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三木清『人生論ノート』@100分de名著 第4週 「死」を見つめて生きる

c0002171_13211266.jpg三木清『人生論ノート』@100分de名著 第1週 真の幸福とは何か
三木清『人生論ノート』@100分de名著 第2週 自分を苦しめるもの
三木清『人生論ノート』@100分de名著 第3週 ”孤独”や"虚無"と向き合う

ETV、100分de名著で取り上げられた三木清『人生論ノート』視聴記も、今回がラスト。

執筆直前に妻を亡くした三木、戦争直前、死が近い時代に三木は希望についても説きました。最終回は死と希望について三木が伝えたかったことを読み解きます。

死について

近頃私は死というものをそんなに恐ろしく思わなくなった。年齢のせいであろう。以前はあんなに死の恐怖について考えまた書いた私ではあるが。

この数年の間に私は一度ならず近親の死に会った。そして私はどんなに苦しんでいる病人にも死の瞬間には平和が来ることを目撃した。


昭和14年、三木はこの時41才。2年前に妻を亡くし親類や友人を立て続けに見送った頃。この一節には死から目を背けず死の恐怖に惑わされずに生きたいという三木の想いが込められていた。

死について考えることが無意味であるなどと私はいおうとしているのではない。死は観念である。

誰もが生きている間には自分の死を経験することができない。死を経験したときには死んでいるから人はいない。だから我々が死について考える時は"観念"として考える他はない。

ただ実際には難しく、死は人生に入り込み、生の直下に死はある。

死の恐怖が薄らいだのはなぜか?→確率の問題。生きていて死んだ人に会える確率はゼロだが、死ねば会えるかもしれないと考えたから。"そうあって欲しい"という要請からこの考え方に三木は到達。

同時に後に残す者たちに三木はこう言っている。

執着するものがあるから死にきれないということは、執着するものがあるから死ねるということである。

「執着するものがあるから死ねる」というのは"人間はそんなに立派に死ななくてもいい、執着するものがあって死んでもいい"。潔く死ぬのが美しいという時代に、悔いを残して死んでもいいという勇気のメッセージ。

私に真に愛するものがあるならそのことが私の永生を約束する。
想いを残した人がいるということは死後自分が還っていくべき所を持っている。

折に触れて思い出してもらえればその時自分は永生を約束されている→この根拠は自分自身が妻を忘れていないという愛からではないか。

妻の死の一年後、その一周忌に追悼文集を編集し、「幼きものの為に」という自身の文章も載せた。

やさしい言葉をかけたこともほとんどなかったが今彼女に先立たれてみると私はやはり彼女を愛していたのだということをしみじみと感じるのである。

彼女の存命中に彼女に対して誇り得るような仕事のできなかったことは遺憾である。

私が何か立派な著述をすることを願って多くのものをそのために犠牲にして顧みなかった彼女のために私は今後、私に残された生涯において能う限りの仕事をしたいものだ。

そしてそれを土産にして、待たせたね、と云って彼女の後を追うことにしたいと思う。


『人生論ノート』が刊行された翌年、三木は徴用されフィリピンで従軍する。そこでの戦争体験は彼の哲学を大いに変貌させるはずだった。しかし帰国した三木に言論発表の場はなく、娘と疎開する。

そして昭和20年3月、逃亡犯だった友人を匿ったという嫌疑で逮捕される。敗戦後も釈放されることなく、9月、獄死する。

もし私が彼等と再会することができるーこれは私の最大の希望であるーとすればそれは私の死に於いてのほか不可能であろう。

共産党員だった友人を匿えば身の危険が伴うのは分かり切っていたが、人間として三木は友達が助けをもとたときに救わないはずはなかった。

敗戦後も釈放されず毛布に付いた疥癬にやられ独房で一人死んだ三木。「三木は死ななくてもよい命を落とした」。

三木は戦争に往った数少ない哲学者。その経験を生かした書作を残せたはずだった。

三木は人間の生命と歴史における過去を重ね合わせ、その意味についてこう述べている。

過去は何よりもまず死せるものとして絶対的なものである。この絶対的なものはただ絶対的な死であるか、それとも絶対的な生命であるか。

死せるものは今生きているもののように生長することもなければ老衰することもない。そこで屍者の生命が信ぜられるならば、それは絶対的な生命でなければならぬ。

この絶対的な生命は真理にほかならない。


死=過去(歴史)と同等に考える歴史観を三木は持っていた。"死"が絶対的であるがゆえに"過去"もまた絶対的である。

過去を自分の都合のいいように利用し解釈する危険性を指摘している。"歴史修正主義"を三木は厳しく指摘している。

歴史を改ざんしようとすることは歴史を尊重していないこと。人間の"死"を尊重することは"歴史"を尊重することでもある。

雑誌「文学界」における最後の連載は「希望について」だった。

希望について

人生においては何事も偶然である。しかしまた人生においては何事も必然である。このような人生を我々は運命と称している。

偶然の物が必然の必然の物が偶然の意味をもっている故に人生は運命なのである。希望は運命の如きものである。人生は運命であるように人生は希望である。

運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである。


戦時下にあっても三木は最後まで絶望することなく人生論を書いた。

三木は個人、個性が失われつつあった時代に自分とは何か人間とは何かを問い続けた哲学者。そして最後まで人間の可能性を信じていた人だった。

もし一切が保証されていたら希望すらありえない。希望こそが生命の形成力である。

絶望することは簡単で、絶望しない人生を選んだのが三木の生き方。

「私は未来への良き希望を失うことができなかった」

国家全体が戦争へ向かって言論弾圧しても考えることを止めない、"言ってもしょうがない"にならない。精神のオートマティズムに巻き込まれると抜け出すのは至難の業。

三木がこれを書いた時代と現代は通じる感覚がある。しかしそういう時代に生きているからといって絶望する必要もないし生きている意味はないわけではない。

三木清は終生理想主義者だった。理想だけが現実を変える力があると三木は書作を通じて語りかけている。
by wavesll | 2017-04-27 15:30 | 書評 | Comments(0)

