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Blogの対価

Webに文章を書くことを表現活動というのはかなり烏滸がましいですが、一種のアウトプット・サーヴィスを行っているものとすれば、ではその”対価”は何だろう?とも思います。

実は私の中でそれは答えが出ていて、”藝仲間”がいること”共に情報を送ってくれること”が対価かなと。

アナクロなWebの住民としてはROM(Read Only Member)には何処か釈然としない思いもあって。鴎庵は特に縛りはないですが、Twitterのフォローは呟きもリアクションもない方は外したりしてます。趣味のアウトプットだからこそ拘れるものだと思うので。

面白い藝を提供してくれる人たちと繋がれるのは嬉しくて。昔は情報発信しない人にけしかけたりとかアレな行為をしていましたが、今は反響営業が主で楽しくやれています。

ただ、こうして好きなことをWebで発信できていると、飲みとか年賀状かの付き合いごとに対する意欲が落ちるところはありますねw

相手からすると「Webで遊ぶのはともかくちゃんと行事には付き合えよ」とか「ネットでなく現実を生きろよ」いう感じかもしれませんが、コミュ欲が情報通信で満たされていると「Webで非同期でコミュニケーションできればプレゼン的に後にも残るし一番よくないか?」とか。「飲みの誘いの前に面白い噺があるかWebで試聴させろよ」とかw不遜だw社会性が無いw

まぁ、忘年会でだけ会うのもナンセンスというか、今の時代コミュニケーションしたいことがあったらWebですぐやりとりできますし、そういった非同期の対話が呼び水となって会った方が形骸化してないかなと。実際、やりとりすると必ず発見がある友には感謝がたえません。

恋人や家族がいて、仕事もあって。中々コミュニケーションにリソースを割けない。それなら年一で一気にやりたいというのも、わからんではないです。だからWebのアウトプットは強いれるものではないと思います。

ただ自分は、未だに何となく普段から場を共有する関係が好きで、ある程度密度のあるコミュニケーションをしたい。

とはいえ余りに濃いコミュニケーションは少数相手では負荷になりますから。直接話すパートナーと言える人達がいれば、したい話をしてもどっかで受け止めてくれる人がいる位の大海にボトルメールが投げられている今の環境はありがたく、”みなに好かれなくてもいい”自由を愉しんでいます。目下の処Twitter社が倒産しなければいいなというのが願いです(苦笑

今思ったのは私が飲み会よりSNSを好むのは、酒や飯を肴にするより、音楽や画、映画や文章など文化的肴をアテに話がしたいというのがより精確な処かもしれません。普段の暮らしの面白話もWebに書いちゃう人間なのでwそういった意味でPCやオーディオでネタを引き出せる家飲みなんかは好きですね。

人のプライヴェートへの関心が薄い、人との折衝を避けるという意味で、"本当の人生を生きてない文化中毒者”という指摘は考慮すべきだとは想います。

これは今に始まったことではなく学生の頃も「このサークル飲みの金でCDや映画を払える…」とかアレなこと想ってた人間でしたから、中々に筋金入りで…。それでも月一で普段合わない人や新しい人との飲みは入れ、新しい血を入れるよう努めている感じです。

cf.
◆人付き合いとWeb同期 文字コミュニケーションの時間的レンジの広さの価値

◆何でも公開したいとみなが思っているとは限らないという当たり前の事実について
by wavesll | 2017-09-25 21:13 | 私信 | Trackback | Comments(0)

藝と支え Ametsub / Mbira Lights 1 EPに寄せて

Ametsub - Mbr / Flurries (Easy)


ametsub - mbr/mbirambient


Ametsub - Ajisai


Ametsubが音楽レーベルflauに空き巣に入ったことで逮捕された件を知り、何ともいえない気持ちになって丑三時までLogを読んでいました。

音楽は魔法を産むけれど、それを支える会社は人間が営む組織で、魔法ではなく労働と資金で動きます。その経営を危うくする程の損害を与えたのは犯罪です。

それでも、Ametsubくらい名の知れた人が窃盗をしなければならないほど貧すれば鈍す、というシビアな事象があったのではないかと想わざるを得ません。

私自身でいえばAmetsubは一度生でライヴをみたことがあり、またレコ屋やWebサイトで当然良く名前を観ていました。

今までは音楽はそこまでは嵌っていなかったのですが、今回の騒動から検索して知った今夏リリースの『Mbira Lights 1 EP』が特筆すべき音楽で、尚更茫然としました。

霊性を帯びて深く響く金属製の楽器の音。そこに珠のように転がるンビラ?の音。山霧の様な通底音と、心地よく刻まれ放たれるビート。素晴らしい。こんな音を創れる人がよりにもよって窃盗とは…。

この事件は、金だけの問題ではないだろうけれども、やはり他者と他者との軋轢は金で解決できる部分は大きいだろうし、YoutubeやSpotifyでフリーライドしている"客"ともいえない者としては「残念だ」とか、とてもじゃないけど言えないというか。それを引き起こしたのは金を払わなかったお前にも一因があるだろうと自問してしまいます。

金を出すのは藝への一番のサポートで。特に今の時代、音源や活字の様な情報に金を出すのはその人の活動への投資といった色合いも大きく感じます。

ただ”アーティストを支える”というのは、大してあるわけではない可処分所得の中で音楽やアート、旅をやっている自分には重荷な所もあって。やはり藝そのものへの対価として藝を認めた人に出来る限り何か貢献したいし、”楽しんでおいて評価するだけ”でフリーライドしてるのは非情な行為だとは自認しておきたい。

