Krzysztof Kieślowski 『Amator』 ― 1情報発信者として想う覚悟無きメディア行為の暴力性

クシシュトフ・キェシロフスキ監督の『アマチュア』をみました。
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Bunkamuraの特集上映サイトによると
家族、安定した生活、そして友人にも恵まれ、フィリップは平凡ながらも幸せに暮らしていた。彼は娘の成長を撮ろうと旧式の8ミリカメラを買う。しかし家族を撮るつもりが、彼はどんどんとファインダー越しの世界に引き込まれてしまう。自らの働く工場の式典を撮影した映像がアマチュア映画のコンクールに入賞。映画製作も始める。しかし夫婦仲は悪化し…。社会状況への愛すべき皮肉や映画の魅力、そして人生における欲望との葛藤を描き、「映像文化にとって真のコペルニクス的革命」と評され、世界にキェシロフスキの名を知られるきっかけとなった一作。
とのこと。彼女が特集上映でみて激賞していて。私は渋谷TSUTAYAでレンタルしました。

メディア行為を行う主人公にWebに色々書いている自分を少なからず重ねてみたのですが、平穏でつつましい幸せな生活を望む心と、メディア活動をすることで自分の世界が広がり、少なからず評価されたり、自己表現できることにのめり込む欲望の対立は少なからず身につまされました。

単純に仕事の面白味(その仕事でモテるようになったり自分を認める人間関係が拡がる快楽)にかまけて家庭をおざなりにし破綻を招くという話にも読めますが、ここに"メディア活動"という要素があることが、物語に現代性を与えていると感じました。

何よりも見ていて心がずきずきしたのは"秘密を公開し暴く行為がもたらす被害に対して思慮が足りない中途半端な正義の結末"が描かれていること。

自分はこうして未だにブログをやっていることでもそうですが、人に自分が面白いと想うことを伝えるのが好きで、大学時代は"噂拡声器"みたいな感じに半ば疎ましがられながら、友人のずっこけ話を拡散したりしていたのです。ぺらぺら話す自分自身はモテなかったこともあり怖いものがなかったので自分の醜聞もべらべら笑い話にしていたのですが、ある友人からは"お前は面白い話ができていいよな、恋人とかがいたらそういう話だって大っぴらにできないもんだぜ"とか言われたり、もっと強く"べらべら喋っちゃいけないこともある、消せ"と言われたこともありました。

当時は謝りながらも心のどこかで"言われちゃ嫌なことはやらなければいいのに"と想っていました。ただ、社会に出たり、パートナーができたりして失敗を重ねながら今思うのは"真実を隠すことで世の中が回っていることもある。必ずしも皆清廉潔白でだけではいられないとしたら、馬鹿正直にべらべらと自分のことを話したり、他者の秘密を明らかにすることでそのバランスを崩すことは、果たして正義といいきれるのだろうか"ということです。

劇中の主人公フィリップも社会悪を暴く、というか事実を提示することをアマチュア映画で行います。それ自体は純粋な気持ちから起きたことでもありますが、結果として親しい人に余波がきてしまう。何かを暴くとバランスが崩れ、今までと同じではいられなくなってしまう。それはもちろん良い結果も起こしますが、今までのつっかえ棒が壊れて混乱だって起こしてしまう。その被害を起こしたという事実に責任をとれるのか、あるいは暴くことで自らが他人を傷つけることへの覚悟が持てるのか。"AMATOR"という概念が示す覚悟のなさが胸を突きました。

インターネットは公共の往来になりました。誰でも読めることを意識せずにバカッター行為をしてしまう若者が問題になりましたし、2chに「殺す」と書いたら逮捕されてしまいます。今日も熊本地震の際のデマTweetで1人逮捕されました。何も『悪魔の詩』に対するイスラム過激派を持ち出さずとも公に出す言論はお遊びで済まず、言論の自由は反発や糾弾を覚悟した上でのものでなくてはならないのが現実です。

そう考えると世の中のアングラであったり、密やかな悦びの豊饒さはもうネットには置けないのだと思います。秘密倶楽部は現実に帰ったというか、ごく限られた内輪の間でそういった愉しみは保全されるべきで、メディア人の個人的な名誉欲のために暴かれるのは、思慮がない。信頼関係に基づく許しがない、或いは傷つける覚悟がない限り行ってはいけない。そういう風に、今は想うのです。

劇中でも"本気になったことが一度もない"という台詞がありましたが、アマチュアを言い訳に無責任に報じることの危うさを想います。決定的なカタストロフィの前に知れたのは良かった、と共に、『真実すべてを伝えることも混乱を巻き起こし、"行為を伴わない言説"もヴァーチャルではなく現実なのか…』とも想ったりもします。そうなると言論の自由、思想の自由はあっても、言葉にしたら戦争なんだな…と。私なんかは物理的な行動か金銭的コストそして時間コストがないとどうも"現実の痛み"とは思えないのですが、世の中では仮想/冗談として笑って済ませない範囲は広大なんだなぁと。まだ考えが纏まりきってないかもしれません。言葉の暴力というのは厳然としてありますし、時間コストを奪ってしまいますしね。ただ自由を失った結果社会に闇が拡がることや社会に余裕が失われることにも功罪はあると思いますし…。

情報発信やジャーナリズムに求められる責任に、"事実を報じる"以外に"結果に責任を持つ"ことが含まれるのか。それはアマチュアという立場ではどうなるのか…1情報発信者として、大きな問題提示をこの映画からは突きつけられられました。その答えは、今後の私自身の態度と言葉で示したいと思います…。ただ、少なくとも言論は凶器にもなるということは、意識していきたいと想います…。

追記
だからこそ、フィクションという形で現実を浮かび上がらせる行為に価値があるのだなと想いました。また、隠し事がある人間の方が詩の技巧は向上するかもしれませんね。

フィクション故に真実が現れる 演技と本心-カズオ・イシグロ 文学白熱教室から
by wavesll | 2016-07-20 19:54 | 映画 | Trackback | Comments(0)
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