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承認欲求を求めてもいいし、みなに好かれなくてもいいし、全てに肯定的でなくていい

pokka pokka / Fishmans


NUMBER GIRL - I don't know (ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2002) LIVE


私は面と向かって相手の気分を害することを言うことが苦手で。その癖Webなんかだと駄々洩れさせたりとかして口ならぬキーボードから災いを招いたりしてしまって。空リプの誤配もあったり、結局陰口ですしね。

また、「分からないこと」が我慢ならなくて。人から何かを薦められたときなんかも、その時魅力が分からなくても”この人が薦めるものなのだから、きっといいものなのだろう”と期待値を込めて肯定的な返答をしたりしてしまいます。

その後魅力が分かった時に「最初は分かってなかったのだけれども魅力が分かった!」と興奮気味に伝えて、「何で最初分からなかったときにそう言わないのか」と言われたことがあって。

"そうか、期待値込みでポジティヴを装うのも、それが期待値で今は分かってないと伝えないと裏切りになるのか"と気づかされました。

そう想って振り返ると、世の人は"わからないこと"には寛容なのだなと。

相手の魅力が分からない内は最強というか、どんなに無礼な発言をしても罪悪感は感じないというか。”そもそも価値がないことを分かっているんだ”というスタンスかもしれません。

寧ろ”価値があるんだ”と力説することの方がみっともないことと想われている節があります。いわゆる「承認欲求叩き」なんかも相手が今ある評価に満足せずに承認をさらに求めることに対するいらだちというか。

ただ、そもそも承認欲求それ自体はマズローの欲求5段階説の中のタームで。ネガティヴな色はありません。

食欲・性欲・睡眠欲の生理的欲求、風雨や危険をしのげる安心な暮らしがしたい安全欲求、集団に属したり仲間を得て孤独から逃れる社会的欲求(帰属欲求)が満たされた人間が、次に求めるのが、他者から認められたい、尊敬されたいという尊厳欲求(承認欲求)です。

私も昔はコミュニケーション欲とでもいうか、分解すれば社会的欲求と承認欲求が欲しくて欲しくてクレクレ乞食な無様なこともやってしまって。Blogやmixiにコメントが付かないのに悩んだ時期もありました。

ただそれは狭い村社会に属していたから起きた問題で。Webの公海に出て、Twitterなんかで800人弱の人をフォローして、十数人の方々と良くやり取りをして、そこそこの頻度でいいねなんかが来て、たまに返信コメントが付いたりするとそれで結構満足する自分を発見します。

逆にこのTweetなんか830RTされて1500いいねとかされているんですが、正直言うと通知がひっきりなしに来る感覚で。数字だけだと自分の器では体感を越えているし、寧ろ体感するくらいのリアクションが来たら対応できないと。普通のTweetで3, 4いいねがつくくらいが一番いいというか。

ひとりの人間が親しくつながっていられる最大数は50人から150人程度だという説もありますが、現在のリアルとオンラインのコミュニケーション量で、社会欲求も承認欲求も飽和に近いなと。

そういった意味で、今は"他人にウケることを目的にしているではなく自分が読みたいことを書くためにWebをやってる"、なんてマズローでいえば自己実現欲めいたことを言えるのですが、これも4段階まで満たされたから言えることで。他者からの評価を得るために頑張るって至極真っ当な動機だと想います。

だいぶ話がそれました。元に戻すと、"わからない人間"を相手にするときは相当骨が折れるのが常だと覚悟するか、そもそものターゲットを絞るのが、生業にし数字を求めないなら有効な方策ということ。

”分かっている人相手”でも相当な人数が存在するし、可処分時間でコミュニケーションに割ける分なんかそれで埋まるのが、私は実際の処です。

また、"わからないコトはわからない/わかってはいない”と言うのが誠実だと。

昔の私は傲慢で、身近な人のいうことは何でも理解できて適切に面白さをこちらは判断できるのに周りはこちらの感性を理解しえないことが多いと驕っていました。

しかし、Webの大海に出て、自分自身が大切にしている分野でも先達はいくらでもいて、前は理解できなかったものでも時を経ると良さがわかることを知って。一方で自分自身の理解にも限界があることも知って。

面白く感じていないモノを、わざわざ声高に貶す必要はないけれど、おべんちゃらを無理に言うのも不誠実なのだと今は感じています。無知の知を知った上で、誠実に発言することの大事さを知りました。

こういうサイトを結構な頻度で更新したいと思うとついネタに妥協というか、本心でない褒めをやってしまいそうになります。

でも、金を得ているわけでもないインディーメディアなのだから、本当に書きたいものだけを書くことこそがレゾンデートルだよなと。昔の仲間には"どうせ分からないからぬるいことを言っておけばいい"と考えていましたが、自分で推すものは、誠の心をもって今は発言したいです。

それで読まれなかった時でも"これ読まないなんてもったいないことしてるなぁ"と想える水準を出すのが理想だと。

社会的欲求と承認欲求が満たされたから、自己実現を目指せる。案外私の欲求の器は無尽蔵でもありませんでした。

もしかしたらその先に、マズローが晩年、5段階の欲求階層の上に、さらにもう一つの段階があると唱えた「自己超越」という段階へ行ける時もあるのかもしれません。

”「目的の遂行・達成『だけ』を純粋に求める」という領域で、見返りも求めずエゴもなく、自我を忘れてただ目的のみに没頭し、何かの課題や使命、職業や大切な仕事に貢献している状態”。なんだか読み切りの『ZETMAN』みたいな話ですね。

スピッツ / チェリー

by wavesll | 2017-07-06 23:19 | 私信 | Trackback | Comments(0)

ショウペンハウエル『読書について』『思索』『著作と文体』ーWeb時代にも通ずるWriting/Readingリテラシー

Dummy Mix 311 // Sharp Veins ('Then Falls Apart' Mix)
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ショウペンハウエル『思索』『著作と文体』『読書について』を読みました。

