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青い座禅、縁は流転する ZAZEN BOYS - MATSURI SESSION 2・26 2004 TOKYO

ZAZEN BOYS - MATSURI SESSION 2・26 2004 TOKYO [Album] [2004]


"おお!コレYoutubeにあんのか!"と想ったのがザゼンボーイズのライヴ盤、MATSURI SESSION。
特にこの青盤は『KIMOCHI』といいエモさ全開で、当時は「ZAZENはスタジオ盤よりライヴ盤の方が断然いいな」と想っていました。

私は高校時代はナンバガを背伸びして聴いてた人間で。それこそ『サッポロ OMOIDE IN MY HEAD 状態』を今は無き横浜モアーズのタワレコで聴いて鳥肌立った辺りから本意気で惚れこんでいって。

そこからするとZAZENのスタジオ盤はナンバガが持っていたエモさが減った気がしたというか。ようやくナンバガを追っかけていた当時の私にはまた精神年齢が高くモードチェンジしていたのだと想います。

それでもLIVEでみると座禅は最高で。そしてこのライヴ盤も、今聴き返すと「向井、青いなー!!!!」と想います。バリアオハルじゃねえかと。

Miles Davis - Kind of Blueに一杯の水 第100回酒と小皿と音楽婚礼Fela Kuti - Zombie X Firestone Union Jack IPA 朱夏は此の道 第101回酒と小皿と音楽婚礼にもしたためたことなのですが、ここ2,3年で自分の中で心身のModeが変わりつつある気がして。

どうにも30を越えた辺りから関係性の中の立ち位置が少しばかり変わりつつあるというか、それまでは<評価される/可愛がられる>立場だったのが<評価する/可愛がる>立場になることもしばしば起きてきたというか。

人の上に立てる器の人間ではないこんな自分に、信頼を寄せ頼って呉れる人ができて。そして自分自身としても、ある程度己を信じられるようにもなって。人間関係が精神年齢を進めると実感しています。

相変わらず浮わついた渡世をしているのはいなめないのですが、旅してる時しか生きてる気がしなかった頃より、詩画音楽というレイヤーで心身を満たせるようになってきている己は、案外好きです。

そして完全に意外だったのは必至でボケを考えてた頃よりある程度シリアス気味にネタをやるようにした方がウケがいいということw

みんながツッコミ目指すと揚げ足取りの地獄みたいな世の中になって、実際に今メディア上の語り口がプロもアマチュアもどんどん性格悪くなって自意識過敏な世になってる気もします。

私個人は人生をネタにかけ道化を演じる若人は俄然応援したいところではあるし、連中は楽してるぜ、同時にあいつらも大変ではあるとも伝えたい。

承認欲求を求めてもいいし、みなに好かれなくてもいいし、全てに肯定的でなくていいというエントリにも書きましたが、Webコミュニケーションを追いかけるだけで可処分時間は足りない現状。

その上、古典の名著、グッドミュージック・アーカイヴ、日々のTV/Radio etcetc、幾らでも楽しませてくれる人たちがいる。

今はそんな気脈が通じるままに、来るもの拒まず去る者追わずと明きらめるのも縁かと想えたのも自分の中では大きな気持ちの変化でした。評価されるのを欲すというより評価する側にもなる変化の一つで。

バンドのMagicは確かに存在するけれども、向井秀徳はとてもいい気脈で縁を引き寄せてきたと想います。このライヴ盤のメンバーからアヒトイナザワもひなっちも抜けていくけれど、座禅は強靭に続いていく。

"ずっとこのBANDが続く"ことは叶わない先に、新しい景色が。

縁は流転するのを悟るのも大人の階段かなんて想う文月の23:49、繰り返される諸行は無常、蘇る性的衝動…。
by wavesll | 2017-07-11 23:49 | Sound Gem | Trackback | Comments(0)

Liam Gallagher - Don´t Look Back In Anger - Glastonbury 2017

Liam Gallagher - Don´t Look Back In Anger - Glastonbury 2017

Slip inside the eye of your mind
心の瞳に滑り込むと
Don't you know you might find
何をみつけるか知らなかったのか
A better place to play
もっといい遊び場を
You said that you'd once never been
お前は一度だってないと言っていた
But all the things that you've seen
けれどお前がみてきたすべては
Will slowly fade away
ゆっくりと消えゆくんだ

So I'll start the revolution from my bed
だから俺は寝床から革命を始めるんだ
Cos you said the brains I had went to my head
お前が俺は自惚れてるっていったから
Step outside, summertime's in bloom
夏真っ盛りの外へ出る
Stand up beside the fireplace
暖炉の横から立ち上がって
Take that look from off your face
そんなお前の顔はやめてくれ
You ain't ever gonna burn my heart out
お前は俺の心を燃やし尽くせないのだから

And so, Sally can wait
そしてそう、サリーは待てる
She knows it's too late as we're walking on by
彼女は俺たちが共に歩くには遅すぎるって知ってるから
Her soul slides away
彼女の心は離れていく
But don't look back in anger
けれど怒りに任せて振り返らないでくれ
I heard you say
そうお前が言うのを聴いたんだ

