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アダム・スミス著/山岡 洋一訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』第二・三編読書メモ

c0002171_19491881.jpgアダム・スミス 著, 山岡 洋一 訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』 第一編 読書メモに続き、上巻を読み切りました。

第一編では"富とは何か、何を持って価値とみなすか、その原理とメカニズム"について論じられましたが、第二編では資本の分類、そしていかにして資本が増大していくか、その蓄積と利用について語られ、第三編では富を管理する政治の側面の分析がなされていました。

アダム・スミスの視点だと、単純な快楽に金を使うのは浅ましい行為で、日々の娯楽に消費するのではなくで、資本は資本を増やしていく為に使うのが素晴らしい使い方だとしているのが印象的でした。しかし、こうした消費快楽が、大領主が富を家来たちを喰わせるのではなく宝物を買いあさることに使わせ、結果として都市国家の成立、つまり商人・手工業者の独立に繋がったと、第三編では論じていました。

また、第二編では銀行による信用創造が解説されるのですが、面白かったのは、過去の歴史を辿って、”無法図な貸し出しは必ず破綻する。世の企業家は「なぜ貸し渋りをするのか」と騒ぎ立てるが、そんな声に惑わされず、慎重な貸し出し業務を行うべきだ"という論陣が張られていること。それから200年以上たち、量的緩和やゼロ金利政策が行われる現代日本からすると、隔世の感というか、実際2世紀過ぎてるんだもんなぁと想いました。

生産的労働、つまり社会資本のストックとしてモノが残る労働と、非生産的労働、宗教・法律・医者・文人・エンターテイメント産業の人々を分けるのも興味深かったです。当時は著作権と言うものが無かったから、これらのサービス業者はフローとしてしかみなされなかったのでしょうか?"遊び好きは怠惰で貧しい"といわれるのは耳の痛い言葉ですね(苦笑 第三次産業が発達する現代の先進国は、コモディティから抜け出すためにデザイン性やエンターテイメント性、あるいは好感度なサーヴィスが求められることを想うと、数世紀前は貴族が暮らしていた生活高度を庶民が愉しむようになったと。アダム・スミスが現在を見たら、驚くでしょうね。或いは嘆くかもしれないw

それでも、スミスは"大国が民間人の浪費や無謀な経営で貧しくなることはないが、政府の浪費や無謀な政策でまずしくなることはある"と述べます。ここでやり玉に挙がるのは軍事費と宮殿や教会の煌びやかな建築費。憲法改憲や新国立競技場で揺れるどこかの国にも適用できるような話です。

政治と税の使い方に関して、本書を読んで興味がわきました。第三編では国王や大領主が如何に民衆を支配していたかが語られるのですが、そこでは集められた税は、支配層の贅沢や、軍を維持する費用、政治を行う費用に与えられていた。この税の利用の移り変わりと言うか、いかに”富の再分配”に遷移していったかの歴史、気になるなぁ。その前に政治、法、軍(当時の領主は判事でもあり総司令官でもあった)というのが社会のリーダー層に求められることなのだろうなぁと。アダム・スミスを読んでいると小さな政府の信奉者になりそうでもありましたwケインズも読みたくなりました。

また、"人は誰でも農業がやりたい。生きていくものを自分の手で誰にも指示されずにコントロールしたいから。その次は製造業、最後に一番結果をコントロールできない貿易がやりたいものだが、リスクを取った分だけ儲けも大きくなっていく"とか、"領主は自分の土地を改良してより生産的にしようとはしないが、商人は成功の見込みが見えたら、どんどん資本を投下して改良していく"という話も、リターンを得るためにはリスクを取れるか、計画性があるか、決断できるかにかかってるんだなぁと想いました。

いよいよ次の編からは下巻。アダム・スミス教授の話は面白く、学びと言う贅沢な時間を過ごせて幸せですが、スミス教授からは「生産しろ!」とどやされそうですねw

アダム・スミス著/山岡 洋一訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』第四・五編読書メモ
アダム・スミス著 村井章子+北川知子訳『道徳感情論』"もしアダ"が書きたくなる稀代の"いいね論"
by wavesll | 2016-04-07 20:36 | 書評 | Trackback | Comments(0)

読書山岳レースアプリ案

相変わらず、何年か振りの読書熱を上げているのですが、つくづく読書、それも古典の大書なんかは、登山をメタファにできるのではないかというような読書体験に感じます。

もう10年前くらいにファイル交換ソフトで"音楽を交換・交渉する"というゲームを体験したり、或いはもっと以前に『モンスターファーム』というPSのソフトで"CDからモンスターを造る"というゲームを体験したことから、人がコンテンツから受け取る歓びや、コンテンツに嵌る仕組みの一つに"新たなゲーム性"があるのではないかと私は想っているのですが、読書もゲーム性が取り入れられるのではないかなーなんて想うんです。読書通帳みたいなものでもいいですが、大昔にサイトのアクセス数をライヴの箱で示したみたいに、視覚化出来たらなと想うのです。

最初に考えたのは今既にある読書メーターに登山要素を取り入れてはどうか、みたいなものでした。

例えば、599ページ読んだら高尾山踏破、3,776頁読んだら富士山踏破、8,611ページ読んだらK2踏破、8.848ページ読んだらチョモランマ踏破とか。ページ=メートル換算で、ポイントの振り分け次第で、日本百名山踏破や8000メートル14座踏破とか、ヴィジュアルで自分が読んだ量が可視化されて面白いのでは?等と想ったのでした。というか結構簡単な仕組みだし、創ろうと想えば今すぐにでもこういうサイト、創れそう。読んだページ数は自己申告にすればいいし。

で、読書=山登り、みたいな所から連想して、山の傾斜角=読みやすさ/難しさみたいなメタファはどうだろう?みたいなアイディアが出てきたのでした。紙の本だと難しいでしょうが、例えば電子書籍のアプリで1ページあたりにかかった時間を測定し、その速度を換算することで、高低差をグラフ化して、ツール・ド・フランスの山岳コースの高低差表みたいにできたら面白いかもしれない。なんて想ったのです。

c0002171_1845421.jpgこんな感じ。自分の読書スピードを提供するのに抵抗がある人もいると想うので、Webサーヴィスというよりか読書を通じた個人的アートみたいなものになるかもしれませんが、一旦高低差表ができたら、それを流用することで、一冊を通じた"山岳コース"を如何なるスピードで走ったかと言うタイムアタックレースを愉しめるのでは、なーんて思いました。イメージとしては、NIKE+みたいに、自分の"読書ランニング"のヴィジュアル化って感じ。NIKE+と同じように、スマートウォッチやGoogleグラスみたいなウェアラブル端末を使えばもしかしたら紙の本でも測定できるかもしれませんね。