『ジョンの魂』をYoutube Eraに聴く

John Lennon Plastic Ono Band (full album,1970)


鐘の音が響く、『Mother』が始まる。言わずと知れたジョン・レノンの名盤『ジョンの魂』。これに初めて触れたのは中高生の時期でした。まだロックというものが具体的になにかも分からず(今も"ロックって何か"って分かりませんが)、でも何かとても純粋な気持ちをこの音に感じたこの盤。

今聴くと、レノンのヴォーカルの魅力に驚かされます。声一つでこんなにも表現できる人がいるなんて。そして"メッセージ・ソング"であること。ロックが社会的な意味で娯楽だけにならない、気骨があって、宮台ではないですが今は『正義から享楽』になってきている気もする中、40年前ってこうだったんだなぁと。

ただそれ以上に感じたのはこの音源がYoutubeにあることのうってつけ感。このサウンド、言ってみるととても現代的というか、今のYoutubeの音に感じました。

それはベースが全然聴こえない、この音づくりがTake Away Showやアマチュアミュージシャンの弾き語りにも似た"低音が効いてない感触"をもたらしてるからかもしれません。

「21世紀は音楽の進化は止まってるよ、90年代の音を聴いてもまるで今と違和感ないじゃないか」という人もいますが、Mステとかでさんざんやってる90年代の音楽を聴くと、今の音楽と比べてベースの重低音がまるで効いてなくて。この20年でベース・ミュージック、リズムの進化・改良・創新は相当進んだと想います。

一方で、PCやスマホで音楽を弾き語り配信する人が本当に増えたのもこの10年。当然再生装置もPC・スマホであって。そこで鳴らされる音に、この『ジョンの魂』が呼応する気がしたのです。いわば最強のYoutuberというかYoutube Eraのフェティッシュを音像に感じました。

シンプルな構成だからこそ、歌の魅力が突き抜けていることも、そして楽器の音がまたジャストにいい音色。カットインやSEのエクスペリメンタルも。時を経ても色褪せないばかりか寧ろ現代性を持つような音。十代のあの頃も、今も、ジョンの魂に触れると純粋な精神に、陽光に触れた思いがし、改めて稀有な盤だなと想いました。
by wavesll | 2017-04-23 09:35 | Sound Gem | Comments(0)

3.11から6年 刹那と継続

波よせて(石垣島、米原)


【小沢健二】流動体について (TV-LIVE)


3.11の時。一番苛烈な心情だった頃。

その時私は死が近かった心持から"お前らも漸く死を近くに感じたか"とかの呪いの気持ちと、"生き延びたことを先ずは気付かねばなるまい"という動転からSNSで東京の人々に向けて惨いことを口走っていました。

間接的な暴挙ではありますが、そこに被災者の方々への思い遣りはなく、我欲のみでした。

3.11で"普通の有り難み"に気づいた方々は多かったことでしょう。一方で、今も自殺者は2万人/年を超え、毎年3.11以上の厄災が起きていることは"普通の人々"からは"最終的には自己責任だし、仕方ないこと"とされる。結局”自分事”でないことは"他人事"、そんな"普通の人々"への恨みだったと今は想います。

誰しも"自分自身の視線"がスタンダード、デフォルトであって。"人生の重み"なんてのは自分で計ればいいことで他人に押し付けるものでは、ないですね。

あの時の自分は今平静から振り返ると惨いものがありました。音楽で安楽を伝えようとしてSNSで『波よせて』を薦めたり。津波があったばかりなのに。

時を経て今は"普通の人が普通の人生を成り立たせるためにどれだけ努力と研鑽をしているか"が身に沁みます。

"普通の人の無関心の冷酷さ"も認識した6、7年前。今は自分自身の未熟さや甘ったれさを認識すると共に、ただ大声で叫ぶだけでは逆効果、ということも振り返れば理解できます。

アダム・スミスも”施しは度を超えない”と書いていました。端的に言えば愛と尊厳が足りているからこそ、他者へ慈しみを持てるし、度を越えた慈愛の施しは寧ろ虚栄心から来て、犠牲感の無理を産むものなのかもしれません。

情報は幾らでも増殖しインフレーションを起こしますが、結果として身体性を伴わない虚像を産む恐れがあるのかもしれない、そしてそれは『西瓜糖の日々』のインボイル達のようにカタストロフへ繋がっていくのかもしれない…。

音楽や言葉は認知に働きかけるけれども、その魔法の前提、ファンダメンタルに関わる"世を成り立たせる仕事"もまた貴い。魔法を上滑りさせずに実体化するには、刹那の継続、身体性が必要なのかもしれない、朱夏に入りそんなことを想うようになりました。

そうした時に、小沢健二の新譜『流動体について』が心に浮上して。

最初聴いたときは焼き直しというか、“毎日の環境学の先がこれ?”と想ったのですがリリースから数日経って、不意に口ずさんでしまうメロディと“もしも過ちに気がつくことがなかったのなら”とリブートを示す歌詞に、王子さまではなくなったかも知らないけれど生身の人間等身大の身体性を感じて。