中々システム作りが難しいのかもしれないけれど、数百円単位で軽く投げ銭できる仕組みができると一番いいなぁと。Bandcampなんかは結構理想に近い感覚はあります。国内市場で成り立たないならば全球的に広く浅くが理想だなと。いいYoutube動画やサンクラ音源には個々に100円以上は払いたいです。

鋭利な音楽を好む人間には演奏側にも聴取側にも一定の割合で人格破綻者がいて。灰域の美から排除されず、Ametsub氏がカムバックすることを外野として望むばかりです。

cf.
フィクションと現実の『真情と芝居』.

by wavesll | 2017-09-25 07:57 | 私信 | Trackback | Comments(0)

正論を吐いてるつもりがフォースの暗黒面(憎しみ・批難・不満)に堕さないようにする心的スタンス

「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」

 世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、
「世間というのは、君じゃないか」
 という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。

(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

 汝《なんじ》は、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣《あくらつ》、古狸《ふるだぬき》性、妖婆《ようば》性を知れ! などと、さまざまの言葉が胸中に去来したのですが、自分は、ただ顔の汗をハンケチで拭いて、
「冷汗《ひやあせ》、冷汗」
 と言って笑っただけでした。

 けれども、その時以来、自分は、(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。

 そうして、世間というものは、個人ではなかろうかと思いはじめてから、自分は、いままでよりは多少、自分の意志で動く事が出来るようになりました。

ー太宰治『人間失格』

土用の丑の日は、もうダサイことにしようぜ…
人でなしになりきれないニンゲンの意見

と鰻への想いを連呼しているのですが、こんなに土用の丑の日DISをしている人間がいても身近な人間にも鰻を食べた者達が散見されて、嫌な気持ちに苛まれます。

とは言え、俯瞰すればグリーンピースなんかには自分も醒めた視線を向けているし、こうした時に相手を動かしたい側が声高に叫ぶのは合理的な策ではないと想います。

いっくら口酸っぱく言った所で肉親すら動かせないんじゃ…と想いますが、宮崎駿ですら作品の想いが伝わらないと悩み、対象年齢をポニョまで下げていったという逸話を引き合いに、「ロリならぬ次世代にしか未来はないのかもしれぬ」と嗤った方がいいかもなんて想ったり。

まぁ、この状況下で鰻を食べることを煽るメディアや食べちゃう人間は愚鈍というか、無知蒙昧というか、世間や「普通」ならば問題ないという自らの頭で考える知能のない人間だなとは思いますが、と同時に「僕の思い通りにならないなんて嫌だい嫌だい」なんて愚図るのも無様で、「他人は他人、己は己」と峻別するアドラー心理学的な割りきりが必要なのだと想います。他人は所詮他人なんだから。

「社会正義」を成そうとして、寧ろ毒にまみれて嫌われる人を散見します。

「毒を吐く」ヒトは、外部から嫌な気持ちにさせられて体内で生成された「毒」を吐いていて、当人としては致し方のない防御反応なのかもしれません。

しかし毒塗れの人は嫌われてしまう。この非共感メカニズムはアダムスミスも『道徳感情論』に描いています。

黒いヘドロ、フォースの暗黒面に囚われないためには、あくまで"自分は自分が欲することをしている"という観点に立脚するといいと想います。

不愉快なことを「俺はそれは不愉快だ」というのはよくても、そこに「正義」の御旗を掲げると途端に心は不安定になります。「当たり前・普通」が為されないと、黒いヘドロが生成されてしまう。

あくまで「己の欲望」と捉えた方が発散的で、心的バランスを崩さないように想います。それは優しい幻想のない酷な話だけれど、酷(Cool)で実際的なスタンスだと、私は思います。(と書くことで発散する方策w 鰻の資源消費をサステイナブルにしようとする者たちにフォースのご加護のあらんことを。

John Williams Conducts The Main Theme From Star Wars

by wavesll | 2017-07-26 08:05 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

人でなしになりきれないニンゲンの意見

Linkin Park - The Messenger


土用の丑の日DISがまるで社会正義を嘯くいい子ちゃんみたいになっていますが、逆で。

鰻大好きだから持続可能に食いたく、ワシントン条約に引っかかるようになって食えなくなって欲しくないから価格メカニズムや法規制でウナギを守りたい。根底に欲望のない主張は信頼ならないと私は想います。

例えば私は旅行が好きで。特に海外旅行には胸が躍ります。しかし地球温暖化という意味では大陸間を航空機で飛ぶことは排出ガスから大変に悪い行為で。

だからエコロジストを自認する人間が世界を飛び回ってる、なんてのはとんでもない自己矛盾だと想うのですが、私自身も自分の欲望を優先し旅してしまいます。

また、鰻を買わないという行動が消費者として最も大きな意思表示だ、なんて思ったりするのですが、ブラック企業、例えばユニクロではなるだけ買わないようにしていても、大手コンビニなんかは気にせずに利用してしまったり。Amazonもマケプレなんかは利用してしまっています。レインズ系飲食店やアリさんマークの引越社は絶対使わないけど。