なーんて妄想をしながら、今日も今日とて本を読んでいた、という噺でしたw
by wavesll | 2016-04-05 18:51 | 私信 | Trackback | Comments(0)

アダム・スミス 著, 山岡 洋一 訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』 第一編 読書メモ

c0002171_14451933.jpgアダム・スミス 著, 山岡 洋一 訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』
此の本を手に取ったのは、大学で経済学部だったくせにまるで経済を勉強せず、文学部の授業が一番楽しかった人間だった私が、社会の中で揉まれたり、打ちのめされたり、浮かんだりする中で、本当の意味で経済を学びたいと想った時に、翻訳家の山岡さんのこの文を読んだからでした。

経済学の始まり、古典中の古典のこの本を、この人の訳なら読めそうな気がする、そう想って取った本書。感想を述べると、困難、だけど読みやすいといったところでしょうか。実際、ようやく第一編を読み終えたところで、残り3/4が残っている状態なので、一編ずつ読書メモを纏めようかと想ったのでした。

「困難、だけど読みやすい」というのは、古典の格調高い難解な訳文でなく、平易な文章で訳されているので非常に読みやすいのです。しかし、まるで数学の定理を積み重ねていくような論理の山嶺に登る感覚と言うか、一文たりとも読み飛ばさない本でして、じりじり山頂を目指しているところです。

社会に出て経済と言うものを考えた時に、経済学は"価値の学問"だと思っていました。脳科学や社会学、法学、そして数学など多岐に渡る学際的な"人は何によって動くのか"を考える学問だと。そしてアダム・スミスはまさにこの第一編で"商品の真の価格と名目価格、労働価格と金銭価格"について論じています。

人間は分業を行う事で、各作業工程の熟練化とイノベーションを起こし、社会を発展させてきた。人はそれぞれ"プロフェッショナルな専門家"になることで、特に都市に於いては顧客が多いため、ニッチな職業でもやっていけるようになった。当初は物々交換だったが、貨幣を発明し、更に交換を便利にし、分業を助け、社会を発展させてきた。

その結果、人は自分の生活に必用なものの極一部しか自らでは作らなくなった。そうしたとき、人が豊かかどうかは、他人の労働を如何に支配あるいは購入できるかで測ることが出来るようになった。

アダム・スミスは"ものの真の価格、つまり、ものを入手したいときに本当に必要になるのは、それの生産に要する手間であり、苦労である(中略)労働こそが当初の代価、本来の通貨であり(中略)富の価値は、それで購入できるか支配できる労働の量にまったく等しい"と述べています。

商品の価値の真の尺度は労働ですが、違う種類の労働を比べるには、時間だけでなく、どこまで厳しい仕事かとか、創意工夫が必要な仕事かも考慮しなければならず、便宜上市場での駆け引きや交渉で労働の価値は決まります。そして貨幣経済の元では労働の価値はそれで交換できる商品の量で考えられ、商品の交換価値は貨幣で考えられる。とスミスは述べます。

そして面白いのは、金兌換性の当時は、金銀の価値と言う絶対的な保証のもとで貨幣経済がなりたつのかと思いきや、ポトシ銀山の発見など、金銀の使用可能量の増加によって銀の価値が上下したりするという話です。ここら辺の話はアベノミクスの量的緩和に通じる話で、昔からそういうメカニズムはあったのだなぁと。価値の尺度となる貨幣自身も価値が上下する変数となるというのは、面白くも面倒臭いですね。

労働の真の価格は労働に対して支払われる生活の必需品と利便品の量であり、名目価格は労働に対して払われる金銭の量。労働の報酬が高いか低いかは真の価格によって決まります。

同じ時期、同じ場所であれば真の価格と名目価格の比率はどの商品でも同じですが、時期が違ったり場所が違うと価格差(=裁定)が発生し、それもビジネスチャンスになると。確かにもう表参道ではだいぶ空いてるエッグスシングスも船橋では行列ですものね。

極未開な社会では労働の生産物は全て働いた人のものになるが、資本を蓄積する人が登場すると、労働者が原材料に付け加えた価値は、資本を事業に投じてリスクを取った事業主の利益と労働者の賃金の2つにあてられます。更にその土地が私有財産の場合、地代が価格の第三要素になります。

そうして作られる商品の"自然価格"とは商品の値打ち通りの価格、つまりその商品を市場に供給した人にとって実際に要した額に等しい価格です。この実際に要した額は原価や元値と違って、資本の利益(売り手の生活費)としてその地域での通常の利益率も加算されたモノです。

そして実際に売買される一般的な価格を市場価格と呼びます。アダムスミスは市場価格は需要と供給のバランスにより自然価格に収斂していくと述べます。それは儲からなくなった事業をやる人間がどんどん減っていき、もうかる事業に人が向かうからというロジック。確かにマット・リドレー著『繁栄』にはアメリカでは毎年19%の事業が入れ替わっていると書いてあったきもします。ちなみにこれは経済学トリビアなのですが、アダムスミス自身は「神の見えざる手」という表現は使わなかったようです。

しかし、スミス自身、この神の見えざる手は現実では慈雨分に働いていないと述べます。それ徒弟制などの職業を少人数に限定する法律によって職業移動の自由がはばまれることなどを挙げています。

労働者にとって経営者からいい条件を引き出せるときは、労働者の需要が増え続けている局面。労働賃金の上昇をもたらすのは国富の大きさではなく、国富の増加が続くことだそうです。ここら辺の話は日本よりシンガポールが勢いがあるから一人あたりのGDPにも勢いがあるという話や、長期デフレを何とかしてインフレに持っていきたいという経済政策にも通じる話です。国富が大きくても長期にわたって停滞している国は労働の賃金は高いとは考えられないそうです。

また、貧しい人は結婚への意欲が弱まるが、結婚できなくなるわけではなく、貧しい方が子沢山になるという論も出てきます。スコットランド高地地方で栄養失調に近い女性は20人以上子を産むのも少なくないが、贅沢三昧の貴婦人は子供を一人も産めないことも多いし、大抵2人か3人で精一杯だそう。享楽への情熱が強くなるから、なんて話は現在の先進国の少子化にも通じる話ですね。
ちなみにスコットランドの20人の話には裏の理由があって、20人生まれても環境の厳しさから2人も生き残れなかったそうです。