Take me to the place where you go
お前が行くところに連れてってくれ
Where nobody knows if it's night or day
誰も知らないところへ 昼夜問わず
But please don't put your life in the hands
けれどお前の手の中の人生を委ねないでくれ
Of a Rock 'n' Roll band
ロックンロールバンドの連中には
Who'll throw it all away
放り出しちまう連中には
I'm gonna start a revolution from my bed
俺は寝床から革命を始めるよ
Cause you…
だってお前が…

グラストンベリー・フェスティヴァル、旗がはためき発煙筒が焚かれ、正直現場にいる連中は舞台なんか見えないと想います。それでも"Rock"としか表現できない精神があふれていて。この大合唱なんか最高。いつかこの中に身を投じてみたい、そう思わせる旅してみたい夢の目的地の一つです。

昔、敬愛する先輩が「旅したいという感覚が分からない、結局逃げだろう?」とどこかに書いていて。けれど別の場では「NYには行ってみたい」と書いていて。

一方で私は旅が好きなのですが、NYにはあまり行きたいとは思わなくて。

それは例えばあの先輩は舞台が好きだったり、一方で私は自然の景観や歴史的・精神的な建築が好きだったりと言った表面的な違いもあるのですが、やはり「旅が好きかどうか」が大きい気もします。

NYは”現代の都市のアーキテクチャ”だとして、そこに在るものは質が高いかもしれないけれどそれも地球上に敷衍しているものに想えるのです。都市は何処へ行っても都市というか、生活したり、仕事したりするには魅力的だけれども、観光という面ではNYにわざわざ身銭を切っていくほどでもない。

実際NYの番組をみるのは私は好きで。ついこの間も”地球タクシー”でNYにハシド派のユダヤ人が現代大衆文明と隔絶した暮らしをしながらNYに棲んでいると聴き、興味を惹かれたりもしました。けれども、どこかでNYは自分から遊びに行くというよりも、必要に応ずることで行く街に感じて。

そういった意味で先輩が言っていた「旅に魅力を感じない」と「NYには行きたい」は整合するなと想うのです。

まぁ、自分は基本暑いくらいのところが好きで。南米とか。イタリアとか。そこでいうと欧米は寒くwドイツなんかは無機質なイメージがあったのですが、ベルクハインという世界最高峰に入るハードルが高いクラブがあると聴いて興味を持てました。グラストンベリーもそうですがやっぱり音楽があると興味を持てるのかもしれませんwただNYだけはなんか違うんだよなー。少なくとも現在は。

旅は自分にとって青い春の象徴なのですが、今こうして"Don't Look Back in Anger"を聴いて。最近"青春"に決着がついていく感覚を想っていて。

自分は中高一貫に行ったからか人間関係が舞台が変わるたびにリセットされていく感覚があるのですが、距離感を誤り衝突し、怒りに任せて切り捨ててしまったことが過去にあります。

もうこんな齢になると今更プライヴェートで無理するのはこちらにも向こうにも無しだろうと想って働きかけないのも礼かと考えているのですが、少なくとも自分の中では怒りは遠のかせるようにしたいと。

道は違えたけれど、俺は俺でこの星の上で暮らしを営み、そして、共に生きる人を大事にしようと。人生の不安定さは寧ろ増していくのだけれど、悪を心の底に認識しながら、魂の解放を音楽に託して。
by wavesll | 2017-06-26 05:47 | 私信 | Trackback | Comments(0)

最悪な最高を生きていると

椎名林檎 - 長く短い祭 from百鬼夜行


AKBの総選挙である女の子が結婚宣言をして、阿鼻叫喚の総スカンを食らったのをみて。その後ケンドリックラマーのTシャツを着るとかも含めて、「面白いなーこの子、ここまで爆弾仕掛けて、グループ自体も破壊しようとするのは秋元筋金入ってんなw」と嗤ったのですが、「仕事ならば何でもいいのか/面白ければなんでもいいのか」のモラル破壊問題ってやっぱりあるなぁと想った處。

"恋愛禁止"を一番の恋盛りの女の子たちに求めるのは、人間性の破壊にならないか。「いや、せめて建前は守れよ」といいたくなる気持ちは分かりますが、寧ろ彼女は純情だからこそ嘘をつくのに耐えきれなかったのではないかと。

プロフェッショナルというのは総じてどこか役割を演じることが必要となるし、建前を守る安心があるから社会が成り立つのですが、「建前」が形骸化して、最初から「嘘」になってしまうと不味い。嘘を吐きすぎると無法な心理が生まれるのではないか。

グループでも会社でも、創業メンバーは「理想=建前」を内発的に得心して、そしてサービスや心意気を徐々に発展・習得していきます。しかし、後発の新米の心身にとっては「既にあるスーパー・パワー」は半ばフリーキーに振り切れて限界を超えた負荷になっているのではないかと。

さらに顧客は"更なる進化がないと面白くない"と言い出し、無理を越えて「最悪」を「最高」と嘯いて尽くしていると、無視できない歪に蝕まれるのではないか。体育会の部活をさらに激しく厳しくしたような、若いうちにしかできず時間が限られているアイドルという仕事は濡れ手に粟の水商売でもあり、構造としてモラルハザードが起きて当然にも想えます。