陰鬱な哲学者は"全世界で悲惨な暮らしをしている人がいるのに幸福を享受するのは罪だ"というけれど、それは"自然"から求められるところではない、なんてアダム・スミスの論がありますが、他人の気持ちを踏みにじった時、悪く思う気もしながら、どこか権力の快楽を感じたりもするゴミ具合。自身の行為を全部振り返って、自分のことを善人だ、とか、真っ当な人間だなんてとてもじゃないけれど言えません。

キリスト教には原罪なんて言葉がありますが、罪を犯していない人間はいません。

「自分は真っ当な人間だ」なんて言いながら土用の丑の日に嬉々として鰻を食っていたり、意識高い系を自認するのに飛行機を使いまくってる人間には「お前クソ野郎じゃねえか、勘違いするな」と言いたくなります。

かといって自分は悪くないって思ってるヒトの方が悪なのか、自分は悪いよと開き直ってるヒトの方が悪なのか。まぁ両方悪です。

個人的には自分は悪くないと思ってるやつの方が気分悪いけれど、「自分は悪だから、悪の道を突き詰めたっていいんだ、俺は糞野郎なんだから」とやられたらたまらない。

そう考えると、日本人よりも海外の方が犯罪が多いのは、海外は「自分はクズだ(から犯罪して当然だ)」という人間が多くて、日本人の方が(それも勘違いなのだけれど)「自分は真っ当な人間だ」とプライドを持っている人間が多いからかも、なんて思ったりします。

さて、色々とこじらせているアスペ気味の自分は、自分のことを無批判に"真っ当だ"なんて思えません。それどころか、突き詰めて言えば、この世の人間は全員あるく糞袋みたいなものだとすら思ったりします。

それでも。自分は汚点があると認識したうえで、出来る範囲は善き人間であろうとしたい。100%の善人になれなければ100%の悪人になる、なんて0-100の思考ではなくて、勇気ある灰色の姿勢をゆければ、なんて思います。

さて、鰻。

欲望を抑えるのではなく、サステイナブルに消費できる資源を拡大していくことこそがベストな道で。20世紀を乗り越えていくというのは、そういうことなんじゃないかなと想います。

このままではワシントン条約で規制され一気に鰻が食べれなくなるハードランディングになる未来がみえていますし、水産庁が動かないのも大きな要因ですが、お上に任せる豚になるだけでなく、消費者としても自律的に不買行動で示すのが必要だと私は思います。

今はWebを探索すれば代替食品はかなり見つかるのですが、正直代替では状況を変えるのは難しい気がします。"鰻系"で"鰻を越える"のが生まれるのがゲームが決定的に変わる時だと。

さらなる快楽による解決策を模索したくて。たとえば酒は私も大好きで最近金麦が案外行けるじゃないかと思う安舌人間なのですが、ビールを止めるには禁欲ではなくて別の快楽を用意するのが手っ取り早いと想います。

例えば数日飲まないで本を読んだりオーディオで音楽を聴いたときの脳内麻薬を味わったとき「飲まないのも悪くねえな」と想ったことがあります。

蛇の道は蛇。欲望を絶つことで寧ろ快楽が増えるような有機体の神秘を、どっか活かせないかなぁなんて、悟っても善人でもないけれど人でなしにもなり切れない、でも『何も考えずいい塩梅』になれないくらいは色々こじらせてるニンゲンとしては想うのです。まずは土用の丑の日の旬でない鰻は完全スルーから。
by wavesll | 2017-07-25 22:20 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

Memento mori日

Blankey Jet City - Sweet Days


Blankey Jet City / COME ON


一年に一回誕生日を祝うより、一年に一回“明日死ぬとしたら何やりたい”か考える日があってもいい。死を想う日というか。毎日やることこなして、コンテンツ消費して、“で結局何をしてから死にたいのか”見つめるの、良さそうだ。

311の後、結婚が増えたのは「死」を想った人が多かったからでは。"いつか"の前に"死"は来るかもしれない。と。「死」を想うと本当にやりたいことだけが浮き彫りになる。俺は何がしたいかな?イランへの旅?家庭を築くこと?

好きだった人も、亡くなってゆく。好きだったバンドも無くなっていく。好きだった店も失くなっていく。その後で哭くより、生きてるうちに笑いあえるように。"死ぬ前に何がしたいか想う日"、個人的な風習にしようかな、誕生日と紐づけるのもいいかもしれない。Memento mori.
by wavesll | 2017-06-15 23:39 | 私信 | Trackback | Comments(0)

3.11から6年 刹那と継続

波よせて(石垣島、米原)


【小沢健二】流動体について (TV-LIVE)


3.11の時。一番苛烈な心情だった頃。

その時私は死が近かった心持から"お前らも漸く死を近くに感じたか"とかの呪いの気持ちと、"生き延びたことを先ずは気付かねばなるまい"という動転からSNSで東京の人々に向けて惨いことを口走っていました。

間接的な暴挙ではありますが、そこに被災者の方々への思い遣りはなく、我欲のみでした。

3.11で"普通の有り難み"に気づいた方々は多かったことでしょう。一方で、今も自殺者は2万人/年を超え、毎年3.11以上の厄災が起きていることは"普通の人々"からは"最終的には自己責任だし、仕方ないこと"とされる。結局”自分事”でないことは"他人事"、そんな"普通の人々"への恨みだったと今は想います。

