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身体のない知性はあるか 人間ってナンだ?超AI入門第二回「感じる」

昨秋に放送された人間ってナンだ?超AI入門が再放送されていました。前々からこのシリーズは視聴感想メモを残しておきたかったので丁度今やるかと想い認めます。

最初に質問されるのは、「乱雑な机の上で『箱を取ってきて』といわれたときに『箱』だけを取る」ことの難しさについて。これは”フレーム問題”といって、ロボットは例えば箱の上に爆弾があると爆弾ごと持ってきてしまいます。

それでは「箱と一緒に動いてしまうものは除く」とプログラムすると「床は動かないか、周りの者は動かないか」とすべての重要度が同じになってしまい計算をしている内に爆弾は爆発してしまいます。問題解決のフレームを持てない。では何故に人間は無限の可能性から関係ある事柄だけを取り出せるのか?

子どもはモノと触れ合って遊ぶことで、物を動かすことのデータを世界とインタラクションしながら世界の仕組みを学んでいく。世界を理解するとはどういう行動をすると何が起こるかの関係性を理解する事が重要であり、だから知能に於いて相互作用する”カラダ”が伴なった知見が大切。

名古屋でのロボットの国際大会、ロボットにモノを掴ませ移動させる競技。日本のチームはアームに付いたカメラでモノを認識し、AIによって”どこの辺が掴みやすいかスコア分析させ、計算させ”ています。カメラによる視覚の他、この先は力覚センサーで触覚も取り入れようとしているそうです。

西海岸、バークレー。そこではモノを何度も何度も方向を変えてロボットアームに捕ませ、千差万別の物体の重心は何処か、摩擦は大きいか小さいかとかの力学の膨大なデータを学ばせています。

人間も”持つ”練習を赤ちゃんの時に行って学習します。「触る」とは「データ収集」。何回も試行錯誤して経験を蓄積しないと進歩はない。

人工知能がロボットなどの身体を持つと”形容詞的な概念”が身に着きます。例えば”小さなロボット”の方が”大きいペン”より大きかったりする。”形容詞”というのは”普通はこうだ”と知っていないと感覚がわからない。”普通はこうだ”というのは経験を積まないと分からない。

一方で行動に対しての相対的な評価が”副詞”。まず行動する身体が無ければ副詞的概念も理解できない。そう考えると知能において身体というのは本質的なファクトで、カラダがないと全てが記号のようになってしまうかもしれない。感じることで形容詞的・副詞的概念を獲得できる。

手術ロボットは”縫い合わせる動作”を一つのまとまりとして、独学ではなく外科医の動作をみて学ばせています。この「模倣学習」は動作の実演データの動きの軌道から学びます。どの動作もセグメントに分けて理解させてから、部分を繋げて全体を結びます。

真似することで無駄を省く。真似することで経験も受け継げる。「真似をすること」が出来るためには自分の身体に対してのイメージと自分が見ているもののイメージを結び付けるボディイメージの対応関係を取れないといけない。これは高度な知能的働きで、サルはできてもイヌとかは出来なかったりする。人間は真似ることで効率的に学習する。

人間の場合、段々頭の中で”こういうことをしたらこうなる”とシュミレートできるようになり、一連の行動を「チャンク化」し塊として纏めて処理してさらに長い行動を行えるようになる。

「感じる」「考える」の関係、「考えた時の行動」と「無意識の反応」の関係は、人間が「感じて」いたことをブーストするために後で「考える」。脳が躰を動かしているのではなく体を動かしたことを脳が分析している。

神経学者ベンジャミン・リベットの実刑んによると行動をする0.2秒前に意識的な決定があったが、その0.35秒前に無意識的な脳活動があった。人間の行動にきっかけを与えるものは意識レベルの前に在る。

人間の意識は会社でいうと取締役会みたいなもので、取締役レベルが意識してなくても各事業部は無意識的に対処している。意識に登るのは相当大きな問題。(例えば「歩く」ことは普通意識しなくても筋肉がきちんと動かされている)。スポーツのトレーニングは取締役がいなくても自動的に動けるように体に叩き込むプロジェクト。

「言葉にする」=というのは「情報を落し、保存性を良くする」行為。では将来「動き」をそのまま保存してAIに学習させられたら、圧縮していないデータで新たな知性を造れるかもしれない。

ここまで番組を見てきて想い起したのは数年前友人から「フィールドレコーディング聴くくらいならば俺なら現地で五感で感じるな」といわれたこと。その時は「自然音が"これまでなかったビート"として魅力的に感じられるんだ」と答えたのですが、”身体が失われた自然、サウンドが抽出された自然”の『余白』が想像力が羽搏ける自由な天地として愉しんでいたのかもしれないと想いました。

ライフサイズを知らない故のリバティ。そして、その上で、自然・土地に関する今まで自分自身で感じて、考えた知見・データの土壌があるから行える遊戯でもあるのかもと。身体から自由になるには身体での経験を高め続けなければならない。文字だけで分かった気になってはならないけれど、抽象された文字情報は人生をブーストしてくれる。人生、学び続ける旅路だなと想ったTV視聴体験でした。













by wavesll | 2018-10-17 08:32 | 私信 | Comments(0)
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