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『嫌われる勇気』は読まずに、関連文書を読む ~自己欺瞞を超えて <アドラー心理学に触れて>

『嫌われる勇気』は読まずに、関連文書を読む ~自己欺瞞を超えて <アドラー心理学に触れて>_c0002171_2434392.jpg週刊ダイヤモンド 2016年 7/30 号 [雑誌] (今こそ! 「嫌われる勇気」 初めてのアドラー心理学)は非常に面白い特集でした。

ここ数年自己啓発系からは遠ざかっていたので『嫌われる勇気』そして『幸せになる勇気』も良く知らなく、微かに"アドラー心理学"という言葉は知っていたのですが"嫌われることをいとわないきちんと叱る教育論で自分にはあわなそうだ"と敬遠していたのです。

しかし実際のアドラー心理学は私が想像していたのとは真逆でした。

彼はフロイトやユングと共に勉強会に参加し、後に袂を分かった人物で、その主張の根幹は"人の行動は過去のトラウマ等の『原因』でなく何がしたいかという『目的』によって起こされる"というもの。

『目的』を達成するために(主にアドラーは教育論を得意分野としましたが)『自分の課題と他人の課題を峻別し、他者の課題に踏み込まず自分の課題に他人を踏み込ませない』・『承認を得ようとしない』。何故なら人生の悩みは全て人間関係から起きているから。

その為『人を褒めない・人を叱らない』。その代わりに感謝と尊敬を伝え勇気づけることが推奨される。人を支配しようとするタテの繋がりでなく、フラットな人間関係こそが大事だ、と。

アドラー心理学は自己中心的な哲学、或いは人を突き放す哲学かもしれない。しかし人は体験からでしか学べない。子どもが失敗しそうになった時に先回りして苦難を取り除くのではなく、一度失敗の痛みを味合わせ自分の行為の責任と結果を認識させたうえで、これからは失敗しなうようにどうするか考えさせる。何、人間は死ぬ一瞬前からでも変われる。

というような特集でした。『嫌われない勇気』の番外編が載っていたり、なかなか上手く纏まっている特集だったように思えます。アドラー心理学は自己啓発の祖ということですが、『自分の小さな「箱」から脱出する方法』に於ける"自己欺瞞をなくす方法"に通ずる考えだなと感じました。

しかし他者からの承認や評価を求めないとしたら、確かに人に嫌われるかもしれないけれど自由な人生を歩めるかもしれない。他者からの承認や評価がなければ"金を稼ぐこと"が不可能では?金がなければ経済的自立ひいては精神的自立も難しいのでは?と想ったのも事実でした。

なぜアドラー心理学に共感と疑問を持ったのかというと、酷い鬱で引篭りをしていた時に何日も寝床で苦しんでいた時期が昔あり、その時私の中で光明が差したのは『もし俺が死にたいのなら今すぐ死んでいるはずだ。俺は生きているのだから、生きていたいんだ。みな色んなことを勘案したうえで生き方を選択しているのだから、全部ひっくるめたうえで"みなやりたいことをやりたいようにやっているんだ"』という考えに辿り着いたからでした。

けれども今はこれは傲慢な考えであるとも思います。私はこの考えに至りある意味"嫌われる勇気が持てた"というか、結局自分はやりたいことをやれているんだと思えました。

しかし例えば重病を患ってしまっている人に"あなたもやりたいことをやりたいように、生きたいように生きている"なんて言うのは大変傲慢な態度ですし、精神疾患に関しても逆にアドラー心理学に追い詰められてしまう方もいるようです。実際、トラウマで脳に拒否回路が出来ることもあるでしょう。そして"精神力の8割は体力"という言葉もあります。身体的な嫌悪感は根性論だけでは解決できないとも想います。

その上でよりアドラー心理学のことを知りたいと『嫌われる勇気』著者の一人で日本におけるアドラー心理学の第一人者の岸見一郎氏の

アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために
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アドラーに学ぶ よく生きるために働くということ
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を拝読しました。ダイヤモンドを読んで疑問に思った点が幾つか解消されているのと、特に後者では働くということに関して自分が知りたかったことが端的に描かれている気がしました。

