『日本教の社会学』読書ノート4 日本人の根本視座、自然・人間・本心・実情・純粋

読書ノート1 日本は民主主義でも自由でもない
読書ノート2 言論の自由は日本にはない?
読書ノート3 「空気」メカニズム
さて、『日本教の社会学』読書ノートも第4回となりました。今回も気になったところのメモ(黒字)と私のコメント(赤字)で書いていきたいと思います。

サクラメントとは
サクラメントとは救済のための儀礼。サクラメントをすれば教会が救済を請け負ってくれる。
カトリックには洗礼堅信聖餐告解終油叙階結婚と7つのサクラメントがあり、これはみな一種の宣誓で、奥儀への参加である。
一方プロテスタントには聖餐と洗礼の2つのサクラメントしかない。

もちろん日本教にはキリスト教のサクラメントに対応する儀礼はないわけだが、サクラメントと同様な社会的機能をするもの、これはあると思う。それを構造神学的な日本教のサクラメントと呼ぶことにして、それについてこれから論じてみたい。

サクラメントは一種の通過儀礼のようなもの。サクラメントを通ることで今までと違う状態になるという事。日本教の中でそういったものは何であるか。機能社会構造の連関で見れば聖餐は"人間"、洗礼は"自然"、懺悔・告解は"本心"ではないか。

自然

日本人が自然と言った場合と西洋人が自然と言うのと全然違う。
日本人の自然という言葉は、自己の内心の秩序と社会秩序と自然秩序をひっくるめた言葉で、この3つは一致すべきもの、一致したものであるというのが基本的な意味。以上3つが全部自然。

だから「自然を尊べ」といった場合、どの自然をいっているのかわからない。「ごく自然にやらなければならない」「あれのやり方は不自然だ」「社会がこんなだとは不自然だ」これ全部基本が同じで、絶対的規範となっている。

これはキリスト教的な考えからはおかしい。そうなら人間の自由意思はなくなる。
テリッヒが述べるところには、「人間というのは自然的必然の過程で生きているものではなく、歴史的必然がある」。しかし日本人には歴史的過程がなく、みな自然的必然論。

「どうしてそういうことをしたんだ?」「うん、ごく自然にこうなっちゃったんだ」と。
何事も自然現象と理解したら、人間には自由という概念はなくなる。

一方、中国語にも日本語の「自然」にあたる言葉はない。
中国語では、人間以外の自然を「天地」といい、人間の内なる自然、つまり人間本来の素質を「性」という。
日本と違い、儒教と道教では自然に対する評価は異なるものの、そのまま規範化されることはない。

日本では自然がそのまま規範化される。つまり自然のままであるのが何より良い、とされるからそういうことになるのだと思う。だから日本教徒は自然であれば救済されることになり、サクラメントの機能をする。

中国ではこうはいかない。儒教など大部分の諸家の説には、礼学、すなわち人間の作った文化こそ尊ぶべきもので、生の自然は否定されるべきもの。

これに対し道教では人間の作った文化を否定し、自然尊重で日本人の自然観と相通ずるものがあるが、よくみると実はそうではない。道教が尊重する自然とは、道教の方法論によって制御された自然であって、ありのままの自然ではない。だから道教では仙術を習得しこれにより超自然的存在を自由にしようとする。

だから道教が重視し規範とするのは自然でなく超自然。
そして超自然的存在である天界が中国社会そっくりに作られている。皇帝(天帝)がいて官僚制度があり、官僚は職務に忠実でなく賄賂も取れば悪事もする。だから天界にも刑務所もあれば死刑もある。
地上の政治制度=礼学そっくりに作られ、これが理想である。

ユダヤ教・キリスト教では天地の始まりは神が造った。日本では神が産んだ。中国ではいつのまにか始まっていた。

聖書では人間は神の被造物なので、元来、自由意思はないはず。しかしアダムとイブは違った。これをどう考えるかは面倒な問題だった。ラビ・アキバはこれを借金と解釈した。神が無限に持つ自由意思を人間に貸してくれている。ただし借金には契約がある。この契約が律法でこれに違反すると最後の清算の時困るぞと。

人間には借りている自由意思があるから、今、自由意思がある。創造と自由、被造物と自由の関係をこう捉える。ただし動物にはそれがない。そこが本質的な違いで人間と動物を分ける。人間がなぜ人間でありうるのかという基本問題をそういうふうに解釈している。

そういう社会における自然の概念は、大変に自由と対立する概念。だから自然も本質であるというならまた自由も本質であるというわけ。「人間が自然に近づけば近づくほどそれがよろしいんだ」というような日本人のような発想は出てこない。

自然というのは、日本人にとっては完成された状態であり、これが規範としての自然。
自然がそのまま規範化される。日本での「自然」とは、一方においては「ありのまま」だが他方においては「あるべき姿」で、それが正しいとされる。

ところが自然の規範化は矛盾を内包する。つまり「ありのまま」が自然だとして、この論理を推し進めていくと、不自然なものもそこにあるわけであすから、それを含めてありのままが自然だということになってしまう。これが正しいのか正しくないのか。日本人の自然観には常にこの矛盾がついて回る。

