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アダム・スミス著/山岡 洋一訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』第四・五編読書メモ

アダム・スミス著/山岡 洋一訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』第四・五編読書メモ_c0002171_1103964.jpg第一編 読書メモそして第二・三編読書メモ
から一年弱。度々の長期の離脱を経て、今朝方とうとう国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究 (下) を読み切ることができました。

下巻の内容は第四編「経済政策の考え方」では重商主義や重農主義を検証しながら、自由貿易こそが社会における真の富を増加させる方策と論じられました。

その論理から当時イギリスのものだったアメリカ植民地にも敬意ある自立を促した方がいいと導きされたり、統治を商人が行う東インド会社の害悪について論じたり非常に先進的な思想が語られていました。

また最終章である第五編「主権者または国の収入」は主権者が行うべきサービス(夜警国家としての防衛、司法、道路などの公共施設の経営)と税についての噺。

伝えたい理論を古今東西の夥しいファクトで実証し現実が仮説と違う場合もきちんと書いた実体のある理論書でした。

第四編で貿易において、一国との間で赤字となったとしても規制を掛けずに富を自由に動かした方が国の真の富は増加していると論じているのは、確かに輸送技術やインターネットによるトランスナショナル化等商業環境が18世紀とは大きく変わっている点はあるにせよ、現代の重商主義者である米国大統領なんかにも読んでもらいたいな、なんて思ったりしました。

また幹線道路などの整備は国全体の利益になるとしながらも、基本的には通行料などで黒になる計画として行うべきで、国は乱脈経営してはならない、という話は北海道新幹線を通した人間達に聴かせてみたいな、等と想ったり。『国富論』は経済学の古典ですが、現代においても聴くべき思考が書いてあると想います。

中でも最も心に残ったのは
施しやふるまいが度を超えることはめったにないが、虚栄心はかならず度を超える。
という一文。

アダム・スミスは地域の名士や宗教が人々の心を原初に掴み、尊敬されていたのに、今はその神通力を失ったことは商業の発展と密接に関係あると論じています。

古代、自分が食べられる分を大きく超える農作物を生み出す土地権益をもった者は、多くを周りの人々に振る舞って、人々を援けていた。そうして尊敬を集めていた。
しかし商業が発展して、交換価値が高い技巧が凝らされた"商品"が登場して、自分の産み出したものを自分で使い切っても足りないくらいの贅沢な欲望が生まれる環境が形成されました。
そうして権力者はそのパワーを自分のために使いきるようになり、"サービス"は"対価"を必要とするようになり、結果として民衆からの敬意は失われていった、と。

自分だけの利己的な楽しみに収入を使う場合には、どれほどつまらない楽しみでも、思慮分別のある人ですら、熱中しすぎて身を滅ぼすことがある。
(中略)
だが、贅沢にならないもてなしや見栄をはらない施しで財産を食いつぶした人は、あまりいないはずである。(贅沢なもてなしや、見栄をはった施しで身を滅ぼした人は多いだろうが)。


虚栄心とどう付き合うかは、例えばSNSで肥大化した承認欲求のコントロールへ繋がったり、現代人にも響くテーマとなっていると想います。

日々の愉楽が、労働の再生産に必要な分を超えたとき"浪費"になる。食っていける人が多くなればなるほど、社会は真の意味で発展しているのであり、真っ当にいきることが価値ある生だ。アダム・スミスはそう言っているようにも思います。

確かに消費が美徳になるというのは貴族的なアティチュードであって。それを身を滅ぼしながら行おうとするのは愚か者のすること。脳と躰を動かして創造を行うことは消費の螺旋から解脱することに繋がるのかもしれない。そう想いました。

無論、消費には社会的・個人的な効能があって。他者に奉仕する事だけが美徳とされる価値観は抹香臭いなと感じてしまいます。その上で"時間をかけて咀嚼する事が生み出すふくよかさ"に思いを馳せる読書となりました。

大学一年生の頃、教授から「砂や小石でバケツを満杯にしてしまったら岩を入れるスペースはなくなってしまう。しかし先に岩を入れれば、その隙間に砂や小石を入れられる、だから大学時代は古典を読もう」と言われたことが頭に残っています。

あれから十年以上を経て、漸く巖に手を伸ばす気になりました。そして今『国富論』を読み終わって。今、ゴールではなくスタートラインに立っているような気分です。

"いつか『国富論』を読んでみたい。『国富論』を読めば何かが変わるかもしれない"そう想っていたところがあったのですが、それは"インドに行けば何か変わる"というのと同じようなことで。

古典を読むことは旅に似ていて。或いは登山もメタファになると感じます。違う景色をみながら一歩一歩高まっていく。

けれど、今は古典読書はワークアウトに近い気がしています。効能がすぐめきめきとインスタントに現れる事ではない、一発逆転はない。けれど振り返れば、前とは違う起点へ進んでいる。そういう上下巻でした。

cf.
アダム・スミス著 村井章子+北川知子訳『道徳感情論』"もしアダ"が書きたくなる稀代の"いいね論"

by wavesll | 2017-02-27 19:05 | 書評 | Comments(0)
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