逆に上の立場からみたら、石原莞爾などもそうですが、自分はきちんと論理だてて大勝負に臨んでいたのに、"蛮勇な大博打でもOKなんだ"とみられ自らを模倣してるつもりの若手の暴走に頭を抱える事態が起きているのだと想います。"人倫は守れよ"と。

さらに、10代も、20代も中身はガキそのもので。ましてや芸能産業なんてのは"大人"も餓鬼なのではと。みな虚勢を張って、真実ベースの対話ができていなかったのでは?ただでさえ弱音を吐くことが良しとされない、"命がけでみんなやってんだから"となりがちなのは心身のダンピングがそこかしこで起きる現代日本の労働環境の縮図にも感じます。その反動ともいえるサービス強化へのスパイラルも。

モラルハザードはファンの側にも起きていて。小舅というか、10代20代の女の子に極めて厳しい指摘を続けるミソジニーが起きているのは、"自分はこんなにも相手のことを女として好きなのに、相手は俺なんか歯牙にもかけない、でも惹かれてしまう"という状況構造が引き起こしているのではないかと想います。

アイドルも、運営も、ファンも、みな餓鬼ばかりで須藤凜々花ならずとも「DAMN(畜生)」と言いたくなります。"ぬるい頑張りじゃ競争に生き残れないんだよ!"と言うのもわかります。私自身も一時期アイドルに嵌ってIdol Musiqueを聴かない理由があるとすればという記事を描いたりし、その魅力がわからないわけではありません。

ただ、群集心理の波濤に押し流されず自分を大事にして仕事をしてくれたほうがきらきらした夢を与えられると想うのです。少なくとも「最悪」を「最高」と自分に嘘を吐かないで欲しい。やりがい搾取で成される虚勢の繁栄よりも、真心の本音2.0が、今欲され、伸びしろがあるのではないかと。「嘘」ではなく、信じられる「建前」を時に喧々諤々異論を交わしながら成してほしい。自分を大事にしないと他者も大事に出来ない。そう20代を終えて想うようになりました。

余談
ちなみに、怒り心頭に達している方々に朗報なのですが、100年も経てばムカつく奴も全員死ぬそうですよ。世界丸ごと憎んでいる方にも朗報なのですが数十億年後には太陽が地球を飲み込むので嫌な連中の子々孫々丸ごと死滅するそうです。"それでもこのムカつきが止まらねえんだよ!"という方には北方先生の「ソープへ行け!」を進呈したします。
by wavesll | 2017-06-21 21:09 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

Memento mori日

Blankey Jet City - Sweet Days


Blankey Jet City / COME ON


一年に一回誕生日を祝うより、一年に一回“明日死ぬとしたら何やりたい”か考える日があってもいい。死を想う日というか。毎日やることこなして、コンテンツ消費して、“で結局何をしてから死にたいのか”見つめるの、良さそうだ。

311の後、結婚が増えたのは「死」を想った人が多かったからでは。"いつか"の前に"死"は来るかもしれない。と。「死」を想うと本当にやりたいことだけが浮き彫りになる。俺は何がしたいかな?イランへの旅?家庭を築くこと?

好きだった人も、亡くなってゆく。好きだったバンドも無くなっていく。好きだった店も失くなっていく。その後で哭くより、生きてるうちに笑いあえるように。"死ぬ前に何がしたいか想う日"、個人的な風習にしようかな、誕生日と紐づけるのもいいかもしれない。Memento mori.
by wavesll | 2017-06-15 23:39 | 私信 | Trackback | Comments(0)

三木清『人生論ノート』@100分de名著 第4週 「死」を見つめて生きる

c0002171_13211266.jpg三木清『人生論ノート』@100分de名著 第1週 真の幸福とは何か
三木清『人生論ノート』@100分de名著 第2週 自分を苦しめるもの
三木清『人生論ノート』@100分de名著 第3週 ”孤独”や"虚無"と向き合う

ETV、100分de名著で取り上げられた三木清『人生論ノート』視聴記も、今回がラスト。

執筆直前に妻を亡くした三木、戦争直前、死が近い時代に三木は希望についても説きました。最終回は死と希望について三木が伝えたかったことを読み解きます。

死について

近頃私は死というものをそんなに恐ろしく思わなくなった。年齢のせいであろう。以前はあんなに死の恐怖について考えまた書いた私ではあるが。

この数年の間に私は一度ならず近親の死に会った。そして私はどんなに苦しんでいる病人にも死の瞬間には平和が来ることを目撃した。


昭和14年、三木はこの時41才。2年前に妻を亡くし親類や友人を立て続けに見送った頃。この一節には死から目を背けず死の恐怖に惑わされずに生きたいという三木の想いが込められていた。

死について考えることが無意味であるなどと私はいおうとしているのではない。死は観念である。

誰もが生きている間には自分の死を経験することができない。死を経験したときには死んでいるから人はいない。だから我々が死について考える時は"観念"として考える他はない。

