
戦場カメラマンの渡部さんがサカルトベロ(グルジア)とチェチェンの境、パンキシ渓谷へ20代ぶりに訪ねる番組をみました。
16年ぶりに訪れた首都のトビリシは、すっかり観光化され、古くからあるグルジアワインと、伝統的な美しい街並み、そして現代的な新建築物が点在し、すっかり戦の影は払拭されたように見えました。
そして山脈を抜け、渡部さんはパンキシ渓谷へ向かいます。
パンキシ渓谷はチェチェン紛争の際、チェチェンの武装派が逃げ込み、ロシアからも責められ、アメリカからも鬱陶しがられ、「世界で最も危険な民族がすむ地」と喧伝された場所です。危険視したジョージア政府が軍を送り込み安定化させ、今はゲストハウスが出来るまでに平和になりました。
16年前に渡部さんが泊まらせてもらった家族の所で1週間強を過ごす、そういう番組でした。
コーカサスの山脈は、まるでアンデスの山々の様な雄大さを魅せます。花々の美しさ。そこで暮らす人々は、例えば少年が馬と共に育ち裸馬に乗ってレースをしたり、結婚式では電気トラッドのような音楽で出会いのダンスが舞われたり、人間の剥き出しの生命の美しさがありました。
中でも印象的だったのは、平和の歌を創り歌う女性の歌唱グループ。
その中で少女がアッラーへ神に平和を願い、戦火の悲劇を嘆く歌を歌っている姿でした。
コーカサスの景色の中で、かつて世界から見放された人たち、世界に翻弄され蹂躙された人々が、自然の中で質実剛健に美しく、生きている。平和を愛して、民族が歌うべき歌を歌っている。人間としてこの上なく魅力的にみえました。
自然、田舎の中では人間は動物として強靭に育つというか、シンプルに生きていき、身体から生命力があふれ出ていくのだろうな。翻ってこの星一番のメガロポリスに暮らす自分は、あまりにも理性が不健全に楽しむ肥大が過ぎていて、精神がメタボリックになってしまっているのかもしれないと思ってしまいました。
また、自分は自分の言葉で話せているのかな?と想うこともあります。例えば今、いつかマツコデラックスが言った『田舎に住んでいると病んでいることが強制的に矯正されるが、東京では病んだままでいられてしまう』といっていたことを思い出しましたが、自分の発言や、感想すらも、すべて誰かの受け売り、あるいはその組み合わせなのではないかと空寒い気分になることもあります。自分で考えているのか、自分で生きているのか。
そもそも、自然の中にいると、そんな複雑なことを考えるよりも現実の問題に対処する忙しさと、自然のダイナミズムの中で、思考が非常にシンプルになっていくと感じます。屋久島なんかに行くとラウドな音、複雑な音楽よりもThe Bandなんか聴きたくなります。それは、都市に暮らしていても、真夜中を飲み明かす、踊り明かす、作業をして夜明けを迎える時にみる朝焼けを観た時などに、穏やかにチルアウトされることにも現れているかもしれません。
自然の中で生きることを選ぶこともできるけれども、この街で生きていく限りは、ある程度都市に合わせなければならない。そして都市は都市で気楽で楽しい面もあり、田舎は田舎で濃すぎてやり直しが効かない面もある。何しろ自分はFacebookすらうざったいと想ってしまうほどの面倒くさがり屋ですから。敬虔な暮らしに憧れながらも、横浜の夜景が好きな自分は、今一度この街で頑張ってみようと思います。ただ、湘南辺りで働くつてがあったらそっちで働いてみたいなwあるいは外房で暮らして波乗りしながら生きるのもいいかもしれないな等と最近は考えております。で、こんな自然の美しさの中で暮らしたいw鳥山明の漫画で育った自分は、どうしようもなく田舎志向なのかもしれません。
渡部さんはこの地上から戦争がなくなったら、学校を巡るカメラマンになりたいそうです。
たとえ都会で暮らすことになったとしても、戦争がもたらす災禍を心に、自分の身を守れるだけの力は保持しながらも、悲しみを生み出さない社会を、平和を愛する民族の一人でいられる幸せのかけがえのなさを、失う前に気づいていけたらいいな。その敬虔さは都市で暮らしても持っていたいなと、あの少女の歌声から思ったことを最後に記して終わります。
cf.
ラルン・ガル・ゴンパ 天空の“宗教都市”~チベット仏教・紅の信仰の世界~をみて