藝能の現場でサヴァイヴしていくには激烈なI/Oをやり抜かねばなりません。
その一種狂気を孕んだShowをMust Go Onして行く螺旋から降りて。サンプリングや引用といった自分以上の拡大から距離を離れて、その上で今『流動体について』に"再到達"したことが心に沁みたのです。

閑話休題。最近みた夢で、私はブログの記事について電話で釈明していました。その記事は書く書く言ってまるで書かなかった記事で。

高倉健を題材に“過ちを犯した後で、贖罪するにはどうすれば良いか”を書く予定のもの。どこかで刑務所から戻って来て、その罪の意識を背負った上で生きざるを得ない幸せの黄色いハンカチの高倉健は、侵略戦争の罪を負った上で国際社会で生きていかざるを得ない戦後日本のメタファだと聴いたのが深層意識に残っていたのだと想います。

私は結局、真に謝らずに筋通さずに生きてきてしまいました。

率直に謝る前段階の"過ちがあった"と認めるだけの事にこんなにも長い時間が掛かってしまいました。ただ、軽薄な謝罪の言葉よりも、自分は不遜だったと本心で認める方が私にとっては本質的なことでした。

色々な場所で失態を重ね、鬼門が増えてきた私にとっては世界の広さは救いでもあります。そして、そのひ弱さは邪悪ですらある、と今は想います。

過去は変えられないし、もう交わることもなくそれぞれの人生が伸びて行く事もあると想います。自分の身体で生活を営むだけでもタフな行為だし、博愛と虚栄は峻別しなければなりません。

摩擦や衝突に無理に身を突っ込むこともないだろうと想います。寧ろ相手に迷惑になることもあるだろうと想います。

その上で、今の自分で手が届く範囲には、一人の個人としてキャパを知った上で援けが出来る時していければ。"意識高い系"は要は"口だけ"だと想うので"刹那と継続の行為"で成していくことを積み重ねていきたい。些細なことから。

そして、言葉を積み重ねる事。言葉は言葉でしかないけれど、言葉。

一つ一つは紙のような薄さ/軽さでも、刹那を積み重ねて継続することで、情報は厚みと言う身体を、そして投下された正の時間分の重みを持つのだと想います。

結局のところ己は己の悩みしか負えません。他者と本気で向き合いたければ究極的には当事者となるしかないし、そうでないと薄っぺらになる。何かに真剣に向き合おうとするならば、時をかけて"自分事"にする他ありません。

起点はいつでもある。実は自身が権益や関係を持っていたり当事者性があることに気づくことだってあると想います。

無論、内部の"お約束"を無視した黒船的提案がさくっと盲点をついてケミストリーやパラダイムシフトを起こすこともあります。

しかし化学反応を起こす原料を作るのは時の積み重ね、技の積み重ねではないかなぁと今は想うのです。未開拓な道を示すのは素晴らしいけれど、言葉は仮想で。アイディアだけの空論と言われないためには身体を伴った行為、或いは実験、せめてアルゴリズムまで示す必要があると想います。

そして行為を為したらその結果を虚心坦懐に受け止めていく。文を認めることで澱と火と仁を浄めて。平成が終わりかけていくときに、私自身も何かの変容が来ていると感じます。幸運か、不運か。スロウスピードながら。

cf.
本音2.0

by wavesll | 2017-03-11 12:08 | 小噺 | Comments(0)

MOGA THE ¥5 - コウモリ ―永遠に生きるかのように学び、明日死ぬかのように生きる焔を心躯に燈せ

MOGA THE ¥5 20曲メドレー(コウモリ 11:22~)
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Learn as if you will Live Forever, Live as if you will Die Tomorrow.
(永遠に生きるかのように学べ。明日死ぬかのように生きろ。) マハトマ・ガンディー


昨晩は高円寺ROOTSに前々から親交のあるBlue Staraightを観に行って。ブルーストレートの前にやってた大江戸三人衆げんこつのヘヴィな音も良かったし、この日でラストライヴだったアメリカに帰るイアンのドラムの太音に感動して。

タイトなライヴハウスで轟くロックはいい。この音一発で快い、アンプからの生々しい音が鳴らす速度は心臓と呼応する、そう感じて。

若い人の焦燥感は単純に細胞が溌溂としているからか、”生が短い"からかは分からないけれど、有り余る力を燃焼させたいと迸っているのは"死が近い感覚"があるからかもしれません。

生き永らえると、段々横断歩道も信号がチカチカしても走らずに"次まで待てばいいか"とゆったり余裕かましたり。そんな俺でもまた1から挑戦するような火の心をまだ持っているだろうか。

下手に他の分野で上手くなってしまうと恥をかくのを恐れ新しいことに挑むのは厭だと想ってしまうことも私はありました。

"何だって10000時間はやらないとモノにならない"なんて言葉がありますが、1日8時間使っても1250日、つまり4年はみっちりやらないと半端者なのは当然の事。

時代のせいにしたところで、或いは悲観脳のせいにしたって、何も変わらない。今の自分は鍛錬が全然足りてない。ただ着々と試行錯誤を積み重ねることで、マハトマ・ガンディーの言葉のように生きることでしか根本は変わらない。

ロック轟音に当てられて荒野を旅する二度寝の夢をみた朝、青天をみながら"火のような心はまだ俺にあるだろうか"と想っていました。

焦燥感、"何もない兵の心"を一番感じる音楽が自分の中では冒頭にあげたMOGA THE ¥5の『コウモリ』で。

この楽曲は『極東最前線』というコンピに入っていた曲で。向井秀徳がTOKYO FREEZEで初めて念仏的なラップを披露したり、サムライブルーで怒髪天が年を重ねた上での味が沁み込んだロックを素晴らしく鳴らしていたりするのですが、"火のような心"というと『コウモリ』を想起します。

歌詞を読んでも具体的なことは語られていないけれど、ただ衝動だけが刻まれていて。

MOGA THE ¥5は2011年に解散してしまいました。ただその衝動の最高速度は今でも何度でも再生される。

年を重ねて起こす火こそが真に凄い焔だと想いたい。
燃す生態系の事も慮りながら、心に火を絶やさないようにしたい。先ず一日に焔を。そして続けられる心と躰、関係性を。

Learn as if you will Live Forever,
 Live as if you will Die Tomorrow.