誰しも"自分自身の視線"がスタンダード、デフォルトであって。"人生の重み"なんてのは自分で計ればいいことで他人に押し付けるものでは、ないですね。

あの時の自分は今平静から振り返ると惨いものがありました。音楽で安楽を伝えようとしてSNSで『波よせて』を薦めたり。津波があったばかりなのに。

時を経て今は"普通の人が普通の人生を成り立たせるためにどれだけ努力と研鑽をしているか"が身に沁みます。

"普通の人の無関心の冷酷さ"も認識した6、7年前。今は自分自身の未熟さや甘ったれさを認識すると共に、ただ大声で叫ぶだけでは逆効果、ということも振り返れば理解できます。

アダム・スミスも”施しは度を超えない”と書いていました。端的に言えば愛と尊厳が足りているからこそ、他者へ慈しみを持てるし、度を越えた慈愛の施しは寧ろ虚栄心から来て、犠牲感の無理を産むものなのかもしれません。

情報は幾らでも増殖しインフレーションを起こしますが、結果として身体性を伴わない虚像を産む恐れがあるのかもしれない、そしてそれは『西瓜糖の日々』のインボイル達のようにカタストロフへ繋がっていくのかもしれない…。

音楽や言葉は認知に働きかけるけれども、その魔法の前提、ファンダメンタルに関わる"世を成り立たせる仕事"もまた貴い。魔法を上滑りさせずに実体化するには、刹那の継続、身体性が必要なのかもしれない、朱夏に入りそんなことを想うようになりました。

そうした時に、小沢健二の新譜『流動体について』が心に浮上して。

最初聴いたときは焼き直しというか、“毎日の環境学の先がこれ?”と想ったのですがリリースから数日経って、不意に口ずさんでしまうメロディと“もしも過ちに気がつくことがなかったのなら”とリブートを示す歌詞に、王子さまではなくなったかも知らないけれど生身の人間等身大の身体性を感じて。

藝能の現場でサヴァイヴしていくには激烈なI/Oをやり抜かねばなりません。
その一種狂気を孕んだShowをMust Go Onして行く螺旋から降りて。サンプリングや引用といった自分以上の拡大から距離を離れて、その上で今『流動体について』に"再到達"したことが心に沁みたのです。

閑話休題。最近みた夢で、私はブログの記事について電話で釈明していました。その記事は書く書く言ってまるで書かなかった記事で。

高倉健を題材に“過ちを犯した後で、贖罪するにはどうすれば良いか”を書く予定のもの。どこかで刑務所から戻って来て、その罪の意識を背負った上で生きざるを得ない幸せの黄色いハンカチの高倉健は、侵略戦争の罪を負った上で国際社会で生きていかざるを得ない戦後日本のメタファだと聴いたのが深層意識に残っていたのだと想います。

私は結局、真に謝らずに筋通さずに生きてきてしまいました。

率直に謝る前段階の"過ちがあった"と認めるだけの事にこんなにも長い時間が掛かってしまいました。ただ、軽薄な謝罪の言葉よりも、自分は不遜だったと本心で認める方が私にとっては本質的なことでした。

色々な場所で失態を重ね、鬼門が増えてきた私にとっては世界の広さは救いでもあります。そして、そのひ弱さは邪悪ですらある、と今は想います。

過去は変えられないし、もう交わることもなくそれぞれの人生が伸びて行く事もあると想います。自分の身体で生活を営むだけでもタフな行為だし、博愛と虚栄は峻別しなければなりません。

摩擦や衝突に無理に身を突っ込むこともないだろうと想います。寧ろ相手に迷惑になることもあるだろうと想います。

その上で、今の自分で手が届く範囲には、一人の個人としてキャパを知った上で援けが出来る時していければ。"意識高い系"は要は"口だけ"だと想うので"刹那と継続の行為"で成していくことを積み重ねていきたい。些細なことから。

そして、言葉を積み重ねる事。言葉は言葉でしかないけれど、言葉。

一つ一つは紙のような薄さ/軽さでも、刹那を積み重ねて継続することで、情報は厚みと言う身体を、そして投下された正の時間分の重みを持つのだと想います。

結局のところ己は己の悩みしか負えません。他者と本気で向き合いたければ究極的には当事者となるしかないし、そうでないと薄っぺらになる。何かに真剣に向き合おうとするならば、時をかけて"自分事"にする他ありません。

起点はいつでもある。実は自身が権益や関係を持っていたり当事者性があることに気づくことだってあると想います。

無論、内部の"お約束"を無視した黒船的提案がさくっと盲点をついてケミストリーやパラダイムシフトを起こすこともあります。

しかし化学反応を起こす原料を作るのは時の積み重ね、技の積み重ねではないかなぁと今は想うのです。未開拓な道を示すのは素晴らしいけれど、言葉は仮想で。アイディアだけの空論と言われないためには身体を伴った行為、或いは実験、せめてアルゴリズムまで示す必要があると想います。

そして行為を為したらその結果を虚心坦懐に受け止めていく。文を認めることで澱と火と仁を浄めて。平成が終わりかけていくときに、私自身も何かの変容が来ていると感じます。幸運か、不運か。スロウスピードながら。

cf.
本音2.0

by wavesll | 2017-03-11 12:08 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