<読書とは他人にものを考えてもらうことである。一日を多読に費やす勤勉な人間は次第に自分でものを考える力を失っていく>で有名な本書ですが全編に貫かれるのは悪文への怒り。「言葉はヴァーチャルなお遊び」なんて思考に鉄槌を食らわせる。Web時代の議論を先取りしているように感じました。

『思索』における"読書は他人の思考で自らの思考ではない"という"書籍哲学者"への批判は私も実感があって。2chTV実況を読み耽った時分<感想すら人任せって危なくね?>と思ったものでした。

私は自由時間はWebTV本メディア漬けな人間なのですが、だからこそ旅の夜、静寂の中で思索が湧出するのはメディアの濁流から脱してるからだと想います。

「他人の言うことを鵜呑みにせず吟味し得心行かなければ乗っかってはいけない」というRT拡散への戒めのような言葉。

<「世間から思想家であると思われること」を目的に、名声の中に幸福を求めるのは偽物で、自分自身のために思索するのが本物の思想家>という承認欲求モンスターへの指摘。

こんな感じでWeb時代にもあらわれる情報へのリテラシーが描かれてるのを読むと"人類って変わらないモノだなぁ"としみじみと。ショウペンハウエルは「不朽の名作だけ読め」といい、その不朽振りは数百年単位というのもさもありなん。

では「時代精神をあらわしたFRESHさ」をどう扱うか。新鮮さが風化した後に残るものも、フレッシュな質感のある作品も私は好きです。ただトレンドは追いかけるものではなく、その時代に生きることで自然と馨りづけられるものなのではないか、最近はそう思います。

ともすれば狭量、偏屈をこじらせているとも読めるショウペンハウエルの箴言は『著作と文体』でさらに華々しく筆がスパークしています。その指弾は「新刊本以外は読もうとしない民衆の愚かさ」にも。ハウエル師匠キビしいw

「作品を評するときに作品自体を語るのではなく作者の私的環境や作品の元となった実際の出来事を探ることの滑稽さ」。作品論と作家論の混同、私もついついやってしまうなこれは。「"文脈論"論争」もそうだけどメタ視点を語るのは心理主義、か。

ただ「作品における着想の元の出来事や人を知りたい」って欲望は"複製でない生の1次情報に当たりたい"って欲望ではないかなと思います。音楽にはライヴがあって、劇には舞台があって。美術には展覧会がある。では文学・詩は情報の世界だけのものなのか?

「書籍のモノ性・コト化」は現代的課題でもある気がしますが、ショウペンハウエル師匠はそもそも金銭のために書くことを批判しているのでこの発想も歯牙にもかからなそうw

Web時代においても燦然と輝くショウペンハウエル師匠の論説ですが、コピペ剽窃や素人雑記が夥しく生み出される現代に放り出されたら発狂しそう。「価値ある天才にこそ時間と金が遣われるべきだ、大衆は低級なものばかり読む」は正しいけれど、みなさん誇り高き阿呆だからその正論じゃ動かないでしょうね。

と想っていたら「匿名、偽名は卑劣漢」となw!匿名の批評家は「不肖この私めは」、「臆病狡猾なこの私は」、「卑しき素浪人の私は」と名乗るべきとなwやっぱりこの人の論はWeb時代にこそ輝きを放ち、そして当人が現代に生きていたら憤死すること間違いなしだw

また文章の価値を論ずるとき、書かれた対象が珍しい買ったり価値ある材料だから評価されるのか、それとも凡庸な材料を非凡な調理で逸品としてるのか、との指摘も大きく響きました。

私自身はモチーフが珍しい絵なんかも好きなのですが「筆力・調理力」と「取材力・選球眼」の違いは峻別されるべき、か。そう考えると「編集力」って両方の領域にも想えます。そして確かに素材をそのまま持ってくることは筆力としての評価とはまた違ったものだなと思いました。

さらに師匠は「修辞でデコレーションこねくり回すのは朦朧とし凡庸」と断じ、「考え抜かれた、主張すべきものを所有し、それを素直に書くのが美点」と説きます。

思索を重ね理論が醸造されていることはレトリックに頼らずともすらりと書け、内容がない時ほどレトリックで誤魔化しがちなのは確かですね。

明瞭なれど含蓄が深いというのは時がいかに醸され凝縮されているか、理論があるかで。玲瓏な言葉で飾り立てるのはインスタントな行為とショウペンハウエル。ここら辺はシンプルな機材でグリッチノイズを創るミュージシャンに似ている気がしました。

確かに理論があると脳が熱を帯びますが煩悩に囚われている私は表現にも淫したいなとも思いました。

そして『読書について』。
外山滋比古『思考の整理学』の「グライダー人間」の記述にも繋がるこの指摘。

確かに、受動的なインプットに依存しては血肉とはならないし、何かを生み出すというのはインスタントな行為ではなくリアルで一種平坦な生の環境から葡萄酒を醸造するようなところがあり、楽しい楽しいだけではつるりとしたものしか生めないとも思います。

さらにこの一編は世の中の書籍のほとんどは畸形児のような悪書で、良書を読むための条件は悪書を読まぬことだと記します。

これは「知るだけで素材として価値がある」のか「それを道具として使うことに価値がある」のかとも繋がる話だと感じました。と、同時に「文筆」が必要とされる"仕事"なのか?とも想いました。

やりたいことをやった結果善きコトを成す、では足りなくて、必要とされた時に必要とされることを為すのがプロだとしたら、現在の活字飽食の時代、個人の無作為の、金も承認すらも求めない文がビッグデータで解析されジャストに集配されればそれでいいのでは、と。

ただ現在のCGMは商業メディアを基にしたものが多いので、一旦供給を絶ったら飢餓感が生まれるのか、それとも古典を掘り下げる方向へゆくのか。とは言え、現状プレイヤーよりもプラットフォームの胴元でないと"金を産める仕事"ではないようにも想います。

その意味で、匿名記者を抱える出版社・編集部を痛烈に批判したショウペンハウエルのように、今の時代の"文責"はプラットフォームに向けられてしかるべきなのだな、と。

昨今のキュレーションメディア騒動もそうだと想うと、またしても"人類100年前も1000年前も基本、心や騒動は変わらない"し、その点でクラシックな名著を読めというショウペンハウエルの論は色褪せていないと改めて思います。

