『日本教の社会学』読書ノート2 言論の自由は日本にはない?

この間のエントリからだいぶ時間が空いてしまいましたが、引き続き『日本教の社会学』の気になったところのまとめと私の反応をメモしておきたいと思います。

言論の自由

日本には一種の言霊信仰があり、言葉に呪術的要素がある事をみんなどこかで認めている。戦争中に敗戦主義者という言葉があった。日本が敗けるんじゃないかというと、「そういう事をいう奴がいるから敗けるんだ、縁起でもない」と。これが抜けない限り、まず言論の自由はない。
憲法改正についてもそうだ。いってはいけない、議論してはならないということが、いっぱいできて来ざるを得ない。これは戦前、戦後変わらない。
30年後の2010年代までも、原発の安全神話のように言論の自由は日本にはなかったように思えます。そして事実を事実として検証する姿勢がなく、ふわついた言論支配が続くことがこの国にとって不幸なことがわかっていながら、この言霊信仰は今後も続きそう。第二の敗戦とでもいうべき、原発事故を経て言霊信仰自体に公に堂々とNOといえればいいのですがベースとして言霊信仰の文化に日本人はいますよね。

そういうことをすべきだということと、そういうことが現にあるということが混同される。現にそうであっても、そうであると言ってはいけない。公害問題にしろ、平和問題にしろ、差別問題にしろ、言論の自由はないのはこの言霊信仰のせい。アメリカでは戦争中にアメリカ退廃の事実を驚くほど暴いているが、かといってアメリカに対する忠誠がないということは無い。

実際にそういう事があったという事とそれがアメリカの理想であるという事は全く別だから、アメリカは自国の民主主義の恥部をどんなことでもあばき得る。これはアメリカは自信があるだとか寛容だとかじゃ説明にならない。言葉が魔術の園から解放されているからだ。

さらに、日本では論争してはいけない。相手の人格を無視したときのみやっていい。それ以外は日本では一切やってはいけない。これも言霊信仰から出てくるものだと思うが、言葉とそれをいった人の人格が分離していない。

イスラエルなんかでは大学院生ぐらいのが学会で長老学者を堂々と批判する。だがやられたからといって長老学者が学者としての地位を失うわけでも、学生が学会から村八分になることもなく、社会的に不味い状態になることもない。
日本でそれをやれば学生にとってみれば一種の反乱であり教授にしてみれば人徳がないと。結局喧嘩両成敗。

これでは議論はできない。議論の場では少なくとも両者対等でなくちゃできない。同時にそれによって誰も人格的に傷つくわけではないという原則が確立されていなくちゃできない。
アングロサクソンなんかでは相手の人格に対する言葉と単なる情報に対する言葉と厳重に分けられている。同じようなことを言っても「お前は嘘つきだ」といっては決闘になる。「お前の言ったことは事実と違う」といえばなんでもない。

議論で負けると人間として否定された気になる気が私もしてしまうので、私も日本教徒だなぁと思います。また上の長老と学生の話は儒教的価値観の有無も大きく関わっているのでしょう。自戒を込めて私も年下の私よりも優れている人は素直に尊敬したいと思うし、議論と人格は切り離して考えなければならないと思います。

また日本のインターネット空間での匿名文化というのは、そういった社会的なくびきを外して、自由な言論を展開できるという機能があったからこれだけ発達したのではないでしょうか。昨今はSNSなどで実名文化に大分侵食されつつあり、日本のインターネットも日本社会化されつつありますが、匿名だからできるバイアスの無い論議の自由さと実名の信頼性の、融合ではなく連携が上手くいくシステムができれば好いなぁ。実際twitterやblog、そして2chができて風通しがよくなった部分はあると思います。


しかし日本の場合言葉と人格の分離がないから言葉と言葉が持つところの社会的機能が分化されていない。
また言論の自由が成立するためには、言論は科学的でなければならない。科学的であるというのは、「自分のオピニオンは一つの仮説にすぎないことを明確に意識する事」この意識があって初めて議論の積み上げ(弁証法)が可能で、立場が違った人々の間の協同が有益になりうる。

仮説を立てて、それを証明しようとする以外に科学は考えられず、その仮説を巡って論争する必要があるし討論の過程で負けることも勝つこともある。誰も怒る必要がない。本当の科学者であればいかなる場合でも自分の意見が仮説であることを絶対否定しない。個人の意見においてはそれが単なる仮説以上のものだと思い込んでいるとしたら、それは随分思い上がった態度。