また、スミスは人口の最大部分を占める下層労働者が幸せに暮らせるのは豊かさが頂点に達した時でなく、社会が前進している時だそう。停滞している時は元気が無く、衰退している時は憂欝。どこかの国のエセリベラルな保守主義者に聴かせたいwまた労働の報酬が高いと庶民は勤勉になり、未来の為にも働くそうです

労働の賃金は快くなく、厳しいほど高くなり、仕事を習得するのが難しいほど高くなります。またいつもある業務か、臨時の業務かでも異なり、臨時の方が高いです。これは日本は派遣業でしっかりこのルールでやらないとアンフェアですね。その他社会的信用の高さや、成功を収められる可能性が高いかどうかも高低に影響します。面白いのは弁護士のような成功を収められる職業は、鳴りたいと想っている人に比べて成れる人が少なく、その敗者の分も勝者が総取りしているから高くなると。若い内は自分の能力を高く見積もりがちですからね。しかしその自惚れが社会を動かす原動力にもなっているのですね。

実際にはその他、地域地域での特色があり、当時の欧州は住む場所の移転が不自由でしたから、スミスの理想はなかなか難しかったそうです。都市部でないと成功し拡大できない業務もありましたしね。

また文人は聖職者になる教育を受けたが聖職者に成れなかった人の成れの果てだったそうです。少なくとも印刷技術ができるまでは文人は教師になるくらいしかなかったそうです。教育の安価化によって文人がギリシアの昔から比べると天と地ほどきつくなってきているという話は、インターネットによって苦しんでいる活字産業にも通じる話ですが、スミスはこの不平等は社会にとっては総合的にはいいことだと論じています。

その他、面白かった論では、高価な商品の総額よりも、安価な商品の総額の方が大きいという話。甲本ヒロトが「一番売れてるラーメンが一番美味かったら、一番美味いラーメンはカップヌードルになるぜ」という話を逆から読んだみたいで面白かったです。更にいえば、豊かな国ほど高級品が高値で売買されるようになるという話も面白く読めました。社会が発達し、富が増えれば、モノは自然と高値になっていくという。トランスナショナル化と失われた20年が進む日本ではなかなか上手くいっていませんが、綿密にデータに当たって書かれている本書を読むと、経済学は学ぶ価値があるなと想わされました。労働者と地主は自分の利益を最大化すると社会の利益も最大化するが、雇い主が利益を最大化しようとすると社会の利益が損なわれることもあるというのはブラック企業や内部留保に通じる話で、現代にも通じます。

というか、経済学部に限らず全学部でこれが読まれたら、国の活力が変わるかもレベルの読書体験。
今後の2~5編も楽しみです。

アダム・スミス著/山岡 洋一訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』第二・三編読書メモ
アダム・スミス著/山岡 洋一訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』第四・五編読書メモ
アダム・スミス著 村井章子+北川知子訳『道徳感情論』"もしアダ"が書きたくなる稀代の"いいね論"
by wavesll | 2016-03-29 16:25 | 書評 | Trackback | Comments(0)

マット・リドレー 『繁栄 明日を切り拓くための人類10万年史』 交易と創新による10万年の商業史

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マット・リドレー著 『繁栄 明日を切り拓くための人類10万年史』を読了しました。

人類が文明を発展させた要因は"交換"とそれによって起きた"分業による専門化"、更に"アイディアの生殖によって起こされるイノヴェーション"にあると論じた本書。

10万年前の手斧石器から、古代・中世、そして産業革命以後から現代(2010年初版発行)に至るまでの人類史を"世の中はどんどん良くなっていて、これからも良く成り続ける"という楽観論を夥しいまでのエビデンスの印象によって説得を聴く読書体験でした。

比較優位による自由貿易が繁栄を約束し、今身の回りにあるモノは、数千人、数万人の協業によって創られていること。或いは、交流を行わなくなったタスマニアの民の中で技術が退化して行ったこと等が論じられます。

“自給自足は貧困を産む”と。TPPとも関係づけられる話でもありました。

果たしていま日本で出来る比較優位な産業とは何なのか?あるいはマット氏が論じる貿易の自由によって、逆にルサンチマンは堪らないのか。或いは"ウォルマート"のようなスーパーは昔ながらの個人専門店の"分業"を壊しはしないか。

本書が出た後起きたシリア内戦で欧州に人が流入しているが、富を貪っていた欧州が自由を与えないのは不義理でないか。さらに言えばマット氏の地元、イギリスなどEUとしても福祉を認めない、このナショナリズムにおけるバックラッシュを考えたとき、単なる楽観はいただけないかもなと想いながら読んでいました。

特に"人類全体としてみればどんどん繁栄している、現代人はルイ14世と同じ暮らしをしている"といわれても実際に経済的幸福は相対的な順位で決まるだろうし、或いは悲劇に終われた人からすれば"全体が良くなったって自分には関係ないよ"と想うかもしれず、進歩のスピードが落ちても公がすべき仕事はあるように思えます。

一番面白く読めたのは"再生エネルギーは環境に悪い、化石燃料がいかに人類と環境にとっていいのか"と言う部分。再生可能エネルギーは土地を使うし、自然の景観を壊すのみならず、原生林に使える土地も減らしてしまうとのこと。

更に著者は遺伝子組み換え作物にも肯定的で、従来の小麦だって放射能を浴びせ突然変異させたものを口にしているのに、環境活動家によって遺伝子組み換え作物が、飢餓に苦しむアフリカですら忌み嫌われている、90億人になるとみられる人口を養うにはこの道しかないのに。しかも有機栽培も多くのエネルギーを消費するじゃないか、と論じます。

ここで想いだしたのは、学生の頃参加した"懐かしき未来"という講演会でスピーカーが「古来からの精神的に豊かな暮らしに立ち返ろう」と言う話をしていた時に自分が質問した「では地球の人口はいくつが最適だと思いますか」というのにはぐらかされたこと。昔ながらの生活は土地を使うし、ある意味とても贅沢で、現状の70億人もそれでは養えない。人類にとっての幸福の最大化とは何か、というのを考えざるを得ませんでした。

マット氏は、都市化が進むことで原野が蘇るかもしれない、とか、出生率は20世紀後半から先進国で落ち始めているし、もっと最近では少し持ち直し、人口増を抑えながら維持するようになっている、とデータを示して論じます。