悟ったようなことを言いたくなる、心にドライヴがかかるサウンドで炎柱を浴びました。
by wavesll | 2017-02-11 22:44 | 私信 | Comments(0)

cero MODERN STEPS TOUR at Tokyo Studio Coast

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新木場スタジオコーストでceroをみれる機会に与かってきました。これがとても面白いライヴ体験で!

(I found it)Back Beardで始まり、Yellow Magus、Summer Soulと一気に場を持っていくの刺激を受けながら、数日前にスタジオコーストでみた相対性理論が後期フィッシュマンズの発展形ならばceroは初期フィッシュマンズの発展形に感じて。フィッシュマンズの香りのするグループが自分は好きで、今Tokyoでハイレベルな楽団が音を鳴らしているんだなぁと想ったのでした。

とは言え、ちょっと不安だったのは去年"Obscure Ride" Release TourをZepp Tokyoでみていたことから、単純にその繰り返しや想定の範囲内だったら物凄く傲慢な話"面白味に欠けるな"と想ってしまうかもしれない、と。舌が肥えすぎてしまってる贅沢な話なのですが><

しかし彼らはその期待と不安をすべて昇華してくれる新モードを鳴らしてくれました。
トランペットとボンゴ・パーカスが効いている編成がラテン・モードで。これまでの3曲も”なんかNYっぽい感じがする”と想っていたのですがElephant Ghostにサルサを感じ、"これは新しいフロンティア拓くのをみれるのかもしれない"とわくわくさせられて!

かと想うと新曲「ロープウェイ」の"人生の次のコーナーが来る"という詩が沁みて、沁みて。ceroのメンバーと自分は同世代なので、尚更同時代を生きる人の言葉がすっと入って、心象風景が開ける気がしました。

さっきNYラテン/サルサと書きましたが、このライヴでのceroのモードはラテン以外にもエレクトロな音像にも試みていて。新曲「よきせぬ」や「Exotic Penguin Night」の突き進む感じ、一番想起したのは2015年bandcampで聴いたサイケデリック・サルサのLa Mecánica Popularでした。

電化サルサ。2015年のceroはD'angeloを始めとするブラックミュージックを日本のPOP/ROCKとして咀嚼するという形で一つの時代のテーゼを示して。"シティ・ポップ"という一段の中でも一つ図抜けた作品をドロップし、時代の空気を醸造して。その"J-POPにおけるブラックミュージック"という稲穂は星野源が刈り取った気がしましたが、まるでR&Bブームから颯爽と脱皮したUAのようにシーンに滞らずに"次"を貪欲に模索するceroの姿勢に勇気づけられました。鳥の声のサンプリングなんかはChassolとの対バンからの影響かな?

そして荒内君の新曲がモロに中南米なグルーヴが効いていて!こりゃたまらん!中南米音楽やるにしてもクワイエットミュージック的なものでなくゴリゴリのグルーヴものを嚙み砕くのは格好いい。心躍らせ驚嘆しました。ゴリっとしたまま出すのがFreshで好い!

そして「街の報せ」。どこかXmas Songのような靜な美しさをもった名曲。
さらにアンコールの「Comtemporary Tokyo Cruise」の祝祭!まるで既に新年がやってきたかのような多幸感に手をあげ、祭り拍子に跳ねました!

この美しさと歌心が一本通っているからこそ、ブラックミュージックやラテンで肉付けしてもぶれずに、軽やかに時代を越えていくのだなと。World Happiness 2014で惚れたバンドは現在地でもときめきをもたらしてくれました。TOKYO2020へ向けて"今の東京の音"ってこれだと想います。みれたことに感謝。

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by wavesll | 2016-12-03 08:27 | Sound Gem | Comments(0)

"成熟"みたいなことをやれこれ考えてみるに

直木賞受賞前の藤沢周平を描く『ふつうが一番 作家・藤沢周平 父の一言』をみました。

奇をてらわない、背筋がしゃんとした家族たちのホームドラマが逆に鮮やかに感じました。俺も石井ふく子案件を楽しめる日が来るとはw<ふつうが一番>というテーゼはともすれば今は物議を醸すかもしれないけれども、<(その人にとっての)普通が一番いい、贅沢をしなくてもいい>という方向に理解しました。

<まだ日本が貧しかった時代。人の心は温かかった>みたいなステレオタイプな切り口だけれども、日比谷公園で会うだけのデート、喫茶店に行くのも稀という話に"あぁ、コンテンツを消費しなくともコミュニケーションに頭と心を使えば人生は楽しいのかもしれない"とは想いました。

金や娯楽のドーピングで人間性のだらしなさを誤魔化し人生を埋めていくのではなく、"人生の味付けは他者の創作物で濃くしなくていい、自らのまっすぐな人生を"というのがふく子イズムなのでしょうか。確かに"消費でライフスタイルレースを”みたいなのも違う気もするし、最近の若者の"ラヴ < コンテンツ"への箴言にも感じました。