そしてショウペンハウエル、怒りすぎてて"師匠w"って言いたくなるけど、この熱さを読むと決してペシミストではないなと想うし、今の冷笑的なWeb世界を打破する気概はそこにあるのではとも想いました。
by wavesll | 2017-06-07 07:15 | 書評 | Trackback | Comments(0)

梅棹忠夫『知的生産の技術』読書ノート

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梅棹忠夫『知的生産の技術』を読みました。

昨晩の外山滋比古『思考の整理学』読書ノートから間髪入れずに読んだため、その共通点(というか『思考の整理学』の種本がこれではないかw)と相違点が良く分かりました。

以下、心残点と感想を。

はじめに

学校は情報を教え過ぎる癖に知識の獲得の仕方は教えない。技術論が大事。もっといえば情報の時代の今日(1969年)コンピューターのプログラムの書き方が個人的な基礎技能になる日が早く来るかもしれない。

インターネット時代を予見したマクルーハン『メディア論』、シンギュラリティの時代にどう生きるかを示唆した『思考の整理学』に続き、ここにも未来視が。時の試練を越えるものには未来の価値観が含まれているのかもしれません。

本書はハウツー本ではないと書かれていますが、結構実際的なHow toが書かれていました。

野帖

メレジュコーフスキィ『神々の復活』ではレオナルド・ダ・ヴィンチは手帳に何でも書き込むとあった。わたしも手帳に「発見」を書いた。「発見の手帳」をつけると「二重発見」をチェックできるし、発見達の相互連関をみつけることができる。

野帖(フィールド・ノート)としてカードを開発して情報を整理した。カードはコンピューターに似ている。どちらも「忘却の装置」である。資料の整理は規格化が肝心で、体系的な管理システム構築により「時間」の捻出というより生活の「秩序と静けさ」がつくれる。


ここら辺のカード式情報管理法は「思考の整理学」にも書いてあったし、詳細なファイリング法も描いてありましたが、今はEvernote等で代用できる気がします。実際、BlogやTwitterを情報管理のツールとして有用で。

そこら辺のアプリ論は『知的生産の技術』の各章を、現代の視点から(シゴタノ!)に詳しいです。

とはいえ、電気を必要としないシステムってかなり強靭だとも思いました。

読書技術

i. 本ははじめからおわりまで読む。これが「よんだ」。一部だけ読んだものは「みた」。

ii. 読んだ日付や基本情報などの「読書の履歴書」をつくる

iii. 一気に読む

iv. 傍線を引く

v. 読書ノートをつくる。その際に一旦一気に読んだ後、つん読して、もう一度短時間で読む「読書二遍」が有効。

vi. 「その本の著者にとって大事な所」と「自分にとって面白い所」の二重の文脈で読む

vii. 読書にとって大事なのは著者の思想を正確に理解する事もあるが、それによって自分の思想を開発し、育成すること。それが創造的読書。

vii. 本は何かを「いうために読む」のでなく「いわないために読む」。引用するのが多いことは、それだけ他人の言説に頼っていて、自分の想像に関わる部分が少ないこと


読書技術についてかかれた部分が本書で一番有用でした。特に読書ノートを作る際に、自分と著者の間で化学反応した「自分の文脈」を大事にするというのはキュレーションサイトが色褪せたイマに非常に有効な提案だなと想いました。

文章の書き方

i. ローマ字で日本語を書くと日本語の分かち書きが身に付き、日本語理解が深まった

ii. 手紙の形式の周知の必要性

iii. 日記は、時間が立つと「他人」になる「自分」との文通で、魂の記録だけでなく宮廷貴族の昔から自分の為の業務報告もある。

iv. 原稿の書き方は、きちんとしたルールを訓練しないといけない。

v. 行動家は文章嫌いなきらいはあるが、文章は才能より訓練。文芸的な文章よりもビジネス的な文章の方が必要とされる場合は大きく、わかりやすさが大切。国語教育の設計しなおしが必要。


文学と異なる実際的な文章メソッドの話は山田ズーニーさんの『伝わる・揺さぶる!文章を書く』 に詳しいです。

この『知的生産の技術』は『思考の整理術』だけでなく、『伝わる・揺さぶる!文章を書く』や斎藤孝『三色ボールペンで読む日本語』の父となった大樹に感じて。その樹形図の流れを視ることで、これから私たちの世代がいかに古典を現代へ転置していくかについても興味深く読むことができました。
by wavesll | 2017-05-30 21:39 | 書評 | Trackback | Comments(0)

外山滋比古『思考の整理学』読書ノート

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外山滋比古『思考の整理学』を読みました。心に残った處を列記していければなと。

1. グライダー人間と飛行機人間

本や教師に引っ張ってもらって飛ぶグライダー人間は自分で考えてテーマを創れない。不格好でも自力で飛翔する飛行機人間となれないと、コンピューターに仕事を奪われる。

伝統芸能では師匠が教えてくれない秘術を盗み取ろうともがく内に門人はいつのまにか自分で新しい知識を習得する力を持つ。惜しげなく教えるのが決して賢明ではない。


これは耳の痛い話で。私自身も職場で「君は自分で課題をみつけられない」と言われる人間で。大学の頃ESSで「考えさせるスタンス」の人材教育に反感を持ったりもして。借り物でないオリジナルな知見を拓いていく術を知りたくてこの本を手に取ったところもありました。

2. 朝飯前

朝起きた時が一番頭が働く。また朝は夜より楽天的になれる。朝飯を抜いてブランチにすれば"朝飯前"を長くとれるし、昼寝して起きれば夕食までにもう一度"朝飯前"をつくれる。

これわかるなー。頭がはっきり働くだけでなく音楽を聴くにも一日で一番よく音を愉しめるのは朝一番に聴いたときに感じます。それにしても朝飯前を長時間X2でつくるとは中々にハードコアだw