音楽歳時記 雛祭りはThe Books "A Cold Freezin' Night"

The Books "A Cold Freezin' Night" Video


音楽歳時記、ひな祭りに挙げたいのがThe Booksの"A Cold Freezin' Night".
"私が男の子だったらいいのに"って想うような女の子の為にひな祭りに音楽が鳴らされたっていい、そんな子に捧げたい。

ミュージック・コラージュの雄・The Booksはもう解散してしまいましたが、また再結成とかしたら後追いの私は嬉しくなって馳せ参じてしまうと想います。
おもちゃ箱がひっくり返ったようなサウンドに童心が刺激されます。

彼らのALだと私は日本の音声がサンプリングされたこの円盤が一番好きです。
ひな祭りにレモンパイなんてのも、甘酸っぱい思い出になりそうですね。

The Books - The Lemon of Pink (full album)

by wavesll | 2017-03-03 20:16 | Sound Gem | Trackback | Comments(0)

アダム・スミス著/山岡 洋一訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』第四・五編読書メモ

c0002171_1103964.jpg第一編 読書メモそして第二・三編読書メモ
から一年弱。度々の長期の離脱を経て、今朝方とうとう国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究 (下) を読み切ることができました。

下巻の内容は第四編「経済政策の考え方」では重商主義や重農主義を検証しながら、自由貿易こそが社会における真の富を増加させる方策と論じられました。

その論理から当時イギリスのものだったアメリカ植民地にも敬意ある自立を促した方がいいと導きされたり、統治を商人が行う東インド会社の害悪について論じたり非常に先進的な思想が語られていました。

また最終章である第五編「主権者または国の収入」は主権者が行うべきサービス(夜警国家としての防衛、司法、道路などの公共施設の経営)と税についての噺。

伝えたい理論を古今東西の夥しいファクトで実証し現実が仮説と違う場合もきちんと書いた実体のある理論書でした。

第四編で貿易において、一国との間で赤字となったとしても規制を掛けずに富を自由に動かした方が国の真の富は増加していると論じているのは、確かに輸送技術やインターネットによるトランスナショナル化等商業環境が18世紀とは大きく変わっている点はあるにせよ、現代の重商主義者である米国大統領なんかにも読んでもらいたいな、なんて思ったりしました。

また幹線道路などの整備は国全体の利益になるとしながらも、基本的には通行料などで黒になる計画として行うべきで、国は乱脈経営してはならない、という話は北海道新幹線を通した人間達に聴かせてみたいな、等と想ったり。『国富論』は経済学の古典ですが、現代においても聴くべき思考が書いてあると想います。

中でも最も心に残ったのは
施しやふるまいが度を超えることはめったにないが、虚栄心はかならず度を超える。
という一文。

アダム・スミスは地域の名士や宗教が人々の心を原初に掴み、尊敬されていたのに、今はその神通力を失ったことは商業の発展と密接に関係あると論じています。

古代、自分が食べられる分を大きく超える農作物を生み出す土地権益をもった者は、多くを周りの人々に振る舞って、人々を援けていた。そうして尊敬を集めていた。
しかし商業が発展して、交換価値が高い技巧が凝らされた"商品"が登場して、自分の産み出したものを自分で使い切っても足りないくらいの贅沢な欲望が生まれる環境が形成されました。
そうして権力者はそのパワーを自分のために使いきるようになり、"サービス"は"対価"を必要とするようになり、結果として民衆からの敬意は失われていった、と。

自分だけの利己的な楽しみに収入を使う場合には、どれほどつまらない楽しみでも、思慮分別のある人ですら、熱中しすぎて身を滅ぼすことがある。
(中略)
だが、贅沢にならないもてなしや見栄をはらない施しで財産を食いつぶした人は、あまりいないはずである。(贅沢なもてなしや、見栄をはった施しで身を滅ぼした人は多いだろうが)。


虚栄心とどう付き合うかは、例えばSNSで肥大化した承認欲求のコントロールへ繋がったり、現代人にも響くテーマとなっていると想います。

日々の愉楽が、労働の再生産に必要な分を超えたとき"浪費"になる。食っていける人が多くなればなるほど、社会は真の意味で発展しているのであり、真っ当にいきることが価値ある生だ。アダム・スミスはそう言っているようにも思います。

確かに消費が美徳になるというのは貴族的なアティチュードであって。それを身を滅ぼしながら行おうとするのは愚か者のすること。脳と躰を動かして創造を行うことは消費の螺旋から解脱することに繋がるのかもしれない。そう想いました。

無論、消費には社会的・個人的な効能があって。他者に奉仕する事だけが美徳とされる価値観は抹香臭いなと感じてしまいます。その上で"時間をかけて咀嚼する事が生み出すふくよかさ"に思いを馳せる読書となりました。

大学一年生の頃、教授から「砂や小石でバケツを満杯にしてしまったら岩を入れるスペースはなくなってしまう。しかし先に岩を入れれば、その隙間に砂や小石を入れられる、だから大学時代は古典を読もう」と言われたことが頭に残っています。

あれから十年以上を経て、漸く巖に手を伸ばす気になりました。そして今『国富論』を読み終わって。今、ゴールではなくスタートラインに立っているような気分です。

"いつか『国富論』を読んでみたい。『国富論』を読めば何かが変わるかもしれない"そう想っていたところがあったのですが、それは"インドに行けば何か変わる"というのと同じようなことで。