中国の場合はいわば自然は無規範。中国において人に対比されるのは禽獣。人と禽獣の根本的相違は、禽獣には規範がないのに人にはこれがある。だから、人が規範を失えば禽獣に等しい。
中国における自然とは天地だが、禽獣の居場所は地。つまり自然の少なくとも一部は無規範。これでは自然はそのまま規範化されようがない。

さて、日本人における『自然』ということ、ここら辺で少し小休止しましょう。どうやらこの『自然』。ただ単に『天然自然』であるだけでなく、自分の内心や社会のありようと言った『人間』にもまたがる概念であるというところが、西欧とも中国とも違う日本独自の部分というのが、山本小室両氏の意見の様です。

私自身も例えば環境問題なんかを考える際の思考フレームとして「でも人間だって宇宙の一部なのだから、人間が自然にやってしまうのも仕方ないのでない?」なんて考えたこともありました。

おそらく、この社会自体をまるで自然現象の様に捉え、そして自然ならば仕方ないとする日本人の性質が『日本人には作為の契機がない』という読書ノート123で論じられて生きたことを生んでいるもの、ということが今後論じられるのではないでしょうか?なんて考えながら、続きをどうぞ。


本心
中国には「本心」という言葉がない。中国人にとって「本心」なんかどうでもよく、決定的なときにしかるべき行動をとるかどうか、これがすべて。
親孝行であるかどうかの判定基準もそうだし、友人の間の「信」もその通り。そのマニュアルが準備されていて、その通りにするのが「信」、そうしないのは「信」ではない。

契約のある社会にも「本心」はない。契約を守るか守らないかだけで、「俺は本心では…」といっても誰にも通用しない。日本では本心がなければ社会から排除されるから「お前の本心に聞いてみろ」なんて言われて「俺は本心なんてない」といったら御終い。じゃあ本心とは何ぞや?

日本では「本心」という言葉はもともと仏教用語として古くからあったようだけれども、徳川時代の儒教系の学者は大体これを「性」といっていた。それでは庶民にわかりにくいだろうと、梅岩の弟子の手島堵庵が「本心」と言い直した。これはやはり内心における自然の秩序。だから不自然ではいけない。これはやはり内心における自然の秩序で、不自然はいけない。

本心はあるのかないのか、本心の基本は何かを梅岩は懸命に追及する。
彼は人間から何もかもはぎとっちゃったら最後に何が残るだろうと、赤ん坊を見に行く。

赤ん坊は呼吸しているだけ。自分の意志で呼吸しているわけではない。この呼吸をさせているのは宇宙の秩序のはず。人間を呼吸させて生かしている宇宙の継続的秩序がすなわち善だ。

だから、天然自然の秩序がすなわち善であり人間がその通りにあるのが善であるから、赤ん坊は善。そういう状態の時の心の状態を本心という。

本心通りにしているのが自然。不自然なことをしてはいけない。じゃそのマニュアルがあるかというと、別にない。だからいったいどうすればいいのか、ということになる。

自然に対しての不自然のような、本心に対しての非本心は内心の意味に使う不自然のこと。「あいつは作為がありすぎる」のような。

そうなると自然という事を本心ということは対応してないといけない。だから本心というのはそのままの心ではなく、規範化された自然に合致する心の状態。

それでは規範化された自然にならないようなものは何か。また本心にもとるような心の状態にせしむるものは何か。

私自身の、海外のフォーラムで色々な意見を読んだ感想で言うと、欧米にも「本心」というような感情概念はあると思います。山本さんも小室さんも、海外の事情は知っているのでしょうが、(特に小室さんは海外留学もされていますし)どうも日本を特殊化しようしようというような印象をこの本からは受ける部分は多々あります。

逆にいえばこの本で描かれる精神のありようは、もっと汎用性のあるものにもなるのではないか?海外の人々にも読まれるような機会がこの本に訪れればいいなぁと思います。現在は海外で読まれるどころか日本でも絶版でアマゾンでは2014年4月8日現在では47,750円ですが…。

実情
自分の情に対して正直であるのが、本心に対して正直だという事。
梅岩は、父が羊を盗めば子はアッと思うだろう。思った瞬間、これを隠してやりたいと思うのは子の情であろう。この時の実の情、実情が日本教のサクラメントの一つとして出てくる。

梅岩はその実情と事実をはっきり区別して、実情に正直なのが本心に対して正直でよろしい。事実を事実として行為するのは本心に対して正直でなく、よろしくないとしている。だから情緒が動くままに規範化される。

本心から犯罪を犯したいと思ったら、それが自然であるから当然となるが、それでいいのかという問題が起きてくる。これが情緒規範というものの最大の問題点。

これが一番よく出てくるのが「政治も情が基本である」といった西郷隆盛。政治は情の推にして、情の積み重ねであって、それ以外のものではない。と。

純粋人間、できた人間

西南戦争の直前にし学校の生徒が兵器庫から武器弾薬を奪う。その報告を受けた西郷には、「法に違反したんだから法は法として県令に突き出す」か「政治は情だけであるから、情に於いてしのびずで盗んだし学校の生徒と行を共にする」かの選択肢があった時、西郷は絶対に情をとる。

