相模原19人刺殺事件について以前メンタリティが似ていた人間から言えること

先月26日に起きた相模原19人刺殺から一週間経ち、報道も収まってきました。

あの事件は自分にとって非常に衝撃的な事件で、この一週間、このニュースに注目してきました。
それは、少なくとも過去に植松容疑者のようなメンタリティを自分が(勿論実行しないにしても嘯くくらいには)持っていたからです。

植松容疑者は重複障碍者へのヘイトクライムを実行し、"不幸を減らすためやった"という歪んだ正義の意識をみせ、犯行直後には"やってやったぞ"というような笑みを見せていたのですが、私自身も"今の高齢者に対して若者は割を食っている。高齢者からどんどん権限と金を奪ってとっとと死んでもらいたい"くらいのことを、昔は考えていました。

こういった"自分は割を食っている。状況をドラスティックに変えたいと、心の内では皆想っているだろう?"といったような思考は、2ch等のネット空間に入り浸って悪意に満ちた情報を浴びることにより陥りがちだというか、勿論植松容疑者は実行に移すという点で一線を画す狂気を秘めているのですが、彼のどことなく浮ついている表情からは"え?みんなこれやってほしかったんだろ!?自分は秋葉原の加藤と同じダークヒーローさ"くらいのことを考えてそうなお調子者的な"軽さ"を感じます。

ただ、よくよく考えれば、この"割を食っている、この状況は不当だ"という意識の根っこには我が身可愛さがあるし、確かに年金分配の面で今の若者は不利な状況ですが、再分配の問題は凶行ではなく民主的・法的な手続きによって意思を示すべきだと想うのです。植松容疑者の言動は端的に言えば餓鬼の思考といえるでしょう。

餓鬼の思考。それは言わば"自分は特別な存在なのだ"という根拠なき傲慢さ。そこから彼は抜け出れなかったのかもしれません。理想に対して現実が上手くいかない人間ほど天下国家を論じることで自尊心のバランスを保ちがちです。社会に対して関心を持つこと自体は市民として大事なことですが、その前提条件として他者に対する敬意がないといけない。と想うのです。ヒトラーの思想に自らを重ねる植松容疑者には、その餓鬼の思考からの脱却はみられませんでした。

周囲に要介護者や施設に入る親類が多くいる年齢になって想うのは、それでも生きる意志や喜びを表す親類は自分にとって喜びだし、彼らの望みをできるだけかなえたい、叶えられない現実には心苦く想う、一種の親心のような心持ちです。"障碍者の親類の為にも殺した"等という植松容疑者は、あまりに幼稚でした。ただ、これを若者、それもいきがっている男に求めるのは少し酷かもしれないとも想います。凶行に及ぶ前になんらかの罰というか痛みを(大麻使用などで)味わせられれば、"罪がもたらすリアルな痛み"を伝えられたのかもしれません。

人はみな意志を持っていて、生きる権利が平等にある。職業や知能、或いは体力の差異はあれど、それぞれ異なる経験をもって世界を為しているからこそ、みなリスペクトし、リスペクトされる存在なのだ。これが民主主義社会の根幹です。一人ひとり皆、尊ばれるべきワンオブゼム。これが揺らぐことは、全体主義やファシズムが蔓延する流れを生んでしまいます。

ただ、彼を単なるサイコパス、自らと全く隔絶した人間とは、自分は断じられません。
大麻・刺青、UFOをみたことがあるなんて話は嘲笑されがちな因子ですが、ここだけの話、実は自分もUFOをみたことがあってw(自分の信頼度も相当落ちるかな…。
「科学で説明できないことはない。UFOなんて嘘っぱちだ」という人ほど、実際に不可思議な現象を体験した時に大きく動揺すると想います。それで一気に意識が変わってしまうこともある。クンダリーニ擬きを使ったオウム真理教の洗脳に理系エリートがどんどん嵌ってしまったことからも、"不思議なことはある。でも現実は現実で実際に機能している"くらいの意識の方が予想外の事態にしなやかに耐えうると想います。まぁ、あのUFOは静止衛星か何かを見間違えたのだと思いますが。

さて、UFOの言い訳もありましたが、ネット上の世論(ほとんど悪い冗談としか思えませんが)の"本音"と較べて植松容疑者の思想がそう突然変異種とは想えません。

その上で、誰にでも繋がる公の議論として話したいのは、この事件の本質は日本国憲法における"基本的人権の尊重"と"最低限文化的な生活"のラインの問題だということです。

人には能力に差がある、しかし人として生きる権利が保障されなければ、社会は混乱する。いつ自分が弱者になるか解らない状況では経済も回らない。セーフティネットは重要です。勿論、社会保障費で国がつぶれては元も子もなく、現状介護の人件費が異様に低いという問題はあります。誰が費用負担するかは考えなくてはならないし、健康増進や待遇改善は成し遂げなくてはなりません。それでも人々はその社会を助け合って支えている。この憲法における人権という問題のコンセンサスが、この事件の奥にある本質だと想います。そしてそれは、決して刃ではなく、言葉と市民としての誇りによって漸進的に確かめ、改善していくべき事柄だと私は想うのです。

現状この"理想"が"現実の不満"に脅かされつつあります。この相模原のブレイビクのような殺戮もそうだし、欧州では移民への憎悪が巻き起こり、極右が台頭しています。民主主義の持つ意識決定のスピードの緩慢さより強権的なリーダーシップが、世界各地で求められている。

何事も生真面目に考えがちな人間は0か100で考えがちで、100%の善が達成できないなら、100%の悪の、欲望の本音のままにやってやろう。そう思う人もいるかもしれません。

しかし100%の善もない代わりに、100%の悪もないと想います。その場のノリで露悪的になったとしても、"落ち着いて顧みればそこまで悪くなくてもいい、もうちょい善いことを俺は望んでる"、なんてことありませんか?

私は年を食って唯一いいかなと想ったことは、精神が緩くなり、曖昧さを許せるようになれたこと。完全な正義ではないけれど、悪を含む部分は零ではないけれど、それでも"そこそこベターに良い人をやってきたい"。そう本心から想える自分からの、植松容疑者や彼の思想が本音に響く方々への私信でした。

by wavesll | 2016-08-02 18:01 | 私信 | Comments(0)
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