ただ、彼の論は最初に反対する悲観論者の話を挙げ、それへの反論、と言う形で進むのですが、これ、逆にしても通じるのではと想うところもありました。

また博覧強記振りも示してはいますが、江戸時代を貧困の時代と言いイギリスの産業革命を持てはやすのは100万都市江戸の町人文化を知っている身としても異論があり、ツッコんでみれば誤りがありそうな気がしました。それでも、自由な商売環境が実際的に人類を豊かにしてきたというのは、この星全体では正しい噺だと思います。

未来に対する楽観論を、まさに数々の先行研究のサンプリングで明らかにしようとする姿勢は"アイディアの交配によりイノヴェーションは向上する"というのを身をもって示していて、なるほどなぁと想わせることもあり、生物学者の眼で見た人類10万年の商業史として面白く読むことが出来ました。

とかく批判論がのさばる未来予測に新風を巻き起こしただけでなく、悲劇を求めるメディア・エンタメ、そして政府・学者に対して"でも実際生活って向上してるよね"と楽観で水を差した本書。ともすれば"アーミッシュもいいなぁ"と想ってしまう自分に"創造的破壊"の世の中を渡る心構えを与えてくれました。

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by wavesll | 2016-03-08 02:06 | 書評 | Trackback | Comments(0)

常に最大の効用生産性を発揮するのが幸福なのか -ザック・リンチ/ニューロ・ウォーズを読んで

ザック・リンチ著『ニューロ・ウォーズ』を読みました。
c0002171_11502516.jpgfMRIによって進行中の脳の分析ができるようになって進んだ"ニューロ技術"を紹介する本書。

神経法学、マーケティング、金融、社交、美学、宗教、戦争、感情の整形、から論じる。6年前の本だが衝撃的でした。例えばこれから犯罪を犯すかどうかの意図を顔の筋肉から読み取る技術であったり、最前線で最大のパフォーマンスを行うことが求められるトレーダーや軍人は、ニューロ器具や精神に作用する薬を使って、人工的に"ゾーン"に入るようになるという話。藝術による脳内反応を分析して、より効果的な快楽を創りだせるようにしたり、神経内部の現象として神を捉えたり。

特に著者が力を書いていた法律面でのニューロ技術の導入の話は、分析の正誤の確率をしっかり話してくれたので、鈴木松美 編著 『日本人の声』よりも信頼できるかもとも想ったのですが、もう一つ深く書かれたいた軍事技術への転用の話は、"記憶を消す兵器"だったり"嘘をつけなくする薬剤"だったり、"すぐに筋肉が回復する装置"と俄かには受け入れずらい話でした。科学誌に論文が載ってる確かな話らしいですが。

受け入れずらいと言うのは、著者はこれからの20年は好むと好まざるにかかわらずニューロ技術を持つものが、競争に勝つ。トップ層の戦いに参加するためには、或いは敵に負けないためにはニューロ技術を推進しなければならない。とのことでした。

話を読んでいると、"悪の枢軸を打ち負かすため"との話が良く出てくるのですが、読んでるこちらとしてはアメリカこそが邪悪な技術を追い求める国家のようにみえてしまうのは否めません。

また、神経美容といって、記憶力を高める薬だったり、リタリンみたいなハイに慣れる薬が米国の学生の間では広く使われている。精神的な能力を補い増幅するために薬が使われるという話は、異様にも感じました。

しかし、それはアナクロな価値観かもしれません。"ニューロ技術は否応なく広がる"という著者の話は正しいと思うし、過去にはLSDも合法だった時代があったり、現代でもタバコとアルコールは摂取しているのは許されているし。実際日本でも神経美容薬と言うか、最近、あがり症に聴く薬、なんかのCMやってますよね。

或いは自分は"薬を使わない"ということを一つの誇りとして、薬を使わずに快くなるように音楽や芸術を使っているのですが、それはある意味、より良いオーガニック・ドラッグを探し求めているということかもしれません。結局目的は脳内麻薬を出すことなのだから、薬でも同じかもしれないし、それは素晴らし体験なのかもしれない。食わず嫌いなのかもしれません。

依存症にならない脳内麻薬発生装置ができたら、それはいいことかもしれません。『ウルトラヘヴン』のような世界が来るのかもしれません。

ただ、自分は、世俗的な生活ならば、精神の安定から最大の効用生産が行われると想うのですが、こと芸術に関しては、苦しみとか痛みとか哀しみとか、負の感情から名作が生まれること、あると想うのです。いつでもいつまでもハッピーで、常に最大出力で、最大の生産性を産むのが生きる目的なのか、そこには自分は一つの翳を観てしまう気もします。本書の中でも"悲しみが脳に深い感動を与える"とも書かれていましたが。

魔導技術のようなニューロ・テクノロジー、これらが世の中に広まり、森羅万象の全てが脳内の信号としてある程度把握されていく、操作されていく未来がやってくるのだな、と想いました。だからこそ、"生身の魔法"の価値が上がっていくのではないだろうかと想うと共に、ニューロ技術をその生身に掛け合わせるために使っていくのが、この先の世の中をヒトが生きていく方針なのかな、などと想いました。

人間の脳は1万年前からあまり変わってないし、特に感情をつかさどる部位は、哺乳類とか爬虫類脳とも言われています。技術をものにするために、身体がストレスを耐えられない負荷を感じていることからの軋轢は、ニューロ技術だけでなく、ある意味古代的な様式も重要になるのかもしれないと、この本を読んで逆に想った自分はやはりアナクロ爺の素養があるかもしれませんねw

Kenji Kawai - Cinema Symphony - Ghost In The Shell OST

by wavesll | 2016-03-05 12:37 | 書評 | Trackback | Comments(0)

洋楽と比べ邦楽は細く聴こえるのは何故か? - 鈴木松美 編著 『日本人の声』 読書メモ

今日もまた横浜中央図書館に行って、本を借りてきました。それがこれ。日本音響研究所のTVに出てる鈴木さんが、発声のメカニズムから、声から何がわかるか、そして日本人の声について書いておられました。洋楽と比べ邦楽は細く聴こえる疑問が氷解。なかなか面白い新書でした。鶯とウグイス嬢の声紋分析を比較したり、鈴木氏が関わったバウリンガルの開発話も。このエントリでは読書ノートとしておっと想ったところをメモしていきます。
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・声が"言葉"になるには、咽頭・鼻腔・気管で共鳴することが大きな要因である。共鳴体が大きければ低い音に共鳴、小さければ高い音に共鳴。(cf. ヴァイオリンとコントラバス