古典を読むことは旅に似ていて。或いは登山もメタファになると感じます。違う景色をみながら一歩一歩高まっていく。

けれど、今は古典読書はワークアウトに近い気がしています。効能がすぐめきめきとインスタントに現れる事ではない、一発逆転はない。けれど振り返れば、前とは違う起点へ進んでいる。そういう上下巻でした。

cf.
アダム・スミス著 村井章子+北川知子訳『道徳感情論』"もしアダ"が書きたくなる稀代の"いいね論"

by wavesll | 2017-02-27 19:05 | 書評 | Trackback | Comments(0)

批判の速度、身体の速度 リトアニアの徴兵制復活から見る"実際的"な速度

Kryžių kalnas / Góra Krzyży / Hill of Crosses HD

c0002171_16195387.jpg

NHKBS1 「激動の世界をゆく▽バルト三国ロシアとヨーロッパのはざま/小国アイデンティティー」にてリトアニアで徴兵制が復活したことが報じられていました。

バルト三国の市内にはナチスやソビエトによる抑圧時代の遺構も数多く、市民は再びクリミアで暴威を振るったプーチンを警戒。リトアニアの国旗の赤は、祖国を護るために流した血の色。

「自分達で守ろうとしない国を他の国が守ってくれるはずがないでしょう」。リトアニアの若者の切実な言葉を聴きました。
学校では緊急事態の際の訓練が行われ、コンピューターが無作為に選ぶ形で行われている徴兵は今は志願兵で足りているそうです。

日本だと、軍事の話をしようとするだけでも「軍靴の足音だ」と批判の声が上がったり、沖縄の米軍基地は憎まれる存在。

戦争は悲劇。平和を愛すること、暴力を忌避することを肯定したい。と同時に己の身を守るために武力を持たず、米国に軍事をアウトソーシングしまるで児童のように依存しているが故、属国的な振る舞いに甘んじる母国。

悲嘆は対症療法で。根本治療は祈りでなく、現実を考える細部の積み重ねの智慧と行動から発露するもの。理想を体現するのは個別具体的な仕事で、それについて検討することすら忌避しては何も解決しないのではとも想います。

ただ勿論、軍の無法図な肥大や軍産複合体の形成ははっきりと悪で。割れ窓理論を認識しながらも"必要な質と量"に関する議論がなされるべきで、敵愾心を煽り恐怖で支配しない"武の道"を修めることが必要なのかもしれません。

ちょっと想うのが、政治って何が何でも批判され目の敵にされているというか、"政治を褒めるメディア"はないかということ。

マスコミをみていたら日本の政治家や官僚が無能にしか見えません。単に褒めるというより数字と事実で内外と比較して是々非々で評価すべきで。

政治は交渉と妥協だから切り捨てられた声をメディアが取り上げる意義はわかるけれども、「このメディアは批判しかしない」という色眼鏡をかけられたら批判への信頼も落ちるのではと想います。

イデオロギーに堕するから反知性主義がバックラッシュとして起きてしまう。"己が正義の側にいる時"こそ自問自答すべきで。

批判のための批判になり"完璧"を目指そうとすると無理が来る。無理が来てはリベラルの好きな"道理"も引っ込んでしまうのではないでしょうか。

言葉はヴァーチャルな存在でもあり、情報はめくるめくほどにつくりだせ消費されるものですが、現実を動かすのは人間の身体です。

言論人とかメディア、企業経営層が精神論を魔法のように、根性を無限の資源のように、無放図なサーヴィス負荷を是とし、身体性・メカニズムを考えないプログラムが苦難を生む癌なのでは。

身体を変えることは時間がかかります。すぐに結果が出ない、或いはドラスティックに変えようとするとRIZAPが脳卒中を引き起こすように惨い破壊が起きてしまう。これはトランプとも相似です。

身体を動かさない、現場に密着しない言説は今そっぽを向かれつつあると想います。Webで素人が幾らでも流せますから。プロの言説はドキュメンタリー的でないと価値を失うのではないか、そう思います。

その意味で心と脳の白熱教室でオックスフォードのエレーヌ・フォックス教授が言っていた悲観脳を楽観脳に変える方法は身体的な行動に落とし込まれていて、精神論に嵌らずに良かった。"心"すら個別具体的な行動の積み重ねであると。

じっくり、徐々に。日々微かにしか変化していないかも知れないけれども、日が伸びていくのを感じる視座の様に、中長期的な視野を持てれば上向くこともある、そんな気がする立春の夕です。

そしてそれは、政治家や言論人が"あの時何を語っていたか"を覚えておき、喉元過ぎればと言いっ放しを許さないプレッシャーを与える事だと想います。身体的な言論、これが社会の礎になるのではないか、そう想うのです。

吉井和哉 - トブヨウニ(YOSHII BUDOKAN 2007)


cf. マスメディアのハレとケ。/TVのバラエティを叩くより報道検証企画を求めたい。
by wavesll | 2017-02-04 17:17 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

心と脳の白熱教室から感じた心のアクセルとブレーキ。悲観脳の出来かた。楽観脳のつくりかた。

もうずっと前に録画していた『心と脳の白熱教室』をみました。
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番組概要によると
自分はどうして、こんなに後ろ向きの性格なのだろう、そして、あいつはなぜあんなに楽観的なのだろう、自分の性格について思い悩み、どうしたら、もっと人生を有意義に生きることができるか、それは、古今東西の人類の永遠のテーマである。

