽"、或いは"要約可能で短い時間で美味しい処を味わえるように編集する音楽"ってあるのかなぁとも想ったのですが、うーん。。。短い曲ということならば「1分の音楽」ルールのコンピなんかはありますが、、、試聴ファイルつくりと言う意味でも、音楽の要約って、案外重要な観点な気もしますね。

或いは音楽紹介の記事は、「楽曲の時間」と「文章を読むのに要する時間」が等しいのが理想なのではないかと想います。音楽を主にして文章がバックグラウンドで流れる感じと言うか。流し聴きと言うのは聴覚表現の大きな利点ですから、これを活かすというのは音楽ブログにはいい方法かもしれませんね。"時間が決められている"というのは逆に"その時間で楽しみきれる"ということですし、私も最近はマンガ読むよりも映画観てる方が楽だななんて感じになってます。このサイト上で上手く文章と音楽、或いは画像を連携させられたらいいな、なんて最近は考えています。
by wavesll | 2016-04-25 18:26 | 小ネタ | Comments(0)

芸能史のあれこれと、TVを初めとしたプロメディアに対する素人web表現省察。

最近楽しく読んだ記事に、DrillSpinで連載されていた「ロックと日本の60年」という記事がありました。

第1章 “ウェスタン”だったロックンロール
第2章 “アイドル”の原型、カバー・ポップス
第3章 ビートルズでバンドに目覚めた!
第4章 60年代末、ロックも世界も激動の時代
第5章 アメリカかイギリスか?日本語か英語か?
第6章 クイーンを筆頭に、まばゆきロック・アイドルの時代へ
第7章 日本型アーバン・ミュージックの生成
第8章 パンク/ニュー・ウェイヴの日本伝来
第9章 80s前半、MTVとポップス黄金時代
第10章 バブルが洋楽を追いやり、バンドブームを経てJ-POPの時代へ
第11章 バブルの喧噪に射し込んだニルヴァーナ
第12章 オルタナ、ブリットポップ、そして渋谷系以降~「世代の断絶」さえ生んだ、情報世代のロック全盛期
第13章 世紀末、ブリットポップ、オルタナの死と、ピーク迎えた日本のロック・シーン
第14章 2000年代、世界のシーンは動き、日本は閉じた
第15章 2000年代後半~ロックと日本のこれからは?

これ、なかなかの連載でしたよ。
1955年、映画『暴力教室』の挿入曲だったビル・ヘイリーの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が現象的ヒットとなり、ロックンロールが世に知られるようになってから今年で60年が経ちます。
との書き出しで始まる2015に書かれた日本と英米の60年に及ぶロック史。誰が書いたのかと想ったらNHKFMでライブビートをやられていた方らしいです。現在はブラジル在住らしく、「ブラジル音楽の歴史」連載も面白かったのですが、まずは日本のロック史を。

この連載の美点としては大枠で歴史教科書的に芸能史を捉えている点です。
特に、芸能プロダクションの動きが書かれていた点は、感傷重視の"自分史"で語られる音楽記事とは異なっていて、面白い。
例えば1958年にロカビリーの祭典、「日劇ウエスタンカーニバル」としてロックコンサートを開いたのはナベプロの創業者であったりとかとか、ラジオ・TV番組の変遷が語られたり、P-VINEが出てきたり、90年代にはビーイングについても語られたり、ヴィジュアル系・ロキノン系にもある程度客観的な視点で描かれていたのは、業界史のダイジェストとしても楽しめました。その時々で起きていた英米のロック潮流と日本がどのような距離感に在ったのか、その反応の纏めを愉しむことが出来ました。

ただ、英米の音楽潮流を"正史"として捉える姿勢は、良くも悪くも日本のロック史だなぁと想います。前述のブラジル音楽史では、ブラジル人の好みもかなり好意的にとらえていたようにも見えましたが、"音楽好きの価値観は英米流が最高だ"というのは、また違うかなぁとも想いました。

その流れでクラムボン・ミト氏、柴那典氏、金子厚武氏による、2015年の音楽シーンを振り返る対談を読むと、海外からの目で見た音楽業界とドメスティックな目線で丁度バランスが取れるような気もしました。
2015年の音楽シーンはどう変容したか? クラムボン・ミト、柴那典、金子厚武が語り尽くす
「ガラパゴスも続ければムー大陸になる」論客3人が分析する、2015年の国内音楽シーン