・声は口腔からの周波数や鼻腔からの周波数が上手く混ざったところで完全な声になる。それは口から12センチ離れたところ。そこから完全なる声になる

・人間の聴覚は約30~17,000ヘルツだが、聴きやすい周波数は大体2,500~4,000ヘルツ。自然界の音は幅広いが、人間の声は周波数幅が狭く、聴きやすい周波数を多分に含んでいるので、人の声は聴きやすい。更に、同じ大きさの音ならば、意味のある言葉を人間は無意識に聴こうとする

・人間が聴きとれる上限は約17,000ヘルツ程度といわれているが、超音波(20,000ヘルツ以上の音)に清涼感を覚えることがる。実際に実験すると、老若男女問わず、約9割の人が22,000ヘルツの音に脳波反応した。また、受け取り可能な周波数は言語によっても差異がある。英語には超音波まで含む発音が多く、英語を話す人たちはそういったレベルの音まで受け取っている

・風呂場で歌うと上手く聴こえるのは①風呂全体がエコーボックスとなり声の揺れが目立たなくなる②湯気で周波数の高い音が削られ、声が柔らかく聴こえる③水蒸気が声帯の皺を埋め、声帯の振動をスムーズにしてくれるから

・ヘリウムガスで声が変わるのは、一般的に気圧が低くなると声帯は振動しやすくなり、声は高めになるから

・声には、鼻が詰まったりして鼻腔を使わない鼻声と、鼻と口を正しく使った喉声がある。発声方法には喉の筋肉を使う方法と肺からの空気のスピードを変える方法つまり腹式発声がある。腹式発声を主に使う声として歌声がある。普段の声は悪いのに歌声は美しい人がいるのにその逆が無いのは、歌う時は意識して技術的に発声するが普段の声は意識や訓練なく発声しているから

・TV番組の実験で、声を出す時プロ歌手は腹筋80に対して喉の筋肉20という割合で使い分けていた

・声は声帯を振動させ口の中に共鳴体を作り外部に発するもの。大きい太鼓と小さい太鼓を叩いた時で音が違うように、人間も大きな顔の人は声帯も大きいので低い声、小さな顔の人は声帯も小さいので声は高くなる。男性と女性でも声紋は異なる

・周波数分析に使う変換式は仏数学者フーリエが発見したフーリエ変換という。CDやネット上の音源もフーリエ変換で音をデジタル化している

・性別の他、声紋からは体格、背の高さを推測できる。「ファントの法則」という理論が、背の高さと声の高さが、ある係数を加えて反比例することを証明している。背の高い人はパーツも大きく低い声。2003年現在では5センチ刻みで身長を判別できた

・声は25才を過ぎる頃から劣化していく。声帯と、口の構えを作る筋肉、神経の伝達能力の劣化から。そのような条件を組み込んで声を検証すると、年齢を5歳刻みで推測できる

・方言によって出身地が分かる。特徴を消すようにしても、かなり本格的な訓練を受けない限り自分が18才までに暮らした場所特有のアクセントが残る

・その人の職業が言葉や話し方に多大な影響を与える。教師は相手の話を余り聞かず、畳みかけるように話し、敬語が上手く使えない。接客業の人は、相手に好印象を与えるために反応を伺う適切な間を取り、特徴的なリズムを持つ

・声の周波数の乱高下で嘘をついているかわかる。聴いて分からない時も周波数分析で確実にわかってしまう

・アジア民族は広い草原や山々の中、より遠くへ声を届かせる為、周波数の高い音が必要だった。またアジア人全般、アングロサクソン系より体格が小さく、声帯も共鳴体も小さく、声は高くなる。しかし、日本語は高周波を必要としない言語なので、周波数は高くないが音域としては高いと言える

・日本人は腹式発声している人が少ない。日本語が肺からの空気圧を余り必要としないから。アジアの言語は言いを使わないで発せるものが多いが、韓国語は息を使った発音が多く、その意味で英語に近い

・東洋人はアングロサクソン系を比べると、頭の形が横幅が広く奥行きが短い。共鳴体の違いでその民族にとって出しやすい音があり、民族に適した言語体系になる。狩猟民族は肺活量が多いとか、アフリカのお皿を入れた下唇で発生しやすい言語体系など

・気象条件も声に影響を与える。寒い地域の人々は空気を沢山出すと体温に影響するのであまり口を開かずに声を発する。

・日本の女性は、言葉遣いの男声化や体格の発達から、声が低音化している。逆に男性は女性の社会進出の影響を受けてか高音化している

・縄文から弥生時代には日本では母音が8つあった。中国の影響の強さからか。

・日本でいい声とされるのは「渋くていい声」だが、欧米では高くて透き通るような声がいい声だと認識される
by wavesll | 2016-03-01 22:55 | 書評 | Trackback | Comments(0)

真理は更新されていく試行錯誤の中に -『物質のすべては光』を読んで

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半隠遁生活も10日になると、何かしらやりたくなるもので、昨日野毛の図書館でノーベル物理学者フランク・ウィルチェック著『物質のすべては光』を借り、今読了したところでした。

学生時代ブライアン・グリーン著『エレガントな宇宙』に心躍らせ、"唯光論"なる妄想似非科学記事をぶち上げた人間としては、「マジで物質は光なのか!?」と要らぬ期待をしながら手に取ったのですが、物質の全ては光ではありませんでした。『存在の耐えられない軽さ(The Unbearable Lightness of Being)』をもじった『The Lightness of Being』という原題の方が気が利いてるかな。それでも、物質の中の一部は光子だったり、情報(ビット)から物質(イット)を作り出せたり、時空を昔でいう"エーテル"が満たす"グリッド"が存在する、といった論は非常に面白く感ぜられました。単行本が出て6年経ち、文中で触れていたヒッグス粒子が発見されたし、重力波も確認された今、また新たな本をウィルチェック博士には書いてもらいたい。

ただ理論的な処は正直おっつかないところもあり、できれば『エレガントな宇宙』並みに平易に描いてもらいたいですが。それでも、ウィットに富んだ語り口からは、一般向けに描こうと努めていることを非常に感じました。

博士の関心が手品から宗教、そして物理へいったのには、非常に共感します。
この世界についてのワクワクするような真実が知りたい、と考えた時に、今一番面白い噺を提供してくれるのは物理な気がするからです。
<32次元にも巻き上げられた"量子次元"がある>、<質量ゼロの物質から質量のある物質が生まれる>なんて想像を絶しませんか?それから比べるとちょっと啓典はダイナミズムに欠けるというか。
そして、私が書いた「精神次元」なるアイディアが一蹴に伏されてしまうように何より信憑性のある科学的言説は、"確からしさ"がある程度担保されている、というのも真理的でいいですよね。一方で、理論物理で予期された現象が、観測で実在が判明するという流れは、神々しさすら感じるようなwkwk感と言うか、GODが書いたプログラミング書物を解読する行為のようにも想えます。