3. 見つめる鍋は煮えない

自分でテーマを掴むにはインプットしたものを寝かせて発酵させる必要がある。そして寝かせて時間をかける時に"今か今か"と意識しすぎてはいけない。寧ろ意識を他の問題に飛ばしたりして、無意識に持っていくのが吉。中国の欧陽脩は良い考えの生まれやすい状況を馬上、枕上、厠上といっている。

これも良く分かる。自分も読書が一番進むのは電車内だったり、旅の帰りの新幹線の夜間の車内で一番想念が湧く気がするし、アイディアに詰まったとき逍遥すると解が湧いてくることが結構あります。

4. 情報のメタ化=整理・抽象化が重要

一次情報を昇華させることで普遍的な真実へ。これは仕事でも非常に大切な事ですね。俯瞰の必要性というか。

5. 書き留めると忘れられる

ノートをとって、寝かせることで、時の中でふるいにかけられ整理される。また、人間もそうだが情報も周囲との関係性で活きたり腐ったりするから、ベストな場所で醗酵させるといい。

そもそも昔は博覧強記が優秀な知とされたが、PCが発達した今、創造的人間として活躍するためには頭の中を整理し自由な思考スペースをつくるのが重要。その為には書き留めることが忘却を活かしてくれる。


これもBlogやってると凄く肚に落ちることで。書くことで脳から外部ストレージに情報を移せるというか。その上でも忘れないことは時の試練に耐えたものだと分かるという話もその通りだなと想いました。

6. とにかく書いてみる

論文、報告書、レポート等を書く際に「もっと想を練らなくては」としていたらいつまでたっても書けない。寧ろ書くことで筋道が整備されることがある。書きだしたら一字一句を遂行するより一気呵成に一旦終わりまで書き上げるといい。

書くと纏まるのはその通りで。頭の中では大長編の大作でも、案外書き出してみるとサクッと短かったり。これは「不安を感じる時は書き出すと案外大したことない量だ」という話とも繋がる気がします。

7. タイトルは短く、テーマはワンセンテンスで

これはWebのSEOとは相反するかもしれないけれど、膨らむ余地のある題名は味があっていいですね。

8. アイディアは褒められて伸びる

アイディアの想念はすぐ潰えてしまうから、ネガティヴなことを指摘する相手には(たとえ知的能力が高い相手でも)アイディアを話さない方がいい。逆に自分から相手に水を差すこともせず、ピグマリオン効果を狙うのが吉。みえすいたお世辞でも価値がある。


相手は話題に出しても価値を理解できる場合は稀。批判的意見を出すのが相手の為と想う人間も多いし、そういった相手に意気を折られるなら関わらない方がいいし、逆に相手が求めてない情報を押し付けることは相手の為でなく自分の為という意識も持つといいと思います。

9. しゃべることでアイディアが発展する場合

知的会話がアイディアを発達させることがある。なるべく縁の薄いことをしている人が集まって談笑するとセレンディピティの触媒作用が起きる。声に出すとアイディアが発展する。近親交配だと弱体化するから、異なる分野の混血が新領域を切り拓く。逆にとっておきの思考はしゃべることで内圧を下げない方がいい。

旅先での旅人の間での会話がケミストリーを起こすのは此れ故か。異分野のフュージョンというとベビメタなんかもそうですよね。また喋ることでベントされてしまうのも実体験あります。

10. 本やメディアを通じた「第二次的現実」でなく生の「第一次的現実」の知恵を大切に

学生は本をベースにした知恵しかないが、社会で働く上ではメディアでなく実体験の第一次的現実から知恵を抽出させる術が大切となる。飛行機型人間は汗の匂いのする思考が大事。ことわざは第一次的現実の知恵ともいえる。

今夜、岩合さんのプロフェッショナル仕事の流儀をみて。最近、スローな番組や雑味のある気の抜けた写真に私は魅力を感じます。岩合さんの写真は鮮やかだけれど、自然みがあって。うま味を煮詰めた情報にだけ触れていると現実の淡々とした味を生き抜けない気がするのです。TVドキュメンタリーも味濃いのだろうけど。

時間をかけ、ともすれば平板な生の状態から凝縮しないと自らの手で「旨み」を創れない。一方で「旨み」を味わう側では誰かが既に煮詰めているものを食べた方が刺激的。メディアと第一次的現実双方を上手く連携することが必要で。読書やメディアで学ぶだけでなく、現実の実体験から抽象化により身体を持った知見を得る重要さはものの見事にハラオチしました。変な話だけど筋トレとかいいのかも。

それにしてもここら辺の話はマクルーハン『メディア論』にも通じる未来視だなぁ。

11. 3種類の知的活動

I. 既知のことを再認する(A)
II. 未知のことを理解する(B)
III. 全く新しい世界に挑戦する(C)

読書に於いてBの域に行くには解釈が必要で、Cの域へ行くには何度も体当たりする必要がある。A読みからBC読みへ行くには文芸作品を解釈しながら読むことが有意義。漢文の素読なんかもCにいい。


確かに既知を再認するだけのAの読書と違い、学術書なんか読むと脳がフル回転してぐったり疲れる感があります。逆に自己啓発本やビジネス本なんかは「そうそう、自分もそう」と想うのが好い、なんて話も聴いたことがあります。

12. コンピューター

最高のグライダーであるコンピューターの前では従来のヒトの仕事は奪われてしまう。
人間らしく生きていくことは人間にしかできないという点ですぐれて創造的、独創的。コンピューターが現れてこれからの人間の変化、"機械的"・"人間的"概念の再規定が求められる。


シンギュラリティが現実化している昨今、この先見はまさに今取り組むべきイシューだと頷きました。

前に「マンガはあまりにも演技がはっきりしすぎていてそれに浸かると現実のヒトの表情に鈍感になる」や「ロックンローラーの詩に触れていていると普段合う人の言葉が淡すぎるように感じる」等と書きましたが、"人為"でなく"自然"に目を向けることで寧ろ抽象的な旨みを生み出せる飛行機人間になると本書を読んで再認しました。

思考のフレームワークとして、時の淘汰を加速させるために忘却を促すというものは目から鱗で。こうして書いたからきっと次の本へすぐに進めると想いましたw

と、いうことで梅棹忠夫『知的生産の技術』を読みましたw!

