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続・アドラー心理学 <幸せになる勇気/黒い十人の女/天> ぬくもりという名の獣道

『嫌われる勇気』は読まずに、関連文書を読む ~自己欺瞞を超えて <アドラー心理学に触れて>という文章を数日前に書いたのですが、今回はその続編というか、エピローグです。

続・アドラー心理学 <幸せになる勇気/黒い十人の女/天> ぬくもりという名の獣道_c0002171_19371092.jpgあの後、『幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII』、読んでみました。

前作『嫌われる勇気』で哲人が語るアドラー心理学に開眼し、その後教師になった青年が、現実ではアドラー心理学など何の意味もなく、壁が聳え立つだけだと怒りをもって再び乗り込んでくる…アドラー心理学を研究する岸見氏の知見をライターの古賀氏が掘り起こし、人生のテーマを解き明かす。といった内容。

今回の本が面白かったのは、アドラー心理学という理想論に現実の壁をぶつけ、観念論から実学へ寄せているという点。

前回『週刊ダイヤモンド嫌われる勇気特集』、『アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために』、『アドラーに学ぶ よく生きるために働くということ』を読んだ時も"原因論でなく目的論で人は動いている"ということに身をつまされたのですが、今回も身をつまされる箇所がありました。それは"教育の場で問題行動を起こす子供の五段階"の部分。

子どもは、"自分が特別であること"を知らしめたい。その承認欲求を満たすために、

最初は
1."称賛の要求"
つまり学業やスポーツで成果を示そうとするそうです。一見問題内容でも、芽はここから始まると論ぜられていました。

学習課題のレベルが上がってそれが上手くいかないと
2."注目喚起"
つまり問題行動を起こすことで注目してもらおうとするそうです。不良行動や教室内の悪ふざけを行うそうです。或いは文化的な行為で自分の差異性を示そうとするそうです。

そしてそこでも自分を認めてもらえない、本当の意味での"尊敬"を得られないと
3."権力争い"
を始めるそうです。例えば親や教師に反発して毎回大人の意見に逆らったりして、とにかく大人の意見をつぶして自分の存在を示そうとする。岸見氏は教師が対応できる段階はここまでだと論じます。

それでも自分を認めてもらえないとなったとき、
4."復讐"
を行います。これは相手に後悔を味合わせるという意味での復讐で、暴力に訴えることもあれば、親や教師に無力感を味合わせることを目的に引き篭もったりすることもあるそうです。

そしてそれでも自分という存在をありのままに認めてもらえないとき、
5."無能の証明"
をするそうです。何を言ってもやる気を示さず、もう自分には何も期待しないでくれと無能を示そうとする。こうなると勇気づけを行おうとしても拒否反応を示してしまうそうです。

ここまで読んで、自分は大学時代の挫折に始まる自分の態度はまさにこれだなと想ったりしました。アドラー的には不本意かもしれませんが今の自分の過去の流れはこれだなと想ったりしました。

また『アドラーに学ぶ よく生きるために働くということ』でも労働の意義は語られていましたが、『幸せになる勇気』ではもっと直接的に仕事論が語られていました。

アドラーは人生におけるタスクを
1.仕事(自分の能力を信用してもらい、生きる糧を稼ぐこと)
2.交友(自分の人間性を信頼してもらい、心を開いた人間関係を築くこと)
3.愛(二人で人生を歩み、「私」から「私達」になり自己中心主義を超えること)

と定めています。

『アドラーに学ぶ よく生きるために働くということ』において、"生産性を追い求めることだけが答えでない"として、結果でなくプロセスを重視し、<熱をもって取り組めばたとえ失敗に終わったとしても素晴らしい人生だ>と書かれていました。これは私の人生のバイブルである漫画、『天』において赤木しげるが語る

いいじゃないか…!
三流で…!
熱い三流なら
上等よ……!

まるで構わない………
構わない話だ…
だから…
恐れるなっ…
繰り返す……!
失敗を恐れるなっ……!


に通じる話だと思います。

続・アドラー心理学 <幸せになる勇気/黒い十人の女/天> ぬくもりという名の獣道_c0002171_10145447.jpg成果、数字、結果を追い求めて、人間らしい純真さが失われていく、といストーリーでいうと、先日衛星放送で流れていた市川崑監督の『黒い十人の女』を想います。

この映画に出てくる男は、仕事もできるTVディレクター。女をたぶらかす手腕も凄まじく、妻を含め両手で収まらない女性達に手を付けて、愛人・妻もその事実を知っても別れられない。そこでこの男を全員で殺そうという計画が立てられる…という話。

TV局という昼も夜もなく虚実綯交ぜの仕事で精を出し、女の攻略もお手の物。しかも"優しい男・できる男"という評価、数字を出し続ける上ではこの上ない男が、最後では生気が抜けてしまうのか…!?という話なのですが、これをみると全てをパーフェクトに成果を出していても、"愛"というものがないと人生は大きな破綻に襲われる…という戯曲にみえました。女性側の心理描写や言動が実態的な妙がある分、男の虚ろさが際立って、きわめて面白い筋と映画はなっていましたが、現実の人生でも仕事・交友・愛、どれかが欠けて他で補おうと必死でもがいても、満たされることはないのかもしれません。

愛するということを、アドラーは一種独特にとらえます。いわゆる"運命の人"など無い。「恋に落ちる」こともない。相手は誰だっていい。この人と人生を歩むと決めて、共に人生を歩んだとき、その一生が愛だと。そう言うのです。

これはかなり今の常識的な恋愛観とは異なりますが、実はこれは私が漱石と奥さんの逸話から想っていた明治の見合い結婚観に近いものでした。

まだ青臭かった大学生の頃、私はこの漱石の結婚を理想としていて、誰とでも付き合えるし、付き合っていくうちに二人が夫婦になっていくとか考えていたのですwかなりアドラーに近いwまぁ、その後、そもそも誰でもいいなんて男の彼女になってくれる女の子はいないと思い知らされたり、やっぱり誰とでも上手くいくわけでもないんだなぁと現実をみたり、色々あったものでした。

人間、意志の力は無尽蔵でないし、自分の身体力、そして時間も有限。その中で仕事・交友・愛をしていくには、理論だけではやっていけない場面も多いし、清濁併せ呑む生命力が人生を切り開く上では必要だと思います。その上で、最後のところで数字に心が殺されることのない人生を歩めたら、己を嫌うことも他者を裏切ることもなくやっていけるのだろうか。痛みを伴いながらでも、獣道を生き抜かなければならぬ。そう想いました。

サンボマスターの『そのぬくもりに用がある (LIVE)

by wavesll | 2016-07-25 20:53 | 書評 | Comments(0)
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