本書の中で、”科学者は天然自然の物理現象をプログラミングで再現し未来を造る野望に対しては現在謙虚な態度を取っている"と書かれていました。何しろ変数を入れるのが膨大になり、真の宇宙を顕すには多次元をも組み込まなければならないからだそうです。物理現象、恐るべし。未来予測は社会科学の方がイレギュラーな因子が多く難しいのかもと想っていたのですが、真実は物理現象で森羅万象を知る方が困難かもしれませんね。

そんなゴールは彼方にある、というか中ボスを倒すと次のボスの城が見えてくる遠大な科学のロード。
此の本を読みながら、理論の過程をさっと見し、結論だけしか理解できないのは、サッカーをみててゴールしか理解できないのと同じ、理力の弱さを恥じ入るばかりだなと想いました。私が仕事ができないのも、派手なゴールにしか価値を見いだせない、技術に対する素人振りから来ているのだろう。手を動かすことの偉大さを感じました。

と同時に幾らドラッカーが"白亜の塔の内部の智慧はもはや通じなく、学識と技術が組み合わされた『テクネー』の時代が来る"と言っても、真理を追究する学問が学問たる領域の輝きこそ、人類が生み出す真に価値あるものだと私は感じ、「何の意味があるんだ?」と世間的に揶揄されたとしても、この分野こそが人間が生きている価値なのだと、半ば宗教的に想っています。でも宗教的盲信はいけません。何しろもっとも素晴らしい真実は、試行錯誤で更新されていくメカニズムを持った理力の至宝なのですから。今世界で宗教テロ、移民排斥など、バベルの塔に雷が落ちたかのようなバックラッシュが起きていますが、再び人類に統合の機運が生まれるとしたら、”全てに平等”な物理現象からかもしれないな、等と想いました。

モーニング娘。'14 『時空を超え 宇宙を超え』(Morning Musume。'14[Beyond the time and space]) (Promotion Ver.)

by wavesll | 2016-03-01 14:41 | 書評 | Trackback | Comments(0)

100分de平和論をみて

今日は正月に録画していたEテレ、『100分de名著』の特別版『100分de平和論』を観ていました。
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4人のパネリストが、それぞれ一冊本を紹介し、平和について考える構成。

まず一冊目に紹介されたのはフロイトはアインシュタインとの書簡、『ヒトはなぜ戦争をするのか?』でした。

フロイトは人は自然状態では暴力で物事に決着をつけようとしますが、共同体を作った後、法に暴力を託すことで、個人間の暴力を抑えることをしてきましたが、国家間にはそれを超越する暴力装置がないこと、人間にはエロス(生)の欲動と死(暴力)の欲動があり、エロスの欲動が人に共同体のために命を投げ出させたりしたり、死の欲動は外に発散しないと自己破壊に繋がると論します。

その上で文化によって欲動をずらすことができるのではないか、とフロイトは論じます。番組では嫌韓に対する韓流とか、反日に対するアニメとかが紹介されていましたが、言われてみれば、暴力的なエンタテイメントや性的なエンタテイメントは欲動を晴らすことには効果的かもしれません。またスポーツもそういった意味では大きな力がありそうですね。

二冊目はプローデル『地中海』。“長い16世紀”の地中海世界の興亡を、構造的な視座と具体的な事柄から描いた書物。番組で取り上げられたのはジェノヴァでした。手形を発明したジェノヴァの金融は、世界へ富(南米銀)をばらまき、戦争を長期化・大規模化させました。資本家は生産者と消費者の人間的な関係を断ち、国家へ働きかけ、富は中心へ集中、大部分の貧しい周辺が生まれる。手形による経済のヴァーチャル化、欲望のヴァーチャル化。欲望は他者の視線のもとで増大化します。グローバルな競争の中で発展した地中海の経済成長は投資先の消滅で終わり、超低金利時代へ。資本は流出。覇権は移って行きました。

こう纏められると21世紀となんらかわりませんね。
資本主義に内在する拡大主義・植民地収奪主義が戦争を引き起こしている。このことは16世紀も21世紀も、変わらないのだなぁと想いました。

三冊目は井原西鶴『日本永代蔵』。江戸の価値観、『始末』=始めと終わりをきちんとし循環を良しとする。戦国時代の拡大主義から、循環・持続の世を作り泰平を実現。すぎはい(生きる手段)は草の数ほどある。合理的な利便性とは違い、中抜きや専業販売があることで広く富が拡散する、参勤交代がトリクルダウンを産み出したと言うのは、面白い視点でした。

しかし、当時日本全体では農民が80%に対し江戸では武士と町人が半々。階級社会だったことを忘れてはならないと想った。そしてそんな平和も黒船(暴力)によって崩れ去りました。

最後の一冊はヴォルテール『寛容論』。フランスでの宗教対立の下起きた冤罪事件を聞き付けたヴォルテールが、死刑にあったプロテスタント信者の名誉回復の為に記した書物。フランスでは大きな事件が起きる度に読まれ、先のテロの時も読まれたそうです。

『自分が信じているものを、お前は信じてなくとも信じろ』と強要するキリスト教、愛の宗教ではなかったのか?とヴォルテールはいう。なぜ憎しみあうのか、人はすべて同じ神の被造物なのに。ヴォルテールはフランスやドイツの王室に重用されるが、リベラルすぎて危険思想と排除された人物。

『自分のしてほしくないことは他人にしてはいけない』。憎悪に憎悪を返しては敵の思うまま。無知に屈することなく憎しみを理性で乗り越えるか。それは本当に崇高で本当に難しい。日本は共同体感情に勝てないかもしれない。最近の時流で言えば、フォースの暗黒面に堕ちず、孤独で自由な個人でありたいものですね。

この番組を観て、2016年の今思うのは、資本主義を乗り越えるというより、資本主義の価値基準を拡大させるという事が必要なのではないか、ということでした。

利便性や競争を良しとし、快楽の拡大を追求する、限りない欲望のレースが、多数の貧者と復讐心を産んでしまっている。これは目標となる指標があまりにマネーに偏ってしまっているからではないか、現在数値化されていない価値に定量的な指標を与えることで、"何が幸せで、何を追い求めるべきか"を設定しなおすことが必要かもしれないと想いました。