ただ実際には難しく、死は人生に入り込み、生の直下に死はある。

死の恐怖が薄らいだのはなぜか?→確率の問題。生きていて死んだ人に会える確率はゼロだが、死ねば会えるかもしれないと考えたから。"そうあって欲しい"という要請からこの考え方に三木は到達。

同時に後に残す者たちに三木はこう言っている。

執着するものがあるから死にきれないということは、執着するものがあるから死ねるということである。

「執着するものがあるから死ねる」というのは"人間はそんなに立派に死ななくてもいい、執着するものがあって死んでもいい"。潔く死ぬのが美しいという時代に、悔いを残して死んでもいいという勇気のメッセージ。

私に真に愛するものがあるならそのことが私の永生を約束する。
想いを残した人がいるということは死後自分が還っていくべき所を持っている。

折に触れて思い出してもらえればその時自分は永生を約束されている→この根拠は自分自身が妻を忘れていないという愛からではないか。

妻の死の一年後、その一周忌に追悼文集を編集し、「幼きものの為に」という自身の文章も載せた。

やさしい言葉をかけたこともほとんどなかったが今彼女に先立たれてみると私はやはり彼女を愛していたのだということをしみじみと感じるのである。

彼女の存命中に彼女に対して誇り得るような仕事のできなかったことは遺憾である。

私が何か立派な著述をすることを願って多くのものをそのために犠牲にして顧みなかった彼女のために私は今後、私に残された生涯において能う限りの仕事をしたいものだ。

そしてそれを土産にして、待たせたね、と云って彼女の後を追うことにしたいと思う。


『人生論ノート』が刊行された翌年、三木は徴用されフィリピンで従軍する。そこでの戦争体験は彼の哲学を大いに変貌させるはずだった。しかし帰国した三木に言論発表の場はなく、娘と疎開する。

そして昭和20年3月、逃亡犯だった友人を匿ったという嫌疑で逮捕される。敗戦後も釈放されることなく、9月、獄死する。

もし私が彼等と再会することができるーこれは私の最大の希望であるーとすればそれは私の死に於いてのほか不可能であろう。

共産党員だった友人を匿えば身の危険が伴うのは分かり切っていたが、人間として三木は友達が助けをもとたときに救わないはずはなかった。

敗戦後も釈放されず毛布に付いた疥癬にやられ独房で一人死んだ三木。「三木は死ななくてもよい命を落とした」。

三木は戦争に往った数少ない哲学者。その経験を生かした書作を残せたはずだった。

三木は人間の生命と歴史における過去を重ね合わせ、その意味についてこう述べている。

過去は何よりもまず死せるものとして絶対的なものである。この絶対的なものはただ絶対的な死であるか、それとも絶対的な生命であるか。

死せるものは今生きているもののように生長することもなければ老衰することもない。そこで屍者の生命が信ぜられるならば、それは絶対的な生命でなければならぬ。

この絶対的な生命は真理にほかならない。


死=過去(歴史)と同等に考える歴史観を三木は持っていた。"死"が絶対的であるがゆえに"過去"もまた絶対的である。

過去を自分の都合のいいように利用し解釈する危険性を指摘している。"歴史修正主義"を三木は厳しく指摘している。

歴史を改ざんしようとすることは歴史を尊重していないこと。人間の"死"を尊重することは"歴史"を尊重することでもある。

雑誌「文学界」における最後の連載は「希望について」だった。

希望について

人生においては何事も偶然である。しかしまた人生においては何事も必然である。このような人生を我々は運命と称している。

偶然の物が必然の必然の物が偶然の意味をもっている故に人生は運命なのである。希望は運命の如きものである。人生は運命であるように人生は希望である。

運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである。


戦時下にあっても三木は最後まで絶望することなく人生論を書いた。

三木は個人、個性が失われつつあった時代に自分とは何か人間とは何かを問い続けた哲学者。そして最後まで人間の可能性を信じていた人だった。

もし一切が保証されていたら希望すらありえない。希望こそが生命の形成力である。

絶望することは簡単で、絶望しない人生を選んだのが三木の生き方。

「私は未来への良き希望を失うことができなかった」

国家全体が戦争へ向かって言論弾圧しても考えることを止めない、"言ってもしょうがない"にならない。精神のオートマティズムに巻き込まれると抜け出すのは至難の業。

三木がこれを書いた時代と現代は通じる感覚がある。しかしそういう時代に生きているからといって絶望する必要もないし生きている意味はないわけではない。

三木清は終生理想主義者だった。理想だけが現実を変える力があると三木は書作を通じて語りかけている。
by wavesll | 2017-04-27 15:30 | 書評 | Trackback | Comments(0)

『ジョンの魂』をYoutube Eraに聴く

John Lennon Plastic Ono Band (full album,1970)


鐘の音が響く、『Mother』が始まる。言わずと知れたジョン・レノンの名盤『ジョンの魂』。これに初めて触れたのは中高生の時期でした。まだロックというものが具体的になにかも分からず(今も"ロックって何か"って分かりませんが)、でも何かとても純粋な気持ちをこの音に感じたこの盤。

