人気ブログランキング | 話題のタグを見る

『続・氷点』罪と罰について

刑罰を考えるとき、罪という言葉と、聖書の一節が思い起こされます。

姦通の現場から引きずり出された女が衆人に石で打ち殺されようとしているとき、イエスが「あなたがたの中で、罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」といい。最後にはその場から石を投げつけようとしていた群集が消えたという挿話。

人はみな罪を持っていて、完全に善なるものなどいない。完全に善でない者が、なぜ他人を裁けるのか?
人はみな罪を持っていて、それを認めたとき、他人の罪を許すことができる。
という教訓が読み取れます。

昨日今日と『続・氷点』という小説を読んでいました。『氷点』のほうはもう随分前に読んでいて、暇だったので続編も読むかと思って図書館で借りて読んでみました。

なかなか劇的な筋書きで、いささか作り物っぽい感はあるものの、読ませる本でした。

陽子という登場人物を軸に物語は進むのですが、この陽子が『氷点』において、今まで一点の翳りもなく生きてきたという信念を破られるところが描かれ、自分自身に潜む罪に気づき、『続・氷点』ではその罪の元凶となった人を許すまでが描かれていました。

自分のみに一点の曇りもないという人はおそらくいないと思います。もしくは、良心の水準が低いのでしょう。

大きな罪は犯していなくても、日々の中で嘘をついたり、傷つけたことが一度もないというひとはいないと思います。

前に述べた教訓からいえば、そんな人間が、他人を裁くことはできないと思います。

しかし、現実として犯罪は起こります。イエスのように全てを許していては、この世の中はおかしくなってしまうでしょう。やはり法と刑罰は必要なのです。

しかし、その目的は、裁くことであってはならないと思いました。以前は刑罰は極端に言ってしまえば被害者の恨みを晴らすためのものかと思っていましたが、今は刑罰は「罪を犯した人間にその罪を気づかせるためのもの」だと思います。

十分に罪を認識し、思慮深く生きる人は、むざむざ自分から犯罪を犯すことはありません。しかし、良識のレベルの低い人は自分の行為の罪に気づかずに犯罪を犯してしまいます。そうした人が、自分の罪に気づくための訓練をするところが刑務所なのでしょう。そして、もしかすると死刑という訓練でなければ自分の罪に気づけない人もいるのかもしれません。

しかし、その訓練を罰と呼ぶとして、罰を他人に与える資格のある人間が果たしているのか?そしてその基準は適正なのかという問題があります。

例えば仏陀は虫を殺すことも禁じています。殺すという行為を人間に対するもの、動物に対するもの、虫に対するもので分けるというのは、仏陀の良心の水準から言うと許されないことだったのです。

だから、刑罰というのは、善のためでなくて、集団・社会が都合よく回るためだけに行われることであり、その集団にとって最大公約数の都合が個人に押し付けられるものであるといえます。

よって、個人が、社会のそれとは違った良心のレベル、罪と罰の観念をもつことは、ごく当たり前だと思います。もちろん、社会の法にあわないことをしてしまえば社会に罰せられますが、人間には自分自身の良心に沿って生きる権利がそれぞれにある。そして良心の水準が高い人ほど、他人を許すことができると、この2冊の本を読んで思いました。
by wavesll | 2005-04-04 15:45 | 小噺 | Comments(0)
<< 最近考えていたこと 今日は大学で入学式のある日 >>