2015年は、年間ランキング1位2位が2014年リリースの「RYUSEI」と「Dragon Night」で、AKB新譜が売り上げがミリオンを切った年。CDは売れなくなったけれども、音楽業界人的には底を打ったというか、新たな戦い方が見えてきた年と言う印象ですね。

EDMは欧米では終わりかけのブームで、日本では5年遅れぐらいで流行ってきているという話は、今更リンキンっぽいワンオクとか、P-VINE辺りから出てきている洋楽から比べるとサイケ・バンド群も2・3年遅れだよなぁ、いいものもあるけど、と想いながら読みました。

音楽業界分析、という処からは離れるかもしれませんが、この鼎談の中で一番気になったところは「TVの復権」という部分でした。少なくとも日本においては最大のメディアはTVのままと言うか、web上で話題になるというプレゼンスの面でTVはかなりの地位を収めています。twitterでバズっているワードも今夜の魔女宅のようにTV番組を肴に実況する/コミュニケーションをとることはみえますね。

ロングテールの逆verがここ数年は起きていて、ヘッドが総取りと言う状況が生まれている気がします。面白いコンテンツを探るためにwebをDigる為の可処分時間自体が、コンテンツ消費の為の時間で埋められてしまっているのでは、とも思います。

twitterユーザーとして、TVっ子としても、tweet実況はTLが一つの茶の間になった感覚と言うのはありますね。ひろゆきがニコ動に関わっていた頃に言っていた「TV局の方が製作費も人的資源もあるし、webより有力なコンテンツが創られていると想いますよ」といっていましたが、現状はその流れですよね。海外だとYoutubeでのゲーム実況で5.4億円の家を買った猛者も出てきていますが、日本でゲーム実況と言ったらゲームセンターCXの有野課長が出てきそうですしね。ニコ動でのゲーム実況は2007年くらいが黎明期らしいので、2003年に初放送だったゲームセンターCXは慧眼でしたね。この間地上波でやった「Dの食卓」回も良かったです。1時間でゲームを疑似体験できるのは、教養的にもいかも。

話がズレました。TVが最強のショバで、最終的にはそこを目指すパラダイムがまだ強いというのは、今日の金スマでやっていた小林幸子のニコ動でのブレイクからの紅白復活というのもその文脈でとらえられると想います。

TVというマスコミュニケーションは凄い寡占のショバで、稀少な座を各事務所の営業戦争で奪い合っているのだなぁと想います。

"好感度が高い"というのも化け物染みてた指標ですよね。ベッキーにしたって、日本人4000万人が好きでも、日本の7割の人が嫌いか無関心ですものね。しかも若者はTVから離れて、流行が保守化・鈍化している(これ先述の音楽ヒットが1年遅れにも象徴される)今です。プレイヤーとしては"誰にでも受け入れられる最大公約数的な芸能人"を目指すより、中規模で、自分のやりたいことを成り立たせる方向へ向かっていくのも良いのではないかなと想います。

ニッチなクラスタへ向けた表現をしても、全球的なマーケットを目指せば成り立ち、マスに火が付くかもしれないのはBABYMETALなんかも示している道ですよね。またマスメディアに乗った知名度・すでにあるコミュニティを活かしてwebに発表の場を創って娯楽を提供するという点ではInterFMでやっていた桑原茂一さんのPirate Radioのsoundcloud版なども、興味深いです。独立系web動画メディアで一番気を吐いているDOMMUNEなんか、一番上手くやりたいことを実現できている気がします。

こうして振り返ると、プロの表現者たちはかなりweb時代に適応してきている気もします。ちょっと個人的に淋しいのは、webというフロンティアが社会化されることによって、ばるぼらさんが『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』に書いたような個人サイトが、SNS等のプラットフォームに呑みこまれ瓦解していったような気がすること。

私の観測範囲だけの傾向かもしれませんが、この鴎庵の柱リンク、10年前位に登録したサイト群が、もう8割型ドメインが消えているか更新停止になってしまっているんですよね。もしかしたら、実力のある人はプロ・セミプロへ引きあがって行き、そのフックアップは一段落着いたのかも。ただ、"個人サイト"という形式に愛着のある時代錯誤な人間としては、ちょっと淋しいというか、柱リンクは今の時代に合わせてブラッシュアップしなければなと想います。