また、その過程で現在"無駄なこと"とみられている事柄や時間を、寧ろ価値あるものだと定義しなおすことで、消費スピードを落とすこと、持続可能な社会をつくる援けになるのではないかと想います。スロー・フード運動などもそうですが、誰かから搾取をしなくても、最大幸福を創れる仕組みづくりをする。ヴァーチャルと等身大の肉体、双方を有効活用していく。欲望や発展を求める心にブレーキをかけるのは難しいと想うので、その欲望が目指す理想の定義を変えていくのが、平和を希求するうえでやっていけるものではないか、国や資本家が威信をかけて動く方向を変えていく、それが効果的にできうることなのではないかなと想いました。

Preview of Aya Nishina's Flora

by wavesll | 2016-01-07 22:45 | 書評 | Trackback | Comments(0)

テラフォーマーズ―バトルロワイヤル、エヴァ―ナウシカ。連綿と紡がれる物語の日々

nego - Ants


金曜の晩、ふと思い立ち、地元の漫画喫茶で深夜6時間パックで『テラフォーマーズ』を一気読みしました。火星に繁殖したヒト大のゴキブリと、昆虫の力を身に付けた人間たちの戦い。いやー、これが痛快無比に面白かった。

この面白さってあれに似ているなと想ったのは、初めて小説『バトルロワイヤル』を読んだ時。次から次へと新能力を持ったキャラが出てきて、生き死にのスリリングが描かれる。戦闘そのものの面白さ、火星へ送られる人たちはもはやそれ以外に逃げ場のない人間が多く、後がない状況で純粋に、任務遂行の為に命を懸けるところが痛快でした。

地球での世界各国首脳による政治戦は『沈黙の艦隊』を思わせ、昆虫の力を使う能力バトルは『ハンターハンター』のキメラアントを思わせる。集団バトルは『GANTZ』っぽくもあるかな。何より、一気読みしたのも作用したのか、このクライマックスの波状はドラマ24みたいだと思いました。そういった数々の作品のいい処の合成獣として、面白さがブチ上がった作品だなぁと思いました。

この年になると"良い作品"をみても過去作を想起してしまうことが多くあります。例えばチラ見した『妖怪ウォッチ』は、ポケモンというよりはドラえもん的な面白さを感じたし、『テラフォーマーズ』も上記したような様々な作品を想起させます。でも、それっていうのは何も悪いことではなくて、人間、10年前も、100年前も、1000年前も人間で、"面白いと感じる要素"は変わってないわけです。
先人が生み出したメソッドを土台に改善・創新していくことで、今の時代に合わせた作品が作られていくのでしょう。F先生だって、高見先生だってきっと素材となった元ネタは(漫画でなかったにしろ)あって、そこから膨らませていったのでしょう。

そして、昨日、朝方家帰って寝て、昼起きたらブックオフへ何かないかと立ち読みしに行ってしまいましたwひっさびさにマンガ読んだせいで一気に漫画づいてしまったんですw

貞本エヴァの読んでなかった部分を読み切り、あぁ、これで俺の中でエヴァは完結しきったなぁ、2015年に終われて良かったよかったなんて想った後、手を付けたのは宮崎駿『風の谷のナウシカ』。これが圧倒的な作品でした。

ここで『テラフォーマーズ』の話に少し戻りますが、これだけ話題になってたのに手を付けていなかったのはどうも絵柄が苦手な部類というのと、実際読んで思ったのですが、キャラの書き分けがイマイチ良く分からなかった部分があるかもしれません。そして実は『ナウシカ』もその細密な描写と書き分けが良く分からないキャラ描写がどうも苦手で、何度か漫喫で読もうとしては止めていたのです。今回ようやく読めるようになったのは、逆に最近漫画を余りよんでなかった分、漫画の面白さが新鮮で拘りなく読めたのと、歳を重ねて楽しめる範囲が広がったのかもしれません。

『ナウシカ』で描かれる戦争は、古典に描かれるような正調の戦争描写でした。自分が読んだ作品の中だと、『坂の上の雲』にも通じるような、矍鑠として誇りある尊敬できる年上の人物が出てくる戦争ものといった具合でしょうか。環境の腐敗、家族間での軋轢、そして脅かされる市井の人々、、、戦火の恐ろしさと、人間の清濁、そして社会が描かれていたのも印象的でした。

印象的なセリフに「苦悩の深さが、精神の深さだ」というようなものがありました。なるほどなぁと想うと共に、確かに『バトルロワイヤル』や『テラフォーマーズ』には"そうせざるを得ない戦"は描かれていても、そこに迷いはなく、最後は戦闘に純化していく姿が描かれていたなぁと思いました。単純と言っては憚りがありますが、戦争の現場で単純化される人間性を娯楽として見せすぎというか、ここに何らかの哲学を持った魅力ある敵キャラや、"正義"の方に"迷い"を描ければ、更なる名作になるかもなぁと思いました。”人間社会の玄妙さが失われるドラスティックな改革”に対して迷いを今自分が持っているという事もあるかもしれませんが現実に対立する敵が怪物である限り、自らも怪物へトランスフォームさせなければ闘えないと知りながらも、圧政者によって自由を失ってしまう。。難しい所です。

そう、"自由意志こそが本当に守るべきもので,生ぬるく意思のない平和ならば、対立や戦火があっても生きる意志のある方がましだ”という宮崎駿の強烈な思想を『ナウシカ』からは感じました。一種の楽園を拒絶する姿勢は、戦闘的ですらあります。この思想はシンジが人類補完計画を拒絶するという形で次代へ受け継がれましたね。

映画版『ナウシカ』は原作全7巻の1,2巻しか描けてないというのは本当で、その後の描写も描いてほしいなぁ友思っていたのですが、『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』を思わせるシーンがそこかしこに合って、あぁ、こうして自分の原点を繋いで行ったのだなぁと思いました。そして『ナウシカ』自体も『オデュッセウス』の登場人物から着想を得たと。連綿と続く物語の日々を享受するために、改めて最新作と古典双方をDigっていく必要があるなぁなんても思いましたが、最後に今回こんなに漫画を愉しめたのは、勿論作品が面白かったのもありますが、久々にマンガ自体に触れた新鮮味もあると思います。

実際『テラフォーマーズ』は今は掲示板なんかでは「終わりつつある漫画」とされているようです。同じ刺激には飽きてしまいますからね。本当は演者だって、娯楽に餓えてる客に提供する方が意義深く感じるんじゃないかって想います。エンターテイメントで脳内麻薬出すこと、単なる消費に意味を見出そうとすると、シシュポスのような虚無に囚われそうになる。ましてやその刺激に飽きてしまっているのにまだ噛み締めようとする文句タラタラの客の為に書くことには、そして読んでいる方も幸せではないでしょう。