人間、特に子どもは親の関心を引こうと"特別"でありたがります。親の期待に応えて真っすぐな道(例えば勉強やスポーツ)で成果を出して特別であれればいい。けれどそれらで上手くいかないと"悪いことをしようとして特別になりたがる"ことをしようとするそうです。

不良行為の根本には親に構ってほしい、世間に自分の存在を認めさせたいという心理があると岸見氏は論じます。大人でも"優越感競争"に興じるのは劣等感の裏返しだと。

"普通であることを恐れない"ことが成熟の証だと。そして"自分にしか出来ない、代わりの効かない仕事をするべきだ"と。

一見これらは矛盾するように思えますが人間社会は分業の世であり人それぞれ経験も知識も技能も違います。目指す理想も違います。

自分の中で"ど真ん中真っすぐな球"を投げても人によってコースに違いが必ずできる。だからこそ人間社会は分業で成り立っている。何も奇をてらわず、自分が一番いいという形で社会に貢献していると想えることが幸福を与えてくれる。私にはそう読めました。勿論、普通に囚われ過ぎて開拓心を失ったらいけないとも思いますが。

書籍の中では"共同体感覚"そのものが間違っている場合もあると語られていたり、仕事に関しても一度は思いっきり鍛錬して習熟したうえでないと仕事が楽しい楽しくないは語れないと書かれていたり、実際的に"自分の意志は伝え、相手に流されずとも角が立たない断り方"とかが提示されていて、一読だけでは拾いきれない数多くの示唆が書かれており、身になる本を読めたなと想いました。

『嫌われる勇気』は対話形式の自己啓発本臭が強すぎてちょっと読んだだけでやめてしまったのですが、また時が来たら読むかもしれません。

仕事が面白くない、嫌だ、踏み出せない、どうせ駄目だといって目を背け続けている事実を叩きつけられたというか、少しでも前に進むために学習や訓練すら行わないのは自己欺瞞で、駄目だと再認識させられました。人生が誰かとの競争ではなく自己の絶対的な旅路だと考えれば、自分自身の等身大の人生を認められる。まだちっぽけなプライドが残ってはいますが、この読書を機に再チャレンジをリスタートし、じりじりと研鑽を積みたい。そう思いました。

P.S.
これらの著作、Amazonの書評にエッセンスをまとめてくださっている方がいるので、要点だけ知りたい方は書評を眺めるのもいいと思います。そして気になったら手に取られて損はないと思います。

追記
以前は無償の善意を振りまいていた私も鬱を経験して『自分は生きたいように生きているのだ』と自覚しました。その結果、行き過ぎて傍若無人になってしまった私はその後多くの信頼を失うことになります。

ただその過程で気づいたのは、友人は友人であって、友人に何かしてもらえると考えるのは多くの場合は錯覚であるということ。

勿論、出来る範囲で付き合いをしたり貢献することはいいことだけれども各個人の人生は各個人の人生で、それこそ家族とかパートナーでないと他者である私の人生を共に過ごすことは、ほとんどない。みな自分の人生に精一杯なのだということです。

自分の課題は自分の課題。他者は出来る範囲で手助けしてくれることもあるけれども、自分の人生は自分で責任を持つ。

そして共に人生を歩む人たちにはやっぱり本気で関わりたいし、そうしたときにも自律し自立するためにこそアドラー心理学をスパイスに使うと意義深いのだなと想いました。

人は過去(トラウマ)にも未来(将来への期待)にも影響を受けて今を生きていると想います。今は今だけでなく過去にも未来にも繋がっているけれど、最善だと想える今の過ごし方をしていくトレーニングは人生をより良いものにするのだと今は想うのです。

そうして自立と自律ができてこそ、私に付き合ってくれる人への尊敬が自然に心から湧き出で、友とも信頼関係が築けるのではないか。今はそう想います。


この後『幸せになる勇気』を読んで、アドラー心理学についてもう一本記事を書きました。

cf.
続・アドラー心理学 <幸せになる勇気/黒い十人の女/天> ぬくもりという名の獣道


Depeche Mode-Violator (Full Album Remastered)


二村ヒトシ『すべてはモテるためである』 ・ 『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』短評


by wavesll | 2016-07-22 03:47 | 書評 | Comments(0)
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