
横浜トリエンナーレでのアイ・ウェイウェイ(艾未未)《安全な通行》《Reframe》は救命ボートと難民によって実際に使われた救命胴衣による美術館正面の外壁全面を用いたインスタレーション作品で、トリエンナーレの象徴ともいえる作品。
強力なヴィジュアル・イメージを放つ本作品に対して、Twitterでみた一つの意見に膝を打ちました。
それは「これはケバブなのではないか」という視点。
成程と。なぜ救命胴衣を縦に重ね連ねたかの一つの解としてケバブのメタファとして中東世界からの様を顕わそうとしたというのはあるかもしれないと想ったのでした。
勿論これはアイ・ウェイウェイが提示したこのヴィジュアルに対する一つの見解であり、確定した正解とは言い切れません。寧ろこの謎の意味を考える行為そのものがこのArtの価値なのだと想います。
昨夜
「断言には一歩引き、断言で否定されたらその根拠を訊き反論するといい」と書きました。
確かに呪いの様な言論にはその正体を明らかにすることは健全な行為ですが、自分を否定してくる言説に触れたときの方が居心地のいい環境にいるより化学反応というか、論考が深まることはあります。
挑発してくる敵はいまいましいけれども、しかしそういう人間を完全に排除すると色々と鈍ります。
そしてその時に安易に正解を聴かずに”何故か?”を考え続ける営為が思考の深度を増幅させることもあるかもしれません。
ただ前述したように”謎”が人間関係などに関わる場合は寧ろさくっと聴いた方が解決スピードが上がり実利があることも多く、そして悩みすぎて潰れてしまっては元も子もありません。
そうした時にArtが”この意味が分かるか”と挑発することはとても大きな意義を持つと想うのです。
挑発するArtは現代美術に限らず、例えばジブリ・アニメもそうです。
宮崎駿監督の『耳をすませば』の企画書が凄すぎるという記事が先日話題になりましたが、その企画書を具現化する能力に舌を巻くと共に企画としての深い眼差しに驚嘆しました。
それは
「もののけ姫」企画書に於いても
「風立ちぬ」企画書に於いても、名匠による作品は時代へ突き刺さる洞察から、いかに生きるべきかという本源的な秘に挑む目論見なのだなと。
それはアイ・ウェイウェイのインスタレーションにも通じるものがあると感じました。圧倒的なヴィジュアルの強さで具現化された”Concept”の見事さ。
無論全てのArtがそういうものでもないと理解していますが、生の秘、その深い謎を提起する藝術を私はみてみたいなぁと透徹な朝の空気に想いました。