しかしそんな行為に意味があるとすれば、"本当に欲してる人に届けるために"産業を成り立たせる糧になっているということでしょうか。客として、あるエンタメに飽きたら無理しないで別のエンタメに行ったり、或いはエンタメ刺激を絶って、飢餓を得ることを望むと共に、今の文化生産者の夢のない経済状況を聴く限りでは、文化を支える人もまた文化人なのだなと想ったりもしました。
by wavesll | 2015-06-14 16:47 | 漫画 | Trackback | Comments(0)

結果を出す文章、結果を求めない文章 ― Blogの”目的”を考える

昨日のエントリ、結構アクセスを集めたみたいで、自分が「良く書けた」と想う時よりも、「イマイチだなー」って時にアクセスを集めてしまうのは、中々歯がゆいものがありますね。

昨日も書いたのですが、帰宅してからの時間で何かしたいと思って今夜は本を読み返していました。テーマは文章。特に"機能的な文章"について。山田ズーニーさんの『伝わる・揺さぶる!文章を書く』 を手に取りました。
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山田ズーニーさんは元々ベネッセにいた方で、『おとなの進路教室。』という本や柱リンクにもあるサイトをそれこそ大学の就活の頃に読み、とても誠実に、丁寧に伝わる文章を書く方だなぁと想ったものでした。この『伝わる・揺さぶる!文章を書く』も数年前購入し、その時も感銘を受けたのですが、今第一章・第二章を読み、あぁあ流石だなぁと再び色々考えが深まる契機になりました。土曜日までに全章読み返したいのですが、三章以降は実践的なトレーニングとなっているのと、色々読んでいる内に「書きたい、少なくとも昨日の記事よりは自分の思い入れがある文章が書けるはずだ」という思いにかられ、今ラップトップに向かっていますw

この本で書かれるのは、「結果を出す文章をどう書くか」です。ベネッセで小論文を担当していた山田さんは、自身の受けてきた国語教育を振り返った時に、文学鑑賞ばかりで、実際に生活の中で必要とされる手紙や詫び状、議事録等の文章のライティングの授業がなかったという事を起点に、働くため、生きるために、状況に応じて目的を果たすためにきちんと機能する文章の書き方を紹介しています。

これは、目から鱗でした。と同時に確かに、小学校はともかく、高校くらいでこういう日本語ライティングの授業があったらとても良いなぁと想いました。「読書感想文」にしても、何にも書き方を教え無いで放りっぱなしで書かせても、効果を上げるどころか国語の勉強が苦痛になってしまう人が多いのではないかなと思います。私も一時期小学生に国語を教えていたのですが、母語という、ほとんどセンスで解いていた自分の"センス"をメソッドに落とし込むのはなかなかに大変で、学校で実用的な文章術を学ぶのは納得感も増しそうで良いなぁと想いました。

と、同時に文章が「結果を出すためのもの」と自分はあまり思っていなかったことも思い当りました。およそ自分の気持ちの発散のために文章を書いていますね、特にtwitterなんか「読む相手を動かす」ということについて考える人はやってられないのではないか等とも思います。

「結果を出すため」にしか文章を書かない人ではない、半ば生理的に活字を読み書きしている自分にとって、逆に「読み手が何を求めているか」「文章を読んだ後読み手にどう思ってほしいか」、つまり「この文章の"結果"は何か」を考えるというのは新鮮でした。

まぁ、このサイトが長続きしているのは「結果」を考えなかったところも大きいと思います。私が19の時からやっていますから、休止期間も含めればもう10年以上やっていて、累積アクセスは30万を超えていますが、やれ「アクセスを物凄く稼いでアフィリエイトだ」みたいにやっていたら、つまらないし辛くなりそう。逆に言えばこのサイトをやっている目的は「自分が読みたいことを書きたい様に書く」ことが出来るからとも言えるでしょう。

ただ、昔、特に始めてから休止するまでの間は、完全に自分を知らない人向けにblogエントリを作成していた気がします。内輪受けにはしたくないというか、やるなら一般的な広い人々に向けて書いていた部分が大きかったですね。

逆に今はもっと私的な、自分の興味のあるところを、そこまでウケを気にせずに書いている気がします。読者の想定はtwitterで繋がっている人であったり、同じ番組やイベント、本に興味がある人であったり。毎日更新しているわけでもないので、毎日見に来る人というのは想定していないし、twitter経由で来る人数の数もフォロワーが1500人位いる割にはせいぜい10人位(これはやりとりをしている人の数には近いかもしれない)ので、現在は"公"を意識せずに書いている部分が大きいです。

自分がやりたい事と、社会で必要にされウケる事と、自分が出来る事はそれぞれ異なっていることは多々あり、「自分がやりたいことで評価される」というのは至難な業な気もするなぁなんて想います。社会の中では感覚で話すだけでは意見など通らず、如何に論拠を張って意見を通すかが大事だなぁと仕事の面では思いますが、声の大きい人間の意見だけが通る世の中も息苦しいですから、このblogくらいは己のふわっとした感覚を残したいです。

あぁ、一つ目標はあります。それは特に更新しないでも過去記事だけでアクセス集められるような"ロングセラーエントリ"を書いていきたいという事です。敬愛する先輩のblogが毎日100アクセス集めているそうなので、取り敢えずそれを目標にしたいですね。今は更新しない日だと30/dayなので、この三倍か…。昔さんざん書いた個人ニュースサイト時代のニュース羅列記事は今はもうまるで読まれません。速報性ではなく、恒常的に残るような記事を書くことをどこかで心がけたいですし、そういった"結果"を出すためにはズーニーさんのおっしゃるように"読者は自分に何を求めているのか"やら何やらを考えなければならないのかもしれませんね。

ちょっと振り返ってみると、大学の頃は仲間もmixiやらblogやらやっていましたが、今は誰か書いているなんてのはまるで聴かなくなりました自分が今も書いているのは、今は私的といいながらも、やっぱり公に向けて面白いものを書くという初期理念と、結果を求めて書くのではなく、半ば排泄行為のように日々活字をI/Oする指向性があったからかもしれません。何かしらの生活の跡、身体的・精神的な営みの痕を残していけたら幸いです。



by wavesll | 2015-02-26 23:52 | 書評 | Trackback | Comments(0)