高畑息子の性的暴行のニュースに対し思わず「興味ないんだけど」、「何を騒いでいるのか」とtwitterで言いそうになって慌てて飲み込んだ自分がいます。余計なことは言わずに興味ないならスルーすればいいのに人は自分が興味ないことを声高に言いたがるのは何故なのか。"逆同調圧力"とでもいうか"人は人"とできない訳は…?と。寧ろその心のメカニズムの方に今は結構興味があります。
今まで数度書いているのですが、ここ数年で本当に芸人が出るTVバラエティみる時間が減ったなぁという感覚があります。TVはニュースかドキュメンタリー入ったものばかり見るというか。そうなると「これは知っていて当たり前」みたいな文化情報環境からはちょっと離れるというか。"俺もおっさんになったものだ"とも思うのですが、インターネットで音楽情報とか映画情報とか引っ張ってくることは多いし、単にTVの求心力が自分の中でも落ちつつあるのかもしれません。
スパイダーやガラポンTV等のオンデマンド機能が標準装備になる変革が起きないとこの傾向は続きそう。
年食っていくと段々物事の解釈を理論でなく自身の経験から読み解くようになるというか、メディアスターから距離が離れ始める気もします。端的に言うとここ数年でマスコミ芸能人の価値が自分の中で落ちたのを感じます。前は芸人のトークとかTV、ラジオ含めて貪る様に視聴してたし、ロックスターの詩は人生の啓示でした。最近だと唯一映画は『シン・ゴジラ』とか時代の黙示録的に今もちょっと捉えていますが。TVとかかなり虚業に思えるようになってしまいます…。寡占状態で無駄に金が使われていると感じてしまうというか…。
自分みたいな人間は「時代精神を掴みたい」とか大層な思いを抱いて30余年、文化やマスメディアに触れてきましたが、こういう態度は最近アナクロになりつつあるなぁと想うのです。
どうにも受験優等生的な過ちというか"文化の読み解きには一定の解がある、その解に達することができる人間こそ正しい芸術の受け手なのだ"と想いがちな自分が以前はいました。しかしそれは他者の目を気にしすぎるお坊ちゃんの思考というか、究極的には芸術作品と対峙した時に"自分の眼目"があればいいのかも、と最近想っています。
"誰もが魅了されるもの"は限りなく少なく、""時代精神"なんか配慮せず自分の趣向だけ考える人の方が多いし、いわゆる"時代の傑作"なんかも精々3割届けば御の字なのかも。ただでさえ冒頭に書いたような「興味ない」と言いたがる人達もインターネットで存在感増してるし。優等生的に、受動的な鑑賞という行為で優劣を競うのは狭い世界の話だとも思ったり。勿論批評・言論空間が100%受動的だとは思わないけれども"深い理解"を目指そうどころか必要とすらしない人は多いし、鑑賞眼があるより自分で手を動かす人が評価される時代は、文化空間が浅くなる時代でもあるかもなぁと想ったりしています。評論が注目されなくなった時代、言論では食えない時代におけるメディア行為とはと最近考えます。
そんな折、四川旅行中にホテルでYahooニュースをみているときに見つけた
村上龍最良の後継者であり震災後文学の最高傑作としての『シン・ゴジラ』(飯田一史)
という記事には感銘を受けました。文化と実業というか社会との関係の中でいかに働きかけていくのかについて村上龍の活動をメインに"今生まれるべき物語"について論じられたこの文章、読み甲斐がありました。
丁度今日、四川にも持って行った
牧野雅彦著 新書で名著をモノにする 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読み切って、商品の価値とは?」、「経済は何故発展するの根本思想である"職業に人生を打ち込む価値観"はどこから生まれてきたのか?」、「金儲けに疚しさを感じずに"天職"に救われるのは何故か」。引いては民主主義、そして資本主義のブラックボックスに光を射そうとする『プロ倫』、流石世界史で習う名著だけあると想ったのも少し繋がる話で。
マルクスとエンゲルスによれば下部構造である経済が、上部構造である政治システム、社会の権力構造、住人の共通観念・道徳・宗教等、社会の非物質的要素を規定するとされていますが、『プロ倫』には『資本論』や『ツゥラトゥストラ』へのマックス・ウェーバーからの解答が書いてあるようです。芸術表現を考える為には経済を考えざるとえないと、今想います。
『プロ倫』本編はこれから読みたいのですが、それがひと段落したらメディア論を深めてみたい。主に「広告メカニズムとは」という文脈で。"突出したムーヴメントを起こす為には発表の場の寡占と多額な金がいるのか?"という問いは、今自分の中で温めてきているものです。現状、一番理不尽な金の流れがあるのは地上波TVの寡占状態だと想うので。
メディア環境やその経済的運用実態、背後の人間の思惑についてある程度知ることはかなり興味があります。それは個人としての"今・ここ"と時代精神というか人間の表現の最前線を考える上でも重要だろう、と。
と、同時に時代の最前線の感覚が、表現が、今打開し進化していくダイナミズムが絵画や音楽で落ちている気もしないではありません。現代アート活動が"歴史の終わり"を迎えつつあるのか。或いは文化の最前線がビデオゲーム等に完全に軸足を移したのか。今を生きるために重要な表現とは何か、そしてそれは個人として感銘を受ける以上に社会で共通認識となるのか、或いは"時代精神"自体が大いなる虚構でしかないのか。
プラットホームの時代の波濤に揺られ揉まれながら、今を突き詰めた結果として未来に残る表現を見出すために少しばかりでも自分なりに見識を深めていければいいなぁと、想います。その視座となる"今、ここ"を個人として持つ為には上部下部両方の構造を客観として知らなければ。
四川旅行でSNSと上手く付き合える距離を探ろうと想っていましたが、"個"を拡張するために古典と対話していきたいものです。