オックスフォード大学・感情神経科学センターのエレーヌ・フォックス教授は、認知心理学、神経科学、遺伝学を組み合わせた独自の研究で、セロトニン運搬遺伝子と楽観性との関連を指摘する学説を発表し、一大センセーションを巻き起こした。

今回、同僚で私生活のパートナーでもあるケヴィン・ダットン博士とともに、最新科学で人類の永遠のテーマである性格の悩みを解き明かすとともに、実践的な性格改造に挑む特別授業を紹介する。
とのこと。

特にフォックス教授の『楽観脳・悲観脳』の話が非常に面白く"この内容を纏めたらBlogのネタになるぞ"と想ったのでした。

しかし再放送されるくらい反響があったこともあり、既に纏められている方がかなりいられまして。

例えば敏腕ビジネスマンなら押さえておきたいテレビ情報さん

心と脳の白熱教室|第1回楽観脳と悲観脳
心と脳の白熱教室|第2回本当の楽観主義とは
心と脳の白熱教室|第3回あなたの中のサイコパス
心と脳の白熱教室|第4回あなたの性格は変えられる

こんな感じで内容が詳細にスナップされているので、この記事では私がおっと想った所をノートした後コメントやらなんやらしていけたらなと想います。

I. 楽観脳(サニー・ブレイン)
・ポジティブで楽観的な考えに心を向かわせる脳の回路のこと
・側坐核(歓びや快楽を司る脳の領域)の働きが強い

II. 悲観脳(レイニー・ブレイン)
・ネガティブで悲観的な心の動きを生む脳の回路のこと
・扁桃体(危険を察知し恐怖のシグナルを発する脳の部位)の働きが強い

III. 認知バイアス
・自分の思い込みや願望、恐怖心のために論理的な判断を下せなくなる心理パターン。この繰り返しで我々は脳を楽観的or悲観的に調整している

・認知バイアスの種類は

1)帰属の誤り:物事の原因を"自分に問題があった"とするか、"他者/社会/世界に問題があった"と考えるか

2)注意のバイアス:ネガティヴな事の反応速度とポジティヴな事への反応速度の差

3)解釈のバイアス:"あいまいな事"への解釈 ex. ”これしかorこんなに”

4)記憶のバイアス:日常的な些細なことに関し、楽しいことばかり覚えているか、悪いことばかり覚えているか

・トラウマから悲観的な考えを持った人の認知バイアスを修正するにはネガティヴな考えを疑問視するのが変えるきっかけとして有用。

ex. 日記などで記録しておくと、後で読み返したときに選択的記憶バイアスがあったことに気づける。

IV. 恐怖のシステム(扁桃体)も快楽のシステム(側坐核)も脳には重要

・根本的な恐怖のシステムの方が快楽のシステムの方が強いシステム。

・脳の働きもあり、ネガティヴなニュースが頒布され、更に否定的なバイアスがかかってしまう。

・扁桃体が傷つくと恐れの感情がなくなったり、他者を妄信したりして危うい。

・適度な悲観主義が生きる上では必要。

V. 認知バイアスへの対処

・物事の解釈で状況の捉え方が違ってくる
ex.ウッディ・アレン『アニー・ホール』の"も or しか"

・根深い自分への負のイメージを解消するにはバイアスだと認識させること、そして事実だとしても些細なことを認識させることが有用。

VI. 幸福感をつくるもの

・安心感&愛情

・信頼でき、自分を認めて支えてくれる大人が(親でなくても)一人いることで、辛い状況でも子どもは楽観脳になれる

・金銭面の安心感は一定量では意味があるけれども、余分な富があっても他人と比較し幸福度が低下する
cf. 「お金はあればあるほど幸せ」か? 富・所得と幸福度の関係

・他人の夢や他人が望むことに付き合うのではなく、自分が本当に何がしたいかを自問し社会からの圧に屈せずに本当にやりたいことをやるのが大事。

ex. マイケル・J・フォックスの遺伝子的には中庸でも強い楽観主義

VII. 殆どの人間は鬱でも万事順調でもなくどっちつかずの"ぱっとしない状態"

・"ぱっとしない"から”万事順調”になるには

1) 非常に高いレベルで訓練を積んでいる忍耐力が強い人に真似ぶ

2) 友人や家族と一緒にいること、良い社会的つながりがあること

3) 具体的な目標を持っていること。それを達成するのが困難でも、何かしらの行動をとって挑戦すること(その為に(1)が大事)

VIII. 物事が困難な状況になったときに立ち直れる「心の回復力」を持つことが大事

・悪条件でも上手く対応できる人は感情をコントロールする術を熟知している

・ 「心の回復力」が高い人はポジティヴもネガティヴも関係なく経験してきた情緒的出来事が多い

IX. 楽観的な人に共通するのは"現実的な楽観主義"であること

・困難な現実に直面しても”物事はいつか好転する”と長期的な視点を持てる人が"健全な楽観主義者"