梅棹先生のこの本は外山先生も参考になさったと想う位に似通う所がありました。

その上で『思考の整理学』のオリジナルな点も分かって。特に『「忘却」が「整理」である』という点を掘り下げたところが大きかったのだなぁと。

『身体的な思考』を取り上げたのも慧眼だったと思います。朝飯前が脳が働くことに加え、最後の辺りで出てくる「第二次的現実」が氾濫する現在に、寧ろ身体的・ことわざ的な知が思考に実体を与えるという話はインターネットとヴァーチャルリアリティーが日常化した今こそ読まれるべき指摘だなと想いました。

ちなみに余談ですが、漫画界の未来視・士郎正宗の『攻殻機動隊』を日本で実写化するとしたら『科捜研の女』のキャストでやって欲しいです。ってかハリウッドのビッグバジェットに勝つにはこれしかない。沢口靖子って素子っぽいし。

cf.
[書評] そろそろ、人工知能の真実を話そう(ジャン=ガブリエル・ガナシア)(極東ブログ)

by wavesll | 2017-05-30 00:02 | 書評 | Trackback | Comments(0)

M. マクルーハン『メディア論』 内容でなく表現形態こそがメディアをメディア足らしめている

Yukihiro Takahashi & METAFIVE / split spirit (Vimeo)
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マーシャル・マクルーハン『メディア論 人間の拡張の諸相』を読みました。

彼は"メディア"を通り一遍な見方ではなく、"人間の拡張としての環境媒体"と捉えます。彼のメディア観はこのWeb時代に於いて益々先見の明を感じるというか、
「われわれはその中枢神経組織自体を地球規模で拡張してしまっていて、わが地球にかんするかぎり、空間も時間もなくなってしまった」
という端書きをはじめとして、士郎正宗『攻殻機動隊』1巻を読んだ時のような未来視のヴィジョンを感じました。

とは言え、文中で出てくる言葉の定義が不明瞭な所も。のっけから「外爆発」、「内爆発」って何?となったし、マクルーハンの提唱した「HOTなメディア」「COOLなメディア」というのも、「TVがCOOLで映画がHOTなのの違いは高精細かどうかだけ?」とか今の視点で見るとちょっとはてなとなったり。しかしこの粗いながらもフロンティアを滑走する感覚はまさにクールな面白味がありました。

中でも面白かったのは"メディアはメッセージである"というアイデア。
これはメディアをメディア足らしめている力の源泉は、その"内容"でなく"表現形態"であるという話。

テレビの内容は映画であり、映画の内容は小説であり、小説の内容は書き言葉であり、書き言葉の内容は話し言葉である、メディアをメディア足らしめているのは内容ではないと。

その中で、例えば本は一人によって書かれた個人対個人の告白という形態ですが、新聞は記事群のモザイク状の集合体で"公の集団意識への参加"を発生させる形態である。そして新聞を新聞足らしめている源はその"コンテンツ"ではなく、"モザイク状の表現形式"と"配送やキオスクでの販売によって毎日みんなが読んでいるという環境 / システム"にある。と。

私がこの考えに非常に得心が言ったのは、"WebのCGMサーヴィス"なんかは正にそうだと想ったからです。TwitterをTwitter足らしめている、InstagramをInstagram足らしめている、FacebookをFacebook足らしめているのは"そこに書かれている内容"ではなく、"そのプラットフォームがどんな形態を持っているか"であり"どれだけの人が参加しているか"だと。これを1964年に上梓したマクルーハンの先見の明に舌を巻いてしまいました。

メディアを"人間の拡張"と唱え、ヒトは"拡張した己自身に自惚れる"と唱えたマクルーハン。彼のメディア論が面白いのは"どんな五感が使われているかによっての分類"にもあると思います。

彼は"そもそも西洋文明が発達したのは表音文字であるアルファベットがあったからだ"と説きます。そこに於いて音(聴覚)と文字(視覚)と"言葉の意味"が峻別され、そのディバイドから文明が形づくられていったと。

先ほどの"メディアは形態である"に通じる話ですが、私も昔「マンガは視覚と意味のメディア、音楽は聴覚と時間のメディア、アニメは視覚・聴覚・時間・意味のメディア」とか文学部の文化論の講義に潜ったとき思ったものでした。確かに西洋文明は"何かを分割すること、その分業"によって形づくられてきた印象があります。

マクルーハンは文字文化は分化を推し進めてきた一方、オートメーション・電気は統合を推進すると述べています。光の速さで地球が狭くなり、Global Villageが生まれる、と。そこでは五感が統合された、参加が促されるCoolなメディア環境があるだろうと。

まさに今インターネットによって"国際的な世間"が生まれつつあります。そしてそれに伴う軋轢も生じ、Brexitやトランプ大統領誕生、欧州での極右政党の躍進が起きている。そんなグローバル化へのバックラッシュの中で"マクルーハンならばどんな未来を視るだろう"とも想うし、単純にスマホやVRゴーグルについての彼の見解を聴いてみたいです。

マクルーハンは我々の技術が環境になることによって心身自体も影響を多大に受ける、そして芸術家のみがその中で平衡感覚を失わず「パンチを逸らす」術を提示する、と説きました。そんなVisionが今世界のどこかで生まれているのかもしれません。我々がゆく未来は、今萌芽している。その蠢きに五感を澄ませたい、そう想いました。

目次

ペーパーパック版への序文

第一部
はしがき
1 メディアはメッセージである
2 熱いメディアと冷たいメディア
3 加熱されたメディアの逆転
4 メカ好き  感覚麻痺を起こしたナルキッソス
5 雑種のエネルギー  危険な関係
6 転換子としてのメディア
7 挑戦と崩壊  創造性の報復