現在、文章・写真・音楽・動画・ゲーム、どこまでもリッチな表現も個人で出来るようになりましたが、先述したように、ガチンコでぶつかり合うとマスメディアに個人サイトは質で負けてしまう感はあります。
そこで個人のweb表現としては、twitterのように集合体としての価値を提供することも一つの方策ですが、個人サイトでできることで、今考えているのは"想像させる余地を置くこと"ではないでしょうか。

自分はフィールドレコーディング盤が好きなのですが、それは目で見るよりも音だけ抽出された風景の方が臨場感を持って立ち上がるからなんですよね。

五感の全てを使うのではなく、一部をミュートすること、時間感覚を操作すること、これらを工夫することで、リッチ・コンテンツより寧ろ魅力的なweb表現が出来るのではないかなー、等と考えています。勿論、一番安価に世界を立ち上げることが出来る"文章"も頑張って、冒頭に紹介したような素晴らしい記事を自分も書けるように精進していきたいなぁというところで本日は〆させていただきます。
by wavesll | 2016-01-23 01:13 | 小噺 | Comments(0)

結果を出す文章、結果を求めない文章 ― Blogの”目的”を考える

昨日のエントリ、結構アクセスを集めたみたいで、自分が「良く書けた」と想う時よりも、「イマイチだなー」って時にアクセスを集めてしまうのは、中々歯がゆいものがありますね。

昨日も書いたのですが、帰宅してからの時間で何かしたいと思って今夜は本を読み返していました。テーマは文章。特に"機能的な文章"について。山田ズーニーさんの『伝わる・揺さぶる!文章を書く』 を手に取りました。
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山田ズーニーさんは元々ベネッセにいた方で、『おとなの進路教室。』という本や柱リンクにもあるサイトをそれこそ大学の就活の頃に読み、とても誠実に、丁寧に伝わる文章を書く方だなぁと想ったものでした。この『伝わる・揺さぶる!文章を書く』も数年前購入し、その時も感銘を受けたのですが、今第一章・第二章を読み、あぁあ流石だなぁと再び色々考えが深まる契機になりました。土曜日までに全章読み返したいのですが、三章以降は実践的なトレーニングとなっているのと、色々読んでいる内に「書きたい、少なくとも昨日の記事よりは自分の思い入れがある文章が書けるはずだ」という思いにかられ、今ラップトップに向かっていますw

この本で書かれるのは、「結果を出す文章をどう書くか」です。ベネッセで小論文を担当していた山田さんは、自身の受けてきた国語教育を振り返った時に、文学鑑賞ばかりで、実際に生活の中で必要とされる手紙や詫び状、議事録等の文章のライティングの授業がなかったという事を起点に、働くため、生きるために、状況に応じて目的を果たすためにきちんと機能する文章の書き方を紹介しています。

これは、目から鱗でした。と同時に確かに、小学校はともかく、高校くらいでこういう日本語ライティングの授業があったらとても良いなぁと想いました。「読書感想文」にしても、何にも書き方を教え無いで放りっぱなしで書かせても、効果を上げるどころか国語の勉強が苦痛になってしまう人が多いのではないかなと思います。私も一時期小学生に国語を教えていたのですが、母語という、ほとんどセンスで解いていた自分の"センス"をメソッドに落とし込むのはなかなかに大変で、学校で実用的な文章術を学ぶのは納得感も増しそうで良いなぁと想いました。

と、同時に文章が「結果を出すためのもの」と自分はあまり思っていなかったことも思い当りました。およそ自分の気持ちの発散のために文章を書いていますね、特にtwitterなんか「読む相手を動かす」ということについて考える人はやってられないのではないか等とも思います。

「結果を出すため」にしか文章を書かない人ではない、半ば生理的に活字を読み書きしている自分にとって、逆に「読み手が何を求めているか」「文章を読んだ後読み手にどう思ってほしいか」、つまり「この文章の"結果"は何か」を考えるというのは新鮮でした。

