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他者から見た面白さは、いらない? / メディア(BlogやTwitter)をやる意味って何?

"成熟"みたいなことをやれこれ考えてみるにという文章を先日書きました。

そこで”成熟というのは野郎同士の稚気な狂い競争から、真っ当で実直な人間になっていくこと”みたいなことを書いたのですが、ちょっと想起したのは"面白い人間であることは必要か"というテーマがあるなということで。

このBlogを始めた19才の頃は、阿呆まっしぐらな大学生で、人生をネタに生きていた気がします。まぁ今から考えたら全然低レベルなのですが、Xmasに野郎二人でお台場の観覧車に並んだり、ねずみ講の勧誘にノコノコついていってレポしたり、実録!渋谷でスカウトされたよ顛末記なんてのを書いたり。

上がり下がりありましたがこうして今もBlogを書いているのは書き始めたころから"内輪受けにはならないようにしたい"と想って書き続けていたからかもしれません。

内輪の楽屋落ちみたいな内容というよりも、他者がみて少しは見甲斐があったと想えるような、面白味がある内容を書きたい。そう思って、最初は個人ニュースサイトとして始めて『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』に載ったりして、ガンガンに更新してました。毎日数時間費やしてw

ただ、大学を卒業する頃に、"やっぱりニュースだと『自分の記事』という感じがしないなぁ"と想ったのと色々あったりしてばっさりそれらを削除し、それまで書いていた日常に想起したことや、最近書いているような音楽だとかアート、旅の記事をメインとしたサイトになってきました。

それでも、こういうサイトをやっていると『自分で作品を創らないの?』とか言われます。悪友からは『クリエイティヴィティがゼロ』ともwそういうのは"キュレーションメディア"に私自身も感じる手抜き感というか、「あいつ楽しやがって」というやっかみなのだとか、単純に価値が感じられないのだなぁと想って、"なんだあの野郎、もっといい記事書いて認めさせてやる"と発奮したりします。

その上で"自分自身が人から『面白い』と想われることは自分自身にとっては価値があるのか"みたいなことも考えたりもするのです。<表現を世に出す労力を払うよりも、"面白さ"なんていう必須でない事に精を出すよりも、自分は仕事で金を稼いで表現を金なり時間なり払って楽しむ方が楽しい>と想う人もいるだろうし、実際、文化が生きるのには金が必要なのは事実。金を払わない人は客ですらないです。また私自身が楽器を習得するなり絵を描くなり、或いは物語を書いたりしないでこうして個人メディアをやっているのも、言ってみれば"メディア"という消費と創造の狭間をやりたい、まぁ言ってみればいいとこどりをしたいみたいなところも正直あるのかもしれません。実際、数字上は羅列型ニュースサイトをやっていた頃の方がいい数字が出ていたし、質は兎も角生産量を考えると集客アヴェレージとしては創造<媒体だと想います。

このサイトも、元々がニュースサイトというのを(自分内での)隠れ蓑に、仕入れた素材をばっと出すだけ、みたいな記事もあるし、この記事のように新聞でいうところの社説というか、論考が入った文章もあります。Webにモノを書くことは生活の一部でこれがないとリズムが狂う位の、或いは記したエントリや呟きは半ば我が子の様な愛情が我ながらあります。まぁ過去の自分が焼き付いていて時に"これはないw"と苦笑せざるを得ないときもありますが。

あと、それこそ学生の頃書いた円と棒でみる日記・blog・個人ニュース・新聞で当時思索したように羅列型総合ニュースを止め少しばかり手を入れた記事を書こうとすると、どうしても内輪受けというか"クラスタ内部ウケ"になってしまうなぁとも思います。

Twitterでは趣味・モノコトで繋がる気がしますが、Facebookなんかで自分の守備範囲外の趣味のこと書かれると"ほーん"という返ししかできなかったするみたいに、学友やリアルな繋がりだと趣味のコアな話は敬遠されるというか、どう面白がればいいかがわからない、逆に言えばそういう一般層向けではなく、好事家しか楽しめない、みたいな感触が今の鴎庵には多少あるかなと想うのです。

かといって、まるで氾濫するラヴ・ソングみたいな最大公約数のことばかり書いても面白くないですしね。趣味で繋がれない友人と会話に困ると女話や共通の悪友の悪口に流れるのですが、どうにもこれが嫌で。何らかの光る刺激が受けられる話ができればいいのになーと想ったりするし、だからこそBlogでは私が想う"何らかの光る刺激"を書こうとはしています。

その上で、最近思うのが"他人から見て面白いことに価値はあるのか?"みたいなところなのです。
例えば自分でスポーツをすれば、プロフェッショナルなレベルでなくとも面白い。或いはそれこそ恋愛なんて、他人からみてどうだとかは全くの無意味な話で、寧ろ恋愛の話を他者への見世物にするみたいなのは大切な何かを穿き違えた話だなと想えたり(ちなみに芸能人の恋愛スキャンダルを報道するのも不愉快だなと想います)。

"お客様"として外部で鑑賞するのではなくて自分自身がプレイするようになれば、少し出来ただけでもかなり楽しい、寧ろ他人から見た評価なんかおまけ、みたいな感覚になれるのかもしれないとも想うのです。労力がそのまま価値となるマルクス的な世界がそこにある気がします。DIYで"自分がやる眼"でみれば、他者や環境に対して本当に大きな畏敬の念が持てるし、引いては"神様ぶったお客様"から脱して日本のブラックな環境をどうにかできるかもしれません。

"みられる自分"を意識することはエデンの蛇が食わせた林檎のようなものかもしれないなとも想います。承認欲求の肥大がグロテスクな様相を示しているのは現代日本の一つの景観で。

そんな中でメディア/ブロガー/記者とは?みたいな事を考えることは意味があることだと想います。Internetによって創作者と観客が直で繋がれるなら尚更。今、羅列型ニュースサイトなんかはクロールがほぼ自動運営されていますが、AIが記事を書き始めているというし、メディアこそ"何故ヒトがやるのか"を考えないと泡と消えるのだろうなとも想います。

一つ想うのは、やっぱり最終的には”その人そのもの”が重要なのだろうなと。例えばニュースアンカーの人格というか。ストレートニュースに"感想"は要りませんが、滲み出る人としての匂いがシステムに対する人間の矛なのだろうと想うのです。人工知能「東ロボくん」が“東大入学を諦め”たのは、英語や現代文の文脈を読む力が分からなかったからだそうです。少なくとも現状では「物語・文藝・文脈・調査報道」のようなものはAIに喝破されていないのだと想いました。

と、同時に、メディアなり、これはアートでもジャーナリズムでもいいのですが、一番の動機は「自分のみたい/読みたいモノを創りたい」からだと想います。単純にやっていて楽しい。その楽しさがBlogを続けてこれた理由だし、内輪受けは厭だといいながら鴎庵の最大の読者は自分自身だと想います。この"私"という装置、選別と推敲の感性や、創ることで楽しさが出てくる生物の資質がヒトがAIに侵されないサンクチュアリなのかもしれないな、なんて最近思っています。

趣味に"意味"を求め始めたら結構ヤバくて、趣味の最大の意味は楽しさに尽きる。"みられる"のは"みたい"から創始している。そう想うのです。BlogやTwitterは競技でもないですが技術を自分の中で更新して内輪受けでない記事を書いていきたい、なんつー意識高いこと言っとる間に筆を動し取材しろっすね。 しかしサイト論て究極の内輪ウケだな(苦笑
by wavesll | 2016-11-27 10:27 | 私信 | Comments(0)
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