愛国ソング批難騒動から想う「当たり前」が違う相手との実効性のあるコミュニケーション

を聴いて。

最初は”ううぇえ…こういう話は聴いてて靄りそうだし、聴かないでおこうか”と考えたのですが、きちんと聞いてみると一面的な批判ではなく、真っ当な考察がなされて、また論客の一人が結構右だったりして左過ぎない構成になっていて聴けました。

個人的には「HINOMARU」も「ガイコクジンノトモダチ」も「NIPPON」も彼らの楽曲の中では凡曲に感じるのですが、それに対して「軍歌だ」「排外主義だ」と声高に批判されるのはどうにもTwitterも息苦しくなったものだなぁと。

無法図な批判が表現の自由からのバックラッシュが起こすという点も番組では触れられていて、やはり良くモノを考えている人の考察は深いと想ったので当ラジオ番組を聴かれるのをお薦め致します。番組の中でも「『HINOMARU』は軍歌ではない」と先ず語られていて、その上で歌詞の出来の悪さが語られていたりします。

ゆずの二人についても中高生の時にオールナイトニッポンSUPERで浜辺から公開放送してリスナーに「絶対ここにくんな!いやク〇ニ!」とか言ってバカ騒ぎしていた二人を知っている身からすると、今の二人にはとても”正しい事”が求められているんだなぁと。

“もう彼らは少年少女が気持ちを重ねる若手な立場と言うより、或いは音楽好きの若者から「あいつら大したことないのに売れやがって」というルサンチマンを浴びる大メジャーな存在なんだなぁ、「栄光の架橋」あたりからその流れに一気になったのかなぁ、二人もおっさんの年だものなぁ、お互い年取ったなぁ”なんて思ったり。

番組の中でも『「右でもなく左でもなく」は無自覚なウヨクのテンプレ』『無思想を表明することの暴力性』が語られていましたが、確かに右の方がマジョリティな分、自分のポジションに無自覚な処はあると感じます。「何を言ってるの?これは”普通”でしょ?」と。

逆に「『右でも左でもなく』というのは右」と言われるということは、是々非々で語るのは右が多く、左は聴く耳を持たない印象があるのではと。これは左の人は普段右の世界に合わせなければならない状況の中で、異議を常に発する立場な構造が前提にあると想います。左の人は「『当たり前』が通じない世界」に怒りを感じざるを得ない。

人間激昂する時は何にかといえば「当たり前」が為されない時であって、「当たり前」が違う人同士で語ることの難しさを改めて感じた一件でした。

現状で出来るとしたら、無自覚な右派は自分が語っていることがどのポジションにあるかを自覚する事、そして左派はバックラッシュの藪蛇を生み出す言葉狩りの触発よりもアイメッセージ等を使っての他者への諭しがコレクトなのではないかと。意識を高くあろうとする側こそ度量がいるなと。

以前に知り合いから聴いたのは、選挙で、特に地方での選挙に於いては「どんなに相手が馬鹿だと想っても、馬鹿だなと見下げた瞬間に票は消えていく」ということ。革新派よりも保守派の方が清濁併せ呑む余裕があるというか、左派の方が原理主義的に感じることがあります。

Webではその狭量さが可視化されやすいのが残念な反発を招いている気がして。

現実世界ではマジョリティの保守派や腐敗した政治家が無自覚にデリカシーのない横暴を行っていて。逆に左派は多様性や弱者への優しい眼差しがあるのに、古くは新聞などのメディア、今だとWebでのエコーチェンバーで塊で提示される故に左派がマジョリティ的にプレゼンテーションされ、逆説的に”保守”がオルタナティヴな本音の選択肢として一つの土着になってしまった流れが、『ゴーマニズム宣言』以降の流れだと。

実効性のある戦いを左派がするために、濁りや愚かさを感情的打破ではなく深い言葉、叡智も駆使しながらやってほしいななんて先般の知事選のバウトをみても想う処です。

by wavesll | 2018-06-19 02:10 | 小ネタ | Comments(0)
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