今聴くと、レノンのヴォーカルの魅力に驚かされます。声一つでこんなにも表現できる人がいるなんて。そして"メッセージ・ソング"であること。ロックが社会的な意味で娯楽だけにならない、気骨があって、宮台ではないですが今は『正義から享楽』になってきている気もする中、40年前ってこうだったんだなぁと。

ただそれ以上に感じたのはこの音源がYoutubeにあることのうってつけ感。このサウンド、言ってみるととても現代的というか、今のYoutubeの音に感じました。

それはベースが全然聴こえない、この音づくりがTake Away Showやアマチュアミュージシャンの弾き語りにも似た"低音が効いてない感触"をもたらしてるからかもしれません。

「21世紀は音楽の進化は止まってるよ、90年代の音を聴いてもまるで今と違和感ないじゃないか」という人もいますが、Mステとかでさんざんやってる90年代の音楽を聴くと、今の音楽と比べてベースの重低音がまるで効いてなくて。この20年でベース・ミュージック、リズムの進化・改良・創新は相当進んだと想います。

一方で、PCやスマホで音楽を弾き語り配信する人が本当に増えたのもこの10年。当然再生装置もPC・スマホであって。そこで鳴らされる音に、この『ジョンの魂』が呼応する気がしたのです。いわば最強のYoutuberというかYoutube Eraのフェティッシュを音像に感じました。

シンプルな構成だからこそ、歌の魅力が突き抜けていることも、そして楽器の音がまたジャストにいい音色。カットインやSEのエクスペリメンタルも。時を経ても色褪せないばかりか寧ろ現代性を持つような音。十代のあの頃も、今も、ジョンの魂に触れると純粋な精神に、陽光に触れた思いがし、改めて稀有な盤だなと想いました。
by wavesll | 2017-04-23 09:35 | Sound Gem | Trackback | Comments(0)

3.11から6年 刹那と継続

波よせて(石垣島、米原)


【小沢健二】流動体について (TV-LIVE)


3.11の時。一番苛烈な心情だった頃。

その時私は死が近かった心持から"お前らも漸く死を近くに感じたか"とかの呪いの気持ちと、"生き延びたことを先ずは気付かねばなるまい"という動転からSNSで東京の人々に向けて惨いことを口走っていました。

間接的な暴挙ではありますが、そこに被災者の方々への思い遣りはなく、我欲のみでした。

3.11で"普通の有り難み"に気づいた方々は多かったことでしょう。一方で、今も自殺者は2万人/年を超え、毎年3.11以上の厄災が起きていることは"普通の人々"からは"最終的には自己責任だし、仕方ないこと"とされる。結局”自分事”でないことは"他人事"、そんな"普通の人々"への恨みだったと今は想います。

誰しも"自分自身の視線"がスタンダード、デフォルトであって。"人生の重み"なんてのは自分で計ればいいことで他人に押し付けるものでは、ないですね。

あの時の自分は今平静から振り返ると惨いものがありました。音楽で安楽を伝えようとしてSNSで『波よせて』を薦めたり。津波があったばかりなのに。

時を経て今は"普通の人が普通の人生を成り立たせるためにどれだけ努力と研鑽をしているか"が身に沁みます。

"普通の人の無関心の冷酷さ"も認識した6、7年前。今は自分自身の未熟さや甘ったれさを認識すると共に、ただ大声で叫ぶだけでは逆効果、ということも振り返れば理解できます。

アダム・スミスも”施しは度を超えない”と書いていました。端的に言えば愛と尊厳が足りているからこそ、他者へ慈しみを持てるし、度を越えた慈愛の施しは寧ろ虚栄心から来て、犠牲感の無理を産むものなのかもしれません。

情報は幾らでも増殖しインフレーションを起こしますが、結果として身体性を伴わない虚像を産む恐れがあるのかもしれない、そしてそれは『西瓜糖の日々』のインボイル達のようにカタストロフへ繋がっていくのかもしれない…。

音楽や言葉は認知に働きかけるけれども、その魔法の前提、ファンダメンタルに関わる"世を成り立たせる仕事"もまた貴い。魔法を上滑りさせずに実体化するには、刹那の継続、身体性が必要なのかもしれない、朱夏に入りそんなことを想うようになりました。

そうした時に、小沢健二の新譜『流動体について』が心に浮上して。

最初聴いたときは焼き直しというか、“毎日の環境学の先がこれ?”と想ったのですがリリースから数日経って、不意に口ずさんでしまうメロディと“もしも過ちに気がつくことがなかったのなら”とリブートを示す歌詞に、王子さまではなくなったかも知らないけれど生身の人間等身大の身体性を感じて。

藝能の現場でサヴァイヴしていくには激烈なI/Oをやり抜かねばなりません。
その一種狂気を孕んだShowをMust Go Onして行く螺旋から降りて。サンプリングや引用といった自分以上の拡大から距離を離れて、その上で今『流動体について』に"再到達"したことが心に沁みたのです。

閑話休題。最近みた夢で、私はブログの記事について電話で釈明していました。その記事は書く書く言ってまるで書かなかった記事で。

高倉健を題材に“過ちを犯した後で、贖罪するにはどうすれば良いか”を書く予定のもの。どこかで刑務所から戻って来て、その罪の意識を背負った上で生きざるを得ない幸せの黄色いハンカチの高倉健は、侵略戦争の罪を負った上で国際社会で生きていかざるを得ない戦後日本のメタファだと聴いたのが深層意識に残っていたのだと想います。