只、ラヴ > コンテンツを唱えながら"我々の格式高い創作物は見る価値がある"というのは矛盾を孕む気も。

こないだのintoxicateでも想いましたが、スマホの電源が落ちると雑誌を手に取る気になります。読めば面白い。編集と校正が生み出す"紙の水準"はWebの柔文より強度があります。面白い、けれど人は易きに流れてしまうとも想います。

「狂った所が評価される」のではなく「本質的な良さが評価される」ことを念頭に研鑽を重ねることの重要さを私自身この6.7年噛み締めているのですが、もし石井ふく子プロデューサーがそれを若い人に伝えたかったとしたら、『ふつうが一番』はちょっと面白味に欠けすぎて中高年の内輪受けにも感じました。

その上で、Youthから不惑へ渡る三十路を歩む人間にとって”真っ当”や”節度”、或いは”モラル”、”品の良さ”みたいなテーゼの重要性は日々とみに増していっていると感じるのです。

"如何に狂うか競争"というか、"僕を見て!僕の中のモンスターがこんなにおっきくなったよ!”って意識が十余年前はあって。駄目ならば駄目なほど面白さが増して、はちゃめちゃさに遊んでいた頃がありました。ただ、それは野郎ウケはあったけれども、女の子にはモテなかったw "面白い人がいい"みたいなのは"破滅的な甘ったれ"ではなくて、"真っ当で小粋なユーモア"くらいなものが求められていたのだと想います。女子の知人が増えてくると、野郎とのコミュニケーションとは評価軸がまるで違うことを感じます。

さらに男同士でも年行ってくると突っ込まれづらくなるというか。下の世代からは"いやいや年甲斐もない、ちゃんとして下さいよ。ちょけるのは若い人の特権ですよ"という感があるし、昔は天然キャラだったのが"ちょっと逆に気を使うのでちゃんとしてほしい"みたいになる感じになってきたり。

同い年辺りにしても下手に弱みを晒すとそれを嗤ってマウンティングしてくる輩もどんどん出てくるし、昔からの持論で<他人をいじる人間はそれと同じくらい自分もいじられることを受け容れる度量がないといけない>と想うのですが、他人をいじり倒す癖に自分がいじられると不機嫌になる人間も。

上の人間がそれやったらハラスメントだし、まぁ大体の人はいじりもいじられもせず上品になるけれど阿呆な儘の人もいるなぁとは想ったり。こうしてみると、"狂った駄目な面白さ"みたいなのは狂った世界であるTVやお笑い芸人界の話、或いは幼稚な世界の話で、私自身はそういう稚気は好きなのですが、大人になれば実直にならなければいけない面は現実にありますね。個人的には破壊的な笑いは好きなんですけどね。

その癖、ならばと真面目一本で行くと"堅苦しくてノリが悪い"なんて言われそうでwバカやるならバカ一本、真面目ならば真面目一色でやりたい人間からすると"いい塩梅"みたいなのを求めてくる"普通の人"の鵺の様な恐ろしさは苦手で。みんななんであんなに器用に場面場面でペルソナを切り替えられるんだろうなぁ(苦笑

そんな多様な演技の使い分けが苦手な人間が、今模索の中で"こんな道もあるのか"と想ったのがJamie Lidellの『Building A Begining』というアルバムでした。

Jamie Lidell - Walk Right Back


その前のアルバムのエレクトリックな試みからは180°異なるウォームな風合い。奥さんと共に作ったという詩には家庭人としての歓び、愛に満ちた日々の声があふれていて、理想の旦那像というか、餓鬼から脱して成熟した男になるってこういうことかもしれないと芽が開いた気がしました。

私自身はまだその境地へ達していなくて、少しばかり面白味に欠けると想ってしまうきらいはありますが、エレクトロニクスを経過し上品に駆使し今魅せるソウルフルを歌ったJamieのブランケットのような包容力。ストレートを洗練させる、いい四十の目標となる姿を聴けたのは僥倖で。未来の探究となる大切な贈り物となりました。

昔は"カッコつけてる奴は信頼ならない"と思っていたし、”ぶってること”への気恥ずかしさがあったのですが、翻って私自身は間が抜けている人間ですからwカッコ良くあろうとするくらいで丁度いいことに気づきましたw

嘘だとか演技とかは嫌いなので、あくまで正直に。でも甘ったれた"自分への誠実さ"ではなく、"本音で目指したい姿"への歩みを続けられて行けたらいいなぁと。生きていく、サバイヴし、自分の中で"これでいい"という確信が想える水準まで努める、共に生きていく人を幸せにできたら最上に嬉しい。Jamie Lidellのソウルフルな温かみを胸に宿しながら現在地にそう想います。
by wavesll | 2016-11-26 08:44 | 小噺 | Comments(0)

ROVO live at 代官山UNIT 2016.11.12 and 13

Kmara - ROVO - Imago [1999]


Rovo - Sai (Full Album)


ROVOの2Days@UNIT、行ってきました。

初日はナカコーのバンドとの対バンで。ナカコーバンド、ひさ子345沼澤さんといてかなり好きなメンツだったのですが到着が遅かったのかフロアに入れず。一番後ろで呑みながら聴いてました。数年前にサマソニ深夜でみたときより今のバンドの曲がいい、勝井さんと一緒にやったりもしたのですが、ラストの曲のノイズに達するかと言う位の爆音、好きでした。