・楽観主義と少しの悲観主義が必要

X. 楽観主義とは単なるポジティヴ思考ではない。その要素は

1. ポジティヴな思考
2. ポジティヴな行動
3. 根気と粘り強さ
4. 自分の人生をコントロールしている感覚

・ポジティヴな思考よりポジティヴな行動が大事

・楽観度が高い人はすぐに諦めない。現実のビジネスで重要になるのはこの"粘り強さ"。

ex. エジソンの「我々は失敗したのではない、ただ上手くいかない1万通りの方法を見つけただけだ」

・自分の運命をコントロールできるという感覚が幻想であっても大いに力となり有益になってくれる

・修道女の医療記録調査では楽観的な人は悲観的な人より寿命が十年長く、健康的

・フィンランドで行われた5千人の調査では、深刻な人生の出来事がない時は楽観主義者の人と悲観主義の人で欠勤日数の差はなかった。
しかし深刻な出来事があった場合、楽観主義者の方が悲観主義の人より欠勤日数が少なく、打たれ強い。

XI. 楽観脳か悲観脳は遺伝子と環境の相互作用によって発現する
・遺伝子はたんぱく質をつくり、それが脳に楽観脳の回路や悲観脳の回路をつくる

・脳内で感情の安定を図るセロトニンの運搬遺伝子には長いタイプと短いタイプがあり、長い型はポジティヴな傾向、短い型はネガティヴな傾向がある。

・短い型のセロトニン運搬遺伝子を持つ人はネガティヴな情報に注意を引かれると"注意バイアス実験"で判明した。

・キングスカレッジのセロトニン運搬遺伝子とうつ病の相関関係を探った847人の被験者を3才から26才まで観察した実験によると

1) セロトニン運搬遺伝子が長いか短いかによっては鬱病の発症リスクの差はなかった。

2) 23年間にかなり深刻な出来事を3つ以上体験していた短い型の遺伝子の人は鬱病のリスクがぐっと高かったが、長い型の人は深刻な事態が起きても鬱病のリスクは平均値と変わらなかった。

3) (1)と(2)から遺伝子と、人生に起きる悲劇的な体験、この2つが組み合わさった時に鬱病が起きることがわかった。

XII. 私たちは悲観脳を楽観脳に変えられるのか?
・リスク遺伝子を持っていても、環境がいい時は寧ろより良好な行動を示すが、劣悪な環境の下ではそれに影響されアルコール依存症や鬱病など悪い行動に走る。これからリスク遺伝子は柔軟性遺伝子と呼べる。

・柔軟性遺伝子は環境により良くも悪くもなる。注意バイアスの訓練によりポジティヴになれるように脳に記憶を留め、注意バイアスをシフトさせることが出来る。
科学的に証明された、不安を取り除く無料ゲームアプリ『Personal Zen』(lifehacker)
「不安症状の治療にスマホゲームが有効」(ハフィントンポスト)

・人間の脳は時間がかかるがいつだってシフト出来る。

ex. レオナルド・ディカプリオの強迫性障害を演じることで強迫性障害に本当になってしまったこと

XIII. 脳をシフトするには

1.ポジティヴな行動
2.人生をコントロールしている感覚
3.粘り強さ

を大切にする。そして幸せであるかのように振る舞うと脳をシフト出来る。

・勿論だけれども、楽観脳と悲観脳、どちらを選ぶかは自由。

マインドフルネス瞑想を1日10分、8,9週間程行うと脳内制御に当たる領域が強化される。
ex.衝動を抑えられ、トラブルを避けられた男性

・メンタルトレーニングは毎日行い、数か月間続ける必要がある。認知バイアス(物事をどう捉えるか)は変えられる。

ここからコメント

エレーヌ教授の講義を"私は悲観脳のきらいがあるなぁ"と想いながらみていました。

物事のネガティヴな面を観がちで。番組中で行われた”楽観 or 悲観テスト"では悲観寄りのギリ中庸という結果が私は出てました。

中でも"打たれ弱さ"には悩まされていて…共感性羞恥の気もあったり、ストレス耐性が全然ないんですよね><

自己評価の低さと言うか、幾度の挫折から自分を道化なロールへ貶し込んでいた期間も長くて。

元々セロトニン運搬遺伝子がどうかは分かりませんが、注意・解釈バイアスにより悲観脳の回路を生み出していたのかもしれません。

今でも自分の運命を自分でコントロール出来ている気がしないのですが、プライヴェートのサイクルが足固めできているのか、新しいことに挑戦する気概が生まれてきている感覚があります。

ただ、これは悲観的な意見と言うわけではなく、これまでの反省からなのですが、今までこういう時に調子に乗ってアクセルを踏みすぎてしまうきらいが私はあるので、クラッシュしないように、こういう時こそ手綱を締めなければいけないなと想います。

結果として、人生の成果の量はインフレ出来ないかもしれませんが、自分の身体と対話しながら挑んでいけたらなと。

そういう意味でもマインドフルネス瞑想はやってみようかと想います。9週間は正直長そうですが、意識の問題に終わらせずに具体的な行動に落とし込んでくれたエレーヌ教授の講義から色々と滋味深い示唆を与えていただけました。

cf. ボケない!脳が若返る「めい想パワー」SP(ガッテン!)

個人的には社交がわからない風穴を開ける冒険 -電脳九龍城からの脱出と合わせ、外界へのアクセス/アクションに関する人纏まりなものを書いたなと想いました。
by wavesll | 2017-02-03 05:53 | 私信 | Trackback | Comments(0)