まぁ、このサイトが長続きしているのは「結果」を考えなかったところも大きいと思います。私が19の時からやっていますから、休止期間も含めればもう10年以上やっていて、累積アクセスは30万を超えていますが、やれ「アクセスを物凄く稼いでアフィリエイトだ」みたいにやっていたら、つまらないし辛くなりそう。逆に言えばこのサイトをやっている目的は「自分が読みたいことを書きたい様に書く」ことが出来るからとも言えるでしょう。

ただ、昔、特に始めてから休止するまでの間は、完全に自分を知らない人向けにblogエントリを作成していた気がします。内輪受けにはしたくないというか、やるなら一般的な広い人々に向けて書いていた部分が大きかったですね。

逆に今はもっと私的な、自分の興味のあるところを、そこまでウケを気にせずに書いている気がします。読者の想定はtwitterで繋がっている人であったり、同じ番組やイベント、本に興味がある人であったり。毎日更新しているわけでもないので、毎日見に来る人というのは想定していないし、twitter経由で来る人数の数もフォロワーが1500人位いる割にはせいぜい10人位(これはやりとりをしている人の数には近いかもしれない)ので、現在は"公"を意識せずに書いている部分が大きいです。

自分がやりたい事と、社会で必要にされウケる事と、自分が出来る事はそれぞれ異なっていることは多々あり、「自分がやりたいことで評価される」というのは至難な業な気もするなぁなんて想います。社会の中では感覚で話すだけでは意見など通らず、如何に論拠を張って意見を通すかが大事だなぁと仕事の面では思いますが、声の大きい人間の意見だけが通る世の中も息苦しいですから、このblogくらいは己のふわっとした感覚を残したいです。

あぁ、一つ目標はあります。それは特に更新しないでも過去記事だけでアクセス集められるような"ロングセラーエントリ"を書いていきたいという事です。敬愛する先輩のblogが毎日100アクセス集めているそうなので、取り敢えずそれを目標にしたいですね。今は更新しない日だと30/dayなので、この三倍か…。昔さんざん書いた個人ニュースサイト時代のニュース羅列記事は今はもうまるで読まれません。速報性ではなく、恒常的に残るような記事を書くことをどこかで心がけたいですし、そういった"結果"を出すためにはズーニーさんのおっしゃるように"読者は自分に何を求めているのか"やら何やらを考えなければならないのかもしれませんね。

ちょっと振り返ってみると、大学の頃は仲間もmixiやらblogやらやっていましたが、今は誰か書いているなんてのはまるで聴かなくなりました自分が今も書いているのは、今は私的といいながらも、やっぱり公に向けて面白いものを書くという初期理念と、結果を求めて書くのではなく、半ば排泄行為のように日々活字をI/Oする指向性があったからかもしれません。何かしらの生活の跡、身体的・精神的な営みの痕を残していけたら幸いです。



by wavesll | 2015-02-26 23:52 | 小噺 | Comments(0)

"わかっている人"以外に伝えることの難しさ

昨日『エル・トポ』の感想を書いていて、自分の表現力の乏しさをまざまざと感じました。

あの映画から受けた、砂と風に流れる血、妖しい天啓を授けられるような一種のイニシエーションの感覚を全然伝えられない、それが残念でありません。

カルト映画というと非常に重い、ごちゃごちゃ暗い映画なのかと思ったら、かなりシンプルに感動させられ十分にサービス精神にあふれたいい映画だったのです。他人に伝えるにはこれくらいのシンプルさが必要なのか、と感じ入りました。

つくづく、私は他人の言っていることを理解はできるが、他人に自分の伝えたいことを理解させられてはいないなと思います。相手に前提知識理解を求めてしまうのは、己の弱点ですね。だから"分かってる人"としか話が出来ない。自分は"分かっている人"でありたいと想うがそれを他人に求めるのはエゴだなと、改めて『エル・トポ』に感じた次第です。

自分はどちらかというと"面白みが分かっている奴がいるのに自分がその面白味が分からないのはなんかむかつく"というタイプで、できるだけ読み解いたり、想像を触発させ面白がりたいと思う人間なのですが、それでも面白がれない分野もあるので、興味のないことに巻き込まれる人の気持ちもわかるつもりです。

例えば世間的に超駄作とされた『大日本人』なんかも芸人松本人志による自身の栄枯盛衰の暗喩なんだなとみれば、一つの時代を切り取った面白い作品だと観れますし、一方でスポーツの"上手さ"を楽しむというのは私にはできません。それでもヴィジュアル的、文化的にスポーツを楽しんではいますが。