そしてROVO。
ここは転換の時にフロアに入込、真ん中で躰揺らしながらみました。
KHMARAからドラムバトル入れて3,4曲辺りが一番ぐっと来たというか、ヤッヴェエエえええええ!!!!!!という感じ。REOMからLIEGEなんてteam.Labo『追われるカラス、追うカラスも追われるカラス、そして衝突して咲いていく - Light in Space』をヴィジュアル無しで超えてくるっていうか、宇宙空間を翔る前後左右上下不覚な凄さで。銀河の最奥へ航行するドライヴ感覚ありました。

高校生の頃自分が巡り合った最高深度のアルバムは『live at liquidroom 2001.5.16』で。特に一曲目のKHMARAが大好きで大好きで。なので敢えてKHMARAと書いてます。

私はROVOのLIVEはフェスでは数回みてると思うのですが単独は初めてで。大学の頃日比谷野音WORLD BEAT 2006でみたときはKONONO No°1に食われてたという感覚があって。その後Tシャツつきの(そのTシャツの鹿のデザインマジカッコよかった)野音のDVD買ったのですが音圧が弱かったというか。でもリキッドのライヴ盤の良すぎ振りからして絶対にライヴハウスでみたら狂熱があるのではとずっと想っていたのでした。ただ、いつの間にか離れていて。今では時折『PYRAMID』を聴き返すくらいだったのですが今回ライヴチケットを贈ってもらえて。

そして聴くKHMARAのイントロ。生で見るのは初めて。"この音原田さんのハーモニカだったのか!?"と感動しました。ドラム・パーカスバトルも二人が仁王のような存在感。ギアが完全に入ったのはKHMARAからだったけれど、その前も熊野古道みたいな荘厳さがあって山本さんのギターが凄味にやられていました。

Encoreではナカコーも出てきてまずは共作曲R.o.Nを。幾何学的なギターフレーズが現代美術的なあって洒落てるなーと想ったら特別ゲストにU-zhaanが出てきてタブラぶちかまし一気に熱が帯び上がり!勝井さんのヴァイオリンが龍の様!

さらにラストはROVO+ナカコー+U-zhaanによるWhite Surf Style 5!!!!!!!これが格好良くて!このタイトさ!スーパーカーの曲を演ることでロック・バンド・サウンドとしてのROVOの強度がまざまざとわかりました。最高の一夜でした!

そして2日目!
昨晩で温まってたからか今夜は最初からガンガン入れました。今夜は益子さんのシンセの凄さが序盤から凄いというか。というか6人編成なのにこの音の密!音のソリッドさが最強!

そして音の瑞々しさ。大学の頃“ヤバいバンド”として訳もわからず圧倒されたのを想いだし、今聴くと“訳がわかるのに凄い”。今年、大学以来十年ぶりに『2001年宇宙の旅』『気狂いピエロ』を再観した時の感動に近いかも。名画は10代、20代、30代…と観たときにまた違った感動を味わえるのに相似な、経験を積んでわかる領域がありました。

高校の頃はロックバンドのライヴに行ってもモッシュやダイヴに気が行って酸欠状態で、その頃はSherbetsとかみてたのですが鑑賞なんて感じというより暴れるために行ってたような感覚で。その時中高の頃聴いていたBlankeyやTMGEから少し背伸びして聞いていたのがROVOでした。そこからクラブジャズ、レアグルーヴ、民族音楽、ジャズと聴くものを拡げ、ここ最近はR&B、ソウル、ヒップホップ、クラシックなんぞを開拓しようとしているのですが、ROVOのスペース・ロック / 人力トランスは"新しい種類の音楽を聴きたい"としてきたこの10年強の走りだったように想えます。

翻って今ROVOを聴いて、その音の快楽を浴びて、"あぁ、俺ってROVO世代なのかもしれない"と感じたのでした。"新しさ/新奇性"に依らない音楽そのものの魅力を浴びたというか、良いものは良い!読解力が増して、より凄味がわかる。本当に気持ちいいし、瑞々しい音に感じ入っていました。私にとって血肉となっているネオ・スタンダードはこの音かなと想いました。音楽聴きも三周目として、真っすぐに聴けるようになってきたと感じます。

そして今夜もスペースマウンテンみたいに上下左右前後不覚にトバサレテ。CISCO来航!これもうほんとにやっぱり音がいいハコでのROVO、最高すぎる!

そしてENは極星とSPICA. ここでROVOの本当の凄味というか、進化し続ける姿に昂揚!!!まさか上モノをたわんだリズムでくるとは!?音楽的進化潮流を血肉化して己のスタイルで料理する物凄く刺激的な瞬間でした。良いものがいいものであり続けるためには革新を起こし続けているのだなと。原田さんの煽りにがん騰がって最高の一夜、いや二夜連続で巨大な感動を得る最高のROVO20周年ライヴでした!

去り際に山精が「特にないです。好き勝手やってるだけです」。なんてカッコいいオッサン達なんだw!最上のエモーショナルと音楽的刺激を受けた週末になりました。


12日
Eclipse
XI
Palma
Khmara
Woof session
Reom
Liege

En.
R.o N
White Surf Style 5.