ここら辺の話は非常によくわかります、そのスピード感では現実の権力闘争では敗けてしまうのでは?またそのような穏やかな社会に生きたいものですが、現実は違いますよね。メディアや教育において『分かりやすい・答えの決まった』ことを教えるだけでなく、『答えの出ない問題に対して、とりあえずの仮説を出してそれをアップデートしながら試行錯誤していく』こと、『考えさせるスタンス』でディスカッションや利害調整の場を教育で持てればよいのでしょうが、そのような場はおそらく社会人になってからしかなかなか体験できないのでは。

ジョーク・ユーモアについて
アングロサクソンの国では、文化・信仰・人種を異にする人が沢山いるから、立場を突き詰めればお互いに悪魔で、人間関係がなりたたない。だから「お前もこういう事を言う。俺もこういうことも言う。しかしどうせ両方とも仮説に過ぎないんじゃないか、そう真剣にならないようにいたしましょう」という宣言としてアングロサクソン的なジョークは機能している。一方日本では冗談を言ったら侮辱になり、「冗談いうな」って怒る日本ではユーモアやジョークが論争において入り込む余地がないのは言論の自由がないことの一つの重大な兆候だ。

ここについても少し状況は変わりつつありますね。インターネット言論はだいぶジョークが入り込んでいるし、国際的な企業で働いている人なんかは大分ユーモアをうまく機能させて働いています。ただ中国・韓国へのヘイトと言った文脈ではジョークの入り込む余地がないガチガチな状態。毒舌を駆使するには繊細な配慮がいるので(私自身昔毒舌言おうとしたら誹謗中傷だとさんざんっぱらに失敗したので【苦笑】)難しいとは思いますが、人種間論争を笑いに変えるくらいのジョーク番組をやってほしいw

話は飛びますが最近TVも外国人パネリストが多数登場する傾向があって、ネットでも日本への海外の反応翻訳サイトなんかも隆盛で面白いんだけれども、あぁいうコンテンツと言語学習を組み合わせるコンテンツって上手く作れないかなぁ。日本文と英文を対応させて字幕として出したり、難しい単語には辞典へリンクを張ればただ単なる"褒められ娯楽サイト"ではなくて言語学習にも役立ちそうなのですが…。そういうコンテンツも鴎庵でやってみるってのはありかもしれませんね。


差別に対する言論・社会の反応

「どれが差別用語か」というのも「誰かの仮説」。しかし現状(81年)「差別用語」という単語自体が絶対化している。

「いかなる場合のいかなる差別にも絶対反対するんだ」と言ったら差別撤廃なんてできっこない。アメリカでは差別撤廃の具体的な例として就職における差別、就学における差別、住居における差別の撤廃とか、内容を限定する。そうしなかったら差別撤廃という事は意味がない。

ところが日本ではいかなる差別にも反対というものだから、表面において差別という言葉を使ってはならないと同時に、差別が地下に潜行してしまって、依然として残存するというようなジレンマが必ず起きる。

米国の有色人種地位向上協会には事務所一杯に裁判記録がある。具体的な例を挙げてどんどん告訴する。今はもう裁判することがなくなってしまったんで、次の自分たちの目標にどう立ち向かうべきかが問題になっているところ。日本にそれだけの差別をする法廷闘争があったかと言えば実はない。

法的には明治時代に四民平等で全部撤廃されているが、差別は実在している。

前段にアメリカは理想と現実が異なっていたときにそれを指摘するのは社会にとって有益だと、言霊からの自由という意味で認められていると書いているが、理想を現実に近づけるための道具として裁判というものが機能しているんだなと思った。と、同時に裁判という仕組みすら資本主義の中にあるから、貧民にとっては意味がない者なのではないかと、日本のブラック企業問題なんか見ると思う。経済的弱者が連帯してガンガン裁判起こして行ったら日本の労働環境なんかも良くなるのだろうけれど、弁護士事務所にとっても美味しくない現状では難しいだろう。労基訴訟で簡単に何億もぶんどれるようになれば弁護士やら経営層やらの反応も変わってくるのだろうが。

日本の言論空間が自由でないのは言霊の問題と、この間のエントリの終わりの方で触れた「日本人の穢れの感覚」にも関わるのだろう。それがメディアに自主規制というゆがみをもたらす。