私は結局、真に謝らずに筋通さずに生きてきてしまいました。

率直に謝る前段階の"過ちがあった"と認めるだけの事にこんなにも長い時間が掛かってしまいました。ただ、軽薄な謝罪の言葉よりも、自分は不遜だったと本心で認める方が私にとっては本質的なことでした。

色々な場所で失態を重ね、鬼門が増えてきた私にとっては世界の広さは救いでもあります。そして、そのひ弱さは邪悪ですらある、と今は想います。

過去は変えられないし、もう交わることもなくそれぞれの人生が伸びて行く事もあると想います。自分の身体で生活を営むだけでもタフな行為だし、博愛と虚栄は峻別しなければなりません。

摩擦や衝突に無理に身を突っ込むこともないだろうと想います。寧ろ相手に迷惑になることもあるだろうと想います。

その上で、今の自分で手が届く範囲には、一人の個人としてキャパを知った上で援けが出来る時していければ。"意識高い系"は要は"口だけ"だと想うので"刹那と継続の行為"で成していくことを積み重ねていきたい。些細なことから。

そして、言葉を積み重ねる事。言葉は言葉でしかないけれど、言葉。

一つ一つは紙のような薄さ/軽さでも、刹那を積み重ねて継続することで、情報は厚みと言う身体を、そして投下された正の時間分の重みを持つのだと想います。

結局のところ己は己の悩みしか負えません。他者と本気で向き合いたければ究極的には当事者となるしかないし、そうでないと薄っぺらになる。何かに真剣に向き合おうとするならば、時をかけて"自分事"にする他ありません。

起点はいつでもある。実は自身が権益や関係を持っていたり当事者性があることに気づくことだってあると想います。

無論、内部の"お約束"を無視した黒船的提案がさくっと盲点をついてケミストリーやパラダイムシフトを起こすこともあります。

しかし化学反応を起こす原料を作るのは時の積み重ね、技の積み重ねではないかなぁと今は想うのです。未開拓な道を示すのは素晴らしいけれど、言葉は仮想で。アイディアだけの空論と言われないためには身体を伴った行為、或いは実験、せめてアルゴリズムまで示す必要があると想います。

そして行為を為したらその結果を虚心坦懐に受け止めていく。文を認めることで澱と火と仁を浄めて。平成が終わりかけていくときに、私自身も何かの変容が来ていると感じます。幸運か、不運か。スロウスピードながら。

cf.
本音2.0

by wavesll | 2017-03-11 12:08 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

MOGA THE ¥5 - コウモリ ―永遠に生きるかのように学び、明日死ぬかのように生きる焔を心躯に燈せ

MOGA THE ¥5 20曲メドレー(コウモリ 11:22~)
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Learn as if you will Live Forever, Live as if you will Die Tomorrow.
(永遠に生きるかのように学べ。明日死ぬかのように生きろ。) マハトマ・ガンディー


昨晩は高円寺ROOTSに前々から親交のあるBlue Staraightを観に行って。ブルーストレートの前にやってた大江戸三人衆げんこつのヘヴィな音も良かったし、この日でラストライヴだったアメリカに帰るイアンのドラムの太音に感動して。

タイトなライヴハウスで轟くロックはいい。この音一発で快い、アンプからの生々しい音が鳴らす速度は心臓と呼応する、そう感じて。

若い人の焦燥感は単純に細胞が溌溂としているからか、”生が短い"からかは分からないけれど、有り余る力を燃焼させたいと迸っているのは"死が近い感覚"があるからかもしれません。

生き永らえると、段々横断歩道も信号がチカチカしても走らずに"次まで待てばいいか"とゆったり余裕かましたり。そんな俺でもまた1から挑戦するような火の心をまだ持っているだろうか。

下手に他の分野で上手くなってしまうと恥をかくのを恐れ新しいことに挑むのは厭だと想ってしまうことも私はありました。

"何だって10000時間はやらないとモノにならない"なんて言葉がありますが、1日8時間使っても1250日、つまり4年はみっちりやらないと半端者なのは当然の事。

時代のせいにしたところで、或いは悲観脳のせいにしたって、何も変わらない。今の自分は鍛錬が全然足りてない。ただ着々と試行錯誤を積み重ねることで、マハトマ・ガンディーの言葉のように生きることでしか根本は変わらない。

ロック轟音に当てられて荒野を旅する二度寝の夢をみた朝、青天をみながら"火のような心はまだ俺にあるだろうか"と想っていました。

焦燥感、"何もない兵の心"を一番感じる音楽が自分の中では冒頭にあげたMOGA THE ¥5の『コウモリ』で。

この楽曲は『極東最前線』というコンピに入っていた曲で。向井秀徳がTOKYO FREEZEで初めて念仏的なラップを披露したり、サムライブルーで怒髪天が年を重ねた上での味が沁み込んだロックを素晴らしく鳴らしていたりするのですが、"火のような心"というと『コウモリ』を想起します。

歌詞を読んでも具体的なことは語られていないけれど、ただ衝動だけが刻まれていて。

MOGA THE ¥5は2011年に解散してしまいました。ただその衝動の最高速度は今でも何度でも再生される。

年を重ねて起こす火こそが真に凄い焔だと想いたい。
燃す生態系の事も慮りながら、心に火を絶やさないようにしたい。先ず一日に焔を。そして続けられる心と躰、関係性を。

Learn as if you will Live Forever,
 Live as if you will Die Tomorrow.