13日
Batis
Baal
Mattah
Loquix
MIR
Haoma
n'PoPo~Cisco

En.
極星
Spica

cf,
宇宙と芸術展 at 森美

by wavesll | 2016-11-14 04:31 | Sound Gem | Comments(0)

積み重ねの「ケ」に存在するスーパースター

東京事変 / スーパースター


イチロー選手の日米通算安打数記録更新のニュース、ニュース9で冒頭で流れたVTRで印象的だったのは、小さい事の積み重ねで誰も到達できない領域へ来たという言葉。

日々一つ一つに手を抜かないことが、どれだけ難しいか。
メディアなんかだと大一番とか、ドラマティックな瞬間の「ハレ」が取りざたされますが、メディアに取り上げられる人=市井か有名人かを問わず、何か人のため、自分のために働く人たちは「ケ」こそが宝玉なのだと想います。

この年になると父の偉大さが分かってくるというか。自分勝手でだらしないオヤジだなぁと想っていましたが思い返すと平日にしこたま飲んで終電以降に帰ってきても翌日しっかり6時起きして会社行き休まず働き続けたり、遠い記憶で家族でディズニーランドに行く時も、早朝にクルマを運転し一日遊んで私や弟の面倒を見て、そしてしっかりクルマを運転して家まで安全に帰る。何でもない、体力的な話ではありますが、タフだなぁと思います。息子二人を大学まで進学させ、住宅ローンを払って。考えてみれば今の私の年くらいに実家建ててますからね。

そして、「ケ」を記録する、報じるということにはWebは向いているのではないか、と想いました。
アートのウイルスが世界に感染するとき、イノヴェイションが起こる──宇川直宏(WIRED)というインタヴューで語られる、ヴィヴィアン・マイヤーをどうしても「メディアアーティスト」として映し出したかったという話、彼女は誰に見せるわけでなく、生前に自分の人生を写真とテープに記録し続けました。ライフログを先駆けていたのです。

時代に先駆ける、新しい地点に到達する、というのは頭でこねくりまわした"エクスペリメンタル"ではなく、自分の本性的な欲求に基づいた、本質的・普遍的な真実の欲望から生まれるのだと想います。未来の欲望は、自分の歴史的内面に潜在している。その欲望に気づいて、「ケ」をサボらず努力をいとわずにいれば、自分自身の生が、藝術になる、そう感じました。

この間親しい人と「大人になる」とか「少年性」とかについて話を聴いたのですが、そもそもそうした相対的な事象はなく、そうした幻想は年齢的なものに世間的な迎合をしているだけだと聴いて。

如何に"自分"に近づくかが問題だと。本質的な話だと想います。

自分は頭でっかちで、「少年性」がいい、はともかく、「ロック」がいいとか、或は自分に対する仲間内での期待に原理主義的に言動を合わせてしまって、その"自分の外にあるペルソナ"に惑われた生き方をしてきてしまった気がします。イチローは「"スーパースター"という言葉は嫌いだけど、"私のスーパースター"は気に入った」と椎名林檎に話していましたが、「世間的な"大人"」「世間的な"普通"」ではなく、「自分の心からの大人像」、「本心から目指す美意識における"普通"像」を目指し、如何に"自分"になるか、彼女の言葉はそういった意味かな、と想いました。

「ハレ」に突き抜けるために、「ケ」を充実させる。そこに"年齢に世間的に求められること"は関係ない。その感慨に私も辿り着けるよう、私も私の"自分"に歩んでいきたいなと想った宵でした。

青い瞬きの途中で(ラブリーサマーちゃんのブログ)

by wavesll | 2016-06-16 22:56 | 私信 | Comments(0)

『恋する惑星』感想 大人のスタンス、適当な賭けと覚悟決めた賭け

chungking express trailer (japan)


BSでやっていたウォン・カーウァイ監督の『恋する惑星』をみました。

うわー!90年代っぽい!というのが最初の感想。
金城武が主人公の第一部は渋谷系の映画のような、あの頃の色使いと音楽でした。

なんか、20年の月日というか、時の流れを感じてしまったのが正直なところ。オザケンが復活しているらしかったり、韓国で渋谷系が流行っているなんて話も聞きますが、このカッコつけ方に中二的なダサさを感じるというか、ここまで"クールさ"を求めるのは10代後半から20代前半の感性で、30代の俺はオッサンになってしまたのでは…><と想ったり。

更に第二部ではフェイ・ウォンが違法行為?を行うのですがこれにも「おいおい」と想ってしまったり。大学時代の後輩が昔に「社会人になると昔好きだった『RENT』をみたときに"賃料払わないのはないだろう"と想ってしまう」と言ってたのを思い出して、「俺も社会の規則を破る側から、自分勝手な連中にルールを破られる側の立場に心情が寄りつつあるのか」と想ったりしました。

90年代感というか、尖って、しかし自分勝手な魔法の時間を人は青春と呼ぶとしたら、そのノリに郷愁を感じつつも、時代も、自分も変わりつつあるのかもしれません。

しかし、早稲田松竹でウォン・カーウァイ2本立てをみた彼女と話していて昨日書いた曜変天目のETV特集に出てきた長江さんのように、大人になるほど自由度が増すというか、自分のかなえたい夢を実現させることができる。少なくともそういう生き方をできている人がいるとも気づかされました。

若年寄というか勝手に丸くなったつもりで自制する人より、大人だからこその愉しみを満喫している人の方が多いかも。と。先日のArcaのWombも平均年齢高かった印象。大人になるほど喜びを手に入れられることもあるのかもと想ったり。快楽や幸せのピークは肉体のピークとは異なるといえるかも。

そうした時、「大人になる」とは何かを考えると「自分の行動に覚悟が持てるか」ではないかと思いました。法を犯したら刑を受けるリスクを負う。ギャンブルをしたら金を失うリスクを負う。不貞を犯したら愛を失うリスクを負う。自由を謳歌する責任を、リスクを負う覚悟をもって行動しているかが、子供と大人を分けることではないでしょうか。