例えば在日の通名報道、あれなんか反感買っているけれど、個人が個人として認識される社会ならば、在日が犯罪侵したからと言って他の在日を恨む反応は起きないだろうし、逆にそこに連関を見出すならば、具体的な数字と、その背後にある社会的構造への仮説と共に言論を展開しないといけない。

この本で後に触れられる「空気」が創る雰囲気で決まる社会、それは言論として文字に残らないで自主規制なんかをしてしまう社会が日本社会。これが後に検証もできないブラックボックスとして世の中に不穏な靄を造ってしまっています。

日本ではアカデミズムの優秀な研究者はメディアに出ない傾向が強いと政治学で院卒の友人から聞いたことがあります。と同時に専門的な知識の乏しい「コメンテーター/タレント」がニュース番組で幅を利かせる現状。現在はブログをやっている研究者も多いので、まとめサイトとしてある社会問題についての様々な学者の意見を引用しながら並列論記する記事を書くのは有益かもしれませんが、やはりある程度専門的な知識がないと有益な纏めもできないでしょう。また原発問題の時に問題となった『御用学者』などの問題もありますね。

本当は人々が一番見やすい形、ある程度人が集まるメディアで専門家がしゃべるコンテンツを運営することが大切で、それに研究者が認める研究者が出演する、あるいはメディアコミュニケーターが出演することが理想。そういった意味ではラジオのポッドキャスティングなんかはなかなか良いのでは。tbsラジオの荻上チキの奴とか、トライしている番組もラジオにあるので応援していきたいと思うし、もっと『後に残るコンテンツ』を作るために研究者がメディアに出る構造をつくためにはどう動いていったらいいのでしょうね。


日本には市民社会(Civil society)が成立していない
市民社会とは一般的規範が支配する社会。しかし日本では共同体が現存しているので、共同体内の規範と共同体の外の「規範」というのが峻別されている。

共同体の中にいる人間だけが人間であり、ゆえに規範はそれらの人々に対してだけ適用される。共同体の外の人間というのは獣と同じ。

だから一般的規範が及ばない。規範が機能するのは共同体内部だけ。企業内の人間関係や企業が儲けることは非常に重要だけれども、巡り巡って企業外の民が死のうがくたばろうが知ったことか。自分の会社の人間が人間。

市民社会では一般規範が優先するので自分の企業が悪いことをしていれば内部告発するのがその人の義務で、内部告発しなかったら逆に共謀したとして社会から指弾される。
その一方で日本では内部告発っていうのは共同体規範に対する反逆なので、共同体は内部告発者を絶対許さないし社会でも本心では許していない。

問題になった企業が国会で宣誓しても、誰も本当のことを言わない。もし言えばなんであんなに本当のことをいっちゃったんだろうと内部ではあきれてしまう。一般的規範がない。一方アメリカなんかでは誰かとこのことは絶対にいわないって約束する場合、「宣誓の場合と武力でもって威嚇された場合を除いて、このことは誰にもいいません」という意味。

日本では市民社会が成立せず、一般規範がないので、共同体内部の規範が優先されるので、共同体向けの言論と共同対外向けの言論とが当然違ってくる。例えば業界紙なんかでは大胆に本音を話すけれども、外部一般では絶対に言わない。

だから共同体内では案外言論の自由はある。ある一定範囲で。政界でも5億円もらったって内部では問題にしないが、外部に対して言っちゃいけない。だから言論の自由ってのは成り立たない。そういう私的なひそひそ話以外は。

此処の話はまだ今でも全然通用する話。原子力村とか、最後の政治家の話は猪瀬やら渡辺やらで非常にタイムリーw本音と建て前が乖離している社会、かくあらんかな。社会の中で何が正しいか決まっていれば、こうはならないのかなぁ。「こうしないと回らないんだから」を受け入れるのが前回の「作為の契機の無さ」なのだなぁ。

余談ですが、若い世代がブラック企業から逃れるために全国で一斉にバイトストするなんかができたら変わるかもしれません。アラブの春も、今の台湾も、結果として上手くいかないかもしれないが、すくなくとも市民の自由を守るという意味では今の日本よりはるかに素晴らしい状況だなぁと思うし、そんな気力が日本にないのは高齢化の影響もあるのでしょう。

理想と現実の二重構造は何も日本に限った話ではありませんが、人格と言論の引き離し、法律がきちんと実行される社会、一般的規範がある市民社会は眩しく感じられます


読書ノート3 「空気」メカニズム
by wavesll | 2014-03-30 19:33 | 書評 | Comments(0)
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