悟ったようなことを言いたくなる、心にドライヴがかかるサウンドで炎柱を浴びました。
by wavesll | 2017-02-11 22:44 | 私信 | Trackback | Comments(0)

cero MODERN STEPS TOUR at Tokyo Studio Coast

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新木場スタジオコーストでceroをみれる機会に与かってきました。これがとても面白いライヴ体験で!

(I found it)Back Beardで始まり、Yellow Magus、Summer Soulと一気に場を持っていくの刺激を受けながら、数日前にスタジオコーストでみた相対性理論が後期フィッシュマンズの発展形ならばceroは初期フィッシュマンズの発展形に感じて。フィッシュマンズの香りのするグループが自分は好きで、今Tokyoでハイレベルな楽団が音を鳴らしているんだなぁと想ったのでした。

とは言え、ちょっと不安だったのは去年"Obscure Ride" Release TourをZepp Tokyoでみていたことから、単純にその繰り返しや想定の範囲内だったら物凄く傲慢な話"面白味に欠けるな"と想ってしまうかもしれない、と。舌が肥えすぎてしまってる贅沢な話なのですが><

しかし彼らはその期待と不安をすべて昇華してくれる新モードを鳴らしてくれました。
トランペットとボンゴ・パーカスが効いている編成がラテン・モードで。これまでの3曲も”なんかNYっぽい感じがする”と想っていたのですがElephant Ghostにサルサを感じ、"これは新しいフロンティア拓くのをみれるのかもしれない"とわくわくさせられて!

かと想うと新曲「ロープウェイ」の"人生の次のコーナーが来る"という詩が沁みて、沁みて。ceroのメンバーと自分は同世代なので、尚更同時代を生きる人の言葉がすっと入って、心象風景が開ける気がしました。

さっきNYラテン/サルサと書きましたが、このライヴでのceroのモードはラテン以外にもエレクトロな音像にも試みていて。新曲「よきせぬ」や「Exotic Penguin Night」の突き進む感じ、一番想起したのは2015年bandcampで聴いたサイケデリック・サルサのLa Mecánica Popularでした。

電化サルサ。2015年のceroはD'angeloを始めとするブラックミュージックを日本のPOP/ROCKとして咀嚼するという形で一つの時代のテーゼを示して。"シティ・ポップ"という一段の中でも一つ図抜けた作品をドロップし、時代の空気を醸造して。その"J-POPにおけるブラックミュージック"という稲穂は星野源が刈り取った気がしましたが、まるでR&Bブームから颯爽と脱皮したUAのようにシーンに滞らずに"次"を貪欲に模索するceroの姿勢に勇気づけられました。鳥の声のサンプリングなんかはChassolとの対バンからの影響かな?

そして荒内君の新曲がモロに中南米なグルーヴが効いていて!こりゃたまらん!中南米音楽やるにしてもクワイエットミュージック的なものでなくゴリゴリのグルーヴものを嚙み砕くのは格好いい。心躍らせ驚嘆しました。ゴリっとしたまま出すのがFreshで好い!

そして「街の報せ」。どこかXmas Songのような靜な美しさをもった名曲。
さらにアンコールの「Comtemporary Tokyo Cruise」の祝祭!まるで既に新年がやってきたかのような多幸感に手をあげ、祭り拍子に跳ねました!

この美しさと歌心が一本通っているからこそ、ブラックミュージックやラテンで肉付けしてもぶれずに、軽やかに時代を越えていくのだなと。World Happiness 2014で惚れたバンドは現在地でもときめきをもたらしてくれました。TOKYO2020へ向けて"今の東京の音"ってこれだと想います。みれたことに感謝。

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by wavesll | 2016-12-03 08:27 | Sound Gem | Trackback | Comments(0)

"成熟"みたいなことをやれこれ考えてみるに

直木賞受賞前の藤沢周平を描く『ふつうが一番 作家・藤沢周平 父の一言』をみました。

奇をてらわない、背筋がしゃんとした家族たちのホームドラマが逆に鮮やかに感じました。俺も石井ふく子案件を楽しめる日が来るとはw<ふつうが一番>というテーゼはともすれば今は物議を醸すかもしれないけれども、<(その人にとっての)普通が一番いい、贅沢をしなくてもいい>という方向に理解しました。

<まだ日本が貧しかった時代。人の心は温かかった>みたいなステレオタイプな切り口だけれども、日比谷公園で会うだけのデート、喫茶店に行くのも稀という話に"あぁ、コンテンツを消費しなくともコミュニケーションに頭と心を使えば人生は楽しいのかもしれない"とは想いました。