第二部
8 話されることば  悪の華?
9 書かれたことば  耳には目を
10 報道と紙のルート
11 数   群衆のプロフィール
12 衣服  皮膚の拡張
13 住宅  新しい外観と新しい展望
14 貨幣  貧乏人のクレジット・カード
15 時計  時のかおり
16 印刷  それをどう捉えるか
17 漫画 『マッド』――テレビへの気違いじみた控えの間
18 印刷されたことば  ナショナリズムの設計主
19 車輪、自転車、飛行機
20 写真   壁のない売春宿
21 新聞   ニュース漏洩による政治
22 自動車  機械の花嫁
23 広告   お隣りに負けずに大騒ぎ
24 ゲーム  人間の拡張
25 電信   社会のホルモン
26 タイプライター 鉄のきまぐれの時代へ
27 電話   咆哮する金管か、チリンとなる象徴か
28 蓄音機  国民の肺を縮ませた玩具
29 映画   リールの世界
30 ラジオ  部族の太鼓
31 テレビ  臆病な巨人
32 兵器   図像の戦い
33 オートメーション 生き方の学習

訳者あとがき
メディア研究者のための参考文献

cf.
マクルーハンと「メディア論」をソーシャル時代に改めて考えてみる (新聞紙学的)

by wavesll | 2017-05-19 19:47 | 書評 | Trackback | Comments(0)

『ジョンの魂』をYoutube Eraに聴く

John Lennon Plastic Ono Band (full album,1970)


鐘の音が響く、『Mother』が始まる。言わずと知れたジョン・レノンの名盤『ジョンの魂』。これに初めて触れたのは中高生の時期でした。まだロックというものが具体的になにかも分からず(今も"ロックって何か"って分かりませんが)、でも何かとても純粋な気持ちをこの音に感じたこの盤。

今聴くと、レノンのヴォーカルの魅力に驚かされます。声一つでこんなにも表現できる人がいるなんて。そして"メッセージ・ソング"であること。ロックが社会的な意味で娯楽だけにならない、気骨があって、宮台ではないですが今は『正義から享楽』になってきている気もする中、40年前ってこうだったんだなぁと。

ただそれ以上に感じたのはこの音源がYoutubeにあることのうってつけ感。このサウンド、言ってみるととても現代的というか、今のYoutubeの音に感じました。

それはベースが全然聴こえない、この音づくりがTake Away Showやアマチュアミュージシャンの弾き語りにも似た"低音が効いてない感触"をもたらしてるからかもしれません。

「21世紀は音楽の進化は止まってるよ、90年代の音を聴いてもまるで今と違和感ないじゃないか」という人もいますが、Mステとかでさんざんやってる90年代の音楽を聴くと、今の音楽と比べてベースの重低音がまるで効いてなくて。この20年でベース・ミュージック、リズムの進化・改良・創新は相当進んだと想います。

一方で、PCやスマホで音楽を弾き語り配信する人が本当に増えたのもこの10年。当然再生装置もPC・スマホであって。そこで鳴らされる音に、この『ジョンの魂』が呼応する気がしたのです。いわば最強のYoutuberというかYoutube Eraのフェティッシュを音像に感じました。

シンプルな構成だからこそ、歌の魅力が突き抜けていることも、そして楽器の音がまたジャストにいい音色。カットインやSEのエクスペリメンタルも。時を経ても色褪せないばかりか寧ろ現代性を持つような音。十代のあの頃も、今も、ジョンの魂に触れると純粋な精神に、陽光に触れた思いがし、改めて稀有な盤だなと想いました。
by wavesll | 2017-04-23 09:35 | Sound Gem | Trackback | Comments(0)

原田仁の轟声とナスノミツルのベースドローンソロ @Dommuneに於ける深宵の闇の豊饒さ

原田仁(Hearts&Minds -from ROVO-)@ 黄金町 試聴室その2 2014 11/7


「Rain maker」  Nasuno Mitsuru ナスノミツル


iwamakiさんのDJ Playで幕を開けた「HARD CORE AMBIENCE」。その夜の深々とした静寂に異界へ這入っていく感覚。

iwamakiさんの次は"この音聴いたことある"と想ったらshotahiramaさん。POST PUNKなノイズにレゲエを挿入したりしてまた変容が起きていて。

そしてこの日の最大の新領域は原田仁さんのソロ。
轟声とでもいうか、発声でノイズを撒く様は初めてエレファントカシマシ「ガストロンジャー」をみた時のような鮮やかなサプライズがありました。

そしてその次のナスノミツルさんの演奏はベース・ソロとは思えないような出音!ベース自体が新インターフェイスとして次元を開いていて。逆に"今キーボードでPCに打ち込んでいるけど文字入力をギターでやったり、逆にこのQWERT鍵盤で音楽を演奏しても面白いかも"なんて想いが湧きました。

その後の純粋なノイズ・サウンドで入眠してしまいwで、夜明け前にこんな文章を書いてます。

DOMMUNEの5時間SPの時は夜の深みを感じれて好きで。TVみてると23時でも19時位の気分だけれど、今夜の始まりのiwamakiさんのplay聴いてたら19時台にもかかわらず22時~24時台の心持ちだったというか。グリニッジ的な時刻でなく心的に本当の深夜を味わう、深宵の闇の豊饒さに潜っていく夜でした。

cf.
nausea 3 - shotahirama chris watson Highrise -

Noisy 3 - 花電車, Jerzy Skolimowski / The Shout, Ametsub & shotahirama play @渋谷タワレコ
by wavesll | 2017-04-19 04:43 | Sound Gem | Trackback | Comments(0)

人付き合いとWeb同期 文字コミュニケーションの時間的レンジの広さの価値

Yosi Horikawa - Letter


不在着信だけ残すのといきなり電話してくるのは相手の時間と行動を拘束する行為だからやめてくれ(はてな匿名ダイアリー)

これがTwitterでバズっていたのですが気安く電話を掛ける"電話野郎"だった身としては耳が痛い話で。
電話って相手の顔色が窺えないから逆にずけずけと相手の時間と行動を拘束してしまうなと。