この身一つを打ち捨てて、若殿ばらにむくいなん、とされたら日本人は痺れてしまってもう何もいえなくなってしまう。西郷が日本人に圧倒的に人気があるというのもここ。ここで理屈を言ったら興ざめ。西郷が僧月照をかばいきれなくなったとき、薩摩潟に入水した。それ以外何もない。

西郷は純粋人間だからみんなから愛される。つまり、あの人は純粋だとか、不純だとかいった場合、情緒規範に対してあくまでもその通りに反応しているか否かの問題ですから、西郷の生き方は純粋。

人間は「純粋」であれば、どんな悪いことをしても許される。この意味で「純粋である事」は日本教のサクラメントの一つ。

純粋人間というのは簡単にいうと情緒規範だけ、ある意味で空体語だけ。しかし普通の人間は実体語の方でバランスをとっていなくちゃならない。

純粋人間の定義を整理すると、
1.情緒規範の人間
2.空体語の人間
3.教義学を持たない、つまり組織論的発想を持たない人間

そこから浮かび上がってくる「できた人間」というのは実体語の方にも対応し、同時に情緒的反応しかしない人間にも「わかった、わかった」といわなければならない。つまり「できた人間」とはいわゆる情緒規範じゃなくて自然規範でやらなければならない。

すなわち、規範としての自然じゃなくて、不自然の入った自然としての自然が規範になってるような人間。だから、ある程度不自然も認めてやる。これはもう純粋じゃないので「できた人間」とは少々不純な人間。なので不自然なる組織論的発想も無視しないということ。

同時に、実体語だけで対応しているけれども、ある程度空体語を相手に渡してやるような人間でないと「できた人間」ではない。つまり「できた人間」とは純粋人間の対極にあるんじゃなくて、純粋人間とその対極の不純人間のバランスにある。完全に不純人間になってしまうと「まだまだ人間が出来てない」となるので、バランスが取れてないといけない。

この『純粋人間』の下り、「でもこういう人が身近にいたら厄介だと思われてしまうだろうなぁ」と思いながら読んでました。だから『できた人間』が出てきて「そうそうwそうだよね」と思いましたw

物語や記事、文章を通しての理想の人間像とその反応と、実際に相対する人間に対する反応って違いますものね。この本は1981年に書かれたものなので、インターネットの影響は全くない状況なのですが、インターネットによって例えば芸能人なんかも神秘のヴェールが剥がされて、ただ単なる『純粋人間』ではいられなくなっていて、「芸能人と一般人は本来行動原理・精神が違うのに…」という声がでている現状をまたこの二人に分析してもらいたいなぁなんて思ったりしますね。

インターネットによる社会の変化は、まさに現在進行形でどんどん動き、さらに言えば技術の進化、プラットフォームの変化が目くるめく起きるという点でなかなか総括は難しく、先の予想も難しいですが、何かいい書籍はないでしょうか?もしあればぜひ拝読したいので、どなたかご教授ください<(_ _)>

本当に最近思うのは、SNSの発展によってコミュニケーションが娯楽としてどんどん時間をとるようになって、コンテンツもコミュニケーションを前提にしたものになっていく傾向が、自分の可視範囲だとあるのですが、その方向は芸能や研究にとって果たしてよいことなのだろうか?なんて最近は考えています。孤独の中で研ぎ澄まされる感性や精神の発露が、なぁなぁに塗されてしまうのではないか、なんて。

ビジネスとしてはコミュニケーションは性的快楽と比する位の脳内麻薬が出るようなのでガンガン利用されていくのだろうなとは思うのですが…。ただ一方でSNS疲れみたいなコミュニケーション方への反動も出ているので、仕事やら家庭やらで時間が取られる一般の社会人の話というより時間が自由な学生・子どもの文化に顕著となっていますが…。

彼等(私も20代なのでぎり含んでもいいかも)が創るカルチャーは社会を変えていくのか?それとも高齢化とカネの偏在から日本では鈍重な変化になるのか?気になる處です。

といったようなSNSの話をしたのは、昔mixiで「日記読んだらいいね!押せよ!」とやってしまい大ひんしゅくを買った恥ずかしい思い出があるんですよね、私(苦笑)。これを「信」のくだりの、こういうときはこういうことをするのが朋友という中国人の考えと、「本心」を大事にする日本人の感覚という視点で考えたら、「俺、チャイナっぽいw」と思ったのです。

というわけで、また次回お会いしましょう。おそらく、次の読書メモで、大体私がこの本で面白いなと感じたところは纏めきれそうだと思います。


読書ノート5 軽く総括
by wavesll | 2014-04-08 08:35 | 書評 | Trackback | Comments(0)
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