金や娯楽のドーピングで人間性のだらしなさを誤魔化し人生を埋めていくのではなく、"人生の味付けは他者の創作物で濃くしなくていい、自らのまっすぐな人生を"というのがふく子イズムなのでしょうか。確かに"消費でライフスタイルレースを”みたいなのも違う気もするし、最近の若者の"ラヴ < コンテンツ"への箴言にも感じました。

只、ラヴ > コンテンツを唱えながら"我々の格式高い創作物は見る価値がある"というのは矛盾を孕む気も。

こないだのintoxicateでも想いましたが、スマホの電源が落ちると雑誌を手に取る気になります。読めば面白い。編集と校正が生み出す"紙の水準"はWebの柔文より強度があります。面白い、けれど人は易きに流れてしまうとも想います。

「狂った所が評価される」のではなく「本質的な良さが評価される」ことを念頭に研鑽を重ねることの重要さを私自身この6.7年噛み締めているのですが、もし石井ふく子プロデューサーがそれを若い人に伝えたかったとしたら、『ふつうが一番』はちょっと面白味に欠けすぎて中高年の内輪受けにも感じました。

その上で、Youthから不惑へ渡る三十路を歩む人間にとって”真っ当”や”節度”、或いは”モラル”、”品の良さ”みたいなテーゼの重要性は日々とみに増していっていると感じるのです。

"如何に狂うか競争"というか、"僕を見て!僕の中のモンスターがこんなにおっきくなったよ!”って意識が十余年前はあって。駄目ならば駄目なほど面白さが増して、はちゃめちゃさに遊んでいた頃がありました。ただ、それは野郎ウケはあったけれども、女の子にはモテなかったw "面白い人がいい"みたいなのは"破滅的な甘ったれ"ではなくて、"真っ当で小粋なユーモア"くらいなものが求められていたのだと想います。女子の知人が増えてくると、野郎とのコミュニケーションとは評価軸がまるで違うことを感じます。

さらに男同士でも年行ってくると突っ込まれづらくなるというか。下の世代からは"いやいや年甲斐もない、ちゃんとして下さいよ。ちょけるのは若い人の特権ですよ"という感があるし、昔は天然キャラだったのが"ちょっと逆に気を使うのでちゃんとしてほしい"みたいになる感じになってきたり。

同い年辺りにしても下手に弱みを晒すとそれを嗤ってマウンティングしてくる輩もどんどん出てくるし、昔からの持論で<他人をいじる人間はそれと同じくらい自分もいじられることを受け容れる度量がないといけない>と想うのですが、他人をいじり倒す癖に自分がいじられると不機嫌になる人間も。

上の人間がそれやったらハラスメントだし、まぁ大体の人はいじりもいじられもせず上品になるけれど阿呆な儘の人もいるなぁとは想ったり。こうしてみると、"狂った駄目な面白さ"みたいなのは狂った世界であるTVやお笑い芸人界の話、或いは幼稚な世界の話で、私自身はそういう稚気は好きなのですが、大人になれば実直にならなければいけない面は現実にありますね。個人的には破壊的な笑いは好きなんですけどね。

その癖、ならばと真面目一本で行くと"堅苦しくてノリが悪い"なんて言われそうでwバカやるならバカ一本、真面目ならば真面目一色でやりたい人間からすると"いい塩梅"みたいなのを求めてくる"普通の人"の鵺の様な恐ろしさは苦手で。みんななんであんなに器用に場面場面でペルソナを切り替えられるんだろうなぁ(苦笑

そんな多様な演技の使い分けが苦手な人間が、今模索の中で"こんな道もあるのか"と想ったのがJamie Lidellの『Building A Begining』というアルバムでした。

Jamie Lidell - Walk Right Back


その前のアルバムのエレクトリックな試みからは180°異なるウォームな風合い。奥さんと共に作ったという詩には家庭人としての歓び、愛に満ちた日々の声があふれていて、理想の旦那像というか、餓鬼から脱して成熟した男になるってこういうことかもしれないと芽が開いた気がしました。

私自身はまだその境地へ達していなくて、少しばかり面白味に欠けると想ってしまうきらいはありますが、エレクトロニクスを経過し上品に駆使し今魅せるソウルフルを歌ったJamieのブランケットのような包容力。ストレートを洗練させる、いい四十の目標となる姿を聴けたのは僥倖で。未来の探究となる大切な贈り物となりました。

昔は"カッコつけてる奴は信頼ならない"と思っていたし、”ぶってること”への気恥ずかしさがあったのですが、翻って私自身は間が抜けている人間ですからwカッコ良くあろうとするくらいで丁度いいことに気づきましたw

嘘だとか演技とかは嫌いなので、あくまで正直に。でも甘ったれた"自分への誠実さ"ではなく、"本音で目指したい姿"への歩みを続けられて行けたらいいなぁと。生きていく、サバイヴし、自分の中で"これでいい"という確信が想える水準まで努める、共に生きていく人を幸せにできたら最上に嬉しい。Jamie Lidellのソウルフルな温かみを胸に宿しながら現在地にそう想います。
by wavesll | 2016-11-26 08:44 | 小噺 | Trackback | Comments(0)