一方でテキストのコミュニケーションは時間拘束から自由で便利というのはその通り。

私も旧友の人達がBlogでもやってくれてると近況を知れ、実際にトークライヴしなくても試聴みたいなことが出来て有り難いと想うのですが、今はそういうのはFacebookなのでしょう。FBよりBlogの方が内向き感がないしPUSHされないから好みなのですが、それは我儘というものか。

SNSがシェアハウスとすればBlogはワンルームに訪ねてくというか。生活は共にしてないけれど時に近況をやり取りする距離感。

リアルの友人関係は書くもので繋がったわけではないですから文章をTLで同期するより自分で読みたいときに訪れるのが一種の理想ではあるのですが、公開の場に色々と書くのは差しさわりが生じることがあるというのはわかります。

”直接会わずともSkypeで家飲みでいいじゃないか"とか思ってしまうWebに浸った人間なのですが、結婚とかしてたら"外で会う"ことの自由さも想像できます。

実際の処、Webを通じて1:Nの同期を行いたい、なんてのは普遍的な欲望ではないかもなとは想います。

仕事から帰って飯食ってニュースみて風呂入って、なんてしたら午前様になることもあるだろうし、パートナーや子供とやりとりして趣味をちょっとしたらそれを記録する時間なんてとても取れないし。私も色々書いてますが、毎日更新って無理な話で。まぁ毎日更新されたら追うの大変だからしなくていいのだけれど。

"今更昔みたいに友達付き合いに時間もかけられないし、年一の飲みと年賀状で効率的に交流を凝縮でいいじゃないか"って感じかなと。まぁ、友達付き合いに時間かけるのは暇人のすることと言われたらぐうの音も出ないw

年一飲みは盆暮れしか帰郷できない事情もわかるのですが、年賀状とかはちょっと形骸的に感じてしまって。義務的に年賀状だけでやりとりするよりも上で書いたみたいに心がふいに向いたときにやりとりできたら、なんて思ったりします。まぁ年賀状自体は古来から続くソーシャルネットワークサーヴィスなのだとも理解してます。

人間、何かの行為を共通に持たないとコミュニケーションが嚙み合わないのかもとこの頃想います。それは例えば行事だったり、趣味であったり、子育てかもしれないし、仕事への熱中度かもしれないし。そうした事を越えて旧友とコミュニケーションを取るには"空間"を共にする事が結構大事な意味を持つのかもとここまで書いて想いました。

ただ個人的にはSNSで繋がっていなくとも、ふと"あの人どうしてるかな"とWebサイトを訪ねて”あぁ、元気にやってるんだ”とか"こんなこと最近想ってるんだ"と知れるのは嬉しく感じて。何もPushされずにふとPullでみる、そんな親交。そういう場を読みたい、自分も用意したいとBlogを綴ってるのもあるかもしれません。

また今の時代、コミュニケーションにおいて即時性が兎角求められる気がしますが、それは文字のコミュニケーションの良さを殺してしまっているのかも。LINEやEメールの返信の速さはそんな期待せずに2、3日見た方が気分が安まる気がします。返信の気分は人それぞれですから。

さらに思うに、人に何かを薦めたり働きかけた時、即座に反応されることを私などはついつい期待してしまいますが、それも過大な期待だと。

私自身もある同級生の子から"水カンやぼくりり、グレーテルのかまどとか面白いよ"って言われてもその魅力に自分がリーチするまで時間がかかったりしました。特に音楽なんてのは"いかに自分がその地点に到達するか"が大事で。

だからこそ他者のアクションにタイムラグなく反応する人が時代を波乗る気もしますが、情報発信する側として、即反応がなくても無駄でなく、種子が芽吹くまでに時間がかかることもあることも知っているといい、そう思います。

上で「Facebookは書くものでは繋がってはいない人とTLで同期するから居心地が悪い」と書きましたが、他人と100%の同期や共感・評価を求めること自体が土台無理な話でもあります。

BlogやTwitterをやっていても全然反応が普段なくともこちらで何かミスがあるとクレームをつける"読み手"はざらにいて。昔はそういう読者にムカついたりもしたものですが、今は"私はこの人に文章をサービスとして提供出来ているんだなぁ"と考える様になりました。

"これは面白い"と私は"いいね"を積極的にするのですが、読んで反応するコトって案外ハードル高いコトと考えるヒトって多い印象。

その点Twitterは反応も結構あったり、何しろ相手も"書き手"なのでフリーライド感がないのはいいと想います。自分の身の回りの狭い範囲に"何か書いてくれること"を求め地獄を起こしたことがあるので。

ネットの広大さ、PUSHよりもPULLの文字コミュニケーションの精神的な自由さに感謝を述べたい。文字コミュニケーションの時間的レンジの広さの価値を今、再発見しているところです。


Erik Mongrain - AirTap!

by wavesll | 2017-04-12 02:32 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

新海誠監督のユビキタスな映画表現のアニマ性

映画『言の葉の庭』予告編映像


雲のむこう、約束の場所 予告編 (The Place Promised in Our Early Days)


この数日は日本アカデミー賞からフジテレビで放送された『アナと雪の女王』まで、映画な週末でした。

中でも金曜の深夜にテレ朝で放映された『言の葉の庭』と土曜の昼にAbemaTVで放送された『雲のむこう、約束の場所』は印象深くて。

新海誠監督のフィルモグラフィーの時系列では『雲のむこう~』の方が先の作品で。
初恋、宮沢賢治的詩情、軍事SF、そして光や雲の風景表現。新海作品のエッセンスがあって面白かったです。

そこから時を重ね、表現が洗練された『言の葉の庭』は『君の名は。』の前作。
冒頭の雨水のアニメーションから真に美しい映像美が素晴らしくて。そして憂いを秘めた物語がまた非常にマッチした作品でした。時間も50分くらいで纏まっていて、非常に好みでした。

フィルムの流れを見ると、最初はヲタ的な色が濃かったものから、文芸作品の詩情まで匂いを変え、そして『君の名は。』では憂いからポジティヴへとメタモルフォーゼし国民的大ヒットを創る。新海監督は地力と野心があるなぁと想います。