ただ、私の"分からない人には分からなくていいや"という分からない人の気持ちを無視した話は、ともすると表現力の貧しさに繋がってしまうのではないかとも、思ったりします。少なくとも、話そうとしているものを本当は理解できるポテンシャルを持っている人には訴えかけられるようなプレゼンテーションをしなければいけないなと思います。

一方で商業主義の為に妥協することと、研ぎ澄まされた表現をすることは考慮しないといけないなとも、思います。『エル・トポ』のコメンタリーでホドロフスキー監督は「映画業界を悪くしているのは役者だ。彼らのせいで金もかかるし、映画に口出しもされる、役者が映画を一番悪くしている」と言っています。

これは私は現代のTVで感じます。企画の面白さではなく、視聴率の保険の為にタレントを多用する日本のTVは、金の無駄遣いしているようにしか見えないし、視聴者自身がそういったものに飽き飽きしているというのは昨今のテレ東の評価にもつながっていると思います。

一方で、尖った面白いものは、大衆に広く受け入れられないのだなとも思います。今夜もMステで凛として時雨がライヴをしていて、カメラワークや演出も含めこのバンドの魅力が十分伝わる好パフォーマンスだなと思いました。しかし2chには「これは95%の人間には受け入れられない」等といった書き込みがあって、おいおい、これくらいの前衛さが受け入れられないなんて、世間様はどれだけ感受性の幅が狭いんだ。それじゃ俺が聴いてる音楽なんか、0.01%も聴いていないんじゃないか??なんて思ってしまいました。

「音楽を求める人の規模は、寧ろこれくらいが本来のものだったんだよ」と音楽を創っている友人がいっていました。それは事実なのかもしれません。本もまるで売れなくなってきているという話を聞きますが、多くの人にとって活字を求めるのは暇つぶしのためであって、書籍・雑誌による質の高い読書体験を本当に求めていた人はそれくらいの規模だったのかもしれません。TVを作っている側も、如何に馬鹿に分かるようにつくるか苦心していると言っているそうですし、全てが「ながら」で消費される"コンテンツ"時代、文化の質は変容しているのだなぁと思います。

人は自分が理解できないものには基本的には敬意は払えません。この間も旧友に「カール爺さん面白かったよ」と言いましたら「あんなのクソだよ!ベイマックスみろって、ベイマックスをあんなのと比べんな!」と言われ、あぁこいつ話通じねぇなと私は会話を諦めてしまいました。

ただ、こうした時に"分かる人"だけとしかコミュニケーションできないのを克服し、「カール爺さんは、"過去の思いに囚われることは、生きてきた時間が長いほど起きてしまう。けれどもその重みを越えて今を生き未来へ種まくのは、いつからだってできるんだ"というテーマを鮮やかでユーモラスに、そして滋味深く描いた映画だよ、俺は名作だと思う」と言えれば良かったなと思います。

これがすぐ出てくるよう頭の回転、瞬発力の鍛錬が私には必要ですね(苦笑

また、狭い世界で同好の士がみつからずとも、広い世界へ飛び出れば"分かる人"と会うことはあるかもしれません。実際私もtwitterでフィールドレコーディング好きの方と出会ったことはできましたし、自分が本当に面白いと思う尖った(と"普通(に無理解)な人"に思われる)作品も、網を張る範囲を広げれば、センスを同じくする仲間が見つかることはあると思います。

と、同時に、そういった人に届くよう、あるいは"体験すればわかる人"に訴えかけられるような表現で、プレゼンテーションをすることは1bloggerとして心がけたい。このブログは全く自分に金が発生するわけではない、個人ニュースサイト時代からやっているアナクロなblogですが、質の高い表現と、売り文句はいろいろ考えていきたい。アクセス数に魂は売らないが、内輪受けにはならない、よりよい表現に高めたい。

その為に自分に必要なのは読書inputではないかなと思います。評論や、作品、記事といった質の高い文章を摂取するのが今の自分には必要なのではないかなと、紆余曲折を経た今、改めて謙虚に学ぶ気になりました。
by wavesll | 2015-01-24 00:28 | 小噺 | Comments(0)