自分の行動がもたらすリスクを引き受ける。賭けをしたときに覚悟を決める。フェイの物語はそんな風に見えなかったのが乗れなかった理由かなーと。そういう意味で、私の心情が子どものピュアさ寄りのスタンスから、大人のスタンスを取るようになってきたんだなぁと感じた映画鑑賞でした。

Chungking express - Soundtrack

by wavesll | 2016-06-14 23:35 | 私信 | Comments(0)

フィクション故に真実が現れる 演技と本心-カズオ・イシグロ 文学白熱教室から

随分前に録っていたカズオ・イシグロ 文学白熱教室(こちらに書き起こしがあります)をみました。

「何故歴史や事実の報告、ノンフィクションではなく人は小説を読むのか」という命題に、カズオ・イシグロと聴衆が論議を深めていきます。

それは"真実"がどこにあるか、ということと密接に関係していくことが解っていきます。
現実に会う人は、真実だけを述べているわけではなく、他人に、そして自分にも嘘をつくことがある。個人だけでなく国家単位でも嘘(幻想)を流布することがある。

カズオ・イシグロは
わたしが非常に興味を持っているのは人が自分自身に嘘をつく才能だ
他人に嘘をつくつもりがなくても本当ではないことを言ってしまう
そのような信頼できない状況はフィクションを書くにあたって非常に有効で
フィクションにピタリとはまる方法だと思う
と述べています。

"現実"は必ずしも"事実"だけではない。"物語≒嘘"が"現実"への解釈としてもたらされることが、現実に起きています。

そんな時、小説が比喩表現として、"真実"を含み、"真実"を現すことがあると彼は言います。物語は人々を欺くことも、真実を突きつけることもあると。そこでその人、その人が属する文化圏の、嘘のない姿を顕すことが小説の意義だ。私はそう感じました。

無論、小説は"作り事"です。しかし作りごとだからこそ、真実が求められ、真実を現すことができるというのはそうだなぁと思いました。『わたしを離さないで』もSFですが、SFというジャンルは一つ原理をずらしたときに、人間がどう生きるかが重要になるジャンルだと。『攻殻機動隊』もそうですが、SFは"技術水準が変わると本当になるかも"という思考実験でもあるなぁ、等と感じました。

この間私はNumber Girl好きなあの娘は大人になってったよという感傷的な文章を書いたのですが、この文章は私にしては珍しくフィクションというか、演技がかった技巧で書いた文章でした。そのフィクションの部分というのは、ロックへの心酔の部分で、私にとって実際のところロックな幻想や魂が失われつつある、その青春への憧憬というか、過ぎ去った"あの頃"から自分が変わってしまいつつあることを認めたくなくて書いたところが大きかったのです。

肉体的・社会的・感覚的に自分の中で"ロック"が薄れている今、その本心でなく、"こうありたい、こうあったはずだというロックに心酔した自分"を書くために、その部分以外はほぼ本当のことを書き連ねました。嘘、というか物語を書くためにはそこ以外は本心のファクトを積み重ねるのがいいと思ったのです。自然に見せたかったから。

"自然に見せているか"というのも、物語を書くときも読むときも重要な因子だと感じます。というのも、私はたいていの物語の展開に"そうはならないだろ"とは感じないのです。物語を聖典のように捉えるというか"その状況になったらトンデモな展開もありうるかもしれない"と比較的無批判に漫画でもドラマでも捉えてしまうというか。逆に"そうは動かないだろ"なんて感想を聴くと、"自分と他人は違うのに、同じような感性を持っていると想うのか!あるいはその人をそういう人だと分析できるのか!!"と思います。そういった意味で私は世間知らず、ということかもしれません。

"そのキャラクターがその状況ならそう動くんだろう"という目でみる人間として逆に不思議に思うのが、ハリウッドにしろ日本のTVドラマにしろ、毎回似たようなキャスティングで同じ役者が幾つもの役をやる状態をよくみんな受け入れられるものだな、ということです。

"この人はこのキャラの肉体"としてみたいというか。幾つもの人間を同じ人が演じるのは冷めるなぁ、なんて思いませんか?その点マンガとかはそのキャラの肉体はそのキャラだけのものだから、いいなと。或いは舞台の時代なら、そこまで顔がじっくり近くで見れたわけではないし、メイクもそれぞれで全然違ったでしょうから気にならなかったからかもしれませんが、TVや映画だと"作り物"感が強すぎて。"演技してる"ことを技量として評価する人もいれば評価しない人もいると思いますが、自分としては主役がまだ売れてない新人とかの方が好みではあります。

"演技"というのが苦手なのは社会人失格だなとも思います。社会で経済活動を行う上では"その職業の役"をいかに上手く演じられるかが、社会人としての能力の指標ではないかなと思うから。

と、ここまで書いて、やっぱり自分はまだロックに心酔している人間なのかもしれない、少なくともロック的な"本心を歌う、自分に嘘をつかずに真実を歌う"ことに囚われていて、うまく演技ができないのかもしれない、と思います。それが上手くエンジンになればいいけれど、今は歯車が上手くいかず、堕落へ流れてしまって、もはやロック的な正義からも逃げているという。もっとタフになりたい、と心から思います。

そして今の自分やロックの夢に醒めてしまっている自分も、またいるのだなぁなんて思います。ただ、自分が達成したい水準で創りたいものを作ることは、何よりも美しいことだなとは想います。そういった意味で鴎庵はフィクションを書く時でも、ノンフィクションを書く時でも、自分の本心や真実を裏切らないことを書いていきたいなと。そんなことを考えた一両日でした。
by wavesll | 2016-06-02 18:02 | 私信 | Comments(0)