堀辰雄『風立ちぬ』 綺麗で甘いだけでない現実のえぐみが描かれた純愛小説

夏はプールなんかも好いですが、何か本を読みたくなるもので。

家の中で積読というか、買ったはいいが読まずに放置していた本を物色していたら堀辰雄の『風立ちぬ』がありました。”おそらく宮崎駿のアニメが公開されたときに買ったのだろうな、よし、薄いしこれ読むか”と手に取り、そして惹き込まれ、読み切りました。

舞台は1930年代前半。主人公は(おそらく)そこそこ資産のある家の息子。あの時代は高等遊民なんて言葉もありましたね。彼がある夏の日に病弱な令嬢、節子と出会い、そしてサナトリウムにて死の影を感じながら二人、生を幸福に生きようと愛の罅をもがく様が描かれて。

こう書くと”『セカチュウ』みたいな未熟な者同士の『純愛モノ』かよ”と想ってしまうのですが、この本は堀辰雄自身の経験が反映されているらしく、小説家の目は現実の苦さもありありと映し出します。

例えば主人公が小説の途中から節子さんのことを指す主語が「病人は~」となります。そして偶に「節子は~」となる。いかに相手を愛していたとしても、病人と暮らすときに差し込い涌かざるを得ない昏い想い、相手のイメージが「病人」とラベリングされてしまう悲劇が冷徹に画き出されます。

一方で主人公の方も言ってみたらプー太郎ですから、サナトリウムに付き合うという名目はあるけれども、どうにもモラトリアムに浸かっているひ弱さがあって。そして彼は節子さんに「我が仕事として此の日々を小説としたいがいいか」と持ち掛けOKを得るのですが”こうした私小説は現代においては様々な問題からリリースされずらいだろうな、さしずめアラーキーのようなことになるだろう”なんて思いながら読んでいました。

そして小説家は”この悲劇を小説のネタとして捉え、形よくまとめようとする傲慢さ”も書くのです。その指摘は半ば弾劾。厳しい視線が己の姿勢に向けられたのは痛みをもネタにしようという小説家の業への罪悪感からでしょう。

力のない自分へのコンプレックスの結露か、節子さんが彼女の御父上の訪問に対して非常に喜ぶことに主人公は敏感に反応します。彼女との彼の日々は、社会から隔絶された八ヶ岳山麓のサナトリウムで、あまりに微に細に入った心模様となって、しかしそれゆえに非常なリアリズムを以て立ち現れていました。

と此処まで読んで”古典とは言え、ネタバラシが酷いのではないだろうか”と眉をひそめた方もいらっしゃるかもしれません。ただ私はこの小説の本質的な魅力はプロットの骨組みにあるというよりも描写の筆力、殊に風景描写の筆致にあると想うのです。

移り変わる季節の中で、主人公と節子の心理状態、さらには生命の燈火がどうなっているかが彼らがみる風景の中に顕わされて。直接的な表現でなく、映像的、あるいはトーンによる詩情で物語が展開されるのが感心されます。

最初の方は”元祖スウィーツ小説か”とあっさり読んでいたのが、最後は重く胸が締め付けられて。主人公と節子は確かに未熟で、力がなかった。けれど、そこには生きることで二人倖せを求めよう、二人の生活を歩もうとした純粋で甘いだけではない、けれど確実に存在した彼らの軌跡があった。そう読めました。

by wavesll | 2018-07-25 05:06 | 書評 | Comments(0)
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