「俺になれ」を越えて -『高校生のための批評入門』を読んで

c0002171_19431387.jpg
一時期、男友達と話すとどいつにもこいつにも「俺になれ、俺のような価値観を持ち行動しろ」と言われているような気分になったことがありました。

それは恐らく被害妄想で、彼らは彼らの最善手と想う話をしてくれただけで、寧ろ「俺になれ」と望んでいたのは私で、相手が共感を示さないことに独り相撲でイラついていたのかもしれません。

大抵の人にとって最善の行動のラインは一つで。勝ち筋を一つしか見いだせない結果他人に助言する際に「俺になれ」となりがち。それは器の小ささでもあり、”本当に求められている言葉・態度ってどんなものだろうか”と想っていたのですが、この筑摩書房『高校生のための批評入門』はそれを考える一助になってくれました。

この本は批評のメソッドを直接的に解説する本ではなく、11のテーマで選ばれた51の批評文が載っているものです。批評の対象も、芸術作品や文学作品の批評というよりも世界が広くて、イルカ漁に関する反応の話から、奈良時代の世界音楽フェスティバルについての話、さらには「紐の結び目」についての話など多岐にわたっていました。

様々な世界の一端へのそれぞれの著者の視点を批評文ーそれは内なる声、世界への違和感であったり、個人的な想念ーを読み、そして付属の現代文的ワークをみながら感じたのは『違う視点の提供』や『易々と同一化しない』ことの意味。

相手の発言に対して理解を示すことは同調することがすべてではなく、異なる視点、違う人間としての言葉を出すことでもあるのだと。芯を食った批判は時に自分の同調者よりも語られていることを理解していることもあるかもしれないと想ったのでした。

全てが賞賛され、全体が盛り上がるのは楽しいものです。それは例えば「バーフバリ!バーフバリ!」と歓声を上げるマヒシュマティの国民をみても明らか。けれど、大いなる予定調和の中で塗りつぶされようとしてしまう”声”はないのか。その”声”も尊重されるべきではないかとも思ったのです。

ところで私は昔から”空気が読めない”、或いは”変な人”なんて評価を受けることが多かったのですが、個人的にはかなり保守的で付和雷同な人間なのではないかと思っていて。

自分で一から考えるというより”その分野に詳しい人たちの発言を調べ、その最大公約数を情報分析し、自分なりに噛み砕いて語る”ことが基本ラインで。

その結果情報処理は得意になったのですが、問題設定能力、つまり”問い”を創るのが不得手で。自分自身で課題を設定して意思決定する推進力が弱いところ、誰かの後に付いていくのではなく道を切り拓く力が弱いことがコンプレックスで。

自分自身が付和雷同的な人間だから、相手にも付和雷同を求めて「俺になれ」のような感覚を持ってしまっていたのかもしれないと今思います。

そして今回「批評・批判が必ずしも相手を貶すことではない」と腑に落ちたのは、長文で丁寧に文章で諭され、心に栄養を摂取できたことがあったと思います。

自分と違う感性の話を納得するにはしっかりとした分量での語りが必要になるのだと想います。批判自体は良くても、説明が足りていない批判だと価値が認識できず、反発を起こすことがあると。これは「自分の考えが理解されない」と相手の理解力の乏しさを逆恨みする前にも考えたいこと。

他者や周囲と全く異なる考えを持つことを恐れない、或いは相手に安易に同化を求めない。そして安易に譲らない。

言葉を尽くした上で異なる視座が同時に存在することを認める。I'm right, You're right. No one is left here.の心意気を持ちながら個人としての”自らの感覚、或いは違和感”を大切にする。そんな姿勢をこの本から学びました。

by wavesll | 2018-02-07 20:21 | 書評 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : https://kamomelog.exblog.jp/tb/29248546
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
<< ボ・ガンボス - 夢の中 X ... 他者としての”己の変節”から足... >>