そして興味深いのは、飛行機でみた『君の名は』も面白かったし、AbemaTVをPCでみても素晴らしさが伝わる、新海作品は画面を選ばない点。

日本アカデミー賞で『シン・ゴジラ』の映像流れていましたが、TVでみても全然わくわくしない。映画館のサイズだからこそのあの血沸き肉踊る昂りと恐怖。『ゼロ・グラビティ』もそうですが、こういう映画は劇場でみてこそだととても想います。

一方で新海作品の魔法は主に映像の美しさからきている印象で、ストーリーは結構ベタというか、寧ろ現実的な理と色濃い感傷をヴィジュアルが魔術へ持っていくと感じるのですが、PCや飛行機の座席画面でみてもその魅力が損なわれない、ヴィジュアルの面白さが画面サイズを選ばないというのは凄い、物語と共に本当にアニマが発動していると感じます。

ヴィジュアルの凄さと音楽の素晴らしさというと『君の名は。』は『アナ雪』との関連で語られるところもあるかと想いますが、TV放映された『アナ雪』は"え?こんなものなのか?"という感じではありました。

確かに氷のCG表現の卓越さは魔法的な域へ達していて、『レリゴー』も改めていい歌だなぁとは想ったのですが、ターゲット層(女児)ではなかったというのと、やはりこの映画も劇場空間がなせる技が胆なのかもしれない、と。

勿論、そういう作品だからこそDVD待ちではなく映画館でみたくなると想いますし、実際最近は声出し上映や、MAD MAX 怒りのデス・ロード BLACK & CHROME at 川崎チネチッタ LIVE ZOUNDのような爆音上映など、劇場ならではのプロジェクトが実現されていて面白くなっています。私などはそういうのでないとあまり劇場では見ない人間だったり。

ただ、その上で新海作品の持つ"画面サイズを選ばない凄さ"は映画にさらなる革命を起こすのではないか、すぐに考え付くのはスマホメディアの国民的"映画"作品をこの人は創る最初の人なのではないか、なんて考えた週末でした。

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by wavesll | 2017-03-05 22:28 | 映画 | Trackback | Comments(0)

社交がわからない

坂本慎太郎 まともがわからない


パーティーが苦手な人種で。

ヒトのタイプを外向的か内向的かで分ける見方があると聴いたのですが、私は外向的に見えて、実は内向的な人間なのだと感じます。

忘年会やら結婚式の二次会やら、〇〇飲みでもそうなのですが、結局大した話もなしにすらーっと時間と金を遣うなと。1対1で話すのは好きなのですが、4,5人辺りから話が薄まる感覚があります。そういう"多数と会うこと"が好きな人との違いは内向的脳と外向的脳の差なのかと得心しました。

最近は更に内向的な傾向が進み地元の知己に飲みに誘われても断ってしまったり。"何を話せばいいんだろう?"というかなりアレな状況に足を突っ込んできてて。ほんと、"普通の人"って何を話しているのだろう??(一応断っておくと勿論世間話は出来ますよw美容師の人と話すのなんかも好きですし)

じゃあヒトと何を話しているかと言ったら此処で書いているような音楽や映画などの"趣味・文化・社会・旅"の話。Twitterで繋がる人もどこかしら趣味や感性が深い人たちが多くなってきて。逆に得意分野以外の"話の前提が通じなさそうな人"とどんどん疎遠になってしまっていて。

心地いい反面これは悪い点でもあり、鴎庵の記述も"分かってる人向け"なところはいなめず、前提知識の説明とかが欠けて不誠実なところがあります。

自分の意識では「私の意見」と「紹介している物事」は同じくらい重要なことなのですが、昔から直接の知り合いからは「お前の考えは興味あるけれどお前の好きなモノには興味がない」と言われたり「Webで読むより直接会った方が全然面白いですね」と言われたり(苦笑 一般性を獲ようと想ったら、もっとプレゼンテーションの腕を上げないといかんですね。

身近な人に音楽の趣味とかを押し付け、好反応がないことに逆切れしたりする醜態を晒したことが昔ありました。今となっては"やらかした"と想います。Face2Faceで会ってきた人って必ずしも嗜好で繋がるわけではないし、ニーズのないことを推しても無理がありました。

Webだと趣味の繋がりが満たされるし、今はプライヴェートもカルチャーで友達と繋がって、世界の広さに助けられています。

思いを巡らすと私をパーティーに誘ってくれた人の気持ちもわかって。パーティーやライヴ、劇とか、その人がライフワークとして一番力を注いでいることで一番いいもてなしだから誘ってくれているのだなと想うのです。

斯く言う私自身も旧友に久しぶりにLINEした際に「去年はこんな音楽聴いてて。そちらはどう?」とかURLを送り、ものの見事に既読スルーされるという(苦笑 "お前のそういう話には興味ねえよ、こちとら子育てで忙しいんだよ!"やも。でもそういうことがあると実体験で"誘ってくれる人"の気持ちもわかって学びになりました。

PRの重要性は重々承知しながらも、mixiで記事日記書いてた頃はイイネの1クリックすら滅多にされなかった事を考えると、人が動いてくれるって大変な事なのだなとしみじみ想います。もっと言えば外向的脳を持つ人からすると"深い話など心の中で自己処理しとけ"って感じなのかもしれませんね。

そういった意味でWebの大海にボトルメールを投げ込むように記事やら呟きやらを放って反応を虚心坦懐に受け取るのがいいなぁと。元日に書いた今年の抱負は今年は"親しき仲に礼儀あり"をやっていきたいだったのですが、人間関係の要って"いい距離感"で”他者であること”に社交の胆もありそうだなんて所まで睦月に思索が進みました。

cf.
本音2.0

風穴を開ける冒険 -電脳九龍城からの脱出
心と脳の白熱教室から感じた心のアクセルとブレーキ。悲観脳の出来かた。楽観脳のつくりかた。
by wavesll | 2017-01-27 05:01 | 私信 | Trackback | Comments(0)