『理由なき反抗』:”素朴で危うい子ども”と気持ちが解らない親の姿 & アドラーから想う他者と関わる姿勢

Rebel Without a Cause - Trailer


BSプレミアムで先日やっていた『理由なき反抗』をみました。
親との関係が苦しい人に、お薦めの映画です。地に足がついていて、とてもいい映画でした。親子それぞれ違う場所でこの映画と『ファインディング・ニモ』をみるといいかも。

ジェームス・ディーン主演でジーンズを世に広めた作品、クールでヤンチャな不良が出てくるのだろうと思っていたのですが、実際に見てみると思った以上に”素朴で危うい不良の若者”が描かれていました。

冒頭の警察署の場面は思わず”お!『アキラ』はこのシーンのオマージュなのかな”とも思ったりしたのですが、ここで出てくる"不良"は、親との関係に悩み、無軌道に蛮勇を重ねてしまう”危うい子ども”のようにみえました。これからすると近年のアニメや洋ドラに出てくる若者はかなりスレているというか、悟った中二病が蔓延する前の映画世界がそこにありました。

自分自身の経験からも、特に10代の頃なんかは親の欠点が嫌で嫌で。横暴な態度や逆に知性・感性がどうもピリッとしないところとか、反抗期の頃は本当に蔑むとまではいかないまでもそれに近い感情を両親には感じていました。

社会に出て、働いて金を稼ぐ困難さを知ると逆に”親父はこんな年で家建てたのだなぁ”とか”母親は毎日仕事も家事もして、良く育ててくれたなぁ”とか素直にある種の驚きをもって、親のありがたみがわかると共に、”あぁこの人も人間なのだ、『完璧な大人』なんてものは今の自分をみてもわかるように幻想の中の存在で、両親も社会の中で、そして家庭で、手探りで人生を生きてきたんだな”という思いになるというか、親への過剰な期待が消えていった気がします。”自分自身でこれを行えるか”という視点に立てると幻想が晴れ、適切な敬意と距離感が芽生える気がします。

"親は自分を喜ばすためだけに存在しているのではなく、逆に自分自身も親を喜ばすためだけに存在しているのではない、一人一人の個人なのだ"という感覚って大事だなと。

『嫌われる勇気』は読まずに、関連文書を読む ~自己欺瞞を超えて <アドラー心理学に触れて>
続・アドラー心理学 <幸せになる勇気/黒い十人の女/天> ぬくもりという名の獣道

でアドラー心理学に触れた際に想うのですが、子育てに限らず他者に係わるときに自分はついつい過保護になってしまうというか余計な口出しをしがちなのですが、本当に相手のことを想うならば、相手の軌道上から痛みを事前に取り除こうとするのではなく、寧ろ”リスクはあるよ”とだけ伝えて相手に自由に進ませた方がいいのだろうと想います。

痛みを感じないと気づきもないかもしれないし、ともすれば"アドバイス"というのは相手の未来計画へのダメ出しに終始してしまって気力を削ぐだけになってしまうかもしれない、ならば生死に係わること以外は相手の人生の課題と自分の人生の課題を峻別して、ポジティヴな可能性を摘まないコミュニケーションが大事なのではないか、そう想うのです。

確かに、社会はめまぐるしく動き、苛烈な競争がある人生において”この時期までにこれを行えないともう達成できないこと”もあると想います。とは言え、その”達成できないこと”は私や相手にとって本当に人生でどうしてもやりたいことなのか。人生の資源を注ぎ込むだけの意志があるといえるのか。或はそのモチベーションも、一度何かを失敗したり失ったりしないと湧いてこないかもしれません。ならば必要なのは事実を伝え、選択権を委ねることなのだろうと想います。

相手を想うあまりに相手の翼を捥いでしまわないようにしていたいです。そして、本当に相手の人生に関わろうと想った時は、とことん相手の可能性を羽ばたかせたい、余計なエゴを捨て、自由な天地の中で共に生きていける仲間になりたい、そんな人との関わり方をしたいなと想いました。
by wavesll | 2016-10-18 08:36 | 映画 | Trackback | Comments(0)
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