三木清『人生論ノート』@100分de名著 第2週 自分を苦しめるもの

c0002171_10473978.jpg三木清『人生論ノート』@100分de名著 第1週 真の幸福とは何か

100分de名著、三木清が太平洋戦争前夜に書いた『人生論ノート』を岸見一郎さんのナビゲートでおくる第二週。今回は虚栄心、怒りと憎しみ、嫉妬についてです。

虚栄心とは

虚栄は人間の存在そのものである。人間は虚栄によって生きている。虚栄はあらゆる人間的なもののうち最も人間的なものである。

人間は生きる上で不安や怖れを抱えている。そこから少しでも目を背けるために自分以上の自分を造り出そうとしている。

全ての人間的といわれるパッションはヴァニティ(虚栄)から生れる。

いかにして虚栄をなくすることが出来るのか。創造的な生活のみが虚栄を知らない。創造というのはフィクションを作ることである。フィクションの実在性を証明する事である。


三木は「虚栄と付き合うには」と三つの方法を提示している。

1. 虚栄を徹底する
仮面をかぶり続けて虚像を演じきる。一生仮面をかぶり続ければそれが本性になる。

伊集院も"芸名である伊集院光としてこうありたい、こう思って欲しいとすることがある、それは嘘を吐くというわけでもない”と述べた。私もハンドルネームでの発言で逆に引っ張られたりします。

パーソン(人間)の語源はペルソナ(仮面)

2. 虚栄心を小出しにする
ささやかな贅沢をする。日常生活で虚栄心を少しづつ満足させる工夫をする。

小出しだと虚栄もボロが出ない。その程度の虚栄ならば徹底できる。

そこそこの虚栄は必要だ

3. 創造によって虚栄を駆逐する
「創造的な生活のみが虚栄を知らない。創造というのはフィクションを作ることである」

「人生とはフィクションを作ることだ」
人というのは孤独ではいられない。他の人の評価を絶えず気にする。でもそういう気持ちから作られる人生は虚栄。自分の意志で人生を創造していけば虚栄を駆逐できる。

虚栄と言っても全てが駄目ではなく、今ある自分よりもより上を目指す、そのために努力をする、向上心とも言える。

嫉妬について

どのような情念でも天真爛漫に現れる場合、つねに或る美しさをもっている。しかるに嫉妬には天真爛漫ということがない。
(略)
愛は純粋であり得るに反して嫉妬はつねに陰険である。嫉妬こそ(略)悪魔に最もふさわしい属性である。


愛と嫉妬は似ている。術策的で持続的な点において。そのため長続きして人間を苦しめる。愛があるからこそ嫉妬が生まれる。嫉妬がさらに想像力を働かして心を忙しくさせてしまう。

「想像力は魔術的なものである。ひとは自分の想像力で作り出したものに対して嫉妬する」

愛と嫉妬は厳密には区別できない。

嫉妬の対象
1. 自分より高い地位にある人

2. 自分よりも幸福な状態にある人

3. 特殊なものや個性的なものではなく、量的なもの、一般的なもの


つまり嫉妬は平均化を求める傾向がある。

相手を低めようとする。自分を高める建設的な努力をしないで相手を貶めようとするのが平均化。

今もSNS等をみるに日本の社会全体が平均化を求める傾向がある。誰かが幸せになることを許さない、みんな平均化を求めている。

それに対抗するには”個性を認める”こと。自信がないから嫉妬する、他の人のようになりたいと想う。"この自分を認めるということ"から始めるしかない。自分を認めることで他者を認める事が出来る。

自分を変えようとする努力を止めたときに変われている

怒りについて・憎しみについて

世界が人間的に、余りに人間的になったとき必要なのは怒であり、神の怒を知ることである。今日、愛については誰も語っている。誰が怒について真剣に語ろうとするのであるか。切に義人を思う。義人とは何かー怒ることを知れる者である。

今日、怒の倫理的意味ほど多く忘れられているものはない。怒はただ避くべきものであるかのように考えられている。しかしながらもし何者かがあらゆる場合に避くべきであるとすればそれは憎しみであって怒ではない。怒はより深いものである。


腹が立った時に内に篭って憎しみつづけるよりもカラっと怒った方がマシだ

社会の利害関係や不正に対して公憤を覚えるのは必要だ。←戦前の空気に対しての想い

怒り:突発的、純粋性・単純性・精神性、目の前にいる人に対して

憎しみ:習慣的で永続的、自然性(反知性的)、目の前にいない人(アノニム)に対して

怒りには目の前の人への怒りの理由がある感情。しかし憎しみには理由がない。元々の理由は分からず、憎しみを持続するために憎むようになる。憎しみは匿名の相手に向けるもの。ヘイトスピーチなど個人でないものへの反知性的なもの。憎しみから抜けるには知性的であれ。

偽善について

偽善者が恐ろしいのは彼が偽善的であるためであるというよりも彼が意識的な人間であるためである。

偽善者が意識しているのは絶えず他人であり社会。彼らは他者の評価や社会的な評判だけを意識して求められた役割だけを果たそうとする。つまり善悪の価値基準を他人に任せて自分で判断しない=精神のオートマティズム

道徳の社会性というが如きことが力説されるようになって以来いかに多くの偽善者が生じたであろうか。

これが発表されたのは昭和16年8月。数か月後の開戦を前に翼賛体制の重苦しい空気が言論界にも立ち込めていた。

今日どれだけの著作家が表現の恐ろしさをほんとに理解しているか。

偽善者は往々にして権力に阿り、他人をも破滅させる。三木のメッセージは言論人への警鐘だったのかもしれない。

"道徳の社会性"とは個人よりも社会が優先される考え方。個人の幸福を唱えてはいけないという時代背景の中でこの言葉が使われている。

もう一つは倫理が上から押し付けられる時勢を念頭に置いている。一人一人が納得し時に疑問、否定をしないといけないのに道徳の押し付けがされる時代は非常に危険。

異を唱えない人たち=”偽善者”
言わなきゃならないことを言わないことを反省し、自己保身でなく言わなければならないことを言う表現者としての責任を決して忘れてはいけない。

言論者・表現者の責任は”〇〇を言った責任”が意識されがちだが、"言わなかったことも「責任」"

三木が戦争前夜の空気の中でこの本を発表した事。表現の仕方を考え詰めて発表したことは貴い。三木は思想を理由に殺された。

思想や信条を理由に殺されることがつい数十年前に日本で起きたことを我々は忘れてはならない。これから同じことが繰り返されぬために言うべきことを言う勇気を持たなければならない。

三木清『人生論ノート』@100分de名著 第3週 ”孤独”や"虚無"と向き合う
三木清『人生論ノート』@100分de名著 第4週 「死」を見つめて生きる
by wavesll | 2017-04-27 15:02 | 書評 | Trackback | Comments(0)
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