ディスること、"普通"ということ。歯の奥にエノキでも詰まってんのかこいつはというようなことに関する話。

Web上なんかじゃ私はなるだけポジティヴな事を外に対しては言ってきたいなぁというのもあるので余り物事をディスることはないのですが、腹の内では色々想ったりすることはあるのです。このエントリではそんなことについて想起した徒然を書こうと思います。

自分は基本的に音楽やアートに関してはポジ出し思考というか、どう面白がれるか、自分を触発させられるかが大事だと思っているのと、何より創作というのは手も使うし精神力も使うし、その労力を想像するだけでも創造に関わる人たちは凄いなぁと想うのでそこまで悪いことは言わない人間です。

逆にtwitterでディスばっかりしている人を見ると"みているこっちが辛気臭くなるは"とそのディスり魔に批判的な感じに成ったり自分はしますね。何かをディスる時間をもっと素晴らしいものに触れてそれを称賛することに浸かった方が限りある時間を善いものにできるのではと想ってしまうわけです。

この"残念な点をあげつらう"という慣習は国民的なものなのでしょうかね?私は以前や◎気スイッチという塾で講師をしていたのですが、そこで言われたことに「日本の家庭は減点法が多い。そうではなくまずはできたところを褒めるところからや◎気は生まれるんだ」というものがありました。言われてみると確かに日本は減点法評価社会だなぁと思います。

昨日もノーベル化学賞を海外の研究者が獲った際、"自然科学系の3賞同時受賞ならず"とNHKニュース7は報じていましたが、「おいおい!まず2賞獲ったことが物凄いし、化学賞にしても獲った研究の内容をまずは報じるべきだろう。2個獲ったそれぞれの偉業ももっと詳細に説明するべきだし、何故"獲れなかった"という仮定の期待から生まれた虚ろな"減点"をあげつらうんだ???」と思いましたね。全くハポネスは完璧主義の病にかかっていますな。

日本は"完璧"が"普通"の国だと言えるかもしれません。昔私は"普通"という概念に狂った時期がありました。大きく"普通"のレールから外れ、その事の動揺が"普通"に対する憎しみへと転化した時期。しかしあの時期ほど"普通"について考えたことはありませんでした。

その時の結論として、いわば社会の共同幻想である"普通"を日本語訳すると"完璧/完全"だなと思います。サザエさんが普通の家族だとしたら、世田谷に一軒家を持った和気あいあいとして皆元気な3世代同居のペット付き家族。勤め人はみな正社員だし、みな仕事に学業に家事に(専業主婦!?)勤しむ明るい家庭がロールモデルかー。考えてみたら、"普通"に大学出て、"普通"に恋人できて結婚して子供出来て、"普通"に子どもにも病が無くて、自分も"普通"に鬱にもならずに会社へ(正社員で)勤めてetcetc、、

確かに一つ一つの"普通なこと"というのは最大多数かもしれませんが、"普通の人生"なんていうともはや"完全なる虚構的奇跡"ともいえるような始末ではないかな等と思います。そこまで思い当った時に私は"あーもう普通なんてくだらないことに時間を割くのはもうできうる限りやめよう"と想ったのでした。

とはいえ、先のニュース7の"ノーベル賞逃がす"の報道?のように、この国の"普通に完璧"幻想は嫌でも耳に入ってきますし、いっそのこと南米から移民を大量に入れこの国にパルプンテでも起こせば大分風通しのいい国になるのになー、なんて思いますw「普通にみんなが殺人始めたら、君も普通に人を殺すのかね?」と"普通教"の人には聴きたいですねw

さて、話が逸れました。ディスる、ディスらない話でしたね。私自身はアートとか感性的な部分に面白みを見つけるのが好きで、ネガティヴな事を言うのに時間を費やすくらいなら面白がれるほうがいいと思います。

とはいえ、自分自身の好き嫌いはあるので、そこら辺をどう説明すればいいのかなとは想います。或いは”絶賛するほどでもない”というのも、普通にあります。

だから、逆に私みたいな人間のいうことは3割引きくらいで勘案した方がいいのかもしれません。なんでも褒めちゃうし。まぁ、自分の中で"普通に良い"(←「普通」使ってるじゃねぇかw)程度と"絶賛"のレベルはかなり明確に違いがあるので、絶賛水準だけ信じるとか。

ただ"普通に良い"でも褒めるのは、この国の"普通"のレベルが先も述べたように異常に高いからなんですよ。例えば松屋のカレーとか、てんやの天丼とか、ペットボトルのお茶でもいいですけど、マジ美味いですよ。こんなハイレベルに慣れてると、そりゃ煩い消費者になるはwと思います。

また上に出た"個人としての好き嫌い"と"品物としての質の高い低い"を同じにしてしまっていいか、という話もあります。例えば、どんなに良い料理だって、嫌いな奴が作ったと知れば美味くなくなります。或いは自分の中で数年前に流行って丁度今ダサイ感じになってる音楽ジャンルを今聴いて好きになってる人の話とかは、生暖かい目でみるしかないよなぁ、でも音楽にも料理にも罪はないよなぁ、とは思ってしまうわけです。

更に、最近、twitterとかでアーティストの人と繋がったり、生で会ってお話したりする機会に恵まれたり、あるいは音楽について感想を書くとそれを本人にふぁぼられたり、あぁ自分の言動が届いてしまっていると恐縮する機会が多かったりするのですが、嬉しい反面、それで色々発言に気を使わなければならなくなったりするなぁと想う事、あったりします。

今はカルチャー関連に中々金が回らないこともあり、営業を創作者自身で行わなければならない時代で、アーティストと接することが出来ること自体は嬉しいのですが、(これは私の幻想でもあるのですが)アートを志す人というのは青春の頃何かしら鬱屈したものを抱えている人付き合いが嫌いな人が多いのでは、と想い、そんな彼らが志したアートの世界が、コミュ力がものを言う世界というのは何か嫌だなぁとも思います。

ただ、そんな中でも、本当に頭抜けた才能が生み出す本物の藝術は、コネやらなんやらを跳び越えて、本当に社会を、時代を超える様な傑作なのだろうと想うし、アーティストの人にはやっぱりディスより応援を送りたいですね。

追伸
こういう自分みたいな基本的には何でも食べれる人間はアーティストには向いてないのかもな、とも思います。何でも楽しめちゃう、こだわりが無い、となると、物事を研ぎ澄ます意思決定の必要がないですから。私はもっともっと"自分の好きな感覚はこれだ"というのを深く彫り下げる必要があるのかもしれませんね。
by wavesll | 2015-10-08 22:03 | 小噺 | Trackback | Comments(0)
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